2012/09/17

Post #628 日本について考える

Kyoto
一昔前、日本と言えば、芸者、寿司、富士山、歌舞伎だった。今ならアニメか。日本人と言えば、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるその辺のおじさんのように、眼鏡で出っ歯で、なおかつ首からカメラをさげてるというパブリックイメージがあった。首からカメラを提げている人がやたら多いのは21世紀の今も変わりがないけれど。
目をいつもしばしばさせているどこかの知事の方なんかは、よく日本の伝統、日本の文化とかいうことを口にする。かつて政権の座にあった頃の自民党あたりからも、そのような復古的というか、伝統回帰的な発言をしばしば聞いた覚えがある。まぁ、保守の方々はアメリカにはべったりだったりするのに、すぐに日本の伝統だの、日本の文化だのとおっしゃる。そんなに日本の伝統が好きなら、いっそちょんまげでも結ったらいいのにとも思うが、そこまでするようなぶっちぎった奴はいない。和服姿で議会なんかに現れることも、まずない。そんなことからも、彼らの言う伝統文化というのは、どうにも胡散臭いモノだと思う。言ってる当の本人たちが、伝統文化だの歴史だのってわかってないんじゃないかって思えてくる。

彼らの言う日本の伝統なんてのは、せいぜいここ500年くらいの間に生み出されてきたものばかりだ。彼らの言う伝統文化の射程には、古墳時代も入っていないし、弥生時代も入ってはいない。
もちろん、縄文時代なんてこれっぽっちも見えちゃいないだろう。
もちろん、その時代の文化習俗、宗教思想なんかは文書で伝承されているわけではないので、あくまで学術的に精査し、比較的古い時代の痕跡をおおくとどめていると考えられているアイヌ人の文化や、日本各地にかろうじて残っている祭りなどの行事なんかを参考に推理推測して行くほかない。それはとても困難な作業だということは想像に難くない。だからと言って、それらを無視して日本文化を語ることはできないほどのものがあると思う。そう、日本文化の母胎だ。
ちなみに、全世界で最も早く土器を生み出したのは、1万3000年ほど前の日本人(縄文人)だと、君たちは知っているかい?そして、その系譜を受けておよそ1万年にわたって作り続けられてきた縄文土器や土偶は、今日の陶芸家が見ても、驚くほどの技術水準で作られていたりするものがあるという。もちろん、今日のように優れた機材があるわけではない。その辺に薪を積んで燃やし、その中に突っ込んだ粘度を焼くという、素朴な方法で作られていたにもかかわらずだ。
1万年と3000年前までさかのぼれば、日本の、そして日本人の本当の姿が見えてくる。
そして、ここ3000年くらいの間、この日本にはアジアの広い領域から、多くの民族集団が流れ込み、日本人に溶け込んでいったことだろう。そういった成り立ちを、忘れて、日本は単一民族とかいうのは、どうかなと思うぜ。第一、君の周囲を見渡してみれば、いろんな顔の日本人がいるだろう。それこそ、この日本人という民族集団が、様々な民族と文化を貪欲に呑み込んで吸収消化してきた揺るぎのない証拠さ。
歌舞伎や能、武士道、寿司、すき焼き?そんなものは長い日本の歴史から見れば、ほんの最近に出てきたものに過ぎない。昨日今日出たぽっと出だ。
能でも室町時代、やや遅れて成立した歌舞伎だって安土桃山から江戸時代初期、安土桃山の頃には、女だって歌舞伎に出ていた。まぁ、言うたらつい最近だ。
武士道だって出来上がったのは江戸時代だ。下剋上が当たり前の戦国時代には、主従関係といっても、単なる利害関係で、自分に理がないと思えば、さっさと主を見捨て、部下を見殺しにした。人間、そんなもんだ。
今日一般的に考えられている江戸前寿司の成立も江戸時代。すき焼きなんか当然明治時代。
さかのぼれば、さかのぼるほど、日本の伝統ってのものが、単に発言者のイメージに基づいて、任意の時代をお好みで持ってきて喋ってるだけの、あやふやな概念に過ぎないことがわかる。
江戸時代の武士道は、社会が平和になって、血の気の多い殺人者集団の武士団を、領民統治のための従順な官僚機構に組み立てなおすために、中国伝来の儒教道徳をもとに作られたイデオロギーだと俺には思える。支配者側の人間が、支配の道具として有難がるのは分かるが、一般大衆たる俺らがそう有難がったりするのは、筋違いってもんじゃないのかい?
日本文化とはなんなのか、日本人とはなんなのか、その答えの一端は、日本語を話し、日本語で考えるというところに根本的な鍵があると思う。それ以外に、日本人ってのを定義できるものはないんじゃないかって気がするぜ。日本語もおぼつかないくせに、TOEICだなんだって大騒ぎするのは、どうしたもんかねぇ。まぁ、いいけどね。

読者諸君、失礼する。今日も忙しいんだ。 

2 件のコメント:

  1. sparks様

    こんばんは、kuboです。

    相変わらずお忙しそうですね。
    こちらもS市よりも過酷な現場で汗を流しております。

    そんな日々でも、ここで拝見する知識と知恵に刺激を受けております。

    日本文化とは何か、このことについては、人類の系譜のなかでの日本人とは何かということと、集団にとっての文化とは何かを考えないといかんのかなと思います。
    そしてその二つは密接にかかわり合っていると思われます。

    僕は、変化はあるけど繋がっている、という視点で考えてから、なんとなくまとまった気が(一時期は)しておりました。

    このへんは、またお会いした際にお話しできれば幸いです。

    kubo

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  2. kuboさん、コメントありがとう。
    あなたのように知的な若者に出会えて、おじさんうれしーよ。また、焼肉とかつつきながら、世間的に言ったら、まるで遊びのような話で盛り上がりたいものです。とはいえ、僕は単なる道楽者の与太者で、アカデミックな教養人ではないので、その辺のとこ、御免なすって。
    13,000年前迄遡れば、私ども日本人も、いわゆるアフリカ的な段階に留まっていたかと思います。日本人が面白いのは、これだけ西欧化された、ある意味世界で最も文化レベルの高い生活を送っていても、その心性の基底には、アミニスティックなアフリカ的な感性がとぐろを巻いていることです。
    私たちは虫の鳴き声を聞いて、それをノイズではなく一種の言葉として感じたり、風のそよぎに自然の息吹を感じたりします。また、深い森を前にして畏怖や畏敬の念を抱くことすらあります。これは他ならぬ私たちが、かつて草木がモノを言っていた、豊葦原の瑞穂の国の国津民の末裔である証であり、アマゾン奥地に潜みすむ未開の民と通じるものであり、レヴィ・ストロースを驚かせた心性です。
    その心性が今日の日本人の文化を、産み出したものだと思えてなりません。しかし、それこそが人類の最も古い感受性の姿といえるでしょう。だからこそ、日本人を掘り下げて考えることで、その特異性と普遍性(これは実は同じものを立場を替えて捉えているに過ぎません)を探求することが、人間そのものを知る大きな鍵になりうると、僕は思っています。

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