2012/07/30

Post #601

暑い日々が続いている。
この何日かの間に、いろいろとあった。92歳の祖母が、一時危篤状態になったりもした。この祖母には、いろいろと世話になりとおしだった。俺の栄光を見せてやらねば、死んでもらう訳にはいかないぜ。
仕事の見通しが今一つ立たないので、豊川稲荷の別院でお祈りしたら、次の日からドバドバさばき切れないくらいの仕事のオファーが舞い込んできやがった。何といっても、祀られているダキニ天に『俺が死ぬ時には、肝臓を差し上げますから、じゃぶじゃぶ儲けさせてください』と、切実にお祈りしたんだ。豊川稲荷に祀られているのは、実はインド出身の女神、ダキニ天なのだ。ダキニ天はもともと、人間の生き胆を喰らう悪鬼羅刹の類だったんだ。平清盛も、このダキニ天を信仰していたという伝説があるほどだ。さすがだ。しかし、浮かれれていてはいけない。どんな仕事も金を握ってからじゃないと安心できないもんだろう。
色々なアイディアが浮かんでは、忙しさにかまけ、暑さにヘキエキしている間に、それらは消えていく。生きていくだけで精いっぱいってことだ。それはまったく人類にとって、大きな損失だ。俺の偉大なる才能が、虚しく浪費されているぜ。
いずれ、落ち着いたら何らかの形にしてみたいのだが、落ち着くなんてことがあるのかどうか・・・?まったく、貧乏ヒマなしとはこの事さ。プリントだって、この調子じゃ11月くらいまでやってるような暇はないってところなんだ。結構なことだ。しかし、どうせたいして儲かりゃしないがね。
HomeTown/Nagoya A Philippina
読者諸君、失礼する。また会おう。

2012/07/20

Post #600 さんざん書き散らしてきたもんだ

読者諸君、このブログもついに600回だ。関係者諸君、どうもありがとう。
さんざんいままでお喋りしてきた。言いたいことはまだまだ山ほどあるような気もする。しかし、余りにくだらない政治の話しや社会を騒がす事件に関して、バカらしくって何も言う気になりゃしないってのが正直な気分だ。
OK、みんな好きにやってくれ。俺も好きにやらせてもらおう。いままでも、ずっとそうだった。誰かに言われても改まるわけもない。これからも、俺の持ち時間が尽きるその日まで、そうさせて頂くぜ。
てなわけで、今日は久々に一挙8枚写真をUP。
自分で言うのもなんだけど、改めて今までUPした写真を見返してみると、これはスゲー強力だ。下手っぴだが、ガッツがある。そんじょそこらの写真とは一線を画する黒っぽさだ。俺はその力強さに驚き、満足し、自分の写真に確信を持つ。俺は間違ってない、間違ってるのは社会のほうだと。
下らないお喋りよりも、写真のほうがきっと雄弁だ。分かる奴には解かる。分からない奴には分からない。そういうもんだ。
Osaka
Barcelona
Tokyo
HongKong
Paris
Bruxelles
Fes,Morocco
HomeTown/Nagoya
 失礼する。また会おう。

2012/07/19

Post #599 久々に夜の仕事

HomeTown/Nagoya
この投稿を公開する頃、俺は仕事をしているんだ。久々に夜業だ。しかも3タテ、つまり三日連続だ。昼間にも仕事が入っている。眠らないぜ、稼げるときに荒稼ぎだ。この資本主義の世の中、いくらキレーごとを言っても、とりあえずは金を稼いで飯を食っていかなけりゃならないんだ。俺はフリーランスだから、会社は俺を護ってくれないからな。
で、そんな仕事に備えて昼間のうちに眠っておきたいんだが、これがなかなかどうして、朝から電話はかかってくる。しかも、この暑さだ。眠っていても汗まみれ。眠れる時に眠っておくのも仕事のうちなんだが、おちおち眠ってなんていられやしない。
どうしたもんか思案しているのさ。
さて、次回でこのクソブログも600回。写真は既に、900枚を超えている。
飽きずによくも続けたもんだ。ひょっとすると、やってる本人より、読んでくれている読者諸君のほうがとっくに飽きて飽きて、呆れ果ててしまっているかもしれない。
まぁ、そんなこともあるだろう。
今後、どうしていくか考えるにはいい区切りだ。無理せずのんびりやって行くのか、今まで同様走り続けていくのか。しかし、下手に休んだりしていると、俺の身に何かあったかと無用な心配をする友人までいるから、注意せねばなるまい。こう暑くっちゃ、下手に昼間っから暗室に閉じこもって根を詰めてプリントなんぞしていると、マジで熱中症になっちまって死にかねん。ころりと死ぬならまだしも、後遺障害なんか残ってヨイヨイになっちまったら目も当てられないぜ。
読者諸君、失礼する。ここはひとつ思案のしどころだ。

