2015/02/28

Post #1424

Kathmandu,Nepal
毎度毎度のことながら、自民党の閣僚の金にまつわる不祥事が続いている。
むしろ、法の目をかいくぐって金を集めたりしていないようでは、自民党の政治家にはなれないんじゃなかろうかと思えるぜ。
政治には金がかかるということは、分からなくもないのだが、何のために国民から集めた税金のなかから、政党助成金なるものが、受け取りを固辞している共産党以外の各政党に与えられているというのか?

だいたい、この国の人々は政治家に甘すぎる。人のうわさも75日という国民性のなせる業かどうか知らないが、結局のところ言論人たちの追及が中途半端なんだろう。いつだって白黒つけるところまで行きつかない。いつだってグレーだ。

政治資金に関する報告書だって、領収書はおろか、適当な記帳記載でも許されてしまうんだ。
いうならば、白色申告だ。領収書も帳簿もいらない自己申告だ。

俺のような零細企業の経営者が、税務署に書類を出す際には、当然青色申告だ。
一円単位まで帳簿をしっかり作り、貸借対照表、損益計算書をつくって帳尻を合わせ、それに基づいて納税書類を作成しなきゃならないんだ。

どうして、政治家のセンセーがたには、そういう面倒な作業がないのか?
何故って、奴らはしょせんルールを作る側だからな。

この国では、政治家というのは世襲の貴族階級のことを指している。
世襲の貴族の子弟は、一万円の純利益を稼ぐ苦労を知らないだろう。
世襲の貴族の子弟は、自分たちは特別だと信じていることだろう。
世襲の貴族の子弟だからといって、国民の模範になる振る舞いを求められるわけではない。
世襲の貴族の子弟だからという理由だけで、選挙にでて、当選し、特権を享受することが出来るのさ。

今日の日本には、ノブレス・オブリュージュ、すなわち『高貴な者は義務を負う』という見識は存在しないんだ、残念ながら・・・。

毎度毎度、阿呆らしくていちいち突っ込む気にもならないが、これもうがった見方をすれば、いつもやっていれば、国民はだれも気にしなくなるので、ばれなきゃいくらやっても構わないし、よしんばばれたとしても、議員辞職に追い込まれて、おまんまの食い上げになるというものでもないので、どうってことない、という状況に持っていこうとしているのでは、なかろうか?

いや、待てよ・・・。それはもうその通りの状況になっているじゃないか?

小渕優子なんか、あれだけ世間に叩かれたのに、昨年末の選挙で堂々とトップ当選だ。HDにドリルで穴まであけて証拠隠滅を図っていたという悪質さだったが、国民は真相を究明することよりも、彼女を赦すことを選んだ。

阿呆じゃないか?

その後、真相は究明されたのかい?
寡聞にして俺は知らないんだがね。
金の不祥事がばれても、大臣を辞めれば、何の問題もないというのかい?
普通の会社員なら、懲戒解雇だろう?
普通そうなったら、何年間かはなかなかに苦労することになるんじゃないのか?

ニンゲン、缶コーヒー一本おごられたって、相手に対して感謝の念なり負い目なりを感じてしまうというのに、何百万ももらっておいて、何の負い目も感じないって本当かい?
それが本当なら、よほど相手のために骨を折ってやったってことじゃないのか?
それとも、よほど面の皮が分厚いのか?

いい加減、俺たちはもっと真っ当な感覚で政治家を選ぶようにしないといけないんじゃないか?
いまのままじゃ、江戸時代の農民以下だぜ。
なにしろ、奴らはいざとなれば一揆を起こして、命がけで異議申し立てをしていたんだからな。

このままじゃ、憲法だって大きな議論がなされることもなく、なんとなく変えられて、政治家の都合のいいようなものにされちまうぜ。

言っておくけれど憲法ってのは、他の法律とは全く性格が違う特殊な法なんだぜ。
国家の主権者たる国民の名のもとに、立法、行政、司法はどうあるべきかを定めたものだろう。
もっとひらたく言うならば、政府が暴走して、国民を不幸にしないようにするための安全装置なんだ。
それを、政治家の発案で変えることを目指しているというのは、俺に言わせればそれこそ横暴で僭越だ。

この国の主は、天皇陛下ではない。それは昭和20年8月15日までの話だ。
現在、この国の主権者は、われわれ国民一人一人のはずだ。
自民党の皆さんは、天皇陛下を我が国の象徴から、再び国家元首に祭り上げようとしているのだ。皇族方が折に触れて、現在の憲法を尊重すべきであると、おっしゃっておいでなのにもかかわらずな。

読者諸君、失礼する。書いているうちに、実は今の状況は、非常にマズイんじゃないかって、再認識してきたよ。目を覚ませ!

2015/02/27

Post #1423

Helsinki,Finland
俺はカミサン(いつも出てくるが、籍は入れずにもう20年も一緒に暮らしている。忍耐強い女性だと思う)に、毎日のように働き過ぎだと叱られている。
現に、毎日夜勤で働いてるので、生活はすれ違いだ。カミサンの顔を見るのは朝の5分、10分というありさまだ。
だからこそ、長いこと続いてるのかもしれないな。たいていの奴は、俺と三日も一緒にいれば疲れ切るかうんざりするだろうというんだ。俺のテンションが高すぎるんだとさ。

冗談じゃないぜ。疲れ切ってうんざりしきってるのは俺の方だってのに。
坂道を上るのにアクセルを踏むように、テンションを上げていかなけりゃ、人生の坂道は登っていけないだろう。力を抜いたら、まっさかさまに没落するのが自分でよくわかってるんだ。何しろ俺はダメ人間だからな。意志の力で乗り切っていかねばならぬのさ。

しかし、寄る年波だ。悲しいが肉体にはどんよりした疲労が残ってるぜ。整体に行くと、単なる筋肉痛だって言われるがな。
俺がそんな思いをして稼いだ金は、いったいどこに蒸発しちまってるんだ?
不思議ったらないぜ。

で、かみさんが言うには今度の4月、ヨーロッパに海外出張に行くんで、その行程に合わせて合わせて俺もヨーロッパを旅行するとイイっていうんだ。

働き過ぎだから、仕事から離れてゆっくりした方がイイっていうんだ。

そいつは結構だ。人生が仕事だけで終っちまったら、虚しすぎる。大賛成だ。今すぐにでもとんずらしたい。しかし、仕事を放り出していくわけにはいかないだろう。
その頃には、円安が落ち着いてるとありがたいけれどな。

スペイン、スウェーデン、デンマーク・・・。そのあたりを仕事で回るらしい。
日程的にスペインは難しいかもしれないけど、スウェーデンやデンマークなら何とかなるかもしれないな。
あそこらあたりは世界でもっとも福祉が行き届いており、高い幸福度を達成しているとされる地域だ。
しかし、それはそれでいろんな問題があるだろう。
当たり前だ。人間の生きるところ、問題はいつだって山積みなんだからな。
とりわけいまヨーロッパで問題になってるのは、やはり移民として取り込んだイスラム教徒を、どうやって社会に取り込んでいくかってことだろう。
不穏な事件も続いていることだしな。
で、カミサンが向うでじゃんじゃんバリバリバリ仕事してるあいだ、カメラを持って街をうろついて、その空気だけでも感じ取ってきたいものだ。

感じることが、世界を理解するためには必要なんだぜ。
そう考えれば、今回の話はいいタイミングだと俺には思える。

単なる思い込みだって?なぁにかまうもんか。

そう、いつだって意味を見出すのは、自分自身なのさ。
偶然を必然として受け取るのも、自分自身なのさ。
そうして、人生は転がり出すんだ。


読者諸君、失礼する。
春のヨーロッパか・・・。そいつぁいいな。マロニエは咲いているだろか?

2015/02/26

Post #1422

Boudhanath,Nepal
ここんところ、フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』ちゅう本が巷で大人気だ。
俺の予想では、今はメディアの連中も大騒ぎしているが、熱しやすく冷めやすい、そしてなおかつ忘れっぽい我が国の国民性を考えると、一過的なブームで終ることは間違いないように思える。
俺も近々、ブームに便乗してみすず書房から出ている翻訳書を買って読んでみようと思ってるんだれど、いかんせん完膚なきまでに金がないので、もう少し先延ばしというわけだ。読んでもいないのに俎上にのせるとは、俺もなかなか肝が据わっているってもんだ。ダッハッハ!

