2015/07/23

Post #1569

Bremen,Germany
仕事が過酷さを増してくると、何時しかなにも考えられなくなっていく。
戸板一枚向こうでは、きらびやかなショーウィンドウの前を、着飾った人々が愉しげに歩いているが、俺は埃まみれでコンクリートの床に、ベニア板を敷き、身体を横たえて細切れの睡眠をとっている有り様だ。それがなんと、坪単価一億円の一等地のことだから、ある意味豪奢なことだな。けど、坪単価一億円なんて、俺には関係のないことだ。

こうなると、仕事のことと自分がとりあえず生きているということ以外には、興味関心すらなくなる。
なにもかもが、そう、自分にとって大切だったはずの人たちまで、自分には縁のない遠い世界の話しのような気すらしてくる。
写真のことも、世界のことも、なにもかもが現実味を欠いた絵空事のような気すらしてくる。
銀座のど真ん中にいながら、月だか火星だかに、一人っきりで放り出されているような気がしてくるんだ。
そして、それでもゼンゼン問題ない気すらする。
だって、俺に興味関心のある人なんて、そうはいないんだろうから。
好意的なコメントを寄せてくれる少数精鋭の読者さんか、俺を凹まそうと目論む自意識過剰の奴くらいだろう。
どうせ、俺が自分の言葉を本当に届けたいと思っている人には、きっとなにも届いてはいないんだろうから。
月だか火星だかから、一人でせっせと信号を送っているような気分だ。
まさに駱駝のいない月の砂漠だ。

どこか、虚しい。

だから、このブログをある日突然、すべて消してしまっても、どうってことないような気すらする。

流れに身を任せるように、物言わぬ大衆の一人として、黙って生きていけばいい気もする。
俺がそう決めたところで、君に何かが変わるわけでもないし、君の生活から何かが失われる訳でもないだろう?
そんなもんさ。

俺自身は少し、退屈するようになるかもしれないけれど。こんなの所詮は暇つぶしなのさ。暇がなくなれば、やってる意味も半減だろう?無理をしてまで書くほどの内容でもないしな。

もう、やめよう。

けれど、そう思う時、いつも心の奥から湧き上がってくる言葉がある。
それは、自分の心にかかった雲を吹き払い、俺を照らしてくれる言葉だ。
俺をこの人間の世界に、大切な人たちに繋ぎ止めてくれる言葉だ。

なんという言葉でもない。シンプルで、ストレートな言葉だ。
それは以前、匿名の誰かさんから寄せられたコメントだ。
匿名さんなので、許しを得ることもできないが、ここに引用させてもらおう。


『いつもありがとう。時に勇気づけられ、時に笑い、時に泣いています。あなたのブログのあるおかげで私の人生が少し豊かになっています。』


今までもらったたくさんのコメントの中で、正直に言って、これがイチバン嬉しかったコメントだ。
俺はこのコメントを、旅先のスウェーデンで受け取った。
この時、俺がどんなに嬉しかったか、君にはけっして想像もつかないと思う。
こんな俺に、誰か見も知らぬ(ひょっとしたら知っている人なのかもしれないけれど)ひとの人生を、ほんの少しでも豊かにすることができたなんて、夢のようだよ。

この匿名のコメントに向かいあう度に、何度も心の中っでこの言葉を繰り返すんだ。
自分の心の折れそうな時にも、自分の胸の中でくりかえすんだ。
この名も知らない人のためにも、自分はこのブログを、故なくして放り出すことはできないと思うのさ。

だから、もう少し考えるんだ。ここで辞めちまってイイものかどうかを。一度投げ出してしまったら、何も残らない。それは残念なことだ。自分自身の歩みを、自分で否定することだ。
もう一度考えるんだ。へとへとに疲れ果てていても、眠る時間すら無くても、自分を曝け出し続けるべきかどうかを。

読者諸君、失礼する。俺がしんどいとき、君に助けてほしいとは、けっして言わないだろう。けど、この人の言葉に、俺がどれだけ助けられ、俺がどれほど感謝しているか、君にはわかっていてほしい。

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