2015/11/22

Post #1685

Hamburg,Germany
たまの休みにカミさんと出かけてみたところ、地下鉄の中でばったり高校時代の同級生の女性に出会った。
こんなことってのは、ありそうでなかなかない。なんかバツが悪いような気がして、ちょっとあたふたしちまったよ。

降りる直前だったんで、ほんの二言三言言葉を交わしただけで別れたけれど、なんだか嬉しかったな。よく考えたら、お茶でも飲みに誘えばよかったよ。

読者諸君、失礼する。君と出会ったら、迷わずお茶を飲みに行こう。名古屋人は喫茶店が好きなのさ。

2015/11/21

Post #1684

アンディ・ウォーホールの描くヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコのアルバムジャケットを気取っているわけではない。
真夜中、小腹がすいたので、バナナわ食おうかどうしょうか、思案しているところなのだ。

これはあくまでも俺の個人的な見解なんだけど、バナナと女性は多少熟れてるほうが好きだな。
甘さがぐっとますし、柔らかくて舌に絡みつくような…。そばにおいておくだけで、甘い香りで胸いっぱいで、すぐにでも食べたくなる。いま、エッチな想像した人!妄想してちゃダメですよ!
だいたい、若い女はワビサビを知らないからな。つまらないぜ。ヴォジョレー・ヌーヴォー?あれもあんまり魅力を感じないな。
う~ん、俺もやはり年をとったということかな。みんな、もっと俺のことを気遣って欲しいぜ。

読者諸君、失礼する。人間、男も女も味わい深くなるには、ある程度の年月が必要だ。もっとも、そうなるためには、夜中にバナナを食べたりしないくらいの自己管理は必要だろうけどね。

2015/11/20

Post #1683

何事も、選択の自由というものが必要ではなかろうか?
とはいえ、人は往々にして、水が低きに流れるように、安楽な途を選ぶものだけれど。
読者諸君、失礼する。願わくば、自分の前途に艱難辛苦と波乱万丈、疾風怒濤と痛快無比なる後半生があらんことを!

Post #1682

HongKong
即物的な写真というのは、言葉に詰まるものだとおもう。
言葉による詐術が入り込む余地がない。
言辞を弄することに倦みつかれ、家に帰れば眠ってばかりいる俺なのさ。

読者諸君、失礼する。

2015/11/19

Post #1681

Tokyo
自分の言葉が相手に届いている実感がないと、どうにも無力感や徒労感におそわれる。
どうせ届かないのなら、黙っていればいいじゃないかとも思う。
人間は、根本的に孤独な存在だと思う。自分という牢獄にとらわれた囚人だ。

一方で、自分の発した言葉によって、相手が感じ入ったりすると、なんだか俺は心にもない虚言を弄して、相手をたばかってしまったのではないかという、居心地の悪さを感じたりもする。

自分が正しそうなことを言っているのを客観的に見ると、自分が偽善者のように思えてきて、うんざりする。そして、その偽善者の言葉に納得する相手を見るにつけ、自分が偽り多い邪悪な人間なのではないかと疑わしくなる。

とりわけ、メールやチャット、そしてこのブログでもそうだけれど、書き言葉でコミュニケーションする機会が多いいま、その想いは強まるばかりだ。ほんらい言葉は、声質、調子、表情、語気など、文字では表すことができないもろもろの要素によって、補完されるべきものだと思う。

間違いなく目的を達すると思えるのは、相手を非難し断罪する言葉だろう。
言葉は時に、人のこころを踏みにじる暴力装置となりうる。これについては、いろいろと反省するべきことが自分にもたくさんある。
だから、そんな言葉はもう使いたくはない。そんなくだらないことで、人生を浪費するような暇はどこにもない。

しょせん、心と心が深く結びついて、信頼しあっているニンゲン相手でないと、本当の心なんて伝わらない。そしてそれは、往々にして、言葉以外の態度でしか伝わらないのではないかと思う。

そこらあたりが、このブログを、時折自分自身が生み出してしまった薄気味悪い節足動物のように感じて、放り出し、消し去ってしまいたくなる原因でもあるだろうし、ごく少数の、自分の心をゆだねられる相手としか言葉を交わしたくなくなる原因でもあると思う。

読者諸君、失礼する。

2015/11/18

Post #1680

Bruxelles
人生にウンザリしたら、日々の単調な暮らしに倦み疲れたら、旅に出るべきだ。
もしくは、誰かと恋におちるか?

どちらも、ある意味で未知との遭遇だ。

お互いに片言の英語を使って、何とか意志を通じ合わせるのは、愉しい。見知らぬ街の普通の人々がやってくるような飯屋で、なんとか注文し、うまいものにありついたあの瞬間の充実感!

