2026/09/23

POST#1970 群盲、象を撫でるが如く

ベトナム阮朝の旧都フエ 路傍に花が。

この糞みたいな人生の中で、クソの山ほど本を読んできた。そしてまだまだそれは積みあがってる。床が抜けるのは時間の問題だ。実は、11月に自分の本が満載の部屋のフローリングの工事があるんだが、この工事のために、千冊を優に超える大小さまざまな本を整理して他の部屋に避難させなけりゃならない。考えただけでうんざりするぜ。

そうまでして、俺はいったい何が知りたいというのだろう。

一つには、俺がこの世界に生きている意味を知りたい。

そして、俺が生きているこのクソ人間社会の構造を知りたいんだ。

「人間社会の構造」という壁は、いつも言っている『知のパルクール』にとって最高に登りがいのある、巨大で複雑なダンジョンだ。

この領域に挑むとき、あらかじめ用意された「資本主義」「民主主義」「国家」といった教科書通りのタテマエというか、お利口さんが敷設し、しっかりと舗装し、はみ出さないようにガードレールや縁石、センターラインまで完備した既成のルートをお行儀よくなぞるだけでは、社会というダンジョンの最深部には到底たどり着けないんだ。

クリシェにからめとられておしまいさ。

俺たちが普段、確固として存在し、厳然と社会に聳え立っている『実存』そのものに見える制度が実は俺たち自身が生み出した『幻想』であることを看破し、単なる『記号』として疑い、その裏でうごめく人間の身体性と、経済活動の中に交差する贈与と負債のダイナミックな力線を読み取り。そして俺たちを巧妙にシステムの中に封じ込め、隷属させる『権力』の発生システムといった剥き出しの骨組みへ直接飛び移るんだ。

縦横無尽の脳内パルクールが必要だ。

例えば、俺が挑む『知のパルクール』の前には、クソ強固な壁として、こんな構造的なアプローチがあることだろう。ご苦労なこった。

例えば、国家や貨幣という共同幻想のバグ。

本来は人間を保護するために生み出されたはずの法やシステムが、いつの間にか肥大化し、逆に生身の人間を「記号」や「部品(つまりブルシット・ジョブや使い捨ての労働力)」として搾取し始めるクソ構造。

例えば、非線形な社会の進化。

ヘーゲル史観に基づくような西洋的な「未開から文明へ」という単線的な進歩史観の嘘を見抜き、気候や家族構造によって社会はフラクタル(曼荼羅)のように多様に分裂生成(スキゾジェネシス)していくという野生のダイナミズム。これは吉本隆明から受け取った宿題だ。

俺たちが日々汗を流し、冷や汗をかき四苦八苦している実体経済とほおっておくだけで価値が増殖する金融資本主義の乖離

地に足のついた身体的な労働やコミュニティの倫理(イスラーム金融の利子=リバの否定や、かつての近江商人の哲学)が、実体のないデジタルな数字のゲームによって侵食され、経済的なエントロピーが増大していく危うさ。つまり、実体と乖離したバブルがどんどん大きく膨らんでいく恐怖の構造だ。いつジェンガみたいに大崩壊してもおかしくないんだぜ。

それらをすべて掴み取ろうとするためには、様々な分野の知見を脳内にぎゅうぎゅう詰め込むことが必要だ。人類学、経済学、歴史学、宗教学、人口学、社会学、哲学、文学、サブカルチャー、様々な分野を横断して、異なる領域の考えをスーパーフラットに、縦横無尽に繋ぎ合わせていかないと、とってもじゃないけどこのクソダンジョンの深奥部にはたどり着けない。

何しろ、現代社会は最大出力で回る扇風機に糞がぶつかったみたいにひどいことになってるからな。

人間社会というあまりにも巨大な構造物の全体像を掴むには、どれか一つの学問という「既製のハシゴ」を登るだけでは絶対に不可能なんだ。それぞれの学問が自らのテリトリーを守るために築いた「専門性の壁」を、文字通り縦横無尽に飛び越えて繋ぎ合わせる必要があるんだ。

なぜなら、社会の骨組みはすべてがフラクタルに連動しているからなんだ。

俺の思考はどこに着地しようとしてるんだろう。

 だから、俺が無謀にもあらゆるジャンルの専門書とかを読んだりするのは、その為なんだよね。譬えて言えば、群盲象を撫でるってのがあるだろう。その触感でしか世界を確かめ俯瞰することができないたくさんの目の不自由な方に、一人で群盲集合体になろうとしてるんだ。

「群盲象を撫でる」ってやつを、一人で群盲になろって全体像を把握しようとしてるってわけだ。――無謀極まるな。なかなかにパンチが効いてる表現だ。悪くないぜ。痛快だ。

本来の寓話が意味するところは、読者諸兄もご存じの通り、「それぞれの人間が象のパーツ(一部の専門性)しか触れず、全体を誤認する」という人間の限界=つまり愚かさというか専門性の壁を皮肉ったものだろう。

