2015/03/31

Post #1455

Pashupatinath,Nepal
世間では桜が満開だ。
俺も気分がイイのさ。近所の神社の桜の枝に覆われた神庭を歩くと、鳥が桜の花をついばみ、鳴き交わしている。

貴様と俺とは同期の桜

同じ特攻隊の花と散る

ってのがあったな。子供のころ、年寄りが酒を飲んだりすると歌っていた。
桜は、素敵に美しい花なのに、こんなイメージが手垢のようについていて、それを思うと桜に申し訳ない気分でいっぱいだ。

桜の花から花へと飛ぶ鳥のように、生きたいと、春の盛りをただ楽しむように生きたいと思ったんだ。下らないことなんかしばし忘れてね。
実際には、車のサイドミラーのモーターが壊れ45,000円、パソコンのHD破損でパソコン買い替えその他で100,000円と、何かを償うように出費が続いているがね。


読者諸君、失礼する。
何はともあれ、明日から四月だ。各々春を楽しめ!

2015/03/30

Post #1454

Pashupatinath,Nepal
昨日の晩、夜中の三時までかかって今期の帳簿だけ復旧した。
復旧といっても、残された税務書類や貸借対照表、損益計算書をもとに、レシートや通帳、おぼろげな記憶を頼りに、手入力していったということだ。

これはなかなかしんどい作業だったぜ。

人生はいつだって、一筋縄じゃいかない。でも、どうせ苦労するなら、もっと世の中のためになる苦労がしたいよ。それとも、気になる女の子の幸せにつながるような苦労がしてみたいよ。

さて、今朝の新聞報道によれば、我らが安倍内閣が、国民の不安をものともせず遮二無二突き進む自衛隊の活動方針の変更には、アメリカからのオーダーがあったということが発覚した。
具体的には、ジョセフ・ナイとかShow The FlagとかBoots On The Groundでお馴染みのアーミテージなんかが纏めたレポートに沿っているようだ。

常々、アメリカを中心とする連合国によって押し付けられた憲法だからよろしくないと仰っている自民党ですが、その現行憲法との整合性を無視してまでやりたいことというのが、アメリカの戦争のお手伝いとは、面妖なことであるな。

そこに何の理念も信念もないことがまるわかりだ。
アメリカ様の言うとおりに、正しくなくても論理的でなくてもひたすら推し進めるというわけだ。

俺にははっきりわかる。
奴ら自民党のくそ野郎どもは、国民の愛国心をくすぐるようなことを言いながら、国民の命を(自衛隊員だって、国民だからね)アメリカに売り渡す卑劣漢だってことがね。

アメリカ様の言う通り、TPPで拙速な市場開放し、日本の産業をアメリカさんに売り渡すのも自民党だ。

規制緩和でアメリカ企業の参入を容易にし、日本人の蓄えた金融資産や医療制度を、アメリカ様に好き放題切り取らせようとしているのも自民党だ。

そうとしか俺には見えないぜ。

そもそも、自民党ってのは、戦後この日本で、共産主義政党が政権を取って親ソ政権が出来るようなことがないように、CIAなんかを通じて資金や援助がじゃぶじゃぶ行われた政党だ。知っていたかい?日本の右翼も、同じようにアメリカから資金援助を受けていたので、中国や韓国の批判はしても、かつて日本を占領していたアメリカ様の批判はしないんだ。知ってたかい?
つまり、我が国の国民が支持してる自民党という政党は、アフガニスタンのカルザイ政権やイラクのマリキ政権のように、アメリカの傀儡として作り出された政党だってことだ。
日本人の命よりも、憲法よりも、アメリカ様の言うとおりに世界のどこへでも出かけて、貧乏だけどアメリカに従いたくないって奴らをぶっ殺す手伝いをすることのほうが大事だってことだ。
彼らがしきりに唱える国益ってのは、(卑しい言葉だな)アメリカの利益になるかどうかってことを言ってるわけで、日本の国民には関わりのない、もしくは非常に関わりの少ないことだってこった。

君たちに聞きたいよ。

アメリカの価値観ってのは、絶対の正義なのか?
マクドナルドとコカ・コーラ、そして人種差別を抱えた民主主義。
アメリカだって、様々な不正義と矛盾を抱えた国なんだぜ?

いずれにせよ、俺たちはスマホでゲームをやったり、くだらないバラエティー番組を見てるよりも、自分の頭で考えて、自分の意見を持ったほうがイイ!
まずはそこからさ。未来は僕らの手の中なんだぜ。たった一度の人生だ、誰かの意見に流され続けていちゃ、居心地いいかもしれないけれど、ほんとに生きてることにはなりゃしないぜ。

読者諸君、失礼する。

2015/03/29

Post #1453

Boudhanath,Nepal
パソコンは、完全に死んでいた。
ラーメンを食べるために、パソコンを動かしたらずるりと滑り落ち、そのままHDが破損してしまったのだ。
長年の仕事の資料はすべて闇に消えてしまった。
幸いにもモノクロの写真とかはバックアップがとってあったので、事なきを得たが、仕事関係の写真はいうに及ばず、資料も帳簿も消え去ってしまった。
たまらないぜ。

今朝まで仕事をして、そのまま一睡もできずにさっそく新しいパソコンを買ってきた。
一日かけて、いろいろと復旧しているんだが、これが大仕事だ。
業者を呼んで、HDからデータをサルベージできないか診てもらったんだが、10万円くらいはかかるし、それでも絶対にできる保証はないといわれ諦めたよ。

人生はいつもこんなんだ。
ついてないぜ。

パソコンを買って電車で帰ってきたら、駅前で共産党の志位和夫委員長が演説していた。
俺は雨の中、濡れるのもかまわず、聞いていたんだ。

読者諸君、失礼する。俺の人生は、どうにもいつも逆風で雨降りだ。くそ!

2015/03/28

Post #1452

Boudhanath,Nepal
パソコンの具合が致命的に悪いので、本日は写真のみ!
読者諸君、失礼する!

2015/03/27

Post #1451

Kathmandu,Nepal
我が国は、憲法によって『戦力はこれを保持しない』とされているのに、政府の一番お偉いさん自身が、わが軍とか抜かしている。

それで、野党も激しく追及しているような素振りもない。自民党内からも批判の声もない。
正面から正々堂々と議論して、皆の同意を得ることが難しいのがわかっているものだから、外堀を埋めるように、田圃のあぜを一寸ずつ動かして、土地を掠め取るように、奴らは俺たちが気が付かないうちに、この国の形を内側から蚕食するんだ。

そして、既成事実が積み重なり、誰もかれも何もおかしいと思わなくなったころ、現状に擦り合わせ、時代に即したものにすると言って、憲法も変えてしまうことだろう。

自分たちこそが、国民の代表であり、自分たちの考えこそが、大多数の国民の考えであるかのように振る舞って、この国の骨格をゆがめてしまうのだ。

俺は、幸い戦争に行かねばならんような年齢ではとっくになくなったけれど、戦争がそんなにいいものかね?

平穏に暮らしていた人々を、テロリストだゲリラだとラベルを貼って、虫けらの様に殺すのは、そんなにいいものかね?

何の関係もない人々が、家を焼かれ、目の前で家族を殺され、裸足で逃げて行かねばならなくなることが、そんなにいいことなのかね?

俺自身は、アメリカさんおよびその他大勢の側に立つよりも、戦争によって、家を焼かれ、家族を殺され、悲嘆にくれ、憎悪に燃え立つしかないような無辜の人々の側に立つ人間でいたいし、俺の国にも、黙ってそんな人々に手を差し伸べる国であってほしい。

第一、勝ち馬に乗るなんて、みっともなくないか?虎の威を駆る狐って風情だぜ。スネ夫かよ?

読者諸君、失礼する。俺は自衛隊を軍隊と言い間違えるくらいなら、国際救助隊とかって言い間違えたいぜ。懐かしのサンダーバードみたいで恰好イイぜ。

2015/03/26

Post #1450

Boudhnath,Nepal
今日は小忙しいので、写真のみお送りしよう。まぁ、毎日忙しいんだけどな。
忙しく動き回っているうちに、ふと気が付くとこんなおっさんになっちまった。悲しいもんだぜ。
なぁに、人間忙しいうちが華なのだ。誰からも期待されなくなったら、寂しいものだぜ。

読者諸君、失礼する。

2015/03/25

Post #1449

Paris
昨日の朝は、なんだか頭が痛くって、たまらなかったんだ。
だから仕事を終えて家に帰ってから、ロキソニンを飲んで眠ったんだ。
おかげさんでなんとか頭痛は治まったんだけど、いつもコメントを寄せてくれる“ドクターころ”に相談したら、慢性疲労症候群だって言われちゃいましてね。あと、大脳酷使しすぎだそうだ。
いつも答えの出ないことを、頭の中でグルグル考え続けているから頭が痛くなるのも当然だってことだろうな。
仕方ないぜ、いろんなことを考えていたいんだ。なにしろ、人生は短いけど、何も考えていなけりゃ、退屈で仕方ないんだ。光の速さで思考していたいんだ。

世界のこと、写真のこと、仕事のこと、人生のこと、女の子のこと。そしてなにより、君のことをね。

俺が先日暇つぶしにやってみたネットの性格診断では、俺は『ストイックな修行僧』並みに、孤独に対して耐性があることになっていた。ボッチ耐性MAXっていうことだ。

意外な結果だなぁ・・・。

俺は自分では、自分のことをずいぶん寂しがりだと思ってるんだがな。

それによると、価値観が違う人間と話すよりも、少数の価値観を共有できる友人さえあればいいというタイプなんだそうな。質素で、充実した生活を送るのが好きなんだそうだ。
まぁ、確かにそれは当たってはいるけどな。実際に、俺には友達と呼べる奴は少ないんだ。
きっと俺がずいぶんみょうちきりんな奴に見えてるのか、怖い顔をした性格破綻者だとたいていの奴は思っているのさ。残念なことだ。もっとも、金の話しかできないようなつまらない奴と話していても、時間の無駄だとは思うけどね。

けど、同じ価値観の人間だけで寄り添っていては、世界は狭くなってしまうし、心も狭くなってしまう。それは大きな問題だ。

価値観なんてのは、人それぞれだろう?
その違いを認め、愉しみ、受け入れることが出来るニンゲンでありたいよ。
そもそも価値観の違いを認め合わないところから、世界はぐちゃぐちゃになってるんだからな。

