2015/01/31

Post #1396

Istanbul,Turk
詩的な言葉こそが、俺たちの生を荘厳してくれる。

取るに足らない無名の存在に過ぎない俺たちが、
詩的な言葉によって導かれる直感と喩で、
豊穣なイメージの世界に結び付けられる時、
俺たちは神話的な英雄の人生の
変奏曲を奏でる存在になる。
その地平では、俺たちは一人ひとりが困難な事業に挑む英雄だ。
周囲の無理解と、
自らのなかに渦巻く力強い衝動との相克に苦しみつつも、
自らの意志で生を紡ぐ一人の卑小にして誇り高い英雄として、
この人生のこの瞬間を全力で生きることが叶うのだ。


魂の熱くない奴は、それを鼻でせせら笑っていればいい。
灼熱の人生の肌を焼かれるような痛みと、裏腹の心地よさは、奴等玉無し野郎には想像もできない。


今日もまた、事勿れ主義の玉無し野郎どもが、俺を追い詰める。
俺の仕事場は、俺にとっては漢の戦場だ。
事実、一つ間違えば、命すら危ういんだ。
命の危機はシリアの砂漠にだけあるわけじゃない。
自慢じゃないが、俺は一騎当千の逸材だ。
半端な奴じゃ、俺には着いて来られやしない。
俺の仲間の漢たちは、みんなわかってくれている。
それが解からない奴らが、俺を追い込もうとする。
奴等は、自分の力で勝負しない。
奴等は、自分たちは安全なところに隠れているだけ。
奴等は、面と向かって俺には何も言えない。
そして、物陰から俺の背中に陰湿な矢を放つ。
俺は、赤い目を怒らせ、唇を噛みしめる。
俺の爪は、握りしめた掌に食い込むだけ。
狼は、狡い狐の罠に追い込まれる。
奴等の代わりはいくらでもいるが、俺の代わりはどこにもいない。俺の歯は、噛みしめ過ぎてボロボロだ。

臨むところだ。
受けて立ってやる。

読者諸君、失礼する。デカくて光るタマタマを持ってるが故に、俺はこのセコイ世の中を生きるのが苦痛なのだ。

2015/01/30

Post #1395

Czech
光の速さで思考したい

そして、世界の闇のなかに降りてゆく

まるで、堕ちていくかのように

道標は、自分の思念が描く光跡だけ



読者諸君、失礼する。

2015/01/29

Post #1394

東門市場、台北、台湾
煙草を吸うのももうたくさんだ。
吸えば、指先の血管が収縮するのが
はっきりとわかるようになってきた。

言葉も本も もうたくさんだ。
本棚の本をふと、捨ててしまいたくなる。
自分のなかに諳んじた数少ない言葉と、
そこから生まれる豊かなイメージだけで、いまは十分だ。
俺が本当に読みたいのは、
世界を貫く普遍的ななにかについての言葉だけ。
功利主義的な新書など、見たくもないのさ。

フランク・ザッパは言った。
『宇宙には普遍的なものが二つある、水素と愚かさだ』

ニュースもTVも新聞も、今はまったく見たくはない。
矢継ぎ早の情報は、
自らのなかに沈み込み、
自らの経験を踏まえて考え、
自ら判断する時間を、俺たちから奪ってしまう。

とはいえ、俺はイケイケの現状肯定だけの反知性主義者じゃないんだぜ。

もっと深く物事を考えるために、あえて情報を放擲しちまいたいのさ。

俺たちは、墜落しそうな飛行機みたいなもので、
益体もない表面的な情報や、
論理的だけど回りくどい論理を、
頭の中から放り出して、
少しでも軽くして行かないと、
きりもみするように墜落してしまうのさ。

そう、遠く高く跳ぶ前には、深くかがむように、

もっと言葉を削ぎ落としたい。

本当に、君に伝わる言葉を、
情報の欠片を組み合わせたような
冗漫な散文の言葉ではなく、
直感と喩から生まれる、
豊穣な詩のような言葉を手にするために、
もっと言葉を削ぎ落としたい。

少なくとも、今日はそんな気分だ。

読者諸君、失礼する。

2015/01/28

Post #1393

Osaka
ふと、気になって10年ほど前に初めてモノクロフィルムで撮影し、自分でプリントしてみた写真を引っ張り出してみた。
大阪駅の在来線の改札口だったと思う。
このころは、こんな感じの写真ばかりだったな。
今なら、気になる女の子を見かけたら、写真を撮るよりも他にやるべきことがあるだろうと思うようになったが、そう気づいた時には俺から若さが失われていた。
痛恨の極みだ。

Osaka
これも同じフィルムの中の一枚。
ヌメっとしたヘッドライトがポイントだ。やはり大阪駅の界隈。阪急東通り商店街の側だったかな。
今の自分の写真とは、同じようだけれど、ずいぶん違うなぁ・・・。
印画紙が今使っているものと違うので、黒の締まり具合が違う。言い方を変えれば、黒が重苦しくない。
印画紙によって違うのかと、お思いの貴兄貴女、アレの締まり具合だって人それぞれでござろう?
工業製品たる印画紙には、明明白白な違いがあったのでござるよ。
その個性を楽しんで選択する自由が、消費者に残されていた良い時代の最後の瞬間だったなぁ。

この頃使っていたのは、三菱製紙のRCペーパー『月光VR4』だったはずだ。
因みに4ってのは特別硬調って意味だ。コントラストが高いのだ。
モノクロ写真のマエストロ・森山大道が長年愛用し続けてきた印画紙だ。
森山大道信者だった俺は(今でも信者のつもりだが)、永年これしか使ってないって言ってたんで、迷わずこの印画紙に決めた。
月光はその名の通り、冴えた月の光のような青みがかった黒だった。
クールなカンジに仕上がるわけだ。月光のブルーブラックと称されていたっけな。
こういう色温度の低めの黒の調子を『冷黒調』というのだよ。
煙草で言ったらメンソールなカンジだなぁ。
大好きだったのだが、三菱製紙自体が写真印画紙から撤退してしまったのだから、どうしようもない。最後にけっこう買いだめたが、いつまでも持つようなものでもないのさ。
プリンター用写真用紙としては、GEKKOHの名前で一時期復活してたけど、いまどうなのさ?

たいして今使っているのは『純黒調』のフジのRCペーパーFM4。
かつてある人に、俺の写真の特徴は『べったりぬっぺりとした黒』と言われたが、その黒はこのフジの印画紙の黒の特徴だ。最初はずいぶん自分でも抵抗があったけど、いまじゃそれが自分のトーンだとわかる。
黒々とした黒なのだ。
煙草で言ったらこりゃ、そうだなぁ、ニコチンタールが盛りだくさんのピースみたいな味わいだな。
もっとも、画面がずんと沈んだ黒さに支配されているのは、俺の技術が未熟なせいであって、印画紙のせいではないだろう。
ましてや、俺の心が黒くにごっているからではないんだぜ。

読者諸君、失礼する。ふと、朝っぱらから過去を振り返ってしまった。女性に関することといい、写真に関することといい、俺はしばしば過去に捉われるのさ。今日も未来志向で頑張ろうかな・・・。

2015/01/27

Post #1392

Kathmandu,Nepal
国家だの宗教だのために命を懸けたり懸け棄てたりするのは、俺は御免だ。
そんなものは、突き詰めてみれば単なる幻想だ。
もしも、まかり間違ってそんな羽目になったとして、のちのちの世の人たちが、ちんけな映画や安っぽい小説にして、これまた安い感動の涙を流して俺のことを忘れないと言ってくれたとしても、俺にはカンケーないのさ。まっぴら御免だぜ。

けど、好きな女のためだったら、話は別だ。

ちんけな俺の命を懸けるくらい、安いもんだ。

何回でも懸けてやるさ。

まかせとけ、もう泣かなくていいんだ。

俺が何とかしてやる、だからもうそんな顔するな。

そんな気分だ。

なにしろ女はこの手で抱けるけれど、国家も宗教もこの手で抱きしめることはできないんだ。

この手でいとおしむように抱けないもののために、命を懸け棄てるなんて、阿呆らしくて考えたくもないのさ。

そりゃもちろん、国家だ宗教だ、歴史だって大きな話も必要さ。
けど、人間それだけじゃないだろう?

所詮俺たち個人は、歴史の波に翻弄されるしかない、芥のような存在なんだけれど、自分自身、そして自分の愛する人の視点に立ってみれば、この世界で唯一の存在なんだぜ。
そう、まさに主人公だ。

いちどこっきりの人生なんだから、わざわざ好き好んで脇役やその他大勢に甘んじることはないのさ。
本当に大切なのは、俺と君の間のことなのさ。

読者諸君、失礼する。俺は自分の写真に世界を負わせるようなことはしたくない。写真も生き方も、個に寄り添っていきたい。

2015/01/26

Post #1391

Sauraha,Nepal

Nepal
Nepal
心鬱々として、愉しまないときには、いつも旅の風景を想い出す。

日本の田舎とよく似た稲作。

ハイウェイ沿いの集落には、人々が押し合い圧し合い。

人も通わぬような谷間に、集合住宅がつくられてゆく。

どの風景も、長距離バスの車窓から、ほんの一瞬垣間見たものばかり。目を凝らすまでもなく、流れるように消えて行ってしまったものばかり。

旅をしているときにこそ、確かな人生の手ごたえがする。

一瞬先には、予想も及ばぬ風景が待っている。

読者諸君、失礼する。人生、いつだってそうありたいものさ。
生涯年収まで計算出来ちまうようじゃ、つまらないったらないぜ。

2015/01/25

Post #1390

Istanbul,Turk
どんな宗教でも、神の持つ超越性ってのは、人間には望んでも得られないものだから、痺れまくるのはよくわかります。痺れるような演出も、たくさん用意されていますしね。
痺れまくるのはそれぞれのお計らいなんで、俺如きがとやかく申すべきことでもござらぬが、実はそれには秘密があることを忘れちゃならないって思います。
というのは、どんな神も本当は、人間によって生み出されてきたという、秘密です。

大きな声で言うと、世界中から袋叩きにあいますので、ささやかに言っておきますが、ニンゲンの思考によって神は生み出されました。

これは間違いない。

もしこの宇宙に神仏が存在するとしても、俺たちにはその存在を感知することなんて、絶対に出来やしないだろう。だから、百歩譲っても、俺たちが神仏と呼ぶものは、そういった存在があるであろう方向を、何となく指し示す指のようなものにしか過ぎないんだと思う。

ニンゲンによって生み出された神の栄光のために、人間を損なう、殺すってのは、本末転倒なことなのではないでしょうか?


イスラム国に囚われていた湯川さんが、どうやら殺されたようだ。
かつてミリタリーショップを営んでいた男が、何がどう間違って、分不相応な考えに取りつかれ、場違いなところに赴き、挙句命を落とすことになったのか?

