2014/12/31

Post #1365

Patan,Nepal
気が付けば今年も終わりだ。
終わってみれば、どうってことない。なんだってそうだ。きっとこの人生だって。
このブログも、かつて1000回を目処に止めちまおう、阿呆らしいと思っていたが、何やかんやと思い返して、既にこれ、1365回だ。まぁ、よせばいいのに、ほぼ毎日一回更新だから、ざっくりで一年ってわけだ。まったくお疲れさんだ。

今年も一年、お付き合いいただき、ありがとう。よくも毎日書き散らしたもんだ。自分でも阿呆じゃないかって思うよ。
来年も俺は相変わらずだ。懲りない奴なのさ。
ここで君を待っているのさ。君が声をかけてくれることを。

皆の衆、良い年を迎えてくれ。

読者諸君、失礼する。

2014/12/30

Post #1364

Budapest,Hungary
年賀状も作ったし、今年最後の入金も確認した。なんとか年も越せそうだ。帳簿や青色申告の書類、来年の現場の図面のチェックなんかは年を越してからでも、なぁにかまやしねぇさ。
しかし、まだ明日の夜に今年最後の仕事が控えている。きっと、現場で愉快な仲間たちと新しい年を迎えてしまうのだろう。
それも、面白いぜ。年越しライブみたいなものさ。観客はいないがね。

独りで家にいると、どうしようもない寂しさのようなものを感じてしまう。
胸の奥から、ありったけの力を振り絞って、すげーシャウトを絞り出したいのだ。胸の奥、肺のあたりに赤黒い溶岩の塊のようなものが、煮えたぎりながら回転し、その表面から時折鋭い刃が瞬間飛び出して、自分自身を責め苛むような、極上の気分だ。
こんな機会に誰か久しくあっていない人と語り合ったりしたいものだが、人と話しても、何かが伝わりきらないもどかしさが残る。きっと俺には何か精神的な問題があるんだろう。そもそも、そんな塊を他人に押し付けるわけにもいかないし、その塊を言語化する術すらない。
それはひょっとしたら、昨日俺が言っていた、昏い情念のようなものかもしれない。
おかしいなぁ、俺にはそんなもの、無いはずなのに・・・。

俺はただ、太い火柱が空に向かって立ち昇るようにして、自分の生命を燃やし尽くしたいだけなのに。
その願いを『狂気』というのなら、俺は『狂気』にとらわれているんだろう。

どうやって、その『狂気』を宥めるのか。
俺には分かってるんだ。とても億劫だけれど。
今から薬品を調合して、暗室に籠ってプリントするしかないんだ。

俺の居場所は、そもそも路上か、暗室の中にしかないんだ。
くそっ、素敵なお姉さんの胸の奥とかにも、ささやかな居場所が欲しかったぜ。
しかし、素敵なお姉さんなんて、今はどうだってイイ。
早くしないと、唐突に絶叫して、精神病院に放り込まれるようなことになっちまうぜ。

こうしちゃいられない。

今年最後のプリント祭りだ。
暗室の外で、何が起こったって知ったことか。死後の世界のような、白と黒のイメージと、生まれる前の胎内のような赤い光が、俺の魂の居所だ。とても安らぐんだ。

読者諸君、失礼する。来年も俺は路上の狩人、暗室の哲学者でいたい。ついてこれない奴なんて、かまいやしないぜ。走り続けていないと、俺は自分の中の狂気に焼き尽くされちまうんだ。

2014/12/29

Post #1363

Budapest,Hungary
俺は、いつもヒトが抱えている過剰や欠落に目が行ってしまう。そして、出来る事なら写真に収めたいと思っているんだ。しかし、その行いには、往々にして反社会的なにおいが纏わりついてしまう。正直に言って、犯罪とすれすれだ。いや、人間の(臭いものには蓋というか、問題から目を背けたいという心性に由来する)倫理観からすれば、明確に犯罪かもしれない。

それは、別に手足や目鼻が欠損していたり、多指症の人の手だとかというわけではないんだ。

人間が、内に秘めた昏い情熱の塊のようなものが、マグマが地殻を突き破って出てくるように、その人間の行動や考え方や姿かたちに、現れる。その過剰は俺の考えでは、何らかの欠落、そう心のなかにぽっかり空いた空隙を埋めるために生み出され、しかし、その空隙を埋めることはできないままに、表面に噴出しているのではないかと思う。

そうだとすれば、何か抜け殻になってしまったような人も、周囲に異様な存在感を放射している人も、根本的には同じカテゴリーの存在なんじゃないかと思っている。

例えば、ほら過剰なピアっシングをしていたり、リストカットを繰り返していたり、あるいは飽くことなく性交を求め続けるセックス依存症の人とか、服装やしぐさに過剰な自己表出が現れている人とか。

人間の表面に現れる兆しは、その内面に渦巻く昏いパトスの噴出だと考えているんだ。
満たされて幸せそうな人々には、その暗い影は差していない。
そんな欠落や過剰を抱えている人のまなざしは、どこか光が違うのだ。

そんな人間を、写真に収めてゆきたいと、いつも思う。
出来る事なら、その心のなかに空いているだろう暗く湿った穴を、それを埋めようと渦巻く情念の塊を、この手に取って見てみたいのさ。
しかし、そもそもそれは写真に写るものなのだろうか?手に取ることが出来るものなのだろうか?
まぁ、なかなかそんな人間らしい人間は、俺の前には現れてくれないけれどね。


読者諸君、失礼する。俺ですか?俺にはそんな昏い情念なんて、これっぽっちもありゃしないよ。俺はこう見えて、到って退屈な平々凡々たる男でござんす。

2014/12/28

Post #1362

Bhaktapur,Nepal
年賀状を作るつもりが、何故か床のワックスがけをして一日を空費してしまった。それはそれでやり遂げた感は山盛りだったんだが・・・。

ふと、若いころの自分を思い返してみて、その不甲斐なさに、いたたまれない気持ちになって、悲しいような、悔しいような思いがこみ上げてくる。

こいつは性質の悪い胸やけのようだ。
出来る事なら、あの時その時の自分にあって、ぶん殴って説教食らわしてやりたいくらいだ。情けねぇ!

もう少し、あのときに俺に相手を思いやる優しさと、一歩踏み出す勇気があれば、そして下らない意地をはって痩せ我慢なんかしなければ、きっと今とは違う人生を歩んでいたはずなのにと思うと、情けなくって泣けてくる。その時俺の傍らにいてくれた人を、もっと幸せにしてあげることが出来たかもしれないんだ。もっとも、その人の人生を取り返しがつかないくらいぶち壊していた可能性だって否定できないけどな。

過ぎ去った時間は、泣いたところでどうにもなりはしない。

人は、そんなこと忘れて、もっと身軽に生きたらいいのにっていうだろう。きっと、俺が迷惑をかけた人たちも、すっかりそんなの時効だよ、気にしちゃいないよって言ってくれるだろう。
だけど、そんな後悔も過ちも、忘れたくないし、ずっと背負っていきたいんだ。

何故って、その失敗と悔恨の集積こそが、俺自身だと思うからだ。
で、その重りのような荷物を抱えて、しかもなお、全力で力強く、時に無様に走り続けるように、死ぬその日まで生きていきたいんだ。

そんな無様な屁垂れた若い時代があったからこそ、今の自分があるのだと自分に言い聞かせて、奥歯を噛みしめて、今日の自分が人生でサイコーだと言い聞かせるしかない。
事実、昨日の俺より、今日の俺の方が、経験値が上がった分だけ、器はデカくなってるはずだ。俺は信じてる。俺はこのままで、終わる男じゃないんだ。まぁ、このままでもかまわないけどな。

でもって、むかし俺が、ネコの糞を踏んだような気分にさせた人たち(その多くは大切な人だったはずだ)に、恥じることのないような自分でいたいんだ。

自分でも、俺は45歳の皮をかぶった15歳だって分かってるさ。過ぎたことにいつまでもとらわれて、そいつは俺の胸のなかで地団太踏んで哭き叫んでいるんだ。母を亡くした子供みたいにね。自分でも、それって辛くないか?って思うさ。けど、それをあっさり忘れ去ったり、頭の中から放り出したりしたら、それはもう俺であって、俺じゃないんだよ。
そんな阿呆が一人くらい世の中にいたって、悪くないだろう?それが俺のロマンなんだよ!

読者諸君、失礼する。俺だって、自分の人生を振り返って、もんどりうちたい夜もあるのさ、畜生!

2014/12/27

Post #1361

Kathmandu,Nepal
昨日は取引先の忘年会に出向いて、久々に鯨飲。
芋だか麦だかわからんが、焼酎をロックでガンガン飲んで、パイプを吹かして皆の衆を文字通り煙に巻き、誰よりもでかい声で、何を話したか細部が全く思い出せない漢気炸裂トークをかまし、下ネタ全開で笑い転げて、実に有意義な時間を過ごしてきたよ。
まわりはいつも仕事でおなじみの悪軍団だから、お互い何の遠慮もありゃしねぇ。ルール無用の無礼講だ。
解体屋、軽量鉄骨屋、大工、内装屋、監督などなど、現場仕事をしている男たちの集まりは、これだからたまらないぜ。
漢同志の絆は、やはりバカ騒ぎして飲み交わさないと深まらんもんだ。女との絆はやっぱアレだけどな。
挙句の果てには、お迎えに来てくれたカミサンを、仕事仲間を一人一人呼びつけて紹介し、車の中を酒の臭いで充満させながら家までなんとか帰ってきた。カミサンはやったらめったらぷりぷりしてたぜ。
で、二日酔いもなく今日は俊才・酒見賢一版三国志『泣き虫弱虫 諸葛孔明』第四巻を読みふけって、ちょいと一戦するたびに、底抜け大宴会の劉備軍団の馬鹿騒ぎっぷりに、漢はかくあるべきだなと確信を深めていたりしたわけだ。

俺は日頃、仕事が夜討ち朝駆けなんで、酒飲んだりする機会はほとんどないんだが、こんなんだったら毎週でも構わないぜ。いつでも呼んでくれよ。まぁ、仕事が空いてたらの話だけどな。
しかしなんだなぁ、俺、年年歳歳、年を重ねるごとに、放蕩無慚のろくでなしになっていくなぁ・・・。
しかしまぁ、これも人生だ。ロックンロールだ。子供でもできたら、少しは改めるんだがな・・・。

読者諸君、失礼する。明日こそ年賀状つくらねぇとな。うかうかダラダラしてると、年が明けちまうぜ。

2014/12/26

Post #1360

Kathmandu,Nepal
写真をやってますというと、たいていの人は、ほうといって俺に見せるように言ってくれる。
俺は、自ら焼いた六つ切りの印画紙をスキャンし、携帯にバックアップしておいた画像をみせると、たいていの人は、これは上手いですねぇと褒めてくれる。

  それを真に受けたらかん。
  本当に上手かったら、俺はとっくにそっちの世界で飯食っとるはずだがね。

たいていの場合、これだけの(質だか量だかわからんけども)ものを発表したりしないのですか?と聞いてくれる。
俺は、こんなブログをやってます。やってるだけで、誰も見てはくれませんと言う。
で、携帯で見せてみると、たいていの人が、今度見てみますという。

  それを真に受けたらいかんって。
  世の中には社交辞令というのがあるんだで。

社交辞令という奴は、人間と人間の関係をスムーズに進めていくためには、欠かせないものだ。
俺が受け取っているのはまさにそれなんだけど、その時はやはり少し嬉しく、素直に感謝してしまう。相手が女性だったりすると、嬉しさ当社比1・5倍増量中って感じでなおウレシイ。

しかし、実際に見てみたよって話は、きかないなぁ・・・。

年賀状を受け取ると、例年、ブログいつも見てますとか書いてあったりするけれど、そんなこと書くくらいなら、コメントでも入れてくれたらいいのに思う。
コメントも毎度おなじみの仲間しかくれない。ありがとう。素直に感謝してるよ。こうして続けてこれたのも、君たちの支えがあってからこそだよ。

俺はすばりいって、褒められると実力以上のパワーを発揮するタイプなんだ。
当社比1.2倍は行けるだろう。
しかも、女性に褒められるとその数値は、さらに2倍くらいには跳ね上がるんじゃないか?おっぱいの大きさに比例してたりすると、人間的にこれまた面白いのだが、調子に乗ってその手のことを書くと、ほうぼうからお叱りを頂いてしまう。
ゲンキンなものだ。単純な男なのさ。
常々仕事の現場にも、応援専門の可愛い娘ちゃんを配備して、職人さんを応援していてもらえば、仕事の質,、量ともにかなりUPするんじゃないのって考えてる俺だからな。
まぁ、戯れ言はおいといても、手応えがないとつまらないのだ。 仕事でも、待遇金額に不満がなくても、必要とされてるいるという実感がないと、阿呆らしくなって契約解消してしまうような俺なのだ。
人が自分を、認めてくれないと嘆くより、自分の実力のなさを憂うべきちゅうのはよくわかるんだけど、外人さんのゆるゆるのあそこに突っ込んで、必死に腰振っているような手応えの無さは、もう滑稽ですらあるわいな。


一般的に言って、俺の写真はつまらない、のだろう。


俺自身は、面白がっているのだが、客観的にみれば、まぁ、それが現実だってことだろう。

坂口安吾の夜長姫と耳男ではないけれど、俺の写真には、おばあさんの頭痛を和らげる力もないんだろう。もっとも、そんな力があったら、頭痛に悩むばあさんが殺到してしまう。とげぬき地蔵とかじゃないんだから、御免蒙るぜ。


どうして、相手が俺の写真に興味があるなどと考えたりしてしまうだろう。
そもそも期待しなければ、落胆もしないのだよ。
白と黒だけの退屈な画面だ。エキセントリックなものが写っている訳でもないしな。

世の中には、もっと刺激のある映像が溢れてる。きわどいセクシーショットとか、悶絶可愛い猫の写真とかね。それに何より、もっとうまい写真なんていくらでも見ることが出来る。

書いてることも、しょせんはその辺で一山いくらで売られているジャンクカメラのような、至極つまらぬ中年男の心中雑感だ。世の中には、もっと有益なサイトが山ほどある。そっちを見たほうがよほどイイ。例えばそうだなぁ・・・、2ちゃんねるとか風俗情報とかね。そっちの方が、君の心と体にとっては有益だ。