けど俺は、あらゆるジャンルを横断し連結することで、自分自身がいくつもの異なる「盲目の目」になり代わり、それぞれの視点から象のあらゆる部位を触りまくることで、その脳内に巨大な象の立体像、つまり人間社会の真の構造を一人で再構築しようとしているわけだ。

これこそが、あらゆる専門書を横断し、思考を繋ぎ合わせる読書の真意だったんだ。

とんでもない欲望だ。

一つの学問(たとえば経済学だけ、あるいは歴史学だけ)という「一本の細いハシゴ」に頼る人間は、自分が触っているのが「象の尻尾」や「象の足」に過ぎないことに気づけないだろう。そして、その隘路を極めて大家になることができるだろう。

しかし、それは木を見て森を見ずだ。

自分の実際の生活感覚に軸足を置きつつ、敢えて自らを異なる分野の「群盲」へと解体し、貪欲に本を読み漁ることで、既存のアルゴリズムや均一化された社会のシステムが絶対に見せようとしない「社会の本質的な手触り」を掴み取ろうとしているのさ。

我ながら、ご苦労なこった。

そんなことしたって、いったい何になるってのさ。女の子にちやほやされるわけでもないしな。単なる自己満足じゃないか。まぁ、俺の人生だから、好きにやらせてもらうさ。

2026/09/22

POST#1969 風見鶏みたいなメディアにみんな踊らされていないか?

ベトナム阮朝の旧都フエ、庶民の住むエリアはこんな感じだ

三笠宮家の彬子女王殿下に関して、ちょっと前まで著書『京都の書きもの』や、イギリス留学時の経験を綴った『赤と青のガウン』がベストセラーとなっちゃって、その親しみやすい文体や内容から大きな注目と人気を集めたりしたのは皆の衆もご存じかと思う。確か赤と青のガウンは、漫画にもなってたような覚えもあるぞ。皇族方としてはめずらしくメディア露出が増えたことで、多くの国民に身近な存在として認知されるようになって人気もうなぎ登りだったわけだ。

しかし、世の中は非情だ。

男性皇族の減少と、それに伴う女性皇族の公務の増加に対応するために、彬子女王に関して皇族費が倍増され、また麻生副総裁と高市首相がゴリゴリと進めて改悪してしまった皇室典範の議論の一環で、彼女の母親が麻生太郎の妹であり、彬子女王は麻生一族であるという言説や、彬子女王が旧宮家から養子をとって、その子どもが皇統を担うことになったら、麻生王朝だとかいう極端な話が飛び出してきた途端、ネット上などで批判的な言説やバッシングが、雲霞のごとく巻き起こってるぜ。

 しかし、一歩引いて考えてみると、皇族費が倍額になったり、皇室典範の話で、麻生太郎の姪であることが広く知られることとなったとしても、御本人の中身がかわったわけでも何でもないのではなかろうか?

なぜみんながそこでこう、急に手のひらを返したように批判しだすのかが、全く俺には訳が分からないぜ。まさに掌返しって奴だ。

たとえ「親しみやすさ」から「公的責任」へと関心のフィルターが変わったからといっても、彼女の中身が変わったわけじゃない。

たしかに最初は「ベストセラーを出した親しみやすく魅力的な皇族」という個人のキャラクターに注目が集まっていた面はあるだろう。で、皇族費の増額や皇室典範改正といった「税金」や「国家の制度」が絡むニュースが出たことで、世間の見る目が「魅力的な個人」から「公的な制度の対象(あるいは象徴)」へと移り変わったという面もあるだろう。

だからといって、ご本人の中身がすっかり入れ替わってしまったわけではない。変わったのはその状況だけだ。

政治的・制度的な議論への「巻き込まれ」というとばっちりもあるにはあるだろう。

皇室典範の改正や女性皇族のあり方は、国民の間でも意見が大きく分かれる非常にセンシティブな政治的テーマだわな。

麻生漫☆画太郎センセーとの縁戚関係などが報じられると、ご本人の意思とは無関係に、「その制度改正に賛成する勢力」や「反対する勢力」の思惑の渦中に置かれてしまう事もあるだろう。

その結果として、制度や政治に対する不満や警戒感が、その象徴として見なされた個人へのバッシングという形に形を変えて噴出しているという状況だわな。

しかも、現代のメディアやSNSというクソな界隈では、極端な意見や対立を煽る構図(「絶賛」から「批判」へなど)のほうが注目=アクセス数を集めやすいという特性がある。

アクセス数が稼げる方が商売として成り立つのさ。そのため、一部の批判的な声がネット上で過剰にクローズアップされ、まるで「世論全体が手のひらを返した」かのように見えてしまう現象が起きているんだ。

