2015/01/18

Post #1383

Patan,Nepal
人に、写真を撮ってますというと、まず例外なく『どういう写真を撮っているんですか』と訊かれる。

俺は返答に困ってしまう。

きっとその人は身近な人々やモデルを写したポートレート写真とか、キレイな山だの海だのを写した風景写真とか、そういった答えを期待しているんだと思う。なかには、俺の風貌からなにかしら怪しいものを感じるのかヌードとか撮ってるんですか?と訊いてくる人もいる。それはやっては見たいが、漢として裸の女性を前にしたら、やるべきことはそれじゃない気がするが、どんなもんだろうか。

俺は内心に少し引っかかりを感じながら『まぁ、スナップ写真です。何っていうわけじゃありませんが、こんな感じです』と言って携帯のSDカードに落とし込んだ写真を見せてみる。

たいていの人は、『へぇー』といっては感心するようでいながら、その実なんだかよくわからない写真だなぁといった顔をする。
俺の写真は解かりにくいんだろうな。なにかテーマがあったりするわけでもなく、皆によく知られた風景や名所、名建築が非凡な技量で写されている訳でもなく、ただ淡々と俺の生の歩みの時系列に沿って、目にしたものを写していくだけなんだから。
それらの画像から何かしら意味を汲み取るのは難しいということだろう。
だって、そもそも意味なんかないんだから。
あるとすれば、そこに写っている人々の生を、掠め取るように捕まえたいという秘かな主題があるだけだ。

スナップ写真という語感は、何か間が抜けた感じがして好きになれない。ちょうどちびまる子ちゃんに出てくる“たまちゃんのお父さん”のような、すこし間抜けな好人物を想像してしまう。

それが、『スナップシューター』つまり、撮影=シュート(射撃)という強い響きのある言葉になると、しっくりしてくる。写真を撮るという行為は、俺にとっては世界との格闘のような気分だし、どこか狩人のような感覚だから。
とりわけ、肖像権だのなんだのといって、こういった写真を撮ることが反社会的な行為とみなされるようになってきた昨今では、なおさらだ。写真を撮ることは、犯罪すれすれで、どこかやましい行為なのだ。
しかしだからこそ、物事の本質に迫りうる道が隠されているのではなかろうか。

永年、そんなことを考えていたら、少し前にウィリアム・クラインの文章にいい言葉を見つけた。『東京1961』によせて記されたクラインの言葉のなかに彼が自らの写真を『アクション・フォトグラフィー』と記していたのだ。
これは何かカッコいい。
しっくりとくる。
つねに歩き回り、揺れ動きながら世界を捕まえていく、動的な視座が含まれているような響きがある。言葉に肉体が感じられるというか、身体性が垣間見えるのだ。
クラインの文章を、少し引用してみよう。

『1950年代、アメリカにおいてアクション・ペインティングが勃興し、絵画は一連の変革期を迎えていた。その頃にキャリアをスタートさせた私は、アクション・フォトグラフィーといった類いのことをしていたように思う。そしてその中に、ざらざらとした黒の質感やギザギザの線といった木炭デッサンの要素を取り入れたりもしていた。私は美術の専門的な訓練を受けた事はないし、伝統的な技法に重きを置いていなかったので、私の写真はとても原始的なものであった。原始的、すなわち偶発的で、反技術的な方法論が私の性に合っていたのである。むしろ、写真の問題点は、精密な技術的な部分にこだわり過ぎるところにあるとさえ思っていた。』
さすが本家本元だ。もう少し、引用してみよう。
『西洋絵画の歴史は、変革の歴史なのだ。絵画の場合、今、この現代に“古典的な”絵画が話題の中心になることはあまりないし、積極的に見たいと望む人も、そう多くはないだろう。だが、同じ視覚芸術である写真の場合、美術館やキュレーターたちは、ほぼ“古典的な”写真しか展示しない。私は強く感じるのだが、専門家たちが技術的な部分にこだわり過ぎるが故に、写真は視覚芸術の中で最も虐げられた芸術になっているのではないだろうか。』

虐げられた芸術というくだりが興味深い。写真とはこういうものだと、専門家によって規定されているがゆえに、多くの人々が思い描く写真というものは、どこか窮屈で型にはまったものになっているように感じる。
アクション・フォトグラフィーか。
いい言葉だな。今度から使ってみよう。とはいえ、そんなこと言っても、誰にも通じないだろうな。

読者諸君、失礼する。写真というのは俺にとって、この世界と渡り合うための武器だし、俺の見た世界を君に伝えるための言葉でもあるんだ。君が俺の写真から、見たことない世界やあったことのない人々の生について、ちらりとでも思いを馳せてくれたなら、俺は満足さ。

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