| ウブド、バリ スパティフィラム |
この15年ほどで、社会がコンプライアンスだハラスメントだと大きく変わっていくのに歩調を合わせるように、荒木経惟は人々の前から消え去っていった。猥雑性が社会から失われ、的なプラスティックのような社会になり、人々は不寛容になった。かつてのアラーキーの写真には、都市の表面から覆い隠された不穏さ、混沌とした人間の欲望、逃れ得ぬ人の業としての性と死が、そしてなにより「生きることの生々しさ」が充満していた。
しかし、コンプライアンスやハラスメントという「管理と安全」の言葉が、社会全体を隈なく覆い尽くすにつれ、かつて彼を時代の寵児としていた猥雑、混沌、欲望といった生の息吹は、人々から見るもおぞましい、「排除すべき汚物」として扱われるようになった。
社会全体が滅菌され、無菌状態の「ポリティカル・コレクトネス(PC)なプラスティック社会」へと変貌していったのだ。
彼自身も、モデルとなったかつてのミューズたちから、次々と性被害を告発され、社会的に葬られたも同然となった。
そして、彼自身も失明したり、前立腺癌になったりしたことから、自然とかつての旺盛な写真集ラッシュを支えていた比類なき活力も失われたようにみうけられる。寂しいことだが、これも世の習いか。それとも、時代が大きく変わったということか。
昭和は遠くに、成りにけり。
この清潔な荒野には「含羞と露出」を許さない不寛容さが満ちている。
「顔=恥部」や「花=性器官」という見立ては、人間が本来持っている「矛盾や業」を受け入れ、面白がるという寛容さなくしては成り立たない。
社会の隅々にまで正しさの踏み絵を迫る現代の不寛容な社会では、荒木経惟が俺たちに提示してきたような「愛ゆえの猥雑さ」「剥き出しの生と死」はどこまでも忌避される。
そして、人々は、欲望や生や死を社会の表面から消し去って、そんなものはどこにもないような顔をして暮らしている。口元をマスクで覆って。まるで、内面を持ち合わせないような、記号のような人々が、せわしなくスマートフォンを見つめながら行き交う。
まぁ、こんなことを今更言ったとて、世の趨勢には及ぶべくもない。
何しろ、この俺とて、セクハラってことで契約を叩き切られたこともあるくらいだ。荒木経惟と同じで、世の人々から指弾される側の不埒な存在なのさ。
だからこそ、言わぬが花さ…。
