2012/03/12

Post #485 12/Mar/2012

HongKong
上っ面の言葉ばかりが世間に満ち溢れているように思う。
『絆』という言葉が大流行の一年だった。結構すぎて、異論を唱えると非国民扱いされそうだ。
別に非国民扱いされることは構わないけれど、一億総絆と言ってる陰で、政治は停滞し、原発の再稼働が着々と進められ、東京電力は独占経営を続けている。まるで、私たちは口当たりよく、耳に心地よい言葉で、ごまかされているように感じる。まるで大本営発表だ。大政翼賛会だ。進め一億火の玉だ。
そんな状況に強烈な違和感を覚えるのは、わたしだけではないだろう。
スローガンやお題目を唱和したり、それに追従するのは、ゴメンだ。だからといって、高慢だと思っては欲しくはないものだが。
自分のとぼしい人生経験からして、本当に苦しいときに、涙をこらえて頑張っているときに、周囲から『がんばれ!』なんて言われるのは、なかなかツライものだ。しかし、世間では『絆』や『頑張れ東北』の大合唱だ。私には軽々しくそんなことは言えない。
もちろん、取り立ててなにか復興のために身を切って努力しているわけでも、被災した親族がいるわけでもないので、自分にはそんな言葉を軽々しく言う資格もないと思っている。いい年して情けないことに、自分の生活で精一杯だ。
だから、日本中の『絆』インフレーションには、いささか辟易しているといったところだ。

本当に必要なのは、物事に直面したとき、それを自らのうちに沈潜させ、普遍的な何かを汲み取り、あるいはまた、自らの体験に基づいていながら、誰にでも通じる普遍性を備えた自分自身の言葉を生み出すための、沈黙ではないだろうか。ジャンプする前にかがむようなものだ。
所詮、私たち一人一人の力は小さい。
この世界に対峙するとき、私たちは卑小で無力な存在に過ぎない。浮ついた言葉を発するよりも、黙って、自分の為すべきことを、為し得ることを、喜びも悲しみもなく、誠実に、実直に、為すことしか、私には思い至らない。
そして、その過程の中で、本当に自分が何かこの世界に対して、意義のあることを為し得る瞬間のために、自らの経験の中から普遍性に通じる鍵のようなものを掴みだし、自らの暮らしの中から、多様性に満ちた世界に対する認識と、それを十分に語りつくすことのできるような重みのある言葉を蓄積していくこと。
そんなことができたなら、その方法さえあれば・・・。
私は、誰のものでもない、自分自身の言葉を語りたい。
日々の卑小な暮らしのうちに、普遍性へと至る鍵を見い出していきたい。そして、言葉以上に、写真でこの世界の断片を集積し、自らの世界を構築していきたい。まぁ、心密かに日々そう思っているんだ。
読者諸君、失礼する。

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