2012/07/17

Post #597 引っ掛かってること

Osaka
毎日の夜のニュースには、必ずスポーツのコーナーがあるけれど、文化芸術のコーナーってないよねぇ。それが不思議なんだよ。どうしてスポーツばかりが報道されるのか?
例えば、今週はある作家の新刊が出ますとか、どこそこの美術館でこんな展示が始まりましたとか、ほんの5分でいいからあってもよさそうなもんですけど、どうですかねぇ。
そういえば、スポーツ新聞ってのはあるけれど、芸術新聞とかって聞いたこともないですね。申し訳程度に、新聞の中ほどに文化欄なんてのが週一くらいであるにはありますが。
スポーツってのはとんでもなく盛んで、すそ野が広くって、文化芸術ってのは、それほど興味関心を持たれないもんなんでしょうか?だとしたら、さみしー話です。
そういえば、野球選手やサッカー選手になりたいとかいう坊ちゃんはたくさんおいでですが、画家になりたいとか作家になりたいとかいう子供には、なかなかお目にかかることはないですね。写真家になりたいとかいうひねくれたガキがいたら、僕、きっと可愛がっちゃうでしょうけど。

みんな野球やサッカーのこと、そんなに気になるもんですかねぇ。中日のことは気にならんでもにゃぁけどが、どうしてそればっか毎日TVで取り上げないかんの?って思います。
オリンピックやワールドカップ、それらは一種の代理戦争ですから、戦争中に鬼畜米英とか言ってた人たちの子孫たる私たち現代日本人は、そんな機会には一挙に先祖返りして、ナショナリズムの炎が胸中に燃え盛ってしまうんでしょうか。

どうにもこのニッポンの社会ってのは、いつまでたっても体育会系的なメンタリティが本流で、文化的なことちゅうのは、傍流扱いされておるような気がせんでもないんですが、僕の僻目でしょうかねぇ。
斯く言う僕は、今でこそ長年の現場稼業ですっかりスポーツマン気質と誤解されておりますが、
高校時代にはバリバリの文化系で、しかも他人とつるむのが嫌いでしたので、よくサッカー部や野球部の皆さんから意味もなく、衆を恃んだ喧嘩を吹っかけられておりました。
金子光晴の言う、健康で正しいということほど、人間を無情にさせるものはないというのは、ある意味ホントーだなと思いましたね。
確かに体育会的な人物ってのは会社組織と相性が高い人が多い気もします。その分、自分たちと価値観を共有しない者に対する寛容さには今一つ欠けているようにも感じていますが。
ですから、戦闘的な指揮命令系統の組織構造を持つ旧来型の企業さんには、やはり戦闘的組織の雛形たる体育会系の方々が好まれたようです。
何だかそれって、20世紀というか昭和というか、時代遅れな気がしますねぇ。

しかし、芸術家気取りの気まぐれボヘミアンばかりが集まった会社ってのも、意外な発想がもてはやされる昨今ですから、ちょっと面白いかもとは思いますが、如何でしょうか?ただしどうにも遅刻欠勤が多そうです。
まぁそんなことはどうでもいいかもしれませんけど、スポーツばかりがどうしてそんなに報道するに値するのか、僕は最近、どうもニュースのスポーツコーナーが始まるたびに、疑問に感じています。

2012/07/16

Post #596 無為、あるいはカール・ツァイスの風が吹く

暑くて何もする気になれないぜ。
暑さの盛りのうちは、家の中で窓全開で風を通してダラダラしている。まぁ、地球環境に負荷を極力かけないやり方だ。しかし、冷房も適度に入れないと自分の身体に負荷がかかってしまいそうだ。いやぁ、実際のところなんもやる気になれないくらいだから、かなりの負荷がかかっているんじゃなかろうか。まったくここ何日か無為に日を送っている。本当はいろいろとやっておくべきことがあるような気もするが・・・。
まぁそれはイイとしよう。
今日は行きつけのカメラ屋から注文していたトライXが届いたって連絡があったんで、連れ合いと取りに行ったんだ。店頭のPCで注文した際には納期一か月とか表示されてて焦りまくったが、意外と言うべきか、当然というべきか数日であっさり届いた。うむ、資金繰りが大変だな、俺も。
で、もののついでで店頭のカメラを見ていたら、うちの連れ合い、SONYのDSC-RX100って最近出たばかりの高級コンパクトデジカメに興味津々だ。
俺はお店の人に頼んで、実機を触らせてもらうことにした。
HomeTown/Nagoya
どことなくかつての高級コンパクトカメラを思わせるような、黒一色のボディにカール・ツァイスのバリオゾナーT* F1.8-4.9/10.4-37.1㎜が堂々と輝いている。もちろん、本家のツァイスじゃなくってタムロンかどっかでライセンス生産してるんだとは思うけれど、なにせ昔っから我が家はツァイス信者。エホバの証人が家に来ても、うちはツァイス信者だから帰ってくれ!というくらいの信徒っぷりなんで、これは大いに好ましい。ブランド力の無いレンズではイマイチやる気も盛り上がらんだろうというものだ。
余計な装飾の無い硬派なデザインは、俺の愛用の京セラ製コンタックスのT3にも通じるものがあって、グッとくる。ポコンと蟹の目玉が飛び出すようなギミックのストロボも、面白い。何よりもレンズのマウント部に設けられたリングを回すことで、絞りやシャッタースピードが感覚的に変えられることができるというのが、実用性が高くてイイ。下手にミラーレス一眼なんかぶら下げているよりも、よっぽど玄人っぽいというか、IQが高そうに見えるぜ。
もちろん、SONY製品だけあって、ある一定の歳月が経過すると、必ずどっかに故障が出るという、通称SONYタイマーも装備されていることは間違いないだろうけれど。しかし、久々に俺も連れ合いもむらむらくるカメラだというのは間違いない。まぁもっとも、俺はいつも言ってるように、フィルムカメラでいいんだけどね。
結局店頭在庫はないってことで、うちの連れ合いは注文することにした。いろいろと理由を述べていたが、要はそろそろ新しいカメラが欲しいってことだろう。それもイイだろう。夏の旅行も近いんだからな。
読者諸君、失礼する。


