2013/10/28

Post #981

Praha,Czech
プラハのユダヤ人街のはずれに位置するホテル・マクシミリアンにチェックインした俺たちは、部屋でコーヒーを飲んで一息つくと、すぐに写真を撮りに出撃した。
ホレショヴィツェ駅で見かけた、あの超かっこイイ写真が気になっていた俺は、うちのカミさんがフロントでチェックインしている間に、ロビーにおいてあるさまざまなフライヤーに目を通した。
もちろんチェコ語ばかりだからよくわからないんだけど、写真くらいはわかりそうなもんでしょう?
しかし、そこでは何の手がかりも得られなかった。仕方ない、犬も歩けば棒に当たるの精神で行くか。
俺たちはまず、プラハの旧市街の中心、旧市街広場に行ってみることにした。
この広場には、ど真ん中にカトリックに反旗を翻したチェコの宗教家ヤン・フスの巨大な像がある。このジオラマ仕立ての像を取り囲むようにして、カフェが並んでいたり芸人が楽器を演奏していたりもする。また、この広場には有名なからくり時計のある時計塔があり、とんでもない数の観光客が、時を告げるからくりを見に押し寄せる。
プラハは、ボヘミア王国、神聖ローマ帝国の首都という輝かしい歴史のある重厚な街並みがあり、世界中から人々が集まる観光都市でもある。また、どこか共産主義体制による抑圧と、その後の急速な資本主義の発展に伴う、社会の矛盾が、風景の中にわだかまっているようにも感じる。
だから、写真を撮っていて飽きない。
そこの路地を曲がって一枚、その店の前で一枚、てな具合でぐんぐん写真を撮り進んでいく。パリで写真を撮っているのと近いフィーリングだ。
確かに、ここは写真大国だろうなと思う。見ようによっては360度、どこを切り取っても写真になってしまうからだ。
Praha,Czech
旧市街広場にやってきた俺は、ふとある建物の前に掲げられたこれまた素敵な写真に目が釘付になっていた。
巨大な二枚の写真が掲げられている。


右手には、いかにも共産主義時代に建てられていった風情のうらぶれた労働者向け団地をバックに、5メートルほどの盛り土の上にブリーフ一枚でたたずむ一人の幼児の写真。
日差しは強くない。季節は秋なのか。どことなく寒々しさと、切なさが伝わってくる。しかし、それでいて何かを雄弁に語りかけてくるような、物語性を孕んだ奥行きのある写真だ。

左手には木の電柱が並ぶグルーミーな風景の中、一台の車が屋根の上に巨大な鹿のような動物を括り付けるようにして乗せて、おそらくは走っている情景を後ろから捉えたものだ。鹿はハンターによって狩られたのだろうか。その四肢には力なく、頭部は助手席の外側にダラリと垂れ下がっている。霧にかすんだ向うに大きなビルが見える。文明と野生、死と生が交錯する。

これまたカッコいい写真だ!いったいこの国はどうなってるんだ?

俺はその写真の上に記された名前を読んでみた。

VIKTOR KOLÁŘ

ヴィクター・コラーか、それともヴィクトル・コラーか・・・。
いずれにしても、俺の知らない写真家だ。
俺は写真をまじまじと見ながら立ちすくむ。
一人の男が寄ってくる。俺に音楽は好きかと聞いてくる。どうやらここで今夜室内管弦楽のコンサートがあるので、チケットを買わないかということらしい。俺が適当にいなしていると、あんたは学生か?と聞いてくる。よしてくれよ。俺はもう44歳なんだぜ。どうやら東洋人は彼らの目には若く見えるようだった。
正直言って、この男が入り口付近にうろうろしているので、この建物に入ってゆくのが億劫だったが、写真の魅力には勝てない。俺はイイ女にも弱いが、カッコいい写真には、もっと弱いのだ。
そこはプラハ市民ギャラリーだった。14世紀だかに建てられた由緒ある建物で、かつては教会として使われていたとか、王族が一時期住んでいたとかいう話だった。1988年から修復され、市民ギャラリーとして使われているということだ。
しかし、そんなことはどうでもイイ。問題はヴィクター・コラーだ。