読者諸君、失礼する。俺はまいにち寂しく暮らしているのさ。まるで、月の裏側から君たちにメッセージをせっせと送ってるように感じているよ。

2015/03/24

Post #1448

台湾、台北、剥皮寮
なんとなく、今日は写真だけお送りしよう。
いつも長々と文章を読まされると、うんざりするだろう?
書いてるほうにもいろいろとあるものさ。

よく見ると、右の方に現像ムラがあるじゃないか・・・。
まぁ、イイか。それもまた乙なもんだて。

読者諸君、失礼いたす。

2015/03/23

Post #1447

Paris
夜中にプリントしようとして、ふとフィルムの埃を吹き飛ばすために使っているエアコンプレッサーが、けっこうな振動と音を発生させることに気が付いた。
昼間なら全然気にはならないだろうが、しんと静まり返った深夜では、安普請のアパートでは、ちと迷惑というものだ。

プリントはまたの機会に譲ることにして、本棚から本を抜き、読むことにした。

中上健次の『千年の愉楽』だ。
今まで何度も読んだ。しかし、何度でも読み返してしまう。
紀州熊野の被差別部落に生まれた、高貴にして澱んだ血脈を持つ男たち。
その血故に、淫蕩を好み、世間並みに生きることが出来ず、生きる事そのものが苦痛だというように生き急ぎ、生命の絶頂で、あるものは些細なことで刺殺され、あるものは自ら首を吊り、ことごとく命を失う。
その物語の中心には、その男たちの全てを母の胎内から取り出した老いた産婆がいる。この年老いた産婆の回想を軸に、自在に話は時空を駆け巡るのだ。
まばゆい光の照り付ける熊野が舞台でありながら、どこか妖しい夜の気配が漂っている。

日本人が到達した文学の、一つの頂点だと俺は思っているのさ。

明け方まで布団の中で読みすすめ、8割がた読み進めたところで、眠りに落ちてしまった。
夜は開けようとする頃だった。

目を覚まし、腹が減ったので例によってスパゲティーでも作り、食後にコーヒーをドリップして淹れる。十分に休養をとった目で見てみると、家のなかは埃まるけだ。
掃除をする必要があるな。
ここんところサボっている帳簿付も、そろそろやっておかねば月末に面倒なことになるだろう。
自分の人肌のぬくもりが残っている寝ぐさい布団も、カバーを洗い、風を通してやらなけりゃな。

太陽に照らされていると、こうも真っ当な考えが浮かぶものかと、自分でも驚くよ。
やはり人間は、太陽の下で生きるようにできているんだって、納得するよ。

それはそうと、小説を読む合間に、このブログに寄せられた古いコメントを読み返してみた。
何年もコンスタントにコメントを寄せてくれる、殆んど同志のような人々がいる一方で、匿名でコメントを寄せてくれた人もいる。
何度かコメントをよせてくれた後、ぷっつりと便りの絶えてしまった人も大勢いる。
いったいその人たちは、どうしていることだろう。
今も時折覗いてくれているのだろうか?
元気に暮らしているのだろうか?
人と人の縁は、クモの糸ほどにか細く、互いに心して繋いでいこうとしなければ、容易く切れてしまうものだと思い、寂しいような心細いような思いを味わったよ。
みんな、よろしくやっているのだろうか?

読者諸君、失礼する。さてと、夜の仕事までまだ間がある。掃除をしたり、銀行に行ったり、クリーニング屋に冬物の服でも持っていくとするかな。

2015/03/22

Post #1446

夜働き続けることは、精神に悪影響を及ぼす。
芍薬。もう少し暖かくなれば、今年も芍薬を愉しめる。
他人のことは知らないが、俺の心の中には、なんだかよくわからんが禍々しいものが棲んでいるような気がする。
その禍々しいものが、深夜に仕事が終り、ひとり始発を待っている間に、心の奥底でうごめき、日常意識を押しのけて這い出して来る。

世界は深い、昼が考えたよりも深いのだ。

多くの人々が、疲れ果て、座席で眠り込んでいる電車の中で、俺は一人、燃えるような眼をして自分の中を見つめているんだ。

今朝は、少年の頃の自分が、癌で死んだ母親を本質的には死のほうに追いやっていたことを想いだした。
あのとき、弟は、母親を俺が殺したのだと言って、泣き叫んだ。
俺は、何も言い返すことが出来ず、暗がりのなかで立ちすくんでいた。
以来、生きるとはどういうことか、死とは何なのかという、答えのない問いに憑りつかれている。

あのとき、俺は、自分が母親を焼き殺して生まれた火の神になったようにも感じた。

そして、母が存命している頃から他所の女の匂いをさせていた父を、自らの生き方に自信満々であるがゆえに、他人をどこか見下したような父を、長年憎み、この手で殺したいと願っていたことを想いだした。
そしてまた、壮年に到った自分自身が、その父親と本質的には何ら変わりのないモノだと気が付き、自分がもっとも許し難いようにも思った。

そんなどこか禍々しい自分自身が、この瞬間にも胸を引き裂いて、もう一人の自分として表れてきそうな気すらし、それが夜から朝に変る不安定な時間のなせる気の迷いに過ぎないのだと自らに言い聞かせる。

その一方で、その罪を償うために、苛烈な人生を自らに与えてほしい、常人では担いきれないような使命を与えてほしいと、しらじら明けの空を仰ぎ、神とも仏ともつかぬ何かに祈る。虫がイイのかもしれないが、そうして初めて、自分が自分として生きられるようにも感じる。

昇る朝日を全身に浴びながら、駅から家までの道を歩む。そして、オレンジ色に輝く太陽を見つめる。目は当然盲いたようになり、太陽のほかは何も見えなくなる。
腹の底から、禍々しい自分の影を絞り出すようにして息を吐き、新鮮な空気を胸いっぱいに吸う。
太陽が放つ光の粒子が、息とともに身体のうちに入ってくるように感じる。オレンジ色に輝く粒子が、自分の細胞の隅々にまで駆け巡り、闇から生まれた思いを焼き尽くしてくれる。
俺は、こうして、禍々しい自分の想いを振り払う。いつものことだ。

かみさんが荷物をまとめて出ていった。

出張で上海に出かけたのだが、出かける際にくだらない口論になり、俺は玄関の扉を思いっきり閉めたのだった。もし手をかけていたのなら、指がちぎれるほどの勢いだった。
そうしてから、再び眠りにつく。目が覚めた時には世界は夕闇の中に沈んでいた。

そして、今夜は仕事も休みだ。誰も俺のことをかまってはくれないだろう。かまわないさ。

今日よりは また寂しくも 一人旅

読者諸君、失礼する。これからひとりまた飯を食い、夜通しプリントでもして暮らそう。母の子宮の中のような、暗く小さな暗室で、無意識の向こう側を見てみたいのさ。

2015/03/21

Post #1445

Luxembourg Garden,Paris
春分の日だ。
春らしい雰囲気の写真をお送りしよう。
パリのリュクサンブール公園だ。季節は春。マロニエが咲き誇っていた。
俺は、うららかなパリの一日を想い出すのさ。スノッブな奴なのさ。

かつて、遥かな昔。まだこのクニがヤマトと呼ばれていた昔、春分の日には、女たちは日の出から太陽を目指して東へ歩き、正午にいたって陽が中天に差し掛かると、踵を返して、太陽の沈む西に向けて歩いて一日を送る習いだったという。
折口信夫の民俗学の本で読んだように記憶しているが、ずいぶん前のことでもあるし、またそれを探して蔵書の山に分け入っていくのも、難儀なことなので、そんな雅でおおらかな風習が、この国にはかつてあったそうだくらいの話でとどめておいてほしい。
政治家や右翼の人々がいう我が国の固有の文化など、折口信夫が、我々に残された僅かな文献から描き出して見せた、古代の習俗文化からすれば、実に最近の事ばかりであり、政治家のセンセー方の不勉強なことがわかるというものだ。
いずれにせよ、今日を境にいよいよ本格的に春がやってくるのだ。

朝、近所の小川から物音がするので覗き込むと、黒々とした鯉が何匹も泳いでいる。
メスとおぼしき一匹の後を、五匹ほどのオスがついて泳ぎ、求愛しているのだ。
魚すらも恋する季節か!

その一方で、ひとり夜明けの道を歩みながら、俺は自分を持て余し、ふさぎ込んでいる。
花は去年と同じでも、俺は去年より一つ年を取り、死に近づいている。俺に残された時間は確実に減っているのだ。俺は自分がまだ生きていることを確かめるように、息を深く吸い、花の香りを味わう。

俺は秘かに、何らかの使命を帯びてこの世に生まれたはずなのに、その使命をすっかり忘れて、身過ぎ世過ぎのちんけな仕事と、ささやかな道楽、うたかたの恋に幾年月費やしたことだろうかと、自問自答しながら一歩、また一歩と家路をたどるのさ。

しかし、そもそも俺にそんな使命があったものだろうか?

もちろん、そんなものはありはしないだろう。
生まれちまったから、今日も生きているというのが、俺たちの人生の究極の在り様だ。

けれど、俺はこんな年になっちまっても、まだ何か俺には使命があるような気がしてならないんだ。
ただ、堅実安楽に暮らし、小金を貯めて、年老いて死ぬために生まれてきたわけでもあるまいし!
けれど、春が来るごとに、一日一日を過ごすごとに、俺に残された時間は減っているのだと思うと、思わず叫び出したくなってくる。こうしちゃいられないと、力強く駆け出したくなってくる。
そんなわけで、俺は今日も、自分の身の内に滾る力と方向性のない意志を持て余して、内心では悶々としているのさ。

読者諸君、失礼する。俺は赤々とした太い火柱が立つように生きていたいんだ。一瞬だって、手を抜いちゃいられないぜ。

2015/03/20

Post #1444

Paris
先日、蕾だった木蓮が、昨日の雨が上がった途端に、満開だった。
毎日春を実感する。歩く度に、花の薫りに誘われて、心浮き立つような気分が湧いてくるのさ。

しかし、陽気がよくなると、おかしな奴がたくさん出てくるようになる。
毎日、新聞を開くたびに、奇妙な出来事ばかりなのに驚き呆れる。
この国のことだ。
自分の国の国民が、海外でテロにあって亡くなったというのに、『危険なところへ行くやつが悪い』というような発言を垂れ流す阿呆な大臣。
海外の邦人を救出するために、自衛隊の運用法規を変えようと躍起になっている政党の人間の言葉とは、さらさら思えないね。
きっと、そんなのは憲法を骨抜きにして、アメ公の戦争の片棒担ぎをするための口実だけで、実際に海外で国民が危機に巻き込まれたとしても、そんなところへ行くやつが悪い、自己責任だとおっしゃって、見捨てることになるに相違あるまい。
後藤さんの時も、結局見捨てたようなもんだったしな。

