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2026/09/20

POST#1967 過酷な日々を送っていた

2002年ごろの一宮にて コダックのリバーサルフィルムならではのえぐみのある色彩だ
ここ一週間ほど更新していなかったので、数少ない読者の皆様の中には、死んでるんじゃないかという疑念を持った方もおいでかもしれない。

大丈夫、俺たちはみんな、不完全な死者として生まれ、生涯かけて完全な死者へと完成していく。この宇宙では、ひょっとしたら死んでる方が通常な状態かもしれないぞ。

風邪を引いていたんだ。

しかし、前の現場の是正工事をふらふらしながらやっつけて、疲労困憊していたところに寝ていたところに息子にたたき起こされ、私立の中高一貫校の文化祭に連れていかされたんだ。去年まで女子校だというだけあって、生徒さんはほとんど女の子だ。

息子とカミさんが、製作体験とかやってる間に、俺は女子高生のお嬢さんたち相手に調子に乗った与太を飛ばしまくっていた。一見絶好調だが、それはろうそくが消える前に一番輝くというやつさ。

書道部で、おみくじを引かせてもらったんだがなかなか思うところがある内容だった。人生おみくじと恋愛おみくじがあったんだが、迷わず人生おみくじだ。老いぼれには恋愛なんて、40光年ほど遥か彼方の出来事だ。もう関係ない。女はもうこりごりさ。おっと、別に俺はミソジニスト🔗じゃないぜ。五十路ニストさ。おみくじにはこうあった。

中吉

 人生おみくじ💛

 変化

環境や心境に良い変化が訪れるよ

柔軟に受け入れてみてね

ラッキーカラー オレンジ

ラッキーアイテム イヤフォン』

だとさ。そして次の月曜日から新しい現場が始まったのに、風邪をこじらせ、発熱し、気味の悪い汗をかき、日々体力を極限まで消耗していた。

少なくとも体調に関しては悪い変化が訪れたよ!

木曜日も金曜日も、家のフローリングの床に寝転がったまま、死体のように眠っていた。

今朝も3時ごろ家に帰ってきたのだけれど、そのまま車の中でシートを倒して眠ってしまった。朝息子に起こされたくらいだ。そのあとも夕方まで泥のように眠った。

何せ、トラブル続きだ。他人には任せられない。俺が自分の足で踏ん張って、這ってでも収めていくしかないんだ。若い頃、倒れるまでやれ、倒れたら這ってでもやれと叩き込まれた。まったくその通りだ。俺の代わりは俺しかいないのさ。なんせ、フリーランスだからね。

うまくいかなかったからといって、誰かのせいにするような情けない真似はできないんだ。うまくいったら、自分についてきてくれた職人さんのおかげ。失敗したら、すべて自分の責任だ。それが一人前の仕事師というものさ。

さて、いったいこれからどんな環境や心境の変化が訪れるのかな。楽しみだぜ。とはいえ、女がらみだけはもうごめんだぜ。いろいろとこりごりなのさ。

2026/09/11

POST#1966 9月11日か・・・。俺はイスラモフォビアには反対だ

Istanbul,Turk
早いもので、2001年のアメリカ同時多発テロ事件🔗から25年、四半世紀だ。

俺の人生で起きた世界史的な事件のうちでも、東西冷戦終結、天安門事件と並んでビックスリーに入るね。

あれ以来、地球上にたくさんいらっしゃるイスラム教徒の皆さんに対する、いわれのない恐怖感を持つ人々がいるのは、まったく残念なことだ。なんせ地球人の4分の一はムスリムなんだぜ。

俺は、言うまでもないけれど、イスラモフォビア🔗には断固反対だ。

どんな宗教でも、いいやつもいれば、悪い奴もいる。そして、宗教的に守るべきルールが違ったところで、それを非難する資格もなければ、する必要もない。

すでに、俺たちの周りには多くのムスリムが暮らしている。息子の小学校にもムスリムの子息が通っている。給食はどうしてるんだろうな。学校給食はハラール🔗じゃないからな。

労働現場にも、インドネシアから多くのムスリムがやっていている。インドネシアは人口レベルで見ると、世界最大のイスラム国家だ。近年経済成長著しいマレーシアもイスラム国家だ。もちろん、日本の石油製品の大半は、湾岸諸国やイランなどの石油に依存している。

彼らの存在なしには、日本という国は成り立たないんだ。

ムスリムはその宗教的な教義のために、土葬の墓地を必要とする。それを水質汚染につながると頑なに拒否する人たちがこの日本にはたくさんいる。俺たちのじいさんくらいの代まで、どこに行っても日本中普通に土葬してたのにね。土饅頭って言葉は土葬墓地のことを意味してるって知らないわけじゃないだろう。

よく知らないからといって、感情的になって反発したり排除したりするのは、良き市民のあるべき姿とは言えないんじゃないかな。すでに、この国は疲弊して外部からの人々の力を借りなければ、社会のインフラの維持もできないんだ。わかってるだろう?