ピケティ氏の言っていることは、方々で紹介されているし、高額でページ数の多い翻訳書だけでなく、柳の下の泥鰌的な多くの解説書が出ているので、いちいちここで俺が説明するような事ではないだろう?
けれど、報道等で目にするところから大まかに言ってみれば次のようになるようだ。

①資本は富裕層に集中してゆく。

②これによって、社会の格差は拡大していく傾向にある。

③社会の格差が拡大してゆけばしてゆくほど、経済的な成長は鈍化する。

④それを防ぐには、逆累進性が強い消費税を見直し、累進性の強い所得税に力点を置き、富裕層の富を、再分配する必要がある。

陋巷暮らしの貧民にして、一を聞いて十を知る(が、2から8が抜けている)と言われている俺からすれば、全て自明の理なんだけれど、アカデミズムの世界ってのは仮説を立て、データに基づいて検証し、その上で初めて世に出され、評価されるというものだから面倒極まりないものだ。
余談ながら、俺が世間一般でイマイチ評価されないのは、その地道な努力が欠けているからだって思えるよ。
とはいえ、マルクスの『資本論』(俺は挫折したけどね)は、膨大な例証を積み重ね、その事実の重みによって論を展開していたし、いかなる学問というものは、思い込みを排して、謙虚にデータに向かい合うことが必要なんだってのは、よく理解してるつもりだ。

だからこそ、トミー(トマってのはトーマス=トミーのフランス語読みだからね)の労作を、近々手に入れて読んでみたいと思ってるのさ。
たまには、地道な努力をしてみるつもりさ。

今日まで歴史も経済も、歴史の舞台上でスポットライトを浴びる人間や、巨大な資本を操り世界経済の潮流を左右してゆくようなパワーを持った者たちをテーマにおいて語られることがほとんどだった。
しかし、世界を本当に構成しているのは、一見、自分のことしか考えないような、フツーの人々が大半なんだ。そして、フツーの人々なんてのは、世界でブイブイ言わせている富裕層の方々からご覧いただくと、アリンコみたいなとるに足らないものに見えるのかもしれない。
その証拠に、発展途上国の経済や政治は、先進国の経済や政治に常に翻弄されてきたし、庶民の感覚が、政治に反映されることはほとんどない。この日本では、政治家なんてうなるほど資産を持っている富裕層にしか勤まらないものだからだ。

そして、俺たちの社会は行き詰っている。水面下で秘かに、新たな階級社会へと近づいている。
いやぁ、参ったなぁ…。
希望は戦争しかないとか、イスラム国に憧れるだとかってのも、そんな社会の閉塞した退行的な動きへのリアクションだと思えるぜ。

そろそろ俺たちは、大多数の貧乏人を基準にして、社会を考えていかなければ、どうにもならない時期に差し掛かってるってことさ。

読者諸君、失礼する。忘れたころに、この本について触れることだろうさ。どんな学問だって、人間の幸福に役立たないようなものは、世界をよりマシにしないようなものは、何の意味もないのさ。

2015/02/25

Post #1421

Boudhanath,Nepal
Bloggerを開いてみると、Warningが掲載されていた。

『3 月 23 日より、露骨な性描写を含むコンテンツは Blogger に掲載できなくなります』だそうだ。

『2015 年 3 月 23 日より、露骨な性描写やヌードを扱った画像および動画を Blogger で一般公開することはできなくなります。

注: 芸術、教育、ドキュメンタリー、科学などの、公共の利益を目的とする裸体像の掲載は許可されるものとします。』


やれやれ、厄介だな。

露骨な性描写ってのは、無いつもりなんだが、これを判断するのは俺じゃない。グーグル先生だ。
ご苦労なこった。
芸術的なもの、科学的なもんとかはおとがめなしってんだが、それを判断するのは俺じゃない。グーグル先生だ。
これまた、ご苦労なこった。クソ!

まったく性的なものが含まれていないわけじゃない。
この世界ってのは、性的なもの抜きには存在しがたいものなんだから。
もっと言えば、その辺のクレーンの写真に欲情する奴だっているかもしれないしな。何が露骨に性的かなんて、さっぱりわからないぜ。

思えば、Post #1050アムステルダムの土産物屋の店先で撮ったトランプは、思いっきりちんやまんが写り込んでいた。むかし、おっぱいパブで撮った写真Post #332も、思いっきりチチが写っているのがあったな。アレはカミサンに叱られて削除したっけ・・・。

それも過去のブログには掲載されているので、俺のブログが新しいアダルトコンテンツポリシーに抵触する可能性がまったくないとは言えない。俺が問題ないと思ってるものでも、グーグル先生が問題だと思ったら、アウトだ!

抵触するとどうなるか?

ブログは限定公開にされてしまうわけだ。限定公開にするということは、予め俺の方で読者としてメールアドレスなどを登録した常連さんだけが、いちいちログインして初めてこのブログをみることが出来るということだ。

面倒くさいったらありゃしない。
終わったな。
そんな措置が取られたら、俺はこのブログ、店じまいするよ。
どうせたいして反響もないし、ほとんど誰も見ちゃいないんだからな。

それが嫌なら、そういったたぐいのコンテンツを、3月23日までに削除する必要があるというのだ。

もう既に1400回以上続けているんだぜ。それをいちいち精査して問題のありそうな画像を削除するってのは、この忙しいのに骨が折れる大仕事だってことだ。だいたい、、俺がOkだと思っても、世間はそう思ってはくれなかったりするのは、毎度のことだ。俺の常識と世間様のそれは、1オクターブくらいはずれまくっているんだからな。

やれやれ。あまりにくだらない話で、思わずため息が出てくるぜ。

かつて、P-Funkの総帥ジョージ・クリントンはとんでもなく素晴らしい名言を残している。

曰く“All Good thing is NASTY”つまり、『全て良きものはいやらしい』

まったくそう思うぜ。この世の中がこんなに息苦しいのは、みんな根は好色なくせに、そんなそぶりを見せることなく、自分たちを抑圧しているからだって思えるよ。どいつもこいつも、真面目になろうとして、愚かしい結果を招いている。愚かしいことに真面目に取り組んでみるという逆転の発想は、どこにもないものだろうか?

葛飾北斎の描くところの春画とか見てみるとイイ。
すごくおおらかで、愉しそうな性行為が、北斎の天才的にのびやかな筆致で描かれている。
北斎はしばしば調子に乗って、詞書まで書いている。これがまためっぽう面白い。
思わず笑い出さずにいられないほど、おおらかで、セックスってのは愉しいものだと思えてくるぜ。

葛飾北斎にしても天才荒木経惟にしても、素晴らしい芸術は猥雑と紙一重だ。その紙一重を、どうやってグーグル先生はジャッジするのだろう。

不思議だぜ。どうして性的なものが忌避されるのか。俺にはいまだによくわからない。

誰だって、持ってるものだろう?ありふれたものだぜ。

誰だって、性的な行為を通じてこの世に産み出されてきたんじゃないのかよ?
因みに言うと、俺はストイックに見えるけれど、あっちの方も大好きだぜ。
そもそもエロスってのは、未知なるものの探求を意味してるんだからな。

やれやれ、やるせない気持ちだよ。

①それまでに物議を醸しだしそうなものは、悔しいけれど削除したりするべきか?

②それとも焼き海苔みたいに、思いっきり黒の線でもいれておくとするか?

③乳首には昔の週刊プレイボーイの広告みたいに☆でもつけておくとするか?

④それともいっそ、悪名高いFC2にでも引っ越すべきか?

⑤限定公開にされても、好き勝手にやり続けるべきか?

俺は是非、君たちの意見を承りたい。

読者諸君、失礼する。まったく世知辛い世の中でござんす。
There is No easy Way to be Free!
自由への道のりはいつだって平坦じゃないのさ。

2015/02/24

Post#1420

Marrakech,Morocco
俺が自分には社会に対する理想があるというと、おおかたの人は狐につままれたような顔をする。

格好のイイことを言って、正義漢ぶったり、清廉高潔な人物のふりをしたいわけじゃない。
俺がそういった人間にほど遠い、放蕩無慚な破廉恥漢だということは、君たち以上に俺がよく知っている。なにしろ、君たちに言えないことだって、たくさんあるんだからな。
また、理想なんて言うと、現実を無視して、地に足のついていないことを、呑気にしゃべっていると思われているのかもしれない。お気楽なボヘミアンだと思われているのかもしれない。
また、ほとんど誰も読んでいないようなクソブログで、格好いいこと言ってみたって、穴を掘って、その穴に向かって叫んでいるのと何も変わらないかもしれない。
けど、俺は目先の利かない馬鹿野郎だから、言わずにはいられないんだ。

俺が常々ここに書いている理想ってのは、あれだ。
『いつの日か、世界中の人々が国家だの宗教だの、民族だの富だのなんだのによって差別されることなく、ただ人間であるということで、等しく尊重される世界が現れるべきだ。』というあれだ。

君は、それが自分の日々の生活から、1万光年くらいは隔たっているように感じているかもしれない。まさに理想だよって。
けれど、その理想は俺たち一人一人の存在そのものに関わっていることなんだよ。
君がもし、世界の何処かで、黄色いチビ野郎と蔑まれたら、どう思うだろう?

