2015/01/03

Post #1368

Kathmandu,Nepal
昨日も雪のなか、初詣に行ってきたのだが、おみくじによれば今年の俺の運勢は大吉だ。
怖いもんナシだ!こうなりゃ今年もガンガン行くぞ!

以前にも正月に触れたことがあるけれど、浮かれたTVを見ているとつい、一休さんでお馴染の室町時代の禅僧・一休宗純の逸話を想い出す俺なのさ。正月に、杖の頭にそこいらに落ちている髑髏をつけては、浮かれる人々に『ご用心、ご用心』と冷や水をかけて歩いていたそうな。
いやなジジイだなぁ。サイコーだぜ。
俺は歳食ったら、一休みたいな味わいのある表情のジジイになりたいと、常々思ってるんだ。
なに、一休さんの肖像、見たことないって?面倒くせぇなぁ。各々、ググってみてくれ。

この時、一休宗純が詠んだとされる歌がこれだ。
『門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』

そんなわけで、俺も一休さんを見習って、ネパールで撮ってきた髑髏の写真をお送りしよう。
君たちの正月気分に冷や水をぶっかけるぜ!

ネパールやチベットの仏教には、髑髏のモチーフが多々見られる。人生のはかなさを、思い知らせようという意図がみえみえだ。そこいらに、このホネホネしたキンコツマンみたいな像や壁画を見ることが出来る。俺は、このキンコツマン、こんな姿になっても股間に一物ぶら下げているあたりに、そこはかとないおかしみを感じるぜ。六根清浄、男根不浄って趣だ。イヒヒ・・。
そういえば、ヨーロッパの中世の宗教画にも、LaDance Macabre(死の舞踏)といって、人間が骸骨の姿で踊り狂い、生のはかなさを示すものがたくさんあるっけ。

毎度毎度ながら俺自身のことを思い返すと、中学生の頃におふくろが死んだ。その時、運んだ母親の死体の冷たさ重さ、そして硬さが忘れられず、しばらく人間が薄気味悪くなっていた時期もあった。
少年時代の俺にとっては、人間というのはまこと薄気味悪い存在で、理科室の人体模型のように吐き気を催すような存在だった。まさに病毒の巣、美しい女性も一皮むくととても見られたもんじゃないって思っていたのは間違いない。
そのころ、荒んで他人を遠ざけるように暮らしていた。
見るに見かねて、手を差し伸べてくれる人のその手すらも、薄気味悪く思い、野犬が手を噛むようにして、振り払っていた。
いつの頃か、その思いも薄れ、克服されたのだが、それはいつの頃だったか・・・。思うにやはり、高校生になって、好きな女の子が出来たころだろう。
けれど、そんな感覚は今でも自分の中にトラウマのように遺っていて、写真を撮るという営み、つまりいずれは跡形もなく消え去ってしまうであろう人々に対する、やむに已まれぬ行為として表れているんだと思う。いとおしいというのは、いと=たいそう、惜しいという想いなんだなぁ。

数年前、岩波文庫の金子光晴詩集を読んでいて、こんな俺の思いにピタリとはまる詩を見つけた。今でも、時折引っ張り出して、読んでみる。いつか君にも紹介したいと思っていたんだ。いい機会だ。今日、ここに記しておこう。

五体

 世に地獄よりも怖ろしい
きつくわいなものは、あの医書。
解体と、病毒の図解こそ、
わが身がつゝむ嫌悪のみなかみ。

あゝ、あのおぞましい懐胎図。だが、
心ひそかに一人の女を恋ひそめた日から
畏れ、いとうた人間のからだが、
実用の機関(からくり)から、仄々(ほのぼの)と花咲きくゆり、

この口は、貪食の底抜穴ではなく、接吻のためにあり、
この眼は商品をみわけるためでなく、君を迎へる東道(しるべ)の炬火(たいまつ)
この鼻は、いのちのふいごではなくて、
そこはかとたゞよふ香りに誘はれるためにあり、

この手はつかみとるやつとこではなく、
君をかい抱くため、また、この心は、
損益や、真偽を思量するためではなく、そのまゝ
君にあづけるためにあると知つた。

(金子光晴 『金子光晴詩集』清岡卓行編 岩波文庫版より)

この心は、そのまま君にあづけるためにあると知った、ちゅうのが最高にいい。
相手の心を自分のものにしたりするより、自分の心をそのまま相手に受け取ってほしいというこの気持ち。
人を好きになるというのは、相手を所有することじゃなくて、自分を放棄することだということさ。
The Whoの曲にも、“Bargain”っていう名曲があったな。
“お前を見つけるためなら、喜んで我を忘れるよ
 手にしたものを全て諦めてもイイ”
という歌だ。
人間、なかなかこうは思いきれないので、困ったもんだ。

読者諸君、失礼する。今日も思うままに脱線しまくりだなぁ。

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