2012/07/15

Post #595 久々にELTOPOを観てたんだ

夕方、TVをつけると予定通りつまらなかった。いつものことだ。
仕方なく俺は、その辺に積んであるDVDから任意に一枚つまみだし見ることにした。映画を見て、イメージというか美的センスを養うのは、悪いことじゃない。写真を自分のイメージで撮ろうとは思わないけれど、撮るべき場面に立ち会った時、瞬時に気が付かず反射的に写真を撮れないようでは話にならんのだ。その反射神経を養うためには、やはりカルトな映画を観たり、いろんな写真集を見てみたり、美術館に行って絵を見てきたりすることが、絶対に必要だ。

今日俺が選んだDVDは、その点では申し分ない。1970年の傑作、アレハンドロ・ホドロフスキーの伝説的カルト映画『EL TOPO』だ。主演も監督自身だ。これは強烈な映画だ。ジョン・レノンはこの映画を見て、ホドロフスキーに当時の金で45万ドル払い、上映権を手に入れるほど惚れ込んでしまったくらいだ。
虐殺シーンあり、動物虐待的なシーンもあり、フリークスが次から次に出てきたり、黒人差別が露骨に描かれていたりと、どこを切ってもイケナイ映画の臭いがプンプンする。現在じゃとても作れないだろう。1970年前後という、奇跡のような時代だからこそギリギリ製作出来たんじゃないかと思う。俺自身は高校生くらいの80年代後半、リバイバル上映かなんかで見て、かなりの衝撃を喰らった口だ。
その頃、やはり映画を見た荒木経惟も強烈にインスパイアされたようで、写真時代紙上で『エロ・トポ』というタイトルで、S嬢、M嬢各一名、さらにはふんどし一丁の蛭子能収、平口広美をキャスティングして、エログロな荒木ワールドを強力に展開している。まぁ、名前が『EL TOPO』のパロディーって以外はなんも関わりないんだけど。そこはご愛嬌だ。
Tokyo
もう40年以上前の映画なんだが、これは映画史上に残るカルト映画なんだ。
ざっくり説明すると、前半はカルトなウェスタンムービー。最強のガンマン、エル・トポ(スペイン語でモグラ)は子供を連れて砂漠の町に現れる。そこはすべての住民が虐殺されていた。
エル・トポは住民を虐殺したならず者一味(これも倒錯者やホモ満載)を容赦なく撃ち殺す。そして、子供を置き去りにして、ならず者の首領の女と砂漠へと赴く。
エル・トポは砂漠で、様々な奇跡を現す。彼が撃った岩からは水が迸る。女はエル・トポの愛情を信じきることが出来ず、愛情の証しに砂漠にすむ4人の銃の達人を倒すように懇願する。
4人の達人は、どれもエル・トポの技量をはるかに上回っていた。しかし、愛欲に突き動かされるエル・トポは汚い手を使って3人まで撃ち殺すことに成功する。そして、最後の達人は、自然そのものと一体化した仙人のようなジジイで、銃さえ持っていなかった。それどころか蝶を捕まえるようなタモで、エル・トポの撃った弾丸を弾き返す。しかし、この老人は勝負にも自らの命にも、何の意味もないことを、自らの命を絶つことによってエル・トポに示す。
エル・トポは、4人の達人を倒したが、それによって彼自身の心は砕け散り、女にも捨てられ、瀕死のところをフリークスに拾われ、永い眠りにつく。
そして、数十年の歳月の後、目覚めたエル・トポは、既にかつての冷酷なガンマンではなくなっていた。彼は地下の洞窟に閉じ込められたフリークスを救うために、偽善と背徳と暴力に満ちた町に赴き、そこで得た稼ぎで、モグラのようにトンネルを掘っていく・・・。
まぁ、概略としてはそんな話だ。しかし、ストーリーは抽象的なシンボルを組み合わせることで、全体を通じて、身勝手で冷酷なガンマンから自己犠牲を厭わぬ聖者のような人間へと至る、主人公の精神の向上を描くためのものでしかない。言葉は最小限で、見る人間にくどくどと説明することはない。見るもの自身がその意味を考えてゆかねばならない映画なのだ。
そして、全編砂漠の明るい日差しの中、印象的なシーンが、時に残酷に、時に美しく繰り広げられる。ほんと、イイ映画だぜ、好き嫌いはあるだろうけどな。本当に良いものは、タイムレスにイイのだ。
こういうのを見ると、写真を撮る目も肥えてくるってもんだ。

