2014/06/10

Post #1162

根尾村水鳥
火葬場は、駅に隣接している。
初めて見たときは、俺はそれが火葬場とは気が付かず、ごみ焼却施設か何かなのかと思っていたほどだ。
写真でも、奥の方にローカル線のホームが見えるだろう。
このローカル線は、30年ほど前に開通した第三セクターで、樽見鉄道という。
ローカル線のご多分に漏れず、経営は苦しそうだが、毎年桜の時期には、花見客でにぎわう。
この駅のもう一つ奥の終点、樽見から歩いて15分ほどのところに、有名な淡墨桜があるのだ。
大昔、越前から大和に入り、皇統を継いだ継体天皇がお植えになった桜だと伝えられている。
すっかり忘れられ、荒んでいたのを、作家の宇野千代が保存運動を呼びかけ、桜は息を吹き返した。
この葬儀もちょうどそんな季節に行われていた。
駅に電車が停まると、小さな電車にぎっしりとつまった善男善女が、一体この喪服の一団は何をしているんだといった表情を浮かべて、俺たちのほうを見ていたものだ。
まさか、駅のすぐ横が火葬場だとは、誰も思うまい。
ついでに言えば、駅のホームのすぐ横には、墓地が設けられている。
コンパクトな都市計画だ。
火葬場から直行っといった風情だ。
そして何より、生と死が無造作に隣り合っているような雰囲気がたまらない。
本来、生きるってそういうもんだ。縄文時代の集落は、真ん中に墓地があり、そこで人々は、祭りを行っていたと考えられている。どことなく、そんなことを思い起こさせて、愉快な気持ちになる。
根尾村水鳥
スレート葺きの屋根の下には、臨時の祭壇が設けられる。
ここでまた俺は驚いたのだが、実際に焼き場の窯を操作するのは、市の職員とか穏亡さん(これは差別用語なんだそうだ)とかではなく、部落の住民自身だった。
隣のおじさんが、窯に火をともし、火力調整を行うわけだ。
どこまでいっても、Do It Myself 精神が満ち溢れている。
それは、素敵な事のように俺には思える。
俺だって、死んだとき、親しくしてきた人の手で葬られたほうが、きっとうれしいだろうとおもう。まぁ、死んじまってから、嬉しいもへったくれもないか。
窯のくちの前には、『往相門』と『還相門』という額がかかっている。
往相、還相とは、浄土真宗に特有の概念だ。
往相門はもちろん、極楽往生する門を意味している。
そして、還相門は、極楽往生しながら、再び仏の化身として、この世に帰ってきて、未だ救われていない人々を浄土に導き救うという、レイヤーが一段上がった再生を意味するのだ。

かつて親鸞聖人は『道端で苦しんでるやつがいて、それを助けたかったら助ければいいし、助けたくなかったら、放っておけばいい。なぜなら、そこで助けたとしても、それは限定的な救済でしかなくって、救われていない自分たち凡人には、限定的な救いしか与えることはできないからだ。』という意味のことを言っていたそうだ。
そして、それに続けて、『だからこそ、念仏を唱え、阿弥陀仏の本願力にすがって往生し、自ら仏となり、そうして再度この世に還ってきて完全な救済を施すのがいいんだ。』というようなことを語ったそうだ。
壌土真宗は、一般に言われているように単なる他力本願ではない。人間の努力や能力など、しょせんたかが知れているということを、酷烈に認めているわけだ。

そしてそれはどこか、古いアジアの生死観、つまり何度も生まれ変わり死に変わりして、先祖の霊が子孫に宿って再生し、命をつないでゆくという永劫回帰のような世界観とも響きあっているように思える。

読者諸君、失礼する。そこでは、生者の世界と死者の世界が、重なり合っているように思える。あなかしこ、あなかしこ。

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