2014/12/12

Post #1346

HongKong
路上占拠を75日に渡って続けてきた香港の民主化運動が、強制的に排除された。
いずれ、そうなることは判っていた。残念ながら。
デモをするだけで、世界が変わるとは思ってはいない。俺たちは、少なくとも俺はそこまでナイーブではない。残念ながら。
2014年の香港は、1792年のパリではないのだ。残念ながら。
当局に拘束された若者たちの将来を思うと、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
社会に戻ることが出来れば、幸いだが、天安門事件のことや、中国本国で行われている共産党に異議申し立てをした多くの人々が行方不明になっていることを考えると、どうなるものか、何とも言えないようにも思える。
拘束されなかった人々も、敗北者として苦難の道のりが待っていることだと思う。残念ながら。

戦後最大の思想家、吉本隆明が自らの労働争議体験を通じて、60年安保について語った言葉を記したい。
とっても長いけど、引用することを許してほしい。

『わたしは、どのような小さな闘争であれ、また、大きな闘争であれ、発端の盛り上がりから、敗北後の孤立裏における後処理(現在では闘争は徹底的にやれば敗北にきまっている)にいたる全過程を、体験したものを信じている。どんな小さな大衆闘争の指導をも、やらしてみればできない口先の政治運動家などを全く信じていない。とくに、敗北の過程の体験こそ重要である。そこには、闘争とは何であるか、労働者の「実存」が何であるのか、知的労働者とは何であるのか、権力に敗北するということは何であるのか、を語るすべての問題が秘されている。(中略)
 また、現在の情況の下では、徹底的に闘わずしては、敗北することすら、誰にも許されていない。
かれは、おおくの進歩派がやっているように、闘わずして、つねに勝利するだろう、架空の勝利を。しかし、重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし通して、そこから何ものかを体得することである。わたしたちの時代は、まだまだどのような意味でも、勝利について語る時代に這入っていない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。』
(吉本隆明『背景の記憶』平凡社ライブラリー刊より)

自分の乏しい人生経験を通じていえることは、どんな小さな権力に対する闘争も、徹底的に行えば、敗北し、孤独な退却戦を強いられることになるということだ。これに関しては、吉本隆明の言葉を、地に足の着いたものとして理解することが出来る。
問題は、そこから以後、どのように生き抜いてゆくかだ。

既に物故して久しい写真評論家西井一夫は、自らの安保闘争体験を振り返って、次のように述べている。再び、引用を許してほしい。

『闘いに敗れること(さまざまな戦線で、だ)によって、にもかかわらず依然として敗れ去ってはいない(忘れることと忘れ去ることの違いは、ただの忘却には想い出す潜在的可能性があるが、忘却していることを忘れるのが忘れ去ることである)思想・心情・精神を抱きながら、いかにして不在な「以後」を生きるのか?』
(西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』青弓社刊より)

香港の若者たちが、自らの敗北を忘れ去ることなく、『以後』を生き抜いてくれることを祈らずには、いられない。それによってこそ、時代はじりじりと変わってゆくのだから。

読者諸君、失礼する。そういえば、日本には敗北を忘れ去った人々がたくさんいる。だからこそ、いまこんなていたらくだ。

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