2010/11/21

Post #7 I'm A Passenger


Paris
相変わらず、俺は住み慣れた我が家を離れてこの街にいる。今日は仕事がオフなんで、借りた自転車 に乗って、世界の断片を集めに行った。天気も良かったしな。
晩秋の太陽はすぐに沈んでしまう。この瞬間は二度とないんだ。 そして、二度とない1日が積み重なって、人生は出来上がっているんだ。休みのパパみたいにゴロゴロしている場合じゃない。
そこで出掛けて見たんだが、スゲー人だ。何処へ行っても人間だらけだ。気当たりして疲れちまったぜ。

こう見えて、俺はセンシティブな奴だから、あんまりにも多くの人混みにいると、かなり精神的に消耗してしまうんだ。なんとなくゲージュツ家っぽくないかね?
それに写真をシュートするのは、歩きまわり、周囲に神経を拡張させて被写体を探すという、意外と疲れるモノなんだ。カフェなどでの息抜きも必要になるというもんだぜ。
人がいないとつまらないと言って、いろんな街に出掛けて行くクセに、あまり長時間は耐えられないなんて、まるでウルトラマンだぜ。まぁそこまで体力なくはないけどね。
しかもだ、街の目抜通りを渡る時に、信号が変わったから、サバンナのガゼルのように駆け抜けたとき、撮影済みのフィルムが、俺のポケットから転げ落ちた!
なんてこった。信号は変わり、車は狂ったように走って来やがる。
5台、10台、踏まずにすり抜けてくれた。後一台が行ったなら、俺の俊足で世界のフラグメントを回収できる。
よし、今だ!
俺が一歩踏み出した刹那、フィルムは心ない車のタイヤに粉砕されてしまった…。
俺にとって、初めての屈辱だ。俺は牽制球を投げられた一塁ランナーのように歩道に戻り、人目も憚る事なく崩れ落ちた。

仕方ない。これも人生だ。ロックンロールだ。人生がある意味で徒労だということはアルベール・カミュも『シーシュポスの神話』の中で、神を侮った罪で坂道で大石を運ばされ、苦心して上げきった途端に石はまた坂道を転がり落ちて行くという罰を永遠に課せられたシーシュポスを喩えにひいて語っていたぜ。俺が上げた石がまた坂道を転がり落ちただけさ。俺が車に粉砕された訳じゃない。生きている限りチャンスはまたやって来るだろう。
ただし、石ならばもう一度同じ物を持ち上げる事はできるが、俺がシュートした瞬間は、二度と再び戻る事はないと言う事を忘れてはならない。例え同じ場所に行って、同じ構図で撮ってみても、それは別物なのだ。
生きながら伝説の写真家とされる中平卓馬は、かつて彼を襲った記憶喪失の後遺症によるものか、毎日のように同じ被写体を撮影しながらも、『ここは初めての場所だねぇ…』と呟くという。写真を撮らない奴には、それは頭のネジの弛んだが故の言葉にも聞こえるかもしれないが、実は違うんだ。同じ物を同じように撮ってみても、そこに写っている世界は既に変容しているのさ。
人間だって、昨日の君と今日の君は既にビミョーに違っているんだ。意識だって変わるし、身体を構成している細胞だって、半年もすりゃ、全部入れ換わっているんだ。パチンコ屋の新台入れ替えなんて目じゃないぜ。

Tokyo

だとすれば、食い物は大切だな。君がもしも、スナック菓子や酒のツマミばかり食ってるとする。すると君の身体はスナック菓子みたいにスカスカしているような気がして来ないか?
いささか乱暴な話だけれど、そんなものばかりじゃガッツが沸いてこないぜ。因みにガッツって、内臓とかハラワタって意味だ。つまり、ニュアンス的には腑抜けてしまうってこった。
仕方ない。スーパーによって、スタミナ焼肉弁当とリンゴでも買って帰ろう。
果物は大切だ。果物好きのお陰か、健康診断では尿酸値以外は引っ掛からないのさ。だいたい、猿やチンパンジーが米や小麦粉が好きだなんて話し、聞いた事もないぜ?君はどうだろう?
俺たちももっと果物を食ったほうがいい。ヨーロッパの連中もアジアの連中も、結構果物が好きみたいだ。日本人がギスギスしてるのは、果物のビタミンが足らないからかもしれないな。なのに日本の農業は米の話しばかりだ。もっと柔軟に考えたほうがいい。
きっといつか、君の一瞬をシュートしに行くだろう。その時、ベストなコンディションでいられるよう、果物を食って、人生の不条理に耐えてくれ。

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