2012/09/30

Post #637 本当の俺が分かるかい?

From The Who "Quadrophenia” Booklet, Phot by Eathan A Russel
1972年に発表されたThe Whoのアルバム、Quadropheniaは、ひとりのティーンエイジャーの青春と挫折を描いた、2枚組の大作だった。俺が初めて聞いたのは、まだ18くらいの頃だ。
ちなみにQuadropheniaとは、日本語に訳すと四重人格だ。メンバー四人それぞれに、テーマとなる曲が割り当てられ、それがお互いに絡み合い、全体としてトータルなアルバムとして(そう、まるでオペラかミュージカルのような音楽劇のように)作られている。
主人公として描かれるジミー少年は、60年代中ごろにイギリスを席巻していたモッズの一人で、細身のスーツを着て、ハデハデにデコったスクーターを乗り回し、夜通しクラブで踊りまくる労働者階級の少年だ。
彼は夜通し踊るために、アンフェタミンなどのドラッグを常用しており、週に一回、精神科にカウンセリングに行く。そして、精神科医に訊ねる。本当の僕が見えるかい?
そして、母親に俺は狂っているんだと言えば、その気持ちはよく分かるわ、何故ってそれはうちの家系だからって言われる。本当の僕が分かるかい、母さん?
そんな歌詞の爆裂ロックナンバー“The Real Me”からアルバムは始まる。そして、全編を通じて、一人ぼっちの自分、つまりI’m A Oneから、確固とした自己、つまりI’m The Oneへの成長が描かれる。
AとTheの違いは微々たるもののようだが、その違いはとても大きなものだ。まぁ、それも行き過ぎると、周囲から理解されない奇人変人になってしまう恐れもなくはないんだけれどね。
こいつは俺にとって、とても重要なアルバムで、LPも持っているし、CDはリマスタリングされたときに新たに買いなおしたくらいだ。最近、デモとかも含めた豪華なBOXセットが発売されたんで、買おうかどうか、ずっと迷っている。金の捨て所は他にもたくさんあるからな。けど、そのうちきっと買っちまうんだろうな。
しかしまぁ、音楽の好みは人それぞれだから、聞き流してくれて構わない。しかし、このアルバムで看過できないことは、同梱されているブックレットだ。
このアルバムの見開きのジャケット裏には、ギターのピート・タウンゼント自身によって、随分と長いジミーの物語が記されている。
このストーリーを辿るように楽曲は展開していくのだが、さらには写真家イーサン・A・ラッセルによるストーリーに沿った写真集が、単体のブックレットとして添えられている。ラッセルはビートルズのLet It Beのジャケットなんかも手がけている。ロックの周辺で活躍する写真家だ。CD版ではそれはちいさなものでしかないが、古いLP盤を手に入れると、その大きな写真から放たれる迫力には目を瞠るものがある。
全編、ざらりとした粒子のハイコントラストな写真が並んでいる。今にして思えば、少しエルスケンを思い出すようなタッチだ。
上にあげたのはそのうちの最初のほうのカットだ。労働者階級のジミーの(なんだか不味そうな)朝食と、ターゲットTシャツを着てひとり地下道を歩くジミー。日常の退屈さと、ジミーの抱える鬱屈が表現されているように感じる。俺は、このアルバムが好きなのと同じくらい、このイーサン・A・ラッセルの手による写真集“
俺は、写真を始めるずっと前から、ロックにまつわる写真を眺めて暮らしてきた。
それが、自分の写真に影響を与えているのは言うまでもない。
これはもちろん俺の写真、Amsterdamにて
俺は時折、自分の写真を見ては、そんなルーツを感じる。それが本当の僕の姿だと思い起こすように。
読者諸君、失礼する。明日も朝早いんだ。もういい加減働くのに飽きてきた。風邪で一晩寝こんだと思ったら、次の日にはもう35時間働きづめだった。そう、朝の7時から次の日の夕方6時まで働いていた。冗談じゃない。俺の人生は萎れているぜ。そろそろいい加減、俺自身のために俺自身の人生を生きていきたいと思ってるんだがな。しかし、生きていくためには、そうも言っちゃいられない。金だって必要なんだ。人生は夢と現実のはざまでいつだって揺れている。しかし、それもまた人生だ、ロックンロールだ。また会おう。

2012/09/27

Post #636 俺には解かったことがある

Fes,Morocco
俺はもう限界だった。とっとと現場をトンズラし、かかりつけの医者に向かった。一日中、激しい頭痛と怠さ。そして、眠気。受付時間を少し超えそうだと電話した俺は、『ダッシュで来てください』と言われ、赤に変わった瞬間の信号にスゲースピードで2回も突っ込んでしまった。もちろん、そのまま突っ切ったがね。
俺は風邪だったんだ。罹りつけのセンセーは見るまでもないってカンジだった。さすがだ。これが今時の若いセンセーだと、何だかんだと検査だ。それじゃ医療費がかかって仕方ない。若いセンセーは患者の顔色もよく見ようとはしない。その点、長いことやってるセンセーは大したもんだ、電話しただけで、俺が風邪だと判断していた。ついた時には、注射まで用意されていた。凄いもんだ。ほとんど超能力だぜ。
俺はここんとこ、ずっと風をひいていたのさ。俺はそれを年のせいだとか思い込んでいた。注射を打たれ、薬を処方され、少し眠って初めて分かったんだ。俺は、ただ何だかよくわからんウィルスにやられていたんだってことが。

読者諸君、失礼する。俺はまだまだ、ガンガン行くぜぇ。
おかしいと思った。

2012/09/26

Post #635 不思議な業界の慣習


Osaka
建築内装業界について、告発したい!
安全衛生法だの、建築基準法だの何だかんだを法令順守しろと、うるさく口うるさく言われるが、労働基準法だけは遵守しろなんて声は、一切聴こえない。
長時間、マシンのように働いて、疲労と睡眠不足で朦朧とした監督の指導のもと、これまた疲労困憊しきった職人が働いている。これでまともなものが出来ているのは、ホントーに不思議だ。あんまり不思議過ぎて、笑えてくるってもんだ。
読者諸君、失礼する。そんなこと言ってる当の俺自身が、睡眠不足でフラフラなんだよ! 

2012/09/25

Post #634 耳に残るはあの歌声

Osaka
今の現場は、休憩所がパチンコ屋に隣接している。そして、そのパチンコ屋はパチンコAKB48を強烈にプッシュしていやがるんで、休憩するたびに一日中AKBの歌声が聞こえてくる。
冗談じゃないぜ、この俺が、よりにもよってAKBかよ!しかも♫会いたかった~、あいたかった~、あいたかった~、Yeah!!♫とかが、頭の中をぐるぐる回りやがるんだ。
あぁ、いつもはジミヘンや、ツェッペリンやフーやジェフ・ベックなんかのハードロックが鳴り響いているのに・・・。いつになく疲れがたまるのは、朝が早いからだけではないんだろう。俺は、激しいロックを聞いていないと、身体の調子が悪くなる体質なんだ。ロックを聴くのはマカなんか飲むよりも、ずっと健康にいいんだろう。
だからいつも、帰りの車の中は、ロックをガンガン響かせている。頭の中にこびりついているお嬢ちゃんたちの歌声をソリッドなギターで、腹に響くベースで、不整脈になりそうなドラムで、ごっそり削ぎ落すようにね。昨日はJeff Beck、今日は日本の生んだ早すぎたパンクバンド、村八分。たまらんぜ。
しかし、疲れがとれなくなってきたのは、単に睡眠不足なのか、それとも歳の所為なのか。悩むところだね。
読者諸君、失礼する。とっととひとっ風呂浴びて、短くても深い眠りに落ちてゆきたいのさ。 

2012/09/23

Post #633 休みになると体調不良さ

HomeTown
仕事が休みだと、いつもなんちゅうのかなぁ、一挙に疲れが出て、寝込んでしまうことが多々ある。俺はもう中年だ。マカでも飲むべきなんだろう。情けないことだ。しかしまぁ、俺の業界は労働基準法なんて生易しいもので守られることなど一切ない非情な業界だ。おかげで若者はすぐに去ってゆく。中年になっても俺は若手扱いだ。無情の世界なのだ。そんな有様だから、たまの休みに倒れ伏していたっておかしくもなんともないぜ。
今日もどうにも寒気がすると思ったら、微熱があった。そんなことにも気が気がつかず、連れ合いに引きづり出されて、近所のイオンに行けば、寒気がしてどうしようもない。あんまり寒気がするんで、冬物の服を買ってしまったじゃないか・・・。まいったなぁ・・・。まぁ、気に入ったものは見つけた時に手に入れておかないと、あとで後悔するからな。まぁ今日のところはよしとしておこうぜ。
読者諸君、失礼する。