イスラム教徒だからといって、誰もがアルカイーダ🔗ISIL🔗みたいなテロ組織ではないんだとはっきり言いたい。日本にだって暴力団はいる。規模が違うからそれは不問に付すのか?あるいはターリバーン🔗のような抑圧的な社会を構成するわけじゃない。

確かに、価値観が違う面はあるかもしれない。

しかし、人間という実存存在に何ら変わりはないだろう?もっとも、何ら変わりもない人たちを穢多・非人といって差別してきたのも俺たち日本人だ。関東大震災の時に、朝鮮人を虐殺したのも俺たち日本人だ。15年戦争で、アジアでさんざん残酷なことをしまくったのも日本人だ。それを繰り返すような愚行をしてはいけない。

誰かを排除することで、自分のアイデンティティを確立することは、単なる分裂生成に過ぎないんだ。あいつじゃないから俺たちなんだっていう、恣意的な線引きなのさ。

あの日から、25年経った。俺たちは少しはマシになっただろうか?

かつてビリー・ブラッグ🔗は、19世紀の詩人ラドヤード・キップリング🔗の有名な一節 “What should they know of England who only England know?” を引いて、『イングランドしか知らない者は、イングランドのことを何も分かっていない』と歌った。

つまり「比較対象(他者)を持たない閉じた視点は、自己の姿すら正しく認識できない」という認識論的な真実をリスナーに突き付けたんだ。

俺は自分自身に問いたい。『日本しか知らない者は、日本のことを何もわかってない』

俺は日本以外の世界のことがわかっているだろうか?

2026/08/21

POST#1945 目を背けてはいけない

 








 

かつて、旅先でのある朝、妻子が眠っている間に早朝の熱帯の町を散策した。

共産党の旗の鎌を思わせる、ヤシの実ナイフ。

切り取られたヤシの実の房。

生々しく原形を留めたニワトリの肉、つまり死骸。

そして、排水溝に朽ちかけた猫の死骸。

それは、けっして世の人々の目を惹くものでもなく、視覚的に素晴らしい感銘や驚きを与えるようなものでもない。

けれど、生きていくうえで、自分が生きているという実感の地平から、これらの対象に視線を注ぎ、目をそらすことができない。


世界は美しくない。故に、美しい。

世界は残酷だからこそ故に、どこまでも優しい。


目の前の世界から、片時も目をそらしてはいけない。

2026/08/20

POST#1944 なぜ、眠らないと運転が荒くなるのか?



包丁か、鉈か。
朝まで働いて、家にたどり着いた車の中で小一時間眠ってしまった。
陽はとうに昇り、車内の温度は耐えがたいものになり、吹き出す汗の気持ち悪さに目が覚める。
起きてきた子供や女房の話を聞きながら話をしながら、モソモソと食い物を腹に詰め込む。
話は右から左に抜けていく。俺は眠いのさ。眠くてたまらないんだ、

例によって飯を食った後仕事の写真の整理をする。 これをフォルダーにまとめて クライアントに 毎日送るのさ。 俺のクライアントが現場に来ていなくても、現場の状況が手に取るように分かるようにするんだ。
おかげさまで多い時は、一晩に100枚くらい写真を撮るんだ。実は俺の 写真 趣味 っていうのは 現場の写真を撮ってるうちに 面白そうだなと思って 始めてみたものなのさ。 そうあれは長野オリンピックの頃だった。 二度ともう来ることのないだろう 長野の田舎の神社とか 飲み屋街の写真とかを映るんです を買って撮ったりしてたんだ。そっからが始まりだね。

だから俺の現場写真にはどこか君たちにいつもお見せしてるような写真のエッセンスが入ってる。 それが果たして クライアントにとって 見やすいものなのかどうなのかよくわからない。 ま クレームもないからいいけどね。

