2015/08/17

Post #1595

Bremen.Germany
僕は、自分が何者なのかが知りたい。
この世界に、どんな使命をもってやってきたのかを知りたい。
それを求めるのは、矢を射られて傷ついた怪我人が、誰がどんな意図で矢を放ったのかわかるまで、矢を抜いて治療してはいけないというようなものかもしれない。そんなたとえをお釈迦様が語っていたのを読んだことがある。もっともだ。
それを知ることがなくても、正しく生きることはできるからだ。そして、その時々、精一杯生きていくうちに、自ずと見えてくるものなのかもしれない。
僕は、それを見出したい。

そんなものはない、人生に意味はないというのは容易い。
けれど、人生に意味を見出さないことから、人間性への軽視が芽生える。

意味のない生を貪っているのなら、さっさと死んだほうがイイという、明らかに誤った結論に、いずれはたどり着いてしまうのだから。
あるいはその手前で、ニンゲンを利益を生む肉でできた機械のように考えるようになってしまうかもしれない。
他人を、自らの快楽の道具としてしか考えない、嫌な人間へ歩みだしてしまうかもしれない。
人間の歴史にみられる、ありとあらゆる愚行に、人間性への無理解があると思える。
僕は、そんな愚か者の仲間には、なりたくはない。


昨日、公園で酔っぱらいの浮浪者と、なんだかわからない話をして笑いあった。
酔っぱらっているんで、何を言っているのかさっぱりわからないんだがね。しかし、わからないなりに、とにかく面白かったのさ。
この人の存在にも、なんらかの意味があり、その人が真っ直ぐ僕を目指して歩いてきて、語りだしたということにも、なにか意味があるように思える。

時に、地霊が浮浪者の姿を借りて、自分に縁を結びに来たように感じる事もある。
なにしろ、彼らは地面に直接身を横たえて眠り、地の気を濃厚に受けているのだから。

僕は蝶が舞い、鳥がさえずるとき、誰かの魂が蝶の姿をとって現われたように感じ、鳥のさえずりに何かのメッセージが込められているようにも感じる。

風が吹くとき、離れた懐かしい人の気配を、風が運んでくれるような気がする。

昇る朝日に向かう時、光そのものが一種の力となって、体に注がれるように感じる。


世界でも有数の文化都市東京に仮住まいしながらも、僕の中には未開の心性が息づいている。
自然と人間とが、神と精霊とが交わっていた、遙か太古の心性が自分の中に潜んでいる。
僕は自分でそう思う時がある。

読者諸君、失礼する。

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