2012/09/22

Post #632 今夜はゆっくり眠りたい

HomeTown
疲れ果てているんだ。もう眠りたい。明日はなんとか仕事が休みになったんだ。ゆっくりと眠るんだ。仕方ないだろう、何も考えられないんだ。よって今日はこれだけ。失礼する。

2012/09/20

Post #631 意味という病

HomeTown
そんなタイトルの本があったような気がするが、浅学非才な俺はそれ以上のことは思い出せない。
昔の話だ、どうでもイイだろう。
今日、うちの連れ合いと話していたら、彼女の同僚で子供の頃、不安神経症というか凄い強迫観念に縛られていたという人の話しをきいた。たとえば、横断歩道の白いところしか歩けないとか、そんな他の人から見たら全く意味の無いことにこだわってしまって、どうにも生活が成り立たないというのだ。
なかなかにそれは大変なことだ。しかし、それは実は、人間のやることには意味がある、つまり何らかの合理的な説明がつくというコモンセンスによって成り立っているという前提があっての話しだ。
意味にこだわるのは人間だけだ。無意味なことをするのも人間だけだ。
大概の動物は、大脳が発達していないので、本能というか遺伝子に刻みつけられたコードに基づいた行動しかしない。だからさ、意味の無いことなんかしないわけだ。意味の無いことをやってると、すぐにほかの生き物のエサになっちまうんだからな、そんな余裕はこれっぽちもありはしないってことだろう。
大事なことなので、もう一度言おう。意味にこだわるのは、人間だけだ。意味の無いことをするのも人間だけだ。
しかし、それはその人間自身や、周囲の人間がその行いに意味を見い出すことができないだけっちゅうことなのかもしれない。
意味から逸脱するのは、人間が人間たる証しともいえるだろう。また、行動の持つ意味に執着するのも、これまた人間の人間たる証しというモノかもしれない。だからこそ、人間であるというのは、どこか意味という病にとらわれた一種の強迫観念を生きていることなのかもしれないぞとすら、俺には思えてくる。
俺は、意味の無いと思えるようなことに、熱中しこだわる人を見ると、ある意味、その人間らしさを羨ましく思うことすらある。それどころか、逆に俺たちの生の営みの全てとは言わないが、その大部分に、大した意味も価値もないんじゃないかって思えるときもある。意味の無い会議、意味の無い書類、意味の無い商品、意味の無いプレゼン、新商品の意味の無い機能、いい人生とか、有意義な人生なんて言葉に、疑念を生じているんだよ。
それどころか、意味の無いことをすると、評価が下がり、収入の減少につながるからやらないなどというセコい料簡で生きているのなら、餌をもらうために芸をする動物と変わらないのではないかといぶかしく思うことすらある俺なのさ。
そんな時、意味などなくてよい、ただここに在るだけでよいのだと、自らのうちに風のように吹き渡る虚しさを鎮めるように、言い聞かせるようにして一人小さく呟いてみたりもする。
有能でなくともよい、むしろ無能で無価値なほうが、より人間としてあるべき姿なのではないかとすら思えてくる。有能で組織の中で価値があると評価されているような人間なんて、意味という病にすっかり冒されている小賢しいだけのまやかしの存在なのではないか、ただここに在るだけで、俺達は既に尊く、この世界そのものから祝福されているのではないかという思いが頭をかすめ、自らの中で、意味と無意味が転倒し、自分の日々の生業すらも、つくづく意味の無いことのように思え、全てが色あせてしまったように思えてならず、独りため息をつく。

さて、写真だ。
出来うれば、意味や意図から自由な写真を撮りたく思っている。
目をつぶり、めくら滅法にカメラのシャッターを押す。そうして図らずも写ってしまった写真こそ、俺は面白いと思っているんだ。
撮影した俺の気持ちや思いなんか、クソ喰らえってもんだ。
もちろん、構図だの露出だの、被写界深度だの、シャッターチャンスだの、決定的瞬間だのはとっくに忘れ去ってしまった。どうでもイイだろう、そんなこと。
まぁ、そんな世間的に意味の無いような写真を撮ることにことにこだわり続けるなんて、まったく意味なんかないんだけどね。強いて言うなら自己満足さ。光と影によって浮かびあがる印画紙の粒子にとりつかれているんだよ、俺は。
俺はいつか、まったく真っ黒に焼き潰した写真を撮るに違いない。
いや、それとは反対に強い光で真っ白に飛んでしまい、何も写っていないような写真を、君たちに届けるかもしれない。
そのとき君たちは、いったい全体、この人は何を写したんだろうかって思うに違いない。
しかし、それは今まで君たちに見せてきた写真とまったく同じものが写っているにすぎないんだ。
そう、光と影。それが写真の全てだ。
そこにはこじつけたような意味も、持って回ったような思想も何かを告発したり、宣伝したりするようなものは、何もない。無いッたら、無い。光と影が在るだけだ。あとは何もいらない。
読者諸君、失礼する。また会おう。 

2012/09/19

Post #630 タブレットを買ってみたんだ

HomeTown
仕事柄、図面の束を持ち歩いている。そして、いつもどこかに置き忘れたりして、探し回っている。
同級生の眼科医野村君に老眼+1と診断されただけあって、細かい字は見づらくなってきた。昼なお暗い現場ではなおさらだ。
そこで、タブレット端末を購入してみた。俺は写真は頑なにアナログだけれど、こう見えて結構新しいモノ好きなんだぜ。流行に取り残されることと、確固たる自分のスタイルを持つことは同じではないということだ。写真はあくまで俺のスタイルとしてやっていることで、新しいモノが大好きなんだ。なんだかワクワクするじゃないか。
しかし、自分の趣味にうるさい俺のことだ、もちろんのこと世間で大流行のipadではない。ipadなど、俺が買わずとも、石を投げればipadにあたるというものだ。それは俺以外の皆さんにお任せしておこう。
なにしろ俺は長らくビートルズは聴かなかった男なんだ。それについては、いささか後悔しているがね。何といっても俺はいつでも反主流派だ、独立左翼だ。それに俺は右翼ではないが、日本企業の製品を買うことで、その企業の売り上げが上がり、借金まみれの国庫に税金を払ってもらうのが好きだからな。
俺が買ったのは先日発売されたばかりのSONY エクスぺリア・タブだ。一丁奮発して、メモリー64GBモデルだ。かなりの覚悟をして手に入れたってことだ。
いつも金がないと愚痴っているが、それくらいの金はある。必要経費という奴だ。経費も使っておかないと、俺のような弱小零細企業は、税金でケツの毛までむしられてしまうんだ。それは勘弁して欲しーもんだ。かわりにデカい会社にしっかり払ってもらいたい。
それはそうと、やはりこれは便利だ。たまらないぜ、PDF図面をぐいぐい大きく拡大してくれる。もう老眼なんて怖くないぜ。これが21世紀って奴か。
画面はぬるっと動く。それが嫌いな人には我慢できないだろう。俺は嫌いじゃないがね。
これでもう指に唾をつけて、図面の束をめくるのは卒業だ。なにしろアレはみっともないぜ、女の子には見せたくない姿だ。なぁに、俺は心と指先の乾いた中年なんでね。仕方ないだろう。
そういえば、随分前、名古屋駅前のジュンク堂書店の写真集コーナーで、如何にも会社の課長みたいなオヤジが、立ち読みしている写真集のページをめくる度に、指に唾をつけていたのを見て、とても嫌な気分になったのを思い出したぜ。もちろん、俺はどんなに素敵な写真集でも、どっかのオヤジのつばのついているような写真集はゴメンだぜ。当たり前だろう?
俺はあまりに不愉快だったから、『あんた、指に唾をつけてめくるんだったら、当然その本買うんだよなぁ』って、いささか不快感の混じったどすの利いた声で言ってやったんだ。そしたらおっさん、顔色を変えてその本をレジに持っていったもんだ。君たちも、そんな非常識な振る舞いをしているくせに、会社では常識人ぶってふんぞり返っているような阿呆には容赦なく鉄槌を下してやろう。その手の人間は、大抵人を見かけで判断するような手合いだと思うぜ。
またまた脱線だ。
まぁいい、今日はこんなところにしておこう。
明日も朝早いんだ。読者諸君、失礼する。