写真整理をして Google ドライブにアップしたいメールを作ったところでフローリングの床に伸びて眠ってしまった そりゃまあ そうだろう。 俺だって人間だ。そんなこともあるさ。

椎間板の 縮んでしまっている 疲れ切った体には フローリングの硬い床が心地よかったりするんだ。 しかし そんな眠りはすぐに電話のベルで起こされた。

現場で不具合があったからって言うんですぐに現場に行って対応しろって言うんだ。 あまりに酷だぜ。
まさにどっかの首相が『働いて働いて働いて働いて働いてまいります』とか言ってたけど、責任ある仕事をやってる小市民はとっくに働いて働いて働いて働いて働いて倒れるまでやり抜いて、倒れたら這ってでもやるのさ。

少なくとも俺は自分の先輩からはそうやって叩き込まれてきたね。 まる 今の若者とは生きてきた時代が違うってことだ。 決して嬉しいわけじゃないけどね。

しかし 睡眠不足で高速をぶっ飛ばしていくとどうしてあんなに運転が荒くなったり スピードが出ちゃったりするんだろうな〜。
全く こんなことやってちゃ命がいくつあっても足らないよ。

え、今夜?もちろん仕事だよ。
寝てないアピールは高市総理だけの専売特許じゃないのさ。


ちなみにこの鉈だか 包丁だかよくわからんような 刃物。
バリ島のその辺の町並みの朝 散歩してる時にとったものなんだけどきっと 鶏だか ドリアンだかをかち割ったりするんだろうな。手ズレしたグリップや、研がれていないのに、使うところだけ鈍く光る刃先に、写っていない持ち主の身体性が宿る。写真はイマジネーションへの入口であるべきで、けっして百聞は一見にしかず的な、わかり易いモノであるべきではないんだ。
自分の世界への視力を一段上げる踏み台のような写真。
好きだな。

こういう 全く映えない写真が 俺は好きだ。

2026/08/16

POST#1940 盛夏、百花繚乱その12

Ubud,Bali カトレアの一種か
盆休みも終わる。明日からまた、修羅場だ。

俺たちの祖霊は、俺たちの世界へと帰ってきたのだろうか。

日本では、人は死ぬと山中他界や海上他界に赴き、祖霊となる。

人を神としてまつるのは、そもそも八幡神社に祀られる応神天皇のような、半ば神話的な時代の始祖王のような方々を別にすれば、恨みをのんで不本意に死んだ者たちだった。

御霊神社の早良親王、北野天神の菅原道真などだ。

靖国神社や護国神社が、明治以来の戦死者を英霊と呼び神として祀るのは、俺には国家の権力によって、死地に赴き、命を奪われた者たちの恨みを鎮魂するためにしか思えない。

リトルワールドにて。
水木しげるが片腕を失って彷徨っていたニューギニアで遭遇したのは、こんな祖霊たちだったろうか。

2026/08/15

POST#1939 盛夏、百花繚乱その11

 

タイ、チェンラーイ郊外、ポインセチア!

終戦記念日か。

俺は心の中でいつも敗戦記念日と言い換えている。それが真実だ。世界の定説だ。

そして、失われた30年の果てに、円安にあえぎ、物価高に苦しみ、企業栄えて国民窮乏する一方の混迷を極める今日の日本は、ずばり『経済戦争の敗戦処理』を延々と生きている。

高騰する株価に目を奪われていてはいけない。自分の生活実感こそを信じるんだ。

この円安、海外旅行なんて狂気の沙汰だ。没落する日本はすでに世界の辺境でおあつらえむきの観光地だ。かつて、日本人が大挙して押し寄せたヨーロッパや東南アジアから、とんでもない数のもの好きがやってくる。千客万来だ。なんて言っても、物価はとんでもなく安いからな。これも円安のおかげ様だ。

仕事仲間と話していたら、日本の風俗街にやってくるのは今や観光客の外国人ばかりだ。何年か前までは外国人お断りという店も多かったが、これも時代の流れだろう。

かつて、日本人のおっさん連中が、東南アジアに買春ツアーとか行っていたことを思い出し、その業が今帰ってきたんだと妙に納得する。言葉の通じないところに、情愛は生まれない。相手を一個の人間として尊重する気にもならない。人間を自らの欲望の解消の手段にするわけだ。カントが聞いたら口から泡吹いて卒倒するだろうな(笑)。