思えば、俺がコメントを互いにやり取りしていた人々のなかには、衝動的にボタン一つで、自分のブログをすべて削除してしまった人もいる。また、自分しか見ることが出来ないように設定を変えてしまった人もいる。
それぞれに個性的な作品を手掛けていた人たちだったのに、なんの手がかりもなくなってしまった。さみしい話だ。
この人たちも、写真を撮っては、UPし、何の手応えもないという焦燥感に苛まれていたんだろうか。
まぁ、俺の場合は心の声が垂れ流されてる感が強いから、一概に同じとも言えないけどな。

俺の写真の良さを分かってるのは、もう何年も俺とごく少数のお仲間だけだ。
さみしい年の瀬だ。
来年は違う方向に戦法を切り替えてゆくべきか。
それとも真逆に、人には黙って、自分の写真を死ぬまで隠し通すか。
いずれにせよ、もうオナニーみたいな生活には厭き厭きだぜ。


読者諸君、失礼する。年末年始は酷税局の青色申告の書類でも作るとするかな。

2014/12/25

Post #1359

Praha,Czech
日本ではあまりポピュラーではないけれど、有名なクリスマス・キャロルの一つに、“Good king Wenceslas”というのがある。日本では、『ウェンセスラスは良い王様』と呼ばれているそうだ。

このクリスマス・キャロルは、厳冬の12月26日、聖ステパノスの日に、城の物見台から王が雪の中薪を集める貧しい小作農を見つけることから始まる。
王は小姓を呼びつけると、『汝はあの者がどこに住む何者か知っておるか?』と尋ねた。
小姓は『あれは聖アグネスの泉のほとりに住む小作農であります』と答える。
すると王様『小姓よ、肉を持て、葡萄酒を持て、末の薪を持て、それらを背負いて我ら彼の貧しき者のもとに施しをもたらそうではないか』
というわけで、王様と小姓は冬の厳しい寒さの中、雪をかき分けて小作農のもとを目指すのだが、陽は暮れ、吹雪に道は閉ざされる。
小姓はたまらず『王様、日も暮れ風も厳しく、私の心は折れてしまい、もはやなす術とてありません』と泣き言を言い出す始末なんだが、そこは王様、『よし、小姓よ。我が先に道をゆき、雪を踏み固めてゆけば、いささか寒さもしのげよう。雄々しき心を奮い立たせて我についてこい!』と先を歩み始める。
すると、王様が踏むところ、雪はとけ、青々とした芝土が姿を現したという話だ。

つまり、富者は貧者に施しを与えることは、神の御心に沿う行いだと讃える歌詞で、締めくくられる。

このウェンセスラスには、モデルがいる。
ボヘミヤ公、ヴァーツラフⅠ世だ。
ボヘミヤとは、ほぼ現在のチェコのこと。そして、907年に生まれ、18歳で即位したヴァーツラフⅠ世は未だ伝統宗教が大勢を占めていたボヘミヤに、キリスト教を本格的に導入した若き王だった。
しかし、神聖ローマ帝国に臣従してすすめられたキリスト教化政策は、伝統宗教を信じる貴族たちの反発を買い、935年に暗殺されてしまう。

残念!

ヴァーツラフⅠ世は、こうして殉教した故に聖人とされ、次第にボヘミヤの人々に、ボヘミヤの守護聖人として信仰されるようになっていった。さらに人々は、彼を真のキリスト者にして、国と民族を護った理想の騎士だと考えるようになった。ボヘミヤの危機の時には、彼は甦り、国を救うとまで信じられていたほどだ。

写真は、彼の名を関したチェコの首都、プラハのヴァーツラフ広場に聳え立つヴァーツラフⅠ世の像だ。この広場は1968年のプラハの春の際には、ソ連軍の戦車に蹂躙され、1989年のビロード革命の際には、自由を求めるチェコ市民で埋め尽くされた。この時にも、人々はヴァーツラフⅠ世の名を脳裏に思い浮かべていたことだろう。


ビルゲイツなど、欧米の資産家には、しばしば慈善団体に巨額の寄付をしたり、非営利の慈善事業を起こす人も多いのだが、これはキリスト教文化に根差した伝統だ。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(岩波から出てますよ)を一読されたい。お勉強になるぜ。もっとも、そういったいわゆる慈善活動に、やっかみ交じりの批判も多いのは承知の上だが。
翻って日本の金持は、ただため込むだけ。
これでは、銀行に積み上がった金が泣いているぜ。
政府も、低所得者に対するアベノミクスの恩恵は、トリクルダウン、つまり富裕層から滴り落ちるおこぼれでいきわたるはずだと無責任に嘯きつつ、税金を上げ、福祉をカットしている。
まぁ、そんな政府を選んだのは、他ならぬワシら日本人の皆の衆なので、文句も言えまい。

しかし、ここで衝撃のお知らせ。
OECD(経済開発協力機構)は、先ごろ、このトリクルダウンってのは、実は歴史上一度たりとも実際に起こったことがないと発表した。

衝撃だなぁ、笑うしかない。この道しかないとか言っていたが、ますます怪しくなってきたぜ。

なんだか今日は、とりとめのない内容になってしまったなぁ。しかし、本当に活きたお金ってのは、誰かの幸せのために使わないといけないんだぜ。それが本当のプレゼントさ。

読者諸君、失礼する。メリー・クリスマス。この瞬間にも、世界には苦しんでる人がたくさんいるのさ。クリスマスで浮かれてるのはいいけれど、それを覚えていてほしい。

2014/12/24

Post #1358

Bruxelles.Belgique
世間では、今日はクリスマスイブだ。
しかし、悲しいかな、店舗屋稼業の俺には、全く関わりのねぇことでござんす。
当然のように、今夜も明日の夜も、夜通し仕事なんだ。
子供もいないし、今更かみさんにプレゼントを渡すなんてのもないんであります。
侘しいものでござんすねぇ・・・。

クリスマスにちなんで、気の利いたことの一つでも言えたらいいのだが、俺にはそんな才覚もありゃしない。そもそも、イエス様のこともろくに知らないくせに、クリスマスだなんだって大騒ぎする日本人の風潮が、俺には鼻持ちならないんだ。勝手にしろって言いたい。イエス様を商売のネタにしてほしくない。申し訳なくて、泣けてくる。

こう見えて、俺はキリスト教系の幼稚園に通っていた。キリスト教徒ではないけれどね。
そのおかげで、あまりよくわからないなりに、幼心に旧約聖書のさまざまなストーリーや、新約聖書に記されているイエス様の生涯が、自分の根深いところに刻印されている。
強い向かい風の中を歩むときには、必ず子供の頃に見た「イエスの復活を聞いて、イエスの墓地に確かめに向かう使徒」を描いた銅版画が脳裏によぎる。すでに40年も経つというのに、忘れることはできない。

イエス様の言葉では、山上の垂訓が好きだ。
キリスト教徒でない人には、馴染みが薄いだろうからその出だしだけでも書いておこう。
とんでもなく有名なあれだ。

『こころの貧しい人たちは、さいわいである。
  天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。
  彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。
  彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。
  彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。
  彼らはあわれみをうけるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。
  彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
  彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。
  天国は彼らのものである。』

この山上の垂訓の中には、有名な右の頬を打たれたら、左の頬も、とか汝の敵を愛せとか、善行を他人の目の前で行うなとか、イエス様の教えのエッセンスが凝縮されている。マタイによる福音書、第5章から7章にある。
クリスマスだと言って、浮かれているだけでなく、一度君も読んでみるとイイだろう。
それは君の人生を、より深いものにしてくれるだろう。
間違いない、約束するぜ。
俺は、こんな罪業深重な自分ではあるけれど、それが故に、ふとイエス様のお言葉を想い出し、罪業深重なるがゆえに、ふとした折に、イエス様が俺のそばにいるような気配を感じる。きっと、子供のころ、クリスマスには『♪わたしは小さな羊飼い・・・』と歌っていた頃から、イエス様は俺のことを御存じでいらっしゃるのさ。
イエス様は、教会の祭壇のなかにいるのではないのだ。
俺や君のようなごく普通の、心貧しい人の、悲しみにくれる人のすぐそばに、そっと寄り添っているのだ。
(今回の引用は日本聖書協会の1984年版から行った。)


読者諸君、失礼する。よいクリスマスイブを過ごしておくれ。俺は相も変わらず愛も分からず、夜の百貨店で男祭りさ。

2014/12/23

Post #1357

Kathmandu,Nepal
今日はNHKで朝から夕方まで『ごちそうさん』の総集編を見倒してしまった。貴重な一日が空費されたわけだ。仕方ない、それも人生だ。

先日、中学高校時代の先生や、その教え子つまり俺よりずいぶん年上の先輩にあたる人たちと、愉しい時間を持つことが出来た。
酒と旅を愛した歌人『若山牧水顕彰会』という、まぁ酒飲みのおじさんの会に、何故か俺も入っているので、その忘年会に行ってきたのだ。
おおかたの会員は俺の恩師である先生の教え子ばかりなんだが、誰もかれも俺より10歳は歳食ってるおじさんばかりだ。
どうして、そんな会に入ったかと言えば、俺が中学生の頃から世話になっていて、学生時代はほとんど毎日お邪魔していた浅井先生という方が、その会の重鎮で、俺は気分的にはその人の息子みたいなものなので、まぁお前も一口入れって誘われたわけだ。

俺はこう見えて、中高一貫の私立の高校に通っていたので、先生はずっと変わらない。
この先生は、既に75歳を超えておいでなのだが、昔から白髪の長髪で、自由な考えを持った方だった。今日の俺は、この先生をはじめとしてこの中高一貫校の個性的な先生方の、勉強以外の課外授業の英才教育によってはぐくまれたのだ。
俺は、90年続く学校の歴史の中で、もっともぶっ飛んだ生徒だった。
なにしろバリバリの進学校なのに、モヒカン刈やスキンヘッドで学校に通っていたんだ。
それだけじゃない、生徒会の副会長もやっていたしな。
成績に関しては、劣悪ではあったけどね。-30点という素晴らしいスコアをテストで叩きだしたこともある。まぁ、とびきりのバカヤローだったわけだ。

かつて俺に数学を教えてくれていた中島先生も、いまは校長先生だ。ちょっと合わなくなったうちに、偉くなったものだが、この人の前の校長にも、担任してもらていた。やはり、問題児に接した経験がないと、偉いさんにはなれないのだろう。

20年以上お会いしていなかったが、お元気そうで何よりだ。
俺をかわいがってくれた先生の中には、とうにお亡くなりになった方もいる。想い出すと、なんら恩返しが出来なかったのが、心底悔やまれる。俺がランボーみたいな早熟の天才だったらどれだけ喜んでもらえただろう。
中島校長は、俺が自分の携帯の画像フォルダのなかに入れていた高校時代のモヒカン刈の写真を見せたやったら、ずいぶんと懐かしがって喜んで、メールで送れと言い出す始末だった。
中島校長が言うには、最近の生徒さんたちはずいぶんと大人しいので、むかし君たちの先輩のなかには、こんなはっちゃけた奴がいたのだと一席打つ算段らしい。
冗談じゃない。
俺が世に隠れもない赫々とした才能をぶちまけているんなら、それもなかなかに面白い話だが、しがない現場監督で身過ぎ世過ぎの半死半生、どうにかこうにか生きてますでは、単にそんな阿呆だったから、なるべくしてそうなったとしか思われないじゃないか・・・。
先生方が言うには、俺のようにはっちゃけた奴は、今は皆無で、誰もかれもが物わかりのいい優等生なんだそうな。つまらない話だな。つまらないからこそ、教えておきたいんだそうだ。
FUCK OFF!
こうなりゃ講堂で、若者相手に漫談してやるのもやぶさかじゃないぜ。いっそ、流行の妖怪体操第一でもやってやろうか?

さて、俺はなにしろこの痛快な性格なので、60過ぎのおじさんたちに、えらく可愛がられる。きっと自分のうちでは子供に構ってもらえないんだろう。
俺は現場暮らしで身に着けたスキルで、年長者にも気さくに気後れせずに面白おかしな経験をしゃべりまくり、高いところのものをひょいと取ってあげたり、後片付けをテキパキこなしたりしているわけだ。みんな俺に大喜びだ。
すると、学生時代の俺を知っている先生や先輩たちから、『あのコーイチロー(あぁ、これ俺の名前ね。覚えといて)がこんなことをするなんてねぇ・・・。』なんていう声があがるくらいだ。
なにしろ、授業中に先生にぶん殴られたり、窓から放り出されたりなんて日常茶飯事という超問題児だったからな。頭にきて職員室に消火器をぶちまけたことすらある。
フツーのことをして感心されるのも無理もない。これが優等生だったなら、なにも感心されないが、もともとの出来が悪いとこういう時得するってもんだ。
しかし俺だって、今日まで笑い話のネタになるような、普通ならしなくてよい苦労を重ねて、やっと大人になったのだ。
おかげで今では、その辺の子供たちには面白いおじさんとして親しまれ、仕事仲間には信頼され、年長者には可愛がられるという、自分にしては出来た漢に仕上がったのだ。
ただし、若い女性には敬遠される。それは俺の人相が悪いせいではなく、スキニーパンツが未だに似合い、それ故に『(足の太さに悩む)100万人の女性の敵』と世間で言われているからだ。

宴もたけなわの頃、恩師の奥さんが、『コーイチローくんは、小説書いてるんじゃなかったっけ?』と俺自身もすっかり忘れていたことを持ち出した。
いやぁ、恥ずかしながら若いころ、そんなこともやってみたっけな。
どうにも文章が上手くないのと、物語を紡ぎだし、魅力的な人物を造形するには、俺は人生経験がなさすぎるということを痛感し、きっぱり諦めていたのに・・・。
そもそも、いつも読んでくれている諸兄諸姉は、俺の文章には何の魅力もないことをよくご存じでしょう?だからこそ俺は、写真を選んだのだよ。
俺は、久々に返答に困った。御歳を召した方は、往々にしてそんな黒歴史を覚えてくれているからな・・。
俺は仕方なくこう答えておいたよ。