今までの生きてきた道程も、人生観も違う異性と、心をより合わせていくのも愉しい。そういえば、男と女の間では、言葉が通じない国に行ったかのように、思いを伝えあうのは難しいしね。
言ってくれなきゃわかんないとか言いながら、言ってみたって本気にされなかったりもするしな!

そういえば、俺のことを『港みなとに女がいるタイプ』と評した人がいたけれど、いったい俺の何処がそう見えるのか?自分じゃぜんぜんピンとこない。まったくの謎だ。

どちらも、指先と心の乾ききった中年男性たる俺の心を、少年の頃のように瑞々しくさせるだろうよ。これ以上にワクワクすることなんか、世の中にあるとは思えないね。

ブラジル、ニューヨーク、インド、シベリア、ボルネオ、チベット、サハラ砂漠・・・。
俺は行ってみたい場所を次々思い浮かべる。

あぁ、本だのCDだの家財道具の一切を始末して、帰ってこない旅に出るのも、悪くないかもな。
おっと、冥途の旅路は御免蒙るぜ。
こればっかりはいつか必ず行く道だからな。急ぐこたぁねえのさ。

読者諸君、失礼する。旅行に行きたい。カメラをもって。できうればカミさん以外の素敵な女性と!(笑)

2015/11/17

Post #1679


もし、今日という日が、人生最後の一日だとしたら、僕はどう生きるだろう?

朝、仕事に向かう道すがら、毎日眺める風景を見ながら、ふとそんな事を思う。
このいつでも目にしている風景が、今日で見納めだとしたら?
愛している人たちとも、今日でお別れだとしたら?
手掛けている仕事も、将来に抱いている夢も、すべて途中で放り出さなければならないとしたら?

くだらないことで、いさかったりしている訳にはいかない。つまらない意地をはって、自分自身の気持ちを偽る訳にはいかない。
人生最後の仕事を、適当に流す訳にもいかない。
大切なひとに、誠意と愛情を注がずに過ごす訳にはいかない。
たとえ、身も心もガタガタでも、唇を噛みしめて、すくっと立って最後の一日を生き抜かない訳にはいかない。

人生最後の日は、いつくるかわからない。それは今日かもしれない。
だから、この何気ない毎日を自分自身のかけがえのない人生として、考えないと本当に生きていることにはならないと思える。

読者諸君、失礼する。何時だって、死ぬにはもってこいの日だ。

2015/11/16

Post #1678

Paris
ISによるパリでのテロについては、思うことは実はたくさんある。
しかし、今日は言うまい。

俺が今日考えているのは、人間の救済ということだ。
というのも、昨日親戚の家に赴いて、法事に参加してきたのだが、その時ふと思ったことだ。

その親戚の家は、臨済宗だったので、普段俺が親しんでいる浄土真宗とはずいぶん勝手が違う。
お経だの和讃だの読んでいても、行いを正して、成仏するべしといったことが書いてある。
しかし、それでみんな救われるのか?

行いをただし、殺生せず、盗みもせず、嘘もつかず、淫欲にふけることもない。

それは理念としては結構だ。そうあるべきだろう?
しかし、そもそも人間は、そうは生きられない存在なんじゃないのか?
だれだって、そんな風に生きる事が出来るのなら、そもそも苦労はしないだろうよ。
そして、そうでなければ、成仏できない、つまり救済されないのなら、そもそもほとんどの人間は、救われない存在だということになるのではないか?

人が生きることは、そもそも苦しいものであるというのが、仏教の思想の根幹にはある。
生まれてきたことも、老いることも、病むことも、そして当然ながら死ぬことも、これらはすべて苦しみだととらえられている。
無限の時のなかを、生まれ変わり死に変わりしながら、未来永劫にわたって苦しみ続ける。それが人間に限らず、この世に存在するあらゆる生命の存在様式だ。
その救いのない生死観が、仏教の根幹にどす黒く広がっている。つまり、無明といことだ。
そこでは、現代を生きる私たちが、無条件に肯定する愛情すらも、苦を生み出す元として、否定されている。

その中で救済とはいったい何を意味しているのか。

救済とは、成仏とは、二度と再びこの世に生まれ変わってこなくてもよくなるということだ。世間の皆さんが、よく意味も分からず唱えている般若心経も、この世の中の存在には、確固たるものなど何もないことに気付いて、とっとと二度と生まれ変わらない境地に至ることを説いている。

