2013/02/27

Post #738 ある猫の死

Istanbul,Turk
今日の昼下がり、本屋で小嵐九八郎の『天のお父っと なぜに見捨てる』を購入し、車で家に戻る道すがら、前の車が大きく迂回して通るので、ふと見ると一匹の猫が死んでいた。
猫がはねられて死んでいることなんて、よくあることだ。しかし、俺はいつもそのたびにどうしようもない憤りが湧いてくる。
かつては、そんな猫の写真を、怒りとともに撮っていたものだ。その写真は今日は出さない。きっと、君たちはショックを受けるだろうから。
俺はいつも、状況が許す限り、道のどまんなかに横たわっている猫の死骸を、そっと抱き上げて道の端に寄せることにしている。もちろん、状況の許す限りにおいてだ。俺がはねられて死んでは、元も子もない。
けれど、たとえもうすでに死んでいたとしても、何度も何度も車に踏みつけられ、汚い絨毯のようになっては欲しくない。
俺は、今回も車を停め、後続の車が行き過ぎるのを待って車を降りて、猫を道端に寄せた。
大きくて立派なトラ猫だ。毛並みもよいし、よく太っている。きっと誰かに大切に飼われていたに違いない。飼い主の悲しみを思うと、何とも言いようがない。
そっと持ってみると、まだ温かい。まだほんの少し前にはねられたのがわかる。
瞳孔の開き切った瞳は、まるでガラス球のようだ。
俺は、その猫を歩道の植え込みの中に横たえてやった。冷たいアスファルトよりも、土の上の方がイイだろう?いつだって、何の罪科もないものが、命を断ち切られるのを見るのは、心が張り裂けそうに痛む。あぁ、この世は悪無限だなぁ。

俺は、ふと何年も前、まだ薄暗い朝早く高速に乗って現場に向かうために、片側三車線の国道を走っていた時のことを思い出す。車線の真ん中に、まだ生きている猫が、はねられ足をやられたのか、うずくまり、じっとこちらを見ていた。時速60キロで走る俺の目には、それは一瞬のことだったかもしれない。けれど、俺には、その一瞬に確かに猫と目があったように感じられた。
猫は、自分のみにこれから起きることを、まったく予測していなかったのかもしれない。いや、ひょっとしたら、全て理解していたうえで、受け入れていたのか?それは俺には解からない。けれど、その視線は、明らかに俺に対して何かを強く訴えかけてきたのだ。
生きることとは、何なのか?
俺たち人間も、この猫が自らの身にほどなく悲惨な最期が訪れるであろうことを、知ってか知らずにいるように、一寸先は闇の道を手探りで歩くしかない、弱く儚い生き物だということを、その猫は俺に伝えていたように感じたのだ。
それはもう何年も前の話しだ。

今日死んでいた猫が、佐野洋子の絵本『百万回生きたねこ』の主人公のように、今頃むっくり生き返り、次の人生を生きはじめることを夢想する。そして猫は言うのさ、『バカらしくってぇ!』ってね。

読者諸君、失礼する。俺は実は猫アレルギーもあるんだが、猫は大好きだよ。

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