日本の政治家は、どんな阿呆なことを思い付きで抜かしても、いやいやいや、言葉が足らなかったんだ、発言を撤回するよ、陳謝します、ご不快に思われたなら申し訳ない、といえば、誰からも追及されない、ぬるい商売だ。
普通の社会では、言ったからには自分の言葉に責任を持たなくちゃなるめぇが、信義ある言葉を武器にしているはずの政治家の世界では、何を言っても、無かったことにですんじまうんだから、驚くよりもうんざりするぜ。
何かを言うということは、自分の立ち位置を明らかにすることだ。そして、何かを言えば、それに対する責任が生じる。つまり、自分の背後に、ここから後ろには退けないという線を引くことだ。仕事だろうが、女の子相手の睦言だろうが同じことさ。ましてや、国のまつりごとを担う人間の言葉が、そうやすやすと無かったことに出来るはずがないだろ?
知ってるかい?言葉には言霊が宿っているんだぜ。

自民党と安全保障法制の改革に合意した、平和の党・公明党。
奴等は、いつだって創価学会の信者とその他大勢の国民に、軽減税率だの平和の党だの、自民党のブレーキ役だのと、やり抜く気概もないようなきれいごとを並べて、自分たちをよく見せておきながら、いつだってそんなのポーズだけで、必死に政権にしがみついている薄みっともないドぐされ集団だが、今回もなんだかんだ言って、自民党に丸め込まれやがった。予定通りだ。
とりあえず、議論したっていう自民党のアリバイ作りのために政権にいるんだろうよ。
とっくに看板倒れしている理念を掲げながら、とりあえずごねてみるだけみたいなのはとっとと止めて、今すぐ連立解消して、下野したらどうなんだい?

1票の格差が、2倍以上でも憲法違反じゃないという判決を下した東京高等裁判所。
ということは、都市部の人間の政治的な権利は、ド田舎の人間の半分以下ってことか。
田舎の人間の政治的な価値は、都市部に住む人間の倍もあるってことだ。
都市部から吸い上げた税金を、田舎にじゃぶじゃぶつぎ込むのは、田舎のじんさん、ばあさんの人間の値打ちが、大都市で生きている人間の値打ちより、倍もあるからだってことだよ!

これは、民主主義の根幹にかかわることなんだが、それがこんな有様でいいってんだから、民主国家が聞いてあきれるぜ。

司法も、立法も、行政もすべて腐ってるぜ。
民主主義と三権分立の名のもとに、こんな無法がまかり通る世の中だ。
もしくは、世の中のことなんて、自分にはカンケーないし、関係があっても何も変わらないって、考えることを放棄してしまう奴ばかりになっちまっても、テロリズムという直接行動でしか、この世の中は変わらないって思い込馬鹿野郎がごまんと出てきても、ちっとも驚くような事じゃないのさ。

読者諸君、失礼する。俺はバカバカしくてやってられないぜ。もう眠らせてもらうとするぜ。腹が立って、眠くもならないぜ。

2015/03/19

Post #1443

Paris
雨が降っている。
けれど、俺は傘をさすのが嫌いだ。少々の雨くらいでは、傘なんか必要ないのさ。傘を持ってないわけじゃない。カバンの中には、折り畳み傘が入っちゃいるんだけど、手が塞がるのが嫌いなんだ。万一、曲がり角なんかで暴漢に襲われたとき、手が塞がってちゃ、満足に応戦することも出来やしないからな。
だから、『春雨じゃ、濡れてまいろう』なんて独りうそぶきながら、濡れたままで歩いて家に帰るのさ。
けど、今朝問題だったのはそこじゃない。

痛風だ。

昨日から、俺の左足の親指の付け根に、毎度おなじみの痛風発作が襲ってきているのさ。
去年の12月から、ずっと夜勤を続けて来たからな。そろそろ疲労が蓄積されてきてるだろうから、痛風の発作に見舞われたって、全然不思議じゃないだろう。
まったく、金はたまらないのに、疲労はたまるというのが、人生の味わい深いところだな。面白いぜ。

いやいや、誤解されるといけないんであえて言うけど、別に贅沢なもん食ってるわけじゃないんだぜ。これでも毎日質素な食生活で、下手すりゃ一日一食って日も珍しくない。今年になって4キロも痩せたくらいだ。しかも、素面じゃやってられないようなやりきれない時だって、酒も飲まずにせっせと働いてるのさ。
こう見えて、俺の生活は至極真面目なもんなのさ。
そもそも俺は、遺伝的に尿酸を排出する機能が弱いらしいんだ。
で、疲れが溜まってバランスが崩れると、発作が出てくるって寸法だ。
まったく、我ながらよくできてやがるぜ。

仕事をしてる時は、まだ薬も効いてるし、気も張ってるからさほど気にはならないんだけど、やはり帰り道は結構くるね。俺はオイディプス王のように、踏ん張れない足を引きずりながら歩くんだ。しかも雨の中。

けど、最近俺は思うんだ。
俺のような破格のパワーを持った男なら、その程度のハンデがないと、世の中の男性諸君に対して、不公平なんじゃないのかってね。

そう思えば、この鈍い痛みも、まんざらではないってもんだ。
たまにはこいつが疼いてこないと、物足りないくらいの境地に達してきたぜ。

読者諸君、失礼する。俺のことは心配無用だ。みんなもっと自分のことを心配した方がイイ。俺はこの痛みを、ポジティブに面白がってるのさ。もっとも、女性に心配されるのだけは、まんざらでもない俺なんだけどな。

2015/03/18

Post #1442

Praha,Czech
道端の木蓮の蕾がふくらんできた。
もう少しで、俺の好きな木蓮の花が咲くだろう。
白い木蓮は、ヴェルヴェットのような花びらが、清楚な女性の姿のようで、大好きだ。
紫色の木蓮も、艶やかでいながらも、少し人見知りな女性のような可愛らしさがある。
俺は、桜のこれでもっかっていう美しさより、木蓮の大振りだけれど、それでいてひっそりとしたたたずまいが好きなんだ。

やっと、春が来る。

暖かな日差しの中、昨日はアパートの階段の踊り場で、煙草を吹かしながら口笛を吹いていた。
心地いいのさ。
実は俺、口笛の名手なんだ。息を吐いても、息を吸っても、自在に音が出せる。そういえば、口笛を吹いて歩いてる奴なんて、俺以外に見たことがないな。たぶん、みんな俺のように自由自在に吹くことが出来ないんだろう。人生の楽しみ、半減だ。
いつだって、心の中に流れる旋律を、俺は自分の体一つで奏でることが出来るのさ。
そうして手を叩けば、リズムが生まれるんだ。
俺の頭の中には、いつだってゴキゲンなロックが流れているんだぜ。
そいつが俺を躍らせるんだ。
先日出たばかりのノエル・ギャラガーのアルバムの中から、お気に入りの曲を吹いていたのさ。
いつだって、渦巻く思いは、大好きなロックの形を借りて、俺のなかから吹き上がるのさ。
自然と腰も動いちゃうってものさ。

すると、どこからか『こんにちは』って小さな声がする。

俺は周囲を見渡した。
俺の目は近視で乱視で老眼+1だそうだが、心の目が肉体の欠陥を補って余りあるのさ。
声の主は、すぐに見つかった。
俺のアパートの向かいのアパート、一本道を挟んだ向う側の二階の部屋。
その部屋の窓に、小学三年生くらいの小さな女の子が、俺をじっと見ているんだ。
俺も『こんにちは』って手を振ってやったら、彼女も小さく手を振った。
嬉しそうに笑っているのがわかる。
しばしばおっかなそうなおかあちゃんに、叱られている女の子だ。何度か見たことがあるぜ。

俺はいつだって、子供たちの興味の的なのさ。
どうやら俺のようなロックでファンキーな大人は、そうそういないみたいだからな。
ひょっとしたら、子供たちには、大人には見えない何かが、俺の身体から陽炎のように立ち上ってるのが見えるのかもしれないぜ。

彼女は、イイ年をしたおじさんが、口笛を吹いて、独りで愉しそうにしているのが、よほど不思議なんだろう。
けど、何の不思議もないんだぜ。
心の中でロックが鳴っているときには、俺はいつだってゴキゲンなのさ。
俺には、俺以外のおっさんたちが、ちっともゴキゲンそうに見えなくて、いつも疲れた顔をしていることの方が、よほど不思議さ。
せっかくの人生がしおれてるぜ。
俺はそんな生き方は御免蒙る。
いつだって、サイコーな俺でいたいんだ。
第一、そんなふうにしおれていちゃ、君に申し訳がないぜ。恥ずかしいことさ。

俺はにっこりと笑ってから、口笛に合わせて手を叩き、リズムをとってみた。
ちょっと子供には複雑なリズムだ。ついて来れるかな?

すると彼女も、見よう見まねで手を叩く。

楽しそうだ。いいぞ。

俺の中からは、クラッシュやキンクスとか、懐かしいブリティッシュ・ロックが次々溢れてくる。俺はそのメロディーを口笛で奏で、手を打ち鳴らし、ステップを踏み、リズムを表現する。
春の風にのって、俺の口笛は通りをどこまでも流れていく。
女の子は、つられるように手を叩く。

OK、心の中にグルーヴがあれば、水に入っても濡れることもない。これはP-FUNKの総帥、ジョージ・クリントンの名言だ。
小さな君に、俺のグルーブを分けてあげよう。これはどんなに分け与えても、一向に減らないものなのさ。物理法則を超越してるんだ。
君がこれから生きていくあいだ、くじけそうになったって、心の中にグルーヴさえあれば、心が折れる事なんてないはずだ。
さぁ、その小さな手を叩け!

