2014/09/12

Post #1255

士林夜市、台北
こういう写真をプリントしていると、いつもふと断崖絶壁の縁に立っているような感覚に襲われる。
どうしてかって?
だって、この人は今までどれほど饅頭だか餃子だかをつくり続けてきて、これから年老いて辞めるまで、どれだけ饅頭だか餃子だかをつくり続けていくのか、考えると恐ろしくなってくるんだ。
キリがないぜ。

坂口安吾の『桜の森の満開の下』で、主人公の山男が世界の無窮さと、女の欲望の限りなさに怖れと不安を抱いた時に、夜な夜な山男が人を殺して取ってくる生首を愛玩する女は「何を言ってるんだい、ご飯を毎日食べるのだって、キリがないじゃないか」というようなことを言って、その不安を一蹴したけれど、俺がこのような人々の姿を見て思う不安も、空が果てしないというそのことを思う不安によく似ているように思える。

いやむしろ、この世界で、人は本来、如何様にでもなりうる可能性を持ちながら、無限の可能性の中から、自らの意思と否応ない状況によって、饅頭だか餃子だかを作り続けるということに、人生を費やさざるを得ないということに、ほとんど戦慄するのだ。

いやいや、それは饅頭売りが卑賤な職業だと言っているわけではなく、サラリーマンも職人も、風俗嬢も農民も、皆、無限の可能性をもってこの世に生を受けながら、社会という巨大な機構の中の歯車となって、年老い、病み疲れ果てて摩耗しきるまでその営みを続けていかなければならないという、この世の成り立ちに戦慄するのだ。

斯く言う俺、落ち着きどころなく今日まで職を転々とし、今や現場から現場を彷徨うことを生業としているのさ。
当然、接する人もまた、現場限り。
ほとんど旅から旅のような落ち着きどころのない暮らしを送っているわけだが、それはまた見ることのできなかった世界への憧れと、つかみ伸ばすことのできなかった自らの可能性に対する悔恨の思いが、底の底に流れていないとは思えないものなのさ。

読者諸君、失礼する。なぁに、そうして自らの取るに足らない卑小卑賤な人生を、慰めひとり心の中で、彩っているだけのことに過ぎないんだがね。

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