2012/09/18

Post #629 空は晴れてるのに雨が降ってるのさ

HomeTown
台風のおかげで、傘がぶっ壊れてしまった。気に入っていた折り畳み傘だというのに・・・。
現在、午前6時28分、空は明るく鳥がさえずっているが、時折強い風と共に、大粒の雨が降り込んでくる。台風のおかげさんで、変な天気が続いている。しかし、そんなことにはお構いなしに、仕事はこなさなけりゃならないんだから、おかしなもんだ。
俺自身の偽りない気持ちを言えば、台風の時くらい、家でゆっくり台風を楽しめばいいって思ってるんだけれどな・・・。どうにもこのニッポンの社会では、そうはいかないようだ。さて、少しだけ眠るとするか。今日も予定が目白押しだ。いつまでもぐだぐだいっテル暇はないぜ。

2012/09/17

Post #628 日本について考える

Kyoto
一昔前、日本と言えば、芸者、寿司、富士山、歌舞伎だった。今ならアニメか。日本人と言えば、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるその辺のおじさんのように、眼鏡で出っ歯で、なおかつ首からカメラをさげてるというパブリックイメージがあった。首からカメラを提げている人がやたら多いのは21世紀の今も変わりがないけれど。
目をいつもしばしばさせているどこかの知事の方なんかは、よく日本の伝統、日本の文化とかいうことを口にする。かつて政権の座にあった頃の自民党あたりからも、そのような復古的というか、伝統回帰的な発言をしばしば聞いた覚えがある。まぁ、保守の方々はアメリカにはべったりだったりするのに、すぐに日本の伝統だの、日本の文化だのとおっしゃる。そんなに日本の伝統が好きなら、いっそちょんまげでも結ったらいいのにとも思うが、そこまでするようなぶっちぎった奴はいない。和服姿で議会なんかに現れることも、まずない。そんなことからも、彼らの言う伝統文化というのは、どうにも胡散臭いモノだと思う。言ってる当の本人たちが、伝統文化だの歴史だのってわかってないんじゃないかって思えてくる。

彼らの言う日本の伝統なんてのは、せいぜいここ500年くらいの間に生み出されてきたものばかりだ。彼らの言う伝統文化の射程には、古墳時代も入っていないし、弥生時代も入ってはいない。
もちろん、縄文時代なんてこれっぽっちも見えちゃいないだろう。
もちろん、その時代の文化習俗、宗教思想なんかは文書で伝承されているわけではないので、あくまで学術的に精査し、比較的古い時代の痕跡をおおくとどめていると考えられているアイヌ人の文化や、日本各地にかろうじて残っている祭りなどの行事なんかを参考に推理推測して行くほかない。それはとても困難な作業だということは想像に難くない。だからと言って、それらを無視して日本文化を語ることはできないほどのものがあると思う。そう、日本文化の母胎だ。
ちなみに、全世界で最も早く土器を生み出したのは、1万3000年ほど前の日本人(縄文人)だと、君たちは知っているかい?そして、その系譜を受けておよそ1万年にわたって作り続けられてきた縄文土器や土偶は、今日の陶芸家が見ても、驚くほどの技術水準で作られていたりするものがあるという。もちろん、今日のように優れた機材があるわけではない。その辺に薪を積んで燃やし、その中に突っ込んだ粘度を焼くという、素朴な方法で作られていたにもかかわらずだ。
1万年と3000年前までさかのぼれば、日本の、そして日本人の本当の姿が見えてくる。
そして、ここ3000年くらいの間、この日本にはアジアの広い領域から、多くの民族集団が流れ込み、日本人に溶け込んでいったことだろう。そういった成り立ちを、忘れて、日本は単一民族とかいうのは、どうかなと思うぜ。第一、君の周囲を見渡してみれば、いろんな顔の日本人がいるだろう。それこそ、この日本人という民族集団が、様々な民族と文化を貪欲に呑み込んで吸収消化してきた揺るぎのない証拠さ。
歌舞伎や能、武士道、寿司、すき焼き?そんなものは長い日本の歴史から見れば、ほんの最近に出てきたものに過ぎない。昨日今日出たぽっと出だ。
能でも室町時代、やや遅れて成立した歌舞伎だって安土桃山から江戸時代初期、安土桃山の頃には、女だって歌舞伎に出ていた。まぁ、言うたらつい最近だ。
武士道だって出来上がったのは江戸時代だ。下剋上が当たり前の戦国時代には、主従関係といっても、単なる利害関係で、自分に理がないと思えば、さっさと主を見捨て、部下を見殺しにした。人間、そんなもんだ。
今日一般的に考えられている江戸前寿司の成立も江戸時代。すき焼きなんか当然明治時代。
さかのぼれば、さかのぼるほど、日本の伝統ってのものが、単に発言者のイメージに基づいて、任意の時代をお好みで持ってきて喋ってるだけの、あやふやな概念に過ぎないことがわかる。
江戸時代の武士道は、社会が平和になって、血の気の多い殺人者集団の武士団を、領民統治のための従順な官僚機構に組み立てなおすために、中国伝来の儒教道徳をもとに作られたイデオロギーだと俺には思える。支配者側の人間が、支配の道具として有難がるのは分かるが、一般大衆たる俺らがそう有難がったりするのは、筋違いってもんじゃないのかい?
日本文化とはなんなのか、日本人とはなんなのか、その答えの一端は、日本語を話し、日本語で考えるというところに根本的な鍵があると思う。それ以外に、日本人ってのを定義できるものはないんじゃないかって気がするぜ。日本語もおぼつかないくせに、TOEICだなんだって大騒ぎするのは、どうしたもんかねぇ。まぁ、いいけどね。

読者諸君、失礼する。今日も忙しいんだ。 

2012/09/16

Post #627 何だってすんなりはいかない

Kyoto
世間様は三連休のようだが、俺は工場の機械のようにフル稼働している。どうかしているぜ。
昨日の夜の仕事は、順調なようで、大きな波乱を含んでいた。世の中そんなもんだ。思ったようにはさっくりいかない。世の中はそんなに甘くないということか。
もう少しだけ眠っていたい。今夜も仕事なんだが、そのためにも眠っていたい。しかし、こう明るくちゃ、おちおち眠ってもいられないし、やるべきこともある。
まったく今日は愚痴のようだ。頭も回っていないしな。やっぱ、もう一眠りするとするか。
読者諸君、失礼する。

2012/09/15

Post #626 調子にのってもう一発




Osaka
土曜日は、結構忙しい。遊びではない。仕事だよ、仕事。
なんで今のうちに、もう一枚UPしておこう。
ここ最近、仕事で名古屋のどまんなかに行くことが増えた。11月の後半まで、嫌でも毎日通う羽目になるだろう。久々に歩いてみると、何だか写真を撮りたくなってくるもんです。
TRY-X買っとかないとな。
では、また夜更かししてると明日がつらいから寝ることにするぜ。なんせ明日は夜徹夜で仕事だからな。もうちょっと、楽して儲かる道はないのか?

