Photographica #N

中平 卓馬
『来るべき言葉のために』

1970年 風土社刊
2010年 OSIRIS再刊

これはもう、黙示録のような写真集です。
来るべき言葉のためにというタイトルながら、言葉を失う、絶句するような写真の連打です。

多くは、夜の都市風景を撮っていますが、そこにはブラッサイのような美しさ妖しさよりも、暴力的なアトモスフィアが漂っています。

闇に浮かぶ光芒、ぶれて流れる人影。

荒々しい粒子でプリントされた打ち寄せる波。

猫すらも、禍々しく見えてくるほどです。

通常の写真というものの概念を踏みにじるような写真集ですが、不思議とそこには、詩情が満ちています。

中平卓馬は、東京外語大学スペイン語学科を卒業し、左翼雑誌の編集者になりました。
そこで、詩人の寺山修司と写真家の東松照明を担当します。
多分に、文学的な素質を持った言葉の人であった中平は、自ら詩人になるか、それとも写真家になるかを悩んだ挙句、東松照明に導かれるままに、写真の道を踏み出し、同じ町に住んでいた森山大道から撮影やプリント技法の手ほどきを受け、写真家として歩み始めます。
森山大道と中平卓馬の描き出す、ハイコントラストで荒れた画面、激しくブレ、或いはボケている写真の数々は、それまで写真とはこうあるべきだと考えられていた文脈を、大いに逸脱していました。
そして、既成の写真評論家から当惑されたのです。
しかし、それはまぁ俺にはどうでもイイことで、こんな写真を見せれらたら、そりゃたまらないなと思います。生理的に訴えかけてくるわけです。どことなくエロチックですらあります。
明確に何かを指し示し、了解納得させるような写真ではなくて、自分の中の世界に対するイメージを打ちこわし、再生させてくれるような凄みを感じずにはいられません。
まさに、一度言葉を失いながらも、その沈黙の果てに紡ぎ出される『来るべき言葉のために』編まれた写真集であると言えるのではないでしょうか?
当時の中平卓馬は、技法的にはさほど上手ではないという評価もありますが、何よりもそのリリカルな写真は、感性に訴えかけてくるものがあります。
なにより、光の扱いが独特で秀逸なのです。

風景が、光の中に溶解していくようにも見える数多の逆光写真。

都市の片隅の闇の中、ギラリとした光によってその存在の本質が浮かび上がるような一瞬。

闇の中で、激しく光を求める、夜行性の昆虫のような感受性を感じます。
それは、人間にとってもとてもプリミティヴな感覚で、絶句しつつもその写真を見つめることで、自分のなかにも、光への渇仰というか感受性がよびさまされてくるのを感じることが出来るでしょう。
そして、荒れた粒子の画像は、学生運動全盛期で、騒然とした当時の時代の風潮に呼応していたようにも思われます。
中平卓馬自身はその後、写真は植物図鑑のように明快でなければならないというテーゼを自らに課してゆきます。その一方で、自分の言葉を、自分の写真が裏切って、その写真から、ある種のロマンティズムやセンチメントを断ち切れないことに大いに悩み、写真が撮れなくなってゆきます。
自縄自縛に陥ってしまうのです。
そして、1977年、急性アルコール中毒で昏倒し、記憶と言語を喪失した時から、自らの存在証明のように写真を撮りはじめ、まさに植物図鑑のような明快な写真を撮るようになるのです。
それは言葉を拒絶するような、存在そのもののまさに『写真』としか言いようのない壮絶な、写真の極地のような写真です。
中平卓馬は、写真の極地から極地へと軌跡を描いた、稀有な写真家です。
そして、この写真集は、中平の初めての写真集であり、その後の中平の写真の殉教者のような人生を予言するような、壮絶な写真集だと、僕には思えます。

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