コラーは、1941年にポーランドとスロバキアとの国境にほど近いチェコの東の炭鉱都市オストラバに生まれた。13歳の頃、アマチュア写真家だった父親から写真の手ほどきを受けたようだ。彼は、1964年に60枚の写真からなる個展を開き、写真家としてのキャリアをスタートさせた。そして自らの故郷である炭鉱町オストラバで小学校教師や図書館の司書、兵役などを経た後、写真を生涯の仕事にすることに決めた。
1968年のことだった。
そして、プラハの春がおこり、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が、プラハめがけて進軍していった。当然、国境地帯の産業都市オストラバも、その進路上にあり、ワルシャワ条約機構軍によって蹂躙された。
コラーはカナダに亡命した。
彼ははじめ、マニトヴァ州で鉱山や冶金や写真ラボの労働者として暮らしつつ、写真を撮ったようだ。のちに助成金を受けてモントリオールに移り、作品を発表した。先にあげた車の上に鹿の死体を載せた写真はこのころのものだ。これもカッコいい!
彼には、同じように国外亡命したクーデルカのように、亡命者として西側世界で活躍し続ける道もあっただろう。しかし、彼は5年のカナダ亡命ののち、チェコに、オストラバに戻ったのだった。
彼は、オストラバが、オストラバの人々が忘れられなかったのだ。
そう、彼は写真を通じて世界と格闘するための舞台を、自らの生まれ故郷である炭鉱都市オストラバと定めたのだ。
彼は、共産政府からマークされ、1984年まで写真の仕事を続けることは禁じられた。製鉄所の労働者として、劇場の裏方として働きながらも、彼はオストラバの人々を、石炭産出量の減少に歩調を合わせるようにさびれていく故郷を撮り続けた。
そうして、1984年からフリーランスの写真家として活躍し続けている。
彼のHPを見てみてほしい。いくつかの写真を見ることができるだろう。
http://www.viktorkolar.com/kolar.htm

写真展は、まだ始まったばかりということもあってか、落ち着いた雰囲気で見ることができた。
ぐいぐいと引き込まれる。グレートだ、グレートな写真だ。骨太な写真だ。
過酷な労働に従事する炭鉱府は、真っ黒に汚れた顔のまま、鋭い眼光をこちらに投げかけている。
大型犬を連れて散歩する男の向こう側には、真昼間から男が一人道端に倒れ伏すように眠っている。
製鉄所だろうか、鉄骨の隙間から差し込む光に向かって、二人の男がうつむき加減で歩いてゆく。
絶望したように頭を抱えうつむく女の、タンクトップから除く背骨は、深い陰影を描く。
コンクリートの塊の上に投げ出されたアオサギの死体は、衰退してゆくコミュニティーを暗示しているかのようだ。
TESCOというイギリス系のショッピングセンターの看板の前で綱渡りをする男は、社会の変化に翻弄されながらも、写真に憑りつかれ、写真を通して世界を、そして故郷の人々の人生を掴み取ろうとしてきた写真家本人のイメージに重なってゆく。

共産主義時代から現代にいたるまで、オストラバに暮らす人々の生活が、そこに刻まれたリアルな生活感が、写真を通じて伝わってくる。

見る者に、何かを訴えかけてくる素晴らしい写真が続いていた。
当然ながら写真は目に見える物しか映らない。そうじゃなかったら、それは心霊写真だ。
しかし、見る者自身に写真に写っている人々に対する想像力のかけらがあるならば、写真は目に映らないものまで語りかけてくる。
行間を読むというやつだ。
わからない奴にはわからない。
わかる奴だけわかっていればいい。
けれど、それがわからないような奴と友達になりたいとは俺は思わない。
案内係のおばあちゃんたちに、思わず 『グレート!』と語りかけてしまうほど素晴らしい。
おばちゃんたちは、俺の味わってる感動を知ってか知らずか、ニコニコと笑っている。それでいいのだ。
俺は売店で早速写真集を買い求めた。
その写真集の最後に収められていたのは、綱渡りの男の写真だった。

君にもぜひ、コラーの写真を見てほしい。次回は遂にあのヤロスラフ・クセラだ。
読者諸君、失礼する。今回を入れて最終回まで20回、できる限り全力で行かせてもらうぜ。

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