確かに、彼のその行い自体は、理解しがたいものがある。
しかし、俺自身の心の中をのぞいてみれば、自分の日々の暮らしに、心のどこかで『ここじゃない、これじゃない』という違和感を抱えていることがわかる。

それから類推すれば、もし何らかの契機・機縁があったならば、そこで囚われ殺されていたのは湯川氏ではなく、俺自身だったかもしれないのだ。

また、ほぼ同年代の後藤氏に関しても、俺自身が、人生のもう少し早い時期のどこかで、写真に出会い、これを生涯の仕事として一歩を踏み出していたら、生命の緊迫を強いられるような状況で写真を撮り、取材するという稼業に身を置いていたかもしれないと思うと、他人事とも思えない。

なんとも複雑な気分の日曜日の朝だ。
誰もかれも安全なところで、持論を垂れ流している。朝から胸がムカムカしてくる。プリキュアでも見ていた方がなんぼもましだぜ。

読者諸君、失礼する。俺は神様も国家も御免蒙る。ズバリ!素敵な女性の夢でも見ていたいのさ。不謹慎?望むところだ!

2015/01/24

Post #1389

On The Prithivi High Way,Nepal
今日は仕事を休んだ。
ちょうどキリも良かったのと、前にも書いた通り、あまりに痩せすぎて、体力がもたなくなってきたんだ。脂肪細胞はとっくに使われてしまっているのさ。
体力がなくなると、気力も続かない。
俺の商売は、言うたら人工(にんく)商売なんで、出たら出た分請求できるんだが、いかんせん、こんなふらふらの欠食児童のような有様じゃ、話にならないぜ。
いや、もちろん仕事してるときは、身体が軽くていくらでも動くんだぜ。3メートルの脚立だってスイスイ登れるんだ。
けど、それ以外の時がいけない。すぐにスリープモードになってしまう。それにもともと血圧が低いので、こんな有様じゃ、ふとした時にちょいちょい立ち眩んでしまうのだ。
3メートルの脚立の上とかで立ち眩んだら、命に関わるんだ。解かるだろう?

第一、何となく憂鬱な気分で、愉しくないのだ。
ちょうど、フランスのテロからイスラム国のすったもんだまで一連、あったしな。
それに伴う無力感ちゅうのもあったろう。

喩えるなら、誰にも言えない恋の悩みを抱え込んでるような面白くなさが胸にわだかまってる。
胸の奥に、毎月恒例の赤黒いマグマの塊のようなのが出現しているんだが、そいつに押しつぶされそうなんだ。腹の底から大きな声を出して、気分を変えてしまいたいけれど、どうもその気力が足りてないんだ。ガッツがないとはこのことだ。腑抜けって奴だ。
それでも世間一般の同年代の男性よりかは、よっぽどパワーはあるつもりだけどな。

まったくもって身体が弱ると、心も連動してテンションが下がるものだ。
俺は贅肉がまったくなくなってしまった腰回りに手を置きながら、思ったよ。

そんなわけで、今日は一日まったく仕事を考えないようにしていたんだ。
どうせ、明日からはフル稼働なんだからな。

で、何していたかというとカミサンと美術館なんかいってみたりしたんだ。
その帰りに、ふらりとのぞいた靴屋で、クラークスのデザートブーツを一足ゲットしてみた。
あれは歩きやすいからな。いずれ近い将来に、旅先で大活躍だろう。

読者諸君、失礼する。うちのカミサンが、自分が海外出張してるとき、俺がちゃんと食事をとるか、ずいぶん心配してるようだ。帰ってきたら、ミイラみたいになって死んでたら、たまらないって言うのさ。そんなときだけでも、この手のかかる歳食ったイタチ野郎のお世話をしてくれる奇特な人は、どこかにいないもんかねぇ・・・。

2015/01/23

Post #1388

Ratnanagar,Nepal
煙草が不味く感じられて、とうとうやめる潮時がきたのかとも思う。
残念だ。渋い面で煙草を吹かして歩くのは、嫌いじゃなかったんだが。
胃袋が縮んでしまったようで、少し食べてもすぐ腹がいっぱいで苦しくなる。
もともと細いのに、ますます痩せてしまったよ。
いろいろと、俺の身体は変調しているようだ。

今年の正月に、このブログに新たにアクセス解析を導入してみた。
そうすると、如何に少数の人々に支えられているかがよくわかる。
かたじけない。

俺は、ほめられると力が出るタイプなので、そういうことがわかってくると、なんだか元気がなくなってしまう。結構長いことやってるのに、人気がないんだなぁ俺、ってがっくりしょんぼりするのさ。

最近のアクセス解析ってのすごくって、どの市町村から、どんな端末のどんなブラウザーで閲覧してるかとか詳細にわかるようだ。まぁ、わかったからといって、どうこうするもんでもないが。
俺は本当は、写真を見ながらあんときはどうだったんだとか君と話したいし、君と一緒に冷たい風の吹く街を歩きながらシャカシャカとシャッターを切って、君を驚かせたりしたいんだが、こうお互いに顔の見えない一方通行じゃ、どうしようもない。
サルのせんせんずりと馬鹿にされているのさ。

しかし、意外な事実も分かる。
半分くらいのセッションで性別がわかったようなんだが、その6割が女性だった。
しかも、女性は男性の3倍くらいの時間をかけて読んでくれているようだ。
おまけにいうと、女性は男性の3分の1くらいしかいないんだが、セッション時間では男性の4倍強だという。
統計を取っている期間と、いかんせん俺のこのクソブログの閲覧が少なすぎるので、どこかに特異な読者がいるだけで、大きく傾向が変ってしまうのだろう。

しかし、女性の方がしっかり読んでくれているというのは、意外だ。

はっきり言って俺はこのブログ、どうせ、ごく少数の野郎しか読んじゃいないと思っていたんだ。いつ辞めたって何の影響もないくらいに思っていたのさ。実際にコメントくれるような人は、たいてい2、3人に限られてるしね。
女性の読者なんて、嬉しいけど、想定もしてなかったよ。
たいていの女性ってのは、一度見てみますねって、笑顔で言うけど、まず見てくれないってのが、俺の経験に基づく実感なんだ。

はっきり言って、もう、期待すらしなくなっていたよ。

しかし、そうなると問題だな。すこし下品な表現を控えないといけないんじゃないか?
気にしないタイプの心の広い女性ならいいけれど、いまどきいろいろやかましいからな。

しばし、脳内にて検討。

まぁ、どうでもイイか。実際にコメントとかくれるわけでもないしね。
俺が気になるあの子は、読んでくれないだろうし、どうだってイイさ。
だいたい、かみさんだって読んでくれないんだぜ。

読者諸君、失礼する。いろいろうんざりしてて、どこかにふらりと出かけたい俺だぜ。シリアとかは遠慮しておくよ。

2015/01/22

Post #1387

Kathmandu,Nepal
俺は本当は、世界のことなんかお構いなしで、自分の小さな利益、幸福、快楽にしか興味なんてないという生き方のほうが、人間としてはるかに健全だと思ってるんだ。
だから放蕩者に憧れる。快楽主義万歳だ。

俺のように、自分ではどうにもできないことについて、分不相応に憤ったり、悲しんだり、自分にいったい何ができるのかなんて考え込んでしまったりするのは、あえて背負わなくてもイイ荷物を背負って歩いているようなものじゃないか。違うかい?
眉間にしわを寄せてそんなことを考えていたって、女の子には相手にしてもらえっこないのさ。

そりゃ俺にだって、世間様並みに自分の小さな利益、幸福、快楽を願う気持ちはあるさ。むしろ、人並み以上かもしれないぜ。
けど、自分が幸せを感じようと思ったら、自分の身近な人たちにも幸せになってほしいと思うのが、人情ってもんでしょう?
で、その身近な人たちにも、俺の知らない身近な人たちがいる訳で、俺の知らない身近な人の縁者が幸せでいてくれないと、俺の身近な人は幸せではいてくれないに違いないと思うわけだ。それをどんどん広げていくと、世の中にどうでもイイ人間なんて一人もいないってことに気が付いたのさ。なんと小学生の頃にね。

子供の理屈だって?

そりゃそうさ。子供の考えてたことだ、子供の理屈で当然だろう?

子供の頃の俺は、自分が生きているうちに、世界が滅びると思っていた。
当然、自分は生き残りたいと思ったんだが、自分ひとりじゃどうにもならないって気が付いたのさ。
家族、親戚、友人、そのまた家族、親戚、友人・・・。
自分一人が生き残るためには、いまでいうFaceBookの友達の友達みんなが生き残らないと意味がないって思ったのさ。
それを敷衍していくと、世界中すべての人が、世界の破滅的な終焉から救われないと意味がないという結論に達したわけだ。
子供心に、気が遠くなったよ。
まったく、ひょろひょろした色白の坊やの頃に考えたことが、この年になっても自分を縛っているんだなぁ。三つ子の魂百までとは、よく言ったもんだぜ。

御幼少のみぎりから、そんな分不相応な考えを持っていたために、大学に入ったばかりの若いころ、カルトな、いやむしろSF小説をそのまま現実化したような奇妙な宗教にハマって、家を飛びしてしまった。ついでに大学も辞め、割のいい人生からドロップアウトしてしまった。
その挙句、貴重な青春時代を禁欲的な修行の日々と、霊界闘争という幻想に費やしてしまった。酒もタバコもギャンブルも、女っ気も無し。ついでに言えばプライバシーも金もなしという青春時代だった。
さすがにうんざりして現実社会に復帰してからも、ロクな仕事にありつけず、筋が通らないと戦いを挑み続け、その都度敗北を重ね、すっかりひねくれてしまった。
で、今は政治や社会について憤ったり、社会の理不尽に憤慨したり、世界で起きてるクソみたいな現実に悲しんだりするような、身の程知らずな阿呆なおっさんになってしまったわけだ。

みんなが愉しそうに歩いているのに、自分だけ重たい荷物を担いで、三白眼で前をにらんでいるようだ。まったく、バカバカしいったらありゃしないよ。

そんな事ばかり気の向くままに書き散らしてるおかげさんで、このブログは誰の興味もそそりはしない。ごく少数の知り合いを除いて、誰にも気付かれない。
グルメ、ファッション、利殖、スポーツ、セレブの生活、そしてセックス・・・。
そういったごく普通のことについて書いていたなら、もっと君たちに気に入ってもらえたことだろう。
もっと人気者でいられただろうし、自己満足もしただろう。
しかし、俺にはそれは難しい。残念ながら。俺にはこんなことしかできないんだ。赦してほしい。

読者諸君、失礼する。とはいえ出来る事なら、自分の利益や快楽にしか興味のない、まっとうな社会人でいたかったよ。そんなのつまらないって?大丈夫さ、今でも十分つまらない男なのさ。

2015/01/21

Post #1386

Patan,Nepal
イスラム国が、日本人の人質を殺されたくなければ、2億ドル支払えと言っている。
猶予は72時間。すでに20時間ほどが経過している。
2億ドルもの金を、日本政府が払うとも思えない。しかし、何らかのコネクションを通じて、交渉を試みているんだろう。その結果がどのようなものになるのかは、一市井の無頼漢たる俺には、とやかく言う資格はない。
出来る事なら、こんな話題は避けてしまいたかったんだが、触れておかないのは、言いやすいことだけ言って、言いにくいことは言わないというようなご都合主義の香りがするので、何も言えないと思いつつも、触れておくことにする。
もちろん、俺はそんな事より、かわいいおねーちゃんのことで考えて悶々としている方が、自分らしいとは思う。