読者諸君、失礼する。EL TOPO、機会があったら君も見てみるといいぜ。

2012/07/14

Post #594 フィルム写真への挽歌

Bruxelles
仕事でデジカメは使っている。そりゃもう便利この上ない。
しかし、毎度毎度言っているように、こういった写真をデジタルでやってみようとは思わないねぇ。こんな夜景を撮ったって明るくキレイに写り過ぎちまうだろう。手振れ補正なんてしてほしくないしな。気に入らなけりゃすぐに修正出来てしまうなんて、どうにも居心地が悪い。
俺は常々、イメージと違っていようが、不都合なものが写っていようが、ありのままに受け入れるものが写真だと思っているんだ。
思えば、俺がこうして拙いながらも毎日のように写真をUPし続けているのは、ある意味で日々先細り、消え去って行こうとしているフィルム写真への挽歌を詠っているようなものだ。
写真はいずれ死んで消えてゆく人々を写したものなので、どんな写真も遺影になっていく。同時に、そのフィルム写真そのものが、アマゾンの奥地に暮らす少数民族の話す言葉のように、消えていこうとしているなんて・・・。まったく挽歌そのものだ。
出来ることなら、若い人たちにフィルム写真の面白さを感じてもらうことができ、少しでもフィルム写真に取り組んでくれる仲間が増えてくれることが望みだが、俺の拙劣きわまる写真と文章じゃ、この流れに抗うどころか、一石を投じることにもならないだろう。残念なことだ。
一時期、ロモとかホルガとかのトイカメラが流行ったこともあったが、あれを入り口にしてフィルムカメラの奥の細道に踏み出していった若者など、とんと聞いたこともない。残念だ。
フィルムカメラ全盛期に、やれフィルムの粒状性がどうしたの、レンズの描写力がどうしたのと講釈を垂れていた年寄りたちも、今じゃすっかりデジタルに鞍替えしている。それどころか、新しい機種が出ると、すぐに買い替えたりする有様だ。カメラと嫁さんは新しいのに限るとか思ってるんだろうか?カメラメーカーに踊らされてるだけだって気が付けよ。
俺の近所のカメラ屋で、印画紙なんぞ注文しているのは、街中で俺一人だ。どうにもやりきれない。聞くところによれば、その店でもフィルムの集配が無くなり、俺のような物好きが出すフィルムは、宅急便でラボに送ることになったそうだ。価格に転嫁されないことを祈るぜ。なんせ、こちとら忙しくって、プリントするのが精いっぱい。フィルムの自家現像なんてとても手が回らないんだからな。
それどころか、フィルム用の現像プリント機を撤去してデジタル写真しか扱わなくなった店すらあるとも聞く。高校の写真部すら、最近じゃデジタルだ。俺に言わせてもらえば、モノクロフィルム写真こそ、写真のアルファにしてオメガ、つまり入門編にして究極なのに・・・。
俺はモノクロを自分でプリントするようになって、はじめて写真=Photographとは、光画、即ち光(=Photo)によって描かれる絵画(=graph)だと実感したんだ。こうなったら、いけるところまで俺一人でも突き詰めてやろうじゃないか。勝ち戦に加担するようなみっともない真似は傾奇者としては出来かねるというもんだ。先日もお盆の旅行に向けてトライXを注文したところだ。近い将来フィルムが無くなっちまったら、写真なんてきっとやめちまうだろう。引伸機は粗大ゴミの日に出してしまうことになるだろう。そして、フィルム写真が消えた時、写真は消え、イメージと呼ばれる画像のみが残る。それでいいのか?
まったく気分としては孤軍奮闘だ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の陽が落ちるだ。おっとこれじゃ、フーテンの寅さんだな。
読者諸君、失礼する。


