2010/12/30

Post #42 Eyes Of Squid

今日も男の仕事一発目を片付けてきたんだが、今夜また仕事のオファーが入ったんだ。やれやれ、年の瀬だというのに、我ながらご苦労なこったぜ。しかし、俺は生憎サラリーマンじゃないんでね。猟師みたいに獲物を捕まえなきゃ、たちまちセーカツが困窮を窮めてしまうのさ。そういえば、以前久しぶりに行った飲み屋で、嬢に『仕事が暇で暇で、引きこもっていた』って言ったら、羨ましがられたぜ。金の苦労を知らない奴は呑気でいいもんだ。俺は悲しくなったよ。
まぁ、そんなわけで昼日中から、寸暇を惜しんでブログの更新をするに至った訳だ。よろしく頼むぜ!
HongKong
そんなCool な写真が撮れたら、楽しいでしょうねと、最近言われたんだ。それを言ってくれた人に、反発するわけでも、批判するわけでもないんで、誤解しないでいただきたいんだが、楽しくないわけじゃないが、でも、楽しいばかりでもないんだな。
あくまで、舞台裏を晒すように言えば、けっしてCOOLかつSMARTに写真を撮っているわけじゃーないんだな、これが。
写真自体は、COOLに見えるかもしれないけれど、それは多分にハイコントラストなプリントや、撮影方法が街頭スナップ(それも夜多し)故の、ブレ、ボケ多発といった技術的な問題、あるいはノーファインダーによるほぼ隠し撮りという邪道な撮影方法によって醸される、被写体との間に流れるよそよそしさの結果だと思うんだ。
しかし、ある友人に言われたことがある。曰く『SPARKSさんは、欲望のおもりをたくさんぶら下げて、全力疾走しているような人だよね』だとさ。そういわれた時は、今一つ腑に落ちなかったんだが、うむ、今思えばなかなかに上手いこと言ったもんだ。彼は、写真を通じて交友を深めた友人なので、彼の言うことは、俺の写真そのものにもあてはまるだろう。
つまり、一見COOLに決めて写真を撮っているように思われるかもしれないけれど、獲物を探し回るケモノのように目をギラギラさせて、欲望に身悶えしながら撮っているのさ。
だから、写真を撮るのは、自分にとって難行苦行に感じる時もあるし、社会との軋轢に苦しんでいたりもするんだ。

数日前の朝日新聞(そう、俺んちはガキの頃から試験に出る朝日新聞だ)に写真評論家の飯沢耕太郎が、近年の肖像権意識などの高まりによって、ここ10年ほど、スナップ写真が衰退していることを嘆き、かつ憂いていた。実際にそれで不利益を蒙ることは無に等しいのに、写真におさまることを忌避する人が多いということだ。そして、後世、今の時代を振り返った時に、時代の風俗習慣を知る手掛かりが極端に少なくなってしまうだろうと憂慮していたぜ。

少し前のニュースで、女性の太ももを撮影した男が、迷惑防止条例違反だかで逮捕されていたぜ。太ももだぜ、パンツじゃないんだぜ。その事件を伝える新聞記事では、彼が撮影した動機は『自らの欲望を満たすため』とあった。俺は悲しくなったぜ。まいったなぁ~。こんなんじゃ、俺、いつか捕まって、訴えられちまうぜ。
しかし、俺は君たちに訊いてみたいんだ。
どんな写真も、その瞬間を固定して、その被写体を何らかの形で所有したいっていう、切実な欲望のもとに撮られているのではないのかい?
それが、女の太ももだろうが、子猫だろうが、富士山だろうが、熱い欲望に唆されてシャッターをきっているのではないのかい?

そんな欲望のこもっていないような写真なんて、写真の抜け殻にすぎないんだぜ!

俺はいつもそんな風に思っているのさ。
だから、いつ何時、俺自身が写真を撮ってて逮捕されるのか、気が気じゃないんだ。
ちょっと待ってくれ!これは黒い金属の塊だけれど、決して拳銃じゃないんだぜ、カメラなんだ!って言いたいよ。
こんなんじゃ、写真を撮るのもなかなか骨が折れるし、純粋に楽しめないよな。
もちろん、実際にやむにやまれぬ欲望煩悩に焼かれる思いでシュートするときも多々ある。
そんな写真じゃなけりゃ、撮っても見ても面白くないだろう。
反面、憤りを込めて、社会に対する異議申し立てを込めて、写真を撮るときもある。
目を背けてしまいたいものだからこそ、あえて写真を撮ることもある。
自分の中の倫理と欲望がせめぎ合っている写真もある。
その写真を見ると、撮った時のエモーションがフラッシュバックして、どうにも平静を保てなくなるような写真もある。