『鳴かず飛ばずの45年!』

自分で言って悲しくなるよ。

読者諸君、失礼する。才も徳も無くして、世渡りしていくってのは、ちょっと心細いもんだな・・・。

2014/12/22

Post #1356

Kathmandu,Nepal
今夜、急に仕事が入ってしまった。
商売繁盛だ。しかし、調子に乗って働き過ぎれば、必ず体調を損なうことになるぜ。気を付けないとな。ただでさえ風邪をひいているというのに。

昨日も夜仕事して、朝も八時半から動いているんだ。
睡眠不足にもなるだろう。実際に眠りたくて仕方がないぜ。

夜まで少しお昼寝させて頂こう。
考えたいことはいくらでもなるけれどな。

読者諸君、失礼する。仕事納めは未だ遠い俺なのさ。

2014/12/21

Post #1355

Istanbul,Turk
風邪で不如意な身体を横たえ、いろいろと夢想する。
頭をよぎるのは、街で見かけたちょっといい女か。カミサンは、俺を置いて出かけている。夜の仕事までの退屈しのぎに、自分の中で妄想してみる。


初めて抱きよせて、口をつけた途端に感じる唇の柔らかさ。
その味は、なにより甘い。
抱きよせている腕に、力がこもる。
思わず、『人生が狂っちまったら、どうしよう』と口にしてみると、
あなたは呆れたようにくすりと笑って、『そんなことあるわけないじゃない・・・』ともう一度唇を重ねる。

けれど、俺という人間は、骨と血と肉だけじゃなく、出会った人の思い出でできている。
あなたのことを知ってしまったからには、もうさっきまでとは、すっかり違う自分になっているのだ。
俺そのものが変わってるんだから、人生なんて狂っても、おかしくないだろう?
本当の人生は、道を踏み外したときにはじまるものさ。

たわわな胸に顔をうずめると、息すらできないほど。
苦しくなって、ふと、このまま死んでしまうんじゃないかと不安になるが、
それならそれも悪くない。
男として、女性の胸のなかで息絶えるのは、本望だ。
耐えられなくなって、顔をはなしておおきく息を吸い込むと、
甘い体臭とほんのりとした汗の香りが鼻をくすぐる。
そのまま崩れ落ちるようにして、小さなおへそ、そして柔らかく湿った茂みの奥に・・・。

そこにするりとすべり込ませて、そのまま四肢に力を込める。
繋がったままに抱き上げて、生きている人間の重みを確かめるのさ。
あなたは途端に子供のように怖がって、おろしてほしいというだろう。
そして、少し恥ずかしそうに、『重いから…』っていうのさ。
その重みこそが、生の証しだと俺は知っているんだ。

愉悦に眉間は寄せられて、口は開く。その中で舌が小さな蛇のように、俺の舌を待ち受けている。
そんなあなたの顔をながめて、俺は思わず心の底から『かわいいなぁ…』とつぶやく。
あなたはそんな表情のまま、小さく首を振り『かわいくないよぉ・・』と返すのさ。

あなたが自分のかわいらしさを、しらないんだとしたら、残念だ。世界的な損失だ。
それとも照れてるだけなのか?
若さと美しさに溢れた年月は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
その絶頂の愉悦の表情を、愛おしく思わない男なんて、俺からすればつまらぬ奴さ。

楽器を奏でるように、あなたに声を出させる。
後ろから見ると、まったく素敵な曲線で、ヴァイオリンかスポーツカーのようだ。
象にも駱駝にも乗ったことのある俺だが、それ以上に揺れている。
テンポをあげたその果てに、『もう行くよ』といえば、
あなたは『そんなこと、いちいちゆうなぁ・・』って唸るように声を絞り出す。
それすらも、可愛らしい。

枕語りに、『君と一緒に、旅してみたいよ』といえば、
やんわり断った心算だろうか、『あたし、外国の食べ物はあわないの・・』

俺は天井を見上げつつ、自分の旅してきた道程を想い出す。

虫たちの鳴き声しか聞こえないバリ島の、ヤモリが壁を伝うやさしい夜を。
昼となく夜となく、祝祭のような熱気に満ちたマラケシュの広場を。
どこまでも青く澄んだアドリア海に浮かぶ、水上の城のようなドブロブニクの街を。
イスラムの礼拝を告げるアザーンが、響きわたるイスタンブールの雑踏を。
どこまでも続く森のあいだ、無数の湖が宝石のようにきらめくフィンランドの大地を。
果てしなく続く雲海の向こうに、そびえたつヒマラヤの峰々を。

俺は、出来る事ならば、あなたに見せてあげたかったのさ。
見も知らぬ世界を渡り歩くことが、どれほどこの退屈な生の慰めとなることか。

どんな愉しい時間にも終わりは来る。
帰りがけ、あなたは俺に『忘れ物は?』と声をかける。
俺は、ポケットを探る。財布、携帯、煙草になんやかんや。
腕時計もしている。全て揃っている。
『忘れ物は、俺の心だけです』と言えば、
あなたは気の利いたジョークだと思って、笑ってくれる。
さようなら。
俺は車の中で、ほんのりと身体にしみついた、あなたの残り香を楽しむのさ。

けど、本当に俺は心を忘れてきてしまったのさ。
出来るなら、そんな俺の心を、あなたがそっと預かっておいてくれるとうれしいよ。

とまぁ、そんな品のない夢想を頭の中で繰り広げてしまった。
ちょっと面白かったので、忘れないように書き記してみた。
気分を悪くしたなら許してほしいぜ。

読者諸君、失礼する。俺はこれから病身に鞭打って、仕事に出かけるのさ。君たちが、これを読んで呆れるころには、俺はそんなこと思う余裕もなく、粉骨砕身、漢だらけの男祭りさ。

2014/12/20

Post #1354

Kathmandu,Nep
人と人の人生の軌跡を、一本の線に喩えるなら、人と人の出会いは、その線の交わる一点だけのことで、2本の線が一つになることはない。

寂しい話だが、それが人生だ。

とりわけ、男と女の線は複雑怪奇。
それぞれの人生で、数多の交点を得て、他の線と切り結ぶような猛者もあれば、
一度交わったきり、もう誰とも交錯しない寂しい人もいる。

まれに交わった二つの線が、ひょんなことから縒り合されるようにして、
同じ軌跡を描いてて所帯をもったりするわけだが、それとて、決して交わらない二重らせんのようなものかもしれない。
そして一度、線と線が激しく火花を散らすように交わったとしても、それはほんの一瞬のことで、再び見える事すら出来るかどうか怪しいものだ。
その後の人生を、かつて味わった愉悦の記憶のみを、思い返し蒸し返すようにして生きることは、生皮をはがされて、熱い鉄板の上を転がされるような残酷さだ。

それを想えば、そんな線と線の、男と女の出会いが良いことかと言えば、酷なモノだなとしか言えない気もする。

どれほど愛しいと相手の身体を抱きしめて、錨を打ち込むようにして一つに繋がり、舌と舌を絡めてみたところで、その愛しく柔らかい肉体のうちに潜んでいる実態は、抱きしめる手指の間を、合わせた口の吐息の合間を、するりと抜けだしてしまって、けっして掴み取ることはできない。

それよりなにより、如何に皆さまに喜ばれるお金を山と積んだとて、人が人をモノのように所有することなどできない。
喩えひととき、90分3万円なりの金で買ったとしても、それはほんの短い時間、身体を交え、刹那の快美に酔いしれるだけのことで、漁師が根こそぎすなどるように、相手の喜びや悲しみの底の底まで、味わい、分け持つことなどできっこない。
それを想うと、泣きたいような底なしの寂しさに打ち震えるのだ。

どうやら人間というのは、肉体という牢獄に繋がれた孤独な囚人のようなものだ。
16歳のあの日に漠然と抱いた思いは、46歳になろうとする今、はっきり確信に変わっている。

いつも、誰とでも、本当に分かり合えない寂しさ切なさを感じるのは、俺の気質的な不具なのだろうか。

知ってほしい、わかってほしい、受け入れてほしいという切なさと、
知りたい、わかりたい、すべてを受け入れてしまいたいという愛しさ。

それでも、その切なさ寂しさは、相手への愛おしさとあいまって、
えい、次こそは、と厭きることない営みに向かわせ、
挙句手ひどく拒絶されたり、前よりむしろ謎が深まったりし、
貧しい心をかき乱すことになる。

生きるというのは、こんな俺には、残酷な刑罰のようなものさ。

読者諸君、失礼する。俺は毎日こんなことばかり考えている。この切なさが俺の言う、『もののあわれ』という奴さ。生きているのは愉しいけれど、同じ分だけ寂しく悲しい。

2014/12/19

Post #1353

Boudhanath,Nepal
本日、体調不良につき写真のみお送りしよう。
咳が酷くて寒気もする。
つまりは、風邪をひいたのだ。
だからと言って、家でいつまでも眠っているわけにもいかないのだ。厳しいもんだぜ。

読者諸君、失礼する。ぐっすり眠りたいよ。

2014/12/18

Post #1352

Ratnanagar,Nepal
久々に夜仕事に出撃し、朝外に出てみると、雪がどっかり積もっていた。
朝6時。15センチ以上積もっていやがった。

ロマンチックな風景だ。写ってるのが俺の車じゃなけりゃな。
冗談じゃない。俺の車はノーマルタイヤだ。

さて、何とかノーマルタイヤで帰るか、雪が溶けるのを車の中で待つか。難しい選択だ。
エンジンをかけっぱなしにしても寒さをしのぎ切れない気がするぜ。練炭火鉢でも用意しとけば良かったな。
さて、どうしたものか・・・。
よく考えてみると、以下のようになる。
①雪が止んで、道路の雪が溶ける保証はどこにもない。
②既に車によって潰された新雪は、アイスバーンになりかかっている。
③通勤時間帯に突入すると、とんでもなく渋滞する。

以上の項目を考えあわせてみると、ここは一丁おっかなびっくり帰ってみるのが正解に思えた。
ボンネットに積もった雪は、視界を遮っているので、何とか払いのけたんだが、凍傷になりそうな冷たさだ。
最初はフロントグラスの雪だけ払いのけて発進したんだが、何も見えないことに気が付いて、信号待ちの間にせっせと除雪したよ。笑えてくるぜ。

雪道をノーマルタイヤで走るにはコツがいる。
決して急発進、急ブレーキ、急加速しないことだ。
アクセルも、踏んでるのか踏んでないのかわかんないくらいにしてた方がイイ。
出来たら、のろくさ走ってる奴に、車間距離を開けてついて行くのがイイ。後続車からの余計なプレッシャーを感じなくていいからな。俺はこう見えて繊細なんだ。
路面はトラックの轍で凍っちまって、ガッタガタだぜ。駱駝に乗ってるんじゃないかってくらい揺れまくるんだ。笑えてくるぜ。
国道沿いのヨーロッパの城をモチーフにした下衆なラブホテルが、アナと雪の女王に出て来るんじゃないのってくらい、素敵に見えたぜ。
雪道を運転しながら撮ってるんで、構図もへちまもあったもんじゃねって!死ぬよ!
まぁ、何はともあれ無事に帰ってきたんだけど、問題は今夜どうやって仕事に行くかだ。

読者諸君、失礼する。面白がってる場合じゃないぜ。一眠りしてから考えさせてもらうさ。

2014/12/17

Post #1351

Kathmandu,Nepal
冷たい雨が降っていた。雪になるかもしれない予感があった。
俺は鬱屈していた。
どんな法律も与党が思うままに作れるようなワンサイドゲームの選挙結果にうんざりしていたんだ。そして何より、これからどんなに生きにくい時代がやってくるのかを考え、心が沈み込んでいた。
重苦しい胸やけのような感覚を抱いたまま、暗室に籠ってプリントする気にもならなかったんだ。
閉塞感を打ち破るために、雨の中、車に乗り込みあてもなく走り出した。
途中雪がや凍結が心配だったので、そんなに無茶苦茶なスピードは出さず、年末の慌ただしい時期に事故に遭ってもバカバカしいので、そこそこ安全運転で。
ただ無性に、何も考えずに、大好きな音楽を聴きながら、時には大きな声で一人車中で歌いながら、車を走らせていたかったんだ。地球温暖化に無駄に貢献しちまったな。これで隣に素敵にセクシーなおねーさんがいて、どこかにしけこみ、頭が真っ白になるまで楽しめたなら、サイコーだ。おっと、こんなのがカミサンに見つかっちまったら、何言われるか分かったもんじゃない。
あくまで、漢の夢とロマンの世界だ。
何時間も走っていると、雨も次第に上がってきた。周囲の車も少なくなってきて、スムーズに車を転がすことが出来る。
ふと、気が付いた。
自民党の皆さんが、どんな法律をつくろうが、律儀に守ってやる義理なんか、俺にはこれっぽっちもないんじゃないか?ってね。
俺は別に無法者になって、人々を痛めつけたりしたいってことを言ってるわけじゃない。

自分の良心が認めない法律(たとえそれが憲法だったとしても)を、ソクラテスみたいに『悪法も法なり』とか言って、馬鹿正直に守ることないんじゃないかってことさ。

禁じられても、見つからなけりゃ悪いことじゃない。車のスピード違反といっしょさ。

そもそも、政治家に出来る事なんて法律を作ることだけだ。
そして、法律なんてしょせんは『幻想』なんだ。

立ち入り禁止の看板をどれだけ立てようが、そんなものはある人間なり組織が勝手に決めただけのことだろう?
誰だって、そんな看板を見れば、入っちゃいけないと思うだろう。
けど、もしも俺の良心がそれを認めなければ、俺は踏み越えるだろう。躊躇しないさ。
それでとっ捕まったら、それはその時さ。
豚箱に入れられちまったら、お上の経費でおまんまにありつけるってものさ。
とりあえずはまだ、戦前みたいに、国家の方針に反対する者や戦争に反対する者、自由を主張する者を、片っ端からとっ捕まえて、拷問したり密殺したりするところまではいってないだろう?中国とか北朝鮮の話じゃないぜ。この日本で、つい70年前までフツーに行われていたことさ。けど、いまはそうじゃないんだろう?冤罪はゴマンとあるみたいだけどな。

命までは取られないんだったら、自分の良心や信念を、あの時代錯誤の愛国親父どもが作ろうとしているロクでもない法律よりも優先させたって構わないぜ。いや、むしろプライオリティー・ファーストだ。最優先だ。
そして、俺だけじゃなくて、君や日本中の人々がそれに気が付けば、権力者なんて裸の王様と一緒なんだぜ。痛快じゃないか?それが、ピープル・パワーだ。デモしたりする必要もない。ただ黙って従わなけりゃいいのさ。簡単なことさ。出来るだけ、ばれないように上手くやりなよ。

