2015/06/10

Post #1526

ヨーロッパ旅行の写真をプリントしていると、どうにも気分が沈む。
どうしてかな。北欧特有の薄ら寒い気候と、弱弱しい光のせいかな。
いやいや、陽光溢れるバルセロナの写真でも、そんな気にさせられるんだ。
光や気温のせいじゃないだろう。
人々の深刻そうな表情から、人が生きる、その幸せとは何かということを、暗室の中で考えさせられてしまうからだろうか。
いずれにせよ、写真が楽しくないってのは、俺にとっては辛いことだ。

けれど、去年の秋に行ったネパール旅行の写真は、そんな陰気な気分に陥ることなく楽しく焼けたし、愉しんでみることができる。出会った人々の多くが、笑顔だったからだろうか。

少し、自分の気分を変えてみたくて、久々にネパールの写真をお届けしよう。
Bhaktapur,Nepal
ゴムとびをする少女や、路地を駆け回って遊ぶ子供たちを写真に撮りながら、バクタプルの町の路地から路地へと流れるように歩き、ようよう夕闇が迫ってきたころ、どこからか人々が楽しげに謳う声が聞こえてきた。
アコーディオンや鈴の音とともに、男女が歌う声が聞こえるのだ。
見ればその声は、辻の真ん中にヒンドゥーの神を祀った祠のすぐそば、路地の角地に立った一件の建物から流れてくる。
俺たちは声につられて窓から覗きこむ。
そこは集会所か公民館の様な10畳ほどの部屋の中だった。
おじぃやおばぁが車座になって座り、日本でいうところの御詠歌を謳っているのだ。
何を言っているのか、俺たちには一言半句もわからないけれど、神様を讃える歌を謳っているのは、しっかりと分かった。
体を揺らしながら、楽しげに、鉦を叩き、太鼓を鳴らし謳っている。
誰もがニコニコしている。見ているこっちまで愉しくウキウキした気分になってくる。
すると、帽子をかぶったメガネのおじぃと目があった。おじぃはパーカッション担当だ。
おじぃはうなずき、謳いながら手招きする。
俺たちはちょっと躊躇ったけれど、面白そうなので遠慮しながら入り口に回り、靴を脱いで中に入った。
Bhaktapur,Nepal
小さな金属製のシンバルのようなものを叩きながら、経本の頁を繰っている一番奥のおじぃが、部落の長老だろう。その横に座る小太りのおじさんは、小さなシンバルを叩きながら、体をゆすって謳っている。ノリノリだ。
俺たちの座る向かいには、おばぁたちが3、4人座り、アコーディオンの様な楽器を弾いたり、トライアングルの様な鉦をたたいたりしている。

Bhaktapur,Nepal
何を謳っているのかさっぱりわからないが、ゆったりとした、懐かしい旋律だ。
節に合わせて手拍子を打つ。旋律に合わせてハミングする。いつの間にか、小さな拍子木の様な楽器が回されてきて、気が付くと、俺も一緒に叩いている。
上手くやろうと思わなくってイイのさ。
心地よい流れに身をゆだねていれば、自然と調子はあってくる。
心がほぐれて、暖かいヴァイブのなかを漂っていくのを感じる。

みんな、幸せそうだ。

一曲終わるごとに、果物や飴が回されてくる。
思わぬ来客のはずなのに、田舎の親戚の家に遊びに来たような気安さだ。こういう時に遠慮すると、場が白けちまうんだ。ミカンのような果物を、喜んで食べてみた。
おじぃたちは、あんたらどこからいりゃあたね?日本かね!そりゃええがね!なんてことを言って喜んでいる。
そのうち長老が、たどたどしい英語で、何か尋ねてくる。
このおじいはどうにも一座でも別格の存在のようで、この人が話すときは、他のおじぃやおばぁは静かにしているんだ。まるで校長先生のようだ。
長老の言うことを聞いていると、どうにも、『遠来の客人にお尋ねいたしたいのですが、わたくしども、スウィートなポテトなるものをこの地の名物にしたいのでありますが、それを英語で何というのか教えてほしいのであります』と言っているようだった。
俺たちは、そのスウィートなポテトとはいったい何だ?って、その場ではさっぱりわからなかった。そして、お互いに筆談したり、絵をかいたりして何とかそのスィートなポテトがどういうものか理解しようとしたんだが、どうにも見当がつかなかった。そして、長老に申し訳ないが、僕らは作物に詳しくないので、お答えすることができませんと答えると、長老はしょんぼりしていたっけ。
が、あとでよくよく考えてみたら、それはサツマイモのことだと思い至った。
英語名はもちろん、スウィートポテトだ。
長老、気が付かなくてすまなかった。
Bhaktapur,Nepal
仕事を終えたと思しきおじさんが新たに入ってきては、おや、外人さん来とんのか?みたいな表情を浮かべながらも、何事もなかったように空いた席に座ると、芋の話はまぁええで、つづけよまいか(あえて名古屋弁で書いてみた)と誰かが言ったようで、おじぃやおばぁたちは、また席に着き、楽器を奏で歌い始める。
もちろん、俺たちも拍子木を叩き、手を打ち、鼻歌の様にふんふんと旋律をなぞるんだ。