この件に関して俺は、青い空と石ころしか転がっていない土漠に、独り途方に暮れて立ち尽くし、途方に暮れたような、悲しみと無力感の入り混じった奇妙な気分を味わっているのだ。
わかってもらえるかなぁ・・・。


どのような結果になろうとも、それによってイスラム教徒の人々を自分たちの社会から疎外するのは過ちだ。もちろん、恐れたり、おもねったりする必要もないけどね。

つまり、ちょっと文化の違う隣人として、普通に接するべきだということだ。
疎外することは、中長期的に見て何も生み出さない。
むしろ、疎外は憎悪の源になり、憎悪は新たなトラブルの源になる。
つまり、恐れたり憎んだりすれば、それはいつの日にか、何倍にも増幅されて自分たちのもとに、戻ってくるということだ。ブーメランみたいなものさ。

今回の件に関しては、なぜあの民間軍事警備会社の男性は、イスラム国の支配地域に潜入したのだろうか?というそもそも論的な、素朴な疑問が尽きない。チャック・ノリスやランボーだって、独りであそこに潜入しないだろうって思うぜ。
人相体つき、醸し出す雰囲気から察するに、今日まで傭兵として、世界の戦場を人知れず渡り歩いてきたといった風情など微塵もない白面郎に見えるのだが、どうだろうか。

以前読んだ報道では、自らの会社の事業に関する経験を積むため現地に赴いたと報じられていた。
箔をつけるというか、ある種の功名心があったのだろうか。あくまで記憶の範囲だけれどね。
しかし、理由はどうあれ、考えれば考えるほど、あまりに無謀だとしか言いようがない。アメリカも、軍やCIAなどから、かの地にエージェントを送り込んではいるだろうが、何のバックアップもない個人が、単身乗り込むには危険すぎたってことだ。
もちろん、彼個人をバッシングする気もなければ、自業自得だの、自己責任だのと切って捨てる気もないのだが、いささか現地の状況に対して、認識が甘かったんだろうなぁと思う。

そして、民間警備会社の男性を救助するために現地に向かい拘束されたジャーナリストの男性は、現地の事情に詳しく、報道によれば何らかのコネクションも持っていたにもかかわらず、今回のような事態に直面してしまった。
その志は称賛されるべきかもしれないが、支配地域と巨大な資金、そして強大な武力を保持した狂信的な集団に対して、徒手空拳で交渉を図るというのは、いささか彼個人の力量を越えたものであったんだろう。

俺は常々、仕事絡みで『別に命まで取られるわけじゃないんだ、どんとやれ!』と思うことにしているのだが、この場合、一歩間違えたらフツーに命が取られてしまうので、なかなかどんとやる気にはならないだろうよ。
そういう意味では、彼らの無謀さと裏腹な行動力には、正直感心してしまう。
自分なら、あんなふうに出来るのかと問われれば、無理って即答するよ。
いかに志があろうとも、あれで処刑されてしまったら、元も子もないんだよ。無駄死にだ。無念すぎるぜ。

読者諸君、失礼する。どのような結果に落ち着くのか、俺には皆目見当がつかない。しかし、なんとか彼らが無事に帰ってくることが出来ることを祈っているよ。

2015/01/20

Post #1385

Bruxelles
ヨーロッパの各地で、反イスラムのデモが起こっている。
ドイツ東部では、数万人規模のデモが起こっているという。
俺は、悲しいような気分になる。思わず荒野に立ちすくんでいるかのようなさみしさだ。

ヨーロッパの歴史は、古くはウマイヤ朝によるイベリア半島占領から始まって、千年以上にわたってイスラム勢力圏とのせめぎあいの歴史だ。ウィーンはオスマントルコに包囲されたこともあるし、ハンガリーやギリシャはオスマン帝国領だった時期もある。また、中世にはエルサレム奪還を目指して、多くのヨーロッパ諸国が中東に兵を送り、当時はヨーロッパよりも進んだ文化を持っていたイスラム教徒と激しい戦闘を繰り広げた。ちなみに、その頃のイスラム教徒は、古代ギリシャ文明を継承し、その自然科学や哲学を発展させることで、キリスト教会のもとでそれらを破棄してしまったヨーロッパ人よりも、はるかに進んだ文化を持っていたんだ。
ちなみにヨーロッパに、古代ギリシャの文化的態度が復活するのには、ルネッサンスまで待たねばならなかった。

そして、現代では多くの北アフリカやトルコ、中東出身者が移民としてヨーロッパに定着しており、その比率が増していけばいくほど、社会に軋轢が生じている。
実際に、ヨーロッパの国々の街角を歩いてみれば、明らかにイスラム教徒といった人々を、容易に目にすることが出来る。フランスやベルギーでは、北アフリカから来たとおぼしき人々の姿をしばしば目にする。
これが、ドイツになると、行ったことはないのだが、トルコ系の人々を多く見ることが出来ることだろう。

俺たち人間というのは、違う価値観を持つ者をなかなか理解しようとはしない。
理解することなく、単に外見や習慣の違いから誤解を深め、溝を深めていく。それに経済的な格差や教育の機会の不均衡が加われば、溝はますます広がっていく。

日本でも、かつて日系ブラジル人のコミュニティーと地元住民の軋轢が報じられたりした。また現在でも、在日韓国及び朝鮮人に対するヘイトスピーチが問題になっているが、ヨーロッパの問題の根は、イスラム教とキリスト教の長年にわたる抗争の歴史があるため、より根深いんじゃないかなと容易に想像できる。
誰だって、自分の属する文化がサイコーだって思っているはずだ。
身近に目を向けてみれば、今の日本には、日本人は素晴らしい、日本はサイコーだといった類の本が溢れている。けれど、俺にはそれは、自信の無さの裏返しに見える。


俺は、自分の抱いている遠大な理想と理念、そして現実の間に横たわるギャップに、呆然とするんだ。
ほとんどアンドロメダ星雲に向けて、自転車かなにかで出発したような気分だ。


俺がインドネシアやモロッコやトルコで出会ったイスラム教徒の人々の多くは、人懐っこく、誠実な人々だった。俺が片言のアラビア語で話しかけると、とても嬉しそうに笑うんだ。
礼拝の時間を告げるアザーンは、力強く、かつ美しい旋律と響きを持っていた。

モロッコのホテルで出会った写真の彼らは言っていた。
ヨーロッパ人は、決してアラビア語を話して接しようとはしない。その態度は自分たちを一段低く見ているように感じると俺には聞こえた。まるで、召使に接するように振る舞うヨーロッパ人だっているんだろう。
君たち日本人が、こうしてアラビア語を使って話しかけてくれることは、とてもうれしいと彼らは言ってくれた。そしてまた、あなたたちは友達だ、と彼らは言ってくれた。
Marrakech,Morocco
ひとりひとりの人間に、一個の人間として向き合えば、そして互いにそれぞれの文化を理解し、尊重する姿勢を持っていれば、きっとお互いに違いを見出すことよりも、共通するところを見出すこと多いはずだ。
だって、考えてみてくれ、どんな文化に属する人間だって、嬉しいときには笑い、悲しいときには涙を流すんだぜ。頭に来た時には、怒った顔になるもんだ。不思議じゃないか?
けど、それが人間なんだ。みんな同じ赤い血が流れてるんだ。
きっと分かり合えるさ。

そして、俺はそういうことが出来る人間の方が、異物を排除する人間よりも、面白い人生が送れるように思うし、より強く、より優しい人間だと思う。
それは何も、違う民族、異なる文化に属する人々の間の問題だけに関する話じゃない。
同じ日本でも、くだらない差別が、今でもたくさんある。
性、職業、階層、資産、出身、血筋、学歴、身体的な諸問題。
表面的になくなったように見えても、それは巧妙に隠されているがゆえに、より深く根腐れている。

俺は無力な一個人だ。
出来る事なんて、ほんと何もないに等しい。
けれど、一つだけ君たちに言えることがある。

まずは、自分の目の前の人間に、誠実に接することから始めよう。
相手を一人のかけがえのない人間として、理解しようと努めよう。
すべてはそれからだ。

とても大事なことだから、もう一回行くぜ!

目の前の人に、誠実に接することから始めようぜ!

読者諸君、失礼する。誤解が解けたら、理解を深めよう。

2015/01/19

Post #1384

Bruxelles
サザンの桑田が、紫綬褒章を貰って、それを聴衆の前で披露して、オークションにかけるようなふりをして批判されている。
俺は、サザンに興味がないので、それに関してどうこう言う立場ではない。
けど、桑田自身、たんなる演出ですと言いながら、オーディエンスの前にちょび髭をつけて出てきてみたり、政府の安全保障政策を皮肉っていると取られるような歌詞を紅白で歌ってみたりと、最近面白いことをやっているなぁと思っていたのに、なんだか残念な気もする。
もっとも、俺の愛する今は亡き忌野清志郎なら、そもそも紫綬褒章なんてもらえる訳もないし、貰えることになっても、辞退していただろう。
ロックとは、反体制の音楽であったはずなのに、体制に認められてしまったなら、権力者のポチに成り下がってしまうじゃないの。すくなくとも、自分が批判し続けてきた相手に、名誉な賞を与えられるというのは、俺なら御免だ。権力者の皆さんには、ぜひとも目の上のたんこぶのように鬱陶しく思って欲しい。
ロックは昔は、不良の音楽だった。ロックなんか聞いてる奴はロクでもない奴だった。俺の周りにもそんなロックなロクでなしはたくさんいた。
愛すべき馬鹿野郎たちだった。
きっと、桑田はロックではなくて、ポップミュージック、つまり大衆音楽だったということだと思うことにしておこう。なにしろ名誉ある紫綬褒章だからな。国家権力のお墨付きなんだ。
ロック60年の歴史で、ロックが体制にすんなり取り込まれてしまったことで、そのエネルギーは明らかに減衰している。
悲しいことだ。
実際、俺が好んで聞くのは60年代から70年代にかけての、ロックの黄金時代の曲ばかりだ。
ロックよ、長生きするんだ!

かつて、イギリスの首相だったトニー・ブレアが、ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーに、ナイトの称号を与えたことがあった。2003年のことだ。ストーンズの活動40周年を機に送られたという。
授与理由は長年にわたる『ポピュラー音楽への貢献』だ。ポピュラー音楽だ。
もう一度言おう、ポピュラー音楽だ。

これに対して、ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは猛反対した。
キースの言い分はこうだ。
『俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ、だろう?俺はクソ忌々しい冠をつけて、きざなアーミン(オコジョのことだよ)の白い毛皮をまとった誰かさんと、ステージに上がるのなんて御免だね。俺はミックに言ってやったよ。「そいつは糞喰らえの無価値な名誉だ」ってね。』

これに対して、ミックは『キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供だ。彼も本当は欲しいのさ』と反論していたという。

確かにミックとキースのグリマーツインズは、コインの裏と表のような関係だ。ミックはまさにポップだし、キースはロックを体現したかのような人物だ。
どちらの言い分が正しいかは、それぞれの考えることだろう。
そして、このやり取りは今回の一連の出来事のよしあしを、もう少し深く掘り下げてみる材料になるようにも思うんだけど、どうかな?