しかし、幸か不幸か、写真にはそんな俺の想いは写り込まない。

あくまで、写真として見えるのは、撮影者によって切り取られた、ある瞬間のある場所の光景にすぎないんだ。そう、まさに世界のFRAGMENTにすぎないんだ。
カメラというマシーンは、何時だって客観的に、冷徹に、そして忠実にその職務を実行するんだ。俺の気持ちなんて、奴にはお構いなしなんだ。カメラにはハートはない。ハートがあるのは人間のほうだ。

そういう意味では、写真はどことなくイカの目玉のようなものだ。
Tokyo
イカの目玉は人間を含む脊椎動物の眼球組織とは異なる系統で生じたものらしいが、その構造は極めて精巧にできているんだ。人間の目なんかに比べても遜色がないほどだという人もいる。
しかし、残念ながら、イカにはその光学的情報を処理するだけのノーミソがないんだ。まったく貧弱な脳しか持ってない。それに見合うだけの脳みそを持っていたら、きっと今頃海底には、イカ文明やイカ帝国が存在していることだろう。中国の領土的野心よりも警戒が必要だろう。
じゃぁ、イカの目は何のためにあるのかということが、時折語られるが、よくある話はイカの目を通じて、この世界そのものが世界を見ているというものだ。この話の元ネタは、どうやら『百匹目のサル』なんかの疑似科学でおなじみのライアル・ワトソンらしいから、どうも胡散臭い。俺自身は単なるオーバースペックだと思っているんだ。昔のカメラによくあるだろう。開発者の意欲が当時の技術や市場の要求をはるかにぶっちぎってしまったようなのが。そんなカンジだ。
充分に脳が発達している人間の視覚は、自分の意識によって、情報を瞬時に取捨選択してかかるけれど、我らがイカの目(解剖学的にはカメラ眼というらしい)たるカメラは、なんら判断することなく、また遠慮会釈なく、シャッターさえ押せば、人間が無意識にオミットしてしまう細部まで写し取る。
しかし、写真というメディアを通じては、その写真を撮影した人間の意識や、撮影時の状況などまで知ることはできない。視覚情報を解析するだけのノーミソがないイカに似ていると、俺が感じるのはそういうところだ。
だから、泥臭く這い回るようにして撮った写真を、見る側はCOOLに感じたりも出来るわけだ。
そしてまた一方で、写真が文章の“挿絵”のように扱われたりすることになるわけだ。
しかしですねぇ、俺は写真は写真として、見てもらいたいと思っているんだ。
そう、まだ見ぬ世界の、あるいは無意識に見落としている世界の断片としてね。

そもそも写真は、現実のコピーにすぎない。
一旦暗室で撮影者のイメージに応じて変容させられたにしても、それは単に現実のコピーにすぎない。
そして、第三者、つまり俺の写真を見てくれている君たちに、開示された瞬間から、その写真に託された、俺の意識や意味は剥ぎ取られ、君の内なるイメージと響きあい、新たな意味を生みだしていく。
その時、俺の写真には、俺の想いなどが入り込む余地はない。写真は俺のもとを離れ、俺の想いから自由になり、写真を見る君たちのものになる。
だから、写真に解説はつけたくない。要らない解説で、君たちの内なるイメージとの響きあいをぶち壊したくないんだ、Yheah!
ただ、四角く切り取られた世界の断片が、まな板に載せられた一片の肉塊のように、君たちの前に投げ出されればそれでいい。どう解釈するか、どう理解するかは君たち次第ってわけだ。どんな料理法でもあなた任せなのさ。
時折これに矛盾することもやっているけれど、それは俺の中の写真とは別の表現領域から滲みだしていることなんで、お前、矛盾してるじゃねーか!って糾弾するのは、頼むからやめてほしいぜ。

イカの目を通して世界が世界自体を見てることは、多分ないだろう。だけれど、俺のイカの目=カメラを通じて、君たちが自分の見ている世界(の断片)とは、異なる別の世界の断片を見て、君たちのノーミソをフル回転させて、何かを想ってくれるのなら、俺はうれしーぜ。
今日はなんだか熱く語り過ぎちまった。言いたいことが山ほどあるんだ。勘弁しておくれ。君に直接会う機会があったなら、こんな面倒なことを言って、君を困らせたりはしないさ。

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