日本人の俺は、生活に汲々として、とてもじゃない海外旅行に行く気になんかなれないさ。この円安に加えて、じいさんの面倒で可処分所得が減りまくっているからな。

だから、今日は女房子どもとリトルワールド🔗に行くことになるんだろうな。

せめて、リトルワールドで手軽に世界一周旅行の気分を味わうのさ。おすすめはチベット寺院とその横の売店だな。ただでさえ乏しい小遣いを散財することになるんだろうよ。

写真にあげたタイ北部ランナー地方の農家を再現した住宅も素敵だぜ。

愛知県犬山市の山の中に移築されたタイ北部ランナー地方の高床式農家

楽しみだな。どんなくだらないものが売っているのか。そして、それを手に入れることで、自分の世界に、遥か彼方の世界の人々との間に細々とした回路を築いてくれることが!

2026/08/14

POST#1938 盛夏、百花繚乱その10


 

Ubud,Bali、俺は悪人だから、死んだら蓮の花の上さ
中上健次の傑作『千年の愉楽』の登場人物のオリュウノオバは、かつて蓮池を埋め立てて造られた路地と呼ばれる被差別部落に住む産婆だ。

彼女は、現在と過去を自在に行き来し、マジックリアリズム的に重層的な過去を今ここにあるかのように思い返す。自ら取り上げ、淀んだ高貴な血の宿命を背負って、卑小な生をいき、非業の死を迎えた中本の一党の男たちのことを、年老いて不自由な体で想い返す。

時にその精神は寝たきりに衰えた肉体を抜け出し、時空を自在に飛翔する。

そして自らが世に生を享ける前の蓮池に咲いていた蓮の花が朝日を浴びて開く音すら幻のように耳にする。

このイマジネーションという能力こそが、人間の知覚を拓く。

やたらめったら丈夫なだけが取り柄の父を墓参りに連れて行ったあと、俺は帰りの車で父に、『おい親父よ、死んだ(俺の母親の)淑子さんや(俺の祖母の)ノブちゃんが、息子たちの迷惑にならんように早くこっちにおいで』って言ってなかったか?とブラックジョークを飛ばしまくった。父は車の後部座席の居心地が悪そうな顔をしながら、しれっと『いや、いってなかったなぁ…』と小声でつぶやいていた。冗談じゃないぜ。

おかしいな。俺にはそういう声が聞こえたように感じたんだがな。

2026/08/13

POST#1937 盛夏、百花繚乱その9

ウブド、バリ 蓮
美しい蓮の花は、仏教でもヒンドゥー教でも宗教的な象徴である。
そして、蓮の花は泥の中からしか咲かない。
人間のどろどろとした醜悪な側面、際限のない欲望、そして、あらゆる不適切な表現として今日退けられているような様々な事柄から目を背けるだけならば、人間性ってのは蓮の花のように開花しないんじゃないだろうか。
南方熊楠🔗が、なにかに書いていた話をふと思い出した。
昔、インドか西域の商人が交易に行くときに、日ごろから身持ちの悪いことで評判だった妻女が不貞を働いたらすぐにわかるように、その下腹部に蓮の絵を描いたという。半年ほど交易に出てかえってきて、真っ先に身持ちの悪い妻女の下腹部を検めるとあに計らんや、やはり密通していたようで蓮の絵が乱れていた。
さて、商人が妻女を問い詰めると、妻女は『蓮のもとには蓮根があるもの。誰かが蓮根を取りに来たのでしょう』ととぼけたという話だ。
どこに書いてあったのか、何十年も前に読んだ話だからすでに記憶があやふやで申し訳ないが、大意は間違っていないはず。何せ、読んで盛大に笑った記憶があるからね。

ふと、親鸞聖人🔗の『善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや』という言葉を思い出す。 いわゆる悪人正機🔗だ。俺は自分が善人か悪人か選ぶように言われれば、即座に悪人だと答えるだろう。心の中でよこしまなことを想ったら、やったも同じとイエス様も言っていたしね。

つねづね、いいことを言うときには、ちょっと悪いことをしているような後ろめたさを持つべきだという吉本隆明🔗の言葉を自分の中で反芻している。
そして、そこから導き出される自分の倫理は、善行は知られないようにそっと行い、悪行は堂々と行うという、一般的な価値観と転倒したものになる。仕方ない。それが俺の倫理観だ。面白いな。
そんな特異な倫理観を持つ自分からすれば、良いことをしました、よいことをやりますと!SNSなどで自己宣伝するのは、どうにも居心地が悪い。
良いことは、贈与のように見返りを求めず、称賛すら求めず、自らの内なる声に従って、ただ黙って行えばいいと俺は想う。
思うだけで、自分の生活で手いっぱいの自分が、偉そうに何を言うかという話だけどね。
明日は、不死身のクソ親父を連れて墓参りに行くのさ。なに家から車で15分。
そんなに難儀なことでもないがね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
あなかしこ、あなかしこ

