2012/06/16

Post #566 TRANSIT #6

Helsinki
バスを降りると、そこはイカにもヨーロッパの都市といった趣だった。重厚で浮ついたところの無い、カッチリとした街並み。しかし、既に4月だというのに、道行く人々の装いときたら、俺に言わせればまるっきり真冬だった。よれた革ジャンでどこまで俺は耐えられるのかと、ふと不安になってきたってもんだ。
Helsinki

すでに随分と遅い時間だったはずなのに、まだ日は沈み切っていない。さすがは北欧だ。時間の感覚がおかしくなってくるってもんだ。
Helsinki
読者諸君、先日、写真家深瀬昌久が死んだ。もう20年以上前、新宿ゴールデン街の飲み屋の階段から落ちて以来、深刻な後遺障害を患っていたので、若い読者諸君は、ご存じないかもしれない。斯く言う俺も、森山大道をはじめ、さまざまな書き手によって記された深瀬昌久を知るばかりだ。そこには、男っぽい風貌のうちに、さまざまな苦悩を抱え込んだ不器用な愛すべき男の姿があった。写真を撮る理由を訊ねられ、『暇で退屈だからさ』とことも無く言ってのけるような無頼な男の姿があった。カッコいいなぁ。

俺の手元には、深瀬昌久の写真集が一冊だけある。
『鴉』だ。この写真集を作るため、深瀬昌久は屠畜場に通い詰めたという。

『鴉』は凄まじいほどイイ写真集だ。

機会があったら、あなたも君も、御覧になる事をお勧めするよ。ただ、今時の写真とは異なる、情念の重さがズシリと伝わってくるような写真集だから、覚悟してみたほうがイイかもね。決して、『この写真ステキ♥』とかで済ませられるような写真集じゃないんだなぁ。最近は、そんな写真集って多くないかもしれない。『暇で退屈だから』なんて言う軽い写真ではなく、ズシリと重たい写真だったなぁ。
写真家が死んでも、写真は遺る。それが、写真のおそろしさでもあり、素晴らしさでもあり、あざとさでもあるかと思う。
あらためて、『鴉』をじっくり見ることが、深瀬昌久への供養になるように思うんだが、どうだろうか?
読者諸君、失礼する。深瀬さんのご冥福を心からお祈りする。

2 件のコメント:

  1. photographのT・Sです。深瀬昌久が死んだことをこのブログで知りました。「鴉」は何回も立ち読みしましたが、今、ちょうど図書館から借りてじっくり見ているところでした。解説に深瀬昌久の孤独の深さに戦慄を感じ、社会に対する精神失調者と書かれていますが的確な指摘だと思いました。深瀬昌久が猫を撮った写真集を見たことがありますがとても可愛らしく猫が撮られていました。多分、本当に心を許せたのは猫だけだったんじゃないでしょうか(いいすぎかもしれませんが)。
    ぼくのブログの方に浮浪者風の人物を撮った写真が気になるというコメントをいただきましたが、なかなかお返事しづらいなと思っていました。自分にとって重要な写真だったからです。説明不可能なほど強烈にあの人物に惹かれて見かければ撮っていました。なぜ撮るのかと聞かれれば答に窮します。ただ、僕の好きな画家に鴨居玲がいますがインタビューで、「どうにもならない時があるでしょう。助けてほしい時、よくありますね。自分の人生の中で……。どうしようもない時がね。そういう瞬間を浮浪者の姿を借りて描いている」と答えていますが、なぜ撮るのかと自問した時この鴨居玲の言葉は自分にスッと入ってきました。鴨居玲みたいな天才の言葉を借りて自分の行為を説明するのは後ろめたいですが。ぼくのブログのカラー写真は昼間に街を歩くだけで撮れるので、真剣にやればいくらでも量産できる類の写真ですが、あの人物を撮るのはこちら側の内面も同時に考えさせられるものでした手にされません。それが悪いことだとも思いませんが自分は苦。ただ、もうあの人物を見かけることはなく、もう撮ることはできませんが。
    写真のレビューなんかに参加すると、ギャラリーの人から何故、どうして、なんで写真撮ってるのと言われますが「暇で退屈だから」といえたらどんなにいいだろうと思います。アーティストステートメントという言葉がハバを聞かせそれなりの必然性や理屈を説明できなければ相手にされません。それが悪いことだとは思いませんが自分は苦手です。もっとも、深瀬昌久が本当に「暇で退屈だから」写真を撮っていたとは思えませんが、そこには本音も少しはあったんじゃないかと思います。
    長いコメントですみません。深瀬昌久の死に衝撃を受けたので長くなってしまいました。

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  2. T・Sさん、いつも真剣で誠実なコメントをありがとう。
    深瀬さんは、なんというか20年前のあの事故自体が、一種の緩慢な自殺のプロセスでもあったような気がします。今は安らかにとしか言えません。
    浮浪者の写真の件、あのシリーズはズシリと迫るものがありました。きっとあなたにとって、重要な写真なんだろうと思っていました。それについて、軽々しく何か言うことは、どことなくあなたに対して失礼な気もするので、万感の思いを込めて(ここ重要なポイント)、『そうなんだ』としっかり受け止めておきます。

    僕自身も深瀬さんと同じく、写真とは所詮、暇潰しだと思っています。しかし、この暇潰しというのが、人生という不如意でしかも限りある時間と自分の境遇における『暇潰し』であるというところが、論理をぶっちぎって言葉と裏腹な比重を生んでいきます。
    深瀬さんの言葉も、単なる韜晦ではなくて、360度まわった言葉、つまり一度突き詰めたうえで、もう一度同じところに戻ってきたようでいて、実は次元が変わっている言葉だと、かつて僕は解釈しました。この言葉には、ホントーにびっくりしましたよ。
    生まれたくて生まれてきた人は誰もいません。しかし、生まれちまったからには、この人生という与えられた時間=暇を、何かに夢中になって生きてゆかねばなりません。
    言うなれば、道楽です。
    道楽であるがゆえに、打算も無く見返りもなく、面白ければ何でもいいと思います。
    インディペンデンスな道楽者に理由もへちまもありゃしません。楽しい(裏腹に凄く苦しい)からやってる。それで十分です。しかしそれでは、商品として、成立しないから、それらしい理由が求められるのではないかと思います。
    そういえば、森山大道は『写真を選んだのではなく、写真に選ばれた』と言ってますね。これもまた、凄い言葉です。



    最近は、息をするように自然に写真を撮りたいもんだなぁと考えています。



    いつも、結局自分自身のことに話が収斂してしまい申し訳ありません。反省してます。T・Sさんとは、何時かサシで話しあって見たいものです。

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