或いは、そもそもそんなことはとっくに憲法に謳ってあるじゃないかと、君は言うかもしれない。けれど、こいつはそういう法律の問題じゃないんだ。
いくら憲法に書かれていたって、俺たちの心の中には、明らかに格差も差別もあるし、世界は国境や文化、宗教、民族によって、くっきりと分断されている。

俺が今問題にしているのは、俺たち人間の一人一人の意識の問題なんだ。

実際に、この現代社会のどこにいっても人々は自らの周りに観念的なラインをひき、周囲の人間をそのラインの内側に入れるべきか、ラインの外側にとどめ置くべきか、つねに検討している。

例えば、我々日本人のなかには韓国人を排斥する者がいる。
東南アジアからやってきた人間を、実習生というラベルを張った奴隷として扱っている。
大地や海には、目に見えない線が引かれ、人々の自由な行き来を阻んでいる。
その線を護るために、政府は憲法を変えて、戦闘行為つまり戦争が出来る国を作ろうとしている。
キリスト教徒は、イスラム教を信じる移民たちを排斥し、それに対して憤懣やるかたない若者たちは、社会に居場所を見つけられず、イスラム国を目指す。
イスラム国は今までにも多くのジャーナリストを斬首処刑してきたが、日本人が処刑されるまで、日本では誰もみな、それは他人事だと思っていた。
自由の国アメリカでは、未だに多くの黒人が、黒人だというだけで、犯罪者扱いされ、オマワリに撃ち殺されている。
もっと身近なところでは、女性は男性に比べて職業選択の自由も低く、賃金も安い。金玉がついていないだけで、人間の価値が変るとでも言うのだろうか?

社会ってのは、そういうものだと、諦め、受け入れるのは容易い。
そんな言説は、ますます増大する格差と、社会を覆う無力感の中で、なんの力も持っていないかもしれない。
『そんなのは単なる理想論だ』という言葉は、現実的ではなく、考慮する価値もないという意味合いで使われている。実際に君も耳にしたことがあるだろうし、一度や二度、使ったことだってあるだろう。けれど、本当にそうだろうか?社会は一人一人の人間の集合からできているんだぜ。社会を構成する大多数の人々の意識が変れば、社会は実際に変わっていくんじゃないのか?

人間はイメージしたものしか、現実化できないんだよ。単なる理想だといって思考停止していては、何も変わらないンじゃないのかい?少なくとも、少しでもマシな方向には。

それに、もし君が差別され、虐げられる側に立っていたとしたら、どう感じるだろう?
なんとか社会を変えて、自分たちの尊厳を取り戻そうとするんじゃないだろうか?
自分がされて嫌なことは、人にはしないってのは、人間の最低限のマナーなんだぜ。

俺はそんな時代だからこそ、何度でも自分の思い描く理想について語りたい。
闇が深いほど、星はピカピカ輝くものさ。

理想は、絵にかいた餅として冷笑されるようなものではないと俺は信じてる。
俺は、来るべき理想の社会を考えるとき、ワクワクする。

理想とはもちろん、現実の痛みを和らげる麻薬でもない。
俺たちが、人類としての俺たちが、次の世代、その次の世代の未来に実現すべく、にじり寄るようにして近寄っていくべき、目標。それが俺の言う理想なんだ。

理想という指針がなければ、社会を自分たちの手で変えていこうなんて、誰も思えないじゃないか?
目指すべき理想がなければ、俺たち人間は、目先の欲望に捉われ、人類の歩みの中で無意味な人生を送ることになってしまうだろう。いくら安楽な一生を送ったところで、意味がないんだ。

俺たちはみんな、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で語ったように、綱渡りの途上を歩む存在なんだ。俺たち自身の世代は、綱を渡りきることはできないのかもしれない。綱から落ちて、道半ばで倒れてしまうことになるだろう。
けれど、その理想に向けて俺たち一人一人が歩み寄ってゆくこと、人を人であるというそのことだけで、尊重していくように努めることで、その理想へと社会全体がにじり寄っていくであろうことには、絶対の確証が俺にはある。
いや、むしろそうあってほしいと願っている。

せめて君たちにはわかってほしい。
そして、俺の言葉をせせら笑うような顔をしないでほしい。
そして、君にも俺の理想の一端を分け持ってほしい。
どうせ無理だとあきらめて生きるよりも、不屈の理想を持って生きる方が、人間味があって素敵だと思うぜ。

読者諸君、失礼する。こんな時代だからこそ、俺はあえて愚か者のように生きてみたいのさ。乙なもんだろ?

2015/02/23

Post #1419

Boudhanath,Nepal
俺は自分で思うに、途轍もなく貪欲な人間だ。
金とか地位とか権力とかそういったものにじゃないけれど。

知ることについて、貪欲なんだ。知るということについて、足ることを知らない。
知において饕餮(古代中国の想像の怪物、底抜けに貪欲で凶暴な奴だ)なんだ。
このエネルギーを金儲けや権力闘争に費やすことが出来たら、俺はすごいことになっていただろう。けど、それにはあまり興味がない。金をしこたま儲けることは、大多数の人々から奪うことだと知っているからだ。
だから、歳食ってなお、貧乏暮らしだけど、知らないことを知りたくて仕方ない。この眼で世界を見たくて仕方ない。この手で世界に触れたくて仕方ない。世界で何が起こっているのか、俺たち人間はどうなっていくのか、歴史の終わりを見てみたい。

もちろん、試験に出る丸暗記のようなものじゃ満足しない。
物事の奥に潜む必然性や偶然性、それらが織りなす歴史、そういったものを知りたいと思うんだ。

俺は自分じゃ、だれでもそうなんだと思っているけれど、時折友人と話していると、俺以外にそういう人間を見たことがないと言われる。

昨日会いに行った友人は、俺が様々なジャンルのこと、つまり世界情勢から、社会、政治、歴史、音楽、美術、文学、写真などなど、いろんなことに興味関心を持ってて、それぞれに造詣が深いことを不思議がっていた。
普通は、音楽なら音楽、歴史なら歴史だって。

仕方ない普通じゃないんだから。

俺の頭の中には、森がある。

さまざまな知識が実りをつけた木が生えている。

その土壌は、俺がこのクソ溜めみたいな社会の底辺で、クソにまみれるようにして体験してきた出来事から出来ているんだ。
このクソ溜めを肥やしにして、このクソ下らねぇ人生を面白おかしくしてくれるさまざまな知識が、しっかりと根を張って、頭の中に森をつくってるんだ。
そして、思考は木から木へと飛び渉るモモンガのように、さまざまな領域を横断して展開していく。
だから、話題は次々に変っていく。

物事を深く深く考えるのは愉しい。アクロバティックで、爽快でもある。

知らないことを知るのは楽しい。自分の世界が広がっていくから。

スマホでゲームをするよりも、はるかに愉しいのさ。

自分にとって写真も、美しいイメージをつくり出すためのものじゃなく、世界そのものに触れて、知り、理解するためのものだという想いが強い。

この写真を見るがいい。
ネパールの首都カトマンズ郊外の仏教聖地ボダナート。
そこに広がるネパール随一のチベット人コロニーの女性だ。
なぜ、そこにチベット人が暮らしているのか。
ざっくり説明してみよう。
もともと、ここはチベットとインドの交易路上に位置していた。
釈迦の遺骨を祀る巨大なストゥーパを慕い、いつしか交易の便宜を図るためもあってチベット人が住み着いたのだろう。そこに中国共産党によるチベット併合がおこり、多くのチベット人がここに亡命してきたのだという。そして、いつしかそこはチベット人コロニーになったというわけだ。
しかし、ここにはチベット人だけではなく、道一本を境にしてインド系の人々もたくさん住んでいる。血も文化も、まじりあうことなく、普通に共存している。

とても刺激的だ。そんなことを想いながら、写真を撮り歩いたり、暗室でプリントするとき、俺の頭の中の森を、モモンガが飛び交っているんだ。出来る事なら、俺が死んだとき、このモモンガをこの世界にそのまま解き放ってやりたいよ。

