2011/04/15

Post #154 Provoke #1

ふふふ、昨日に引き続き写真について語ってしまおう。旅行中、毎晩ベッドの中でいろいろと考えていたんだよ。とは言うものの、日頃の考え方を反芻していただけなんだがね。
ひとつには、3月27日Sexual Desire #4に対する、消耗品軍団を名乗る人物からのコメントに対する返答という側面がある。
俺にとっては、なかなかに態度も発言も、不快極まるコメントだったが、我慢してここに全文引用してみよう。
『福島原発行って、モグリで写真撮ってくるくらいの気迫がほしいな
五感に訴えるなにかがたんねーな
あと写真に色つけもほしいな〜全部同じもんに見えちまうよ
魂の乗ったエクスペンタブル・フォトグラファーになれるよう努力が必用(ママ)
一般的な人間には写真も文章も??ですよ』

本気かね?と私はまず問い返したい。
Efes,Turk
当初、ご自身のトラックバックなどもなく、言いっぱなしのコメントなど、黙殺して構わないと考えていた。それが大人の対応だと思う。
しかし、それは写真について語る契機となりうる要素を含んでいると思い、敢えて取り上げてみる気になった。
それに、何よりこの人物が、軍団と称して、衆を恃んだ趣きすら漂わせたうえで、自分自身は安全地帯から一方的に批判とういうか挑発するような態度は許し難い。
私の心中には吉本隆明の『知力、腕力、思想、識見、全てをかけて私と戦ってみろ』という言葉が駆け巡っている。かつて、私はこの言葉を吐いて、会社で労組、役員、上司の全てに対して、たった独りで多方面闘争を仕掛け、会社を辞めた事もある。
言いたい放題抜かしておきながら、挙げ句の果てには、エクスペンタブル・フォトグラファーになるには努力が必用だと?この頓馬はプロデューサーにでもなったつもりだろうか?しかも、一般的な人間には写真も文章も??ですよだとさ。
この人物は、いったい全体何様のおつもりか?編集者にでもなったつもりかね?
良いだろう、売られた喧嘩は、買わずにおけまい。自らが傷付く事すら、私はいとわない。もとより私は、このブログを道楽でやっているのだから。
こんなことをしても経済的に鐚一文儲かる訳でもない。むしろ、時間と労力、そして写真を撮影プリントするために、思わず笑えてくる程の経費を費やした。しかし、それでこそ『道楽』だ。未知なる道を楽しむ、という意味合いでの『道楽』だ。
故にこそ、一般的な人間の好みに会わせたりする必要性など微塵もないのだ。全てを自らの楽しみの為にやっている事だ。自分の好みで押し通して、誰に迷惑をかける物でもない。
毒にも薬にもならぬ、気の抜けたコーラのような文章など書く気はない。これはかつて私立クロマティ高校の演劇部に在籍していたときから、一ミリも揺らがない。おかげで、演劇部からは追放されたがな。あの時以来、自らは何もしないくせに、衆を恃んで、或いは他の権威を借りて、個人を追い詰めようとする者には、容赦せず交戦し、例え敗北しても悔い無しという無頼孤高の姿勢を貫いて来た。
その人生経験のを土台にして産み出した、自らの虚飾を一切放擲した文体だ。
当たらず障らずの文章しか読んだことも書いたこともない方には、当然の事ながら??だろう。承知の上だ。しかし、私がそんな一般的な文章を書いたとして、面白がる読者は果たしているだろうか?
先程も延べた如く、私自身はこの写真で一銭も稼いでいない純粋な『道楽者』だ。これが意味するところが解るだろうか?
市場調査やアンケートで、自分の方向を決めていくような、定見も信念もないような自他共に認める『アーティスト』とか『クリエーター』とかとは、根本的に違うのだ。
第一、私たちが一般的に目にする写真は、私には人々の持つ共同幻想的なイメージに予定調和した退屈なモノに感じられるのだ。
私は長年、そうした写真を『風呂屋のタイル絵』と称して、自らがそのような写真を撮る事を忌避してきた。ともすれば、水が低きに流れるように、そうした写真を撮ってしまいそうになる自分自身を、戒めて来たのだ。
そうした写真は、つまり可愛らしいネコとか、絵葉書のような美しい風景とか、セクシーなモデルさんを用いたヌードとか、或いはまた、事故や災害戦争などの報道・ドキュメントなど、世間一般でいわゆる写真と認知されている写真は、認知されているが故に、価値があると考えられ、価値に応じた対価が支払われ、消耗品として流通する事が可能になるのだ。それこそが、この消耗品軍団なる人物が示唆するエクスペンタブル・フォト=消耗品写真であろう。そんなものは、他の方々におまかせしよう。私は自らが信じる写真の道を、堂々と歩んで行けばよいのだ。

芸術は、実利的な社会一般では、本来なんの価値もない。対価を得る事を究極の目標とする芸術は、煎じ詰めれば単なる賃労働でしかないのだ。一般的な人間には受け入れ難いというのは、それに胡座をかくような筋のモノではないが、芸術においては、当然の帰決であるとも思われる。何故なら、一般的な人間は実利のために生きて、働き、喰い、眠りしているのだから。芸術はそのプロセスに、何ら寄与しない。寄与しないがゆえに、芸術は意味があるという、ある種倒立した存在なのだ。
一般大衆の上に立ち、特権的なインテリの一種としての芸術家として、上から目線で大衆を啓蒙するのではなく、あくまで大衆のなかの無名に等しい独りの道楽者として、一般的な大衆よりも遠くを見て歩く事。それが道楽写真家たる私の立ち位置だ。いたずらに消耗されたり消耗したりしてたまるものか。
Izmir,Turk
消耗品としての写真に対して、私が否定的な見解を有している事は、昨日の投稿『Unexpendable Photography』にて触れているので、ここでは触れない。参照していただきたい。

写真を始めた頃から、何故写真を撮るのか?何故このスタイルを選択したのかを、不断に自らに問い続けて来た。阿弥陀如来の五劫思惟の願には程遠いが、この10年、考え続けて来た。
今日はこの辺りにしておこう。続きは明日だ。『福島原発に行ってモグリで写真とってくるくらいの気迫がほしいな』の辺りを粉砕しよう。徹底的に捩じ伏せる。ふふふ…、楽しみな事だ。

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