2012/09/14

Post #625 つれあいに写真集を買ってきた

Paris
今日もまた、どうってことの無い一日が過ぎてしまった。俺の人生は有限だというのに、もったいないことだ。
それどころか、明日からの3連休、毎晩仕事。それどころか、今月の20日から2か月ほど毎日休みなく仕事が続くときたもんだ。それが終わるまでは、プリントなんてできそうにない。つまらないぜ。生きるために働き、働くことで人生が空虚になってしまうようでは、本末転倒ではないかね?
そんなどってことない一日にも関わらず、仕事の合間にふと、愛知県美術館の地下にあるNADIFFに立ち寄り、野口里佳の写真集『光は未来に届く』を買うてきた。お値段2500円+TAX。ただし、俺の趣味ではない。うちの連れ合いが野口里佳の写真が大好きなのだ。
野口里佳は、ほんの数冊しか写真集を出していない。それもごくマイナーなところからしか出していないし、部数限定だったりするんで、一般的にはあまり知られていない写真家だ。現在はベルリンに住んでいるということもあってか、蜷川美香のようには幅広く認知されてはいない。もっとも、世間一般的に言って、写真家なんてそんなにユーメーなモノじゃないだろう。
写真なんていまさら、どこにでも転がっているしね。そんなもんさ。

野木里佳の写真は、余り鮮やかではない落ち着いた色調のネガカラーで、どこか空虚な空間を感じさせるモノが多いように思う。空間の捉え方が独特だなぁ、と思う。余白の美という奴か。
また、物事の捉え方が、どこかフツーとはずれているようで、これも写真に独特の味わいを感じさせる。一言で言えば、けっこう渋い写真だ。野口里佳の写真は、いくぶん控えめでありながら、カッコたる独自の視線と感覚を感じさせるのだ。
『鳥を見る』『砂漠で』『太陽』などの写真集を出している。うちの連れ合いがかなり好きな写真家なので、それらはすべてウチにある。
写真の面白さを知るうえで、今時のPENガールなんかにも、彼女の写真を見て欲しいとは思うが、その手の女の子たちはそんな写真を撮ってみたいなんて思っていないかもしれない。

野口里佳は1971年生まれ。俺よりちょいと若い。しかし、宇宙の雄大な時間スケールからすれば、まぁ同世代だ。同世代というなら、1970年生まれの中藤毅彦のほうが俺の好みだ。彼はコンタックスG2の使い手だしね。
この写真集は今年、IZU PHOTO MUSEUMで行われた個展をまとめたもののようで、彼女のキャリアを俯瞰するには、少々枚数的に物足りない気もするが、今のところもってこいのモノだろう。
興味のある方はご覧になってはいかがかな。
まぁ、今日はどうってこともない一日だったので、こんなところで。明日は朝から晩までみっちりと仕事が詰まっていて、いろいろと忙しい。失礼させてもらうぜ。 

2012/09/13

Post #624 形あるものは必ず壊れる


BudGirl in My HomeTown
形あるものは、いずれ壊れる。当然のことだ。俺の場合は、その頻度が高い。自分でもうんざりする。
前回のインドネシア、シンガポールの旅行でも、2台のカメラを壊してしまった。
一台はデジカメ。結構長いことおもに仕事で使ってきたRICOHのCX1。
こいつは、ジョグジャカルタの王宮で石の床にポロリと落としてしまい、完膚なきまでに破壊された。
ピントの合わないデジカメなど、もはやゴミでしかない。仕事に差し障りが出るので、帰国して速攻、その何世代か後の後継機CX6を購入した。もちろん、経費でだ。痛い出費だった。
もう一台は、長年愛用の今は亡き京セラコンタックスのT3。
2台あるうちの一台だ。モノクロ用とリバーサル用で2台持っていたんだが、リバーサルフィルムの手持ちを使い切ってしまったので、使わない一台をカバンの中に入れていたんだ。カバンの中は安心のような気がするが、人生には往々にして思わぬ落とし穴が潜んでいるものだ。
シンガポールのインド人街にあるホーカース、つまり屋台村みたいなところで晩飯を食った後、うちの連れ合いが飲みかけのペットボトルを持って行ってくれと俺に頼んだ。
手にモノを持つのが嫌いな、俺はそのペットボトルを何の気に無しにカバンに放り込んだんだが、そのペットボトルのふたは、しっかり閉まっていなかったというわけだ。
宿への道すがら、モノクロフィルムを交換しようとした俺は、カバンの中にたぷたぷに水がたまっているのを見て、驚いた。カメラ、水没により故障。ストロボが、ジーっと不気味な音を立てて、光続けている。コンデンサーがイカれてしまったのだ。もちろん基盤も。
これも、帰国と同時に修理に出した。
ゴミにしてしまうわけにはいかない。去年も、池袋で警官に職質された時に、強引にフィルムをひきだしたことで、巻き上げモーターがイカれて、修理に4万円くらいかけた機体だ。
しかも、高級フィルムコンパクトなんて言う20世紀末の遺産など、現行機種ではないので、新しいものを購入するのも難しい。ならば中古でいいものを見繕うという選択肢もありだが、このT3、往年の名機銘玉だけあってか、なかなか最近は中古市場でもお目にかからない。とりわけ俺の愛用しているブラックボディーは、カワウソ並とは言わないが、ゲンゴロウやヨシノボリくらいには絶滅危惧種だ。環境省のレッドデータブックにカメラの項目があれば、記載されることは間違いない。どいつもこいつも使いもしないでしまいこんでいるのか?その気持ちは分かる。しかしカメラは使ってナンボじゃろう?俺に譲ってほしいぜ。そうしたら、俺がガシガシ使い込んであげよう。

さて、今日は携帯電話がぶっ壊れた。今年の3月に、それまで使っていた携帯を、怒りのあまり床に叩き付けて粉砕してしまった時に機種変更して手に入れたばかりのSonyのExperia NXだ。液晶にクラックが入り、画面を見るのに、強力な想像力と、尋常ならざる視覚神経を動員しなければならないという困った有様だ。液晶以外は、タッチパネルも生きているし、音楽の再生も問題ない。もちろん通話は可能だ。それがまた痛恨なカンジをさらにUPさせてしまうんだがね。
仕方ない。俺は最寄りのDOCOMOショップに行き、明後日には自宅に新しい携帯電話が送られてくるように手続きしたんだ。それまで視覚神経と想像力を駆使して、携帯電話を使ってみることにしよう。なに、それもある意味オツなもんだ。負け惜しみのように聞こえるかもしれんが、人生ポジティブに考えないと、ハゲル原因になってしまう。
あぁ~、せっかく今日は久々に行きつけの美容院に行って髪を切り、新しいZippoのライターを買ったり、アマゾンに注文していたCDが届いたりと、いい感じの一日だったってのに・・・。
何だか、がっくりですわ。
そんな液晶画面の大破した携帯電話に、カメラ屋からT3の修理が上がったと連絡が入った。
修理代30702円。
まったく、金がかかって仕方ないぜ。俺はこんな有様だから、いつもからっけつなのさ。人生はままならないモノさ。しかし、まぁ無事になおってよかった。
金は確かに惜しい。痛恨だ。しかしですねぇ、考えても見ておくんなさいよ、今は亡き京セラコンタックスのカメラなんて、そんじょそこらでポンと金だしゃ買えるようなシロモノじゃないんですぜ。これはカメラとの縁があって初めて手にすることができるモノなんですよ。言うたら、自分にお似合いの彼女を見つけるよりも、大変なんですよ。そう、金ならまた稼げばいいんだから、ココは良しとしておこうぜ。なにより俺はこれで貴重な教訓を得たんだからな。
そう、ペットボトルのキャップはしっかり締めろってことだ。

しかし書いてるうちになんだか俺の人生って、どうにも底の無い柄杓で水を汲む船幽霊みたいだって思えてきたよ。
読者諸君、失礼する。俺はちょいと落ち込んでいるが、懲りちゃいないぜ。

2012/09/12

Post #623 Fast Car Loud Music

HomeTown  BMW Z4 俺の一番好きな車
さてと、今から2,3時間眠ったら、車を飛ばして静岡まで仕事に出かけるんだ。
お気に入りのロックをデカい音で鳴らしながら、アクセルを踏み込んでいくのさ。音圧で思わず胸がドキドキするようなヴォリュームでThe WhoやJeff Beckを聴きながら、高速道路を走り抜けていくのさ。
そうすると、いつも俺は車に乗って移動しているんではなく、音楽そのものに包まれて、大地を疾走しているように感じる。きっと、とんでもなくアドレナリンが出ているんだろう。
サイコーに気分がイイんだ。いつか交通事故で死ぬんじゃないかって予感すらするぜ。