読者諸君、失礼する。こんな俺がいま一番に知りたいことは、他でもない君のことだよ。

2015/02/22

Post #1418

Boudhanath,Nepal
昨日は土曜日だというのに、早朝から深夜まで働いてしまった。
一日を二日に伸ばして働いているようなものだ。
人生はこうして濃密になっていくものさ。

窓の外は霧雨が降り続いている。
陰気な天気だ。
俺はロンドンを懐かしく思い出す。行ったことはないけどな。

しょげ返っているのにも飽きてきた。
俺にはそんなのは似合わないだろう。
しょげているとなぜだかこのクソブログのPVも伸び悩むんだ。
みんなわかってるんだよ。

いつだって、にっこり笑ってフルスロットルでコーナーに突っ込んでいくような、無謀で向こう見ずな生き方が俺には合ってるんだ。
過ぎ去ったことは過ぎ去ったことで、同じ失敗さえしなければいいんだ。バックミラーだけ見ていても、前には走れないんだ。

そもそも、誰かに理解されたいとか思うからいけねぇんだよ。
孤独に悩むんじゃなくて、孤独に存在していればいいんだ。
その上で、俺は俺のやりたいように生きていけばいいのさ。
それで理解してくれる奴がいるんなら、それはウェルカムだし、理解されないんなら、それもまた乙なもんだ。
なにしろ世の中の皆さんは、TVのバラエティのように解かりやすいことしかわからないんだからな。俺みたいな矛盾の塊みたいな男、そうそう簡単に解かってもらえるわけないさ。
なにしろ、俺自身だっていまだによくわからねぇんだからな。
他人が解かるわけねぇよ
まぁ、あんまり解かってもらえて、どこに行っても大人気なんてことになってもつまらないけどな。

しょせん、人間は一人で生まれてきて、一人で寂しく死んでいくんだぜ。
理解されてもされなくても、受け入れられても受け入れられなくても、どっちだって最終的には変りがねぇんだ。
その時が来るまで、しょげ返って生きてたって、そんなのは死んでるのと同じだろう?
しょげ返るのは死んでからでかまわないのさ。
俺はいつまでもしょげ返ってるほど、暇人じゃないんだ。
ぶっとい火柱が立つように、激しく生きていたいんだ。
長い短いは関係ねぇのさ。
出来たらテキトーなところで終わってほしいけどな。

俺が昨日の仕事で出会った男は、小太りで頭はうすらハゲ、脂ぎった肌の人当たりのイイおじさんだった。
俺よりずいぶん年上だと思っていたが、何かの拍子に年齢の話が出て、俺と同じ年だと聞かされて腰が抜けたぜ。

俺はそんなふうに老け込みたくはないのさ。

昔の女たちに申し訳がないだろう!

なにせ、46歳の俺の中には、いまだって反抗的な16歳の俺が棲んでるんだ。

爺むさく老け込むなんて我慢できないぜ。

だから、8ビートのシンプルなロックに合わせて、悩んだまま踊り続けていくのさ。

悩んだままってところが重要だ!赤線ひいておきなよ。

フルスロットル、ノンブレーキだ。引き攣った笑顔を忘れるな。

さて、今日は仕事も休みにした。かみさんは今日から出張だ。日曜日だというのにご苦労なこった。そして、給料日前、金はない。起きたらとっくに昼過ぎだ。

さて、今から何して遊ぼうかなぁ・・・。君のところに行ってみようか?君は一体どこにいるんだ?

読者諸君、失礼する。人生は『遊びをせむとや生まれけん』だ。『夢幻の如くなり』だ。

2015/02/21

Post #1417

Praha,Czech
"If she can find a reason to forgive
 Then I can find a reason to live


 Oh I believe in miracles
 Oh I believe in better world for me and you
 Oh-oh-oh, I believe in miracle
 Oh I believe in better world for me and you

 I close my eyes  and think how it might be
 The future's here today
 It's not too late
 It's not too late,no!

 Oh I believe in miracles
 Oh I believe in better world for me and you
 Oh-oh-oh, I believe in miracle
 Oh I believe in better world for me and you

The Ramones "I believe in miracles"

読者諸君、失礼する。俺はミラクルを信じてるぜ。

2015/02/20

Post #1416

Kathmandu,Nepal
I just want to walk right out of this world

'Cause everyone has a poison heat

The Ramones "Poisn heart"

読者諸君、失礼する。俺はこの世界の外側を歩きたい。

2015/02/19

Post #1415

ユーラシア大陸上空のどこか。高度1万メートルより。
旅に行きたい。


スナフキンのように、たった独り、

テントと寝袋を背負ってユーラシアの針葉樹の森の中を、旅してみたい。

人肌の生温かさを振り切るくらいの、凛と冷たく、澄み切った空気のなかを旅してみたい。

人の言葉など忘れるほどに、静まり返った森の中を、

獣道のような道を歩いて、何カ月もどこまでも旅してみたい。


一匹のけもののように。

あるいはまた、自分自身を罰するかのように。


携帯も、コンビニも、ホテルも街灯もない世界。

君のことも彼のことも、彼女のことも忘れてしまおう。

生身の自分と世界そのものしかそこにはないんだ。

カメラだけ持って、

そんな過酷苛烈な旅に飛び込んでゆきたい。



挙句、疲れ果てて、木の根元に座り込み、

眠ったのかと思えば、そのまま二度と起き上がらない。

そんな最期を迎えることが出来たなら、

腹上死ほどではないが、上出来だ。

しょせん俺が死んだからって、大したことじゃない。

恥知らずな痴漢が一人、この世から減るだけだ。



読者諸君、失礼する。そうなったら、葬式も戒名もいらないぜ。
バカバカしい。どうしてもってんなら、『好色院道楽居士』で十分だ。

2015/02/18

Post #1414

東門市場、台北、台湾
しばらく、何も書く気にならないと思うので、写真だけお送りしよう。
自分のことに、嫌気がさしてると、気の効いたことも、中身のあることも、何も言えないよ。

読者諸君、失礼する。下らないおしゃべりで、君達を、猫の糞を踏んじまったみたいな気分にさせるのは、もうゴメンだ。そもそも写真こそ、俺の言葉なんじゃなかったかよ?

2015/02/17

Post #1413

Budapest,Hungary
自分の軽率な振る舞いで、相手からやんわり慇懃に、しかし厳しく拒絶されてしまって、強烈に自己嫌悪に陥る。自己嫌悪のあまり食欲すらない俺さ。
俺はすぐに調子にのっちまうからな・・・。自分でもすぐに舞い上がっちまうってのはよくわかってるんだ。わかっているけど、気が付いた時はいつも遅い。相手をうんざりさせてしまうんだ。
いつだって、悪気があるわけじゃないんだけど、悪気がないからこそ、拒絶されると心底こたえるよ。気に入らない奴に拒絶されるのは、屁でもないんだけどねぇ・・・。

読者諸君、失礼する。イイ年して情けねぇったらないよ・・・。

2015/02/16

Post #1412

台北、台湾
日々の仕事に倦み疲れている。

いずれは死んでゆくこの身なら、生命を繋ぐためだけに働き続けることに疑問を感じるぜ。
仕事には矜持を持ってやっているつもりだけれど、世界のためにどうしても必要な仕事って訳でもないだろうって、心の中で声がするのさ。
好きなことだけやって、困窮して死んでしまっても、かまわないような気すらする。
ヤバい。人間として根腐れてきやがった。
睡眠不足と働き過ぎは心と体を確実にむしばむのさ。
いつもお馴染の、胸のなかの灼熱の塊が、赤黒く光りながら胸のなかで爛れているのさ。

自分ひとりの時間が欲しいんだ。
お喋りもたくさんだ。
女のことを考えるのも、シャットダウンしたい。

そう、暗室に引きこもって、自分の写真を通して世界そのものと向き合う時間が欲しいのさ。
新聞もネットもTVも、もうたくさんなんだ。
どうせロクな話はありゃしないんだから。

俺は遠い目をして、自分の写真について考える。

ごく少数の皆の衆にしか、見てもらえないつまらない写真だ。
だけれど、俺にはかけがえのないものだし、けっこうおもしろく感じてるのさ。


キレイな写真や、見たものを驚かせるような写真は、撮りたいとも思わないし、自分に撮れるとも思わない。
そもそも、こんなブログをやっていても、写真を気に入ってもらえるようなことは、ごくまれだ。

