2011/11/18

Post #370 Insturment

いつも、音楽を聴いて暮らしている。
ピート・タウンゼントやジェフ・ベック、ジミー・ペイジなどが、感情の赴くがままに、その内側から噴出するがごときうねりに、ギターを通して形を与えたような、エモーショナルなギター・プレイを聞くと、自分自身の中にも、火がともり、熱い炎となって心を融かすような、胸を焦がすような思いを抱く。音楽があったから、今の自分になれたと思う。結構なことだ。
そして、自分がやっている写真に、そんな熱がこもるのだろうかと、自問自答する。
写真は、あくまで静かなメディアだ。
音楽の様に、大勢のオーディエンスを前にして、インストゥルメント=楽器に命を吹き込み、自らの心の昂ぶりのままに、どこまでも飛翔するがごとく自在に旋律を奏で、瞬時に人々を熱狂させるようなことは、残念ながら写真にはできないと、思う。残念だ。
写真に出来るのは、カメラというインストゥルメントを用いて、この世界の一定の範囲の光を切り取り定着させることだけだ。俺の内なる心のうねりは、写真には写らない。リンダリンダだ。
俺は写真を撮っている時の、自分自身の昂ぶりを、君にも味わってほしいのに。
飢えた獣が獲物を求めて、五感を総動員して歩き回り、ついに見つけた獲物に襲い掛かり、その血肉を喰らうような、内心の昂ぶりを感じて欲しいのに。
醜いものを美しいモノへと自在に変容させる、錬金術のような営みに、知覚が痺れるような感覚を味わってほしいのに。
それには、タイムラグがあり過ぎる。
タイムラグだけが問題なら、いっそデジタルというのもひとつの解決手段かもしれないけれど、それで、多くのオーディエンスを熱狂させることが出来るとも思わない。それは黄金期のロックを捨てて、テクノ・クラブサウンドに乗り換えろというようなものさ。
それは、俺の表現様式では、無い。
モノクロ写真という、制約の多い表現に、俺は魅力を感じているんだ。
写真と音楽。同じようにカメラなり楽器なりのインストゥルメントを用いる芸術なのに、どうしてこんなに、オーディエンスに与えるモノが違うのだろう。
ひょっとしたら、音楽には連続しつつ変化していく流れがあり、写真は逆に、連続しつつ変化していくものの一瞬を切り取るものであるが故かもしれない。瞬間の音楽にはイントロクイズのような使い道しかないし、微分化していくと、音は意味を失ってしまう。これは写真とは真逆だ。
一方で、連続する写真は、すでにアニメーションもしくは映画へと歩みをはじめ、別のものに変容しようとしている。
時に俺は悲しくなる。写真で、他者を熱狂させることはできないものかなと。とりわけ、このブログを読んでくれている君を、もっともっとワクワクドキドキさせたいんだがな。
Amsterdam
写真と音楽には、大きな相違点がある反面、両者の間に、俺が共通すると感じている項目がある。
それは、言語によるくだらない能書きによってオーディエンスを感動させるのではなく、目の前に示された画像や、耳に響く音色そのものによって、ストレートに人間の中にある何かを揺り動かし、感動させるということだ。
音楽を批評する言葉は、まやかしだ。それは何も生み出しはしない。
写真を眺めて、能書きを垂れる奴は、うるさくて不愉快だ。
どんな音楽も、百万言を費やした批評を聞くより、音楽そのものを聴くこと以上に、その音楽を理解する手立てはない。
どんな写真も、写真に関する解説を読むよりも、写真そのものを静かに凝視し、その写真に写されている時空に、そう、カメラを携えていた撮影者の視点にたって、その世界を感じること以上に、写真を理解する手立てはない。
俺は、そう思う。
つまり、音楽も写真も、ロジカルな言説では捉えることのできない性質のものだということだ。決して網にかからない魚のようなものか。どんな音楽か、何を写した写真かは、言葉で伝えることはできる。しかし、その本質は、言説によって表現されるものではなく、音楽そのもの、写真そのものによって表現され得るものであるべきなのだ。
写真も音楽も、自分のいる世界を一旦棚に上げて、感覚で楽しむものなのだと、俺は考えている、いやむしろ、感じている。それには本来、マニアックな知識など必要ではないと確信している。
もし、音楽や写真を補完する言葉があるならば、それは詩的な言葉だろうと思う。
読者諸君、今日は珍しく日頃自分が思ってる事を書いてみた。いい年こいて、こんなことを毎日ぼんにゃり考えながら生きている。あぁ、ひょっとしたら、写真で他人を熱狂させられないのは、俺の写真がヘボってことかもしれないな。その可能性も考慮しておこう。失礼する。

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