読者諸君、失礼する。4時30分には家を出なきゃいけないんだ。あと3時間ってところか、こんなことしてる場合じゃないな。さらば。

2012/09/10

Post #622 重力について考える夜

昨日は遅くまで働いた。
本来は今日は朝のうちに打ち合わせに行くだけにして、午後はプリントする気満々だったのだが、仕事が入ってしまったんだ。いったいぜんたい、何時になったらゆっくりプリントできるのか。きっとすっかり涼しくなってからだろう。
Barcelona
夕方、家に帰ると、ふと気になって中上健二の小説『地の果て 至上の時』を本棚から引っ張り出し、読み始めた。没後20年、既に中上健二は過去の人も過去の人だ。しかし、彼の突きつけた課題に堪えることなく、時代はかる~く過ぎ去ってしまった。
人びとから畏れられる男の子として生まれた主人公・秋幸は、本作に先行する『岬』で異母妹を犯し、それに続く『枯木灘』で異母弟を石で殴り殺す。そして、3年間の服役の後、故郷(そこは路地と呼ばれる紀伊半島の被差別部落だ)に還り、自らの服役中にすっかり様変わりした故郷の路地を見る。そこから、物語が始まるのだ。うう、まるで現代を舞台にした神話か英雄譚のようだ。
硬質で美しい文章だ。こんな文章を読むのは、久しぶりだ。眠さも疲労も忘れてぐいぐい引き込まれる。心が硬質な結晶に純化するように感じるほどだ。
扱うテーマ、主人公と彼を巡る登場人物たちの葛藤、どこを切ってもヘヴィーだ。文章に、ズシリとした重力を感じる。
そう、重力だ。軽やかさなどとは無縁。泥臭い方言を語る登場人物たちは、誰も皆心の奥底に狂気を秘めているようにすら感じる。その狂気の源は、むろん主人公たちに流れる路地の血、即ち非人として差別され続けてきた被差別民の血に起因することがわかる。
今時の小説が、ちゃちな安物にしか見えなくなってくるような重さが、文字の羅列から立ち昇ってくる。当節流行のライトノベルなど、文学に値しないということがよくわかる。
しばらくは、久々に中上健二を読んでみるか。なに、俺は中上健二の全集を持ってるんだ。チョイと持ち運ぶのには重たくて不便だが、なに構うものか。そこに描かれる世界のほうがはるかに重たい世界なのだ。
そして重たい=質量を持つ者は、その重力によって周囲のものを惹きつける。
鬼才・若松孝二監督によって、中上健二の絶頂ともいえる『千年の愉楽』の映画化が進んでいるという。これも、路地を舞台にし、オリュウノオバという産婆の老婆を語り手に、自らに流れる路地の血に翻弄されるように、激しい人生を送り、しかも生命の絶頂期に命を絶たれていった路地の男たちを描いた現代の神話のような作品だ。楽しみだ。ぜひとも見てみたいものだ。
うう、そしてこれもまた無性に読みたい。
意外なことに、写真にも、重力がある。ブラウザーの上を軽やかに飛び交うデータとしての写真ではなく、実際のモノとして数百枚の写真を手にすると、ズシリと重たいものがある。そして、それを一挙に何十枚、何百枚とめくってみてみた時、写真のはなちゅ重力を感じることだろう。写真は、プリントしてなんぼなのだ。
俺の写真を見てくれる君が、もしも俺の写真から、俺の暗く沈んだトーンの黒々とした写真から、重力のようなものを感じてくれたなら、これに過ぎる幸せはないだろう。魂は決して見えないが、それには重さがあるのだから。そしてそれはお金で買うことはできないんだ。
読者諸君、失礼する。 

2012/09/08

Post #621 富と国家の根深い関係について

Marrakech,Morocco
私に対して、妄執のような敵愾心を燃やす人間から、心無い事を言われてしまった。
曰く、『あんた一人生きるだけでせーいっぱいの奴が偉そうに国家語るんじゃねーよ!!!』
ハッハッハ、こう見えても私は筋金入りのプロレタリアートなんでね、働いても働いても、わが暮らし楽にならずだ。From Hand To Mouth だ。
彼の言うことはもっともだが、失礼極まりない。そういう事を言う人間の人間性を疑うというものだ。まぁ、イイ。言いたい奴には言わせておくがいい。カエルの面に小便だ。ブログのネタにして笑い転げてやるぜ。
では仮に、金がドバドバあったなら、国家を語ってもイイってことか。確かにワタミの会長とか、古いところなら松下幸之助とかそんなところだろう。けっこうなことだ。
私のような貧乏人は、奴隷のように何も考えず、蟻のように働いて、カツカツ生きて、自分のことだけ考えていればいいということだろう。
しかし、私は政府の諮問機関などに名を連ねる、金持ちの方々に、敬服感服したことが無い。所詮私とは趣味が違うということか。

さて、彼の言うことは一理ある。けっこうな考えだ。いっそ、戦前のように、高額納税者以外は選挙権がないとかいうことにしてくれとかまで、踏み込んで言及して欲しかったものだ。社会の底辺で働く人間は、家畜のように与えられる娯楽に酔い痴れ、国家や社会の行く末など、微塵も考える必要はないということだろう。それはイイ、俺もそうすりゃ、もっと小金持ちになれるだろう。結構なことだ。笑いが止まらない。マセラティでも転がして、高そうな時計をさりげなく見せびらかすのさ。そして、権力を持った奴等にせっせと贈り物でもして、金持ちの税金を減らして、何も考えちゃいない虫のような貧乏人から、効率的に税金をむしり取ってもらうようにそれとなく話を持ちかけるのさ。
金持ち連中は、そんな素敵なアイディアのことを、自由主義と命名しているようだ。
きっと、彼らの旗にがあったなら、それは黒地に骸骨が染め抜かれ、その下には二本のぶっちがいの大腿骨があしらわれていることだろう。
OK、素晴らしい人生だ。素晴らしすぎて、屁が漏れちまうぜ。
さて、資本家と呼ばれる金持ちが、国家と相性がいいのは、彼らの生きがいにして、目標たる富=資本というものが、国家によって担保されているからだ。
私も君も大好きなお金というのは、国家の信用によって、単なる紙切れが、いやさらに言うと通帳に並んだ数字が、あらゆるものと交換可能な価値を持つ、不思議なマジックの賜物だ。マジックなので、種も仕掛けもある。国家が、その価値を担保して降り、さらには国の信用の度合いによって、その価値が相対的に変動するというものだ。
もし、万が一、国家が解体してしまったならば、資本家もしくは資本家予備軍の皆様の資産は、まったく意味の無い、陳腐なものと化す。魔法が解ける瞬間だ。もっとも、彼らは目ざとく鼻が利くから、とっとと資産を海外に移転していることだろう。それが国家財政の破たんを加速させるということを知りながら。まったく、笑わせるぜ。
ちなみに、私には資産らしい資産もありゃしないので、そうなってもさほど困らない。大好きなCDが消えるわけでもないし、俺の写真が消えてしまうわけでもない。先々を心配してやるような子供もいない。気楽なものさ。
そうなってしまっては、資本家もしくは資本家予備軍の皆様の大切きわまる資産は、雲散霧消してしまうので、彼らは常に国家権力を擁護する。つまりは、保守化するのだ。
その一方で、高額所得者の税金を上げると、高額職者の皆さんは、資産を海外に移転してしまうと脅しをかけている。大企業の経営者の皆さんも、しばしばそういうことをおっしゃる。
彼らの愛国心など、たかが知れたものだ。それどころか、高額所得者の税金を下げれば、高額商品の需要が高まり、その生産流通に従事して働く貧乏人にも好影響が出るという。ハッハッハ!それはイイや、私たちは中世ヨーロッパの食卓の下をうろつきまわる犬のように、高額所得者の食べこぼしをいただいて、生きてゆけばいいっていうことか!せいぜい頑張って、無駄遣いしてくれよ。