2026/08/12

POST#1936 盛夏、百花繚乱その8

Ubud,Bali アカポゲットウ
世間様はすでにお盆休みムードだろうか。

俺は二晩続けて朝の五時過ぎまで働いて、フラフラだ。

そもそも人間は夜活動するようにはできていない。

夜八時から翌朝五時までとしても、昼間の労働時間を考えたら大したことはないと思うだろう。しかし、夜働くってのは予想以上に厳しいもんだぜ。とりわけ初老のおっさんにはね。

せいぜい熱中症でぽっくり行かないように、気をつけるさ。

さ、今夜も仕事だから眠らせてもらうぜ。この暑さですっかり参ってるんだ。

よしんば、ぽっくり行ったとて、馬鹿が一匹減っただけだけどね。

あぁ、墓参りもいかないといけないな。不死身のくそジジイもつれていかないとな。やれやれ、たまらないぜ。

R.I.P

 

2026/08/11

POST#1935 盛夏、百花繚乱その7


Ubud,Bali ブーゲンビリアが咲いていた
バリ島では、死者の魂はその神聖な山、アグン山🔗へと登り、そこで祖霊と一体化すると信じられてきた。

山の日だそうだ。
古くから、日本人は山は他界だと観念してきた。
ニライカナイ🔗補陀落🔗のような海上他界の観念もあるが、大部分の日本の常民たちにとって、死者の魂が赴くところは山の中であった。
そう思うと、このお盆の直前の時期に、山の日という形で休日が設けられたのは、どこか意味深長なものを感じる。
山の奥の死者の住まう霊域から、迎え火を頼りに祖霊は里に下りてくる。
人々は、古来、その祖霊を迎え、もてなしたのだ。
生者の住まう里と、死者の住まう山中他界は画然と仕切られていた。そこには、死者への懐旧の情以上に、死者への惧れの念があるよう感じる。
いずれにせよ、山は聖なる他界だった。死者の魂は、御嶽山や白山のような霊峰に上り、祖霊と一体化すると観念されていた。

しかし、さらにさかのぼってみればどうだろう。
更に古く、縄文の頃には、円形状に組み立てられた集落の真ん中に、広場があり、死者はその広場に葬られたという。
集落の、そして都市の構造は、そこに住まう者たちの世界観を表している。
この広場で死者をしのんで踊るとき、死者たちは生者の中に混じって立ち現れ、ともに歌い踊ったと観念されていたことだろう。そこに盆踊りの源があるのではないかと夢想する。

このころ、生まれて間もなく死んだ子供や胎児は、竪穴式住居の間口に葬られたという。
家人がそこをまたぐたび、その魂が母親の股をくぐり再び体に入り懐妊し、速やかに生者の世界に戻ってくることが望まれていたと考えられるという。
いつの頃からか、生者と死者の世界は明確に区切られ、生者と死者は春秋の彼岸、そしてお盆などにしかつながらないと考えられるようになった。
死者たちは、いつしか山奥にあるいは海の彼方に追われたのだ。
しかし、俺は想うのさ。本当は死者たちは、俺たちの血の中にこそ息づいているって。

2026/08/10

POST#1934 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。

2026/08/09

POST#1933 盛夏、百花繚乱その5

京都五条、槿

明けがた、帰り道にラーメン屋に行こうとしていたのだが、仕事が終わった時点ですでに朝の6時前。国道沿いのラーメン屋は5時で閉店だ。仕方ない。松屋で牛カルビ定食でも食らうか。渡邊英理という方が書いた『中上健次 路地のヴィジョン🔗』を読みながら、ペラペラのカルビ肉を噛み、その肉から染み出すうまみを味わう。