国家も法も、統治のためには、一人一人の人間の内面など無視して、一個の数字として扱うほかない。それは解かる。しかし、もしその数字の向こうに、日々懸命に生きる人々の姿を想像することが出来ないのなら、どんな理不尽な法でも、自分たちが作りたいように作れてしまうだろう。それが政治だ。江戸時代と大差ないぜ。

けれど、俺たちは誰しも、無味乾燥な数字ではない。
そして、法も国家もしょせんは『幻想』でしかないんだ。
俺ははっきり断言するぜ。国家よりも、法よりも、個人の精神の世界は奥深くって豊穣だ。

自分自身の心のなかを覗いてみたり、身近な人の心のなかを思い遣ったりすれば、そのことに気が付くだろう。どこまで行っても、果てしがないんだ。
そして、それに気が付けば、他人をモノのように扱うことの愚かしさに気が付くだろう。
誰しも、かけがえがないのだ。いとおしいのだ。可愛らしいのだ。
写真をプリントしているとき、いつもそう感じる。

何も悩むことなんかねぇ、無法無頼で行けばいい。俺の良心だけが、指針だ。人としてやっちゃいけないことなんざ、お上に指図されなくたって、自分でしっかりわかってるぜ。
暗い夜道で車を転がし続けて、それが解かった。

読者諸君、失礼する。大事なことだからもう一回言っておくぜ。禁じられても、見つからなけりゃ悪いことじゃねぇのさ。

2014/12/16

Post #1350

Swayambhunath,Kathmandu,Nepal
俺の大好きな金子光晴の本の一節から。

『日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ。(中略)しいて言えば、今日の日本の繁栄などに、目をくらまされてほしくないのだ。
 そして、できるならばいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、すこしでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。
 絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は、破滅的なのだ。
 日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずもはなく、口先とはうらはらで、人間は平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもえてくる。』
(金子光晴『絶望の精神史』講談社文芸文庫刊)

読者諸君、失礼する。俺たちには絶望が足りない。

2014/12/15

Post #1349

Chitwan,Nepal
鰐の棲む河を、孤舟が渡っていく。
今の気持ちを聞かれたら、こんな気持ちだと答えよう。

読者諸君、失礼する。君たち、本当にこれでよかったのか?

2014/12/14

Post #1348

Moulay Idriss,Morocco
写真は、2012年の1月に行ったモロッコの聖都ムーレイ・イドリスで撮ったもの。
男性の背後には、俺が訪れる少し前の2011年11月25日に行われた選挙のポスターを貼っていたとおぼしき枠が、スプレーか何かで直接書かれた壁がある。
詳しいことは忘れてしまったけれど、モロッコは王政なので、それまでは首相は国王によって任命されていたけれど、この選挙で初めて占拠で多数議席を獲得した政党から選出されることになったのだそうだ。
モロッコの人々が、初めて自分たちのリーダーを自分たちの手で選ぶことが出来たと、熱っぽく語っていたのを想い出す。

民主主義というのは、当たり前のようで当たり前ではない。
そして、民主主義がたんなる多数決であるのなら、小学校の学級会と変わりない。
大多数がなんとか承服できる方針に、どれだけ少数派の思いを汲み取ってやることが出来るか?そこが大人にしかできない高等テクニックなのだと思うけれど、昨今の政治は、何かと白黒はっきり決めたがる。
モノクロ写真といえども、実は白と黒のあわいのグレーゾーンによって成立しているというのに、複雑な現実社会を相手にするのに、白黒つけるのは難しい。
何事も白黒つけたがるのは、子供の理屈だ。
世の中は、光と闇、正義と悪、敵味方などといった単純な二元論では割り切れないんだ。
この21世紀、男と女だって、その中間に位置するようなアイデンティティーの人もたくさんいるというのに。
しかし、俺個人としては、一つを選ばないとな。
さまざまな意見の奴らが、それぞれに自分の意見を託して投票するのがイイんだ。
そして、出来る事ならば、違う意見の政党勢力が、均衡している方が望ましいんだけどなぁ・・・。大政翼賛会とか挙国一致だとかってのは、俺は御免蒙るぜ。

さて、選挙に行ってくるとするか。

読者諸君、失礼する。何にもしないより退屈しないぜって、むかしキヨシローも歌っていたしな。

2014/12/13

Post #1347

Kathmandu,Nepal
ここんところ、俺のブログはシリアス展開だった。
仕方ない、人生にはシリアスにならざるを得ない局面があるものだ。
けれど、ほんとうは俺、シリアスに社会を憂いたり、自らの如何ともしがたい境遇を嘆いたりしているよりも、もののあわれのほうが好きなのだ。
『もののあわれ』って何よって、人間のほれ、男と女の話だよ。

古典だったら伊勢物語とかね。
詩人だったら、良く取り上げてる金子光晴とかね。
男の俺にとっては、女の人っては、うん、これはもう少しで解かりそうでいながら、どこまで行ってもよく解からない不思議なものだから、それを少しでも知るってのは、世界の半分を理解していく営みだと思えるよ。

だからいつも、女の人を見かけると、つい写真を撮ってしまう。

名前が出たついでに、金子光晴の詩を一つご紹介してみようかな。

もう一篇の詩

恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。

(金子光晴『人間の悲劇』より)

ええなぁ、と心底思う。
こんなことを書けるのは天才だなぁってホントに感心するよ。
こんなのも行っとこうかな。
この詩も好きだ。

愛情1

愛情のめかたは
二百グラム。

 僕の胸のなかを
茶匙でかき廻しても
かまはない。
どう?からっぽだらう。

―愛情をさがすのには
熟練がいるのだ。
錠前を、そっと
あけるやうな。

―愛情をつかまへるには
辛抱が要る。
 狐のわなを
しかけるやうな。

―つまり、愛情をおのがものにするには大そうな覚悟が要るのさ。
愛情とひきかへにして、
ただより安く、おのれをくれてやる勇気もいる。

 おのれ。そいつのねだんは
十三ルピ。

(金子光晴『愛情69』より「愛情1」)

作家の高橋源一郎は、金子光晴を読めば、あなたの人生で確実に恋人が一人は増える、しかも、質の高い恋人が!と保証してくれているけど、ほんとにそう思うよ。
とはいえ、そんなにたくさん恋人がいたら、それはそれで身が持たないけどな。

読者諸君、失礼する。それにしても13ルピーとは、ずいぶんと安いものさね。ネパールの田舎でも、チャイ一杯飲めやしないさ。

2014/12/12

Post #1346

HongKong
路上占拠を75日に渡って続けてきた香港の民主化運動が、強制的に排除された。
いずれ、そうなることは判っていた。残念ながら。
デモをするだけで、世界が変わるとは思ってはいない。俺たちは、少なくとも俺はそこまでナイーブではない。残念ながら。
2014年の香港は、1792年のパリではないのだ。残念ながら。
当局に拘束された若者たちの将来を思うと、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
社会に戻ることが出来れば、幸いだが、天安門事件のことや、中国本国で行われている共産党に異議申し立てをした多くの人々が行方不明になっていることを考えると、どうなるものか、何とも言えないようにも思える。
拘束されなかった人々も、敗北者として苦難の道のりが待っていることだと思う。残念ながら。

戦後最大の思想家、吉本隆明が自らの労働争議体験を通じて、60年安保について語った言葉を記したい。
とっても長いけど、引用することを許してほしい。

『わたしは、どのような小さな闘争であれ、また、大きな闘争であれ、発端の盛り上がりから、敗北後の孤立裏における後処理(現在では闘争は徹底的にやれば敗北にきまっている)にいたる全過程を、体験したものを信じている。どんな小さな大衆闘争の指導をも、やらしてみればできない口先の政治運動家などを全く信じていない。とくに、敗北の過程の体験こそ重要である。そこには、闘争とは何であるか、労働者の「実存」が何であるのか、知的労働者とは何であるのか、権力に敗北するということは何であるのか、を語るすべての問題が秘されている。(中略)
 また、現在の情況の下では、徹底的に闘わずしては、敗北することすら、誰にも許されていない。
かれは、おおくの進歩派がやっているように、闘わずして、つねに勝利するだろう、架空の勝利を。しかし、重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし通して、そこから何ものかを体得することである。わたしたちの時代は、まだまだどのような意味でも、勝利について語る時代に這入っていない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。』
(吉本隆明『背景の記憶』平凡社ライブラリー刊より)

自分の乏しい人生経験を通じていえることは、どんな小さな権力に対する闘争も、徹底的に行えば、敗北し、孤独な退却戦を強いられることになるということだ。これに関しては、吉本隆明の言葉を、地に足の着いたものとして理解することが出来る。
問題は、そこから以後、どのように生き抜いてゆくかだ。

既に物故して久しい写真評論家西井一夫は、自らの安保闘争体験を振り返って、次のように述べている。再び、引用を許してほしい。

『闘いに敗れること(さまざまな戦線で、だ)によって、にもかかわらず依然として敗れ去ってはいない(忘れることと忘れ去ることの違いは、ただの忘却には想い出す潜在的可能性があるが、忘却していることを忘れるのが忘れ去ることである)思想・心情・精神を抱きながら、いかにして不在な「以後」を生きるのか?』
(西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』青弓社刊より)

香港の若者たちが、自らの敗北を忘れ去ることなく、『以後』を生き抜いてくれることを祈らずには、いられない。それによってこそ、時代はじりじりと変わってゆくのだから。

読者諸君、失礼する。そういえば、日本には敗北を忘れ去った人々がたくさんいる。だからこそ、いまこんなていたらくだ。

2014/12/11

Post #1345

Dattatraya Temple,Bhaktapur,Nepal
ネパールの古都バクタプル。
ダッタタラヤ寺院に、日が暮れたところに老人たちが集まってくる。
日中は街の辻に設けられたあずまやで談笑したり煙草を吹かしているだけに見える老人が、日暮れとともに寺院に集まり、シヴァやヴィシュヌを讃える歌をうたい、楽器を打ち鳴らす。
老人たちは寛大で、異教徒異民族の俺にも手招きし、ともに座り、ともに手を打ち鳴らすよう促す。
現代の日本の老人たちには見られないような、しかしどこか懐かしい老人たちの姿。
君にまっとうな感受性があれば、寛大で柔和な表情のなかに、威厳を感じることが出来るだろう。
この老人たちの姿を見ると、この地の老人たちは、進んだ医療や介護サービスなんかどこにもないけれど、見事生き切ったものだな、羨ましいものだという思いを抱かずにはおれないのさ。

俺は常々疑問に思っていることがある。
どうして、日本では歳をとった人間に対して、敬意が払われないのだろう。
どうして、日本では年寄りに童謡なんかを歌わせて、子供のように扱うのだろう。
どうして、日本では老人に話しかけるのに、子供に話しかけるようにするのだろう。

俺自身がまかり間違って年寄りになった時に、童謡なんか歌わされたとしたら、屈辱だ。
頑是ない子供に言い聞かせるように話しかけられたとしたら、悲しくなってくることだろう。
人生を通じて積み重ねてきた経験を、すべて否定されたような気がするに違いない。

かつては豊かな人生経験を積んだ老人は、共同体の精神的な指導者であったし、老人そのものに人生を達観したような威厳があった。はずだ。
たしかに、現代は多様な価値観が次から次から生じ、老人たちがかつてその人生を通じて培った経験は、速やかに陳腐なものとなってしまうことは否めないだろう。
しかし、どれだけ社会や文化が急速に変わっていったとしても、人間が生きるということの本質は、そうやすやすとは変わらないのではなかろうか?
また、かつてはどのような社会にも、宗教的な価値観がしっかりと根を張っており、老人は神もしくは仏という、超越的なものの存在により近づいた存在として認知されていたのではないかとも思う。
しかし、この高度資本主義社会では、何時の間にやら富そのものが、神を至高の座から引き下ろして、あらゆる価値観の中心に居座っている。
冷静に考えてみれば、富はあくまで手段でしかない。
どう生きるのかという古今万人に共通の人生の主題は、富という空っぽの中心の周りを虚しく回るだけで、その核心に触れる事がない。
どれだけ生きても、富という手段でしかないものが、目的にすり替わっている以上、経験がもたらすものはごくわずかだ。
これでは、年齢をかさねていったとしても、ただ虚しく生を浪費したということにしかならないのかもしれない。
極論を承知であえて言わせてもらえば、現代の日本では、生産性のない老人は、その生涯でため込んだ資産を介護ビジネスや葬儀屋や、孫の教育費のために吐き出す財布ぐらいにしか思われてはいない。

なぜそうなってしまうのか?
自分自身を顧みてみれば、そのヒントに思い至る。
俺は45歳だけれど、人生五十年と言われていた時代なら、とっくに老境に差し掛かっている年齢だ。しかし、戦国時代や明治時代の二十歳そこそこの人間にも、人間的にとても及ばないような気がする。
俺は自分で言うのもなんだけれど、いろいろ考えないと面白くない性分なんだが、それでも今よりもずっと情報も少なく、寿命も短い時代の人々と比べて、人間的な厚みがあるとはとても思えない。馬齢を重ねるとはこのことだ。要するに人間性が薄っぺらいのだ。軽佻浮薄なのだ。

たしかに自分の周囲を見渡しても、そんな人間は少ない。
ただ単に爺むさく老け込んでいる人間なら見ることは容易いが、年齢を重ねるごとに、どっしりとした存在感をまとう人間は実に少ないのだ。
そして、目の前を流れ去る事物に汲汲としているだけで、時間は瞬く間に過ぎ去ってしまい、一息ついたころには、既に老人と言われる年齢になってしまう。
そうなったときに、はたしてどれだけ人間としての巨きさが培われているのか、疑問だ。

生産性を至上の価値とする社会で、生産と消費に明け暮れ、自分の内面を顧みることがなければ、老いを迎えたときに、何が残るのだろう。
社会のお荷物にされてしまうだけではなかろうか?
それでは、子供をあやすように話しかけられ、童謡を歌わされて、手拍子なんかさせられても仕方がないか。

読者諸君、失礼する。年は取りたくないが、隠者のような年寄りにならなりたいもんだ。その時には、童謡じゃなくて御詠歌や念仏でも唱えていたいぜ。

2014/12/10

Post #1344

Kathmandu,Nepal
特定秘密法が施行されてしまった。
憮然とするしかない。俺は前にも言った通り、この法律には明確に反対だ。こそこそしやがって、気持ちわりいぜ。秘密なんてのは、男と女の間だけにしておきたいもんだぜ。

さて、俺に突如として問題が降りかかってきた。
まったく俺の人生ってのは、いつだって次から次に問題が発生しやがる。
誰の人生もそうなのか?
俺が取り立てて器が小さくて大騒ぎしてるだけなのか?
それとも俺が心配性なのか?