だったら本人にはどうにもできないことなんだったら、本人も世間は放っておけばいいんじゃないかと俺はおもうのさ。泰然自若としていればいいんだ。

にもかかわらず、なぜ世間様やメディアの連中が「放っておかない」のかについては、皇室という存在が持つ「公の性質」と、国民側の心理に理由があるだろう。

つまりあれだ、金と国の制度の根幹がらみだ。

まずけち臭い話だが、「公金(税金)」が関わるという側面がある。

皇族方の生活や活動は、国民の税金(皇族費など)によって支えられているのは、皆様ご存じの通り。

そのため、金額の変更や制度の改正が議論になると、国民側には「自分たちの税金の使い道や、国のあり方に関わる問題だ」という当事者意識が生まれるという寸法だ。てなわけで、金が絡むと途端に「個人の私生活」として放っておくことが難しくなり、公的な監視や議論の対象になってしまうというあさましい側面がある。

しかし、政治家や官僚の無駄使やあほらしい政策には誰も自分に関わることとは考えないのは、解せないな。

そして「象徴」としての宿命ってのもあるだろう。

皇族方は憲法上、「国や国民の統合の象徴」として定められている。

おかげさんで、皇族方に関することは「一個人の人間」としてではなく、「皇室というシステムそのもの」として見られがちなんだとさ。村社会だな。

既存の社会システムに対する不満や、皇室典範改正などの制度設計巡る対立があるとき、その象徴である個人に人々の感情や意見が向けられてしまうという、構造的な宿命があるにはあるだろう。しかし、それとてご本人にはいかんともしがたいことだ。

そして、これが一番俺が納得いかない話だが、皇族方は反論や自己弁護が難しい立場におありだ。

一般の芸能人や政治家であれば、誤解に対して自身のSNSや会見で自由に反論したり、経緯を説明したりできるだろう。

裁判で白黒つけることもあるだろう。

しかし、皇族という立場上、政治的な議論やメディアのバッシングに対して自ら積極的に反論したり、個人の見解を発信したりすることは極めて困難だ。

この「反論できない」という立場が、結果としてメディアやネット上の無責任な発言をエスカレートさせやすい土壌を作っている面もあるだろう。しかしそれは、人間として卑劣な行いじゃないのか?

税金の使い道でもっとこう追求されるべき人は一杯いると思います。恐れ多くも皇族の方々にそういうことを言うのはよろしくないんじゃないかな。

俺に言わせてもらえば、政治家や行政の不祥事など、より厳しく追及されるべき公金の問題が多く存在する中で、反論できない立場にある皇族が標的になることへの違和感や不条理さを感じざるを得ないぜ。

っていうか、そんなことメディアが言わなかったら誰もそんなこと思わないんじゃないかな?メディアが笛を吹くから、世間の連中が考えなしに踊るだけの話だと思うけどな。どうだろう。

俺は、誰もが自分の頭で考えてものをいうべきだと思うぜ。 

『孟子』公孫丑下などに記されている春秋時代の魯の賢人・柳下恵(りゅうかけい)は、三度大臣に任じられ、三度罷免された。

それを友人に問われたところ、大臣の位が尊いのなら、自分の尊厳にかかわりないことだ。また、自分の尊厳が大臣の位でなく、自分自身にあるのなら、大臣の位など自分には何物でもないと答えたという。俺は少年の頃に読んでたいそう感心したよ。

柳下恵は、どれほど不条理な理由で大臣(士師)の位を追われようとも、またどれほど卑しい君主に仕えようとも、決して自らの内なる「芯(尊厳)」を犯されることはなかった。

外側から与えられる「大臣」という記号やラベリング、あるいは周囲のバッシングといったノイズは、「自分自身の価値とは1ミリも関係のない、外側の借り物」に過ぎなかったというわけだ。

すべからく、人はこう生きていきたいものだな。

2026/09/21

POST#1968 高齢化社会の日本の、素晴らしい敬老の日

ベトナムの阮朝の旧都、フエ。この橋の向こうは観光客向けだ
今日は、敬老の日らしい。

俺自身がもう既に、もう少し敬ってもらいたいくたびれた初老の男だというのに、俺より元気溌剌なジジイの話でもするか。久々に俺の親父だ。

親父は昨日、俺の住んでる町会の連区主催の敬老会に参加して、ご機嫌だったようだ。

泥のように眠っている俺を気遣って、というか電話でたたき起こしてくれたことが何度もあり、その都度不機嫌に塩対応されたことですっかり学習したのか、住んでる高齢者サービス付き住宅まで、片道2キロくらいを歩いていきやがった。

元気なジジイだ。86だというのに、要支援も要介護も何もついてない。せめてポックリ言ってくれることを祈ってるが、最近、施設の近所の公園でやっている太極拳のサークルに入ったりしてますます元気だ。麻生漫☆画太郎自民党副総裁と同じくらいに元気だ。