目を閉じて、遠くに咲く花を思い浮かべ、そこにそよぐ風を想う。

芙蓉かと思っていたら、これは槿だった。

中上健次🔗の小説、『千年の愉楽🔗』では、主人公である路地の産婆にして語り部のオリュウノオバが、夏芙蓉の花の香りに誘われて、寝たきりのまま、かつて自らが取り上げ、生の盛りで断ち切られるようにその命を断たれた若者たちのことを思い出すシーンがあることを思い出しながら、牛カルビ定食をほおばる。ソースはバーベキューソースだ。

ご存じない方のばかりだろうから、記しておく。路地は紀州熊野新宮の被差別部落だ。

オリュウノオバは、文盲だが産婆として取り上げた路地の一人一人の人生を地母神のように自らの内に刻み込んでいる。文字にして外在化しないがゆえに、未開部族の語り部のように自らの内面に、人々の生のディテールを細大漏らさず刻み込んでいく。

オリュウノオバの旦那の礼如さんは、村にただ一人の毛坊主、つまり在俗で寺住ではない僧侶だ。路地のものが死ぬと、礼如さんは念仏を唱え、死者を弔う。文盲のオリュウノオバはその誕生日と命日を、すべて諳んじている。彼女にとっては、毎日が迂遠の何者かを取り上げた日であり、その誰かが死んでいった日なのだ。

オリュウノオバと礼如さんは、路地の人々がこの世に生を享け、その生を終えて彼岸に渡るという流れの両端に位置している。路地の者たちの卑小なる生は、この二人の存在によって円環を成し、永劫回帰する聖なる存在へと昇華していくように俺には思える。

俺に言わせれば『千年の愉楽🔗』は、まさに現代の『古事記🔗』なんだ。

中上健次の小説には、人類学や社会学の様々な構造が、見事に嵌め込まれていることが、『中上健次 路地のヴィジョン』を読んでいるとわかる。レヴィ・ストロース🔗網野善彦🔗、コモンズの思想、そしてJ・C・スコット🔗によって展開されるゾミア🔗的な思考。

それは、かつての俺を、無意識のうちに現在の地平へといざなってくれたものだと痛感する。

今もどこかで暑い風に、花がそよいでいる。

久々に食った牛カルビ定食は、肉ダブルでもよかったかもな。

2026/08/08

POST#1932 盛夏、百花繚乱その4


ウブド、バリ 姫極楽鳥花、その名がどこか艶やかだ
もとより人が抱えていたはずの泥臭さ、毒々しさ、エロティシズム、猥雑さといった「生と性のリアリティ」は、ネット社会のアルゴリズムのフィルターと、社会を覆いつくすコンプライアンスによって「不適切」「有害」として一律に弾かれ、機械的・衛生的に除菌された。

しかし、表で抑圧された生のエネルギー、つまりは性や欲望そのもは、消えるどころか、AIなどのテクノロジーを用いることで、より醜悪な形で華開いた。
その欲望はヴァーチャルな世界での「生成AIポルノ」としてより執拗に、よりグロテスクに繁茂している。人々の歪んだ欲望を喚起するものは放置され、その欲望に身を任せたものは汚物のように社会から排除される。
フェイスブックでは、AIによって生み出されたあられもない痴態をさらす女性が、次々と友達のようにすり寄ってくる。どんなに痴態をさらしても、魂がないのなら羞恥もないし、含羞のないところにエロスもない。
もう二度と、この歪んだシステムを根こそぎ摘み取ることはできないだろう。

ここに生じているのは、「生身の人間同士の血の通った性や手触り」を徹底的に排除し抑圧しながら、その一方で「画像や記号としての性」だけを消費しつくすという、歪んだ倒錯そのものだ。
画餅にしゃぶりつくことはできないのさ。

生身の恥じらいやケア、人情といった「手触りのある現実」からは目を背け、安全な画面の裏から他人の肉体をデータとして弄ぶ。
荒木経惟が写真で捉えようとした「生々しい愛や生命の美学」とは真逆の、冷たくグロテスクで、衛生的なデジタル・ディストピアの荒野が茫漠としてどこまでも続いている。

けれど、俺は知っている。美しいだけの人間など存在しないことを。
いかに美しい人も一皮むけば、肉と骨と血の集合体でしかないことを。
そして、美しい人も、たくましい人も、醜い人も、いずれ老い、死んでいくことを。