名誉ねぇ・・・。俺にとって、名誉だと思えるのは今まで縁のあった人たちが、とりわけ関わりのあった女の子たちが、俺のことをいつまでも忘れず、出来たら大切な思い出にしていてくれることだね。それに尽きるよ。君たちに愛される一匹の風来坊で無頼漢でいたいのさ。

読者諸君、失礼する。
まぁ、俺が何を言おうが、やっかみにしか思われないってのが寂しいところなんだけどね。

2015/01/18

Post #1383

Patan,Nepal
人に、写真を撮ってますというと、まず例外なく『どういう写真を撮っているんですか』と訊かれる。

俺は返答に困ってしまう。

きっとその人は身近な人々やモデルを写したポートレート写真とか、キレイな山だの海だのを写した風景写真とか、そういった答えを期待しているんだと思う。なかには、俺の風貌からなにかしら怪しいものを感じるのかヌードとか撮ってるんですか?と訊いてくる人もいる。それはやっては見たいが、漢として裸の女性を前にしたら、やるべきことはそれじゃない気がするが、どんなもんだろうか。

俺は内心に少し引っかかりを感じながら『まぁ、スナップ写真です。何っていうわけじゃありませんが、こんな感じです』と言って携帯のSDカードに落とし込んだ写真を見せてみる。

たいていの人は、『へぇー』といっては感心するようでいながら、その実なんだかよくわからない写真だなぁといった顔をする。
俺の写真は解かりにくいんだろうな。なにかテーマがあったりするわけでもなく、皆によく知られた風景や名所、名建築が非凡な技量で写されている訳でもなく、ただ淡々と俺の生の歩みの時系列に沿って、目にしたものを写していくだけなんだから。
それらの画像から何かしら意味を汲み取るのは難しいということだろう。
だって、そもそも意味なんかないんだから。
あるとすれば、そこに写っている人々の生を、掠め取るように捕まえたいという秘かな主題があるだけだ。

スナップ写真という語感は、何か間が抜けた感じがして好きになれない。ちょうどちびまる子ちゃんに出てくる“たまちゃんのお父さん”のような、すこし間抜けな好人物を想像してしまう。

それが、『スナップシューター』つまり、撮影=シュート(射撃)という強い響きのある言葉になると、しっくりしてくる。写真を撮るという行為は、俺にとっては世界との格闘のような気分だし、どこか狩人のような感覚だから。
とりわけ、肖像権だのなんだのといって、こういった写真を撮ることが反社会的な行為とみなされるようになってきた昨今では、なおさらだ。写真を撮ることは、犯罪すれすれで、どこかやましい行為なのだ。
しかしだからこそ、物事の本質に迫りうる道が隠されているのではなかろうか。

永年、そんなことを考えていたら、少し前にウィリアム・クラインの文章にいい言葉を見つけた。『東京1961』によせて記されたクラインの言葉のなかに彼が自らの写真を『アクション・フォトグラフィー』と記していたのだ。
これは何かカッコいい。
しっくりとくる。
つねに歩き回り、揺れ動きながら世界を捕まえていく、動的な視座が含まれているような響きがある。言葉に肉体が感じられるというか、身体性が垣間見えるのだ。
クラインの文章を、少し引用してみよう。

『1950年代、アメリカにおいてアクション・ペインティングが勃興し、絵画は一連の変革期を迎えていた。その頃にキャリアをスタートさせた私は、アクション・フォトグラフィーといった類いのことをしていたように思う。そしてその中に、ざらざらとした黒の質感やギザギザの線といった木炭デッサンの要素を取り入れたりもしていた。私は美術の専門的な訓練を受けた事はないし、伝統的な技法に重きを置いていなかったので、私の写真はとても原始的なものであった。原始的、すなわち偶発的で、反技術的な方法論が私の性に合っていたのである。むしろ、写真の問題点は、精密な技術的な部分にこだわり過ぎるところにあるとさえ思っていた。』
さすが本家本元だ。もう少し、引用してみよう。
『西洋絵画の歴史は、変革の歴史なのだ。絵画の場合、今、この現代に“古典的な”絵画が話題の中心になることはあまりないし、積極的に見たいと望む人も、そう多くはないだろう。だが、同じ視覚芸術である写真の場合、美術館やキュレーターたちは、ほぼ“古典的な”写真しか展示しない。私は強く感じるのだが、専門家たちが技術的な部分にこだわり過ぎるが故に、写真は視覚芸術の中で最も虐げられた芸術になっているのではないだろうか。』

虐げられた芸術というくだりが興味深い。写真とはこういうものだと、専門家によって規定されているがゆえに、多くの人々が思い描く写真というものは、どこか窮屈で型にはまったものになっているように感じる。
アクション・フォトグラフィーか。
いい言葉だな。今度から使ってみよう。とはいえ、そんなこと言っても、誰にも通じないだろうな。

読者諸君、失礼する。写真というのは俺にとって、この世界と渡り合うための武器だし、俺の見た世界を君に伝えるための言葉でもあるんだ。君が俺の写真から、見たことない世界やあったことのない人々の生について、ちらりとでも思いを馳せてくれたなら、俺は満足さ。

2015/01/17

Post #1382

Boudhanath,Nepal
今日は阪神大震災から20年という節目の日だった。

あの頃俺は、二十歳で家を飛び出して、貴重な青春を浪費していたカルトな宗教から、命からがら夜逃げして足を洗い、鬱屈していた時期だった。しかも、家に追手が来ることを警戒して、親父の会社の2階に住んでいた。なにしろ、押入れを開けると日本刀がゴロゴロしているような危なっかしい集団だったし、俺は一度、やめたいと言ったら、殺して港に沈めるという宣告を受けたこともあったからな。追手を警戒するのは当然だろう。
俺は外を出歩くのすら用心し、毎日、やることもなくふて寝していた。
そして、あの日もそんなひどいことが起こっていたなんて知らずに、眠っていたんだ。
なんとも申し訳ない。
とんでもない災害が起きていると知って、心底驚いた記憶がある。
俺には当時、関西方面には縁者がいなかった。正直言って、どこか他人事だった。自分のことで手いっぱいだったんだ。
改めて、亡くなった人々の冥福を祈り、被災された方々の胸中を想うこととする。

今日という日は、20年という節目の年でもあるので、世間は追悼ムード一色だが、俺の一族、つまり伊賀にルーツを持つ忍者の一族にとっては、俺のばあさんの3回忌、おふくろの33回忌、じいさんの47回忌の法要を行う日ということになっていた。
法事の時は、いつもこんな感じさ

今までは親父がそういうことを取り仕切っていたんだが、そろそろこれを機会に一線を引き、俺に委ねたいという話だった。
厄介ごとは御免だが、俺はこう見えて長男だし、兄弟の中には俺を越える存在感の持主はいない。
これも時代の流れだ。致し方あるまい。
俺は親父と打ち合わせて、親戚一同に連絡をつけ、出欠をとったりしていたんだ。面倒だが、俺の責務なんだろうな。
まぁ、一族の代替わりのイベントだ。質素倹約ながら和やかにいきたいとおもっていたんだがなぁ・・・。

しかし、やはり今回も親父と揉めてしまった。俺のカミサンの予想通りだ。
しかも、法事を行った本堂で、親戚一同の目の前で、親父のテキトーさと身勝手な振る舞いに、反射的に反発してしまったのだ。
夜の男の現場を終えて、一睡もせずに着替えて行ったので、俺の心のマシンガンの引き金は、潤滑スプレーをべとべとに塗ったみたいに軽いったらなかったのだ。

反省してます。後悔はしないけど。

しかし、この親父には毎度まいど、本当に振り回されるぜ。
法要の開始時間は30分間違えて教えてくれるし、法要の後の会食など無しで、各々気の合ったもの同士で適当に食事をしてくれればよいという話だったのに、いざふたを開けてみれば、親父の馴染みの店に席を設けてあるという。
それを聞かされたのは、今日の朝、それもお寺でのことだ。そりゃ、俺も頭に来るさ。
もっとも、俺も睡眠さえとってりゃ、多少は笑って受け流し、皮肉の一つくらいで済ませることができたかもしれないけどな。
頭には来るが、どうにも俺が行かないと締りはつかない。プンスカ怒ってみても、大人なんだから仕方ないさ。弟なんか、仕事があるなんて言って、とっとととんずらしやがった。親父の弟も、新幹線が雪で動かなくなると嫌だってんで、そそくさと帰って行った。要領のいいことだ。見習いたいが、そうもいかないぜ。
仕方ない。俺は親父たちと一緒に昼からステーキなんかかっ喰らい、せめてもの腹いせにトイレに行くふりをして、こっそり支払いを済ませてきたぜ。借金を抱えた70代半ばの見栄っ張りな親父に、あまり金銭的な負担をかけたくなかったのさ。
とはいえ、予定外の出費に血の涙が流れたよ。
男女の縁は切ることはできるけど、親子の縁は切るに切れないんだ。この親父は、ブースカ言いながらも、俺が看取ってやるしかないのさ。

読者諸君、失礼する。しかしまぁ、俺もまだまだ器が小さいぜ。ダッハッハ!

2015/01/16

Post #1381

Fes,Morocco
イスラム教徒に対して、ほかの宗教の人々が偏見を持たないようにしてほしいと願っている。
どんな集団のなかにも、狂信的なグループは存在するし、大多数のイスラム教徒の人々は、自分たちが信じている崇高なものを茶化され、不快な思いをしていたとしても、耐え忍んでいるのだから。
日本人なら、この国では、ほんの70年前まで、天皇陛下を生き神様と信じ、その写真を真っ直ぐ見る事さえできないと考えていたのを知っているだろう?
その頃、同じように天皇陛下が風刺漫画にされたら、大多数の日本人は激高したことだろう。
きっと、日本刀を持って乱入し、その風刺漫画家を殺すとかいう鼻息の粗い奴も出て来ただろうし、実際にやるやらないは別として、人々はそんな過激な言動に喝采を送っていたことだろう。

また、世界を震撼させたオウムテロ事件の時、世界の人々は、日本人全体が地下鉄のなかでサリンを散布するようなイカれた民族だと考えただろうか?

自分の親戚にろくでなしのクズ野郎がいたって、君まで世間様から鼻つまみ者にされるのは、筋が通らないってもんだろう?

