2011/08/26

Post #286 Speak Like A Child #6

Speak Like a Childは、言わずと知れた新約聖書の一節だ。
そういえば、The Style Councilの曲にも、あったな。しかし、俺が好きなのは聖書のほうだ。コリント人への第一の手紙の第13節だ。これはとても有名。愛について語っている一節だ。これを俺に教えてくれたのは、数年前に癌で死んだ俺のオジサンだ。愛介という名前だけのことはあった。
少しばかり長いが引用してみよう。
『愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、私たちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。私たちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。(中略)わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』
この文脈で言えば、本来は幼子らしく語ったり、感じたり、考えたりすることは、不完全さの比喩になっているけれど、俺は当初から誤読していた。つまり、大人になって幼子のように、世間的な常識や固定観念によって思考や感情を曇らされることなく、ある種無垢で純粋な存在として語り、感じ、思うことを肯定するように考えていたんだ。だいたい常識的な、つまり世間慣れした大人なんて、これ以上につまらないものは無いからねぇ。これはこれで致し方なかろう。しかし、なんでこんなに思いっきり誤読してしまったもんだろうかね?
Paris
その原因の一つには、俺の好きなThe Whoの曲の歌詞にあるかもしれない。
『僕は若者 僕は多くをやらない 昔どうやって戦ったか思い出せ 子供のように僕は夢だけを見てる 僕は混乱しているけれど、何が正しいか知っている』(The Who /Dirty Jobs)という歌詞の影響がありそうだ。ロックの引力によって、解釈が曲げられているんだ。うむ、これはこれで俺らしいもんだ。
うむ、明らかな誤読だ。しかしですね、歴史的に誤読によって新たなものが生み出されるというのは、多々あるのだよ。孔子だって、親鸞だって、道元だって、みんな誤読誤解して、自己流の解釈を生み出してきたんだからね。

まぁ、俺はそんな歴史上の巨人とは程遠いバカヤローだけれど、大人のくだらなさにヘキエキしていた反抗的な少年だった俺は、このSpeak Like A Childという言葉を、いささか感傷的なカンジもするけれど、肯定的に受け取っていたんだ。子供のように、虚飾なく、ストレートに、思ったままに語り、振る舞い、生きることができたなら・・・。
ニーチェだって、名著『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、人間が歩むべき修行と闘争と、それを経たうえで初めて花開く自由な創造の時期をそれぞれ、駱駝、獅子、小児に例えているんだぜ。『小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。』(手塚富雄訳 中公文庫版『ツァラトゥストラ』第一部より)と述べているんだぜ。
幼子のように、世界そのものを肯定的に受け入れ、そして自由に創造していく。それこそがまさに、俺がSpeak Like A Childという言葉から思い浮かべるイメージなんだ。もちろん、幼子のままという訳っではなくって、それは修行と闘争という過程を踏んで、360度(180度ではないよ)まわって、レイヤーが上がった状態ってことなんだけれどね。
Paris
あ~、調子にのって学のあるところを披露してしまったな。
まいった、まいった、まいったな。いささか反省だ。
反省ついでにもう一丁行っておこうか。
俺は子供は結構好きだ。自分自身は子供を持つタイミングは逃してしまったが、これまた実に残念なことだ。俺はともかく、連れ合いだって少し難しい年頃になってきちまった。世間の皆様のように、我慢して辛抱強く働くことが出来ない性分だったからなぁ。とても子供なんて、養っていけなかっただろうよ。
そう、子供がいないからといって、子供が嫌いなわけじゃないんだ。子供の遊ぶ声をきくと、心がほぐれるような心持がするぜ。思わずニンマリしてしまう。そう、梁塵秘抄にもあったっけ。
『遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、わが身さえこそ動がるれ』
読者諸君、失礼するぜ。このシリーズは今日で終わりさ。

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