2015/01/08

Post #1373

Paris
昨晩、仕事をしているとカミサンからメールが入ってきて、パリの新聞社で銃乱射で多数の死者が出ていると教えられた。
まだ、事件の背景はよくはわかっていないようだが、どうにもイスラム教過激派の犯行であるらしい。
近年、頻発するこの手のニュースには、いささか食傷気味ではあるけれど、これが同じ人数のイスラム教徒の皆さんが、アメリカ軍の無人飛行機による誤爆でぶち殺されたとしても、何のニュースにもなりはしないさという、穿った考えが思い浮かび、人間の命の非対称性、つまり不平等ということに思い至り、悲しいような気分になる。

『君の意見には反対だが、君が意見を述べる権利は命にかけても護る』というヴォルテールの言葉にもあるように、フランスは自由という価値観に重きを置いている社会だ。
なんと、フランスの民法には『人間は、自分の意思に基づいて、道徳的に堕落する権利を有する』という、驚きの文言すらあるらしい。ヴァタイユの『眼球譚』か何かを読んでいた時に見つけて、笑い転げたものだ。
この底抜けな自由に、平等と博愛を加えて今日、俺たちが暮らす先進的な社会の基本的な価値観が形成されている。
俺自身は、『自由、平等、博愛』というフランス人の最大の発明が大好きだし、世界都市パリに行って感じる、風通しの良さ(もっとも、中に入ればそこには厳然たる格差や階級間の軋轢があるのは解かる)には憧れにも似た親近感を感じてきた。
それは、日本社会で俺が感じる息苦しさの裏返しのようなものかもしれない。

そのパリで、今回のような事件が起きた。
これについて思うことをいくつか挙げてみよう。

まず、何を言うのも自由ではあるが、それにはリアクションが伴い、時には命がけでそれを受け止めねばならないというものだ。
また、何を言うのも自由ではあるが、そこには謙虚さと相手に対するある種の敬意がなければならないのではなかろうか。自由の旗のもとに、自分たちの属する集団の成員以外を貶めることは、単なる傲慢でしかないではなかろうか。
つまり、自由だからなにをしてもイイのではなく、自由だからこそ、相手のことを尊重したうえで慎重に発言しなければならないのではないかということだ。自由だからこそ、何を言うべきで、何を言うべきでないかを、峻別しなければならないということだ。

また、襲撃され死亡した編集長は、『我々はコーランのもとに暮らしているのではなく、フランスの法のもとに暮らしているのだ』と語っていたそうだ。それはそうだろう。
対して、襲撃した犯人たちは『神は偉大なり』と叫んでいたという。それも分からなくはない。
しかし、それはそれぞれにまったく異なる領域の概念だと俺には思える。そして、それが同じ地平で比較されていることに、互いを認めることの難しさが現れているように考えるわけだ。

どういうことかと言えば、襲撃されたフランスの言論人と、襲撃したイスラム教徒の両者は、そもそも、自己が立脚する幻想の基盤が根本的に異なっていたということだ。
人間は、宗教なり法なり国家なり、何らかの個を超えた共同の幻想を自らの基盤として生きている存在だ。
その基盤となる大本が、根本的に異なっているのだ。かたや世界で最も先進的な自由思想のもとに打ち建てられた観念体系があり、もう一方には、宗教的な権威を絶対視する古代あるいは中世的な観念体系があるように察せられる。
歴史は一方向に進んでいくというような、単純な理解では世界は捕らえられない。中世的な観念を内包しながら、現代の文明を享受する、異質な社会だって、十二分にあり得るし、現に存在するのだ。卑近な例を取って見れば、現代の中国は、かつて皇帝によっておさめられていた巨大帝国的システムの今日的な展開であるし、北朝鮮なんか三国志に出てくる地方軍閥の独立地帯と同じようなものだ。
それを反動的だの、時代に合っていないだの批判しても、何も解決しないんじゃないか。

どうしたら、解決の糸口が見つかるのか、俺にもわからない。なにしろ俺は馬鹿野郎だからな。

ただ、お互いの最小公倍数を見出していくしかないんじゃないかって思えるぜ。

今のところそれは、あらゆる幻想を排除したうえで、『俺もアイツも、突き詰めれば同じニンゲンだ。』というところしかないように思える。すべては、そこからだ。

読者諸君、失礼する。今回もまたまた難しい話になっちまってすまん。俺だって、小難しい話はしたくないんだ。女の子のことでも考えてムラムラ悶々していたいんだ。

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