2026/08/07

POST#1931 盛夏、百花繚乱その3

ウブド、バリ スパティフィラム
この15年ほどで、社会がコンプライアンスだハラスメントだと大きく変わっていくのに歩調を合わせるように、荒木経惟は人々の前から消え去っていった。猥雑性が社会から失われ、的なプラスティックのような社会になり、人々は不寛容になった。かつてのアラーキーの写真には、都市の表面から覆い隠された不穏さ、混沌とした人間の欲望、逃れ得ぬ人の業としての性と死が、エロスとタナトスが、そしてなにより「生きることの生々しさ」が充満していた。

しかし、コンプライアンスやハラスメントという「管理と安全」の言葉が、社会全体を隈なく覆い尽くすにつれ、かつて彼を時代の寵児としていた猥雑、混沌、欲望といった生の息吹は、人々から見るもおぞましい、「排除すべき汚物」として扱われるようになった。

社会全体が滅菌され、無菌状態の「ポリティカル・コレクトネス(PC)なプラスティック社会」へと変貌していったのだ。

彼自身も、モデルとなったかつてのミューズたちから、次々と性被害を告発され、社会的に葬られたも同然となった。

そして、彼自身も失明したり、前立腺癌になったりしたことから、自然とかつての旺盛な写真集ラッシュを支えていた比類なき活力も失われたようにみうけられる。寂しいことだが、これも世の習いか。それとも、時代が大きく変わったということか。

昭和は遠くに、成りにけり。

この清潔な荒野には「含羞と露出」を許さない不寛容さが満ちている。

「顔=恥部」や「花=性器官」という見立ては、人間が本来持っている「矛盾や業」を受け入れ、面白がるという寛容さなくしては成り立たない。

社会の隅々にまで正しさの踏み絵を迫る現代の不寛容な社会では、荒木経惟が俺たちに提示してきたような「愛ゆえの猥雑さ」「剥き出しの生と死」はどこまでも忌避される。
そして、人々は、欲望や生や死を社会の表面から消し去って、そんなものはどこにもないような顔をして暮らしている。口元をマスクで覆って。まるで、内面を持ち合わせないような、記号のような人々が、せわしなくスマートフォンを見つめながら行き交う。

まぁ、こんなことを今更言ったとて、世の趨勢には及ぶべくもない。
何しろ、この俺とて、セクハラってことで契約を叩き切られたこともあるくらいだ。荒木経惟と同じで、世の人々から指弾される側の不埒な存在なのさ。
だからこそ、言わぬが花さ…。

2026/08/06

POST#1930 盛夏、百花繚乱その2

ウブド、バリ  クリステミス・ブルケラ

俺の言葉は、単なる思い付きじゃない。

分類学の父であるカール・フォン・リンネ🔗が提案したことをなぞっているだけのこと。

18世紀、リンネは植物を分類するために、花のおしべとめしべの数や配置に着目した「性分類体系(その名もズバリSexual System)」を打ち出した。その際、彼は植物の生殖器官を人間の性や結婚に見立てたため、花弁を「祝宴のベッド」、おしべを「夫」、めしべを「妻」と形容した。酔狂な学者だな(笑)。

例えばおしべが2本ある花を「1人の妻に2人の夫がいる結婚」といった具合に表現し、植物の生殖器官を大胆かつ生々しく描写した。なかなか楽しそうだな。

それまで単に美しく愛でる対象であった花が「あけすけな生殖器の露出」として捉え直されたため、当時の潔癖なピューリタン🔗の皆様は、美しい花々を「淫らで不道徳」「婦女子に見せるべきではない」と猛反発した。

バカバカしい、自分だって持ってるくせに。

荒木経惟🔗が、どこかで言っていたことを思い出した。

『裸体のいちばんの恥部であって、一番魅力的なところが顔なんだな。』(荒木経惟『すべての女は美しい』55頁より大和書房刊)

同じようなことを彼は他でも語っていた。女性の体で最も淫靡なのは、その顔なんだという。美しい花が、満開の生殖器官であるという言葉と響き合っているな。

普段からマスクをして暮らす若い女性たちは、その淫靡さを自ら悟っているからだろうか?

