2012/09/20

Post #631 意味という病

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そんなタイトルの本があったような気がするが、浅学非才な俺はそれ以上のことは思い出せない。
昔の話だ、どうでもイイだろう。
今日、うちの連れ合いと話していたら、彼女の同僚で子供の頃、不安神経症というか凄い強迫観念に縛られていたという人の話しをきいた。たとえば、横断歩道の白いところしか歩けないとか、そんな他の人から見たら全く意味の無いことにこだわってしまって、どうにも生活が成り立たないというのだ。
なかなかにそれは大変なことだ。しかし、それは実は、人間のやることには意味がある、つまり何らかの合理的な説明がつくというコモンセンスによって成り立っているという前提があっての話しだ。
意味にこだわるのは人間だけだ。無意味なことをするのも人間だけだ。
大概の動物は、大脳が発達していないので、本能というか遺伝子に刻みつけられたコードに基づいた行動しかしない。だからさ、意味の無いことなんかしないわけだ。意味の無いことをやってると、すぐにほかの生き物のエサになっちまうんだからな、そんな余裕はこれっぽちもありはしないってことだろう。
大事なことなので、もう一度言おう。意味にこだわるのは、人間だけだ。意味の無いことをするのも人間だけだ。
しかし、それはその人間自身や、周囲の人間がその行いに意味を見い出すことができないだけっちゅうことなのかもしれない。
意味から逸脱するのは、人間が人間たる証しともいえるだろう。また、行動の持つ意味に執着するのも、これまた人間の人間たる証しというモノかもしれない。だからこそ、人間であるというのは、どこか意味という病にとらわれた一種の強迫観念を生きていることなのかもしれないぞとすら、俺には思えてくる。
俺は、意味の無いと思えるようなことに、熱中しこだわる人を見ると、ある意味、その人間らしさを羨ましく思うことすらある。それどころか、逆に俺たちの生の営みの全てとは言わないが、その大部分に、大した意味も価値もないんじゃないかって思えるときもある。意味の無い会議、意味の無い書類、意味の無い商品、意味の無いプレゼン、新商品の意味の無い機能、いい人生とか、有意義な人生なんて言葉に、疑念を生じているんだよ。
それどころか、意味の無いことをすると、評価が下がり、収入の減少につながるからやらないなどというセコい料簡で生きているのなら、餌をもらうために芸をする動物と変わらないのではないかといぶかしく思うことすらある俺なのさ。
そんな時、意味などなくてよい、ただここに在るだけでよいのだと、自らのうちに風のように吹き渡る虚しさを鎮めるように、言い聞かせるようにして一人小さく呟いてみたりもする。
有能でなくともよい、むしろ無能で無価値なほうが、より人間としてあるべき姿なのではないかとすら思えてくる。有能で組織の中で価値があると評価されているような人間なんて、意味という病にすっかり冒されている小賢しいだけのまやかしの存在なのではないか、ただここに在るだけで、俺達は既に尊く、この世界そのものから祝福されているのではないかという思いが頭をかすめ、自らの中で、意味と無意味が転倒し、自分の日々の生業すらも、つくづく意味の無いことのように思え、全てが色あせてしまったように思えてならず、独りため息をつく。

さて、写真だ。
出来うれば、意味や意図から自由な写真を撮りたく思っている。
目をつぶり、めくら滅法にカメラのシャッターを押す。そうして図らずも写ってしまった写真こそ、俺は面白いと思っているんだ。
撮影した俺の気持ちや思いなんか、クソ喰らえってもんだ。
もちろん、構図だの露出だの、被写界深度だの、シャッターチャンスだの、決定的瞬間だのはとっくに忘れ去ってしまった。どうでもイイだろう、そんなこと。
まぁ、そんな世間的に意味の無いような写真を撮ることにことにこだわり続けるなんて、まったく意味なんかないんだけどね。強いて言うなら自己満足さ。光と影によって浮かびあがる印画紙の粒子にとりつかれているんだよ、俺は。
俺はいつか、まったく真っ黒に焼き潰した写真を撮るに違いない。
いや、それとは反対に強い光で真っ白に飛んでしまい、何も写っていないような写真を、君たちに届けるかもしれない。
そのとき君たちは、いったい全体、この人は何を写したんだろうかって思うに違いない。
しかし、それは今まで君たちに見せてきた写真とまったく同じものが写っているにすぎないんだ。
そう、光と影。それが写真の全てだ。
そこにはこじつけたような意味も、持って回ったような思想も何かを告発したり、宣伝したりするようなものは、何もない。無いッたら、無い。光と影が在るだけだ。あとは何もいらない。
読者諸君、失礼する。また会おう。 

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