2012/02/24

Post #469 24/Feb/2012

昨日の真夜中、仕事を前途有望な若者たちに任せ、車を飛ばして家路を辿ると、コンソールにタイヤパンクのアラームが出ていた。スタンドで見てみると、後輪にがっちり釘のようなものが刺さっている。うむ、仕方あるまい。今日は世のサラリーマンの皆さんと仲良く電車通勤と洒落混むとするか。例によって痴漢に間違えられないように、注意が必要だ。この世界は悪意に満ちている。
で、今日は少し俺の考えを述べてみようか。なに、所詮は俺ごときの考える事、たかが知れてるってもんさ。気楽に行こうぜ。
ニンゲンという奴は、俺もあなたもひっくるめて、相互に交換、共有し難い、それぞれの経験を生き、その蓄積として、個々の世界認識を持っておるわけです。身の回りから宇宙の涯にまで拡張するそれぞれの世界認識という基盤が異なっているため、俺と貴方が同じ経験をしても感得認識する内容は、群盲象を撫でる が如く、似て否なるものでしかないと、思うのさ。子供の頃から思っていたが、自分の見ている信号機の赤い色が、君の見ている赤色と、同じとは限らないということさ。
しかし、俺たちニンゲンはその誤差を擦り合わせ、感覚経験を共有するなんて事は出来ないわけで、それぞれが各々の経験を基にして、コミュニケートするしかない訳でござる。

このとき、俺たちは、自分自身の経験をダイレクトに交換することぁ出来ないから、俺の経験は、俺の内部に一旦沈潜し、それまでの経験体験に基づく『概念』に統合されてしまう。
このとき、留意するべきは、この『概念』なるものも、あくまで個人の経験の蓄積に基づくものでしかないので、普遍的なものではありえないということなんだ。
つまり、君は猫を見かける。その猫は君が今までに目にした無数のネコのイメージによって受け止められる。
君のなかにあるネコの概念は、おそらく、多くの人々の持っているネコの抽象的な概念と、おおよそ重なりあっている事だろう。しかし、それが猫のように誰もが認知しているものなら、俺と君と彼等の間に、如何なる齟齬つまりギャップを生み出すこともなく、あってもごくごく僅かなギャップしか生み出さず、そのために、相互のコミュニケーションに妨げになることではなかろう。
しかし、それがより特殊性を帯びた経験体験であったなら、同じ言葉を話している両者の間にも、同じ事物を話題にしていながら、両者が脳裏に浮かべているものは、若干、或いは全く違うこととなるだろう。
これを最小限に止め、円滑なコミュニケーションを成立させるためには、あらゆる事物は、一旦我々のなかに沈潜し、個々の具体性を剥ぎ取られ、普遍的に認知されている『概念』に統合されていく必要があると言えよう。
そんなこと、考えてみた事も無くても、自らの行動体験に照らし合わせれば、何となく納得することじぁなかろーか?そのプロセスをすっ飛ばして話し合う時に、お互いの持っている『概念』のスレ違いにより、話しは噛み合わなくなるだろう。言うならば、自分の尺で物事を測っている事になるわけだ。
これはいかん、いかんぜよ。ケンカのもとだ。
どんな特別な経験でも、個人的なレベルのみで消化されている限り、そこから、誰にでも理解しうる道筋を見いだすのは、困難だ。その反面、芸術は、その辺の理解され難さによってある種の謎にも似た魅力を放つもの、つまり芸術として成立すると言えるかも知れない。そのためには、具象から抽象的な『概念』という回路を持つ言語から、ある程度の距離感を獲得する必要がある。しかし、全く『概念』や『共同幻想』に呑み込まれてはならない。その辺のさじ加減が難しいのだ。
Bruxelles
モノクロ写真の魅力には、色情報という具象具体的な情報を、画面から削ぎ落として、『概念』のほうに一歩踏み込んでいる事に由来する。と、同時に、写っているものは、二度と同じ構図を顕す事のない為に、これ以上はない程の具体性を放っている。
必要以上に、写真にキャプションは必要ないという俺の考えは、実はその辺によるものなんだ。
俺の写真が単なる俺の現実逃避のなぐさみものではなく、俺のなかで、普遍性に至る道筋を獲得して、貴方がたにとっても、ある種の経験の雛型として響くことが出来たなら、その道筋さえ明らかになれば。
読者諸君、失礼する。睡眠不足だと、いろんな妄想が頭のなかを駆け巡るのさ。

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