その救済を得るために、人々は、現世的なしがらみの一切合切を捨て去り、自分に関わるあらゆる縁を断ち切って、出家して修行し、二度と生まれ変わることのない境地を目指したのだ。それを幸せだと感じる現代人は、まずもって少数派だろう。

けれど、そんな生き方は、万人にできる様な類のものではない。
人は、生きていくうえで、必ず他の生命を損ない、倫理を逸脱してしか生きていくことはできないからだ。愛欲の果てに、次の世代を生みだし、苦しみの連鎖を続けていかざるを得ないのだ。

これでは、どうにも救われない。

『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』

この一節を含む歎異抄を聖典とする浄土真宗門徒の俺は、ふと悪人こそが救われるべき存在であると唱えた親鸞聖人のことを想う。そしてまた、その異端ともいえる思想が、それまで救済される可能性など皆無と信じられていた当時の一般大衆に対しておよぼした衝撃のすさまじさをおもい、唖然とする。

現代の生活は、親鸞の生きた1000年まえとは、比べることが阿呆らしくなるほどに便利になり、また豊かになった。その結果として、生きることそのものが持つ苦しみは、見えにくくなっている。
けれど、実際には、昔も今も変わらず、人は悪を内包した存在としてしか、生きることはできないことに変わりない。
もし君が、そんなことはないというのなら、自分の行いを静かに振り返ってみればいい。一点の瑕疵もない人間など、どこにもいないだろう。

その事実の前に、俺は独り立ちすくむ。

そもそも、この神も仏もない、つまり目に見えない超越的な存在を信じえない私たちには、救済ということそのものがあり得るのか。
一時の快楽?老後の資金?社会福祉?金銭的な援助や保証?一億総活躍社会?
いや、そういうことを言っているんじゃない。もっと、人間の存在の根幹にかかわることだ。分かってほしい。

一人のニンゲンが、この世に存在していることそのものが肯定され、苦しみながらも自らの生を全うすることができるには、なにが必要かということだ。

すでに来世だの死後の浄福などを、微塵も信じることのできなくなっている末世の衆生たる私たちにとって、救済とはなにを意味するのか?
俺はそれが知りたい。
いかにしたならば、倫理に背きながらも生き続け、苦しみにまみれて生きるしかない私たちが、この生の中で安らぎを得て、自らの生とその先にある死を、肯定し受け入れることができるのか?
俺はそれを考えていきたい。

読者諸君、失礼する。小難しい話ですまん。けれど、もし誰かこの答えを知っているのなら、頼む俺に教えてくれないか。

2015/11/15

Post #1677



Post #1676

仕事の前に病院に行くのに、毎日同じ道ではつまらないので、いつもと違う道をあるいたら、変なものを見つけて撮ってみた。しかし、黒人の少年を象ったものだからか、こいつらは靴はもちろん、靴下すら履いていない。人種差別的なかおりがする。

どうでもいいといえばどうでもいい。
けど、どうでもイイ話で適当に流したって構わないだろう。どうせ人生の大半はすぐにわすれちゃうだろうしな

フランスのテロの話とか、安倍総理が万一の場合には、非常事態宣言を発して憲法を停止するとかいう、とんでもない寝言をほざいているという、大テーマを語るべきのような気もしないでもないけれど、そんなこと俺が言ったところで、誰も聞いちゃいないだろう。
なんのリアクションもないどころか、下手をすると炎上してしまう。俺と考えの合わない皆さんは、どうにも暇人が多いらしくて、そういうことを言うと、俺に噛みついてくる。
御苦労なことだ。俺のことなんか、放っておいたってかまわないじゃないか?面倒くせぇ。
炎上しても、PVが増えれば別にいいじゃないかって気もするが、別にPVの競争をしたいわけでもない。どうでもいい。しょせん、自分のためにやってることだ。
いうなればサルのせんずりだ。真面目にやるだけバカバカしいぜ。

誰も聞いちゃいないのに語るのは、時間と労力の無駄というものだ。

もちろん、俺はこう見えてこれでもイロイロ考えてはいるんだ。
考えているからって、君に話さなきゃいけないってもんでもないしな。
黙って考えて、この人生の最終回くらいで、指名打者みたいに自分の打席が回ってきたときに、密かに考え抜いてきた世界に対する認識と見識をもとに、自分ならこうするということを、実行すればいいだけなんだ。

まぁ、そんな日が来るとは思っちゃいないがね。なんだって、プロセスってもんがある。そんな打順が回ってくるんだったら、今頃もう何らかの兆しがあってもいい頃だろう。残念ながら、そんなもんはないのさ。暇つぶしに俺は世界のことや社会のことを考えてみる。けど、ここで君に言う気にはならないのさ。手間がかかりすぎるし、興味もないだろうしね。

世界のことや社会のことを考えるより、あのひとのことを考えてるほうが、ずっと楽しいのさ。悪いかい?