2012/07/13

Post #593 東奔西走

Marrakech,Morocco
朝、4時に起きて雨の中、高速をひた走り、一路箱根へと向かった。
そして再び猛烈な雨と深い霧を抜け、家路を辿り、とんぼ返りで戻ってきた。
まったくもって東奔西走だ。我ながらご苦労なこったぜ。
眠い。しかし、頭の中をさまざまな考えが駆け巡る。
いやいや、仕事や金や女のことではないんだぜ。
この世界について、人間について、自分自身について・・・。俺は知っているようで実はなんもしらない。何が正しくて何が間違っているのか、感情論だけで判断したくはない。
いい歳をして、形而上の曖昧模糊とした事柄に思いを馳せる。
それは若者にありがちなことなんじゃないのとも感じるが、ある程度の人生経験を積んだがゆえにこそ、考えることができることってあるだろう?どうせ、どれだけ考えても答えなんかみつからないんだ。人生の暇潰しにはもってこいってところだ。
歳をとったからといって、精神まで老いぼれちまう必要なんてどこにもないだろう。

それはそうとエウレカセブンAOが、面白くなってきやがった。まいったなぁ・・・。
数少ない親愛なる読者諸君、また会おう。俺はいつだってここにいるさ。

2012/07/12

Post #592 沈思黙考

何も考えてないわけじゃないんだ。ただ、しばらく静かに考えていたいだけさ。世界のこれからや、自分に関することや、写真に関していろいろと考えを巡らせているんだ。そのうち、まとまってきたらまた君ともここで語り合おう。
Paris
とはいえ、昔っから下手な考え休むに似たりとは言うがね。
読者諸君、失礼する。また会おう。

2012/07/07

Post #587 帰郷 あるいは家庭円満の秘訣

土砂降りの雨の中、高速を駆け抜けて帰ってきた。
やれやれだ。とはいえまたもう一度、残工事で12日に箱根まで行かなけりゃならんのだけどね。
さて、こう見えて俺は家庭円満の秘訣を心得ている。出張したらお土産を買っていくことだ。今回は小田原名物鈴廣かまぼこ、一番安いので1本何と900円!俺が普段食っている1本98円のかまぼことは、えらい違いだ。しかし、高いだけあって、そのぶりぶりした歯ごたえがたまらないぜ。シリコンでも入ってるんじゃないかっていうくらいだ。
芍薬、俺の好きな花
それだけではない、わざわざ旧東海道に回り込んで、しゃれたバームクーヘンも買ってきた。ホールで1200円。先日、芦ノ湖にドライブに行った帰りに見かけてから、ずっと気になっていたんだ。箱根だからって、温泉まんじゅうばかりってのも、芸がないからな。
こんな時に、変な置物なんかを買ってくると、いつまでも残ってて、そのうちゴミになる。で、捨てる棄てないで言い争いなんかになったりすることもあり得る。要は不安要因だ。それならばやはり食べ物が一番だ。おいしいものを食べている時には、人はそんなに不幸な気分にはならないモノだからな。それになにより、あとはウンチになっておしまいだ。始末もいい。おいしかった記憶だけ残る。これも家庭円満の秘訣の一つだ。
しかし、やはり何と言っても家庭を円満に保っておく秘訣は、アレだ、意外なことに適度に家をあけることだ。いつもいつも顔を突き合わせていると、どんなに仲が良くてもストレスもたまるってもんだ。ストレスがたまると、些細なことで取り返しのつかない諍いになって、包丁で刺されたりすることだってあるだろう。恐ろしい世の中なのさ。
しかし、これもさじ加減が重要だ。俺の業界では、出張や単身赴任で家を空けすぎて、家庭が不仲になったり、離婚したりしたという話をよく聞くのさ。何事もバランス感覚が大切だってことだ。
しかし、3週間ぶりくらいに会った連れ合いは『私、あんたが家にいないのにすっかり慣れちゃった』とおっしゃっておいでだった。やれやれ・・・、苦笑いするしかないぜ。これが俺の人生だ。ロックンロールだ。
読者諸君、また会おう。