自分がされて嫌なことは、人にもしたくない。批判批評の矢を向ける相手は、もっと他にいるはずだし、狙いはしっかりと絞り込むべきだ。
それが俺の選択した自由だ。

読者諸君、失礼する。今日は朝帰ってきてから、47%のジンを飲んで眠ったんだけど、すぐに目が覚めてしまったんだ。睡眠1時間30分はキツイ。けどおかげさんで、書いてるうちに眠くなった来たんだ。自分で書いてても退屈だったってことかよ。道理でPVが伸び悩むはずだぜ。

2015/01/15

Post #1380

Paris
髪を切りに行って、まじまじ鏡を見ていると、ここんところずいぶん痩せてしまった。
体重計にのっているわけではないので、どれくらいってのは解からないけれど、首や顎がすっきり削ぎ落としたようになっている。頬にいたっては、光の当たり具合によってはげっそりしているようにすら見えることだろう。そういえばここんところ、腰回りもかなりすっきりしていたっけ。
今度の法事の時に、スーツを着るのが楽しみだ。

別にダイエットとかしてるわけじゃない。
悩みがあるわけでもない。

飯を食わないだけのことなんだ。
仕事の時間が不規則なんで、朝家に帰って、かみさんが作っておいてくれた夕食?をレンジで温め食べると、次の日の朝まで、ほんの少ししか食べない。時には何も食べないことすらあるほどだ。
もともと、食い物に執着するタイプではないので、何かを無性に食いたいってこともない。
何か口にしなけりゃと思い、コンビニに行ったりしても、何も食いたいものがなくて困惑するんだ。
仕方なく、カップヌードルとかを、ガソリンを給油するように食べていると、かみさんにもっとましなものを食べるようにと叱られる。

そのかみさんも、今日は出張でいない。
俺はヤルときはヤル男だし、食事も自分で作れるんだけど、誰かに食べてもらわないと作る気がしない。自分に関するその辺のことは、はっきり言ってどうでもイイといったルーズな男なんだ。そもそも、なにか食べたいって欲が希薄だから、スーパーに買い物に行っても、なにも思い浮かばない。
くわえて、外には冷たい冬の雨が降り続いている。体の芯まで冷え切ってしまいそうだ。そんな冷たい雨の降る暗がりの中を、俺は傘もささずに仕事に出かけるんだ。傘ぐらいさせばいいようなもんだけどな。

しかし、朝、家に帰っても誰もいないしんと冷えた部屋というのは、どうにも寂しいものだな。俺にはお世話にしてくれる人が必要なんだ。手のかかる老いぼれなのさ。
誰か、こんな俺を温めてくれないか?手も足も氷のように冷え切っているのさ。そして心の奥もね。

読者諸君、失礼する。今夜も漢の仕事が待っているのさ。

2015/01/14

Post #1379

Balcerona
ここ何日か、本棚の奥から『古今和歌集』を引っ張り出して読んでいる。
若いころにはよくわからなかったんだが、改めて読み返してみると千年も前の人々の、迸るようなホットな感情が、ビシビシびんびん伝って来る。
とりわけ、切ない思いを詠いあげた数多くの恋歌は、その大半が叶えられぬ恋と、伝えたくても伝えられない相手への思い、そして逢いたくても逢うことが出来ない切なさを詠っているのだが、21世紀を生きる自分と、何ら変わりのないことに、驚くとともに深く共感する。

まさに、『もののあはれ』だ。
なんたって、当時の人々にはラインもフェイスブックもないし、電話もなけりゃ携帯電話もない。道路もなけりゃ交通機関もない。だから当然、離れた人に気軽に会いに行くことが出来ないばかりか、久しく消息の途絶えた人の安否すら知ることも出来ない。ネット社会ってのはスゲー便利だが、そんな思いを募らせて、転げまわるように苦しみもだえることもない。恋すら軽いのだ。悩むより前に、ラインか何かで、新しい恋人をゲットすればイイのだから。
まったく、平安朝の人々の恋は、現代人のそれとは、比べ物にならないくらい不便だ。

けれど読めば読むほど俺には、人間の本質ってのは、千年経とうが、技術がどれだけ進もうが、ぜんぜん変わらないんだって思えるよ。
いや、ひょっとしたら俺の感覚が千年前の人間の感覚なのかもしれないけどな。
まぁいい。そんな気持ちの解からない奴には、どれだけ言っても仕方ない。
けれど、そんな気持ちがわからないようじゃ、人生の楽しみは半減だぜ。
嘘じゃないさ。実際に少し読んでみればいい。
君が日本人の端くれなら、声に出して読んでみるがいいさ。
きっと五臓六腑にしみるのさ。

俺は、巻十二 恋歌二のこのあたりに痺れるぜ。

605 『人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ 我が嘆きをば 我のみぞ知る』  つらゆき
(相手に知ってもらえない恋の思いこそ、辛いものはない。私の嘆きを知るのは、私だけなのだ)

611 『わが恋は ゆくへも知らず はてもなし あふを限りと 思うばかりぞ』   みつね
(私の恋の悩みは、どうなるかわからないし、果てしがない。せめてあの人と逢うことで、治まりはしないかと、思うばかりだ)

613 『今ははや 恋ひ死なましを あひ見んと 頼めしことぞ 命なりける』    ふかやぶ
(本当ならば、自分はとっくに恋こがれて死んでしまっていたはずだけれど、あなたがそのうち逢おうと約束してくれた言葉をだけを頼りに、生きているのです。)

615 『命やは 何ぞは露の あだものを あふにしかへば 惜しからなくに』    とものり
(命なんて、露のようにはかないものだ。あの人に逢うことと引き換えられるのなら、そんなもの惜しくもないさ。)

けど、このころの大人って、カッコいいなぁ。
いい年こいて、好きな女に会えるんなら、死んでもかまわない!なんて歌えるんだから。
けど、誰かを好きになるって、そんな気持ちがするもんじゃないかい?自分にもそんなときがあったなぁなんて思えるのは、果たして俺だけかい?

読者諸君、失礼する。


2015/01/13

Post #1378

Paris
今年の春にスペインとかパリに旅行する計画が急浮上している。
それも悪くないなって感じだ。
この円安のご時世だ、せいぜいお小遣いを貯めておかないとな。

昨晩は、仕事が激戦激闘だった。
どんな現場でも、乗り込みの際には緊張する。そして闘志が燃え上ってくる。
困難なら困難なほど、男冥利に尽きって気がするぜ。楽して儲けてる奴には、けっしてわからない世界がそこにはあるのさ。
仕事は決して好きじゃないんだが、自分の生き方にケチをつけられないためには、たかが仕事と侮らず、全力で取り組まないとダメなんだ。自分の仕事も満足にできないような奴が、社会で自分の我をおし通せるわけがない。
強いけど、扱いづらいキャラクターを秘かに目指しているんだ。

そうやって仕事をしてると、それ以外のことは何も考えられないくらいだ。

写真のことも、あの娘のこともなにもかも、頭からすっ飛んで、清々しい充実感が自分の心と体に満ちているのが解かる。
毎日がこれほどの激戦だったら、それはそれで人生面白いもんだろうぜ。

だからどうしたって言われても、困るんだけどな。

そうして、朝になると、疲労と抜けきらない昂ぶりのために、ぞっとするほど陰惨な目つきをして家路をたどる羽目になるのさ。おまわりに出くわせば、間違いなく職質喰らうだろうぜ。


読者諸君、失礼する。今夜も当然男の仕事だ。浮ついたことなんか、考えてる暇はないのさ。

2015/01/12

Post #1377

Paris
早朝、粉雪の舞う中とぼとぼと帰ってきた。新聞が届いている。いつものように取り出して、何の気なしに一面を開いてみて、驚きかつ感動した。
パリが凄いことになっている。
100万人もの人々が、テロに屈しないとレピュブリック広場に集まり、3キロにも及ぶデモ行進をしたというのだ。その熱狂ぶりはナチスドイツからのパリ解放以来のものだという。

凄い。素晴らしい。こんなの見るのは、ベルリンの壁崩壊以来だ。
出来る事なら、俺もパリでそのデモに参加して、フランスの皆の衆に連帯を表明したかった。

ネットから引っ張ってきた写真を見ても、すごい人だ。
200万人くらいしか住んでないパリで、100万人のデモ行進って、すごいことだよ。
ほとんど世界史レベルのことが起きてるんだ。
つくづく、フランスの、いやヨーロッパの市民社会の成熟度に敬意を表するよ。
彼らにとっては、社会というのは、お上がうまいことどうにかしてくれるものではなく、自分たち一人一人の市民がつくり上げていくものだというのは、きっと『自明の理』なんだろう。
そして、その根底には、『自由、平等、博愛』という、フランスの国是が社会の根本原理として存在してるんだ。
なんて民度が高いんだ。
俺は、今回のテロで、俺自身が何度か訪れて感じたパリの最大の魅力、つまり誰がどんな価値観を持っていたり、どんな肌の色をしていようが、なんら構わない、それは個々の人間の自由だという、風通しの良い心地よさが、失われてしまったら悲しいことだと思っていた。
けれど、今回のデモのニュースを知り、パリジャンのエスプリは毫も揺るぎはしていないことが分かった。
こんなうれしいことはない。

そもそも、テロリズムってのは人々に恐怖を与え、委縮させ、人々を疑心暗鬼に陥らせて、社会を分断させることがその究極の目的だ。
確かに、デモをしたからといって、無惨なテロがなくなるわけではない。現に、同じ新聞には、アフリカで猛威をふるっているボコ・ハラムが、10歳ほどの女の子に爆弾を取り付けて、市場で爆破させて多くの人々を殺傷したという、憤る以外にないような卑劣なテロが報じられていた。
けれど、ヨーロッパの人々は、テロに屈しないという強い姿勢を示した。
それはとても心強いことだ。

読者諸君、失礼する。俺は、人間が人間であるというただそれだけで、尊重される世界が、いつの日かきっと来ると信じている。そして、いまを生きている俺たちは、その長くて遠い道のりの一歩を、日々歩んでいるんだ。

2015/01/11

Post #1376

Patan,Nepal
なんてこった、まったく!
ついに今日、46歳になっちまったよ!
これが織田信長なら、安土城ぶっ建てて、国内主要地域制圧までリーチ!ってところなのに、俺ときたら、このていたらく。俺だって、若いころは一国一城の主を目指していたのに、この雁字搦めの21世紀、そんなふうには上手くいかない。いや、戦国時代だってたいていそうだったんだろうが。
今日からは、鳴かず飛ばずの46年だ。檻にぶち込まれたニワトリみたいだ。

しかし、俺は天下の男と呼ばれたいっていう、大きな野望があるんだ。そして、いつでも心の中にはイカれたロックンロールが鳴り響いてる。それがそこいらの並の男どもとは違うところだ!
しかし、この21世紀、天下の男になるには何をすべきなのか?
政治家?冗談じゃねぇ。
例えば、金正恩とかイスラム国の指導者?
プライベートジェットで世界を駆け巡る大金持ち?
ちょちょいのちょいで傑作をモノにする、グレートな芸術家?

いいや、きっとどれも違う。俺のイメージする天下の男ではない。
どれも、歴史の大潮流によって、いずれ消し去られてしまう。虚しいものだ。
よく考えてみることにしよう。
少なくとも、TVやネットに飛び交う言葉に右往左往しているだけじゃ、天下の男にはなれないってことは明らかだ。今の社会の常識を超える、思考の射程距離を持たなければ、天下の男にはなれないのさ。なぁに、心配いらないぜ。俺のはめちゃめちゃよく飛ぶって評判なのさ。何がって?君の想像に任しておくよ。確かめたいなら、夜中にこっそり来ればいいさ。フフフ…。

何はともあれ、俺は縄文時代ならとっくに死んでる年齢だけれど、現時点ではまだまだ死にそうにない。少年のようにしなやかな身体と感性を持っている。腹も出てなきゃ、髪もふさふさで黒々だ。金がないんでワカメの味噌汁ばかり食ってるからだろう。
けど、それだけじゃないんだぜ。この46年自分でも思いもよらない波乱万丈、コップの中の疾風怒濤、そこそこいろんな経験をしてるのさ。
厚かましいことに、俺はまだ、なんにでもなれるようくらいには考えてるんだぜ。ダッハッハ!