俺の内縁のカミサン41歳が、子供が欲しいと言い出したんだ・・・。
最近やたら、スーパーなんかで見かけた子供をかわいいかわいいっていうと思ったら・・・、そういうことか・・・。

ぎょえ!

俺は今45歳。年が明けたら46歳。そっから仕込んで子供が生まれる頃には47歳。カミサンだって、42歳、高齢出産も高齢出産だ。
うちのカミサンはフルタイムで外資系の企業でガンガン働いている。育児休暇や時短勤務なんかの制度もしっかりしている。
しかし、しかしですよ・・・。

子供なんて、誰でも育ててるじゃないかっていうだろう?
けど、俺の人生、適当すぎて、先なんかまったく見えやしないんだぜ。いうなれば、お先真っ暗闇だ!
そんな男がこの年で子供って・・・。

昨日の晩も、風呂につかりながらいろいろな考えが頭をよぎる。

ダウン症の子が生まれちゃったら、たいへんだなぁ。
家の中では、英語を公用語にして育てるのがイイんじゃないか?
ゲームはどれくらいの時間やらせたらイイもんなのか?
反抗期とかになっちまったら、やっかいだなぁ・・・。
その頃には俺はすっかり爺さんだろうし。
子供連れで海外に旅行に行って、いまみたいなペースでガンガン写真撮ったりできるんかいな?
それとも、子供のことしか見えなくなって、世に蔓延る親馬鹿写真ばかり撮るようになっちまったら、どうしよう?
子供ができたら、3歳くらいまではチューしちゃだめだぞ、虫歯菌が子供に感染しちゃうからな。
RSウイルスとかに感染したら大変だぜ。
それに、子供が成人するまで、ガンガン働かなきゃならねぇじゃないかよ・・・。
俺の業界、年齢制限があるんだぜ・・・、こまったなぁ・・・。
下手したら、子守しながら仕事したりプリントしたりしなけりゃならないんじゃないか?
サッカーとかやりたいとか言い出したら、めんどうだなぁ・・・。俺はスポーツ好きじゃないんだ。
父兄参観にはヒョウ柄のズボンとかはいて行っちゃマズイかなぁ・・・。
子供がいじめとかにあったら、どうやって守ってやったらイイんだ・・・。

頭の中をいろんな考えがぐるぐる回って、止まらないぜ!最大の問題は、コウノトリってのは、どうやって子供を運んでくるのかってことだ!

俺の敬愛して止まない忌野清志郎は、初めての子供が生まれる前、子供ができたらもうロックなんかできないって思って、一日中スタジオに籠って次から次に曲を作っていたそうだ。それだって、確か清志郎が38歳くらいの頃だ。
重ねて言うが、俺は、とっくの昔に45歳だ。
俺だって、子供ができたら、もうこんな写真撮れないんじゃないのかってビビってるよ。

正直言って、あと五年早く言って欲しかったよ。

読者諸君、君たちの意見を承りたい!ひょっとしたら俺も、この年になってやっと大過なく子供を受け入れることが出来る様になってるのかもしれないけれどな。
まぁいいさ、なるようになれ。どんなことでも、最後はなるようにしてなるんだ。それが人生だ、ロックンロールだ。じじいになっても、踊り続けてればいいんだろう?

読者諸君、失礼する。こんなことブログに書いたってカミサンに知れたら、また八つ裂きにされちまうから、黙っといてくれよな。頼んだぜ、皆の衆!

2014/12/09

Post #1343

Boudhanath,Nepal
自分の写真の在り方が、物足りなくなってきた。
気の向くままに旅をして、目についたものを片っ端からフィルムに収め、小さな暗室で現像し、このブログでごく少数の読者の皆の衆に見てもらう。
悪くない。
けど、フツーだ。
どっちにしても、さほど反響もない。手ごたえのなさが物足りない。
俺は今、自分の写真を世界に還流させたいと考えているんだ。
俺の写真は、自分の目にした世界を、ある瞬間で切り取ったものだ。
いうなれば、世界の断片だ。
それを暗室の中で再生させ、スキャンして、君たちに見てもらっているんだけど、もう一歩進めてみたい。

自分の撮った写真をできるだけ大きく出力して、自分がその写真を撮った場所に掲げてみたいんだ。

写真に全く興味のない人も、その写真を目にするだろう。
同じ場所でも、瞬間瞬間によって表情は全く違う。
同じ場所でも、何時までも同じ人が佇んでいるはずもない。
同じ場所でも、かつてあった建物は打ち壊され、風景は一変しているかもしれない。
その一瞬は、絶対的に一回こっきりなんだ。

その思いの一環として、このブログには可能な限り、撮影箇所をマッピングしているんだ。PC版で見ると、下の方に場所が明示されていることを、目ざとい読者諸兄諸姉は気が付いていることだろう。
たとえば、今日の写真なら『場所 ネパール〒44600カトマンズ ブーダ』とか記されていることだろう。そこをクリックすれば、グーグルマップにリンクしているので、その場所を地図で見ることができる。写真が掲載されている場所なら、写真を見ることもできるだろうし、ストリートヴューが記録されている場所なら、それも見ることができるだろう。

それをさらに一歩進めて、その場所そのものに、俺の写真を還してみたいのさ。
そう、フィードバックって奴だ。ロックのフィードバック奏法みたいなものか。つまり、スピーカーの真ん前でエレキギターの音をスピーカーから出し、その出力された音自体をギターのピックアップで拾って再出力すると、わけの判らない音が出るというあれだ。
どんなことが起こるのか、俺にも予想がつかない。
それが面白いとは思わないか?

出来得るならば、写真という表現の枠を少し逸脱して、モダンアートの方に踏み出したい。
こじんまりとした閉じた世界から、俺の写真を解き放ってやりたい。
かつて俺がカメラを携えて、世界と対峙していたそこにこそ、モノクロで再構築された、かつての風景を還してあげたいのさ。

普段何気なく目にしている風景が、四角いフレームに収められるとどう見えるのか?

見慣れた景色や色彩が、モノクロになるとどう見えるのか?

レンズを通すと、この光が、この空が、いったいどう見えるのだろうか?

何気なく見落としているもののなかに、思わぬ美しさや面白さが潜んでいるのが見えるだろうか?

まったく写真に興味のない、そこいらのおっちゃん、おばちゃん、おにいちゃん、お嬢ちゃんに、俺の写真の持ってる力をゴリゴリと押し付けてみたいんだ。
それには、見過ごすことのできない巨大なサイズが必要だ。

いったいそれをどうやって実現するのか?
そんなことを可能にする機材を、どうやって入手するのか?
そして、そのプロジェクトを実行するための資金を、どうやって調達捻出したものか?
そんなことをして、行政や地域住民から苦情は来ないだろうか?

いろいろと具体的に形にしようと思うと、困難なことが山ほどある。
けれど、少しづつ課題をクリアして、この夢想に形を与えてみたいんだ。

俺の自己満足を越えて、俺の写真をこの世界に送り出してやりたいんだ。


読者諸君、失礼する。君たちも、何かいいアドバイスがあれば教えてくれないかい?君と一緒にワクワクしてみたいのさ。何しろ俺は正直に言えば、自分の人生に退屈してるんだ。

2014/12/08

Post #1342

Pashupatinath,Nepal
例年になく、雪が早くから降っている。
しかし、俺は陽光照り付けるパシュパティナートを想い出す。

燃えている。
燃えているのは、人間だ。
正しくは人間だったもの、亡骸だ。

獣の王(つまりパシュパティ)シヴァ神を祀るパシュパティナートは、ヒンドゥー教の聖地にして、火葬場だ。真ん中を流れるバグマディ川は、ガンジス川の支流であり、ここで火葬され、遺灰を川に流すと、その流れによって母なる川ガンジスに流れゆき、輪廻から脱することができるという。
ヒンドゥー教徒が8割を占めるネパールでは、最大にして至高の聖地とされており、人々はここで葬られることを願っている。

川岸に張り出して設けられた石の壇の上で、亡骸は焼かれる。
白い煙を上げて、人が焼けていく様を、対岸から俺はじっと眺めていた。
壇の端から、川のなかに向けて何かが滴り落ちている。
ニンゲンの脂だろうか。石の上に黒々とした筋を描いて流れ落ちていく。
俺の額からは、汗が流れ落ちる。

遺体をオレンジ色の布で幾重にも覆って焼くのだが、覆っているまわりで激しく泣いていた六親眷属も、巨大なキャンプファイヤーのような炎にその人が包まれてしまうと、観念したかのように静かになる。

太陽が照り付ける。
肉の焼ける臭いがする。それに髪や爪が焼けるような、あのなんとも言えない臭いが混じっている。
そこでは、否応なしに『俺たちは、一人の例外もなく、いつかこのように、死んでしまうのだ』という絶対の事実が突きつけられる。
俺の生きている日本では、死は巧妙に隠されている。自分の親族以外では、滅多に死体に接する機会はない。いつしか、俺たちは死を忘れている。
死を忘れているから、生が弛緩する。
俺は、母親が死んでから、もう30年も死にとらわれているように感じるよ。

じっと見ていると、自分が焼かれている様を、もう一人の自分が見ているような、不思議な感覚に襲われる。
死があるから、生は尊いのだ。

読者諸君、失礼する。こんな葬式だけれど、町のセレモニーホールで行われる葬式よりも、ずっといい感じだぜ。俺ならこっちがありがたいぜ。

2014/12/07

Post #1341

Bhaktapur,Nepal
俺の住む街から、そんなに遠くない街で、8月の台風の夜、2匹のヤギが盗まれた。
俺の住んでるあたりでは、新聞でも報道されていたので、知っている人も多いかもしれない。先日、その犯人が捕まったそうだ。
ヤギが盗まれた町、美濃加茂市では、除草費用を半減させる実験のため、岐阜大学と農業法人と協力して、約20匹のヤギを里山に放ち、セイタカアワダチソウなどの雑草をモリモリ食わせていたそうだ。
このヤギ、子供たちとのふれあい体験を通じて、市民にも親しまれていたそうだ。
それが台風の夜に首輪だけを残して、2匹消えてしまったのだという。
市はメディアを通じて、犯人に返還を呼びかけていたのだが、それは叶わなかった。
なぜなら、そんなころにはヤギはとっくにさばかれて、犯人たちの胃袋に収まっていたのだから。

ヤギを盗んだのは、3人のベトナム人で、車で仲間の家に運び、自分たちで解体して食っちまったのだという。ベトナムではヤギは普通に食されているそうな。
因みに、世界中でヤギは食われているらしい。

さて、この3人は留学とか技能実習生とかで入国したらしいが、現在は無職やアルバイトとのこと。
ここになんとなく俺は引っかかる。
留学で来た人ってのは、就学ビザで入国しているはずだろう?世界でも指折り排他的な日本の入国管理局が、就学ビザで来たものが、無職でぶらぶらしているのを看過していたのだろうか?
日本人でも無職でぶらぶらして暮らしているのは、自分の経験上、心細いことこの上ないというのに、世界的にも生活コストの高いこの日本で、無職でぶらぶらしていたら、ヤギでも盗んで食ってやろうかと思ってしまうのも、イイとは言えないが、無理のないことよのぉとも思えてくる。
実際、俺も失業していた時は、川を泳いでいるカモを見て、うまそうだなぁ・・という思いが脳裏をよぎったことがある。
まぁ、小人閑居して不善を為すといったところだ。

そして、世界的にも悪名高い日本の技能実習生制度。
俺も現場で中国人やベトナム人の技能実習生を見かけることがある。若いころに働いていた工場では、インドネシア人の技能実習生ってのがカレーの香りのむんむんするタコ部屋に押し込まれるようにして働いていた。俺の住んでる町にも、中国人の技能実習生がたくさんいて、驚くような低賃金で、日本人の若者がやりたがらないような仕事を担っているという。
そして、この技能実習生というのは、いわゆる出稼ぎではなく、あくまで技能の習得に来ているという名目なので、びっくりするほど賃金が安い。なかには、パスポートを取り上げられているケースもあるという。
研修期間中は厳密には『労働者』ではないので、労働関連法案は適応されない、つまり残業代も、労使契約もあったもんでないというのに、受け入れ企業さんは、安価な『労働者』としてこき使う。あまりに批判が多かったので、一応今では『労働者』扱いされることとなったが、転職の自由もないし、賃金不払い、人権侵害、過労死と思われる突然死も相次いでいるという。

ひどいもんだ。国際的にもこの制度は問題視されているという。日弁連は2013年6月、実習制度の早急な廃止を求める意見書を政府に提出し、米国国務省も、2014年人身売買に関する年次報告書で、劣悪な強制労働の温床となっていると批判したという、とんでもない代物だ。ベトナム人のあんちゃんたちが、うんざりしてドロップアウトした挙句、生活に困窮して、一丁ヤギでも捕まえて、腹いっぱいっ食ってやろうぜとなっても、ある意味仕方ないんじゃないかとも思えてくる。

日本の生産現場ってのは、農業から工場まで、この技能実習生といういかがわしい制度を使わないと成り立たないらしい。まるで年季奉公だ。いまどき丁稚や奴隷はないんじゃないのか?