私にもしも、遊んでいても生活できるような充分すぎる資産があったなら、きっとガリガリの国家主義者になっていたことだろう。そう、読者諸君が日々読んでくれているようなことなど、微塵も考えない、ごくありふれた小金持ちの中年がいるだけだ。もちろん、旅行もしない。その間にビジネスした方が儲かるってもんだろう。本なんか、利殖と節税テクニックの本しか読まない。坂口安吾や金子光晴なんて人生の敗北者のような連中の本など読んでたまるか。
新聞は反日的と悪名高い朝日新聞ではなく、日経新聞か保守本流の読売新聞を読んでいることだろう。
写真?そんなくだらないことで自分の人生の貴重な時間を潰すことなどないだろう。
そんな自分を想像してみると、なかなかに興味深い。クソくだらなくて、やっていられないほどつまらない。金以外に自分の価値がないと思えてくることだろう。その役割は、つまらなさそうなので、もっとその役回りに適した凡庸なキャストの方に譲りたいというものだ。私はそんな役回りを演じるには、ちょいと個性的すぎる。
しかしながら、幸いにも私は充分すぎるほどに、貧乏なので、日々働き、その寸暇を縫って読書し、社会の成り立ちと、より良い社会とはどんな社会だろうかと思いをめぐらす。現状に絶望しているからこそ、理想を描くことができるのだ。
将来に理想を描くのは、絶望しているニンゲンの特権だ。
現状に満足している豊かな人間は、夢のような理想を思いつくことなんか出来ないだろう。人生の意味を知っているのは、貧しいニンゲンだけだ。金持ちは、それを想像してみることしかできない。俺の愛するアメリカの酔いどれ作家、チャールズ・ブコウスキーは、そんな様な事を語っていた。ごもっともだと思う。
OK、お金の好きな方々は、存分に国家に尽くしてくれ。ただし、その手の方々が国家を大切にするため、もっと税金を払いたいということはなかなか耳にしない。なかなかそれも興味深い。いずれ、ゆっくりと考察してみるに値するだろう。
しかし、今夜は時間がない。私は貧しいので、自分一人が生きてゆくだけでせーいっぱいなので、明日も疲れ切った身体に鞭打つようにして、早朝から労働という刑罰のような営みに従事せねばならない。ハッハッハ!
まったくもって、貧乏というのも楽じゃない。
しかし、そんなのは相対的なもんで、この地球上には一日1ドル以下で生活することを余儀なくされている人々が何億人といる。その人たちからすれば、私はかつての王侯貴族のように豊かで優雅に暮らしている。そんなもんだ。
私たちは、それらの人々を社会のお荷物として考えるのではく、それらの人々をどう幸せにしてゆくのか考えるべき時代に差し掛かっているのだ。まぁ、所詮私のような貧乏人が考えたところで、どうなるもんでもないがね。はっはっは! 
私は、金の多寡で人間の値打ちを計るような人間を、心底軽蔑する。人間はただ人間であるだけで尊重されるべきだと私は思う。そして、出来うれば、その人間の考えていることや人間性を物差しにしてゆきたいと私は思う。所詮は貧乏人の遠吠えですぎないがね。
ちなみに、私の父は常々、『人間腕が2本、足が2本、これで資本(=四本)充実だ』とほざいている。悪くない心掛けだ。さすがに72歳にして自分よりはるかに若い彼女を持っている人は違う。私もそれで行きたいものだ。ハッハッハ!

読者諸君、失礼する。 

2012/09/07

Post #620 どうしてこうも小忙しいのか

VietNam
歯医者に打ち合わせに、夜は夜とて浜松まで車を飛ばしてひと仕事。明日も明後日も仕事。俺には日曜日も何もカンケーないのさ。家庭サービスがおろそかになっちまうぜ。
まったく、プリントする時間なんてないッたらない。ネガをまじまじ見る時間すらない。どうなってるんだ?まいっちゃうぜ。
まぁ、正直言って、次々予定をぶっこみ過ぎる自分自身の不徳の致すところなんだけれどね。
ベトナムののんびりした男たちのように、日がな一日ぼーっとして暮らす日は来るのだろうか?
読者諸君、忙しいから失礼する。

2012/09/06

Post #619 久々の休日

Paris
昨日の夜遅く、出張から帰ってきて、今日は久々の休日だった。うちのつれあいも会社を休んだので、およそ2週間ぶりにゆったり暮らしたんだ。そう、美術館にいってみたり、買い物をしてみたりしてね。俺は、先日の旅行でしこたま撮ってきたフィルムを行きつけのカメラ屋に撮りに行った。
モノクロ31本、リバーサル4本で〆て2万円ほど。痛い出費だ。しかし、これをデジカメに置き換えるわけにはいかない。俺としては、デジタルの写真とフィルムからプリントした写真は全くの別物なんだ。こだわりってのがあるということだ。こだわりこそ、人生に奥行をもたらすんだ。こだわりの無い人生なんて、去勢された馬のようなものさ。物足りないったらありゃしないぜ。
他にも、パイプ煙草の葉、CDなんかを買ってしまった。いろいろと物入りだ。こだわりの人生も楽じゃないぜ。
そうこうしていると、いつもブログにいちゃもん同様のコメントを送りつけてくる知人から、不愉快な内容文面のメールが送りつけられてくる。昨日の投稿が気に入らなかったようだ。
不快だ。速攻スパムにして処理する。
すると、こいつは俺の痴人、いや知人なんで、俺のケータイに言いたい放題メールを送りつけてくる。昨日の外国人街の話しが心底気に入らなかったようだ。
日本は鎖国すべきだとか時代錯誤も甚だしいことを言っている。適当にイナしておくと、竹島や尖閣諸島の話しを持ち出して来て、中国や韓国とは国交断絶、開戦しかないとか鼻息の荒いことを垂れ流す始末。しかしながら、果たして彼は戦争になった時、自分が最前線で戦うという覚悟があるのだろうか?そんな覚悟もなく、そんなことを言うもんではないだろう。毅然として振る舞っていればいいだけのことだ。感情的になっても、何も解決はしない。それが世の中だ。
しかも、挙句の果てには、政治関係の話題を街角ブログ(なんだそれ?)で扱うのはやめろと、貴重なご意見を賜る羽目になった。
俺は、憲法で保障されている俺の言論の自由を行使しているだけだ。
彼にとやかく言われる筋合いはない。俺は俺の自由(な発言や思考)を妨げようとする人間には、絶対に妥協したくないと思っている。幸い、今の日本では、言いたい事を言ったからといって、特高警察に逮捕され、拷問の挙句に、秘密裏に殺害されることもない。しかし、かつては本当にそんな暗黒の時代がこの日本にもあったのだ。その人々の犠牲のもとに成り立っている言論の自由だ。大切に護らせて頂くぜ。脅しのようなものに屈するわけにはいかない。男がすたるわ。
真っ当な見識を持った人間なら、時に政治的な見解を披歴することも当然のことだと思っている。それが気に入らなければ、俺のブログにアクセスしてくれなくて、一向に構わない。
言いたいことも言えないようなブログなら、さっさとやめてしまおうか。しかし、俺はやめる気はサラサラない。こんな目にあえばあうほど、やる気が湧き上がってくる。知力、体力、能力、識見、それら全てを総動員して俺に挑んでくるがいいと思う。戦闘的な受動性が俺には備わっているのだ。

きっと、こんな手合いの人間が先の大戦の時も、日本は東洋の盟主だ、鬼畜米英をアジアから叩きだして大東亜共栄圏を確立しろという、勝算も出口戦略もない無謀極る軍部の愚行に拍手喝采し、自分たちと意見の異なる者を非国民扱いしたのだろうと思うと虫唾が走る。そして、天皇陛下万歳と唱えて、自分の隣人友人が戦場に送り込まれることを喜び、自分が戦場に行かずに済んだことを、内心で喜んでいたんだろう。
俺は、子供の頃から毎晩のように、今年92歳になる祖母から、戦争によってどれだけ多くの人々が不幸になったか聞かされて育った。
軍人が威張り散らし、言いたいことも言えない嫌な時代だったと、繰り返し聞かされてきた。
戦争に負けて、そんな時代が終わったことがどれほど嬉しかったか、まだ小学生になるかならないかの頃から聞かされて育った。
戦争は人間を不幸にしかしない、それは俺の骨身にしみている。
俺の祖父は、大陸で日本軍の軍馬に与える飼料を扱っていた。戦争商人だったのだ。その屋敷には、当時2000人もの中国人の労働者が住んでいたという。祖父は、中国人に対して傲慢にふるまうことなく、中国人たちとも仲良くやっていた。祖母は、日本の息苦しい雰囲気を嫌い、中国に職を求め、そこで妻と死に別れていた祖父と出会い結婚したという。
戦争が終わった時、祖父母は中国の友人たちから、中国に留まって暮らしていくことも打診されたという。しかし、祖父母は幼い子供たちを連れて、必死の思いで日本に引き揚げてきた。
その後の生活は苦しかったが、祖父は残された子供たちだけが自分たちの宝だと言って、中国で築いた財産や広大な屋敷などには何の未練も示さなかったという。祖父は、貧しいながらも潔癖に暮らし、自分よりも困窮しているニンゲンには惜しみなく金品を与えるような人だった。きっと戦争体験によって、自分の中の基準が大きく変わってしまったのだろう。祖母は、そんなお人よしの祖父に呆れながらも、行商や手内職をして家計を支え、6人の子供を育て上げた。
俺は、そんな祖父や祖母を誇りに思っているんだ。
中国や韓国の人々といがみ合っても、何も解決しない。
問題があった時、感情的になってしまっては、問題の解決はできない。
毅然とした態度で根気よく話し合いを重ねて、お互いが納得したり我慢したりできる妥協点を見い出し、解決を図ってゆくべきなのだ。イタズラに相手に対する憎しみをあおり、過激な行動に拍手喝采し、戦争によって問題を解決しようと考えるなど、愚の骨頂だ。
俺は、人類の歴史の向かう必然として、今日の民族国家という段階はあくまで過渡的なモノであり、いつの日か国家はその役割を終え、世界は大きなブロックに統合され、最終的には地球単位の政府のようなものが出現するだろうと確信している。
それはもちろん、俺達の生きている時代のことではなく、千年単位の未来のこととなるだろう。俺はいつだって、そのはるかな射程を持つ夢のような理想を踏まえて、言いたいことを言っている。近視眼的に言っているのではないのだ。ジョン・レノン先生も言っている。夢かもしれない、その夢を見てるのは君ひとりじゃないと。