それになにより、ここでとやかく力んで言わなくたって、あのひとはいつだって俺のことをわかってくれているから、俺を誰よりも信頼してくれているから、ぜんぜん構わないのさ。

それにあと百日で、子供が生まれてくるんだ。自分じゃ何にもできないことをここで語るより、年末調整の書類をつくったり、おなかの子供に語り掛けてたりするほうが、よほど重要に思えるよ。

読者諸君、失礼する。今日は日が昇ったら法事に出かけなけりゃならないんだ。久しぶりにスーツを着ないとな。香典袋はどっかにあったはずだけどな。やれやれ面倒なことだぜ。

2015/11/14

Post #1675

雨の朝、仕事に向かう途上の、駅のホームで。
ふと、東海道本線上のこの線路は、西にも東にも繋がっていて、この線路に沿ってどこまでも歩いていくだけで、懐かしいあの人に逢うことができることに思いいたり、不思議な気分になる。

この冷たい雨のなか、あの人はどうしているだろう?
寒さに心まで冷えきっていないだろうか?
う~ん、気がかりだ。
読者諸君、失礼する。今日もそんなセンチメントなんて封印して、修羅の如くに働かねばならんのさ。

2015/11/12

Post #1674

秋桜を目にすると、コスモスを好きだと言っていたあのひとを思い出す。
それが路傍のショボくれたものであっても。
朝の光に伸びた影が、コスモスにかかると、現ではない想念の世界で、自分とそのひとがふれあったような気がして、すこしうれしく、また切ない気持ちになる。

読者諸君、失礼する。そのひとはきっと、一面のコスモスのなかで、にっこり微笑んでいるのがふさわしいとしても。

2015/11/11

Post #1673

サンパウロの森山大道をDVDで鑑賞
盲腸のおかげで、月見きしめんだの雑炊だの、なにやら頼りないものばかり食っている。
おかげでどうにも力が入らないが、力を振り絞って今日も働いてしまった。
おかしい。今日こそとっとととんずらして、療養させてもらうつもりだったのに。
まぁ、いい。今日も生きてる。どうってことないさ。

鳥雑炊を食いながら、日本が世界に誇る写真家・森山大道がブラジルのサン・パウロでストリートスナップをしているDVDを見る。

いいなぁ・・・。

あんなところを旅したら、360度、どこを向いても写真になってしまうだろう。とにかく、ニンゲンがうじゃうじゃしてる。それも、いろんな人種が入り混じって、カオスのようだ。
俺もブラジルには前々から写真を撮りに行きたいと思っていたんだ。
そう、中学生くらいから・・・。開高健の傑作ドキュメント『オーパ!』を読んだあのころから、ブラジルは、アマゾン川は俺の憧れの地なのさ。
マエストロ森山大道、悠然と写真を撮り歩く
う~ん、せせこましい日本の、これまたせせこましい仕事に忙殺されていると、どうにもここじゃないどこかにとんずらしたくなる。それは俺だけではあるまい。
しかし、大方の皆さんは思うだけで踏み出せず、毎日虚しく満員電車の座席を奪い合い、運よく座席にありつくと、眠りこけることになるのだ。あるいは、吊革につかまりながら、手にしたスマホでどうでもイイ情報を漁るかだ。

しかし、本当の人生はそげんところにはなかとですとよ!

今までいろんな国に行った。俺たちが考えもしなかったところにも、ニンゲンはうじゃうじゃ生きている。俺はそれが見てみたい。
言葉も通じぬ見知らぬ街を、カメラを片手に煙草をふかしながら、朝から晩まで歩き回ってみたい。
そうして、暗室に引きこもり、心安らぐほのかな赤い照明の中で、自分だけの街を印画紙の上に築き上げたい。

そうしているとき、俺は本当に自分が自分らしく存在しているって感じるよ。
見ていて思わず泣けてくるほどに、森山大道が羨ましい。俺の頬を伝った涙が、鳥雑炊の中におち、思わぬ隠し味になりそうだ。ふむ、それはそれでなかなか乙なもんだな。
写真についてぼそぼそと語る森山大道
読者諸君、失礼する。人生は、しょせん一つの長い旅路にすぎないのさ。

2015/11/10

Post #1672

近所の神社。桜の落ち葉から、桜餅の様な香りがする
やれやれ、虫垂炎で朝から点滴されて、家に帰って安静にしているようにきつく言われていたというのに、仕事が俺を離しちゃくれないんだ。女の子が俺をはなしちゃくれないとかなら、大喜びなんだが、あいにく俺の人生、付き合った女の子はどいつもこいつも、たいてい俺をあっさり手放してくれるんだ。それを想うと、泣けてくるけれど、今問題のなのはそこじゃない。

