2011/01/30

Post #72 Rage Against The Machine

こんなこと言うと、いまどき俺のほうが笑われちまうかもしれないけど、俺は先日新聞に載っていた某社のデジカメの広告を見て、うんざりしちまった。
たぶん、写真に興味を持っている皆さんなら、あ~、あれねって思うかもしれないけれど、それはとんでもない夢のカメラなんだ。それがどんなにスゲーカメラかというと、一度シャッターをきると、露出を変えて何枚も撮影して、その画像を合成し、『人間の視覚に近い』出来のいい一枚の写真に仕上げてくれるっている優れたカメラなんだ。
そりゃースゲー!
Paris
確かに、モノクロフィルムが主体の俺も、覆い焼きなんかを駆使して、それに近い事を、とんでもなく手間暇のかかるローテクでやってはおりますよ。金と時間に、そして何より我が家の居住スペースに、ゆとりがあるなら、カラーの引伸機も導入して、カラーネガで覆い焼きとかしたいくらいだ。しかし、それとこれとはちょっと違うんじゃないのかって気がするんだ。
実際のところ、カメラの進化に関しては、セレン光電池、CDS素子などの道筋をたどってきた露出の自動化ってのは大きな課題だったのは認める。しかし、今や露出の自動化が進行しすぎて、一般的なユーザーは露出なんて知らないんじゃないのか?むしろ、カメラはシャッターボタンを押せばキレーに写ってあったり前って思っているユーザーがあんまりにも多い。少なくとも、俺の周囲の写真を趣味にしていない人には、露出優先とか、絞りによる描写の変化なんて知っている奴は、ただの一人もいない。ホントにいないんだ、驚くぜ!

それが、写真の進歩なんだろうか?
それに加えて、シャッターを押せば、何枚ものカットから最適な露出の部分を組み合わせて、最適な一枚を作るなんて…。これはもう、人が写真を撮るというよりも、人間はカメラを運ぶだけで、写真はカメラが撮っているようなもんだ。俺たちの主体性やゲージツセンス、あるいは試行錯誤の末に身に着けた技術なんてのは、どーするんですか?そんな風に写真を撮って面白いのかね。俺はABC(=オート・ブラケッテイング・コントロール)機能すら使ったことがないんだぜ。

さらに、このカメラはアートっぽい彩度の高い画像をまたしても自動で拵えてくれるんだ。そりゃースゲー!俺もカラーを撮るときには、彩度の高いコダックのE100VSを愛用しているさ。知り合いの中にはアグファの発色が好きでそればっかり使っていた奴もいた。しかし、しかしですよ、東松照明センセー曰く『写真は選択の芸術だよ、君』である以上、そのフィルムを、そのレンズを選ぶ時点ですでにそれは表現の一部ってことじゃないのかい?

こんなんじゃ、写真はますますお手軽で、中身の軽いものになっちまわないか、俺にはすごく心配だ。古い奴だと笑われてもイイ。そんな例がほかのメディアでもあった。
ロックだ。
俺が好きなロックは何故か、今ではオヤジしか聴かないような昔のロックばかりだ。The Who、Led Zeppelin、Jimi Hendrix、The Rolling Stones、etc…。
昔のロックはイイ。何故って人間が実際にプレイしているからだ。スゲーギターテクも、タイトなドラムも、腹に響いてくるベースも、どれも皆、実際に人間がプレイしているからだ。
そしてそれらの音は、絶え間ない練習によって支えられているんだぜ。何故って、試行錯誤して初めて生み出されたサウンドで、それを生み出すのは体に叩き込んだ技術なんだ。だから、二度と同じようにはいかないだろうっていう、ダイナミックなアドリブがステージ上で繰り広げられる訳だ。そっから少し下って、技術偏重の袋小路に陥ったロックに、救世主の如く現れた、The Sex Pistolsみたいにへたっぴな奴らでも、ナマなカンジが堪らなかった。
それがサンプリングやドラムマシーンが多用されるようになって…、音楽はすっかり薄っぺらなものになっちまった。つまらん。何が飛び出すかわからないよーなダイナミックなモノにはとんとお目にかからない。大抵のものは予定調和だ。あっさりと聞き流すことができて、毒にも薬にもならん。スーパーマーケットのBGMにはもってこいだろう。
きっと、このママじゃ写真もそうなっちまうぜ。俺は毒にも薬にもならんような、風呂屋の壁の富士山の書割タイル絵のよーな写真は、絶対に撮りたくない。自分が撮って仕上げている実感がないじゃないか?それで俺の写真ですって、胸を張って言えるのかい?

俺は、敬愛する小説家カート・ヴォネガットの『タイムクエイク』って小説を思い出したよ。
彼は一応SF作家に分類されているので、その道具立てはSFっぽい。この小説も、宇宙が何らかの理由で時間地震=タイムクエイクを起こし、地球は一挙に10年前に戻ってしまう。人々は、すでに経験した10年間を、その記憶を抱いたままリプレイしなけりゃならなくなるって寸法だ。これは辛い。失敗するに違いない結果を知りながら、徒労のようなこと10年も続けなけきゃならなくなるんだ。まるで、レールが途中でなくなっているって知ったうえで、ジェットコースターに乗るようなもんだ。この間に、人間はすっかり自分の意思で行動するということを忘れちゃうんだ。何故って宇宙のいたずらのおかげで、人間は自動的に10年前に自分自身が行った行動をリプレイするわけだから、考えたって仕方ないんだ。
この小説の中に、コンピューターソフトで小学生が設計した建築の設計図を見て、自分が一生をかけて積み重ねてきた技術と経験とセンスが、まるで時代遅れというか無用なものになり下がったと悲観して、自殺を図り、なおかつ失敗して、10年間車椅子で暮らす羽目になった建築家が出てくる。しかも、その10年を2度繰り返すわけだ。大変だな。
俺が言いたいのは車椅子うんぬんってことじゃない。誰もが、何の苦労も努力もなく、プロ並みな仕事ができるようになったら、どうよってことだ。極端な話をすれば、俺たちはいずれ自分たちが生み出したマシーンにクリエイティブな仕事を奪われて、俺たちはマックや吉野家の店員か、掃除夫くらいしか仕事はないって世の中になっちまうぜ!

所詮、写真は俺にとっては道楽だ。仕事には命は懸けられないが、道楽には一生が賭けられるという意味において道楽だ。なら、手間暇かかったほうが道楽として好ましい。人生は何十年の暇潰しなんだから、道楽までサクサク効率的に進んじまったら、俺たちはまたぞろ暇を持て余して、ケータイゲームにはまったり、高い金を払って不味い酒を飲みに行ったりと、ロクでもねーことになっちまうに違いない。
あ~、フルマニュアルのクラッシックカメラでスナップ写真をかましたくなっちまったぜ。見てろよ!俺はやったるで!Going My Wayだ!

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