そんなメールが来たことによって、俺の貴重な休日は、どこか後味の悪いものになってしまった。
まったくもって、世の中上手くいかないものだ。戦争しても意味ないぜ。
読者諸君、失礼する。

2012/09/05

Post #618 夜市、もしくは銀座通りの衰退

Fes,Morocco
俺が今出張している、清水の町は夜が早い。7時ごろには銀座通り(銀座通りという地名はどこにでもある。これには食傷気味だ。東京の銀座は、銀座のインフレに悩まされてはいないのだろうか?そう思いたくなくるほど、どこに行っても銀座通りってのはある。それはたいていの場合、アーケードの下、昼間でも多くの店のシャッターが閉じられたうら寂しいものだ。)のたいていの店は、シャッターを閉めている。居酒屋のチェーン店がぽつぽつ営業しているくらいだが、毎晩居酒屋で飯を食う訳にはいかないぜ。痛風になっちまうし、金が懸って仕方ないだろう。もちろん、飲み屋もありゃしない。俺は毎晩のようにコンビニか西友の弁当を喰っていた。寂しいものだ。
照明によって明るく照らされたアーケード街を行くものはほとんどいない。電気の無駄だとはこのことだ。ここは清水だから、人々は『ちびまる子ちゃん』に出てくるような一家団欒を愉しむ地域文化をお持ちで、家族とちゃぶ台を囲みTVのバラエティを見るために、とっとと帰ってしまうのだろうか?しかし、日曜日に歩いてみたところ、昼間もさほど人が歩いている気配がなかったが・・・、大丈夫か清水?
かつて訪れたモロッコのフェスでは、迷路のように広がる路地をグングン進んでいった先にある庶民の暮らすエリアに路上マーケットがあり、曜日にもよるんだろうが、かなり夜遅くまでにぎわっていたっけな。俺はふと懐かしく思い出したよ。
こっちで言えば、百円均一で売っているような雑貨や、しまむらで売ってるような日常衣料、つま先の尖ったサンダル・バブーシュ、子供だましのおもちゃ、電化製品、そしてさまざまな食い物、そんな雑多なものを扱う屋台が、道の右にも左にも真ん中にも、無秩序なまでに立ち並び、活況を呈していた。もちろん、何だかよく訳の分からんものを食べるのにも事欠かない。人ごみでスリに会うんじゃないかって心配になるほど、人出が多かったな。あぁ、あれはなかなかに楽しかったぜ。忘れられない夜だ。
ひるがえって、わが祖国日本、そしてその日本全国津々浦々にある銀座通りの惨状たるや寂しさを通り越して、危機感を抱かざるを得ん。
どうしてしまったのか?
日本全国津々浦々という程各地に行ったわけでもないが、そんな寂しい商店街はあちらこちらで見かける。大抵は活性化の為と称して、やたら小綺麗に整備されていたりする。そうだな、例をあげれば、電線を地中化したり、アーケードのペンキを塗りなおしたり、アスファルトを剥がして、美しいタイルを敷き詰めてみたりしている。しかし、そんなんで商売繁盛するのなら苦労はいらないだろう。それでウハウハしてんのは土建屋だけだ。
地方都市では、誰も彼もが車に乗って、郊外のイオンに行ってしまう。その方が便利だし、欲しいものを見つけられる可能性が高いからな。
行政は、分かっていないのか?それとも、地方交付金を使うためだけに、誰も来ないような商店街に、多額の資金を注ぎ込みつづけるのか?はなはだ疑問だ。
人びとは商店街がきれいだから集まるわけではない。そんなにじゃぶじゃぶ税金を使ってシャッター通りを整備するもんだから、海外から来た人々は、日本は異常なほどキレイだと感じるわけだ。まぁ、実際キレイなんだがね。
俺がいつも考えているのは、街の中心のシャッター銀座に、外国人街を誘致するというアイディアだ。意外かもしれないが、なかなかおもしろそうだと思うぜ。
なにしろ俺達の人生はやたらとコストがかかるんで、少子高齢化が甚だしい。シャッター通りになるのは、客の減少だけが原因じゃなくて、商店主の高齢化による面も多いだろう。人間は誰しも年を取る。年をとっても元気な人もいるが、大抵はそうじゃない。病気がちになったり、寝たきりになったり、ってのがリアルなところだろう。自分の身体もままならないのに、移り変わりの激しい世の中で、商売を続けていくのは大変だ。閉店したくもなるってもんだ。そして、人間は例外なく年を取っていく。これじゃ、街はいずれ西部劇に出てくるゴーストタウンのようになっちまうだろう。そのためには、外から人間を呼び込んでみるのも、なかなかイイアイディアかもしれないぜってことさ。
海外からやってくる労働者の多くは、単純労働で安い賃金でこき使われているから、移動手段は徒歩、電車、自転車に限られる。根性と暇がないと、郊外のイオンとかには遠征しないだろう。また、安くてうまいエスニックフードが食えるようになるだろう。
こういった人々が集まれば、街ににぎわいが出る。そして、日本中どこでも同じような銀座通りが、それぞれの国の言葉が日本語とともに交わされる中華街や、ブラジル人街なんかになっていくんだ。その土地ならではのご当地グルメや土産物もできることだろう。面白そうだ。
例えばだ、俺の住んでいる町では、中国人労働者が多いので、中国人向けの商品なんかを扱う店や、中華料理屋をいくつかそこに呼び込んでみるんだ。商売が軌道に乗ってくると、人間ってのは精神的な満足を求めるってのは世界共通だ。てなわけで、彼ら自身の手によって、関帝廟なんかが作られるようになれば、その町に今までとは一味違う名所が出来たようなものだ。当然、他の地域で暮らす中国人も集まってくるだろうし、にぎわいにつられた日本人も、興味本位で足を運ぶことだろう。全国的に見分けもつかないような没個性的な駅前銀座よ、さようならだ。
ブラジル人の多い町もあることだろう。インド人街とかアラブ人街なんてのもあっても面白いが、それは今後の日本の行く末次第だろう。俺自身は、日本は海外から移民を入れたりしないと、そろそろやって行けなくなっちまうって、真剣に考えているんだ。俺はこれをニッポンコスモポリス構想と名付けているんだがね。
しかしまぁ、愛想はいいけれど、内心では排他的な日本人(それは田舎者ということと同じだ)が多いんで、こんな独自の政策を掲げるような市長さんが現れることはないだろうな。第一、選挙で当選しないか。
今日はなんだか、意外な方向に話がながれちまったなぁ・・・。まぁ、いいか。