この元気なジジイが、俺の頭痛の種の一つだ。

先日も小遣いを上げてくれと抜かしやがった。そもそも金の管理ができない男なので、俺は親父の借金の連帯保証人になっている親類に累が及ぶのを避けるために、銀行の焦げ付いた借金を肩代わりして一括で支払い、その後遺症に苦しんでいる。

そして通帳もカードも取り上げ、不要な銀行口座はすべて清算し、年金が入ってくる口座だけを残して、それも万が一に備えて年金が振り込まれるとすぐに俺名義の口座に移動する。

兄弟から月々集めた金と年金で、高齢者サービス付き住宅の住居費、食費、電気代、ベッドのレンタル代、何から何まで支払っている。

そんなに元気で暇そうにしているのなら、交通整理のアルバイトや、スーパーのカート回収のバイトでもして、自分の小遣いくらいは稼いでほしいくらいだが、ちゃっかり病院代だの、日常生活用品代だのといって小遣いをせがんでくる。

最初は、申し訳なさそうに頼んできていたのが、いつのまにか当然もらえるものだと勘違いしている。しかも抜け抜けと、いけしゃあしゃあと増額を要求してくる。

余りのことに頭にきて問いただすと、毎月2000円で聖教新聞を取っているらしい。

うちは、代々浄土真宗だ!ていうの。

創価学会に限らず、新興宗教は人間の心の空虚の中にするりと忍び込む。麻薬のようなものだ。陰謀論、投資詐欺、そんなものと大差ない。

40年以上前に死んだ俺の母は、全身癌に侵されながら、創価学会に入り、お題目を百万回唱えれば癌を克服できると信じて、残された命を題目を唱えることに空費した。

今思い出しても、腹の立つ話だ。その創価学会に、親父が取り込まれてる。

マルクスだっけか、宗教は麻薬だって言ったのは。まったくモルヒネみたいなものだぜ。

 そして、そんな親父との攻防があった直後、入所している施設のセンター長から、電話がかかってきた。

このセンター長はとんでもなく腹が出ているおじさんで、あんまりにも腹が出ていて重たいので、老人用の歩行補助機に体を預けて移動しており、そのために両肘にタコができているという不思議な男だ。

で、そのセンター長が言いにくそうに言うには、俺の親父はどうにも同じ施設に入っている同年代の女性、しかもちょっと裕福で認知が入っている女性とねんごろになっているようだというのだ。時間をずらして別々に散歩に出ては、公園などで落ち合っているということだ。高校生にでもなったつもりか?

私設のセンター長としては、それで金品のやり取りなどから入居者同士のトラブルに発展するのを警戒しているようだった。

はぁ?俺は頭のなかが真っ白になった。人間の性欲というのは、そんな老人になっても衰えないものなのか?

俺の親父は、実の母親を幼いときに亡くしている。そのためか、生涯にわたって女癖が悪かった。俺の母と結婚したのも、母と見合いしたときに、タイプじゃないと断られたのに腹を立て、遮二無二アタックし、様々な伝手を動員して結婚したのだが、釣った魚に餌はやらないという例えの通り、子どもだけ4人も産ませておきながら、他所の女の話が途切れたことのない男だった。

俺はネズミ捕りで捕まえたネズミを、家の前の側溝に沈めて殺している母の、真っ黒な深淵のような目を忘れることができない。

俺は子供の頃、存命中だった母が洗面所でうずくまって泣いているのを見たことがある。

母は俺には歯が痛かったから泣いていたと見え透いた嘘をついたものだ。

母が死の床にある時も、病院に父が見舞いに行くと、ほかの女の香水の匂いがして気持ちが悪いから帰らせてくれというほどだった。

母が死んでからも、あの女、この女と手当たり次第だった。節操がないんだ。

そして、去年引き払った親父の住んでいたアパートも、親父がある未亡人と一時期いい仲になって、彼女の持っている古い三階建てのアパートの一室に転がり込んだもので、賃貸契約書も何もなかった。さんざんその女性にカネをたかり、お互いに利用しあって、挙句愛想をつかされて放り出されたというのが現実だ。

もう、女はいい加減にしてほしいものだ。その年で、恋愛うらないでもやるつもりか?冗談じゃないぜ。

年相応に、年老いる。そして、この世に生まれ、修めるべきことを修めて世を去る。

この当たり前のことが、これほど難しいとはな。

この世に生まれて、修めるべきことってなんだ?

それは神様(というかこの宇宙そのものっていうべきかな)のよき目となり、耳となり、口となり、手となることさ。うなるほど金を儲けることでも、大勢の人々を手下にすることでもないんだぜ。


あぁ、こんなことを書いたら、また弟に叱られちまうかもな。