歳食ったくらいで落ち込んではいられないんだ。
いつだって、昨日の俺より今日の俺の方が、経験値が上がった分だけ大きくなってるんだ。今この瞬間の俺が、俺史上最強最高なんだ。
俺はそう信じてる。
出来る事なら、絶頂の時にバブルが弾けるみたいに、華々しく死んでいきたいもんさね。
君たちは偉大な才能が、この糞溜めみたいな世界に見切りをつけて、遠い世界に旅立ってしまったと、取り残されたような寂しさを覚えて涙を一筋流すことだろう。そして、俺がいったいなにをしたのか、思い当たることもないなぁと思いつつも、すぐに俺のことを忘れて、自分たちの生活に向き合うことになるのさ。そんなもんさ。けど、それでいいのさ。

読者諸君、失礼する。46歳になったところで、何が変るわけでもない。しょせん俺は俺なんだ。俺自身にしかなれっこないのさ。正解なんてどこにもないんだ。

2015/01/10

Post #1375

Kathmandu,Nepal
ふとした折に、人の心の声を聴き、それにどんな言葉をかけていいのか、薄氷を踏むようにして考え言葉を選んで、差し出がましいことを言っちゃ、かえって気分を悪くしないかと、内心おののきながらも、精一杯の言葉をかける。
その挙句にその相手から感謝されたりすると、自分の心も満たされたような気がするものだなぁ。
けっして、その相手が抱えている問題が、俺の言葉で解決するなんて思ってはいなけれどね。

読者諸君、失礼する。今日はそれ以外、特に言いたいこともねぇ俺さ。

2015/01/09

Post #1374

Pashpatinath,Nepal
ここんとこ何日か、むかしの投稿の写真を大きくし、レイアウトを微調整していた。
1000回を超えるくらいまでは、写真が小さかったのだ。スマホや携帯のブラウザーではあんまり違いは分からないかもしれないが、PC版だと違いは歴然だ。
思い返せば足かけ五年もやっている。ご苦労なことだ。自分でも阿呆じゃないかっておもうぜ。飽きもせず、同じようなことばかり言ってるのさ。
気が付けばもう9日だ。早い、早すぎる。
今年は税務署さんのお陰様で、早々に正月気分は吹っ飛ばされたし、仕事も年始から加速している。別にそれは構わないけれど、書いておきたいこともあったのだ。

諸君の中には、正月にお稲荷さんにお参りした人も多かろう。
一口に稲荷と言っても、宇迦之御魂神を祀る伏見稲荷の系列と、仏教系の荼枳尼天(以下、漢字が面倒なんでダキニ天って表記で統一)を祀る系列に分かれるんだ。
俺は、伏見稲荷の神様にもかつて不思議と結縁して頂いたことがあるのだが、しばしば参るのは後者のダキニ天の方だ。
いずれも商売繁盛の神様とされているんだが、このダキニ天の方は、もともとインドの土着の女神だった。
ダキニ天は豊川稲荷のお札を見ればわかるのだが、白い狐に乗った唐装束の美しい女性で描かれている。
かつては、白辰狐王菩薩とも呼ばれ、中世の天皇の即位儀礼にも関わっていたというし、平清盛が一代でなりあがったのは、狩りの最中にこの白辰狐王菩薩に会い、それを祀ることで出世し、栄華を得たとされている。
ただし、ダキニ天を祀るのは、非常にヤバい修法が必要で、信仰を怠れば、直ちに没落するという。

本来のダキニ天は、女性や大地の持つ豊穣と、それと一体になった破壊的な原初の荒々しいエネルギーを具現化した地母神にして羅刹女だ。
墓場に住み、人間の心臓や生き胆を食らうとされた魔女のような地母神が、仏教に取り入れられて、人間を加護する代わりに、その人間の死の直後、フレッシュな心臓を食うことを許されたというわけだ。
清盛が死ぬさいに、おおいに苦しんだのは、このためだと言われている。

この荒々しい女神のインドでの本来の姿は、日本人にはとても受け入れられないだろうな。
本来のダキニは三つの目を持ち、素っ裸で右手にはナイフを握り、左手には人間の頭蓋骨で作られた器を持っている。その器には人間の生血がなみなみと湛えられている。両足は、踊るように交差しており、女性器はむき出しにされている。
その表情は怒りに満ちており、逆巻く頭髪の中からは女性の持つ根源的な自然性の象徴というべきイノシシやジャッカルなどの顔が飛び出している。
そして、男たちの作った社会の欲望やシステムをあざ笑うかのように、哄笑しながら飛行する。

底抜けの淫蕩さと、残虐さと、全てを受け止めるような母性を併せ持った女神、それが俺の抱くダキニ天のイメージだ。
本当はどの女性の中にもダキニ天のような地母神に通じていく回路は開かれているんだろうけれど、ほとんどの女性は自分の中に、そんな激しい、自分でも制御できないような『自然力』が備わっているなんて、気が付いていないだろう。そんな力が噴出していても、この現代では単なるセックス依存症として片づけられてしまうかもしれない。だって、普通の人間の中に、そんな力が湧きだしたって、持て余しちまうだろう?周りから色気違い扱いされるのが関の山だ。

しかし、もし現実に、そんな『自然力』への回路の開いた女性に出会うことが出来たなら、どうするだろう。
空を飛ぶように激しく交わったまま、その性器から子宮へとひきずり込まれ、女神のような女性の子供として再生されたいと願っているのさ。真剣にそう思う。
脱線するが、俺は熊野にある伊邪那美を祀った花の窟神社のご神体である岩の前に、土人のように額づいているときも、神の子として、母親の女性器を焼いて生まれる火の御子神として、再生されたいと願っている。
男性の作ったせせこましいものを、遥かに凌駕する自然の雛形である女神に、土人のように跪きたくなる。

幸いにして、うちのカミサンはそんなタイプじゃない。現実的なごく普通の女性だ。おかげで俺は人間として破滅せずにすんでいる。けれど、そんな女神のような破格な女性に出会ってみたいものだと、痛切に願っている。間違いなく身を亡ぼすだろうけど。

俺は狂ってるかい?

けれど、一人前の男として認められるために、一度は自然をあらわす神様なり怪物に儀礼的に食われ、儀礼的に再生するっていうのは、人類の思考のなかの非常に古い部分に根差していて、ある意味普遍的なものなんだぜ。俺は民族学が大好きだからな。よく知ってるのさ。

だから俺は、いつも豊川稲荷の別院を見つけると、いそいそとダキニ天の前に手を合わせる。
そして『僕の死後、フレッシュな心臓や肝臓を差し上げますので、僕をお守りください。僕を豊かにしてください。おいしく召し上がっていただけるように、健康には注意しますので、なにとぞお願いします。』と、小声に出して祈るのだ。まわりでお詣りしている善男善女はぎょっとするわな。
百円や千円の賽銭で、荒ぶる自然力の女神ダキニ天の加護が得られるわけがない。
心臓や肝臓くらいはかけないとな。
因みに、今年参った名古屋は大須の万松寺稲荷は、巫女さんがそこらの巫女カフェから引っ張ってきたような、清楚さのかけらもないような奴で、笑っちまったがね。

おかげさんで、そこそこ儲かった。そこそこ利益は出たが、それはごっそり税務署さんに持ってかれちまった。さすがのダキニ天も税務署さんには通用しないんだろうよ。

読者諸君、失礼する。この日本の風土は、大陸から渡ってきたものを、なんでもマイルドに、こじんまりとさせてしまう不思議な場所だ。けれど、その奥には脈々と大陸独特の強烈なエッセンスが潜んでいるし、ユーラシアの風がふきわたっていたりするのさ。

2015/01/08

Post #1373

Paris
昨晩、仕事をしているとカミサンからメールが入ってきて、パリの新聞社で銃乱射で多数の死者が出ていると教えられた。
まだ、事件の背景はよくはわかっていないようだが、どうにもイスラム教過激派の犯行であるらしい。
近年、頻発するこの手のニュースには、いささか食傷気味ではあるけれど、これが同じ人数のイスラム教徒の皆さんが、アメリカ軍の無人飛行機による誤爆でぶち殺されたとしても、何のニュースにもなりはしないさという、穿った考えが思い浮かび、人間の命の非対称性、つまり不平等ということに思い至り、悲しいような気分になる。

『君の意見には反対だが、君が意見を述べる権利は命にかけても護る』というヴォルテールの言葉にもあるように、フランスは自由という価値観に重きを置いている社会だ。
なんと、フランスの民法には『人間は、自分の意思に基づいて、道徳的に堕落する権利を有する』という、驚きの文言すらあるらしい。ヴァタイユの『眼球譚』か何かを読んでいた時に見つけて、笑い転げたものだ。
この底抜けな自由に、平等と博愛を加えて今日、俺たちが暮らす先進的な社会の基本的な価値観が形成されている。
俺自身は、『自由、平等、博愛』というフランス人の最大の発明が大好きだし、世界都市パリに行って感じる、風通しの良さ(もっとも、中に入ればそこには厳然たる格差や階級間の軋轢があるのは解かる)には憧れにも似た親近感を感じてきた。
それは、日本社会で俺が感じる息苦しさの裏返しのようなものかもしれない。

そのパリで、今回のような事件が起きた。
これについて思うことをいくつか挙げてみよう。

まず、何を言うのも自由ではあるが、それにはリアクションが伴い、時には命がけでそれを受け止めねばならないというものだ。
また、何を言うのも自由ではあるが、そこには謙虚さと相手に対するある種の敬意がなければならないのではなかろうか。自由の旗のもとに、自分たちの属する集団の成員以外を貶めることは、単なる傲慢でしかないではなかろうか。
つまり、自由だからなにをしてもイイのではなく、自由だからこそ、相手のことを尊重したうえで慎重に発言しなければならないのではないかということだ。自由だからこそ、何を言うべきで、何を言うべきでないかを、峻別しなければならないということだ。

また、襲撃され死亡した編集長は、『我々はコーランのもとに暮らしているのではなく、フランスの法のもとに暮らしているのだ』と語っていたそうだ。それはそうだろう。
対して、襲撃した犯人たちは『神は偉大なり』と叫んでいたという。それも分からなくはない。
しかし、それはそれぞれにまったく異なる領域の概念だと俺には思える。そして、それが同じ地平で比較されていることに、互いを認めることの難しさが現れているように考えるわけだ。