2012/07/06

Post #586 疼痛、もしくはイメージと現実の相克

明日で出張も終わりだ。明日、引き渡しを行えば、久々に家に帰ることができる。
今回の現場も、毎度ながら出来上がったものを見て、イメージと違うとか、なんか気持ち悪いとかいう漠然とした物言いによって苦しめられた。憤懣やるかたなく、かといってそれを誰にぶつけることもできず、ストレスを溜めこみ、挙句の果てに例によっていつもの左足の親指に疼痛を感じて、足を引きづり歩いている。毎度おなじみの痛風だ。たまらないぜ。むしろ、この疼くような痛みを感じないことには、仕事をした気がしてこない昨今だ。ロキソニンは手放せないぜ。
しかし、そんなものは放っておけばイイ。明確に伝えることができないような漠然としたイメージしか抱いていない方が悪いのさ。
出来上がったものを見て、イメージ云々なんて子供でも言える。イメージを形にするためには、地道で綿密なプロセスが必要だ。予算も工期もないのなら、それはなおさらだ。それがわかっていないタコが多すぎる。そして、その手のタコがいつもおいしいところをかっさらっていく。仕方ない、それが世の中の仕組みだ。タコが小躍りして喜んでるぜ。
実際に何かを造り上げるためには、寸法を測り、素材を加工し、それぞれの職人の技術を統合してゆかねばならない。そこには漠然としたイメージの付け込む隙は寸分もない。OK、分かったよ、次からはきっちりとそのイメージとやらを図面にしてくれや。二度手間はゴメンだぜ。
イメージ云々と抜かす分にはゼニはかからないが、実際に何かを造り上げるためには、何かと物入りになるんだ。人間は、タダでは指一本動かすもんじゃないんだぜ。どいつもこいつも、趣味でやってるんじゃないんだぜ。その技量技術を武器にして、この苛酷な資本主義社会で生き抜いているんだ、トーゼンだろう。
Ok、もし君が箱根に観光に行くことがあったなら、箱根観光の玄関口、箱根湯本駅の高架階段の下、国道一号線に面した和風の店を見つけたならば、そしてそれが某人気アニメの店だったならば、これがいつかスパークスが、痛風を起こしながら作った店だと思い出してくれ。
HomeTown/Nagoya
さて、写真でもその手の話しはよく聞く。
イメージと違うという話だ。
ファッション写真なんかの場合、多大な労力と資金をかけて、写真家の持つイメージに忠実なイメージを形作る。時には巨大なセットを組んだりすることもあるだろう。モデル、衣装、セットetc etc・・・。まるで、そこでは写真家はシャッターを押すプロデューサーのようだ。
そこまで行かなくても、モデルにあたる光の加減がイメージ違うとか、雲の具合がイメージと違うとか、まぁ、そんな話ばかりだ。御苦労なこった。とびぬけたイメージを持つ一流の人間ならいざ知らず、大抵の場合、月並みなイメージによって撮影された写真は、どこかで見たような月並みな写真にしかならない。それでも楽しければ結構だし、水を差すつもりもないが、写真は習字のお手本をなぞるのとは訳が違うと思うわけだ。
テキトーフォトグラファーたる俺の場合には、はなっからイメージなんて抱かない。
目の前にあるものにレンズを向け、盲滅法(おっとこれは差別用語か、まぁ構うもんか)シャッターを押すだけだ。所詮、写真なんて世界の断片なんだから。刻一刻と自分の周囲に展開し続ける(俺の)世界に対して、俺が勝手にどんなイメージを抱いていようが、それは容易に裏切られる。自分の抱いているイメージを世界は軽く凌駕するんだ。荒れ狂う波を両手で堰き止めるようなことをしても仕方ない。そもそも、自分の抱いているイメージなんて、所詮たかが知れている。風呂屋の富士山だ。
イメージを捨てて、現実を受け入れたらどうだい。
目の前の現実に直面した瞬間に、自分の持つイメージを超える何かを見い出し、頭で考えるよりも早く、反射的にシャッターをきる。
それによって、自分の周囲の世界との新たな関係性を構築することで、自意識は変容し、変革されてゆく、といいなぁ。
おいおい、これじゃまるで、中平卓馬ではないかい?よし、いいぞ。撮影行為における自己変革だ。
イメージ?
それは脇に置いといて、目の前のものをしっかと見ることから始めるんだ。
プリントもある意味そうだよな。イメージ通りに修正できるデジタルプリントじゃない、こちとら昔ながらのケミカルプリントだ。イメージ通りの結果なんて期待しないさ。もちろん、あるレベルまでの努力はするさ。しかし、いつだって自分の予想は裏切られる。そこで満足いくまで試行錯誤してはいけない。印画紙の無駄だ。現像液の中に現れたものを世界からのギフトとして受け取るんだ。
ようやく分かった。俺は写真の自然主義者だったんだ。

読者諸君、失礼する俺は今からもう一眠りするんだ。やっと赤だしの味噌汁が飲めるってもんだ。

2012/07/05

Post #585 憮然

まったく、どうしてどいつもこいつも、やっちまってからああだこうだ抜かすのか。不思議だ。
イメージと違うとか、気持ち悪いとか、やってる時に言ってくれるんなら、イイんだけどねぇ…。
まったく、冗談じゃないぜ。憮然として、タバコを吸うくらいしか出来ないぜ。
HomeTown/Nagoya
読者諸君、誰にだってそんなことはあるだろう。世の中はバカバカしいものさ。

2012/07/04

Post #584 本を読んだって賢くなるわけないが

今夜は久々に読書をしたいので、手短に。今更ながらの感はぬぐえないが、文庫版で購入したジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』上巻を読み始めたんだ。
昔、若い頃土方をしている頃、昼休みに本を読んでいると、掘方のおっさんが、『おまえ、本なんか読んだって腹も膨れないし、何の得にもなりゃしねぇぞ、バカじゃないか?』と言った時には、ちょっとしたカルチャーショックを受けたもんだ。
最近は、本はあまり読まない。出来ることなら、世界の真実が余さず記されている、たった一冊の本を何度も何度も読んで暮らしたいと思っているんだ。しかし、そんな本に出会うことができないんで、時折何かを無性に読みたくなってくる。
Osaka
まぁ、本なんか読んだって賢くなるわけじゃないけど、退屈しのぎにはなるだろう?それで充分さ。
読者諸君、失礼する。

