2013/11/18

Post #984

Praha,Czech
俺はご存じのとおり、昼夜逆転の生活を送っている。不健康極まりない。
くだらない仕事をして、朝一番の電車で家に帰り、飯を食って眠る。
昼過ぎに目を覚ますと、雑事を片付けてるうちに、出撃の時間がやってくる。
くだらない人生だ。しかし、大方の人間はくだらない人生を送っている。俺はこれでも好き放題やってるところもあるので、まだましな方さ。君はどうだい?君の人生は充実してるかい?

そんなわけで、少し中身のある文章を書こうと思うと、なかなかまとまった時間がないとできないんだ。わかるだろう?
それで、ここんとこ、ブログの更新が滞っているわけさ。
まぁ、イイだろう。どこからも苦情も来てないし、続きを待ちわびる声もない。期待されてないのはさみしいことだが、気楽な事でもあるってことさ。
Praha,Czech
どこまで話したっけ。そう、プラハ王宮でヤロスラフ・クセラのポスターを見かけたところだ。
俺は探し回って王宮内のギャラリーを見つけたんだ。
俺は、イジー大聖堂が見られなくても問題ないけれど、これが見られなかったら一生の不覚だと思って、カミさんとチケットを買って、ギャラリーに飛び込むように入っていった。
そのエキシビションのタイトルは“Jak jsem potkal lidi”、英語にすれば“How I met People”だ。
どうやって僕は人々と出会ったか?なかなかいいぞ。2013年の4月26日から8月18日まで開催しているようだ。俺は運がいい。写真の神様に愛されているのさ。

そこはかつて、王宮の建物と建物をつなぐ回廊だった場所をギャラリーに改装したような、ずいぶんと細長いギャラリーだった。その細長い空間の両サイドに、ヤロスラフ・クセラのモノクロ写真が、時代とテーマごとに分けられて、ずらりと並べられている。
どれもモノクロだ。俺好みだ。写真はやっぱりモノクロがいい。

1946年生まれのヤロスラフ・クセラはプラハ技術大学を卒業し、キャパやブレッソンあるいはウィリアム・クラインやアントニオーニの映画“欲望”なんかの影響を受けていたようだ。
いいねぇ。やはり俺好みか。

写真は1970年代のものから始まる。プラハの春の直後からだ。
共産主義体制の中で生きる人々の生活、その多くは街角でのスナップショットだ。どこか荒み、重苦しい雰囲気をたたえている写真が多い。まぁ、それは多分に俺の偏見かもしれないが、実際に女性たちはつかれた顔をしているし、男たちは倦み疲れたような表情で、ジョッキになみなみ注がれたビールを飲んでいる。
ジムの更衣室や女子寮なんかで撮られたとおぼしきヌード写真は、生々しい人間の存在感を感じさせてくれる。
共産主義をたたえるパレードの写真はどこか嘘くさい雰囲気をしっかりととらえている。誰も共産主義に満足していないのに、参加して、愉しそうにしていないといけないのだという雰囲気が、写真の中からにおってくる。
そして、そのにおいは89年の革命の写真に繋がっていく。
人々は熱狂し、街に繰り出す。ろうそくを灯す人々。チェコの国旗を振りかざすひげ面の老人。かつて、プラハの春の時には、ソビエトの戦車隊によって蹂躙されたヴァーツラフ広場に、再び集まる何万人もの人々。国旗を掲げる少女は、新しい時代の到来を告げる女神のようにも見える。
しかし、社会の価値観が根底から覆されたそのあとに待っていたのは、混乱と退廃だった。
街中で胸や尻をあらわにして客を求める売春婦。
一日中酒を飲み煙草を吹かしている年若いホームレス。
乞食へと落ちぶれてしまった人々。パブでは、トップレスの、あるいは裸の女性が現実に打ちのめされた男たちに、様々な性的なサービスを提供している。そこには愉楽の姿が見て取れるが、底なしの虚無と退廃が口をあけているようにも見える。
俺は、坂口安吾の堕落論の一節を思い出す。
しかし、写真家はそんな現実を前にして、たじろいだりしてはいけないのだ。
目の前の出来事に、レンズを向け、シャッターを切る。
何を思うかは見る人次第だ。

俺は、クセラの写真を見て、自分の中で何かが震えるような感覚を覚える。
カメラ一つを武器にして、世界そのものとわたりあうこと。
写真を撮るということの困難さと、それを不断に積み重ねてきた者の不撓不屈さを。
君にもぜひ、ヤロスラフ・クセラの写真を見てほしい。いや、見るべきだ。

http://www.jaroslavkucera.com

このサイトはチェコ語だけれど、そこで見ることのできる写真は、君にも何かを伝えてくれるだろう。
伝わってこないような奴は、どうでもイイ。面白い顔の猫の写真でも見てるがいいさ。

俺は、とても重たいクセラの写真集を買ってホテルに戻った。重たくてホテルに戻るまで、何度もうんざりしたくらいだ。しかし、一人の写真家の長年にわたる軌跡を収めた写真集だ。重くて当然さ。その前にも、ヴィクトル・コラーのこれまた重たい写真集を買っていたので、飛行機の重量制限に引っかかるんじゃないかって不安だったけれど、何とかどちらも持って帰ってくることができた。


その表紙は、70年ごろのある夜、彼が自分のカメラに残っていたフィルムの、最後の一コマで撮ったという、売春婦とホテルに向かう男の写真だ。背徳の香りが漂っている。とりわけ女性のお尻のあたりに。
そんなものを撮ったからって、世界がどうこうなるわけじゃない。
もちろんそうだ。
けれど、自分の目の前に展開している世界を切り取ること、それしか写真家にはできはしないし、それ以上に写真家にとって素晴らしいこともないようにも思える。
写真と撮る者の一人として、俺でも撮っちゃうだろうなって思うよ。
読者諸君、失礼する。やっと、クセラについて書くことができた。
どうしてこんな素敵な写真家のことを、日本では誰も知らないのか、俺には全く腑に落ちないぜ。ぬるい写真が大流行りだからか?クソ喰らえってんだ。

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