2014/01/07

Post #1012

Budapest,Hungary
ふと、この時期に、折に触れて俺の脳裏によぎり、木霊のように響いては離れない言葉を記しておくことにする。

『国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったくちがうことを知った。
 まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージで考えられてはいない。
いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念とみなされている。
 ある時期この国家のイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめるほどの衝撃をうけたのを覚えている。
 (中略)
 国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。』

(吉本隆明 改訂新版 共同幻想論 「角川文庫版のための序」より)

はるか昔、まだ高校生の頃、この文章を読んで、ぶん殴られたような衝撃を感じた。
そしてそれ以来、この国家も法も宗教も共同の幻想であるというテーゼこそが、社会を見る俺自身の視点の中心になった。
この北東アジアで、国家の利害と歴史に基づく相互不信が奔流のように社会の空気を歪ませているような今だからこそ、俺自身が忘れないために、ここに書いておく。

読者諸君、失礼する。天国もない。ただ空があるだけ。国境もない、ただ地面があるだけ。みんながそう思えば、簡単なことさ。

0 件のコメント:

コメントを投稿