俺は今朝も、その子にあったぜ。学校に出かけるところだったんだろう。俺は雪駄を履いて、不燃ごみを捨てに行った帰り。
彼女は『おはよう』と手を振っていた。俺も手を振って『おはよう!』って挨拶したのさ。

読者諸君、失礼する。今日は15時から打合せがあるんだ。それまでにしっかりと眠って、連日の夜勤で摩耗した肉体を、しっかり休めなけりゃならないんだ。けれど、どれだけ疲れ果てていたって、胸のなかにはグルーヴがとぐろを巻いているのさ。君にも分け与えてあげたいよ。

2015/03/17

Post #1441

Budapest,Hungary
ロシアからのスパム・アタックが止まらない。
おかげさんで、PVはうなぎのぼりだ。ちっとも嬉しくはないがね。

夜勤明けの帰り道、鶯の鳴く声を聴き、とうとう春が来たかと実感するわけだが、家に帰って新聞を見ると、どんよりとした気分にさせられた。

一年前のロシアによるクリミア併合の際、ロシアの大統領プーチンは、最悪の場合核兵器の使用も準備していたと、TVのインタヴューでぬけぬけと答えやがった。

俺はプーチンは阿呆だと確信したよ。

おっと、またこんなことを書くとロシアからのスパムが激増してしまうことだろう。最悪の場合、俺もプーチンの刺客にぶっ殺されちまうかもしれん。なに、そうなったからといって、たいした問題じゃない。痴漢が一人、地球から減るだけだ。どうということもないさ。
それよりも、自分が思ったことを、堂々と言えない、或いは言わないことの方が、俺には重大な問題だ。

俺が少年の頃、世界は米ソ二大国による冷戦の真っただ中だった。
いつ阿呆な大統領なり狂った書記長なりが、とち狂って核ミサイルのボタンを押すのか、俺たちは黒ひげ危機一髪のような気分で、戦々恐々として暮らしていたのさ。
俺はガキの頃、俺が30歳になるまでに、世界は核戦争で滅びちまうもんだと信じていた。
今思えば、そんなこと考えずに、もっと将来のことを考えてお勉強しておけば、もっと割のイイ、窮屈な仕事に就くことが出来ただろう。もっとも、俺の性格じゃ、長続きしたとも思えないけれどね。
ペレストロイカに、ベルリンの壁崩壊、そしてそれに続くソビエト連邦の崩壊によって、世界は全面核戦争の危機から救われたかと思ったものさ。

それが、今朝のニュースで見たプーチンの発言で、世界はまた狂ったような我慢比べに突入したように感じたよ。

だいたい、クリミアでNATOや米軍相手に核兵器なんか使ったとしたら、クリミアに人間なんか住めなくなるんだぜ。ちょっと考えればどれほどリスクが高いかわかるだろう?
そんなことも分からず、核兵器の使用を選択肢に入れるなんて、正気の沙汰とは思えないね。

まったく、この世は悪無限だぜ。
はっきり言っておくけど、俺はどんな戦争にも反対だ。
戦争というのは、他国の軍隊を使って、自国の国民を殺させる行為なんだ。
いったいぜんたい、戦争が俺たちに少しでも良いものをもたらすっていうのかい?
答は、ノーだ。ナッシングだ。

やくざ者がトカレフや日本刀をひけらかして、粋がるような真似はやめてほしいぜ。
そして、ロシアとの間に領土問題を抱えているからと、弱腰で非難声明の一つも出せないわが国の政府の腰抜けぶりにも、うんざりだ。
何が積極的平和主義だ。笑わせるぜ。
この地球上で唯一核攻撃を受けた事のあるニッポンが、声を大にして非難しないでどうするのさ?
目先の利益ばっかりで、理念も理想もありゃしない、毎度おなじみ事なかれ主義国家日本の事なかれ主義外交だ!
ここぞという時に、言うべきことを毅然として言わないから、世界中から舐められてしまうのさ。

恥ずかしいぜ。

恥ずかしいついでにもう一つ。
何がどうまかり間違って自民党の国会議員なんかになっちまった三原じゅん子が、太平洋戦争中のスローガンとして使われていた『八紘一宇』なんて言葉を、国会で持ち出しやがった。
今朝の新聞から引用しよう。
三原氏は衆院予算委員会の質問で『ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります』と述べたという。
この八紘一宇なんて言葉、いまどきの人は誰も知るまいて。
手元の新明解国語辞典を引いてみよう。それにはこうある。
『全世界は本来一つであるということ。』それは結構だ。現実には程遠いがな。そして以下こう続く。
『第二次世界大戦中の侵略を合理化するためのスローガンとして用いられた。』もちろん、八紘一宇の中心には、天皇陛下ということになっておったわけだ。いまどきこんな言葉を引っ張り出されて、陛下もさぞや御心を痛めておいでだと、俺はおいたわしく思うのであるよ。

まったくもって、戦後70年を迎えて、なにかと近隣諸国とギスギスしている折に、あえて持ち出すような言葉じゃないよな・・・。三原じゅん子、こいつも阿呆だ。しかも、その後こう続けたという。

『八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそが世界中に提案していくべきだと思う。』と語ったそうな。

これは、何やら結構なことを言っているように見受けられるが、よく考えてみると、何も言っていないに等しい。世界が愛し合えないのは、人類の歩んできた長い道のりのしがらみがこんがらがっているからだし、助け合えるような経済や税の仕組みなんてのが、ほいほいと提案できるようなら、誰も苦労しないし、ダボス会議もOECDも必要ないってこった。
正直言って、小学生の作文レベルの発言内容だ。
で、何か言っているようで何も言っていない部分をバッサリと切り捨てると、単に先の戦争中のスローガン、苔の生えたような『八紘一宇』の言葉と、安倍総理礼賛だけが残るって寸法だ。

三原じゅん子、政治家の素質なし!

俺は、破壊本能と闘争本能の塊みたいな男どもじゃなくて、女に任せておけば、世の中もっとましになるかと思っていたんだが、三原じゅん子や櫻井よしこ、それにアパルトヘイト推進論者の曾野綾子なんかを見ていると、女にも任せておけない気がするよ。

読者諸君、失礼する。まったく、時代錯誤も甚だしいぜ。ふざけんな!

2015/03/16

Post #1440

Kathmandu,Nepal
先日、アパートの階段の踊り場に座って、ぼおっと往来を眺めていると、誰かが階段を上ってきた。隣の部屋に住む若者が帰ってきたのかと思ったら、あまり見覚えのない青年が上がってきた。
彼は俺の棲む部屋の壁を隔てた隣に住む若者で、隣の階段を使っているので、あまり見た覚えがなかったのだ。
彼は隣の部屋に住んでるものですと名乗った。
俺がイカれたロックをガンガン聴きすぎて、苦情が来たのかしらん?と思ったが、彼のすぐ後に赤ん坊を抱いた女性が上がってきたので、何となく事情が呑み込めた。

彼が言うには子供が生まれ、今日奥さんが実家から赤ちゃんを連れて帰ってきたので、ご挨拶にきましたってんだ。
ご挨拶ったって、そんな大仰なって、却って恐縮してたら、彼は言うんだ。
『なにぶん赤ん坊のことですから、泣き声とかでご迷惑をかけるでしょうが…』と。
世知辛い世の中だ。そんな当たり前のことを気にしなけりゃならないとは。
俺は彼にいってあげたよ。

『いやいや、おめでとう!やったね!よかったね!
迷惑?何を言ってるんだい?赤ん坊は泣くのが仕事でしょう?迷惑になんか思わないよ。それよりも初めてで大変だと思うから、僕のほうこそ、力になれることがあったら、なんでも相談しておくれよ、もっとも、僕も子供を育てた経験はないんだけどね!』
俺は自分のことのように喜んでしまったよ。
若い彼は、ロックなおっさんの喜びように少し戸惑っていた。
若い奥さんは、俺のハートフルな言葉に、その言葉だけでもうれしいですって顔をほころばせていた。
彼女が抱いた赤ちゃんを見せてもらうと、小さくてかわいい女の赤ちゃんだった。
彼女がこれから歩むであろう人生に、幸あれ!
ご挨拶のしるしにって、丁寧に箱詰めされたタオルを頂いたぜ。まったく恐縮しちゃうなぁ。俺にそんな気を使わなくってもいいのに・・・。

生まれてくる子供たちのために、俺たちは今よりもマシな世界にしてゆかねばなるまいな、そんなことを想ってたのさ。
その日以来、耳を澄ますとどこかで猫が鳴いてるような、小さな泣き声が壁の向こうから聞こえてくるのさ。赤ちゃんは今日も元気だってことだ。なんだかウキウキするね。

俺の大好きな小説、カート・ヴォネガットの『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の中の、主人公ローズウォーター氏の言葉を想いだした。
素敵な言葉だ。生まれてきた赤ちゃんに捧げたい。

『こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積もっても、せいぜい百年ぐらいさ。ただ、ぼくの知ってる規則が一つだけあるんだ、いいかい―
 なんてったって、親切でなきゃいけないよ』(早川文庫版、浅倉久志訳、P146から)

読者諸君、失礼する。俺の方は、出来るだけ頑張ってるんだけれど、なかなかまだまだ子供は授からないなぁ・・・。

2015/03/15

Post #1439

澳門
昨日は、どうにも仕事をする気力が湧かず、起き上がる気力も湧かず、ずっと廃人のように眠って暮らした。ここんところ、すこし風邪気味だったしな。
だから、食事をする以外は、ずっと眠っていたんだ。
よくもそんなに眠れるなぁって、家人も呆れていたよ。

とにかく、仕事で下らないことが続いてて、精神的にもささくれていたし、昼夜逆転でハイテンションで突っ走り続けるのには、人間の身体の構造から言って、無理があるってものだろう?
なんだか弁解してるみたいに見えるけど、君にもわかってほしいよ。
俺だって、決して原子力エネルギーとかで動いてるわけじゃないのさ。
意外と、ぽっくり死んじまうんじゃないかって、心配というか期待してるのさ。

さて、今日も仕事は休みなんだが、なにして暮らそうか?
眠っているのには、厭きて来たしな。

読者諸君、失礼する。

2015/03/14

Post #1438

東門、台北、台湾
つらつら思うに、愛情というものには、形がない。

愛情が、ホールケーキのように、切り分けて与えることがっ出来るモノだったなら、どれほど容易いことだろうと、常々思う。
けれどお生憎様、愛情というものは、そんな確かなものではない。
追いかけると消えてしまう蜃気楼のような、
雲の隙間から差し込む陽の光のような、
不確かなものとしてしか、俺たちには感得できない困った代物だ。

形も質量もないものを、人間は量ろうとし、また独占しようと試みる。
とはいえ、必死に紡ぎ出した言葉も、全身全霊を込めた愛の営みも、すべて儚く一瞬で過ぎ去ってしまう。
捕まえたと思っても、それは形のないものなので、すぐにするりと手の中から滑り落ちてしまうような不安な気持ちになる。
男も女も、独占欲は強いものだし、そもそも形のない愛情に、目に見える担保が欲しくなる。

それは貞操であったり、
それは盤石の値打ちの金であったり、
或いは愛の営みの結果である子供であったり・・・。

そうなってくると、話は途端に生々しく、生臭くなってくる。
本来の愛情はどこへやらで、その担保の方が重要になってくる。

愛情を求めるよりも、愛情を注ぐ方が、ずっと幸せだ。
それには保証なんて必要ないんだから。
思えば即ち、自分の心にそれは確かにあるのだから。
形がないものだから、どれだけでも、誰にでも注ぐことが出来るだろうし、
見返りさえ求めなければ、心安らかにいられるってものさ。
見返りさえ求めなければね・・・。

