2013/09/15

Post #938

Budapest,Hungary
今夜も昨日に引き続いて、社会派の面目如躍といった写真をお送りしよう。
このおじさんも、紙コップに通行人からの御恵みを待っている。
しかし、昨日のプラハの乞食のおっさんのように、超人的な努力で道行く人々(そういえば、子供の頃『右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを』という文言を聴いた覚えがある。今思うと強烈だ)の心に訴えかけてくるようなことは全くない。力なく膝を抱え、うなだれているだけだ。
これはチェコとハンガリーの国民性の違いによるものなのだろうか?一介の旅人に過ぎぬ俺には、そんなことまでわかるわけがないな。単にこの乞食のおっさんが、イロイロ限界に近づいていて、右や左の旦那さま方に、アピールするだけの気力体力が残されていないというだけのことかもしれないしな。
けれど、彼が力なくへたりこんだ、まさにその店の中から出てくる幸せを絵に描いて額にぶち込んだような母子の姿とシンクロすることで、人生の明暗ちゅうのが激しいコントラストで浮かび上がってくるというものだ。
そういう意味では、ある意味決定的な瞬間と言えるかもしれない。
まぁ、俺も撮ってる時にはそこまで考えて撮ってないんだけどね。
たまたまってことさ。強いて言うなら、動物的な反射でつい撮ってしまった、みたいなカンジだ。

だがしかし、ひょっとして、この乞食のおっさん、その対比を計算に入れてここに座っているのだとしたら、なかなかの策士だ。最小の労力で、可能な限り大きな効果を得るというのは、経済的に見ても合理性があるというものだ。
まぁ、そんな策士が乞食に落ちぶれるかってのは、無いとは言い切れないが、あるとも思えんな。やっぱりタマタマか?

まぁ、一見するとどちらが幸福で、どちらが不幸かは一目瞭然として見えるが、そう見えるようでいて、それは本当のところ分からない。
資産量という計測可能な尺度で見れば、両者の吉凶禍福は言うまでもないことだろうが、一歩、人間の精神の領域に足を踏み入れれば、ひょっとしたら、赤ん坊を連れた母親は、何か他からは窺い知れない悩みを抱えているかもしれない。方や、紙コップしか持ってなさそうな乞食のおっさんは、実は何ものも所有しないことで、精神はすこぶるつきの自由を謳歌しているのかもしれない。
それは、一枚の写真からは分からない。

目に見えないモノの世界は、写真には写らない。
当然ながら、それが写真だ。そうじゃなかったら、心霊写真になっちまうからな。

しかし、だからこそ俺達には一枚の写真を見て、イロイロなことを想像する楽しみが与えられているのさ。

読者諸君、失礼する。ちなみに俺は、この人には小銭を与えなかったんじゃないかな、あんまり覚えちゃないけど。俺からすると、やはり、アピールが不足してるってもんさ。

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