写真ってのは、そもそも表面しか写らない。

だれしも写真で問題にするのは、その表面だ。

美しい街並み、美しい女性、美しいおっぱいやヘアヌード、美しい海や山、美しい花々、美しい色彩、美しい階調、そして何より美しい光・・・。

結構だ。それは俺以外の大勢の人々にお任せしよう。そう、それで何にも問題ないだろう。

本当に俺が関心があるのは、そもそも写真には映らない人間や物事の内面だ。

それを真実、実在ともいう、ということにしておこうぜ。

美しい街並みよりも、人々の生臭い暮らしの息吹が伝わってくるような煤けた町並みが好きだ。

美しい女性の顔やハダカよりも、その女性の内面を知るのが好きだ。
美しいからといって、内面もまた美しいとは限らないだろう?
写真から、その人が内に秘めた欲望や狂気が立ち上るような写真が撮りたい。その人が抱えた悲哀や愉悦が迸るような写真が撮りたい。
それらはもちろん、目には見えないものだ。

美しい海や山、それにはそもそも興味がないのさ。

美しい花々、それは剥き出しになっている植物の生殖器。

美しい階調よりも、強烈な陰影を描くコントラストが好きだ。

そして、これだけは譲れない美しい光。
光によって際立つ闇。

俺が写真でとらえたいのは、並の写真には映らない美しさ。

ドブネズミみたいに 美しくなりたい
写真には写らない 美しさがある

ブルーハーツの大昔の歌のような美しさ。

俺が写真でとらえたいのは、そんな矛盾したもの。

読者諸君、失礼する。そりゃ俺だって、きれーなおねーさんの写真とかも撮りたいんだぜ。
けど、そいつにゃ相手が必要だろう?俺の性には合ってないのさ。
そもそも、きれーなおねーさんと二人っきりなら、写真を撮るよりも他に、やるべきことがあるはずだろう?
残念ながら、俺は草食系ではないんでね。

2015/02/15

Post #1411

シーナ、さようなら・・・。
朝、いつものように仕事を終えて帰宅する。
レンジで食事を温めて、くだらない政治の動向や気分が悪くなる犯罪ばかりが報じられた新聞を見ながら飯を食う。
侘しいものだ。
新聞の黒枠記事に目を落とすと、シーナ&ロケッツと書いてある。
日本の誇る最強ロックンロールおしどり夫婦、鮎川誠とその妻シーナ。それこそがシーナ・アンド・ザ・ロケッツ(以下シナロケ)だ。シナロケは、鮎川がシーナに出会い、彼女に歌を歌わせるために作ったバンドなんだ。

そのシーナが亡くなった。
享年61歳。
子宮頸癌だった。

俺は、それを見て一瞬意味が頭に入ってこずに、ただ『えっー!えっー!』と叫ぶしかできなかった。
人は誰しも死んでしまうものだけれど、とても悲しいよ。
俺の好きな人たちは、次々あの世に行ってしまう。

今から30年ほど昔のこった。
当時モヒカンパンク野郎だった俺は、地元のライブハウスで知り合ったパンクの女の子二人が、東京にアパートを借りて暮らしているというので、遊びに行ったんだ。
場所はもう覚えていないし、彼女たちの名前だってもう忘れてしまったよ。
覚えているのは、そのうち一人はとっても小さくて気の強い人だったってのと、もう一人はけっこう大柄でグラマーなおねーさんだったってことだ。
いまの俺なら、年上(といってもまだ二人とも10代だったろう)の女の子二人、しかもまったくタイプが違うおねーさん二人と、おんなじ小さな部屋で眠るなんて、絶対朝まで眠らないだろ、やってやってヤリまくるぜって思うけれど、当時の俺はモヒカン刈りのイカレチンポだったにせよ、なんせ10代の小僧だ。ロクに経験もないんで、そんなこともなく、眠くなるまでロックの話をしていたっけ。
そして、その時彼女たちから聞いたのが、シーナと鮎川誠が、ベビーカーを押して歩いていたのを目撃したという都市伝説のような話だった。

シーナはステージ衣装のようなド派手な格好で、真っ赤な髪を逆毛にしてベビーカーを押していた。そのすぐ横を長身痩躯でサングラスの鮎川誠が、気遣うように寄り添っていたという。

カッコE!そんなぶっ飛んだカップルがこの世にいるのなら、いつか結婚して子供を持つのも悪くないと思ったよ。

まるで、シーナが歌った歌のようだ。

ROCK ON BABY
~ロックの好きなベイビー抱いて~

♪ロックの好きなベイビー抱いて
 可愛いママが行く


 この子が二十歳になる頃には
 この世はきっとよくなってる
 だからしばらくママとおまえで
 がんばろうね がんばろうね
 ロックで笑うおまえを見ていると
 勇気がいつもわいて来るから

 愛したから おまえが出来て
 愛があるから おまえを産んで
 いろいろあれこれ言われたけれど
 ロックでこの世がまわるまで
 人間信じてがんばろうね

 ロックの好きなベイビー抱いて
 可愛いママが行く

 まだまだ醜いこの世だけれど
 やがてはいつかまともに変わる
 悩み合っても 得はないから
 笑っていようね 笑っていようね
 ロックで眠るおまえに触れると
 心がひとりで踊り出すから

 愛したから おまえがここに
 愛があるから おまえとともに
 明日も未来も 必ず来るよ
 ロックで話が出来るまで
 人間愛して笑てようね

 ロックの好きなベイビー抱いて
 可愛いママが行く

(作詞:阿久 悠、作曲:鮎川 誠、1994年)

この曲からもう20年以上経つけれど、残念ながら世界はもっとひどいことになっている。そして、シーナも死んでしまった。

スラリとしたスタイルに、頬骨の張った気の強そうな顔立ち。
そして、すこしハスキーだけど芯に甘くコケティッシュな響きを持ったその声。
エネルギーに溢れてて、突っ張ってるけれど、実は甘えん坊で寂しがりな女性を想いおこさせる。
俺の女性の好みとしては、どストライクだ。
むしろ、御幼少のみぎりに刷り込まれたシーナの印象って、俺の女性の好みに大きな影響を与えてると思う。

今でも、ふっと彼女の歌のフレーズが口をついて出てくる。

♪どーしても逢いたい いま
 どーしても逢いたい すぐ
 どーしても逢いたい いま
 どーしても逢いたい すぐ
 KISSしたら 気付くでしょう
 運命(さだめ)が指さす女は私

(DO SHITEMO AITAI ~どうしても逢いたい~)
そんなこと、女性に言われたら、俺なら間違いなく運命とやらに従っちまうだろう。
できることなら、そんなことを言って俺を揺さぶるような激しい女性に出会ってみたいもんだって、ずっと思ってたよ。そうこうしてるうちに、無惨にもこんなおっさんになっちまったがね。


♪テクニックじゃない 本能よ
 だから悪女なんて言わないで
 恋と女はイコール
 男の夢の玉手箱

 見せてあげる 聴かせてあげる
 恋の奥の手 とっておき
 初めてつかう十八番
 素敵な恋のマジック

(ABC)
ABCかぁ・・・。モータウンサウンドみたいなこの曲も忘れられないよな。そんなマジックにかかって見たかったさ。

♪しぼって 僕のレモンを
 あなたの好きなだけ
 たっぷり僕のレモンを
 あなたの紅茶の中に
 Ah、ah、ah
 二人で飲みます LEMON TEA

(LEMON TEA)
ヤードバーズのTrain Kept Rollingの替え歌候なレモンティーは、露骨なダブルミーニングのエロソングだったっけ。


♪思い切り愛し 思い切り愛されたいわ
 はだかになるから あなたもハートのドアをあけて
 Ah うまれたままのすがたで
 Ah 自然な気持ちで抱き合って

 遊びの恋の虚しさに やっと今気付いたの
 フワフワ今日まで生きてきて やっと今気付いたの

 遊びの恋の虚しさに 荷物まとめてサヨナラ
 ダラダラ今日までひきずった 遊びの恋にサヨナラ

(A MAIN LOVER ~今夜はたっぷり~)
ああ、シーナ・・・。女の子に対するときは、ハートのドアを開け放つことを教えてくれたのは、あなただったよ。ありがとう。

読者諸君、失礼する。シーナの歌声を聴いていたら、悲しくて悲しくて、涙が止まらない。もうこれ以上なにも書いてられないよ。シーナよ、お疲れ様。よくがんばったね。安らかに眠っておくれ。
RIP

2015/02/14

Post #1410

Zagreb,Croatia
昨日とは打って変って、軟派に行かせて頂くぜ。
毎日難しい顔してたら、皺が増えちまう。ますます女の子に相手にしてもらえなくなるぜ。
巷ではヴァレンタイン・デーらしい。なんとなく、それっぽい雰囲気を感じさせるような写真を乗せてみた。満面の笑顔でチョコでも配ってくれそうだ。
結構なことだぜ。