どういうことかと言えば、襲撃されたフランスの言論人と、襲撃したイスラム教徒の両者は、そもそも、自己が立脚する幻想の基盤が根本的に異なっていたということだ。
人間は、宗教なり法なり国家なり、何らかの個を超えた共同の幻想を自らの基盤として生きている存在だ。
その基盤となる大本が、根本的に異なっているのだ。かたや世界で最も先進的な自由思想のもとに打ち建てられた観念体系があり、もう一方には、宗教的な権威を絶対視する古代あるいは中世的な観念体系があるように察せられる。
歴史は一方向に進んでいくというような、単純な理解では世界は捕らえられない。中世的な観念を内包しながら、現代の文明を享受する、異質な社会だって、十二分にあり得るし、現に存在するのだ。卑近な例を取って見れば、現代の中国は、かつて皇帝によっておさめられていた巨大帝国的システムの今日的な展開であるし、北朝鮮なんか三国志に出てくる地方軍閥の独立地帯と同じようなものだ。
それを反動的だの、時代に合っていないだの批判しても、何も解決しないんじゃないか。

どうしたら、解決の糸口が見つかるのか、俺にもわからない。なにしろ俺は馬鹿野郎だからな。

ただ、お互いの最小公倍数を見出していくしかないんじゃないかって思えるぜ。

今のところそれは、あらゆる幻想を排除したうえで、『俺もアイツも、突き詰めれば同じニンゲンだ。』というところしかないように思える。すべては、そこからだ。

読者諸君、失礼する。今回もまたまた難しい話になっちまってすまん。俺だって、小難しい話はしたくないんだ。女の子のことでも考えてムラムラ悶々していたいんだ。

2015/01/07

Post #1372

Kathmandu,Nepal
何故か、眠い。
昨日の真夜中に仕事から帰ってきて、飯食って眠ったはいいけれど、朝の光で目が覚めちまって、もう眠れない。2時30分から客先で打合せがあるというのに、そのあとも打合せだの現場だのと今日も仕事が目白押しだというのに、眠りたくて仕方ない。

後頭部にどんよりとした倦怠感が取りついている。

仕方ないんで、銀行に行って税金を払ってきた。払いたくて払うわけではないんだが、これが世の中の仕組みだ。法人税、法人復興特別税、法人事業税、地方法人税、法人住民税、すべて合わせて337,900円だ。
経費を惜しむようにして、こつこつ働いた揚句がこのざまだ。
そんな金があったら、海外旅行でも行きたかったよ。
泣きそうだ。
けれど、まぁ、そんな事はイイ。もう終わったことだ。

世の中には、俺が思うに2種類の人間がいる。
誰しも、そんな線を自分の中に持っていて、人間を振り分けている。

俺の線はこうだ。
『人間には、魂のある人間と、魂のない人間がいる。』
えっ、魂のない人間って、ゾンビみたいな奴かよ?って思うだろう。
もう少し補足していっておこう。格好良く言い切ると、言葉が足らず、思いもよらぬ誤解を招くことになるからな。

『人間には、自分の魂の存在を自覚している人間と、それを自覚していない、あることに気が付いてない人間がいる。』
こういう言い方が正しいだろう。もちろん俺には、魂が、ソウルがある。それこそが、自分の主体だ。脳科学や遺伝子工学が進んでも、それは捕まえられないだろう。けれど、それは明確にある。なければ、俺たちの生は、まるっきり意味も尊厳もない。歩く肉の塊だ。
俺は、魂のある人間でいたい。
ブルースを抱え込んで、なおかつ歩むことのできるソウルのある人間でいたい。

女性に限って言えば、俺はもう一つ線を持っている。

それは『惚れるか、惚れないか』だ。それだけ。


読者諸君、失礼する。どうでもいいけど、少し眠りたいな。

2015/01/06

Post #1371

Budapest,Hungary
先日言ってた『梁塵秘抄』で、もう一つ好きな今様をあげてみようかな。

『われを頼めて来ぬ男 
 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ
 霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
 池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け』

俺は手足が異様に冷たい。寒い時期に歩いていると、足の指先の感覚がなくなってくるほどだ。
そっからすると、冬の凍えるような水田に佇む鳥の足の冷たさを、毎日のように味わっているわけだ。
また、この年になるまで、しっくりする仕事に恵まれず、浮草のように漂ってきた。
これもその心細さは実感できるな。

けれど、残念ながら没頭の『われを頼めて来ぬ男』つまり、女性をして、わたしを頼みに思わせておきながら、訪ねても来ない男ってのだけは、ついぞ女性にそんなふうに思われたことがないので、そんな自分が少し侘しいもんだ。
女の人にそんなふうに思われなくても、はなっから『人に疎まれ』てるんじゃないかって思えるぜ。

男として、ロマンに欠けるなぁ・・。

仕方ないわな。こう長いこと社会の底辺を転げまわってるようじゃね。

読者諸君、失礼する。さてと、県税事務所でも行ってきますかねぇ・・・。

2015/01/05

Post #1370

Boudhanath,Nepal
今日からごそごそ動き出したんだが、頭の痛いことになりやがった。
正月気分は完全に吹っ飛んじまったぜ。力なく笑うしかないなぁ。

俺は自分のためだけの小さな法人を作ってはや5年ちょっと経つんだが、これが11月に決算なわけだ。するてぇと、1月の末には税金を払わなけりゃならないんだ。
世の中、税務署さんだけは待ったが効かないんだ。それが世の中の仕組みだゼイ。
俺は昨期、ケチケチ事業展開したおかげで、業界の連中からは守銭奴とかセコいと評されるほどだったのだが、おかげさんで、帳簿上は利益が出てしまったゼイ。
自分史上、過去最高だ。
しかし、そんなものはタカが知れているゼイ。
実際には、そこから今期の経費を絞り出したり、自分の給料を捻り出したりしなけりゃならんのだ。
そうすると、そんな利益はすぐに蒸発しちまう。その程度のちんけな商売なんだゼイ。
自転車操業だゼイ。毎日が綱渡りだゼイ。
インディペンデントは辛いなぁ・・。
で、利益が出てしまったので利益に対して15%の法人税を払わなけりゃならんのだゼイ。
法人税だけじゃない。復興特別税、法人県民税、法人事業税、法人市民税・・・。
いったいいくらになるのやらだゼイ。
この冬のやりくりに頭が痛いゼイ。
高額納税者への道は険しいゼイ。

それだけじゃない、まっとうで善良な小市民の俺は、社会保険だって厚生年金だって自己負担分と会社負担分を併せて、せっせと毎月お支払いしているゼイ。
いやいや、それだけじゃないんだゼイ。
毎月法人としては、児童手当拠出金なる金も、微々たるもんだが支払っているのさ。
もちろん、市県民税だって支払ってるぜ。毎日のお買い物にはきっちりかっちり、8%の消費税がついてくる。借家暮らしだから固定資産税がないのはちょっと救いだゼイ。

読者諸君は、俺がちんけな法人をやってるから、ケツの毛まで抜かれるほど税金を払う羽目になっていると思っているだろうが、諸君の給料明細を読めば、自分も結構な額の税金を支払っていることがわかるはずだゼイ!

で、何が言いたいかと言えば、これだけ税金をふんだくられてるのに、その金は一体何に使われてるんだ?って、俺は声を大にして言いたいぜ。
政府のお偉いさんが言う社会保障に使われてるなんてのは、真っ赤な嘘だと思えるゼイ!
俺にはなんの恩恵もないのか?ゴミの収集くらいしか、お上のサービスを実感できないゼイ!
介護職員の給料は安い。そして、俺の将来の年金額では、とても老後はおぼつかないぜ。生活保護しか道は残されてないのか?
いったいこの国は、どうなってるんだ。
これじゃ、金持ちも貧乏人も、上手いことやって税金をごまかそうって思ったって、無理もない話だゼイ!そんな手合いに限って、国益がどうこうとか言ってんじゃないだろうな?
けれど、どいつもこいつもそんなんじゃ、この国の将来はお先真っ暗だゼイ!
しかし、仕方ない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、なんとか税金を払うとするさ。なんとか運転資金を捻り出さねぇと、税金払って路頭に迷うことになりかねないゼイ!


読者諸君、失礼する。明日は県税事務所と市役所だ。FUCK OFF!ぜいぜい喘ぎごえが漏れそうだゼイ!

2015/01/04

Post #1369

Patan,Nepal
昨日、暇に任せて近所の書店に行き、平安時代末期の流行歌である今様をたくさん収めた古典『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫 植木朝子編訳)と、岩波文庫の伊勢物語を買ってきて読んでいる。

梁塵秘抄の中では、気に入っているのはやはりこれだな。

『遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば

 わが身さへこそ揺るがるれ』

こんなのも好きだ。共感できる。

『美女うち見れば

 一本葛にもなりばやとぞ思ふ

 本より末まで縒らればや

 切るとも刻むとも

 離れがたきはわが宿世』

伊勢物語なら、これなんかどうだろう。

 『むかし、をとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、

   わが袖は 草の庵に あらねども 暮るれば露の やどりなりけり』

今っぽく言うと、昔、一人の男がいた。恋い慕う女を寝ては思い、起きては想い、その思い余ってこう歌を詠んだ。「私の袖は 草の庵に宿っているように、一日が暮れるころには、あなたを想う涙で、露のおりたように、濡れ果てているものです」といったところでしょうかね。


読者諸君、失礼する。明日から仕事なんだが、しょせん俺は、遊びをせんとや生まれけむさ。

2015/01/03

Post #1368

Kathmandu,Nepal
昨日も雪のなか、初詣に行ってきたのだが、おみくじによれば今年の俺の運勢は大吉だ。
怖いもんナシだ!こうなりゃ今年もガンガン行くぞ!

以前にも正月に触れたことがあるけれど、浮かれたTVを見ているとつい、一休さんでお馴染の室町時代の禅僧・一休宗純の逸話を想い出す俺なのさ。正月に、杖の頭にそこいらに落ちている髑髏をつけては、浮かれる人々に『ご用心、ご用心』と冷や水をかけて歩いていたそうな。
いやなジジイだなぁ。サイコーだぜ。
俺は歳食ったら、一休みたいな味わいのある表情のジジイになりたいと、常々思ってるんだ。
なに、一休さんの肖像、見たことないって?面倒くせぇなぁ。各々、ググってみてくれ。

この時、一休宗純が詠んだとされる歌がこれだ。
『門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』

そんなわけで、俺も一休さんを見習って、ネパールで撮ってきた髑髏の写真をお送りしよう。
君たちの正月気分に冷や水をぶっかけるぜ!