読者諸君、失礼する。

2012/09/04

Post #617 自画自賛、そして俺の好きなトーン

Bruxelles
かつての森山大道や中藤毅彦のような、増感してざらりと荒れたような粒子感のある写真が好きだった。いや、今でも好きだ。どこか絵画のようですらあるそんな銀塩写真に憧れていた。
随分長いこと写真をやってきたが、結局そういう写真のトーンを自分のものにすることはできなかった。それは自分の技量の無さもあるし、自分の臆病さからきているのかもしれない。
その代りに、硬調でぬっぺりと黒がのっている写真が自分のスタイルになったんじゃないかなって思う。仕方ない。俺は森山大道の映画『≒森山大道』を見て、プリントのやり方を学んだというくらいテキトーな男なんだ。
それが結果的に、好むと好まざるとに関わらず、自分のスタイル、自分のトーンになってしまったという訳だ。
おかげさんで、最近のデジカメについている、アートモノクロモードみたいな、やたらとざらりとした写真とは、少し方向性が違うわけで、今思えばよかったんじゃないかなと思う。
俺の写真を特徴づけるものがあるとしたら、俺はこのシングルグレード印画紙4号を使い、黒っぽく焼きこんだトーンに最大の特徴があると思う。
たまに反動のように白っぽいハイキーなものも出現するが、先日も言ったようにそれはそれで好きだ。矛盾しているようだが、黒と白の両極端に振幅のデカいカンジこそが、如何にも自分らしくて好感が持てる。
両極端を抑えていれば、その中間のどこかにあるはずの中庸もしっかりそこに内包されているはずだからな。もし自分に偏ったところがあると思うなら、真逆のことをやってみればいい。周囲はあきれてあいつは両極端でよくわからないというかもしれないが、自分の中ではバランスを取ることができるだろう。
俺はそれをロックから、もっと端的に言うとThe Whoから教わった。繊細さと凶暴さ、知性と暴力性、そんな正反対のものが奏でるハーモニーちゅうやつを。余談ながらね。
俺の写真を特徴づけるモノの中には、もちろん、トーン以外にも被写体との距離感や適当なフレーミングちゅうのもあるだろう。けれど、やはり自分の写真の特徴は、このぬめっと黒っぽいトーンだと思う。
このブログを読んでくれている人の中には、俺の写真が好きだという人もいるかもしれない。(もちろん、いてくれると有難いが。)けど、一番俺の写真を好きだってのは、間違いなく俺だと思うよ。言うたらまぁ、自画自賛ってところだな。

読者諸君、失礼する。今日は仕事の最終決戦、いうたらハルマゲドンか関ヶ原みたいな日だからね。しっかり眠っておかないとね。夜中に後味の悪い夢を見て目を覚ましたからって、こんなことばかりやっていてはいけない。人間、深い休息が無ければ、フルで活動することなんてできはしないんだ。もう一度言おう、失礼する。

2012/09/03

Post #616 君子三日会わざれば刮目して見よ!

HomeTown
久々に、古い友人に会った。3年ぶりくらいか。
男子三日会わざれば刮目して見よというけれど、ここ3年で20キロも太っていやがった。一瞬どこのおっさんだよと思ったくらいだ。
余りに急激に太ったもんだから、脂肪によって横隔膜が押し上げられ、肺が圧迫されて縮んでしまったそうだ。そんな阿呆らしいことがあるものかどうか、俺は知らんが、実際にそんな話が納得できるほど太っていやがった。
俺がそんなに太ったら、誰か俺を屠殺場に連れて行ってくれ。俺の自意識はそんな醜態をさらすことに耐えられそうにないからな。
もっとも、旨い肉ってのは、脂肪だけじゃだめなんだけどね。脂肪と筋肉が適度に混じった肉がジューシーで旨い。松坂牛を見よ!人間で言えば、プロレスラーのような身体か。痛風患者の肉食男子たる俺が言うんだから間違いない。
ただのデブじゃ、脂肪から石鹸を作るくらいしか用途はなさそうだ。これは俺が適当に言ってることじゃなくて、20世紀の前半にドイツ人がユダヤ人やロマ人を相手に実験をした実例がある。奴等は髪の毛も潜水艦の断熱材に利用していた。まったく、合理的とは怖ろしいものだ。
なに、人を喰ったことがあるのかって?
大岡昇平か佐川君じゃあるまいし、あるわけないだろう?
もっとも、人を喰ったような発言なら、しばしばしてるけれどね。
読者諸君、失礼いたす。

2012/09/02

Post #615 かつて、ある日曜日に

かつて、香港に旅行した時のことだ。
ある日曜日、九龍半島の觀塘の碼頭からフェリーに乗って香港島にわたった。
そこはどこかうらぶれた港町だった。地下鉄を降りて、碼頭までの道すがら、人の姿を見ることも少なく、港湾エリアによく見られるような倉庫が立ち並ぶ、どこか殺風景な港町だった。
フェリーに乗り込むと、乗客もまばらだった。俺はいかにも遠くまで旅に来たという思いに満足していたんだ。
フェリーは觀塘と北角を結ぶ。この北角の碼頭を降りると、そこには海港道という庶民の市場があるはずだった。俺はそれを見にゆくつもりだったのだ。
しかし、田舎くさい港を降りるとそこには、多くの女性が集まっていた。
NorthPoint,HongKong
中華系の人々ではない。南方の人々だ。なかには頭にスカーフを巻いている人もいる。イスラム教徒だろう。すべて女性ばかり。聞きなれない言葉で世間話に興じているのだ。コンクリートの打ちっぱなしの床に敷物を広げ、弁当のようなものを囲んで、数人のグループに分かれてお喋りを繰り広げている。きっと、出身地が同じ者同士が寄り集まり、親類縁者の話題に花を咲かせているに違いない。その声は、まるで無数の鳥がさえずっているようだった。
遠景に強い日差しにさらされた香港島の中心街にそびえるビル街が見える。しかし、ココはまるで別世界だ。東南アジアそのものだ。
NorthPoint,HongKong
俺はこの風景を目にしたとき、いったい何が起こったのかよくわからなかったが、その日が日曜日だったことに気が付いて腑に落ちた。
出稼ぎメイドに来ているインドネシアの女性たちが、日曜日に休みをもらい、ココに集まってきて、同郷の仲間たちとひと時の歓談を楽しんでいるのだと。
それは、どこかさびしくもあり、それでいて心温まるような風景だった。今日も北角碼頭には、何百人ものインドネシア人の女性たちが集まり、にこやかな笑みを浮かべ、故郷の言葉でさえずるように話し合っていることだろう。
ふと、出張先の港町で、そんな過ぎたある日曜日の風景を思い出したんだ。それだけのことさ。

2012/09/01

Post #614 我に九月を

Kyoto
八月も終わりだ。やっと九月になった。子供たちの夏休みも終わりだ。今年は9月の頭に土日が入るので、何だか夏休みのロスタイムのようだ。
俺にとっての八月は、苛酷な仕事が前半と後半にみっしりだった。そんな仕事にカツサンドのカツのように挟まれて、10日間の旅行といった格好で、俺の43歳の8月は埋め尽くされた訳だ。
もうずいぶん、家を空けている。そろそろ帰りたい。
もうそろそろ、フィルムの現像が上がってきているだろう。帰ってフィルムを受け取り、クソ暑い暗室でプリントしたいんだ。確かにこの時期、クーラーの無い暗室作業は殺人的な暑さが付きもんだ。構わないぜ、どうせ今の現場は毎日サウナに入っているかのように暑いんだ。毎日熱中症寸前だ。大きな窓から陽の光はさんさんと差し込むが、風は通らない。窓は開かないのさ。もちろん、クーラーなんか工事中だから入っちゃいない。一日中、汗をかきながら働いているんだ。毎日の疲労は並じゃない。誰か犠牲になって、熱中症で死んでしまわない限り、この状況は改善しないことだろう。
冗談じゃない。俺はウェストがすっかりすっきりしちまった。ダイエットにはもってこいだ。このままじゃ、真っ先に俺が犠牲になっちまうことだろう。今のうちに香典を集めておくことにするぜ。君も一口どうだい。
そりゃ飯を食うためには、仕事をして稼いでいかねばならない。しかし、俺の人生の限られた時間は、刻一刻と削り取られている。人生は長いようでいて、いつどこから剣が差し込まれるかわからない黒ひげ危機一発のようなものだ。何時時間切れになるか分かったもんじゃない。時間はないんだ。毎日まいにち冷汗脂汗で、熱中症寸前になるまで働くなんて、こんなことやってられないぜ、まったく。
他人はどうだか知らないが、俺の人生にはもっと重要なことがあるんだ。
そう、プリントだ。
暗室が暑くったって、構うもんか、誰の眼も気にせずパンツ一丁でやってりゃいいんだからな。
まだ、プリントしていないネガは山ほどある。俺のこの多忙な生活で、それをすべてかたずけることができるのか、いささか不安になってくるというもんだ。だから、こんな仕事ばかりしている場合ではないんだ。
我に九月を、芸術の秋を与えてくれ。そうしたらきっとまた、スゲーのを君たちにお送りするよ。間違いないぜ、約束するさ。出来ることなら、もうちょっと涼しくなってはくれないかな・・・。
失礼する。