また、あったかいヴァイブがその場を包み込む。

御詠歌や念仏と、何ら変わりがない。日本人だのネパール人だの、そんな線引きも関係ない。
目には見えないけれど、その場に神様がいるんだろうってことが、はっきりと分かる。
神様は、俺たちが求めれば、実はどこにでもいるんだからな。俺はそういう感受性を持ってるのさ。なにしろ、若い時分に宗教にのめりこんで、山にこもって修行したりしてたくらいだからな。
神様がいるってことを、はっきり感じ取れてあたりまえだ。
Bhaktapur,Nepal
おじぃやおばぁの御詠歌に、なんだか変な外人が紛れ込んで、一緒になって謳っとるぞ!なんて噂が、狭い路地にはすぐ伝わるのか、窓から子供たちが覗き込み、じっとこっちを見ている。目を合わせて笑いかけると、照れくさそうに笑っている。
おばぁの孫の様な少女が、間を割って入ってくる。さっき外で見かけたゴムとびをしていた少女だ。

一緒になってどれだけ楽しんだことだろう。
おばぁの一人が、壁の(まさしく)神棚に祀られた神像に、賽銭をだすように言っているのがわかる。
おじぃの一人は、『そんなおみゃぁ、お客さんにそんなもん出さしてまってはいかんて』って、首を振っているが、おばぁは平然として『おみゃぁさんこそ何いっとんの。この人ら、わしらと一緒に神さんお祀りしたんだで、まぁはやこの人ら他所の人だないて、うちんたらの仲間だがね。だで、出してまったらええんだわ、これも何かの縁だで』なんて言っている。
そんなやり取りをしているのが、言葉は通じなくても、はっきり伝わってくる。
俺は、そりゃ『おばぁの言うとおりだわ、賽銭出さしてもらわないかすか』と、笑いながら名古屋弁でからりというと、たくさんの腕を持つ神像の足元に一枚の100ルピー紙幣を供えた。
神様の名はと問うと、おじぃやおばぁは満足そうに、口々に『ナラヤン』と答えた。
ナラヤンはヒンドゥー教の主要三神のうちの一柱、ヴィシュヌの化身だ。シヴァと並んでヴィシュヌは人気があるのだ。
きっと、このヴィシュヌの化身ナラヤンが、俺たちをこの場に導いてくれたんだろう。ありがとう。

さぁ、どこかおいしいネパール料理屋でも見つけて、晩飯にありつかないとな。俺たちは初めて会ったのに、懐かしいおじぃやおばぁ、そして子供たちに別れを告げて、すっかり真っ暗になった路地に出ていったんだ。

いま、こうして文章にして振り返っていても、あれは心の奥底から愉しいと思えるひと時だったよ。そこにはろくに電気もなかった。俺たち日本人が、最低限の生活に必要なものだと思っているもののいくつかが、きれいさっぱり欠落していた。けれど、あんな楽しそうな老人は、日本でも、そしてヨーロッパでも見たことなかった。そう、人間の幸せには、人と人のつながりが何より大切だって、俺はあの夜、改めて学んだんだ。


読者諸君、失礼する。できることならもう一度、あのおじぃやおばぁたちに会いたいもんだな。その時は君も連れて行ってあげたいよ。おっと、旅費は自分で用意してくれよ。頼むぜ。

2 件のコメント:

  1. こんばんは。
    人間の幸せって何なんですかね?
    考えれば考えるほど解らなくなります。
    Sparksさんのいう通り人間との関わりの中でしか感じられないものなんでしょうね…。

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    1. 思うに、人間のアイデンティティーそのものも、他者との関わりにおいてのみ発動するのではないでしょうか?無人島で一人では、アイデンティティーもへちまもなく、自然の一部ちゅうことになります。

      その流れで行くと、幸せどころかそれを感じる主体である自己すらも、人との間においてのみ、みいだされるものかもしれません。

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