2026/08/05

POST#1929 盛夏、百花繚乱その1

バリ、ウブドにて
暑い時期の仕事は、肉体を蝕む。
日中に、細切れの睡眠を取っても、仕事の夢ばかり見る有様だ。窓を締め、クーラーをかけていても、セミの声が耳に響き、眠りは浅くなる。
眠れないので、息子を連れて、同級生のやっていいる耳鼻咽喉科にいく。息子は副鼻腔炎を起こしていて、この暑い中、青っ洟を垂らしていたのだ。良くなったからよかったものの、今度は乳歯がグラグラで、集中できないと宣う。俺は仕事用のベンチで抜いてやるといい、友人の耳鼻咽喉科医の藤本君は、ピンセットでグラグラさせてみて、これはまだだなと納得させる。
生きるとは、こんな日常の連続だ。

花とは不思議なもので、動物が身体の深奥に隠している生殖器官が、あたかもその植物を表す指標、つまりは顔のように露出している。
斯くほどに植物は、動物とはまったく異なる構造を持っている。むしろ、倒立した構造を持ったものだと言えるだろう。

だから、花の美しさを愛で、その香りを胸いっぱいに吸い込み賞することは、どこか淫靡で背徳的な行為に俺には思える。

だからしばらく俺の脳内で蛭子のようにくらげなし漂う思念のなかから、書きたいことが言語化されて浮かび上がってくるまで、花の写真でもお送りしよう。

こんなことを言われたら、そう、含羞を覚えずに花を眺め、香りを楽しむことはできないだろうね。
ある意味、呪いの言葉なのさ。


2026/06/30

POST#1893 始皇帝の中華統一と人権なんてくそくらえという思想の源

 

2015年に東京国立博物館でご対面

世界三大墳墓というものがある。

世界三大墳墓とは、エジプトの「クフ王のピラミッド🔗」、中国の「秦の始皇帝陵🔗」、そして日本の「仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)🔗」の3つのあきれるほどどでかい墓だ。

あの世にゃ何も持っていけないというのに、歴史上の権力者がその絶大な権威を誇示するために造ったものだ。それぞれ「高さ」「体積」「敷地面積」のいずれかで世界最大級の規模を誇っているんだとさ。ご苦労なこった。

その中でも異彩を放っているのが、秦の始皇帝陵だ。延べ70万人以上の労働者を動員し、約40年をかけて造られた巨大な人工の丘です。1974年には、始皇帝を死後も守るために造られた等身大の兵士や馬の陶器人形「兵馬俑」が近くで発見され、世界を驚かせたわけだ。

この兵馬俑は日本でも何度か公開されたことがあるから、実物を見たことがあるという人も多いだろう。俺も以前、東京に仕事で行ったついでに国立博物館で見てきたんだ。

2018/03/26

Post #1705 僕は、自分自身のために、この人生という泥沼の局地戦を戦っていきたい

2001年12月、どこかで。
人の一生は、それは短く儚いもので、如何様に成功し、あるいは失敗したとしても、それは単なる局地戦でしかありえないものだとも思える。
仮令、人類史上に燦然たる足跡を遺そうとも、それとても時間の流れの前では瞬く間に陳腐なものとなり、ほどなく忘却されるのは、論を待たないであろう。
ピラミッドのように、数千年遺る仕事を成し遂げたとて、悠久なる時間の流れは、個々の人間の存在など、大河の一滴のように押し流していってしまう。
いわんや、一人の人間の運命と決断が、この銀河系宇宙の趨勢を決するなど、スターウォーズの中くらいしか、あり得ないだろう。

この世の中を基準にしている限り、自分の人生は、虚しい局地戦でしかない。

『マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや』寺山修司

ふと、そんな短歌を口ずさむ。

自分自身は、自分にとって、国家よりも社会よりも大きな存在だ。

これは僕にとって、自明の理だ。しかし、そう思っていない人たちも、たくさんおいでなんだと思う。OK、それはそれでノー・プロブレムだ。しかし、自分を棚上げして、地に足のつかない言説を弄する様を見ているのは、気が滅入る。どうせ、本気なわけでもあるまいに。

僕は、自分自身のために、この人生という泥沼の局地戦を戦っていきたい。

2018/03/24

Post #1704 春の日に独り嗚咽

息子と妻は、動物園に行ってしまった。
僕は、夜勤明け。
ベッドに横になりながら、眠ろうとしつつも、無性にニール・ヤングが聴きたくなって、スポッティファイで聴いている。
ふと、感情の固まりがこみあげてきて、独り、声をあげて嗚咽してしまった。

言葉にすればそれは、自分が何者にもなれず、ただ地を這うように生きて行くことで精一杯だと思いいたり、あり得たかもしれないさまざまな可能性に、(それはこの宇宙で永久に失われてしまった。)悲しくなったということだろう。

やれやれ、50歳も間近だというのに、なにを言ってやがる…。
なにもかも、ニール・ヤングのせいだな。