日本人自身がやりたがらない、やれないような仕事を、研修生という名目の外国人の若者に押し付けておいて、使い捨てるような制度は、問題だと俺はずっと思ってきた。
同一労働、同一賃金というルールは、現在の日本にはない。
女性の賃金は低いままだし、派遣社員と正社員が、同じ作業をしていても、給料は全然違う。ましてや、技能実習生の賃金は驚くほど低いのだ。
そして、そのような奴隷制まがいの制度を使わないと存続できないような産業は、小手先の延命策ではなく、抜本的な改革が必要なんじゃないのか?それは痛みを伴うだろうけれど、何時までも避けて通れる問題ではないんじゃないのか?
この日本社会に渦巻く根深い矛盾が、今回のヤギ盗難事件の奥には横たわっているように、俺には思える。

読者諸君、失礼する。俺は果たして考えすぎだろうか?けれども、俺はこの日本が、奴隷制度の上に豊かさを享受するような国であっては欲しくないな。

2014/12/06

Post #1340

Boudhanath,Nepal
一ドル120円とは、適正なのであろうか?
それで潤っているのは、トヨタなんかの一部の大企業だけなのではなかろうか?
かつて、俺がヨーロッパあたりに旅行していた頃は、一ドル80円だった。そのころからすると、円の価値は3分の2に目減りしているわけだ。

これは凄いことだ。

去年の夏にクロアチア、ハンガリー、チェコとまわってきたときにも、円安を実感してうんざりしたものだけれど、1ドル120円にまで円が下落した今じゃ、とてもヨーロッパなんかに旅行には行けないぜ。いくら原油価格が下がっていて、サーチャージがお安くなっていても、宿泊費、食費なんかが地味に高くつくからな。当分、日本経済の流れが変わるまでは、ヨーロッパには行けないだろう。
どうりで外国からの観光旅行者が増えるわけだ。
今日も名古屋のビックカメラに行ったら、中国人だらけだったぜ。
先日取引先の懇親会で出かけたホテルも、泊まっているのは中国人ばかりだ。
あれだけいろいろ中国と政治的にギスギスしているくせに、商売だけは中国人頼みとは、どうにも節操がないというか、調子のイイ話だなぁと感じるぜ。まぁ、政治は政治で、民間の国際交流だっていうんなら、お互いのわだかまりも溶けるかもしれないが、どうやらそういう雰囲気でもない。昔の農協ツアーみたいに、日本に来ていろいろと買い物するのが主眼にみえるぜ。

日本円が安くなることで、国際競争力がついて輸出が伸びるというが、それもどうなんだろう。
既に円高デフレの時代に、日本の製造業は海外に生産拠点をシフトしており、そのメリットは限定的なんじゃないのか。
むしろ、燃料、原材料を輸入に頼らざるを得ないわが国では、デメリットの方が大きいのではないだろうか。幸い、いまのところ原油価格は下落傾向にあるけれど、これが上昇期に入ったらガソリン1リッターいくらになることだろう。そんなことになったら、ただでさえ国内流通のコストが高い日本では、流通関係の事業者に大きな打撃になることだろう。
また、日用品食料品なんかも、値上がりしている。輸入車もジワリと値上がりしているんだ。誰もかれもが海外に何かを売っているわけじゃないんだから、いい加減にこの円の下落傾向をストップしてほしいぜ。

また、大きな目で見てみれば、円の価値が下がったということは、円の信用力が下がったということを意味しないだろうか?
円の信用力が下がったということはですねぇ、つまりは日本の国際的な信用力というかパワーが下がったということになるかと思うわけです。それでいいのかどうかってのは、俺はなんとなく釈然としないものを感じているわけだ・・・。

今度の選挙は、自民党圧勝だと言われているようだけれど、アベノミクスとかいうこの経済政策も、何となくみんながイイというからじゃなくって、自分自身でメリットとデメリットを考えたうえで、投票させてもらうことにするぜ。

読者諸君、失礼いたす。俺は残念ながら日本国内でしょぼしょぼと金を稼いで、海外に旅行するのが好きなんでね。ストレートに言って、今の円安は我慢ならないのよ。
贅沢だって?放っておいてくれよ。俺の人生なんだからな。

2014/12/05

Post #1339

Boudhanath,Nepal
昨日の昼前、家で事務仕事をしていると、珍しく電話が鳴った。携帯じゃない、固定電話の方だ。しかも、フリーダイヤルの番号だ。
何かのセールスかと思って電話を取ると、国連難民高等弁務官事務所UNHCRからだった。

俺はずいぶん前にもこのブログに書いたことがあるが、(Post #535)ここ何年か、毎月国連難民高等弁務官事務所に千円づつ寄付しているんだ。
この世界は残念ながら紛争に満ちている。
民族や宗教やら何やかんやで、あちこちで揉めに揉めている。で、それで一番割を食うのは、普通の人々だ。武力紛争や民族浄化みたいな愚行で、生まれ故郷を追われ、着の身着のままで国外に逃げなければならない人々が本当にたくさんいる。
日本に住んでいると、何故かそういったニュースはほとんど報道されない。どのニュースも、ドメスティックな話ばかりだ。アベノミクスがどうだのこうだの、トヨタの利益がどうだのこうだの、芸能人のプライヴェートがどうだのこうだの、尖閣諸島や小笠原諸島がどうだのこうだの・・・。海外のニュースったって、中国か韓国か北朝鮮のニュースしかない。おかしなもんだ。島国根性だ。
しかし、旅先でCNNやアルジャジーラ、BBCなんかを見ていると、世界中の紛争地域に、使命感のあるレポーターが赴き、時には命がけで報道しているのを見ることができる。NHKさんにも、もっと頑張ってほしいもんだね。

さて、UNHCRからの電話は、シリア内戦による難民の支援のための寄付の増額のお願いだった。
シリアは大統領派、反大統領派、クルド人勢力、そしてイスラム国など、さまざまな勢力が入り乱れて戦っていて、何が何だかわからない状況になっている。
そして、少数派の人間は、虫けらの様に殺されたり、多くの女性が性奴隷にされたりしているという。既に死者は20万人を超え、難民は200万人に迫る勢いだ。
この21世紀に、なんてこった。
何が何だか訳が分からないが、一つだけはっきりしていることがある。

一番悲惨な目に合うのは、穏やかに暮らしたいと願っている、普通の人々だってことだ。
そう、俺や君のような、普通の人々が、一番ひどい目に遭っているんだ。

つい先日も、国連世界食糧計画WFPが、シリアの周辺国であるトルコやレバノンに逃れた難民に対する食糧支援を、資金不足のために打ち切ったと報じられていたのを、俺は知っていた。
これから寒い冬が来るっていうのに、防寒もままならないうえ、食糧支援も打ち切りって、どんな仕打ちだい?
もし、君がシリアに生まれ育ち、隣人や家族を殺されて、命からがら隣国に保護を求めて逃げ出したと難民だと考えてみたら、資金不足を理由に支援を打ち切られたとしたら、どんな思いを味わうだろう。
電話の担当者は、UNHCRでもシリア難民に対する支援資金は、予算の51%しか集まっていないという。
俺は即座に毎月の寄付を2000円に増額することにしたよ。
俺にできることは、その程度のささやかなことかもしれない。
けど、放っておけないだろう。同じ人間じゃないか?どうせ千円持っていたって、煙草2箱買ったら終わりなんだぜ。そのお金が、誰か困ってる人の役に立つなら、それくらい快く出したいよ。
何しろ俺は、お人よしなんでね。
興味があるのなら、リンクを貼っておいたから、UNHCRのHPも見て欲しい。
俺たちは、ぬくぬくのうのうと暮らしているけれど、せめて隣人の痛みに鈍感でありたくはない。なぜって、世界は繋がっているからだ。

読者諸君、失礼する。ちなみに日本政府は、シリアからの難民申請をことごとく拒否し続けている。難民に冷たい国なんだ。恥ずかしい話さ。

2014/12/04

Post #1338

Kathmandu,Nepal
そろそろまじめに次の仕事のことを考えなくちゃな・・・。
出来る事なら、クソ下らねぇ仕事なんか放っておいて、旅をして、食ったことのないものを食い、言葉の通じぬ人たちと笑いあい、写真を撮って、プリントしていたい。
しかし、それには結構な経費がかかるんだよなぁ。
グッゲンハイム奨学金とかもらえるんならともかく、今の状況では、そんな暮らしは無理だ。
それがフツーさ。

それはそれとして、今日は昨日のプリントの中から一枚お送りしよう。
インド系の女性の黒い肌がスゲー質感だ。硬そうな髪も、子供の柔らかそうな腕も、快心の出来だ。セバスチャン・サルガド大先生かスティーヴ・マッカリー先生のような写真だが、俺が撮ったんだぜ。

このワクワクするような感じが、君にも伝わるだろうか?
伝わってほしいものだ。
そして、この女性がその境遇のなかで、子供を育ててゆく営みを想像してほしい。
この無垢な瞳の子供が、どのように世間の垢に染まって、無限の可能性を擦り減らしながら生きてゆくのかを想像してほしい。

目を閉じて、30秒間、考えてみてくれ。

OK、想像してくれたかい?

写真というのは、想像力を働かせないと、即物的すぎて、なんにも君の心には残らない。
フェイスブックでよく見かける、誰かのランチの写真みたいに心に何も残さない。

けれど、それは、もったいないぜ。

そんなの解かりっこないし、解かったところで何の得もないと思うのも勝手だろう。
けれど、解からないなりに想像する。
そういった営みが、俺たちが日常生活で他人と接するときに、大きな糧になるんだ。
俺はそう思う。

読者諸君、失礼する。あぁ、そんなこと言うと、俺、浅薄な善人みたいで嫌になるな。けど、思ってることって、言わなきゃ何も伝わらないだろう?だから、仕方ないのさ。

2014/12/03

Post #1337

Boudhanath,Nepal
まずは昨日のプリントから一枚。

世界最大級のストゥーパ、つまり仏舎利塔ボダナートのストゥーパだ。
お釈迦様の遺骨が納められているのだ。そこに行くと、すごい磁場のようなエネルギーを感じる。
高さ36メートル。そこはチベット仏教徒の聖地で、このストゥーパの周りには、おびただしいチベット系住民や少なからぬチベットからの亡命者が住んでいる。彼らは朝に夕べに、この巨大なストゥーパの周りを時計回りに108回巡り、仏に帰依を示す。こうして人々が巡ることで、コイルのように精神的な磁場が強化されているんじゃないかとも思える。

ストゥーパの四方には、世界の果てまで、因果を見通す仏の目が描かれている。
1ドル札の裏に描かれた『プロビデンスの目』にも似ていなく無いが、あちらは監視し、こちらは慈悲の目を注ぐ。一神教世界と多神教世界の相違が感じられる。

鳩は日差しを避けてそのドーム状の屋根に蝟集している。
人々は、仏に祈り、また、仏の膝元で憩う。


俺は、写真になんかにとんと興味のない絶対的多数の人々に対して、自分の行為がどういった意味を持ちうるのか、ふと考えてしまうんだ。ぐるぐるぐるぐる…、考えてしまうんだ。
しかし、考えても仕方ない。どうせ、何の意味もない。くだらないTVを見ていた方が、その人たちのためかもしれない。俺は、そんなのほんとはお構いなしで、自分の愉楽に耽っていればいいのかもしれない。

読者諸君、失礼する。今から腹ごしらえをして、プリントでもするさ。

2014/12/02

Post #1336

Zagreb,Croatia
急に寒くなってきた。懐はいつだって寒いが、12月に入った途端にこの寒さとは、ちとゲンキンというものではなかろうか。
伊吹おろしと呼ばれる寒風吹きすさぶ中、髪を切りに行ってきた。
例によって、ガンガン上の方まで刈り上げて、細いバリカンでラインまで入れてある。年甲斐もないとはこのことだ。じじむさくまとまりたい奴は、勝手に老け込んでいるがいい。俺にはカンケーないのさ。風が吹くと側頭部が寒くって仕方ないぜ。
カミサンにはなんだかキン肉マンに出てくるラーメンマンみたいになってるよなんて言われてしまった。闘将ラーメンマンか。悪くない。カンフーシューズとナマズ髭が必要だな。

その後、今日はプリントをした。23カット。本当はあと5カットほどやらねばならなかったんだが、いかんせん、気温が下がってしまっているので、印画紙を現像液に入れても、液温が低いので、なかなか白い印画紙から画像が浮かび上がってこないのだ。
時間がかかって仕方ない。
そうこうしているうちに、カミサンが仕事から帰ってきちまって、タイムアウトだ。
けれど、明日がある。明日、もう一度トライだ。

小さく暗い暗室に入っていると、外の世界がどうでもよくなる。
この狭くて暗い空間のなかに、俺の世界がすべて詰まっているように感じるんだ。
もちろん、その世界はネパールやバリやモロッコやパリと直接繋がっている。
広くて豊かな世界だ。
見も知らぬ行きずりの人々の姿を、印画紙に焼き付けながら、そこに写っている人々が、さまざまな煩悩に振り回されて生きている卑小な名もない人々が、愛おしく思えてきて仕方ない。神様だか仏様だか、何かしら超越的な存在に対して、その人たちの幸せを祈らずにはいられない。
おかしいかい?
けど、俺は暗室でプリントしているとき、本当に充実していて、これ以上はないってほどに幸せなんだ。なんていうか、世界そのものと自分が溶け合っていくような感じなんだ。
もしも一生これが続くなら、本当にどれほど幸せな事だろう。そして、その内側に漲る多幸感は、何時しか溢れ、被写体の皆さんに注がれるってわけだ。
出来る事なら、君にも分けてあげたいくらいだ。

これに匹敵するのは、頭が真っ白になるくらい激しいセックスくらいだろう。
その一方で、性的に満たされすぎると、写真がダメになりそうだとも思う。
セックスも写真も、同じ生命力の根幹から湧き上がってくる衝動によって成り立っているように、俺には思えるからだ。
けど、セックスはやっぱり相手がないとできないしな。
その点、プリントは時間さえ作ればいつだってできる。
やっぱり俺には写真だな。

読者諸君、失礼する。俺はきっと、どこかおかしな人間なんだ。けど、おかしな人間のほうが、面白おかしく生きることができるもんだぜ。人生は一度きりだからな。だから、明日もプリントさせてもらうぜ。

2014/12/01

Post #1335

Helsinki,Finland
健康診断に行ってきた。
毎年俺は12月の頭に健康診断することにしてるんだ。たいてい仕事がへヴィーな時期なので、身長が縮んでいたりする。今回もそうだった。なんせ11月は、ほとんど毎日働いていた。
最後の数日は、夜勤だ昼勤だ、車中泊だとか言って、ほとんど横になって眠っていないので、椎間板が圧縮されていたんだろう、数ミリ身長が縮んでいやがったぜ、チクショウ!
血液検査も心配だぜ。なにしろ、不規則に豚のえさみたいなものを詰め込んで、ひいひい言いながら働いてるんだ。健康的な数値が出るわけないだろう。
尿酸値がどれくらい上がってるか、楽しみなこった。

その一方で、目は良くなってやがった。
去年までは、0.5だか0.6だった視力が、今年は両目とも0.9だ。
ブルーベリーなんかモリモリ食ったり、遠くを見たりとか、目にいいことなんかこれぽっちもしちゃいないってのに、不思議だな。

考えられることは、やはり暗室作業によって闇の視力が身についてきたんだろう。そら、先日言ってた心の目で見るって奴だ。目ん玉で見るんじゃない。心で見るのさ。この能力があれば、近眼も老眼も乱視も、恐れるに足らずだ。どんとこいだ!

