2010/12/17

Post #29 Down On The Street

Izmir,Turk
俺は、今日もプリントだ。仕事が例年になく暇なおかげで、ここ何日も家に引きこもってプリントが出来るってもんだ。それはそれで嬉しいが、先のことを考えると、かなり心細いもんだぜ。 だから、つい暗室(とはいえ、それは洗面所に机と引伸機を持ち込んで、プリントしたものを次々と隣接する風呂場に置いた水洗用のバットに放り込むというお粗末なもんだけど)に引きこもって、プリントすることになるわけだ。これは一種の精神安定剤だ。
これもプリントの出来がいいと、俺はつい、『うん、俺ってば天才』なんて舞い上がってしまうが、手応えがイマイチだとねぇ、なんとなく気分が沈んでしまうんだな。単純な男なんだ、俺は。
今日はどっちかというと、手応えが今一つな日だった。失敗も多かったし。何枚も印画紙を無駄にしてしまったぜ。痛恨だ。
何故かプリントに集中できないんだな、今日は。途中で手を休め、コーヒーを飲みながら考えてみた。すると、その理由はすぐに分かった。今、俺の家の斜め前の区画で家の改築工事をしてるんだが、今日は一日中、重機がひっきりなしに動いていたんだ。
重機のエンジンから発せられる低周波は、遠い地鳴りのように聴こえる。これはさほど耳障りではないんだが、低周波は生物の体に変調を及ぼすんだ。まぁ、俺も生物の端くれだからな。集中力が削がれるのも納得だ。勘弁してほしいぜ。やはり、プリントは夜中にするべきだろうか。

この低周波の影響で、俺の頭の中には、イギー・ポップが若い頃にやってたバンド、The Stooges(直訳すると馬鹿の集まりだ)のFun Houseってアルバムに入っている“Down On The Street”って曲が、ぶんぶんまわってた。タイトでパワフル、エンジンが唸っているようなギターリフとイギーの素っ頓狂な叫び声から始まる名曲だ。そういえば、昔、イギー・ポップ自身がこの曲に関して、デトロイトの自動車工場を見学したときに思いついたって語ってるのをTVで見たっけ。プレスマシーンとかがバッシャンバッシャンとプレスしていくリズミカルな音から思いついたらしい。
だから、家の近所で重機が動いている時に、この曲を思い出しても仕方ない。しかも、この曲はヒジョーに暴力を闇に隠した夜を俺にイメージさせるんだが、生憎、今日プリントしていたのは、夏の太陽が照りつけている写真だったんだ。こんな曲が頭の中を回っているのに、真昼の街をプリントとは…。勘も狂えば腕も鈍るぜ。いかがわしい夜の街でもプリントしておくんだった。選択を誤ったぜ。仕方ない、これも人生だ。ロックンロールだ。

Izmir,Turk
そうこうしているうちに、印画紙も底をついた。そんなくらいにタイミングよく工事も終わるもんだ。仕方ねぇなぁ。俺はコーヒーでもすすりながら、久しぶりに、西井一夫の本を読んでみることにした。
西井一夫は80年代に廃刊した『カメラ毎日』の最後の編集長だった。癌で亡くなってもうかなりになるが、未だに西井一夫ほど、何故あなたは写真を撮るのか?ということにこだわった写真編集者はいなかっただろう。時に批評した相手を怒らせ、絶縁されるほど、その舌鋒は鋭く、容赦がなかった。写真のうまい下手ではなく、クオリティにこだわり、また、写真は現実の複写であるに過ぎない、アートではないと、言い続けていた。
写真は、写真家のイメージに基づいて表現されるものではなく、現実(つまり、かつて確かにあったもの、すなわち今はもう失われてしまったもの)を、再現=コピーするものだと、西井一夫は繰り返し語っていた。
そしてさらに、写真の本当の凄味は、撮影者も被写体もこの世から消えてしまった後に、写真が後世への『記録』として遺ることにあると喝破していた。その時には、写真は撮影者の持っていた作家性とは、まったく無縁の『アノニマス』な『記録』に変わるのだと。つまり、『記憶』から『記録』に昇華するんだ。
この人の話しは、写真に真剣に向き合っていくならば、重たい話ばかりだが、もし君が、意識的に写真を撮っているのなら、西井一夫の本を、たとえば『20世紀写真論・終章』(青弓社刊)なんかを読んでみることをお勧めするぜ。

ホント、この人の本を読むと、身につまされ、自分の写真を顧みては反省することばかりだ。
自分の写真は、俺のイメージで捏造されたものではないだろうか?
自分の写真は、俺がこの地球からおさらばした後も、存在するに耐えうる写真だろうか?
そして、何よりも、何故自分は写真を選び、写真を撮るのか…。
いずれにせよ。、もっとプリントの腕前をあげないと話にならないな。今日のプリントではね…。
今日のプリントから、まぁまぁのものを2点お送りしよう。

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