ネパールやチベットの仏教には、髑髏のモチーフが多々見られる。人生のはかなさを、思い知らせようという意図がみえみえだ。そこいらに、このホネホネしたキンコツマンみたいな像や壁画を見ることが出来る。俺は、このキンコツマン、こんな姿になっても股間に一物ぶら下げているあたりに、そこはかとないおかしみを感じるぜ。六根清浄、男根不浄って趣だ。イヒヒ・・。
そういえば、ヨーロッパの中世の宗教画にも、LaDance Macabre(死の舞踏)といって、人間が骸骨の姿で踊り狂い、生のはかなさを示すものがたくさんあるっけ。

毎度毎度ながら俺自身のことを思い返すと、中学生の頃におふくろが死んだ。その時、運んだ母親の死体の冷たさ重さ、そして硬さが忘れられず、しばらく人間が薄気味悪くなっていた時期もあった。
少年時代の俺にとっては、人間というのはまこと薄気味悪い存在で、理科室の人体模型のように吐き気を催すような存在だった。まさに病毒の巣、美しい女性も一皮むくととても見られたもんじゃないって思っていたのは間違いない。
そのころ、荒んで他人を遠ざけるように暮らしていた。
見るに見かねて、手を差し伸べてくれる人のその手すらも、薄気味悪く思い、野犬が手を噛むようにして、振り払っていた。
いつの頃か、その思いも薄れ、克服されたのだが、それはいつの頃だったか・・・。思うにやはり、高校生になって、好きな女の子が出来たころだろう。
けれど、そんな感覚は今でも自分の中にトラウマのように遺っていて、写真を撮るという営み、つまりいずれは跡形もなく消え去ってしまうであろう人々に対する、やむに已まれぬ行為として表れているんだと思う。いとおしいというのは、いと=たいそう、惜しいという想いなんだなぁ。

数年前、岩波文庫の金子光晴詩集を読んでいて、こんな俺の思いにピタリとはまる詩を見つけた。今でも、時折引っ張り出して、読んでみる。いつか君にも紹介したいと思っていたんだ。いい機会だ。今日、ここに記しておこう。

五体

 世に地獄よりも怖ろしい
きつくわいなものは、あの医書。
解体と、病毒の図解こそ、
わが身がつゝむ嫌悪のみなかみ。

あゝ、あのおぞましい懐胎図。だが、
心ひそかに一人の女を恋ひそめた日から
畏れ、いとうた人間のからだが、
実用の機関(からくり)から、仄々(ほのぼの)と花咲きくゆり、

この口は、貪食の底抜穴ではなく、接吻のためにあり、
この眼は商品をみわけるためでなく、君を迎へる東道(しるべ)の炬火(たいまつ)
この鼻は、いのちのふいごではなくて、
そこはかとたゞよふ香りに誘はれるためにあり、

この手はつかみとるやつとこではなく、
君をかい抱くため、また、この心は、
損益や、真偽を思量するためではなく、そのまゝ
君にあづけるためにあると知つた。

(金子光晴 『金子光晴詩集』清岡卓行編 岩波文庫版より)

この心は、そのまま君にあづけるためにあると知った、ちゅうのが最高にいい。
相手の心を自分のものにしたりするより、自分の心をそのまま相手に受け取ってほしいというこの気持ち。
人を好きになるというのは、相手を所有することじゃなくて、自分を放棄することだということさ。
The Whoの曲にも、“Bargain”っていう名曲があったな。
“お前を見つけるためなら、喜んで我を忘れるよ
 手にしたものを全て諦めてもイイ”
という歌だ。
人間、なかなかこうは思いきれないので、困ったもんだ。

読者諸君、失礼する。今日も思うままに脱線しまくりだなぁ。

2015/01/02

Post #1367

八坂神社、京都
平穏安穏に見える元旦で、目を引いたのは京都で58年ぶりだかの大雪で、積雪16センチというものだった。
それくらいの雪なら、俺の棲んでる尾張でも2、3年に一度は降る。驚きはしないさ。つい先日もドカ雪だったしな。今日初詣に行ってきた岐阜の山の中の寺も、まるっきり雪国だった。いつものことだ。
むしろ、京都の冬というと、雪のなかにたたずむ神社仏閣をイメージしていたが、それこそ俺が勝手に思い込んでいた風呂屋の書割的なイメージだったのだなぁと、納得反省する次第だ。
まぁ、そんなことでずいぶん昔にふらりと立ち寄った八坂神社の狛犬の写真で行ってみよう。今見ると、もっと空をググッと焼きこんどけばよかったな。画面が締まるというものだ。締まっていいのはアレばかりじゃないのさ。

八坂神社は明治の廃仏毀釈までは仏教の護法神で疫神でもあった牛頭天王を祀っていた。それが廃仏毀釈で神社に仏教の神様ちゅうのは具合が悪いってんで、牛頭天王=蘇民将来伝説の武塔天神=素戔嗚尊ということになったわけだ。
スサノオ、素戔嗚尊。
俺が神様としてまず思い浮かべるのは素戔嗚尊だ。
母を亡くして泣き叫び、山々の木々を枯渇させる神。
天照大神に反発し、乱暴狼藉し、追放される神。
八岐大蛇を倒し、妻を得て、初めて和歌を作る神。
さまざまな樹木を生み出し、その用途を教え示す神。
俺がしばしば参拝しに行く、熊野本宮の祭神、家都美御子大神も素戔嗚尊と同一だという説もある。
スサノオの神話は広く知られているだろうから割愛するが、俺には、その神話は、漢としての生き様の祖型(アーキタイプ)だと思える。いうなれば元祖男一匹だ。
原哲夫のマンガ『花の慶次』の原作、隆慶一郎の『一夢庵風流記』は、俺の座右の書と言っても過言ではないんだが、漢とは何か、漢らしく生きるとはどういうことかということを、これでもかというほど示してくれる。心が塞いだとき、何度も読み返すのだ。
この本の没頭に、スサノオと傾奇者について触れた一文がある。俺が大好きな文章だ。少し長いが、引用してみよう。休みだから時間があるのさ。



 『かぶき者』はまた『傾き者』、『傾奇者』とも書く。最後の書き方が最も端的に言葉の内容を示しているように思われる。ほかに『傾く』という動詞や、『傾いた』という形容詞もある。
 つまりは異風の姿形を好み、異様な振る舞いで人を驚かすのを愛することを『傾く』と云ったのである。
 久しい以前から、この言葉が、私の胸の中で格別に大きな位置を占めるようになって来ていた。


(中略)


『傾奇者』はいつの世にもいる。
 室町時代の『ばさら』と呼ばれた佐々木道誉、戦国期の織田信長、慶長の大鳥逸兵衛、明暦の水野十郎左衛門。数えあげればきりがない。
 彼らは一様にきらびやかに生き、一抹の悲しさと涼やかさを残して、速やかに死んでいった。ほとんどの男が終りを全うしていない。
 『傾奇者』にとっては、その悲惨さが栄光のあかしだったのではあるまいか。
 彼らはまた一様に、高度の文化的素養の持主だった。時に野蛮とも思われる乱暴狼藉に隠れてはいるが、大方が時代の文化の先端をゆく男たちなのである。田夫野人とは程遠い生きものであり、秘かに繊細な美意識を育てていたように見える。それがまた一様に『滅びの美学』だったのではあるまいか。
 そして最後に、彼等は一様に世人から不当な評価を受けているように思われる。或いは我から望んでそうした評価を受けようとした節さえ見られる。なんとも奇妙な心情であるが、彼等はそこに世の常とは違って、一種の栄光を見ていたような気がする。それこそ滅びの美意識の最たるものではないか。私は彼等の中に正しく『日本書紀』に書かれた素戔嗚尊の後裔を見る。

『故れ天上に住む可からず。亦葦原中国に居る可からず。宜しく急に底根国に適ねといひて、乃ち共に神降去りき(Sparks註。高天原で乱暴狼藉があったので、天上にも地上にも住んではならないとして、速やかに地の底の国に去れと追放されたのである)
 これが神々の素戔嗚尊に下した宣告である。

『時に霖(ながあめ)ふる。素戔嗚尊青草を結ひ束ねて、蓑笠と為し、宿を衆神(かみがみ)に乞ふ。衆神曰さく。汝は此れ躬(み)の行濁悪しく(おこないけがらわしく)して、遂謫め(やらいせめ=追放刑に処される)らるる者なり。如何にぞ宿を我に乞ふぞといひて、遂に同に距ぐ(ともにふせぐ=つまりだれも宿を貸さなかった)。是を以て風雨甚しと雖も、留り休むことを得ず。辛苦(たしな)みつつ降りき』

 私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔嗚尊を知ると知らざるに拘らず、揃って一言半句の苦情も云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。
(隆慶一郎 『一夢庵風流記』新潮文庫版9~13頁)

男なら、斯くの如くありたいというものだ。
きっとそういう馬鹿野郎は、少数派なんだろう。
まず、まっとうな勤め人には傾くことは許されないのが、この日本の社会だ。けれど、俺は今まで自分の趣味を貫き通すためだけに、仕事に打ち込んできた。その挙句、事なかれ主義の連中からは、理解不能な変人とされてきた。おかげさまで今では性質の悪い一匹狼だ。
凶暴性と知性教養を同居させ、秘かに独自の美意識を育みたい。そして、自分の生き様によって招いた困難を、自らの宿命として黙って受け入れていきたい。
俺の写真も言うまでもなく、自分の持つ美意識の発露以外の何物でもない。
また、俺が奇抜な風体を好むのも、自ら傾奇者の系譜に繋がるものでありたいとの願いの現れだ。
万人に理解されなくても致し方、ござらぬ。
今更自分を曲げる訳にはまいらぬでな。
艱難辛苦、かかってこいやぁ!だ。
それこそが男の生きる道だろう?まったくロックンロールだ。

読者諸君、失礼する。京都の雪の話から、ずいぶん脱線してしまったなぁ。しかし、俺の頭の中はいつもこんな調子でグルグル回転してるのさ。

2015/01/01

Post #1366

Patan,Nepal
読者諸君、あけましておめでとう。

皆の衆の新たな一年が幸多きものであらんことを、衷心よりお祈りいたす。

とはいえ、自らも足掻いている人間が、他人を幸福にするということの難しさを考えると、新年早々慄然とする。
誰かを幸せにするということは、インスタントラーメンを作るように容易いものではなく、自らの人生を懸けて、不断に臨み、やっと成し遂げられることなのではないかと思う。
人生は、おとぎ話のようにめでたしめでたしでは終わらないのだ。
その先にこそ、人生の本領発揮なのだ。断言するぜ。
その過程で、ひとりの相手を幸せにすることが、出来たならば、不完全な人間としては、120%くらいの出来だろうと思えるぜ。

これを、二人三人と幸せにしたいと欲張るもんだから、人生ってのは、往々にして難しい局面に突入することになるわけだ。とはいえ、そうなったときに初めて人生がドラマチックに転がり出すんだがな。こうして、七転八倒煩悶苦慮することになるわけだ。

不特定多数の人々の幸せは、とても俺の肩に背負いきれるものではないのだ。
神様にでもお祈りするしか、手はないのさ。

いや、もちろん皆の衆のことが、どうでもいいって本音じゃないんだぜ。
皆の衆のことはとても大切なんだ。言うまでもない。けど、俺は俺のことで手一杯のちんけな男で、諸君のことは、正直に言って神様にお願いするしかないのさ。

そんな俺だけど、もう一度言わせてもらうぜ。なにしろ大事なことだ。

読者諸君、そして世界の皆の衆、あけましておめでとう。
今年もみなさんにとって、愛と、平和と、幸福に満ちた一年でありますように。

読者諸君、失礼する。今年の俺の抱負は、“I wanna Be A Wild One”です。こんな俺ですが、今年もよろしくお付き合い願いたい。俺を見捨てないでおくれよ!