2014/01/02

Post #1007

Budapest,Hungary
郵便局のPRをするつもりはないけれど、年賀状が来ると、何となく嬉しいものだ。
日頃忙しさにかまけて疎遠になっている友人から、近況が届くのは、やはりうれしい。
なかでも、とりわけ新居に移転しました、子供が生まれましたといった便りは、正月早々おめでたい気分で読むことができるんで、いいもんだな。とはいえ、家買いましたとかは、できれば俺が年賀状を出す前に教えてほしかった。毎年、何通かは居所不明で戻ってきたりする。ひどいときには、自分の親族でそれだからな。嫌になっちまうぜ。

俺は、子供を儲けたり、ローンを組んで家を買ったりといった、ごく普通の人々が当たり前のようにとおってくる道筋をズルして通らずに、この年まで来てしまった。
そう、もう45歳になろうというのだ。びっくりだ。もう20年近く一緒に暮らしている内縁のカミさんも、あくまで内縁で籍なんか入ってない。この日本の社会では、決してスタンダードな生き方ではないだろう。

だから、こういう年賀状を読むと、吉本隆明の次のような言葉が脳裏をかすめる。

『結婚して子供を生み、そして、子供に背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。』
(吉本隆明「自己とはなにか」『敗北の構造』弓立社)

そうなのだ、俺のような生き方は、逸脱なのだ。もちろん、それを悔いても始まらないんだが。
けれど、吉本隆明は、それをさらに一歩進める。

『そういう生き方をもっとも価値ある生き方とすれば、大なり小なりそれからの逸脱でしか人間は生きられない。
しかしそれは逸脱だから価値のより少ない生き方なんだ。だけれども価値のより少ない生き方が人間に可能なのはなぜか、あるいは赦されるのはなぜかと言えば、もし価値の少ない生き方、つまり逸脱のなかに必然があれば、必然があればというのは意志があればじゃなくて、向こうからどうしてもそうなちゃったんだという必然があるならば、それはいいだろう、仕方ないじゃないか、肯定すべきであるというふうに僕は思うわけです。』
(吉本隆明、小川国男との対話「家、隣人、故郷」『どこに思想の根拠をおくか』筑摩書房)

というわけで、大いなる逸脱なのか、ささやかなる逸脱なのか、現時点では判然とはしないけれど、価値のすくない人生を、もう少しの間歩んでいくしかないと、俺は今年も自分を納得させるわけだ。

中上健二の絶頂ともいうべき『千年の愉楽』の主人公オリュウノオバは、自分が産婆として取り上げた色事師やばくち打ち、山師や荒くれ者など、卑小なる逸脱者に対して、『ただ、この世にあるだけで良いのだ』と、この世にあるだけで、その存在をカミとも仏とも自然ともとれる世界そのものから無限に赦されていることを謳いあげた。
是非善悪は、人の社会の中だけにある。
必然の世界は、自ずからそうなっているのであって、それはどんなに無惨に見えようが、善も悪もない。

読者諸君、失礼する。逸脱こそ人生の華だよ。そう自分の境遇を慰め、受け入れるしかないではないか?今更、世間様並なんて、できっこないよ。逸脱こそ、生きているということだ。

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