2013/10/23

Post #976

Marrakech,Morocco
さらりと流してみては気が付かないだろうが、これはマラケシュのフナ広場の青空市で売っていた、訳の判らん生き物の剥製だ。
亀の甲羅から突き出している頭と手足は、どう見ても哺乳類だ。
尻は甲羅からはみ出している。そして、食い散らかしたトウモロコシの芯のような尻尾がまっすぐ突き出している。
子供のころに見世物で見た、河童のミイラのような胡散臭さが漂っている。
ここには、あらゆるガラクタが売っている。へジャブで顔を覆ったおばちゃんが、自分で編んだんじゃないかっていうようなニット帽なんかはまともな部類で、誰がつかっていたかもわからないような入れ歯まで売っている。

最高だ。
楽天にもアマゾンにも、そんな訳のわからんものは売っていない。
甲羅を背負った怪しい獣が跋扈できるほどに、世界は豊穣だ。
このくそったれな世界はまだまだ捨てたもんじゃないと思えてくる。
若者諸君、世界中どこでもトヨタの車が走り、人々はユニクロの服を着て、ビッグマックを食っていると思ってたら大間違いだ。
とはいえ、そうなるのは時間の問題だろうけどね。
そんなつまらない時代がくるまえにこの世からトンズラしたいぜ!

先日、性懲りもなく森山大道の写真集『Marrakech』を買った。7560円也。
森山大道 『Marrakech』 SUPER LABO刊
これは、1989年(俺はすでにこの時20歳になっていた。時代は昭和から平成に変わっていた。)に、パリに拠点を持って活動しようとしていた(結果的にはその試みは挫折した)森山大道が、クライアントからの依頼でマラケシュに赴き、一週間の滞在中に撮影してきた写真が収められている。
このモロッコ旅行の写真は、あまり今まで見る機会がなかったのだ。
猛烈に見たい。
最近の森山大道の記録シリーズは、デジタルに移行してきたために、あまり食指が伸びなかったのだが、この時期の森山大道はどうにも捨て置けないのだ。
黒くて、ざらついた、荒々しいカバー写真を見ただけで、そこが懐かしいマラケシュのフナ広場だということわかる。この一枚を見ただけで、森山大道の写真の持つ抗いがたい魅力に引き込まれる。
即決で購入決定だ。
それにしても、変わった判型だ。
細長い本を開くと、見開きの右手に、ちょうど文庫本サイズのページが上下二段、独立して組まれている。写真を見てもらうと、民族衣装の二人の女性の肩甲骨あたりのラインに、一本線が入っているのがわかるだろう。このラインで、上段と下段に分かれている。
収録されている写真はさほど多くないのだが、ぱらぱらとめくってゆくと、任意の写真が組み合わされ、それぞれの写真の持つイメージが響きあう。写真を見る者の中に、マラケシュというエキゾチックな街に対する立体的で奥行きのあるイメージが生まれる。
こんな写真集の作り方があったとは。
ページをめくると、フナ広場が、路上に生きる人々の姿が、路地に展開される市場スークが、革なめしの工場が、クトゥービアモスクの尖塔が、広大な廃墟ともいうべきエル・バディ宮殿がむせ返るような黒の粒子でとらえられている。
そして、それらは皆、俺がマラケシュに赴いた時よりも、もっと素朴で荒々しかった。
舗装されない埃っぽい道。観光客向けに整備されておらず、朽ち果てるままの風情を漂わせる巨大な宮殿外壁。此処にはマックもユニクロも決して存在していないと確信できる。
道行く人々の姿は、今以上にエスニックで、貧しさが漂う。
要は、グローバリゼーションにさらされていない、生な世界がそこには記録されていたのだ。

俺は、森山大道の写真のもたらす強烈な印象に羨望と嫉妬を覚える。
どうして、同じ場所に行きながら、写真という外界をそのまま複写する装置を用いながら、これほどの違いが生じるのか。
それは写真の、そしてプリントの技術の問題と、写真を撮るものの持つ視点の問題なのだろう。

何を見つめ、何を撮るのか。

写真には、絶対的にそれが欠かせない。カメラがどれほど簡単に操作できるようになっても、その性能が向上しても、そこは絶対に変わらない。目の前の現実にどうアプローチするのか。
写真は世界との静かな格闘だと、俺は思っている。
そう思っていればこそ、森山大道の写真を羨望するとともに、悔しさも感じるのだ。

読者諸君、失礼する。
もう25年もすれば、マラケシュといえど、観光用の張りぼてのような抜け殻になってしまうのではないかと想像し、どこか寂しさを感じる。その時には、甲羅をしょった怪しい獣が市場に並ぶような余地は、きっとどこにも残されていないことだろう。

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