2012/07/03

Post #583 永年の疑問

どこまで強くなったら、よいのだろうか。
子供の頃、空手バカ一代を見ながら、そう思っていた。
どこまで金持ちになったら、よいのだろうか?
どこまで有能になったら、よいのだろうか?
どこまで豊かになったら、どこまで有名になったら、どこまで権力があったなら、満足できるというのだろうか?
そうして、世界の頂点を目指して生きていくことで、人間は幸せになれるのだろうか?
かつては、人間は自分の周囲のコミュニティーの中で、ほどほどの能力を発揮するだけで、有能な人間として評価され、尊敬されていた。しかし、ネットによって瞬時に世界と個々人がつながってしまう今日では、世界の最高峰に上り詰めなければ、尊敬も評価もされない。『一番じゃないとダメなんですか?にばんじぁダメなんですか?』ということだ。そんな苛酷な世界の中で、いつまでも我々はより高みを目指して、競い合い、相争って生きてゆかねばならない。ひとたび無能者の烙印を押されれば、まことにもって生き辛い世知辛い世の中だ。
しかし、人間は競争が大好きだ。そろそろ、誰かと比べて優れている、勝っているというどんぐりの背比べ的な相対的な価値観から脱却して、自分御中に絶対的な尺度を持つことが出来たらいいのにと思う。評価?勝手に言わせておけばいいさ、どこ吹く風さって態度だ。
Kyoto

人間の望むことにはきりがない。しかも、どこまで這いあがって行ったとしても、必ず上には上がいる。そしてもし、世界の頂点に立ったとしても、それはほんの一時のことで、誰も彼も、この世界という舞台から、たった一人で退場してゆくときがくる。

永遠不滅のものでないものは、実在とはしないというのが、大乗仏教の空の哲学の根底にある。
その意味では、自分自身というのも、何のことはない、世界に生起した一瞬の夢幻の如き儚い現象に他ならない。世界そのものを、まやかしの夢幻の如きものととらえているのだ。何故なら、それは一瞬も定まることなく、流転し続けているからだ。
だから、世界は実在しない。もちろん、仏という存在も仮のものに過ぎず、存在しないモノなのだ。よく世間で有難そうに唱えられている般若心経なんて、この世界に存在するモノは、実はどれも存在せず、私たちが感じる眼耳鼻舌身意の感覚と認識の全ては、幻に過ぎないと喝破したものだ。余りのアナーキーさにひっくり返るというもんだ。

少年の頃は、仏教の思想の根幹に、自我の放擲があることに強い反発を感じた。しかし、今は自分という存在は仮のものに過ぎず、いずれ時間の破壊力の前に粉々に粉砕され、世界の全体性の中に回収されてしまうものだということが、なんとなく、一抹の虚無的な恐怖感とともに実感できる。
いや、むしろ自分自身すら、単なる現象として突き放して生きる方が、ひょっとしたら幸せに生きて、死んでいけるのではないかとさえ思えてくる。キン肉マンであった『この頭の痛みは俺の痛みじゃない!』って思いこむことで、敵の攻撃を無効化するわざと通じるものがある。

さてと、実のところ俺は、無能な人間こそ、本質的で本来的な人間の在り方ではないのかと、ここ何年も感じている。実際に周囲の無能な人間に煩わされるのを嫌い、その手の人々を避けているにもかかわらず。
実際のところ、自分も含めて誰も彼も、英語力だのプレゼン能力だの、コミュニケーションスキルだの、何やらかんやら少しでも能力を磨き、自己資本=この資本主義社会の中での用途の大きさと多様さの増大を図り、自己実現とやらに邁進している。まるで修羅の道だ。決着なんかつかない。
果たして、これが本当に幸福へと至る道なのだろうか?
永年の、大きな疑問だ。
一つ言えることは、俺には写真と音楽があれば、それでイイかなぁってことだ。所詮、人生は大いなる暇潰しのようなものだからね。人生なんて、生きて死ぬだけだろう。
読者諸君、今日は本当にいつも自分が考えていることの一端を書き記してみた。きっとそれには答えなんかないんだろう。だからいつも考えている。まぁ、いくら偉そうな事を言っても、目の前のことに全力投球するしかないんだけどね。