俺が仕事上のホームグランドにしている名古屋の百貨店も、年に一度のヴァレンタイン・デーだっつうんで大盛り上がりだ。毎日特設会場でチョコレートが何億円も売れまくっているらしい。時には一日で10億円を超える日もあるそうだ。
さぞかし笑いが止まらないこったろう。

世界中に女は何十億といるだろう。
そして、イイ女も何億といることだろう。
ザグレブ、パリ、アムステルダム、カトマンズ、バルセロナ、香港、台北、マラケシュ、イスタンブール、シンガポール、プラハ、ブダペスト、東京、大阪、名古屋に京都・・・。
思い起こせば、どこに行ってもイイ女はいた。
瞬間、胸がときめいた。
胸のときめきのままに、掠めるようにレンズを向けてシャッターを切った。

けれど、それだけだ。

それだけのことだ。うぅっ・・・。

縁がなければチョコもらったりはできないし、その甘やかな唇を吸うことも出来ないのだ。

20年一緒に暮らしている内縁のカミサンとの間には、そんなイベント、久しくないしな・・・。
夜毎繰り広げられる漢だらけで埃まるけの世界には、そんな潤いなんてあるわけもない。右を向いても、左を見ても、むさくるしいが愛すべき男たちばかりだが、俺も含めて世間の女性の皆さんから、相手にされそうもない。

毎年、すこし寂しいビターな想いを噛みしめる俺なのさ。

読者諸君、失礼する。俺にはしょせん、お腹がすいたらスニッカーズとかがお似合いなんだ。解かってる、解かってるけれど、泣けてくるぜ。

2015/02/13

Post #1409

Budapest,Hungary
夜勤明け、いつも駅で赤旗新聞日曜版を配っている市会議員のOさんと立ち話をする。
Oさんは、70代後半とお見受けするが、共産党の市会議員として、長年地道に活動してきた人だ。
彼は、昨日行われた安倍首相の所信表明演説の内容に憤っていた。

俺は、家に帰って新聞を広げ、つらつらと目で追ってみる。
個々の内容については、君たちも自分で吟味してくれ。
俺は共産党にいつも投票してるけど、共産党員じゃないからな。
何が正しいのかは、君たち自身で判断するんだ。
別に、俺は国賊とか非国民呼ばわりされるのにビビってるわけじゃないぜ。
自分たち自身で、それぞれが静かに吟味することが必要だって思ってるのさ。

確かに、いいことばかり言ってるようで、肝心なことには触れていない。
経済だの成長だのということばかりで、肝心要な、自民党の目指す憲法改正だの集団的自衛権の解釈変更だの、物議をかもしそうなことには、突っ込んだ発言はなかった。最終コーナーは岡倉天心だの吉田茂の言葉を引用して、ムードで引っ張っていたようにも思う。いかがなものだろうか?


同じ新聞に、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーの死を悼み、ドイツで国葬が営まれた記事を読んだ。

俺は思う。

どうして戦後70年、この国はひとりのヴァイツゼッカーも生み出しえなかったのかということを。

それが悲しい。

折しも、安倍首相は大戦中の侵略行為を反省した村山談話を継承しない方向で、戦後70年の談話を出すと言われている昨今、彼我の政治家の見識、力量、思考の射程距離の違いに愕然唖然呆然とするのだ。

政治は、利益を並べ立て、大衆を利で釣るものではないはずだ。
政治は本来、言論の力で、人々の心を揺さぶり、社会の進むべき道を示すという、優れて芸術的で創造的な営みであったはずだ。そこで真に問われるべきは、利益ではなく理念であり、経済の成長ではなく、私たちは自らの手で、どのような社会を作るべきなのかという哲学であったはずだ。

ヴァイツゼッカー氏の、有名な演説『荒野の40年』を以下に引用したい。
1985年5月8日、ナチスドイツが連合軍に敗れ、戦争が終結した記念日にヴァイツゼッカーが行ったものだ。彼は、この敗戦をナチスドイツからのドイツ国民の解放だと定義していた。
長い文章だが、ご容赦願いたい。長いけれど、君に、あなたに、ぜひ読んでほしい。面倒だってんなら、最後の方だけでもイイだろう。とにかく読んでほしい。
そして考えてほしい。

『5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。


 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。


 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、
 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。



 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。

 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。

 彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。

 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。

 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。

 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。

 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。

 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。

 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。

 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。

 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。

 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。

 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。

 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。

 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。

 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。

 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。

 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。

 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。

 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。

 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。

 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。

 いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。

      

 戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。

 ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。

 戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。

 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。

 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。

 ――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。

 ――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。

 ――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。

 ――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。

 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。

 東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。

 人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。

 当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。

 われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。

 われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。

 人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。


 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
 これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。


 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。


 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。



 今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。』


未来は過去からやってくる。そして、寛容な精神を持つものが、未来を切り開くことが出来る。

読者諸君、失礼する。俺たちは、どれだけ自分たちの過去について、知ろうとしているだろう?どれだけ自分と異なる価値観の人々に、寛容になれるだろう。よく考えてみてほしい。

2015/02/12

Post #1408

Praha,Czech
今日は何がって訳じゃないけどイイ一日だった。
もっとも、これからまた夜の仕事が俺を待っているんだがな。

今日が人生で絶頂、クライマックス、俺史上最高だと思えているときは、何がどう転んでもいいものさ。

どんな困難も屁でもないって思えるぜ。
君の抱えている寂しさや悲しさも、まとめて俺が担ってあげることだって出来るように感じるよ。
要するに、何故だかハイになってるんだろうな。
まぁ、理由なんてどうでもイイのさ。問題なのはそこじゃない。

だから、今日はそれ以上特に書くこと無し。

読者諸君、失礼する。明日は明日の風が吹く。明日のことを思い患うなとイエス様もおっしゃっておいでだぞ。

2015/02/11

Post #1407

Bruxelles
差別的だと言って、事勿れ主義国家日本では闇に葬られた童話『ちびくろサンボ』に、虎バターって出て来たじゃない。
サンボが虎から逃げるために上った木の根元で、三匹の虎が相争ってグルグル回るうちに、溶け合ってバターになっちまうって奴だよ。
覚えてるかい?
俺はいつも思うんだけど、この人生ですっげー性的な女性に出会うことが出来たとして、それでもう、ベッドの上にウサギが20匹くらい跳ねまわってるくらいに、もうこれ以上は限界ってくらい頑張ったとするじゃないか?
その過程で、自分と相手の汗も血も、内臓も骨も、過去の嬉しかったことや悲しかったことも、すべてベッドの上にぶちまけて、意識も飛ぶようなスゲーのかますして交わることが出来たらなぁと、思い続けてるわけなんだ。

不謹慎だって?

この世の中でそれ以上に心躍ることなんて、そうそうないだろう?
ランボーの詩じゃないけれど、永遠と溶け合うような瞬間たぁ、自分の殻がはじけたときにやってくるんじゃないの?今のこの瞬間を、すなわちたちまち『永遠』にするわけよ。
とはいえ、そういうのまたすぐやりたくなっちまうんだろうけどな。
夢を見るくらい、イイじゃないかよ。
で、その挙句に相手の女性と、『ちびくろサンボ』の虎バターみたいに溶け合ったような意識になれたら、互いの存在がお互いのなかに繰り込まれて、楔のように抜きがたいつながりが出来たなら、
そりゃもう死んでも悔いはないって思えるよ。
離れていても、お互いのことを身近に感じることが出来るくらいにね。
そうなりゃ、真っ暗な夜道も、独りきりで戦うことも、きっと怖くはないのさ。

読者諸君、失礼する。そんなの一生に一回と言わず、せめて月に一回くらいはあるとしあわせだよなぁ・・・。男冥利に尽きるぜ。

2015/02/10

Post #1406

Baktapur,Nepal
良い写真を撮るには、撮影する本人がチャーミングでなければならないというような意味のことを天才荒木経惟が言っていたのを読んだ記憶がある。

ずいぶん昔の話だ。

その時は、なんだよ、その話、意味わからないぜって思っていたんだが、最近、上手く言えないがそれが解かってきた。それは本当だった。
もっとも、何をしてよい写真というのか、この議論の出発点において、なかなかに心貧しき人々は見解の一致を見ることが出来ない。心貧しいことだ。
ズバリよい写真とは、ここでは俺がイイと思った写真こそが、良い写真なのだ。豊かな心で受け入れてほしいものだ。

むかしは、退廃的な雰囲気の写真を好んでとっていたように思う。
その頃は、こんなゲラゲラポッポ―な写真は、撮っちゃいなかったろう。
撮っていても、それこそがよい写真で、プリントするに値するものだとは、夢にも思っていなかったろう。

それが解からなかった頃、俺は多分、人間を馬鹿にしていたんだろう。
俺が好きなもの、興味があるものも人間だが、俺が最も嫌いなものも、興味が持てないものも人間なのだ。
若いころは、後者の方に気持ちが傾いていたんだろう。
幸せそうな人間より、不幸な雰囲気の人間の方がイイなんて、なんだかひねくれてるぜ。倒錯しているぜ。倒錯はエッチな趣味だけでたくさんだろう。

このご時世、ありふれた不幸よりも、幸せな表情のほうが、見ていて楽しいだろ?