とはいえ、視力がよくなったって言っても、しょせんは視力4.0とかのブッシュマンに比べると、全く大したことないんだけどね。

そうして、帰ってきてからはぐったり眠っていたよ。

読者諸君、失礼する。明日から寒いらしいからな。家に引きこもってプリントでもするぜ。もう働いてなんかいられないぜ。

2014/11/30

Post #1334

Helsinki,Finland
今日は疲れ果てているんだ。この写真の男みたいに、その辺でひっくり返って眠ってしまいたいくらいだ。何しろ俺は、おとといの夜明け方まで仕事し、昨日は昨日で朝イチから夜中の4時まで働き、今日も今日とて朝の8時から、夕方5時まで働きづめだった。過労死しちまうぜ。しかも家までの高速道路は、激混みで、いつもなら20分で抜けられる距離が、渋滞18キロ、通り抜けに50分とかいう、ほとんどマンガみたいなことになっていやがったからな。命の危機を感じていたぜ。
幸い俺は、なんとか車を転がして家に帰ってきた。そして今は布団にくるまっている。快適だ。しかし、眠ってしまうのは時間の問題だ。
この男は、スゲーんだ。
俺がヘルシンキの裏通りをカメラ片手にぶらついていた時に見かけた奴なんだが、突然、建物の入り口から転がり落ちてきやがったんだ。
それも荷物が転がるみたいに、ドサって感じでだ!大丈夫かって感じだ。

何故だ?いったい全体、何があったんだっていうんだ

そしてよく見ると、ズボンは膝まで下がっていて、ボクサーショーツが丸出しだ。
チン丸出しじゃなかったのは、ありがたかったよ。とはいえ、野郎のパンツなんか見ても、なんにも面白くないんだがね。
したたか酒に酔っているようだったが、昼間っから意識が飛ぶほど酒を飲んで、往来の真ん中で、パンツ丸出しで寝てるなんて、ありえないだろう?

しかし、俺は以前、TVでみたか、何かで読んだ話を思い出した。一昔前まで、フィンランドの成人男性の趣味は、酒と喧嘩だったそうだ・・・。

酒と喧嘩が趣味だと・・・?
趣味って、プラモデル作ったり、サボテン育てたりするのが趣味だろう?
酒はともかく喧嘩が趣味ってどういう意味だよ?
豪快すぎるだろう?
原哲夫の漫画に出てきそうだ。

理解不能だ。しかし、目の前の現実を直視すると、それがあながちウソではないのでないかと思える。

眠くて限界を突破しており、この男のように惨めな醜態をさらすのは時間の問題の俺だが、フィンランド男性の趣味について、うだうだと書き散らしてしまった。

もう限界だ。風呂入って寝るよ。

読者諸君、失礼する。因みに現在のフィンランド人男性の趣味ベスト1は、ヘビメタだそうだ。
これはこれで、かなりおもしろいな。

2014/11/29

Post #1333

Praha,Czech
今日は、11月29日。イイニク、つまりいい肉の日か。
滋賀に出張に来ているので、近江牛なんかにありつきたいと思ってるんだが、気が付けばコンビニ弁当か中華料理屋の定食だ。
寂しいものだ。
とはいえ、それで不便なことは何もない。
俺は最近、無欲なんだ。食うことにあまり金をかけない。世の中ではグルメ番組が大流行だってのにな。身体が動く分だけ、腹が膨れればそれでいいって感じだ。
着るモノだって、滅多に買わない。こいつに関しては、俺もそこそこ長生きしてるんで、不便を感じることもない。ストックがたくさんあるんだ。物持ちがイイのさ。今日着ているカットソーなんて、20年近くご愛用だ。
そもそも俺は、流行なんて気にしたことがないからな。踊らされてクジャクみたいに着飾る必要なんてないのさ。
服装ってのは、一種の自己表現なんだけど、俺はもうどうでもよくなってる。とはいえ、すっかり出来上がっちゃってるからどうでもイイのかもしれないな。いわゆる俺流って奴だ。
俺には俺のスタイルがあるんだ。どっかの誰かの言うことに踊らされてたまるか。
それどころか最近じゃ、仕事で着ている作業服でもイイんじゃないのってくらいだ。

そういえば、俺の大好きなイギリスのスーパー大御所ロックバンド、THE WHOのギタリスト、ピート・タウンゼントは、毎週ステージ衣装を買いに行くのが面倒だっていって、全盛期の70年ごろには、白の作業用のツナギを着て、作業用のブーツを履いていた。
その野暮ったいファッションで狂ったようにジャンプし、腕を風車のように振り回してギネスブック級の爆音でギターをかき鳴らし、ライブの最後には、ギターを叩きつけてぶち壊していた。
サイコーだ。男はこうでなくっちゃな!
因みにそのブーツがドクターマーチンだ。後にこれをパンクの連中が拝借し、今では普通のファッションになっているのさ。つまり、そのそもそもの始まりは、ピート・タウンゼントだったわけだ。

話がそれたなぁ。

正直言って、ここんところは自己表現なんてどうでもイイ。

そもそも俺には表現するほどの中身がないんだと思うぜ。

自分が見てきたものを、そのまま一枚の写真に封じ込めることができたら、それで十分だ。
それ以上のことはない。

読者諸君、失礼する。今頃俺は、深夜のショッピングセンターで仕事に忙殺されているはずさ。出来る事なら、素敵な女性に悩殺されてみたいものさ。けど、作業服じゃ難しいなぁ・・。

2014/11/28

Post #1332

Istanbul,Turk
今日は写真のみで勘弁させてもらおうかな。
俺には睡眠が必要だ。
今夜も含めてあと3日ほど持ちこたえれば、家に帰ってプリントできるさ。
古い写真を見ていると、今の自分の満足するレベルに達していないものがいっぱいあるんだ。とても君たちにお見せできないんだ。
だから早く仕事をやっつけて、家に帰って何日か引きこもってプリントしたいのさ。
そのためには、まずは今から眠って、今夜の仕事に備えるんだ。

読者諸君、失礼する。しっかり仕事を片付けてこそ、心置きなく道楽に没頭没入できるってものさ。

2014/11/27

Post #1331

安平老街、台南、台湾
自分にとって写真を、単なる消費活動にしないこと。
もとより写真というのは、カメラや、フィルムや印画紙や薬品を買うことで社会の消費活動の一部に取り込まれてはいるのだが、それによって再生産された自分の作品を、商品としないこと。
商品として、流通させてしまった途端に、意味も思いも、すべて換金可能なモノと成り下がり、消費されてしまうのは、現代社会では逃れえないことだ。

かつて、自分の写真を写真雑誌に発表することによって、商品としての写真と同列に受け取られてしまうことを嫌い、自費出版にこだわり続けた写真家がいた。
若くしてこの世を去って行ったその写真家の思いが、何となく解かる気がする。

もっとも、子供の落書きみたいな俺の拙い写真に、商品価値が生じるとも思えないがね。何しろこんなメーターだ。壁に貼るにしても気が利いていなさすぎる。
けど、俺は何かを感じてこのメーターにレンズを向け、何かを感じて、このネガを選び、プリントしたんだ。その何かが君に伝わってくれるとイイんだけれど。

俺は、自分の生の歩みとして、写真を撮りたいし、そこに写っているものには、確かな手触りが備わっていてほしい。上手い下手など関係ないさ。

写真を通して、つぶさに世界を見ること。
暗室の中での作業を通じて、世界に思いを馳せること。
照りつける日差しにさらされ、吹き付ける風に震え上がり、叩きつける雨をものともせずに、あちこち懲りずに歩き回って、自分がこの眼で見たこと、この耳で聞いたこと、肌で感じ、味わい、嗅ぎ取ったもの。それを自分の写真のなかに封じ込めることができたらいいんだが・・・。

読者諸君、失礼する。御機嫌よう。俺が死んだあと、俺の分身ともいうべき写真はどうなるんだろうな?

2014/11/26

Post #1330

士林夜市、台北、台湾
さまざまな言説が世に満ち満ちている。
差別や暴力など、人間性の蹂躙を煽るようね思慮分別の足りない言説も、それに対して眉を顰めて嘆息するようなものも多い。
ひどい世の中になったものだと嘆くのは容易い。
けれど、歴史を振り返れば、人類の社会はいつだってそりゃひでぇもんだった。
これでも今は、表面的にはずいぶんとマシになったのかもしれない。
けれど、その分深く根ぐされているのさ。
何しろ、虚々実々の情報が溢れかえっている。
そして、惑わされた奴も、新たな言説をお手軽に垂れ流す。
どんな嘘だって、世の中の八割がたの連中が本当だと信じ込まされたら、真実になっちまうんだろう。
情報化社会万歳だ!

そうさ、自分という物差しがしっかりしていないと、飛び交う言説に惑わされるばかりだ。

邪悪な言説にくみする気持ちは毛頭ない。
けれど、諸手を挙げてそれを非難するような言説にいいね!とか押す気にもなれない。
どちらも浅薄な気がするからだ。
それに何よりも、自分に他者を断罪する資格があるのかわからない。
人間の価値観は相対的なものだから、ある人々からしたら、俺は極悪無惨な人間なのかもしれないしな。
出来る事なら、自分が嫌だと思えることは、他人に対してやらかしたくはない。
どうしても承服できかねるときは、自分の識見、経験、言説、そして腕力の全てを総動員して、あくまで個として対峙しよう。
正義のお題目を唱えて、群れるのは趣味じゃないからだ。
今までも、そうしてきた。昔から付き合ってくれている読者諸君は、俺が時折みせるそんな姿を知っているだろう。

どんな情報も、いったん心の中の暗室に運び込み、闇の中で独りで向かい合わなければ、踊らされるばかりだと思えるのさ。

読者諸君、失礼いたす。出来る事なら俺は、誰かの価値観ではなく、自分自身の生活に基づいた、地に足の着いた価値観を持ちたいと思ってるんだ。

2014/11/25

Post #1329

永康街、台北、台湾
現場近くの駅前の広場で、独りの男がアンプにギターを繋ぎ、自作の歌だろうか、やたらと感傷的な調子っぱずれの歌を歌っていた。どうにも我流の節回しが、耳障りにも聴こえる。
もとよりまばらな道行く人々は、日が暮れたこともあって、数えるまでもないほどだ。
当然ながら、誰一人として、彼の歌に耳を傾けてはいない。
さほど若くもない小太りの男の歌う、どこか諦めにも似た自己憐憫でいっぱいの下手な歌など、誰が聞きたがるものか、唄を歌うのは自由だけれど、独りよがりもいい加減にしろと内心舌打し、ふと気が付いた。

俺の写真とて、同じようなものじゃないのかね?
俺とあの男を隔てているものなんぞ、実はどこにもありはしないのではないか?

自分が厭きなけりゃイイとばかりに、はや四年も続けてしまったが、人のことを言えた義理でもあるまいし。
ごく少数の固定客の読者諸兄に支えられて歩んできたが、ごく少数の聴衆なら、駅前の音痴にも付いているんじゃないのかい?

そう思いいたると、内心どうにも嫌な気分になって、足早にその場を立ち去ったのさ。

読者諸君、失礼する。自分を客観的に見てみると、不愉快になることの方が多いものさ。

2014/11/24

Post #1328

台北、台湾
いかんいかん、出張先のホテルで四方田犬彦の労作『白戸三平論』を読みふけっているうちに、今日という日も終わろうとしているではないか?
仕方ない、面白いんだからな。
君は白戸三平を知っているか?『カムイ伝』『サスケ』『忍者武芸帖』など、さまざまな忍者漫画を生み出してきた日本漫画界の至宝だ。ライフワークのカムイ伝は、連載開始から50年を経た今も、長らく中断されたまま、完結していない。もう白戸先生80過ぎだから、完結は無理だろうなぁ・・・。

俺は正直、こんな不毛な商売なんて、とっとと見切りをつけて忍者にでもなりたいと思ってるんだ。
なんて言ったって、俺の本名は服部だ。先祖は忍者の里で名高い伊賀者なんだ。近代まで伊賀の欄間師として暮らしながら、各地に赴き、大名たちの秘密を探ってきたんだ。血統的には申し分ないだろう。
俺は海外旅行に行った先で、自己紹介するときは必ずこういうことにしてるんだ。
『俺は日本でも有名なニンジャ氏族の末裔で、俺のアンセスターは服部半蔵、つまりモスト・フェイマス・ニンジャマスターだ』って。
そうすると、誰もが驚いて、一言So COOL!って言ってくれるぜ。ざまぁ見ろ!
なにしろ、忍者は世界中で人気なんだ。海外に行って、忍術を披露して日銭を稼ぐ方が、ちんけな現場監督なんかやってるよりも、よっぽど面白おかしく生きることができるってもんだろ?

