2015/04/28

Post #1483

Patan,Nepal
地下水が湧出してくるまで地面を掘り下げて設けられた水場。
ネパールでは、よく見かけた。
人々はここで水を汲み、洗濯をする。
そして、子供は遊び戯れる。そして、俺をうさんくさい奴のように見るのさ。

俺はユーラシアの反対側、スェーデンの片田舎をカメラをもってぶらついている。君たちは心安らかに暮らしているだろうか?
しかし、ここはどうにも寒くって仕方ない。おまけによいこの住んでるよい町といった風情で、なんだか俺には面白くない。善良そうな人々が、慎ましく、静かに暮らしている。人影はまばらだ。成熟社会だ。水清くして魚住まずだ。俺はナマズのように、欲望と退廃にまみれている方がいい。
闇が深いほど、光は輝くから。
仕方ない。ホテルの小さな部屋にこもって、目の前に広がる教会の墓地を眺めながらブログに加筆してみよう。

先日、バルセロナ郊外のモンセラットという聖地にある修道院を見てきた。
ノコギリの歯のような奇怪に聳える山の頂に、貼り付くようにして壮大な修道院が建っている。かつてここはナポレオンに破壊されてしまったために、今建っているのは19世紀から20世紀にかけて建築された御立派壮大なものだ。
イエス様はエルサルムの神殿が破壊されても、神はたちどころに新たな神殿を打ち立てると語り、神を冒涜したとして捕らえられた。それは信仰の篤さによるもので、けっして新しい神殿が作られるという意味ではなかったはずだが。
人間には、目に見える大がかりな仕掛けが必要だ。
それは往々にして、物事の本質を覆い隠してしまうがね。

この聖地は、幼いイエスを抱いたマリア様の像が山の洞窟から発見されたことから開かれたという。そこに電車とロープウェイを乗り継いで行ってみたのさ。

ここで少し、俺自身のことを語っていいかい?

俺は、浄土真宗の信徒だと自分のことを思っている。一応、家代々ある浄土真宗の寺の檀家にはなっているかれど、だからって訳じゃない。

開祖の親鸞上人の説く言葉に痺れたからだ。
『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』だ。
つまり善人だって阿弥陀様に救われるのだから、もっと切実に救いを必要としている悪をなさずに生きることの出来ない者達こそが救われるという教えだ。
ちなみに、親鸞上人も、寺なんか要らない、南無阿弥陀仏と書いた掛け軸ひとつあれば、どこでも仏の御前だと語っていたが、その親鸞上人を開祖とする浄土真宗の本願寺は、とんでもなくデカい大伽藍だ。親鸞上人もイエス様も、さぞや困惑されておいでだろうよ。


ほとんどの宗教は、行い正しく、無欲で、信仰篤い者しか救われないと説く。
けれど、それでは現在、誰がいったい救われるんだろうか?
俺は、自分では自分を業深く、自分の犯している悪や不道徳に対して無自覚な悪人だと思っている。そして、世の中には自ら生きて行くために、嘘をつき、他人を陥れ、他の命を殺め、あるいはまた非難されても仕方のないことをして生きている人たちがたくさんいる。そして、俺にとって大切な人の中にも、そんな人はきっといることだろう。

そんな悪人こそ阿弥陀仏は救ってくださると説いた親鸞上人と、心貧しき人は幸いであると説いたイエス様は、俺の頭のなかでは、とても気のあうお二人なのさ。

もちろん、俺も親鸞上人も、そしてナザレのイエス様も、悪を勧めて行えと言うものではないけれど、それを切り捨てて、救済などというのは、なにも問題の解決にならないんじゃないのかしら?

いったいぜんたい、俺たちにとって救いとは何か?
天国だの極楽浄土だのは、この際脇においておこう。そんな想像の産物は、俺たちには何の慰めにもならないだろう?
悩み苦しみながら生きている今このときに、その苦しみを和らげることが出来ない救いなどに、いったい何の意味がある?
信仰は、死者の鎮魂のためにあるんじゃない。

いま、現に生きている俺たちにこそ必要なもんだろう?

俺たちには、くそったれな世間の常識や道徳が受け入れてくれないこの存在を認め、無条件に受け入れてくれる超越的な存在が必要だ。
悪とされている行いをせずには生きられない俺たちに、寄り添って認めてくれるような存在が。
俺は、それが神でも仏でもなんでもいい。
とにかく、世界がその人を非難し、見捨てたとしても、それでもなお寄り添い受け止めてくれるような誰かが、生きて今ここにあるだけでいいのだと、それだけでよいのだと、認め包み込んでくれるような誰かが必要だ。
俺はずっとそう思ってる。


モンセラットに奉られているマリアさまは、長い年月でその姿はすっかり黒ずんでしまっている。それはどこか、母のような寛大さで、人々の罪を受け入れてきたからのようにも思える。
お願いだ、マリアさま、そしてイエス様、俺のことはいいから、俺の大切な人たちの心の重荷を、少しでも取り去ってやってはくれないだろうか?

俺は、そんなことを思いながら、神々しい祭壇に祀られたマリア像にひざまづき、ひたすら祈った。
脳裏には、自分に縁ある、ロクでもない男たち、自らの行いに心痛めている女たちのことを浮かべた。
心の底から、どうか俺の大切なその人たちに、そっと寄り添ってあげてください、その人たちを認め受け入れてあげてください、その心を救ってくださいと、心を込めて祈り倒した。

なにも知らない周囲の人々には、俺はとんでもなく敬虔なカトリック信者に見えたかもしれない。

けど、俺は地獄行き間違いのない男なんだ。なにしろ永年そっと心のなかで大切に思ってきた人にすら、反吐が出ると吐き捨てるように言われるくらいのくず人間だからな!


けれど、くず人間にも意地もあれば人を思う心もある。
神も仏も寄り添ってくれないのなら、俺は自分で、自分の大切な人達の心に寄り添っていくんだ。もちろん、俺には何の力もないけれど。その人達の苦しみや悲しみを背負ったら、俺は潰れてしまうかもしれないけれど、それでもその荷を分け持っていきたいんだ。
偽善者だって言われても仕方ないかも知れないけれど、偽善者だったら、自分のことを悪人とは言わないだろうよ!

OK、俺は生きてる限りここにいる。たとえ日本から遠く離れていても、いつだってここにいる。そして、君のことを思っている。なんの力もない罪深い男だけれど、君のことを思っている。君のことが大好きなのさ。なぁに、礼など要らないさ。俺は物好きな男なのさ。

読者諸君、失礼する。

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