とはいえ、無償の愛情ってのが、世の中いちばん難しいんだよねぇ・・・。

読者諸君、失礼する。いい年をしたおっさんが、愛情について考えるなんて、想像できるかい?けど、いくつになってもこいつは重要な問題なのさ。そう、何よりも重要なのさ。

2015/03/13

Post #1437

Taipei,Taiwan
一晩中、腰に道具を一式巻き付けて、夜の百貨店のそこそこ広い現場の中を歩き回っている。現場は仮設照明しかなく、薄暗い。俺は夜行性の獣のようだ。
朝日が昇る頃、家に帰りつき、疲れ果てて眠っても、足の筋肉が引き攣る痛みで、のたうつようにして目を覚ます。そうして、夜更けに自動更新するために、このブログを書いている。

いつだって、君が見ていても恥じることのないように、おしりの筋肉に力を籠め、背筋を伸ばし、胸を張って堂々と歩いているのさ。
こうして骨盤を引き締めると、自然と背筋が伸びてくるんだ。
なんだって、土台が大切なんだよ。君も試してみるがいい。
疲れ切っていても、ダラダラと足をひきずるように歩いたりしたくない。年相応なんて糞喰らえだ。
そんなの一騎当千の漢にふさわしくないだろう。
俺がどんなに疲れていたって、落ち込んでいたって、何故か仲間たちは、俺が元気だと驚き呆れているのさ。どうしていつも、そんなに元気なんだって、みんなに訊かれるよ。
俺はいつだって、こんなのフツーだよって笑ってごまかすのさ。
どいつもこいつも、俺がベッドの中で痛みのために眠れないでいることなど、知りもしないだろうよ。

けれど、本当は俺と他の男とは、決定的な違いがあるんだ。

それは、俺の心の中には、いつだってロックが響いているからさ。

俺の友人は、かつて楽器を弾けない俺を評して、『ロックンロールを、生き方そのもので表現する男』と言ってくれた。
最高のほめ言葉だとおもう。
残念ながらその友人とは、仕事上の上司部下の関係になり、お互いの立場の違いから、袂を分かつことになってしまったけれど・・・。それもまた人生だ、ロックンロールだ。バンドで言えば、方向性の違いから解散だ。人生はいつだってそんなもんさ。

読者諸君、失礼する。どうせ歩き疲れるのなら、カメラを持って昼も夜も、まだ見ぬ瞬間を求めて街を彷徨い歩いて、疲れ果てたいんだがなぁ。
人間の欲望が渦巻いている、その真ん中を歩いて・・・。

2015/03/12

Post #1436 漢の食卓

漢の食卓。もちろん立ったままで。
ここんとこカミサンが出張に行っているので、誰も俺に餌をくれる訳ではない。
作ろうと思えば、食事を作るのは訳ないことなんだが、どうにも自分ひとりのために、夜勤明けの寝ぼけ眼で何か作る気にもなりはしない。
いや、本当だぜ。うちのカミサンはかつて一年ほど首都圏に単身赴任していたくらいだ。その間も俺はなんとか生き延びたんだ。もう20年近く前の話だが、洋風居酒屋の厨房で働いていたこともある。

『すきや』だとか『なか卯』だとか『吉野家』だとかに行けば、何らかの食い物にはありつけるが、心満たされるわけでもない。アレはまるで、ガソリンを給油するような味気ないものさ。
いずれにせよ、ひとりの食事は、侘しいものだ。

だから勢い、コーヒーとフランスパン、そしてオレンジを一つ。そんな食事になってしまう。
道理で痩せてしまうわけだ。
俺の腰回りは、18歳の頃と変わりないくらいさ。
もちろん、皿など使わないぜ。
俎板が皿代わり。流し台の前で立ったまま食べるんだ。
漢の食卓だからな。行儀が悪いと叱られることもない。
こう見えても、ガキの頃は、食卓で肘をついただけで、母親に物差しでぶたれるほど厳しく躾けられていたんだがな。
かつてのリトルジェントルマンも、堕ちるところまで堕ちたものさ。

そういえば、写真家の森山大道が80年代にパリで暮らしていた時も、こんな食事ばかりだったと読んだ覚えがある。

ふと、独りさみしく暮らしている人たちの食卓は、どんなものだろうかと思いを馳せる。
心の中に、心当たりのひとを何人か思い浮かべてみる。
誰もみな、大切な人ばかりだ。
その人たちの食卓は、もっと侘しいものなのだろうか?
それとも、その人たちすら、眉をひそめるような俺の食卓なのかしらん?

もし君が、独りで食事をするのにうんざりしてるんなら、どうだろう、僕と一緒に食事をしないかい?

読者諸君、失礼する。君と一緒に食事をしたら、きっとお互い楽しい食事になるだろうな。

2015/03/11

Post #1435

Praha,Czech
全ての日付に、何らかの意味がある。

誰かの生まれた日であり、誰かの死んでいった日でもある。
そして、忘れてはいけないことが起こった日でもある。


昨日は東京大空襲から70年だった。
アメリカ軍の大空襲によって、東京では10万人ともいわれる犠牲者が出た。
文字通り、焦土と化し、数多の焼死体が打ち捨てられていたという。
その局面だけを見れば、日本は被害者のように見えるけれど、中国や東南アジアで日本人が行った蛮行も、負けず劣らずだ。
俺たちは誰しも、過去から目を背けることはできない。


今日はあの震災から4年だ。

ほんとうに多くの方が亡くなった。
津波に追われ飲み込まれる人々の映像を、俺は忘れることが出来ない。
大切な人を亡くし、人生の喜びを失った人がいる。
未だに行方のわからない方もいる。

原子力発電所が爆発した日を忘れることが出来ない。
日本は、ほんとうに終わったと思った。
そして、未だに自分の家に帰ることすらできない人がいる。

仕事を、家庭を、友人を、家族を、故郷を失ってしまった多くの人たちがいる。
寂しさの中で、独りひっそりと死んでゆく人たちは今も絶えない。

そして、それに対して何もなしえない無力な自分がいる。

自分の生活で精一杯の無力な俺なのだ。
赦してほしい。
恥ずかしいことだ。

そんな状況なのに、政府は原子力をガンガン推進している。
そんな状況なのに、オリンピックのお祭り騒ぎで景気浮揚を図ろうとしている。
そんな状況に便乗して、日本全国で、わけの判らないことに税金は使われ続けている。

福島の惨状を見て、原子力発電から撤退を決めたドイツから、メルケル首相がやってきている。
彼我の政治家の、見識、理念、行動力、そしてあらゆる素質のレベルの違いに、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
過去の過ちを直視し、進むべき未来を指し示し、人々の弱さや悲しみに寄り添ってくれるような政治家は、日本には現れないのだろうか。
全てを政治のせいにすることは、間違いなのはわかってるさ。
わかってはいるけれど・・・。

読者諸君、失礼する。今日は少し控え目にしておくことにするよ。
RIP

2015/03/10

Post #1434

Istanbul,Turk
俺は別に、善人だと思われたくって毎日こんなことやってるわけじゃないんだ。
俺は自分が善人にも悪人にもなりきれない、非善非悪の中途半端な男だってわかっている。
解かっているけれど、自分に対して、こうあるべきだと思うことは、やらずにはいられない。
でないと、俺は俺じゃなくなってしまうんだ。
いつだって、君たちに恥ずかしくないゴールデン・ハートの漢でいたいのさ。

さて、今日も昨日の続きだ。イスラームについてもう少し突っ込んでみよう。
今日はその成り立ちだ。

イスラームは一人の預言者によって打ち建てられた宗教だ。

その預言者の名はムハンマド。西暦567年から572年頃に、メッカで生まれた彼は、その地を治めていたクライシュ族の有力氏族の一員だった。6歳で両親を失うが、祖父や叔父の手で育てられ、25歳で裕福な寡婦ハディージャの使用人になり、数年後彼女と歳の差を押して結婚した。

当時のメッカは、昨日も少しふれたセム族的多神教世界にどっぷりで、アッラーは世界を創造した神とされてはいたが、人々からあまり祀られていない神だったようだ。
今日もイスラームの聖地とされるメッカには、カァバの聖所があり、その一角には天から降ってきたとされる黒い石がはめ込まれている。

西暦610年頃、ムハンマドに神からの最初の啓示が降る。
伝承によれば、啓示に先立つ長い間、彼は洞窟や人里離れた場所で、修行を行っていたという。
この行いは、アラビア土着の多神教世界では異質なものだったという。ムハンマドは、各地を旅した折に、キリスト教修道僧の評判を聞いたり、直接会ったりして、彼らが行っていた祈りや瞑想に強い印象を受けていたのだと推測されている。
また、メッカには当時、多くのユダヤ人も暮らしており、その習慣や儀式も広く知られていたという。

最初の啓示について、クルアーンは次のように伝えている。
『力を持てる者(天使ジブリール)が威厳に満ちて立った。その時彼(ジブリール)は地平の最も高い所におられた。それから近づいてきたが、空中に浮いたままであった。(中略)そして僕(しもべ=ムハンマド)に、その啓示を示された。』

天使ジブリールは、神とムハンマドの仲介者なのだが、このジブリールというのは、実はキリスト教やユダヤ教にも登場する。ジブリールとは大天使ガブリエルのアラビア語読みなのだ。
ここにも、イスラームとキリスト教、ユダヤ教の近しさを見ることが出来る。
実際に、イスラーム教では、モーゼはムーサー、イエスはイーサーとして語られ、ムハンマドへと続く預言者の系譜に連ねられている。
ムハンマドは、多神教世界からアッラーを切り離し、アブラハム以来の宗教的伝統の中にイスラームを統合しようとしたのだ。

伝承では、アラビア人ってのは、アブラハムの子孫だとされている。
アブラハムは80過ぎて子供がなく、当時75歳だった妻のサラは、若いエジプト人女奴隷のハガルをアブラハムにすすめた。
そうしてハガルから生まれたのがイシュマエル(アラビア語ではイスマーイール)だ。
後に正妻のサラに、彼女が90歳を超えていたにも関わらず、子供が出来る。アブラハム自身もそんなことあるわけないって笑ったのにもかかわらず、神は出来る!と断言したので、出来ちまったわけだ。それなら、俺もまだまだ子供を作ることが出来る気がするぜ。まぁ、こうしてできたのが有名なイサクだ。
このため、ハガルとイスマエルはアブラハムの元を追われ、新しい部族を打ち建て、その子孫がアラビア人になったと伝承されている。

ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム教は俺たち日本人には解かりにくいけれど、実はいとこ同士みたいな宗教なわけだ。現在もなお、この3つの宗教を指して、『アブラハムの宗教』と呼ぶ。

三年ほどの間、ムハンマドはその妻ハディージャとその他数人にしか神の啓示を伝えなかった。
612年、ムハンマドは啓示を公にするよう命をうける。
『神(=アッラー)よりほかに神はなし!』とムハンマドは宣言することとなった。とはいえ、この時点ではムハンマドは、新しい宗教を打ち建てるつもりはなかった。彼はただ、仲間の市民を『目覚め』させ、アッラーのみを崇拝するように説得したかったに過ぎないのだという。
というのも、人々は既にアッラーを天地の創造者にして豊穣をもたらすものとして認めており、祈りを捧げ、最も厳粛な誓いはアッラーにかけて宣誓していたのだから。

当時メッカを支配していたクライシュ族の有力者は、ムハンマドの言う異教、つまり伝統的な多神教を放棄することは、そのまま自分たちの特権を放棄することを意味していたし、ムハンマドを真の神の使徒と認めることは、そのままムハンマドを政治的な最高権威者として認めることになるので、大いに反発した。
ムハンマドのグループは迫害され、各々の部族から追放された。
結果、ムハンマドの一統は秘密裏にメディナへと遷り、ここを基盤にして、イスラームの教義は固められ、部族的な性格から、部族を越えた信徒共同体(ウンマ)へと昇華していくこととなったわけだ。
この時期、ムハンマドはメディナのユダヤ教徒もイスラームの教えに改宗させようと試みている。この時期、ムハンマドはムスリムが祈りを捧げる方向をエルサレムの方角に定めていた。
ここでも、ムハンマドは自らを旧約聖書の数々の預言者の系譜に連なるものとして語っているわけだ。
しかし、それは結局決裂した。ムハンマドのもとには、祈りを捧げるのはイスラエルではなく、カァバ神殿のあるメッカとすべきという啓示が下り、ムハンマドはメッカ回帰を決意して、数々の戦いを当時の主要部族と繰り広げることとなる。
西暦630年には、メッカはムハンマド率いる1万名の軍勢によって無血占領され、偶像はすべて破壊され、多神教徒が持っていたすべての特権は廃止された。
翌年、ムハンマドは新たに下った啓示を根拠に多神教徒に対する全面戦争を宣言した。これが、今日まで続くイスラム国などの問題の発端といってもいいだろう。
632年。ムハンマドはメッカへの最後の巡礼を終えたのち、愛妻アイーシャの腕の中で息を引き取った。

イスラーム教原理主義者は、ある意味で未だに、ムハンマドが生きていた部族社会のなかで、絶対の信仰を守り抜くべく闘っているのだろう。
しかし、彼らが生きているのは7世紀のアラビア半島ではなく、21世紀の世界そのものだというところに、解決しがたい問題の根があるように俺には思える。

読者諸君、失礼する。何かを知ることは、実りをもたらすばかりではない。知れば知るほど、解からなくなることだってあるんだ。しかし、知らないよりは知っていた方がイイ。これは絶対に間違いないって断言するよ。

2015/03/09

Post #1433

Istanbul,Turk
イスラム国の蛮行が続いている。
今度はシリアやイラクで、紀元前の世界遺産の遺跡を完膚なきまでに破壊しているのだそうだ。
イスラム教成立以前には、今日中近東と呼ばれる地域には、セム族系諸族(現在もあの辺に住んでいる中近東の諸民族の大きなグループだと解釈してね)の間にひろくみられた、多神教文化が根付いていた。
イスラム教が好戦的な性格を持っているのも、この多神教文化の地域に、多神教の伝統を否定する形で突如として出現し、短期間にそれぞれの神々を奉じる部族や民族、国家を戦闘によってのみ込む形で成立していったからだ。不信仰者たちの改宗を目的としたその戦いは『聖戦』つまり『ジハード』と呼ばれる。
それによって部族や民族を超えて形成されるイスラーム教を基盤とする共同体をウンマ(イスラーム共同体)と呼ぶわけです。

イスラーム教、そしてそれに先行するセム族の宗教、つまりユダヤ教、キリスト教は偶像崇拝を認めていない一神教だ。
インドから東に住む俺たちは、神の具体的な姿を形に表し、それを崇拝するということが大好きなんだが、彼等一神教の人々は、とりわけユダヤ教徒とムスリムには、神聖なものを人間が形に表すことは許されないと考えているんだ。

だから、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件のような事態が起こる。

全能の神が遣わした最高の預言者、ムハンマドをいささか滑稽な容姿の人物として描くことは、ムスリムにとっては、その神聖さを否定する蛮行以外の何物でもないわけだ。
俺もかつて、翼の生えた牝馬に乗って天上に上ったムハンマドを描いた宗教画を見たことがあるけれど、ムハンマドの顔は何も描かれてはいなかった。
のっぺらぼうなのだ。
この宗教的な主題は、ムハンマドの宗教的正当性を示す非常に重要な場面なんだけれど、それでも決して顔は描かれていない。何しろ、ムハンマドは西暦567年から572年ごろにメッカで生まれた人物で、その経歴は他の世界宗教の開祖(キリストやモーゼやお釈迦様)と違って、はっきりわかっているにもかかわらず、その肖像画は一切伝えられていないのです。

今日まで続く一般的なイスラーム根本的なテーゼの第一には、タウヒード、つまり『神の一性』といことがあります。これを手元にあるミルチア・エリアーデの世界宗教史Ⅲ第35章『イスラームの神学と神秘主義』(P139)から引用してみますか。

『神は唯一であり、神に似るものは何もない。神は物体ではなく、実体ではなく、偶有でもない。神は時間を超越している。神は或る場所とか或る存在者のなかにすまわれることはありえない。神は被造物がもついかなる属性や性質の対象ともならない。神は条件づけられることも限定されることもない。産むことも産まれることもない。〔・・・・〕神は先在する原型も助力者もなしに世界を想像された」

うむ、これでは神の似姿など作りようもない。
イスラーム教においては、神の存在は極限まで抽象的なレベルに押し上げられている。
その代り、モスクの中に入るとタイルによって無限を感じさせるように複雑に構成されたアラベスクや、天蓋から差し込む美しい光によって、否が応でも神の聖性や無限性を感じることが出来る。
俺は、イスタンブールのブルーモスクなどに足を踏み入れ、何度かそれを感じたものだ。

このように、日本人の宗教観からはかなり隔たっているのでいろいろと分かりにくい。この違いはどこから生じたのか?

砂漠だからか。

イスラーム教が生まれたのが、見渡す限りの砂漠と空しかないような苛烈な土地であったからではないか。川が流れ、森が人々を抱くようにして存在するインド以東の土地では、宗教は自然の似姿で、川には川の、森には森の、山には山の神々が宿っていた。
すでに神は、具体的なモノとしてまず俺たち人間の前に存在する者だった。

しかし、苛烈な砂漠で生まれたイスラームの神は、あらゆる具体性を否定する。
そして、偶像は否定される。
それを原理主義的に解釈した結果、イスラム国は世界遺産の遺跡を偶像崇拝者の遺物として破壊する。タリバンの皆さんは、バーミヤンの石仏を爆破した。まさか君、忘れちゃいないだろう?
そのことの是非は、ここでは問わない。
しかし、一度失われたものは、二度とは戻らない。
もちろん、すべての善きムスリムが、彼らの原理主義的な蛮行を認めないのは俺にははっきりわかっている。
しかし、俺たちはもっとムスリムの人々がどのような宗教観を持っているのかくらいは知る必要があると思う。

読者諸君、失礼する。もう少し、俺と一緒に学んでみようぜ。

2015/03/08

Post #1432

Moulay Idriss,Morocco
しばらく前、静岡の御殿場市で、かつて中東に仕事で長いこと住んでいたおじさんが「日本イスラ―ム圏友好協会」なる任意団体を作り、ムスリムの人々との相互理解を進める活動をしようとして、近所の信用金庫に口座を作りに行ったら、なんとその沼津信用金庫の担当者さんは、この団体がイスラムってついてることから、イスラム国に将来資金を送るパイプに使用される恐れがあるからと、口座の開設を断ったのだという。凄い事なかれ主義だ。

酷い。噴飯ものだ!その程度の認識で、この現代社会を生きていけるものだ。
田舎者と言われても仕方がないぞ!

無知から、無理解が生じ、無理解から反目が生じ、反目から争いが生まれる。

ならば、争いを避けるには、まずは謙虚に知ることから始めよう。

誤解が解けたら、理解を深めよう!

まずはここから。

イスラームというのは、アラビア語で『神への帰依』を意味する。

開祖の名前とか、神の名前とかじゃないのよ。神への態度そのものが宗教の名前なの。
だから、イスラームがついているからって、別にイスラム国とは何らかかわりのねぇことでござんす。
日本とついていたら、日本赤軍と関係あると言って、口座開設が許されなかったら、あなた、むかつくでしょう?同じことですよ。

ムスリムという言葉もあります。これも同じくアラビア語で、『神に帰依する者』を意味します。このムスリムは世界中に約16億人いると推測されています。キリスト教に次いで大きな宗教グループです。つまり、先の沼津信用金庫は、日本国内でしか通用しない事なかれ主義によって、世界中の16億人のムスリムの皆さんから、反感を買ったということになるでしょう。
この21世紀という、情報ボーダレスの時代に、なんという見識の無さ、なんという思慮の足りなさ。
同じ日本人として悲しくなります。

イスラム教の経典はコーランと呼ばれていますが、より正確には『クルアーン』と発音したほうがよいようです。
このコーランは、本来神の言葉なので翻訳するべきものではないとされています。
だから、世界中イスラム教徒の多く住む街に行くと、一日五回の礼拝の時間を告げるアザーンが、有線放送やモスクのスピーカーから流れてくるのですが、それはどこに行ってもアラビア語です。
これを聞くと、あぁ、イスラムの土地にきたなぁ・・・としみじみ思います。
異国情緒とともに、もういい加減慣れっこになって異国なのに安堵するというのでしょうか。
独特の美しい響きも大好きです。

神の言葉を、勝手に変えることは許されないから、ムスリムはアラビア語でコーランを読まねばならないのです。
だから、NHKのアラビア語講座を見て、簡単な会話をマスターしておけば、イスラム教圏に旅行した時に、けっこう役に立つはずです。

読者諸君、失礼する。俺はイスラム教徒ではないけれど、しばらくイスラム教について、君たちと一緒に理解を深めようとおもうのさ。なぜって、俺が旅先であったムスリムの人々は、誰もみな、気さくな良い人たちだったからな。

2015/03/07

Post #1431

HomeTown/Nagoya
最近、このブログにロシアからアクセスが多い。
どうにも半分以上がロシアからのアクセスだ。
別にロシアで大人気なわけじゃない。
訳の判らんスパムかなんかが、連日ドバドバ送り付けられているだけのことさ。
ひょっとしたらプーチンが次に暗殺しようと考えてるのは、俺なのかもしれないがね。
おかげさんで、PVカウンターの数字だけは水増しされて伸びている。
まぁ、実際にコメントくれたり何らかのリアクションがない限り、君が辛抱強く読んでくれていても、ロシアからスパムが送られてきていようが、俺にとっては同じようなものさ。
だから、さみしい中年スパークスに、コメントでもくれてやって楽しませてやってくれ!
いつだって、迅速かつ誠実に対応させてもらうぜ。

先日、俺が憤慨していたブロガーの新しいアダルトコンテンツポリシーは、実施されないことになったそうだ。
よかった、よかった。これで俺のこのブログもしばらく安泰だ。相変わらず読者は少ないけどね。

ざまぁ見ろ!

