2012/07/03

Post #583 永年の疑問

どこまで強くなったら、よいのだろうか。
子供の頃、空手バカ一代を見ながら、そう思っていた。
どこまで金持ちになったら、よいのだろうか?
どこまで有能になったら、よいのだろうか?
どこまで豊かになったら、どこまで有名になったら、どこまで権力があったなら、満足できるというのだろうか?
そうして、世界の頂点を目指して生きていくことで、人間は幸せになれるのだろうか?
かつては、人間は自分の周囲のコミュニティーの中で、ほどほどの能力を発揮するだけで、有能な人間として評価され、尊敬されていた。しかし、ネットによって瞬時に世界と個々人がつながってしまう今日では、世界の最高峰に上り詰めなければ、尊敬も評価もされない。『一番じゃないとダメなんですか?にばんじぁダメなんですか?』ということだ。そんな苛酷な世界の中で、いつまでも我々はより高みを目指して、競い合い、相争って生きてゆかねばならない。ひとたび無能者の烙印を押されれば、まことにもって生き辛い世知辛い世の中だ。
しかし、人間は競争が大好きだ。そろそろ、誰かと比べて優れている、勝っているというどんぐりの背比べ的な相対的な価値観から脱却して、自分御中に絶対的な尺度を持つことが出来たらいいのにと思う。評価?勝手に言わせておけばいいさ、どこ吹く風さって態度だ。
Kyoto

人間の望むことにはきりがない。しかも、どこまで這いあがって行ったとしても、必ず上には上がいる。そしてもし、世界の頂点に立ったとしても、それはほんの一時のことで、誰も彼も、この世界という舞台から、たった一人で退場してゆくときがくる。

永遠不滅のものでないものは、実在とはしないというのが、大乗仏教の空の哲学の根底にある。
その意味では、自分自身というのも、何のことはない、世界に生起した一瞬の夢幻の如き儚い現象に他ならない。世界そのものを、まやかしの夢幻の如きものととらえているのだ。何故なら、それは一瞬も定まることなく、流転し続けているからだ。
だから、世界は実在しない。もちろん、仏という存在も仮のものに過ぎず、存在しないモノなのだ。よく世間で有難そうに唱えられている般若心経なんて、この世界に存在するモノは、実はどれも存在せず、私たちが感じる眼耳鼻舌身意の感覚と認識の全ては、幻に過ぎないと喝破したものだ。余りのアナーキーさにひっくり返るというもんだ。

少年の頃は、仏教の思想の根幹に、自我の放擲があることに強い反発を感じた。しかし、今は自分という存在は仮のものに過ぎず、いずれ時間の破壊力の前に粉々に粉砕され、世界の全体性の中に回収されてしまうものだということが、なんとなく、一抹の虚無的な恐怖感とともに実感できる。
いや、むしろ自分自身すら、単なる現象として突き放して生きる方が、ひょっとしたら幸せに生きて、死んでいけるのではないかとさえ思えてくる。キン肉マンであった『この頭の痛みは俺の痛みじゃない!』って思いこむことで、敵の攻撃を無効化するわざと通じるものがある。

さてと、実のところ俺は、無能な人間こそ、本質的で本来的な人間の在り方ではないのかと、ここ何年も感じている。実際に周囲の無能な人間に煩わされるのを嫌い、その手の人々を避けているにもかかわらず。
実際のところ、自分も含めて誰も彼も、英語力だのプレゼン能力だの、コミュニケーションスキルだの、何やらかんやら少しでも能力を磨き、自己資本=この資本主義社会の中での用途の大きさと多様さの増大を図り、自己実現とやらに邁進している。まるで修羅の道だ。決着なんかつかない。
果たして、これが本当に幸福へと至る道なのだろうか?
永年の、大きな疑問だ。
一つ言えることは、俺には写真と音楽があれば、それでイイかなぁってことだ。所詮、人生は大いなる暇潰しのようなものだからね。人生なんて、生きて死ぬだけだろう。
読者諸君、今日は本当にいつも自分が考えていることの一端を書き記してみた。きっとそれには答えなんかないんだろう。だからいつも考えている。まぁ、いくら偉そうな事を言っても、目の前のことに全力投球するしかないんだけどね。

失礼する。独りでいると、いつもこんなことを考えている。底なしの穴の縁に立って、風にさらされているような気分だ。

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