2011/01/26

Post #69 Just Like A Blade Runner #2

『お前たち人間が信じられないようなものを見てきた…。オリオン座の近くで燃える宇宙船や…タンホイザー・ゲートのオーロラ…。そういう思い出も、やがて消える。時が来れば…、雨のように、涙のように…。その時が来た』
ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのリーダー・バッティが、ブレードランナー リック・デッカードを絶体絶命に追い詰めながらも、自らの命が尽きる事を悟って、デッカードに語る言葉だ。バッティは雨の中、静かに目を閉じ死んで行く。
このセリフは、ルトガー・ハウアーが撮影中に思い付いて採用されたものらしいんだけど、俺はこの言葉が忘れられない。俺にとっては、この一言でブレードランナーは特別な映画になったと言ってもいいくらいだぜ。
それは、レプリカントだけの事じゃないんだ。俺や君や彼や彼女、全てに当てはまる事なんだ。人間の存在の根っこに絡み付いている。いや、むしろ、人間の存在を木に喩えるなら大地の下で見えないが、木そのものを支える根そのものだ。
HongKong
俺や君や彼や彼女達が年老いて死を迎える時、俺たちの全ての記憶は、喜びも悲しみも、怒りも哀しみも、全ての消え失せる。消えちまうンだよ。きれいさっぱりな、チクショー!

その圧倒的な虚無感におののいた俺たちは神を信仰を生み出したんだぜ。神様が人間を作ったんじゃないんだ。ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟にも書いてあるさ。
そして、俺や君のことを憶えている人たちも消え失せた時、俺たちが存在していたことを証しだてるものは、記録しかないんだ。
そう、『記録』だ。
俺が思うに、写真は人類が発明したかなり有効な『記録』手段だ。それがデジタルであれ、アナログであれ、在りし日の俺や君を忠実に記録する。そしてそれは、当たり前のことだが、写し取られ記録化されたその瞬間から、過去の失われた瞬間の映像になっていく。俺たちの存在のなんちゅう儚さよ。
その儚さを想って、俺は子供の頃から悩みぬいてきた。このことの前では、世間的な意味でのより良い人生 ( こんなものは昨今ではとっくに崩壊してしまったようにも感じるが )、即ち良い学校に入り、よい企業に入るなりして、実入りのいい生活を送るなんてのは、まるっきり枝葉末節にしか感じられなかった。だから、俺は高校時代、進学校に通っていたにもかかわらず、お勉強するのをヤメタ。アホラシイからな。おかげさんで、今結構な苦労をしているぜ。しかし、これはこれで充実した人生だ。苦しみのない人生なんて、気の抜けたコーラみたいなもんだ。甘ったるいだけで、ゲップもでやしねぇ。なかなかにおもしれーもんだぜ。
そこで、写真だ。以前にも書いたが、写真との出会いは偶然だった。けれど、偶然に意味を与えることで、人間はそれを必然に転化しうる生き物だ。
写真こそが、俺の存在を、俺の命の消費期限を超えて、あり続ける俺の記録なんだ。俺が写っていなくても、俺が、その時に、この場所で、世界に対峙していた。そして、世界に対峙することで明らかに存在していたことを、俺が死んだ後も、沈黙のうちに雄弁に語り続ける『記録』なんだ。
かつて特別なものだった写真は、今やケータイに当たり前のようについているカメラで、いくらでも撮影される。しかし、この世界に氾濫する無限の写真の全てが、実は、一瞬の後には止まることなく変容し続けるこの世界が、かつてこのようにあったことを語り続けるもんだと思うんだ。どうだろう?
俺にとって、写真は重たいものだ。俺が雨のように、涙のように消え失せてしまっても、俺の存在していたことを、俺のその瞬間の想いを封じ込めて残るかけがえのないものだからだ。そして、こうしてWEB上に公開してゆくことで、それはさらにその存在を拡張してゆくことになるだろう。
もちろん、写真だって、永遠の時間の流れの前には、儚いものであることは何ら変わりはないのは承知の上ではあるのだが、少なくとも今夜、俺が交通事故で死んでしまったとしても、しばらくは俺の影としてこの世界に残りうるものだと信じている。

Tokyo
もう一度、ブレードランナーに戻ろう。
アジトを逃げ出したレプリカントは、何故か写真に執着していた。この写真がデッカードがレプリカントを追っていく手掛かりになるんだが、過去や記憶を持たないがゆえに、その代替物として写真に執着していたのかもしれないと俺は解釈している。
また、自分がレプリカントではないかと疑問を抱き始めたレイチェル ( 演じるのはショーン・ヤング。レプリカントの発明者タイレル博士の秘書だ。秘書ってのはやっぱり美人じゃないッといけねぇな ) が、自分が人間だという証拠としてデッカードに差し出すのは、母親の膝の上に抱かれて微笑む幼い頃の自分自身の写真だ。
そう、ここでは写真は、レイチェル自体の存在を証明する『記録』として機能しているんだ。
この映画は、俺から見ると写真の本質にまつわる要素が含まれているように思えるんだ。まぁ、とはいえ受け取り方は人それぞれだから、押し付けることはしないけれど、見たことがないんなら一度見てみることを勧めるぜ。見たことがあるんなら、もう一度じっくり見てみるのもイイだろう。
それ以上に俺が感じたのは、少年の頃に見たこんな映画が、意外と自分の写真のセンスに大きな影響を与えているってことだ。

俺如きがエラソーに言うのもなんだけれど、あえて言ってしまおう。
写真は、けっして単なるイメージとして消費されていくだけのものではない。
そこに写っているモノが儚く脆い存在であればあるほど、写真の持つ比重は増してゆく。
写真を撮ることには、それなりの覚悟が必要だ。そう、銃で人を撃つくらいの覚悟が。
しかし、その銃は命を奪う銃ではなくて、限定された意味ではあるが、被写体に対して、ある意味での不死性を与える銃なんだ。
今日はなんだか小難しくなっちまっていけねぇや。ボロが出ないうちに切り上げて、今夜も例によって例の如く、男の仕事に出撃するかな。
また会おう。今度はそんなにムツカシー話で君を困らせたりしないさ。

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