きっと俺のように、各々の表現の自由を守りたい奴らが、ブースカ不満の声を上げたんで、グーグルも方針を見直すことにしたんだろう。
よかったな。どいつもこいつも型苦しいことばっかり言いやがって。
All Good Thing Is NASTYなんだ。憶えとけよ!

俺ははっきりここで言っておきたいのだけれど、いいかなぁ?

どんな物事にも、人間が絡むことには大なり小なり性的な要素が含まれている、ってことだ。

そして、もう一点。

充実したセックスくらい、多幸感を人間に与えてくれるものは、他にないんじゃないの?ってことだ。
それを、不謹慎だの、セクハラだの何だのって抑圧ばっかりするもんだから、世の中なんだか息苦しくなっちまうんだよ。
確かに、多幸感があるから、習慣性強いのは間違いないわなぁ。しゃあないわ。
しかし、性的なことが罪深いってのは、そもそもどっから来た考えなんだ?

江戸時代までの日本人は、性的にあけすけで、スケベなことに関しては、世界トップクラスだったはずだが。
やはり、明治維新以降、ヨーロッパからキリスト教を基盤とする欧米の文化が入ったことからだな。
ヨーロッパの文化ってのは、キリスト教が基礎になってるんだけど、そいつがいろいろと抑圧するもんだからな、いろいろとビザールな文化が発達してるのさ。SMだってその一つだろう。いろいろと考え出すとそれはそれでおもしろそうだが、長くなるのでやめる。ただ、キリスト教の禁欲的な宗教態度空の影響で、あんまりストレートに性を愉しむってカンジじゃなくって、背徳的で淫靡なカンジになってるわけだ。

ニーチェは、『ツァラトゥストラは斯く語りき』のなかで、ツァラトゥストラをして、『イエスがもう少し長生きしたなら、大地を愛すること、笑うことを憶えたはずだ』みたいなことを言っていたけれど、そうかもしれないな。
天上の清浄さよりも、大地の混沌と豊穣を愛することは、相手のむさくるしさを受け入れて、それをいとおしむことと何ら変わりないだろう?
そして、その果てに、笑いと喜びがあふれてくるものさ。
十字架の上のイエス様の像には、確かにそういった世界への肯定と、その末の哄笑は見当たらないな。
いかがわしさの欠片もない。
しかし、世界はいやらしく、いかがわしいものだと思う。そしてそのまま同時に、崇高で美しい。
いいセックスをすれば、その意味が分かるだろうよ。
どんなに気取ってみても、親父とおふくろが二人なかよくおめこして生まれて来たってのは、人類みな共通だろ?
そこには宗教も民族も関係なけりゃ、貧乏人も金持ちもなんら違いはない。

大昔の都都逸にもこんなのがあるぞ。

楽は苦の種 苦は楽の種 ふたりしてする人の種

OK、それが解かったらみんなお互い仲良くしようじゃないか。

読者諸君、失礼する。だいたい、そういうことをやかましく言う奴に限って、むっつりスケベだったりするもんだろ。嫌になっちまうぜ!

2015/03/06

Post #1430

Moulay Idriss,Morocco
働き過ぎると、何もかも放り出してとんずらしたくなる。
地の果てまで。
携帯の電波も、税務署も、そこまではさすがに追ってこないさっていうような地の果てだ。

アフリカ大陸の西岸に位置するモロッコは、日本からすれば、まさに地の果てだ。
俺は、モロッコの聖都ムーレイイドリスの写真を引っ張り出して、懐かしく思い出す。

『地の果て 至上の時』

そんなタイトルの小説があった。俺の大好きな中上健二の小説だ。
熊野の森と海に抱かれた新宮を舞台に、腹違いの弟を殺し、腹違いの妹と交わった主人公が、実の父と繰り広げる情念の確執を描いた小説だ。
軽佻浮薄な平成の世を生きる世人には、いやはやなんとも重苦しい小説だが、俺は大好きだ。
何といっても、タイトルがイイよな。
思わず口ずさんでみたくなる。
君も目を閉じて、呟いてみるがいい。

『地の果て、至上の時』と。

俺は目を閉じ、未だ見ぬ地の果てをおもう。

生温かい人の気配など、微塵もない地の果てを。
吹き渡る風。
それは身を切るように冷たいか。
それとも、熱気を孕んで熱いのか。
草いきれのにおい。
波のにおい。
空の色は、どんな青だろう。
トルコ石のような水色か、
それともラピスラズリのような藍色か。
何が聞こえるだろう。
風が虚空を渡る音か。
打ち寄せる波が砕ける音か。
それとも、世界の果てのさらに向うを目指して飛ぶ
鳥たちが鳴き交わす声か。

そこでは、時間はなんの意味もない。
一瞬が永遠に接続する時空だ。

だから、そこには至上の時が流れる。

本当はいつだって、どこにいたって、今、ここが、『地の果て、至上の時』でなければならないんだけどな。できうれば、そんなふうに生きていたい。世の中から浮きまくり、ずれまくってもかまいやしないぜ。つまり、瞬間瞬間を主体的に生きるってことか・・・。

読者諸君、失礼する。そうはいっても、来月には旅行に行くんだった。もう少しの辛抱だ。

2015/03/05

Post #1429

大昔に金沢で・・・。
朝の5時半まで働いて、家に帰ってすやすやと気持ちよく眠っていたら、銀行からの電話で起こされた。
俺はATMの窓口に通帳を忘れていたらしい。まいったな。
俺は一度起こされると、眠れなくなるので、これは有難迷惑な話だ。
しみったれた金しか入っていない通帳よりも、今日の睡眠の方が大切なのに。

しかも、今日の今日、いつもならまだゴロゴロしているような時間に、急遽現場の手直しをすることになったから行ってくれないかという。
渋りながらOKしたんだが、当然今夜も夜勤だ。そうすると、14時間も拘束されてしまう。そうでなくても、いろいろとやるべきことは山盛りなのに。

畜生め!今日はアマゾンから待ちに待ったノエル・ギャラガーのCDが届くことになっていたんだが、そんなことしていたら今日、そのCDを聴けないじゃないか!
仕事とロックと、どっちが大切だと思ってるんだ?
ロックが大切に決まってるだろう

まったく憤懣やるかたない。

仕方ない。しっかり請求させてもらうぜ。一日いくらで契約してても、一日の作業には限度があるのさ。俺だって、マシンじゃないんだ。
睡眠時間を削って、女の子と遊んでみたり、プリントに没頭してみたりするのは全然苦にならないんだが、こういうのは本当に堪えるぜ。

こんな時、携帯電話を叩き壊したくなる。
実は以前にも一度、現場で電話していて、あんまりにも腹が立ったんで、思わず携帯電話を叩き壊したことがあったな。携帯電話屋がどうやったらこんなふうに壊れるのか、不思議がっていたぜ。

出来る事なら、このひも付きの生活を見直したいものだ。

睡眠が必要なんだ。そうじゃなかったら、ヒロポンとか打たないとやってられないよ。ヒロポンってのは覚醒剤だ。現場で歳食った職人さんなんかと話していると、大昔は突貫工事の時なんか、みんなヒロポンを薬局で買ってきて、打ちまくって仕事していたそうだ。
スゲー時代があったもんだ。癖になったら大変だぜ。
因みに、戦争中の日本軍は、このヒロポンを打ちまくって戦争していたらしい。そりゃ、残虐行為もへっちゃらになっちまうだろうよ。

ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは9日間眠らなかったことがあるそうだ。
そんな不滅な体力が欲しいが、かみさんに話したら、そんなのシャブやってるに決まってるって一蹴されたぜ。
なんといっても、キースは身体から覚醒剤だのコカインだのの成分を抜くために、スイスの血液銀行で血液を総入れ替えしたっていう伝説があるくらいの奴だからな。しかも、その後に言った言葉が振るっていやがる。『これでまたシャブが楽しめる!』ときたもんだ。本当か嘘かわからないけれど、キースならあり得ると思えるところがいいところだ。

クソ!もう今日は眠るのはやめだ。このままシャワーを浴びて起きていることにするぜ。

読者諸君、失礼する。眠らないで済む秘訣は、飯を食わないことさ。道理で最近体重が減りまくるわ、立ちくらみはするわ、白髪は増えるわだ。たまらないぜ。

2015/03/04

Post #1428

Bhaktapur,Nepal
毎度おなじみネパールの古都バクタプルでゴムとびに興じる子供たち。

俺が子供の頃の日本の子供と、全く同じだ。
この子たちの将来に、幸あれ!
そういえば、最近ゴムとびやっている子供なんて、とんと見ないもんだな。
みんな妖怪ウォッチでもやっているに違いない。結構なこった。


3月の俺は、どうにも殺人的な忙しさだ。
馬車馬のように休みなく働く羽目になりそうだ。
冗談じゃない。俺は働くために生まれて来たんじゃないんだ。
しかし、遊び暮らすにもこれまた金が要る。それに、託された仕事を放り出しては、俺の男がすたるというもんだ。
まったく悩ましいことだ。俺の永遠の課題だ。

俺は仕事も遊びも、ほどほどなんて出来やしない。いつだってなんだって、全力疾走だ。散々使ったマヨネーズを、チューブから絞り出すようにして生きてるんだ。時折憂鬱になって、全力で失踪したりしたくなるけどな。

うっかり気を抜くと、仕事に忙殺されて、道行く街の人々と同じ男に成り下がってしまう。
鏡に映った自分の顔を見て、目に力を込めてみる。
怪しい眼光が光り出す。
全然OKだ。
歳食った非行少年がそこに潜んでいるのが解かるのさ。ブルースとグルーヴがぐるぐる渦巻いている。
俺はスペシャルな奴だ。間違いない。痴漢の漢と書くほうのおとこだ。それでこそ、君たちに恥ずかしくない大馬鹿野郎だ。

