2011/12/12

Post #394 12/Dec/2011

朝、起きて開口一番、今日は何して遊ぼうかななんて、子供から学校をとったようなことを口にしながら、結局、これということもせず、一日が無為に終わってしまった。まるで、冬眠するケモノのように、いくらでも眠ることができるのさ。
久しぶりに知り合いの女性から連絡があって、このしょうもないブログを読んでくれているっていうんだ。ブログを読んでくれているのもうれしいが、女性から連絡があるってのが、これまた何って訳じゃないけれど、心がときめく男の性さ。
ありがとう、Yさん。懐かしい君の為にも、オジサン頑張っちゃうぜ。
Paris
本日、暇潰しに近所の本屋に行き、スーザン・ソンタグの歴史的名著『写真論』(近藤耕人訳 晶文社刊)を購入。まだ一章読んだだけなんだけど、写真についての考察が、恐ろしく深い。一章よんだだけでも、写真に関して、さまざまな考察が行われている。もちろん、誰か特定の写真家の撮った写真に対する評論ではない。いわゆる写真全般に関する論が展開されているんだが、なるほど、これは『写真とは何か』についての記念碑的な書物だと納得したぜ。
そこでいつものように、引用してみよう。
『・・・(前略)・・・、写真をとる行為にはなにか略奪的なものがある。人びとを撮影するということは、彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、また自分では決して持つことのない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである。それは人々を象徴的に所有できるような対象物に変えてしまう。ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲しげでおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。・・・(以下略)』
ふむ、なるほどね。この事自体は、俺も自分で常日頃から意識していたことなんだけどね。その感覚は、写真を撮ることの持つ、ある種のうしろめたさに裏打ちされている。
俺が写真を撮って歩いていると、オマワリによく職務質問されたり、時には自分が写されたと思いこんだ女性や黒人男性から、抗議されたりする原因の根源は、どうやらこのあたりにありそうだ。だとしたら、それで生計を立てているかどうかにかかわらず、警察によって職務質問されたり、被写体とされたと感じた人々から抗議されることによって、俺は本当にフォトグラファー=カメラを持った略奪者だと周囲から認知されたってことにならないかい?イイね、調子にのっちゃうよ。

そう、カメラを持ったソフトな殺人者。それが俺なのさ。

しかし、その一方で写真によって、消え去りゆく景色やいずれは死にゆく定めの人々を、無情な忘却と、無差別な破壊から、救っているようにも感じているんだけれど。

そう、カメラを持った無力な救済者。それが私です。

読者諸君、そろそろ眠くなってきた。失礼させてもらうぜ。殺人者だろうが、救済者だろうが、どっちだってかまやしないさ。俺が写真を撮り続けることに、何の変りもないんだからな。
では御機嫌よう。また会おう。

0 件のコメント:

コメントを投稿