この人たちが笑ってくれているのは、言葉も通じない俺が、愉しそうに笑っているからだ。
分け隔てなく、笑っているから、この人たちも安心して笑ってくれるのだ。
自分が笑っているからこそ、笑顔の写真が撮れる。
月並みな言葉だが、相手は自らを映す鏡なのだ。
俺がエロい写真を撮れないのは、根本的にストイックで真面目だからだろう。
これについて異論は許さん!
そういうことにしておこう。
その方がお互いに心穏やかに暮らせるというものだ。

読者諸君、失礼する。そろそろ仕事に疲れてきたぞ。そぞろ旅に出たいな。旅に出て、見知らぬ人と通じない言葉で話し合ったり、笑いあったりしてみたいな。君も一緒にどうだい?お金はそれぞれ自分持ちで頼むぜ。

2015/02/09

Post #1405

Pashupatinath,Nepal
ネパール最大の聖地、シヴァ神を祀るパシュパティナートの門前で、人々の喜捨を求めるサドゥ、つまり行者。
陽に晒され、なめしたようになった肌。
怒りすら込められているかのような鋭い眼光。
痩せこけてはいるが、全身にくまなく堅固な意思が満ちているように見える。

日本では、こういう顔には、まずお目にかかれなくなったきた。

喜捨を求めているというような姿勢はどこにもなく、神の化身として供物を受け取ってやるくらいの傲岸な表情がみえる。
人の施しを受けるときは、斯くあるべきなのか。へりくだってはいけないのだなと、痛感する。

読者諸君、失礼する。仕事をしているときの俺の顔も、なかなか怖いと評判なんだがな。君の前では、莞爾と笑っていられるさ。

2015/02/08

Post #1404

Pashupatinath,Nepal
僕が生まれた素晴らしい国、そこは事なかれ主義国家。

報道写真家がシリアにむかう予定だということを察知して、政府と外務省が彼のパスポートを取り上げたそうだ。
我が国の事なかれ主義も、遂にここまで極まった。
政府にも外務省にも、情報通やタフなネゴシエーターはいないということだ。後藤さんや湯川さんの時も、この国の政府は、テロに屈しないとか格好のいいことを言うばかりで、何一つできなかった。


俺は、報道写真という写真のスタイルが必ずしも好きではない。とりわけ、戦争写真というジャンルは、複雑な思いを抱かずにはおれない。
誰しも、ショッキングな映像を求めている。
戦争は、そんな映像の宝庫だ。
かつて、アメリカなどの軍事行動には、戦場カメラマンが従軍していた。
そして、無意識的にアメリカならアメリカの視点を代弁させられていたのだと思う。
それが一番顕著にわかるのは、ベトナム戦争で撮影された数々の傑作戦場写真だ。
生死のかかった現場で、寝食行動を共にしていれば、好むと好まざるとにかかわらず、自然とその集団の見解に沿って行くような文脈で、写真が解釈されることになる。

勝ち馬に乗ること。

客観的に過去を振り返って、比較的、戦場写真家が生還できるかどうかってのは、そこにかかっているんじゃなかろうか。従軍している部隊そのものが壊滅してしまうような激戦では、写真家なんてトロい生きもの、真っ先に殺されてしまうだろう。

しかし、アメリカさんが地上軍を出し渋っている昨今、戦場写真家は、自らのコネクションだけで戦地を往来しなくてはならないのだろう。
また、携帯電話ひとつで誰しもが世界に対して、(自分の都合のよい)情報を発信できる昨今、戦場ジャーナリストの価値(つまり戦場で、ジャーナリストだから殺さないでおこうという価値)も高くないのだろうということは、容易に想像できる。
捕まえて、人質にして、相手国をゆすり、あわよくば自分たちの要求を通すことが出来れば、ラッキー、ダメならさっさとぶっ殺せばイイという、実も蓋もない状況になっておるわけだ。

しかし、毎日かの地では、名もない人々が殺され続けている。
殺されるのは、報道写真家だけではないということだ。ニンゲンの命の価値は同じだというのなら、なぜシリアの無辜の人々が、虫けらの様に殺されていたって、へいちゃらなのさ?それとも日本人やアメリカ人は特別な存在なの?

特別なんだろう?まっとうな政府だったら、自国民を見殺しにはしないはずだから。

しかし、だからといって、政府と外務省によるパスポート取り上げは、如何なものだろうか?
俺だったら、憤慨するぜ。


それを当然の処置と考える人も多いだろうが、俺自身は国家権力による個人の自由の統制は大嫌いなので、この処置には断固反対だ。
イスラム国に対して、何の交渉すらできなかったからといって、何がそこで起こっているのか見極めようという勇気ある人々の道を閉ざす事なかれ。
お金の支援はするけれど、シリアの人々が難民として日本にやってくることは断固お断りの事なかれ。

国家の名のもとに個人の自由に制約を設けることを是とする社会は、極論すれば、人権蹂躙を重ねる疑似国家のやっていることと五十歩百歩にしか俺には思えない。
折しも、昨年末、例の国家秘密法なる怪しげなるものも施行された。
いつ何時、俺たち自身にその制約の矛先が向けられるかわからないし、その理由もいくら知りたくても、開示されない可能性がある。
必要が開示されなければ、それが果たして法的に妥当なものかどうか、司法の場で白黒つけることも出来なくなる。
暗黒社会だ。
それこそ、俺にはテロに屈した社会にしか思えないんだが、どうしたもんだろうか?

読者諸君、失礼する。国家にも、人種にも、宗教にも、本当にうんざりだ。バカバカしい。何がそんなに違うってんだよ。クソッ!人間がニンゲンだちゅうだけで、尊重される世界ってのは、どっかに無いですかねぇ・・・。

2015/02/07

Post #1403

Kathmandu,Nepal
久々に、昼間に仕事をすると、非常に疲れる。
はっきり言って、疲労困憊だ。
眠りたくて仕方ない。正直言って、限界だ。

しかし、俺には記しておきたいことがある。

書いてもいいかい?

『46にもなってなんだけど、俺は俺が何者なのか知りたいんだ!』

読者諸君、失礼する。どう生きるかを選ぶことは、どこでどう死ぬかを選ぶことでもあるよな。
悪いけど、眠らせてもらうよ。明日は久々に休みなんだ。

2015/02/06

Post #1402

Chitwan,Nepal
幸せとは、いったいどんな状態を言うのだろうか?
不幸せとは、どんな状態を言うのだろうか?

君が僕を知っているってのは、すごく幸せなことだと思うんだが、どうだろう。
それ以上を求めるのは、贅沢ってものだろうか?

誰にも気にもされない。空気のような存在ってのは、そりゃ寂しいもんだと思う。
まぁいうなれば、不幸せだ。

幸せってのは、どうにもニンゲンとニンゲンの関係性のなかにあるんじゃないだろうか?

その視点から考えてみると、ニンゲンってのは、独りでいるのは、おすすめできないよってこった。

読者諸君、失礼する。僕にも君のことをもっと教えてくれないか?

2015/02/05

Post #1401

Patan,Nepal
俺のプリンターが死んでしまった。
請求書を印刷してみると、赤い文字のはずが黄色になっていやがる。
いったいぜんたい、どうゆうこった?
調べてみると、シアンとマゼンタがまったく出ていない。
俺はさっそく行きつけのカメラ屋に電話をして、キャノンのA3プリンターを注文した。
そいつにはスキャナーがついていないので、今度はスキャナーをどうするかってのが、これまた頭の痛い話だ。スキャナーがないとプリントした写真を、データ化できないからな。君たちにお届けする術がなくなってしまうのだ。いやぁ、参るなぁ。

今、正直言って四面楚歌的に金がないので、いやぁ、まいったなぁってのが正直なところだが、なんとか錬金術を駆使して、乗り切っていくとするか?