俺が、社会に対して自分が納得できないことを、自分の言葉で異議申し立てする気概を失っていない限り、俺は並の男に成り下がったりはしないんだ。
異論はあるだろうが、俺的には特上だ。
もっとも、財布の中身はサイテーレベルだがな。

俺はいつだって、イギリスのストリートアーティストのバンクシーや、フランスのストリートアーティストJRの活動を見たり、イギリスの社会活動家にしてフォークミュージシャン、ビリー・ブラッグや、一昔前のレイジ・アゲインスト・マシーンの音楽を聴いたりすると、それぞれにやり方は違うけれど、彼らが持っている社会に対して挑戦してゆく気概ってものに、心を打たれる。思わず泣けてくるくらいだ。歳を取ると、涙腺と膀胱が緩くなるのさ。
音楽なりアートなり、それぞれが選んだ武器で、時に激しく、時にユーモラスに、時には優しく諭すように、世間の皆さんの意識を揺さぶり、世界を少しでもマシにしようって誠意を感じる。

いくら仕事が忙しいからって、俺が彼らに共感を感じなくなったり、自分の内側のささやかな、しかし硬質な気概を失ってしまったら、俺はおしまいだ。
そして、俺はまだまだおしまいになる気は、サラサラないのさ。
そして、俺は自分の武器として、気が付いたらバールやこん棒やマシンガンじゃなくて、カメラを握っていたんだ。
この人生、行けるところまで、行ってみるつもりさ。老後の資産のことなんか、考えて暮らすような、しみったれた生き方は御免蒙るってもんさ。生きていけなくなったら、さっさと死ねばイイのさ。自然なこった。後のことは、君たちに託すよ。

読者諸君、失礼する。今夜も俺は大忙しで働いているのさ。また会おう!

2015/03/03

Post #1427

Bhaktapur,Nepal
ネパールの古都、バクタプル。
路地裏を歩くと、子供たちがぼろぼろの三輪トラックの荷台に乗って遊んでいる。
夕暮れ時で、ぶれてしまったが、子供たちは異邦人の俺を見て微笑んでいる。
俺もニコニコしていたことだろう。

まるで、昭和30年代の日本のような風情だ。
一様にみな貧しいが、明るく元気だ。

俺の家のすぐそばには、学習塾があり、親に送られた子供たちが、夜遅くまで勉強している。
どちらが幸せなのだろうか?

俺はこの日本が、世界で最も豊かな社会を実現しているのは間違いないと思うのだが、その見返りに、失ったものは多いようにも思えるのさ。

世界は広がった。その代わりに空虚になった。そんな感じだ。

俺は、空き地の土管の中や、雑木林の木の上に、友人と基地を作って楽しんだ遠い日のことを、ぼんやりと思い出す。夕方には、近所のおばあさんが畑で採れた大根なんか持ってきて、分けてくれたりしていたっけ。
もう、ぼんやりとしか思い出せないけれど。その頃は、まだ日本はもう少し貧しかったし、もう少しのんびりしていたんじゃないだろうか?なにしろ、もう40年近く昔のことだ。
君はどう思うだろう。

しかし、しかしですねぇ、今更地域の共同体に抱かれ、貧しさに肩を寄せ合いながらも、濃密な人間関係のなかで幸福感にひたるには、俺たちはみな、すれっからしになりすぎているんじゃないかな。
なにしろ、俺たち人間の欲望ってのは、後戻りが効かないものだからな。

自分から手を差し伸べなければ、手をつなぐことはできない。そんな考えが、脳裏をよぎる。
求めよ、されば与えられん、か。
人間関係ってはのは、まずは求めることからすべて始まるんだが、俺たちは既にそういうのが、ある意味ウザったいと思うようになってるんだから始末が悪いぜ。
けれど俺は、どこか濃密で火傷するんじゃないっかってほどの、濃密な人間と人間の交わりに憧れる。君たちとも、もっといろいろと話し合ったりしたいのさ。うざい奴なんだ。

だからあえてもう一度、俺は自らに問いかけたいのさ。
あの貧しい世界に暮らす彼らと、俺たちの豊かでどこか荒んだ社会(異論はあるだろうが、18歳の若者が、13歳の少年をいたぶり殺すような社会が、荒んでいないとは俺には思えない)に暮らす俺たちと、いったいどちらが幸福を感じているのだろうか?

幸福というのは、以前にも言ったけれど、人間と人間のつながりのなかにしか見いだせない、淡い蜃気楼のようなもののように、俺には思えるのさ。
しょせん俺たち人間は、独りで生まれ、独りで死んでゆくしかない寂しい存在なんだからな。
人生は意外と短いんだぜ。立場や宗教や民族で、憎みあったり、いがみ合ったりしてるような暇は、実はどこにもないんだ。

ゲラゲラと腹の底から笑いあっていたいんだよ、俺は。

読者諸君、失礼する。教えてくれないか?君は、幸せかい?

2015/03/02

Post #1426

Fes,Morocco
昨日は仕事が休みだったので、美容院に行って髪をきった以外は、ひたすら眠って暮らした。
こう見えても、俺は疲れ果ててるんだ。くたくたなのさ。
だから、何も言うべきことはありゃしない俺なのさ。

よって、今夜はこの写真だけ、そっと君に届けよう。

読者諸君、失礼する。顔パックしたいからとっとと止めてくれと言われてるんだ。

2015/03/01

Post #1425

Rabat,Morocco
イスラム国に捕らえられた人質を、ナイフで処刑し、世界中を震え上がらせたジハーディ・ジョンの身元が公表された。後藤健二さんや湯川遥菜さんを殺した黒づくめのアイツのことだ。まさか君、忘れちゃいないだろう?

新聞その他の報道によれば、クェート生まれ、ロンドン西部郊外で、裕福な家庭に育ったコンピューター・プログラマー、『ムハンマド・エムワジ』がその正体だという。イギリスの諜報機関MI5は以前から彼をマークしていたのだという。
毎度おなじみ朝日新聞で知ったのだが、関連ニュースをいろいろと見ていると、一番興味深かったのは、下にリンクを貼ったテレグラフ紙のものだ。
telegraph.co.uk/Jihadi John From ordinary schoolboy to worlds most wanted man.html
この記事の中で、エムワジの学生時代の友人が、彼のことを想い出して『彼は典型的な北西ロンドンの少年だった。彼は分別のある、謙虚な人柄だった。サッカーが好きで誰とでも友人だった。そう、インド人やパキスタン人など、宗教の違う人々とも仲が良かった・・。』と言う趣旨の発言していることが目を引いた。
それが今や、世界一のお尋ね者だ。解からないものだ。彼を非難するのは容易いが、俺はむしろ、その解からなさに目を向けてみたい。心の闇というのは簡単だが、それでは、自分には闇は微塵もないかのように、仮想の線を引いてしまうことになりかねない。

人間は、閉じた環境の中に飛び込んでしまうと、どんどん先鋭化してしまう。

若いころ、カルトな宗教に飛び込んで、行者として人にはあんまり言えないことを散々してきた俺が言うのだから、間違いない。
市民社会の常識も、法も倫理も、自分が属する閉じた社会特有の考え方が優先されるのだ。そして、そこから抜けるという選択肢がない(イスラム国は脱退は死刑だと聴いたことがある)のなら、より先鋭化した考えを持ち、より過激な行動に出たものが、称賛され、組織内での地位を確立してゆくというのは、十二分に理解できる気がする。
そして、そういう状況は、何もイスラム国のような狂信的な集団だけに見られるものではなく、往々にして熱狂的な興奮に包まれた国家から、そこいらの宗教団体、政治団体、果ては一般的な企業に到るまで、程度の違いはあれ、容易に起こりうる、いや、今もおこっている事柄なのだ。

俺が、組織というのもに馴染めず、どこかそれは俺自身を絡め取ろうとするものだと感じるのは、そこなんだ。
社会一般の常識よりも、組織内の常識の方が優先される不思議な状況が、いつだって生み出される。気が付くと、イイことをしてるつもりで、とんでもないことの片棒を担いでいたり、自分自身を抑圧圧殺する方向に、自分から自分を追いやったりすることになるものだ。

では、どうするか。

一つには、インディペンデントに生きるということが必要になってくる。あくまで、個として社会に対峙するという確固たる意思を持つべきなんだ。
もう一つには、閉じた社会の非常識を常識と思いこまされることのないような知性、教養、思想、信条を身に着ける必要があるということだ。
もちろん、この二つはコインの裏と表のようなもので、意思だけでは偏固になり、教養だけでは高慢に陥るというもんだ。

俺は、25歳で宗教団体から命からがら夜逃げして、いまの暮らしを始めたときから、もう二度と無知蒙昧に陥るまいとして、さまざまな本を読んできた。歴史、経済、民族学、宗教学、哲学、文学などなどだ。時にはこっそりエッチな本も読んできた。バランス感覚は必要だ。そして、自分なりに世界というものに対するイメージとスタンスを確立しようとして努めてきたつもりだ。
だからどうした、自慢かよ?って訊かれると、そうじゃないって言うしかないんだが。
つまり、自分なりの社会に対する確固たるスタンスを持たねば、容易にあやふやな自己など、大義名分に飲み込まれてしまうことになるっていうはなしだ。
だからと言って、社会と対峙するのに、より小さく過激な集団によって行うのは、ある意味で個としての弱さに他ならないようにも思える。

俺は思うのさ。
俺たちは誰だって、後藤健二さんになりかねなかったし、湯川遥菜さんにもなりかねなかった。
そしてまた、ジハーディ・ジョンにだって、なっていたかもしれなかったんだって。全ては機会と縁の問題で、たまたま俺にはその縁も機会もなかっただけのことに過ぎないって。

親鸞聖人は歎異抄のなかで『俺の心がよくって、人を殺さないって訳じゃないんだ。ただ、その縁がたまたま無いから殺さないだけなんだ』って言っているけれど、人間なんてのは、まったくその通りのもので、ジハーディ・ジョンを俺たちとは全く違った怪物か化け物のように思ってはいけない。
彼もまた、一人の人間に過ぎないってことが、俺にはよくわかった。
彼を冷酷で非情なモンスターだと認識することは、ある意味で思考停止だと俺には思えるのさ。もちろん、彼を擁護したり称賛したりする気はさらさらありゃしないんだがね。

読者諸君、失礼する。今夜ももちろん仕事をしてるのさ。