2014/08/23

Post #1235

Istanbul,Turk
いまいちいけ好かないところのある弟たちだが、それが何百万円も金を貸してくれと親父から頼まれたり、連帯保証人になってくれと懇願されたりするのを、黙って看過することはできない。
そこで俺は、今度こそ親父に引導を渡しに行くことにした。価値観の違いすぎる親父と、近くに住んでいながらも、親子としては距離を置いてきた俺だが、事業を清算し、負債を整理して、年齢相応につましく生きるべきだと、あえて言ってやろうと思ったわけだ。
俺の弟たちは、そうれを直言するにはいろいろと親父に借りがありすぎる。
商売の関係で親父のコネを利用している奴や、若いころにわがままを言って有名私立大学を中退し、これまた有名国立大学に入りなおしたりした奴、或いはこれまたわがまま言って国立の大学院まで行きながら、勉強についていけずに途中で断念し、学校で学んだことを実社会で一切役に立てていない奴らでは、引導を渡すことはできないだろう。
その点、俺は二十歳で家を飛び出してから、一切親父の世話になったり、借りをつくったりすることなく生きて来たからな、好き放題なんだって言ってやれるぜ。

で、親父の住処を尋ねると、親父は自分で作った晩飯をTVを見ながら食っているところだった。
そして、拍子抜けしたことに、親父自身から来月にでも事業を清算しようと思っていることを告げられた。
更に親父は、今回東京に仕事に行くついでに、埼玉の田舎に暮らす末の弟と福島で暮らしている下から2番目の弟を訪ねるつもりだといった。それは俺たちの予想を裏切り、金を貸してくれとかいう話ではなかった。
自分もずいぶん年を取ったので、子供たちのもとに出向いて父親として話し合い、お互いに理解するような機会は、もうそうそうないだろう。おそらく、自分の人生で最後になるかもしれない。自分は今まで、そんな話をすることもなかった。だから今更ではあるが、話しておきたいことがたくさんあるというようなことを訥々と話し続けた。
奇しくも、ここに来る直前に電話で話した福島に住む弟は、『いままで父親らしく接してもらったこともないのに、困った時だけ金を貸せと言われても、助けてやりたいとは思えない』と、一見当たり前のような、しかしどこか身勝手なようなことを話していたのと、俺の中で響きあっていた。
この親父自身も、今までの生き方を反省し、悔いているんだなと、俺は思ったのさ。

ならば、俺が言うことは何もない。俺は親父の話を聞き続けた。

親父の話は、終戦直後の混乱期まで遡った。
それは、終戦のどさくさに大陸から引き揚げてきたことに始まった。
戦後の混乱期に送った貧しい子供時代のこと。
物心ついた時から行商などで家族を養い、中学を出て働き始めたこと。
そして高度経済成長に歩調を合わせるように稼ぎまくり、自分の弟妹を学校に通わせたこと。
若くして土地を買い、家族を住まわせるために独立して家を建てたこと。
自分の父親(つまり俺の爺さんだ)の借金を肩代わりして返したこと。
俺を含めて4人の子供を私立の中高一貫校に通わる一方で、事業絶好調の最中に妻、すなわち俺のおふくろを癌で亡くしたこと。
バブル崩壊に伴い事業が衰退していったこと。
そして様々な幸運に恵まれ、往生際悪く、不景気のどん底を生き延びてきたこと。
そして、自分が世話をした弟や妹、そして息子たちが、自分に感謝してくれているように感じられない恨みつらみ。
それらのことを延々縷々と話し続けた。

俺は、そこに戦後の日本史を体現した人間の姿を見た。
そして、60年、50年前の出来事に、呪縛されている悲しい人間の姿を見た。
呪縛から解放されることは、自分の人生を否定することになるので、何時までもはるか昔に過ぎ去ったことにこだわり続ける哀れな男の姿を見た。

仕方ない。物心ついた時から、この人は金を稼ぐことしかやったことがないのだ。
銭金の絡まない人間の関係なんて、フィクションでしかないシビアな世界で、俺の父親が生きて来たのだということがよくわかった。
現代の普通の人間は、多感な思春期に友人との付き合いを通じて、社会性を獲得してゆくものだろう。
しかし、この人はそういうかけがえのない時期も、ただひたすら金を稼ぐために使い切ってしまったのだ。
人間性に偏りがあっても、仕方ない。
そして、そういう人間を生み出した背景には、戦後の日本の歩みが厳然として存在していることも、俺は直感的に理解した。

理解したならば、受け入れ赦すしかないじゃないか?

今まで俺自身も親父に対して、反発と軽蔑と相容れなさを感じていたのだが、それはとてもくだらないことだということが、すとんと腹におちるようにわかった。
それと同時に、親父が金儲けを諦めた途端、いっきに老け込み衰え、死んでしまう日もそう遠くはないんではないかと想像した。
何しろ、この人は金を稼ぐということ以外に、生きる術を知らないのだから。
俺のような道楽者が、よくもこの親父の種から生まれたもんだ。驚くぜ。
それはそうと、もし俺の考えが当たっているなら、葬式代をためておかねばならんだろうな。
しかし、大切なのは葬式のことではなく、如何に生きるかだ。生き直すかだ。
生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよだ。

俺は言った。『親父はもう75歳だ。あと残された命がどれほどあるかわからないが、まぁ5年くらいだと覚悟しておいた方がイイだろう。その遺された時間を、悔いのないように、人間的に生きるにはどうしたらいいのか、それが大きな課題だって。』
親父にとって、その第一歩が弟たちのもとに赴き、話をすることなんだろう。結構なことだ。

俺は家に帰り、頑なに父親に会うこと拒み続ける弟に、この機会に会って、しっかり向き合ってやって欲しいと伝えたんだ。

読者諸君、失礼する。どこの家族にも、いろんなドラマがある。俺の親父は、弟と和解することができたろうか?和解ができたら、理解を深めよう。世界中の人にそれを言いたいよ。

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