失礼する。独りでいると、いつもこんなことを考えている。底なしの穴の縁に立って、風にさらされているような気分だ。

2012/07/02

Post #582 再びコインランドリー

Tokyo
昨日は傘を持たずに仕事に出かけたので、帰ってきたときにはずぶ濡れだった。
こんな作業服じゃ、もう着られない。生乾きではなんだか濡れた犬のような臭いになってしまう。
俺は例のコインランドリーに行ってみることにした。これについてはPost #578を参照のことだ。http://fragment-sparks.blogspot.jp/2012/06/post-578.html
しかし、日曜日の夜は結構忙しい。何故って、NHKでダーウィンが来た、平清盛、NHKスペシャルを三タテで見なくちゃならない。今回もアフリカのハシビロコウという変わった鳥の漁のテクニックについて学び、平治の乱で葛藤する清盛を追体験し、ギリシャ彫刻は実は極彩色に彩られていたということに納得してから、コインランドリーに出かけることになってしまった。
さて、コインランドリーの例のノートには、やはり店主さんの書きこみがびっしりと記されていた。まるで宿題の添削のようだ。
それによると、何故かこのコインランドリーには場違いなSTEIDL刊のカール・ラガーフェルドの写真集『The Little Black Jacket』は、ある日、本棚の一番上に置いてあって、地震なんかで落ちてきたら危ないから一番下の段においておいたとのこと。
何故そこにこんなものがあるかということについては、あっさりと、単にある日あったというだけだ。もちろん、そんな高価なものだとは知らなかったので、誰か価値の分かる人がもらってくれるとありがたいといった趣旨のことが記してあった。
貰って行こうかな。絶滅危惧種の野生動物を、本来の生息域とは違う場所で発見し、保護するような気分だ。
そうこうしていると、プードルを連れたおばさん(といってもおそらく俺とそんなに歳は変わらないだろう。なにしろ俺もおじさんだからな。クソッ!)が入ってきた。客ではなさそうだ。するとこの人が店主さんか・・・。
店主さんは毎晩閉店時間にやってきて掃除をしている。ようだ。俺は他愛もない世間話をし、その流れで、おずおずと自分が例の写真集の書き込みのものだと明かした。
すると店主は、もらってくれるのなら有り難いくらいだ、ココにあっても、いずれ日に褪せ、ボロボロになって、ねこぱんちなんかと一緒に捨てられるのが目に見えている、とおっしゃる。
そういうことなら、頂いていくのはやぶさかではない。なぁに、これも何かの縁だ。おもしれーぜ。
店主さんは、散歩をしたくてうずうずしている犬にせかされながら、掃除を終え、洗濯物を乾燥させ続けている俺に電気を消して、シャッターを閉じてくれるように頼むと夜の路地に消えていった。
どうもありがとう、店主さん。大事にさせてもらうよ。
俺は残りの時間を、子供向けの宮沢賢治の伝記マンガを読んで潰した。
まったく、人生にはいろんな夜があるってことさ。
読者諸君、失礼する。そろそろ出撃の準備をしなくちゃならんのさ。

2012/07/01

Post #581 眠りたいのに眠れない夜

仕事は激戦区を脱してきた。この土日はどうやら消化試合だ。流せるときは流しておこう。
早々に宿に引き上げ、シャワーを浴びて、夕食を喰いに街に出る。もうコンビニ弁当にも飽き飽きだが、脂ぎった料理にも食傷気味だ。まぁ、いずれも豚のえさに毛が生えたようなもんだ。贅沢を言っちゃいけない。駅ビルの中に讃岐うどんの店があった。これはイイ。俺の前にはヨーロッパ人のカップルが並んで『It's very cheep restaurant!』とか言って喜んでいる。財布にも優しいが、おなかにも優しそうだ。英語のできるおばさんが、注文を手伝ってくれている。俺はトッピングしたいなんら、そっちから選ぶんだよとか教えてあげた。
うどんを喰って満足した俺は、宿に戻るとうとうとと眠りにおちた。
しかし、その眠りはやがて覚まされることになる。
このホテルの地下一階はライブハウスかなんかなんだが、これが土曜の夜だってことで現在深夜2時過ぎだというのに、どんがらやっていやがる。音としては聞こえないようになってはいるが、どうにも鳴り響いているだろう低音が低周波になって、俺の敏感な感覚にガンガン響いてくる。
眠れぬ。
Osaka
こんな時はどうしたらいいんだろうねぇ。耳栓をしてみたが、耳で感じてるんじゃなくて、魚が側線で潮の流れを感じ取るように、身体の芯で感じているものなのでどうしようもない。すぐそばのセブンイレブンに行って、ビールでも買ってきて、かっ喰らって寝るか?それはいかん、明日の男の仕事に差し支える。痛風の発作も懸念されるぜ。
ここはひとつ、方向性を替えて無理に寝ようとせずに、夜の散歩でもしてみるかい?深夜徘徊の不審者として職質されてしまうか?それともいっそ、金は貯まってないが疲れは溜まったこの体で、乱入して、朝まで一緒になってはじけまくってくるか?
難しい問題だ・・・。明日も俺は朝早くから仕事だっていうのに・・・。

読者諸君、失礼する。一体ぜんたい、地下のどんちゃん騒ぎはいつまで続くのか?というかビジネスホテルの地下に、そんなものがあるのって、そもそもどうなのよ?俺はそこんところがヒジョーに疑問だぜ。