2011/06/28

Post #227 Photographica #9

今日から俺は出張なんだ。高速に乗って東へ向かうんだ。放射能が心配だが、構っちゃいられないさ。涼しい山の中で、毎日夜間作業だ。イタチなんかに出くわしちまうかもしれないな。楽しみなこった。
そんなわけで、今日は朝も早くから更新しておこう。ずいぶん前に買ったと言っていた、中平卓馬の写真集『Documentary』(Akio Nagasawa Publishing刊)だ。

中平卓馬『Documentary』Akio Nagasawa Publishing刊

写真を撮る人間にとって、いや、他人の考えはよくわからないから、ココは謙虚に、俺にとって中平卓馬は、写真の極北であり、2001年宇宙の旅で、絶滅の危機に瀕した類人猿の前に顕れて、その進化を促したモノリスのように、謎めいた、そして無視することのできない写真家だ。

この写真集をめくってみよう。カモ、ヤギ、コイ、カメ、芍薬やツツジ、ハイビスカスなどの花々、樹木、看板(それは文字が書いてはあるが、そこから中平のメッセージを読み取ることは難しい)、そして何より数ページおきに登場する、眠る男たち。
それらすべてのモチーフが明るい日差しのもと、一点の曇りもなく、映し出されている。
一点の曇りもなく、Canon F-1に105㎜のレンズで、しっかりと写し取られている。
一点の曇りもなく、写し取られているがゆえに、一つの問いが浮かんでは消えない。
一体これは、何なのだ?
何故、彼はこれを写真に撮り、私たちの前に提示しているのか?
この写真には、どんな意味があるというのか?

中平卓馬が日々の生活の中で、写真を撮影しているドキュメンタリーを見たことがある。NHKで放送されていたものなので、読者諸君の中には、御覧になったことのある方も多い事だろう。
中平は、ほぼ毎日、雨が降っていない限りは、朝食を食べ上げると、帽子をかぶり、愛用のCanon F-1(これは彼の扱いが雑なので、しばしば壊れて、新しい中古品?と入れ替わるそうだ)をぶら下げて、撮影に出ていく。彼は家の近所を自転車でめぐり、河原でカメやヘビを撮り、公園で眠っている浮浪者を撮る。その時、彼は用心深くカメラを構え、左手でレンズのピントを合わせながら、音もなく被写体に近寄り、シャッターをきった途端に、カメラを小脇に引き寄せて、隠すようにして身をひるがえす。まるで、何かを盗み取った者のように。そして、その顔には、満面の笑みがあふれている。
中平卓馬は、毎日決まって同じ場所で撮影していても、ふと『ここは初めての場所だねぇ』とか言ったりする不思議な人だそうだ。マンネリでも、飽きなきゃいいとはこの事だ。自分で忘れている?んだから最強だ。

中平が使用するのはリバーサルフィルムで、彼の部屋には、無数のリバーサルマウントが散らばっている。彼は撮影から戻ると、その無数のリバーサルマウントの中から、任意の2枚を選び出し、ライトボックスの上で、組み合わせを考えている。見開きに一枚づつ、どのように配置するのかを注意深く検討しているようだ。

俺はそんな中平卓馬の姿を見ていると、世界の秘密を掠め取り、それを再構成しようとしているように感じる。中平の写真が他と隔絶しているのは、その写真の一枚一枚が、私たち自身が写真、さらに言うなればイメージ(今日では画像はイメージと称されることが多いね)に対して抱いているコードを完全に無視しているという点だろう。
つまり、写真には、意味がある、というコードだ。さらに言えば、私たちが目にする写真は、何らかの主観によって選び出され、それを視る者に対して何らかのメッセージを含んでいる。あるいは、視る者の中にあるイメージを喚起する触媒のような力を持っている。詩的に言うならば、一枚の写真の中には、何らかの『喩』が潜んでいると言っても過言ではないだろう。
この『喩』によって、喚起されうるものが多ければ多いほど、それは視る者に何かを与える写真として成立しうるだろう。女性が写った写真が、男性にとって、性的な行為の喩を孕んでいるようにだ。

しかし、中平はかつて『世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除』するト語っていた写真家だ。その言葉から今日の彼の立ち位置まで、昏倒と記憶喪失、そしてそれに伴う一時的な全言語喪失というイベントが横たわってはいるのだが、かつて悩める写真家中平卓馬が目指した境地に、彼は今、立っているのだろう。

あらゆる『喩』から、解き放たれた、見たままの世界。それはもう一歩で、名前という最後の喩(或いは事物にかけられた呪)からも被写体を解き放ちそうなほどだ。
明るく、何も含むところがない、世界の断片そのもの。
そこには、かつてそれがカメラの前にあったということしか、意味しない。(いや中平卓馬自身としてはあるのかもしれないけど…。なんてったって、森山神社って看板を撮って、これが森山大道、東照院とかいうお寺の表札を撮って、これが東松照明とかいうくらいの人だからねぇ。けど、そんなのダジャレみたいなの、分かんないでしょう?突っ込み不能だもん)
決定的瞬間や、風呂屋のタイル絵のような類型的な美しさは、どこにもない。
あらゆるイメージを排して、格物致知、つまりモノに即して知るに至るという経験を、視る者に迫る。

そういう意味で、凄い写真家だし、素晴らしい写真集だ。まさに、中平卓馬が触れた世界の『ドキュメント』そのものに他ならない。

かつて、俺は一度だけ中平卓馬に会ったことがある。
この時彼はすこぶる上機嫌で、横浜の駅前でペルー人のバンドが『コンドルが飛んでいく』を演奏していた時、東京外国語大学スペイン語学科卒の自分が、その歌詞を日本語に訳してあげたら、道行く人々は深く感動して、バンドに対してたくさんのお金を投げてよこしたと、現実とも虚構ともつかない話を繰り返ししていた。(中平自身は一度ウケると何度でもその話をするらしい)
中平卓馬その人こそ、写真という空をはるかかなたに飛んでいく、コンドルのような男なのかもしれない。少なくとも、俺は嬉しそうにその話をし続ける中平卓馬の顔を思い出しては、そう思わずにはいられない。いられないんだ。

読者諸君、また会おう。今日は忙しいんだ。出張に行く前に、銀行に行って税金を払ったり、請求書を送ったりしなけりゃならないんだ。こう見えて俺も小忙しい男なのさ。失礼するぜ。

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