俺の腫れ上がった盲腸だ。

点滴打ってるあいだにも方々から電話がかかってきやがる。仕方ない。俺は電車にのって仕事に出かけたぜ。病院まで歩いてきたっていうだけで、馴染みの看護婦さんにはびっくりされてたってのに。安静に仕事をしてますとありえないことをテキトーにいってごまかしておいたぜ。

なにしろ現場は混乱を極めているんだ。毎日のようにわからんちんの施工業者が次々と参戦してくる。俺はそれをさばいていかなきゃならないんだ。力技だ。
家でぽんぽん痛いとか言って、布団にくるまってるわけにいかないんだ。
なにしろ、俺の社是は『倒れるまでやれ!倒れたら這ってでもやれ!』なんだ。
ここは迷わず行くしかないだろう。
仕事があるにも関わらず、俺が家で布団にくるまってるなんてことは、女の子に冷たくされた時くらいしかないのさ。ブログのバックナンバーを見て、この時はそれかぁ!とかチェックするのはやめてくれよな。
仕事帰りに。広角レンズは足が長く見えるものさ。
総理大臣の代わりはいても、俺の代わりはどこにもいない。
圧倒的な大声と、細かな気配り、そして絶対的な存在感だ。
どうしても欠かせないお昼の会議も、いつも通りに乗り切った。
誰も俺が腹の中に爆弾を抱えているなんてことには気づきもしない。

イイだろう、ここでもう一丁伝説を作ってやるのさ。レジェンド級超人の道は険しいんだ。

この会議だけ済ませて、さっさと帰って寝るつもりだったんだが、来客だ、会議だ、施工業者へのメール配信だの次から次へと仕事が押し寄せてくるんで、結局夜の七時前まで働いてしまったぜ。

さて、このまま上手いこと抗生物質だけで乗り切れるのか?
それとも、やっぱり一泊二日で手術をする羽目になるのか?
それとも、腹膜炎とかになって酷い目にあうことになるのか?
はたまた、敗血症とかおこして死んじまうなんて展開になるのか?

自分でも楽しみだな。リアル黒ひげ危機一髪の気分だぜ。死んだら死んだで関係ないさ。
安全牌きって生き延びることより、限界に挑んで伝説をつくるほうが俺にはふさわしいんじゃないか?

読者諸君、失礼する。どうでもいいけど、素うどんとかお茶漬けしか食わしてもらえないんで、腹が減ってかなわないぜ。

2015/11/09

Post #1671

Patan,Nepal
朝、仕事に行こうと最寄りの駅まで歩いていると、右の下っ腹になんだか鈍い痛みが走った。
しかし、俺は痛風だの結石だのをさんざん経験してきたおかげで痛いのにはすっかり慣れているのさ。だからこんなの、どうってことないぜってフツーに仕事に行ったのさ。こんな差し込み、すぐに治るだろうってね。

しかし、痛みは一向にひかない。現場に出て大音声を張り上げて忙しくしていると、これまた全然痛みを感じないんだ。脳内麻薬だ。けれど、事務所に戻ってくると、やはり痛い。

俺はさっさと早引きして医者に行くことにした。

診断結果は盲腸だった。素晴らしい!冗談じゃないぜ。

思わず笑えてきたぜ。こんなに元気なのに、なぜ病気だっていうんだ?確かに腹は痛いがな。笑いすぎても腹は痛くなるもんだ。

手術か薬か、それが問題だ。どっちが現場にはやく復帰できるかな?そこが焦点なんだ。

明日の朝も、点滴を打ちに来いとお医者さんには言われたが、そのあとさっさと仕事に行き、現場をうろついたり、名古屋の監督の中でもっともデカいと言われる声で、会議を切り盛りしたり、現場をおさめていくつもりなんだが。

カミさんは、腹膜炎になったら困るから、無理しないでくれという。
医者は、2,3日は安静にしろっていう。

冗談じゃない。今はそんなことしてられるような時期じゃない。

俺は行かなけりゃならないんだ。俺がやらなくて、誰がやるっていうんだ

こじらせて腹膜炎になったとしても、そん時はその時だ。大丈夫だ。俺には息子ができてるんだからな。死んだところでどうってことないさ。あとは息子に任せてりゃいいのさ。とはいえ、まだ妊娠7か月だけどな。

読者諸君、失礼する。今夜はとっとと眠るとするさ。