さまざまな仕事をしてきたおかげで、天井裏に潜むのなんか大得意だ。君が部屋の中で視線を感じたら、俺が君の部屋の天井裏に潜んでいるかもしれないぜ。気を付けろよ。
観光地なんかでよく見かける手裏剣でも買い集めてみようかな。
仕事のないときに、サンダーで研磨して、十分に鋭利に仕上げて、気に入らない奴にお見舞いしてやるんだ。君たち、俺に気に入られるようにしておかないと、手裏剣が飛んでくることになるぜ。せいぜい気を付けるんだな。
ナルト走りなら、ばっちりマスターしていて、点滅し始めた横断歩道を走って横断するときには、つい両手が斜め後ろにのび、背中を屈めるようにして走ってしまう癖がついてるぜ。もちろん誰もついてくることなんか出来やしないさ。
写輪眼ならぬ老眼なら、とっくにマスターしてるしな。それだけじゃない、近眼も乱視も揃ってる。
最近じゃ、向こうから歩いてくる女の子が美人かどうか、さっぱりわからないぜ。よく見ようと思って目を凝らすと、人相が悪くなって、ほら、女の子が避けていくぜ。仕方ない、何のことはない、そんなイイ女がそうそう歩いてるわけもないから、気にもしないさ。それが嫌なら、心の目で見るしかないってこった。何しろ俺は暗室のなかで、闇の視力を養ってるからな。視力検査じゃ俺の視力は計測できないぜ。

これはもう、忍者になるしかないかのぉ・・・。

しかし、忍びの道は険しいんだ。忍びの道は人の通わぬ獣道だ。
世界で大人気のナルトみたいに友情とか言ってるような甘っちょろい忍者じゃだめなんだぜ。
白戸三平先生の描く、カムイや赤目、影丸みたいに孤独でストイックなニンジャじゃないとダメなんだ。他人を信じることもできないんだ。なんせ、追い忍が紛れ込んでるかもしれないからな。うっかり他人を信用しようもんなら、次の瞬間には、みじめな骸を晒すことになるんだ。

けれど、俺はこう見えて、結構寂しがりだからな・・・。
そうだ!何なら君も一緒にどうだい?君が女性ならくの一ってのもいけてるんじゃないか?おっと、そっちを探求すると、今度は山田風太郎先生になっちまうなぁ。ストイック、ストイック。

読者諸君、失礼する。いい年こいて、そんな子供じみたことを考えているときが、一番愉しいってものさ。

2014/11/23

Post #1327

台北、台湾
本日、写真のみお届けしよう。
読者諸兄諸姉、休日を楽しんでくれたまえ。俺は当然仕事だけどね。そんなもんさ。
読者諸君、失礼する。

2014/11/22

Post #1326

士林夜市、台北、台湾
知り合いのおじさんが亡くなったという知らせを受けた。
既に葬式は終わっていた。亡くなったおじさんの奥さんは、気が動転していたので、俺のところまで連絡したかどうかなんて、気にする暇もなかったんだという。
ここ10年ほど、身体が不自由そうだったが、ユーモアのある、気さくな小市民だった。

高倉健のように有名な人にも、無名な小市民にも、死は等しく訪れるのだ。

読者諸君、失礼する。暑さ寒さが厳しさを増すころに、人はよく亡くなるんだそうだ。

2014/11/21

Post #1325

西門、台北、台湾
頭が痛い問題が、俺に追いついてきやがった。
今まではっきりさせずに、有耶無耶にして引き伸ばしてきた問題が、じわりと再浮上してきているんだ。
俺の些細な問題だけれど、俺としては重大な問題だ。
俺はいつだって安請け合いしちまうんで、自分でも困っちまうことがたびたびなんだ。
要はお人よしなのさ。きっぱり断ったり、損得だけで割り切って考えることができないんだ。
結果として、自分が中途半端にお人好しなおかげで、かえって最終的には多くの人たちに迷惑をかけることになっちまうわけだ。

あぁ、こんな鬱陶しい思いをするくらいなら、仕事なんて放り出して、インドだかアマゾンだかにとんずらしたいぜ。

読者諸君、失礼する。まぁ、どう転んでも命までは取られやしないがね。

2014/11/20

Post #1324

西門、台北、台湾
本日、写真のみお送りしよう。
読者諸君、失礼する。俺は今から眠るのさ。

2014/11/19

Post #1323

Night Market,Fes,Morocco
今日は、日中出張先の古い街並みを見て回った。
朝の5時まで働いていたというのに、我ながら元気なこった。

日本の町には、二つの大きな特徴がある。
一つはやたらと電線があること。
これはイイ。俺は好きだ。
空にかかった五線譜みたいだ。
風景にリズムを与えているんだ。

もう一つは、人間がほとんど歩いていないことだ。
見かけるのは、人生の搾りかすみたいになった老人ばかりだ。
みんな引きこもりにでもなっちまってるのか?
これはいただけない。
いったい日本人はどこにいるんだ?
1億3千万人もいるってのに、どうなってるんだ?
東京や大阪にしか日本人は生息してないのか?
絶滅危惧種に指定される日も遠くないって思えるぜ。
どこに行ってもさほど変わり映えのしない風景、しかも人影もまばら。
写真を撮っていても、なかなかにノッテこないんだよ。


だからせめて、俺はいつだって、日本の町をカメラを持って歩くとき、飛行機に乗って、地球をくるりと一周して、やっとこさたどり着いた世界の涯の見知らぬ街だと思い込むようにしているんだ。
何故かって?
その方が新鮮な視点で町並みを見ることができるだろう。
で、わざとらしく、Wao!って驚いたみたり、Very Fantastic!と感嘆してみたりするのさ。
HAHAHA!おかしいだろう?

そうして今日も400年前から続く町並みを歩いていたら、学校帰りの小学生に、あいさつされてしまったよ。
HELLO!ってね。

読者諸君、失礼する。こう見えても、俺も日本人の端くれのつもりなんだけどなぁ。

2014/11/18

Post #1322

Lagankhel,Patan,Kathmandu,Nepal
深夜の百貨店やショッピングセンターで仕事をしているというと、なかには気味が悪いでしょうという人もいる。別に何か出る訳じゃないんだし、気にしちゃいないよっていつも思っていた。
しかし、昨晩、真夜中のショッピングセンターで出くわしたあの野郎には、驚いたぜ。

草木も眠る丑三つ時の深夜二時、職人のお兄ちゃん二人と俺は、休憩に行こうとバックヤードの階段を下りて行こうとした。
すると、職人のお兄ちゃんが、猛然とダッシュし始めた。何事かと思うと、何かいる!というのだ。
その何かは、一つ下の階の階段のすぐ脇の扉が開いていた小さな部屋に逃げ込んだ。とっさにお兄ちゃん、扉を閉めてそいつをその部屋に閉じ込めた。
小動物だ。
ペット売り場があるのかどうか知らないが、逃げ出したんなら捕まえてやらなけりゃなるまい。
俺たちはそっと扉を開け、灯りをつけて会議机の下をのぞき込んでみた。
そこにはモルモットくらいの大きさの尻尾の長い小さな獣がいるという。

イタチだ。

ペットショップに売ってるフェレットよりも、ひとまわり小さな茶色いイタチが、こっちを警戒して覗き込んでいる。尻尾は逆立って、もこもこに太くなっている。
俺たちは、確信したぜ。こいつは田舎に生息する野生の獣だって。
一見するとかわいい奴だ。しかし、野生の獣を見くびってはいけない。奴らは愛玩用の生き物じゃないんだからな。こんな奴が昼間に店の中を走り回っていたら、大騒ぎだ。

なんとかして、こいつを捕まえて、外に放り出さないといけないな。
守衛さんに連絡しても、自分はイタチを見かけたことはあるが、捕まえたことはないし、独りなのでここを離れるわけにいかないので何とかしてくれと言いやがる。
俺たちだって、イタチを捕まえた経験なんてありゃしないよ。初体験だ。
もっとも、人生には要所要所で、いろいろと初体験ってことがあるがな。今夜それが来るとは思ってもみなかったぜ。

俺たちは、そこらへんの掃除道具入れから箒や塵取りを持ってきて、深夜のイタチ捕獲大作戦を開始したんだ。
しかし、奴は素早い。小さな部屋の中を縦横無尽に駆け巡り、家具の上に飛び上り、俺たちの足の間をすり抜け、クロスの凹凸に爪をかけ垂直の壁によじ登る。忍者と戦っているみたいだ。
俺にはイタチごっこって言葉の意味が、初めて身に染みて分かったぜ。こいつはキリがないな。

しかもそのうち、何とも言えない獣臭い異臭が部屋いっぱいに立ち込めてきやがった。腋臭の軍団とエレベーターに乗り合わせたような気分だ。
イタチは危険を感じて、ケツの穴の周りにある臭腺から臭い液を吹きやがったんだ。スカンクと同じだぜ!職人のあんちゃんは、その臭いが手にしみついて困り切っていた。
限界だ。頭がくらくらする。吐きそうだぜ。こいつが噂に聞く、イタチの最後っ屁という奴だ。予想以上に強力だ。勉強になったぜ…。

俺は、仕方なく二階にあるその部屋の窓を開け、イタチをそこから外に追い出すことにした。イタチには悪いがな。出ていってくれとたのんだところで、自分から通用口におとなしく行ってくれるような、聞き分けのイイ奴じゃないってことは、よくわかったよ。
一瞬の間に、イタチ野郎は夜の闇のなかに消えていったぜ。何とも言えない臭いだけを部屋いっぱいに残したままでな。
その窓の下には、俺たちの車があったんだが、イタチは無事に逃げてくれただろうか?
むかし、まんがでイタチの仲間のオコジョが出てくるマンガがあったが、実際にはあれは飼えねぇな。臭くてたまらないし、あんな奴が部屋にいたら、落ち着いて眠ることも出来やしないぜ。

読者諸君、失礼する。君もイタチ野郎には気を付けた方がイイ。そういえば、フランク・ザッパのアルバムにも邦題『イタチ野郎』ってのがあったなぁ。今度買ってみるとするかな。このイタチなら飼えそうだからな。

2014/11/17

Post #1321

Lagankhel,Patan,Kathmandu,Nepal
本日、写真のみお送りしよう。
ちょっと疲れたよ。
ネパールの写真のストックがなくなってきたんだ。もちろんプリントしたもののことだ。41本のフィルムのうち、まだ1本しかプリントしてないからな。君たちに今までお送りしてきたのは、ほんの20分くらい、通りをぶらりと歩いた間の写真ばかりだ。これがすべてだと思っちゃいけない。
くそ、俺はものすごくプリントしたいんだが、出張してちゃどうにもならないな。
楽しみにして待ってろよ。

読者諸君、失礼する。御機嫌よう。

2014/11/16

Post #1320

Lagankhel,Patan,Kathmandu,Nepal
飯も食わずに午後から朝まで働いて、高速道路を眠たくってふらふらしながら運転し、家に帰ってきた。ホテルが取れなかったのだ。しかし、今日からはホテル暮らしだ。
2週間の海外旅行と、2週間の出張と家にいないのは同じだが、愉しさは全然違うもんだなぁと、実感する晩秋の一日である。

読者諸君、失礼する。今から少し昼寝して、荷物をまとめて、夕方には家を出なけりゃならないんだ。やれやれだぜ。

2014/11/15

Post #1319

Lagankhel,Patan,Kathmandu,Nepal
読者諸君、おはよう。
今日から俺は新しい現場に乗り込むんだ。車を転がして田舎のイオンに小さな店を作りに行くのさ。たまらないぜ。今月末までそこにどっぷりなんだ。
働くってのは、どうにも面倒くさいものだなぁ・・。
職業=旅人とかってないものかねぇ。

読者諸君、失礼する。また会おう。

2014/11/14

Post #1318

Lagankhel.Patan,Kathmandu,Nepal
これは俺の勝ちなのか?
それにしては、どうにも虚しい。
例の公正取引委員会の話だ。
俺が以前契約していたある会社が、消費税の引き上げにも関わらず、消費税増税分を割り増しすることなく契約を更新してくれたので、俺はすこぶるご不満だったわけだ。それで、3カ月だけ我慢して仕事をしたんだ。
ちょうどタイミングよく、公正取引委員会から全国の中小零細企業に対して、消費税増税に伴う買いたたきに関する調査票が届いたので、憤懣やるかたない俺は、さっそく事の経緯を細かに記して、公正取引委員会にお送りしたわけだ。
そんなこともすっかり忘れていた先日、公正取引委員会の担当者から連絡があったんで、資料をそろえてお送りしたっていう話を先日このブログにも書いたっけな。
さてその後、例の取引先から連絡があって、早急に会いたいとのことだった。俺は素知らぬふりをして、いったい何事ですかと聞くと、やはり案の定、『当社の契約が、法令違反であるということが明らかになりましたので、差額をお支払いしたい』という話だ。
で、くそ忙しいなか時間をやりくりして、取引先に出向くと、どうにもこうにも、来週にも公正取引委員会からの査察が入ることになったんだそうな。それで慌てて、査察が入る前に清算しておこうという考えのようだ。
ざまぁ見ろ。
サラリーマンという人々は、総じて自分より下の立場の人間にはめっぽう強気に出て、意見具申などしても一蹴するものだが、自分より上の立場の人間のおっしゃることには、手のひらを返したように、はいごもっともという節操のない人種だ。ましてや役人に突っ込まれそうになった途端に、自分たちの過ちを無かったことにしようとして、最大限の努力をする奴等だ。うんざりするぜ。

俺は、内心でしてやったりと思う一方で、役人に目をつけられた途端に、あたふた狼狽しては、自分たちの過ちを糊塗しようとする卑小さに、うんざりしたわけだ。
それにしても、人件費扱いだからとか、俺が売り上げが一千万円に満たない免税事業者だからとか、いろいろと並べ立てていた理屈は一体なんだったんだ?同じことを役人に向かって言ってみればいいじゃないか?
そう思わないかい?
自分たちの信念みたいなものはないのかね?
正しいと思ってやったんだったら、正々堂々と役人にも主張すればいいんじゃないのか?
それなのに、査察があると聞いただけで、手のひらをかえすように、あっさりと自分たちの主張を翻すなんて、大人としてどうなのよ?
さすがにそこまでは言わなかったんだが、かつて契約書を渡されたときに、こいつは単なる買い叩きだ、法令違反だ、こんな契約書にサインできるわけないだろうと抗議していた俺は、今思えば間違っちゃいなかったでしょうとは言ってやったさ。
で、困り切った表情のお偉いさんに頭を下げられて、清算覚書なるものに署名捺印し、消費税の増税分を受け取ることになったわけだ。

その額35715円。

しかも、今日その書類に本社の総務部長の印鑑をついた物を受け取ったんだ。帳尻を合わせるように、来週の月曜日にさっそく振り込んでくれるそうだ。おまけにクッキーなんかもらってしまった。こいつはさしずめ、戦利品ってとこか・・・。

読者諸君、失礼する。しかし、なんか虚しい。今更、そんな金もらってもねぇ・・・。まぁ、貰えるもんは貰っとくとするか。それにしても、なんか虚しいなぁ・・・。