漢というのは、女のように乙な商売道具をつけて生まれてくるわけではないので、金を稼ぐのも効率が悪い。毎日毎晩。くたくたになるまで働いて、眠りこけ、筋肉痛で目を覚ます。
もっとも、そんな効率の悪い商売を、漢の道だとかいって自分をごまかしてしがみついている自分自身が悪いのだけれども。
しかし、お天道様に顔向けできないようなことをしてまで、金儲けするのは俺としては何か違うとは思わないか?
俺はいつだって、あくまでも愚直にやっていきたいし、周囲の人に対して誠実に振る舞っていきたい。もちろん、君に対してもだ。
残念ながらフェアプレーが大好きなので、税務署さんにも正直なのは問題ありだが、一個の人間として正々堂々と社会に対峙してゆきたい。

その上で、自分のやりかたを貫いていきたいんだ。

そんなんで金がガバガバ儲かる方が不思議だろう?
金が儲かるってことは、よほど能力才能に恵まれているか、もっと金持ちの奴と仲良しか、貧乏人からまきあげるスキルがあるかだ。俺としては、最初に上げたのが一番好ましい。俺は自分自身で勝負したいのさ。現時点では、欠食児童みたいなことになっておりますが、かまうもんか。
俺の人生、俺の好きにやらせてもらうぜ。君に迷惑はかけないさ。

なぁに、俺だってこれから先、いつ何時ブレイクするかもしれしないぜ。
イスラム国にとっ捕まって、有名になったりするのは御免蒙るがな。
ここはいっちょ、諸葛孔明みたいに『臥龍』とか名乗ることにするか?
そいつも悪くないな。
まぁ、何時もの与太話はこれくらいにしておくよ。俺はこれから仕事に向かうのさ。ヘルメット必須の漢の世界さ。クソッ!

読者諸君、失礼する。スパークス改め臥龍か。読者層が変りそうだな。まぁいい、どっちにしても数は多くないのさ。

2015/02/04

Post #1400

Kathmandu,Nepal 
久々に友人と会って話しをすると、自分が平凡に暮らしているようで、まわりの人間からすると、ずいぶんと面白おかしく暮らしているのだなぁってことがわかる。

結構なことだ。自分の人生だ。出来る事なら面白い方がイイ。

美しいものを見て、心躍るような経験を重ね、すこしでも多くのものを理解し、受け入れていく。

人生はかく在りたいと思うけれど、実際の世の中は、目をそむけたくなるような出来事や、心苦しくなるような経験や、他者への無理解と拒絶に満ちている。
新聞やTV、ネットのニュースを見てみれば、おおかたはそんな事さ。だから最近は、新聞にもTVにもネットにもお腹いっぱい、食傷気味だ。

自分の身の周りに起こること、自分が体験したこと、それを基にして、地に足の着いたことを考えていたい。自分の身に起こったことが、自分自身の内面に対して、どんな意味を持つことなのか、じっくり見極めていきたいのさ。

退屈に見えるかもしれないな。

けれど、全ての出来事には、きっと意味がある。

そして、その意味を見出すのは自分自身だ。

そう考えることが出来るというのが、周囲からすると、どうやらもう既に面白おかしく生きているということのようだ。

平々凡々ではあるけれど、あまり非凡だとかえって命を損なうことになりかねないのがこの世の中だ。だから、末永く人生を楽しんでいくためには、そこそこ平凡がイイのかもしれないな。
まぁ、俺の周りの連中は、俺が非凡だとは思っちゃいないかもしれないけれど、ずいぶん変わった人間だとは思ってると思うけれど。まぁ、どうってことないさ。

読者諸君、失礼する。くだらないことばかり書いて、もう1400回だとさ。呆れるぜ。

2015/02/03

Post #1399

Kathmandu,Nepal
今日は疲れ果てている。
昨晩の仕事は激闘だった。何とかやっつけて家に辿り着き、キツいジンを一杯飲んで布団に入って、さてブログるかと思いつつパソコンを見ながら、そのままの姿勢で眠ってしまったのだ。
生憎とカミサンも、今朝早くから上海に出張している。
俺のお世話をしてくれるような奇特な人はいないのだ。
ここんところ、疲れが溜まっていたのか、泥のように眠りこんでしまったよ。
友人からの電話で目が覚めたほどだ。
今日は久々に友人とお茶でも飲んで他愛もない話で、友誼を深める予定をしていたのだ。
まずい。
幸いというべきか生憎というべきか、彼は体調を崩しているということで、予定はとりやめたんだが、肝心のパソコンでセキュリティーソフトのフルスキャンが始まってしまったのだ。
くそ!こいつが始まると、細い通路で目の前を、よぼよぼした爺さんが歩いているようなもどかしい気分になる。

だから、今日はこの写真でもしかと見ておくれ。
これ以上、回らない頭とCPUで続けるのは、ストレスフルなのさ。

光の速さで思考したいのさ。

読者諸君、失礼するぜ。アディオス!

2015/02/02

Post #1398

Nagoya
イスラム国に囚われていた後藤健二氏が、イスラム国の処刑執行人ジハーディ・ジョンによって殺されたという。
後藤氏の冥福をお祈りしたい。さぞや無念であったことだろう。
しかし、イスラム国の狂信者が日本人や欧米人を殺害すると大きな衝撃を世界に与えているようだが、現地の人々は毎日、虫けらの様に殺されている。
同じ命なのに、その人たちの死は、如何にそれが無惨なものであっても、平穏に暮らしている多くの人々に衝撃を与えるどころか、注意さえ払われていない。
その現実に苦虫を噛み潰したような嫌な気持ちになるのは、俺だけだろうか?

ニカブという女性の目以外を覆い隠す伝統衣装の着用を拒んだ女性が、首まで埋められ、聖書の時代のような石打の刑で殺される。もし、俺がそこに暮らしているのなら、俺の知っている限りの女性たちは、素敵な女性たちは、人々が投げる石くれで、美しい顔を血だらけの肉片に変え、惨殺されるのだ。

心に罪を犯したことのないものだけが、彼女に石を投げるがいい。イエス様はそう仰った。
しかし、人々は銃口にさらされ、女性に石を投げることを強いられる。目を背ける事すら許されていない。
宗教の異なる男は、それだけで虫けらの様に殺され、女は性奴隷にされ、人間性を踏みにじられている。
子供たちは、近代的な教育を受けることは許されず、戦士の子弟だけが、学校で人の殺し方を学んでいるという。
煙草、酒、音楽、細身のズボン、髭のないあご、全てが処罰の対象で、俺はそこではただ息をしているだけで、殺されるだけの罪を得ることになるだろう。

この7か月で、1900人もの無辜の市民がイスラム国の名のもとに殺戮されたという。神の名のもとに殺されたのだという。
まるで、ケンシロウ不在の北斗の拳の世界だ。世界にはジャギやウイグル獄長、サウザーやラオウのような無慈悲な連中ばかりがはびこっている。

しかも、それは決してフィクションの世界じゃない。俺たちの生きるこの世界の出来事だ。

俺は悲しみと憤りを感じている。
俺たちの世界の出来事ならば、俺たち自身の手でどうにかすることが出来るはずなのに、俺たちがしていることと言ったら、互いの憎しみと恐怖を増幅させるような事だけだ。
だからといって、うな垂れて何もかも自粛するのは、テロに屈したような気がするので御免蒙る。
だからせめて、俺は寛大でユーモラスな人間でありたいと思う。

読者諸君、失礼する。

2015/02/01

Post #1397

大須観音、名古屋
僕の中には、ケダモノが棲んでいます。

奴は滅多に姿をさらさないので、

どんな姿かわかりませんが、

群れるのをとことん嫌う

自由気ままな肉食獣に違いない。

どこまで僕で、どこからが奴かは

僕自身でもわかりませんが、

気に入らない奴に意地を張ったり、

素敵な女性に出会った時には、

ケダモノこそが自分なのだと錯覚します。

群れるのが嫌いなくせに、そのケダモノ、

君にその存在を知らせてほしいと、切々と私に訴えかけます。

奴は、自分と同じように人のなかに潜むケダモノを探し求めているのです。

もし君が、そのケダモノに気が付いてくれるなら、

奴は君によく懐くでしょう。

ゴロゴロと喉を鳴らして、君にじゃれつき、

君の身体を優しく甘く噛むことでしょう。

甘噛んだ心算でも、相手にとっては致命傷となることに、

微塵も気が付いていないくせに。

もし君のなかに、そんなケダモノが潜んでいるなら、

僕らはもう、孤独じゃない。

読者諸君、失礼する。今日から2月、如月。如月と言えば如月ハニーだな・・・。