2018/10/15

Post #1710

築地2015夏
人間とは、すべからく皆、いずれ死に逝く者として、平等であると思い至るようになりました。
以前は、意のままにならない他者に、『死ね!』と思うことしばしば、実際に罵声を浴びせることもありました。
しかし、自分なり誰か他の人間が手を下すこともなく、いずれ誰もが、この世からおさらばして行きます。もちろん、私もあなたもね。
当たり前のことかもしれませんが、この広大無辺な宇宙のうちに、束の間の生を得て、生きていることの不思議さの前には、肌の色、言語習慣、性別年齢、地位財産の別などなく、その儚さをこそ、互いにいとおしむべきではないのかと、遠い目をして想うのです。


まぁ、どうでもいいことと言えば、どうでもよいことですが。

2018/09/21

Post #1709

Tokyo 2015
生産性をめぐって、様々な言説が飛び交っている。
そういった内容に関する僕の個人的な意見を、ここに表明するつもりは、さらさらない。
そういう争いからは、一線を引いて距離を置きたいからだ。
しかし、その代わりに僕の好きな小説の一説を引用しておこう。
初めてこの言葉を知ったのがいつか、もう覚えてないけれど、読み古されてよれよれになった文庫本の奥書には、1996年5月31日 13刷とある。すでに20年以上大昔だ。

『いずれそのうちに、ほとんどすべての男女が、品物や食料やサービスやもっと多くの機械の生産者としても、また、経済学や工学や医学の分野の実用的なアイデア源としても、価値を失う時がやってくる。だからーーもしわれわれが、人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ、そこで、これまでにもたびたび提案されてきたように、彼らを抹殺したほうがいい、ということになるんです』
(キルゴア・トラウト談  カート・ヴォネガット・ジュニア/朝倉久志訳「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」ハヤカワ文庫288ページより引用)

僕らは、1960年代に記されたこの言葉が、現実味を増してきた時代を生きている。能無しとして、あるいはまた自分は有能だと思い込んでいる能無しとして。

2018/04/23

Post #1708

高畑監督が亡くなって、火垂るの墓が再放送された際に、ネット上では、主人公が孤立して、窮乏してゆき、結果的に悲惨な結末に至ることを、自己責任だと批判する意見がみられたという。
この国の人々は、自己責任が好きだ。

生活保護受給者は、自己責任を問われ、奨学金の返済に苦しむ若者は、自己責任を問われる。
イスラム国に捕まって殺されてしまった人にも、自己責任。

苦境に陥っている人々に、それはお前の自業自得と突き放すのが、我が国の国民性だ。

しかし、権力や地位に恵まれた人々には、彼らがもし、なにかとんでもないことをやらかしても、責任を取れという大合唱はおこらない。


おかしなものだ。


長いものには巻かれろなのか、苦境に陥った市井の名もなきひとは、糾弾しても安全だと思っているのか。

僕らは誰しも等しく苦境に陥る可能性を持っている。そして、この世界で生きるということは、自分の意思だけでは、いかんともしがたいものがあることを忘れてはいけない。

その一方で、世の中には、責任を取らない責任者、必死に責任から逃げ回っている責任者が、たくさんいる。