2013/02/15

Post #728 心の闇

Paris
凄惨な無差別殺人や、猟奇的な事件が起こるたびに、メディアは心の闇という言葉を使う。
誰も彼も、非道な犯罪の酷烈さを想い起こし、その言葉にどこかおぞましさを感じるようになるだろう。枕詞のようなものだ。
自分たちとはまったく異なった、おぞましい畸形的に捻じれた心の持ち主の胸のなかで、その闇が成長し、エイリアンが胸を食い破って出てくように、目を背けたくなるような犯罪となってこの世界に実現化するとでも言わんばかりだ。
しかし、心の中に闇を持っていない者など、果たしているのだろうか?
君はどうだい?君の心は常に清く正しく、美しいのかい?
俺はそう言い切れるほど、面の皮の厚い恥知らずじゃないつもりだ。
俺も、君も、人間は誰しも、自らの中に闇を抱えて生きているはずだと、俺は信じている。
大方の人間は、善でもなければ、悪でもない。どっちつかずの存在だ。心の闇なんてのは、天秤の片側だけに目を向けた話だ。大方の人間は、無意識に善悪のバランスを取って生きているのだ。
するってぇと、光の強いニンゲンのほうが、闇も深いって理屈になるな。
心に闇の無いニンゲンなんて、去勢された競走馬みたいなものだ。どうにも物足りないぜ。
ヤニのないタバコみたいなもんだ。もっとも、最近は0.1mgとかいう屁よりもスカスカしたタバコが大流行だけれどね。
自分の心の中の闇に呑まれてしまうかどうかは、人間の意志の力にかかっている。
自分の中の闇と折り合いをつけて、生きていくこと。
それは、ひいては他人の過ちを赦すことにもつながろう。
何故なら、何かの機縁があったなら、その心の闇に呑まれ、過ちを犯していたのは自分自身かもしれないのだから。
かつて、親鸞上人は『俺の心がよくって、人殺しをしないわけじゃない。たまたまその縁も機会もなかっただけだ』と語った。つまり、たまたまに過ぎないってこった。
煩悩熾盛なこの俺が、この年までお縄にならずに生きてこられたのも、心に闇がないからではなかろうよ。単にそんな縁も機会もなかったからにすぎないさ。
TVで犯罪ニュースを見て、眉をひそめている善良な人々の胸の中にも、心の闇は必ずある。
それは間違いない。
そして、闇が深くて暗いほど、光ははっきりと輝くんではなかろうか?
ドストエフスキーとか読んでみれば、よくわかるさ。
しかしまぁ、最近言われる心の闇の、なんともちっぽけで卑小なことか。

読者諸君、失礼する。明日から現場が始まる。徹夜続きの毎日だろうよ。御機嫌よう。 

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