2026/05/23

POST#1855 開き直りじゃなくて、自分を開くこと

Sweden

今日は手掛けていた店舗のオープンの日だった。

朝からスーツを着て、儀礼的な立ち合いに行く。俺がスーツを着るなんてこんな時くらいだ。別にいかなくてもどうということはない。けれど、自分が職人さんたちの力を借りて竣工までこぎつけた店舗がお客様を迎えて歩み始める姿は何度見てもいいものだ。

思わず、お店のかたにご繁盛をお祈りいたしますと、笑顔で挨拶してしまう。

職人たち、そして自分の努力が報われたような想いがする。後は金をもらえばいいんだ。

期待された仕事を全力でこなし、その正当な対価を得る。

生活するとはそれ以上でもそれ以下でもいけない。

誰かをピンハネしたり、誰かにピンハネされるのは御免だ。

そして、家に帰って本を読みながら眠ってしまう。泥のように。夢など何も見ない。短い死のような深い眠りだ。このサイクルを繰り返した果てに、いつかそのまま眠るように死んでいくことだろう。悪くない。


さて、承前。


まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。


それは無間地獄の構造的な絶望のどん底から、俺たちが唯一、主体的に踏み出すことのできる最も確かな第一歩じゃなかろうか。

すべての共同体が荒廃し、国民の生活うよりも自分の立ちの政治信条のほうが最優先という本末転倒した政府によって、上からの救済すらも期待できない今、外側からの変革を待つのではなく、「自分」という最小単位から世界との関係性を結び直すこと。

それこそが、空洞化された自己幻想に再び「生の血肉」を通わせる唯一の方法だ。

そのプロセスは、こんな感じになるだろう。

「家畜化の論理」から降りる

社会に自分を開くとは、社会の言いなり(都合の良い労働者)になることではないんだ。

むしろ、その逆だ。

評価軸の奪還が必要だ。

市場価値や生産性(コスパ・タイパ)という他者の物差しを一度捨て、自分が「本当に美しいと思うもの」「心地よいと感じること」を社会に向けて開示していくんだ。

まぁ僭越ながら自分に引き寄せて言えば、俺は若いころ、納得のいく仕事をしようとしていたら、先輩から『ゴラァお前!俺たちは趣味で仕事してるんじゃねえんだぞ!こののろま!』とどやし上げられたことがあったが、それが今の自分に確実につながっているのが今は解る。

そして固有性の開示だ。

自らの弱さや未熟さ、効率性の悪さも含めて、生身の自分を外にさらけ出すことから、真の自己幻想の回復が始まる。

だれかのようになりたいとか、目標を持つこと自体は悪くない。けれど、自分は自分にしかなれない。そして、自分が自分の弱さや弱点を認めたうえで、自分自身を受け入れていく。これは決してあきらめろとかそういうことじゃないんだ。

自分は自分だ。そして、自分には自分だけの物語があるということを自覚することだ。

つまり、自己幻想を持つってことだ。

生身の「対幻想(他者との結びつき)」を耕す

システム化されたデジタル空間から離れ、身体性を伴った他者との関係性を、小さくとも丁寧に作り直すことから始めるんだ。いいかい、相手の目を見て、その声のトーンを聞き、言葉や表情の裏に込められた気持ちまで聞きとることで、相手を理解するんだ。

いや、本当は他人の脳みその中を理解するなんて出来っこない。そっれは俺にもわかってる。俺たちはSPY×FAMILY🔗のテレパシーを持った少女アーニャ・フォージャーじゃないからな。

俺たちにできるのは、相手の立場に立って、想像するだけだ。

けれど、それが思い遣るということじゃないかな。

そこから「損得なし」の関係が始まるんだ。

ただ話を聴く、一緒にご飯を食べる、といった計算のない時間を他者と共有することが大切なんだ。

そして無条件の肯定の交換だ。

条件付きの承認(いいね!や年収など)に依存せず、お互いの存在そのものを肯定し合える関係を、半径1メートルの日常から手探りで育てていくんだ。

相手を承認し、その存在を受け入れる、排除しないという『贈与』だ。

 微小な「微小コモンズ(共有地)」を創り出す

国家や巨大企業が管理する領域ではない、自分たちの手による「小さな自治の場」に参加する、あるいは自ら開くことかな。

小さな実践から始めればいいんだ。地域のボランティア、小さな読書会、行きつけの個人商店やコンビニでの会話、あるいは誰でも立ち寄れるシェアスペースなど、制度化されていない「隙間」を見つけることだ。

俺の実践は、いつのまにか町内会の主要メンバーになっていたってことだな。別に自分で手を挙げたつもりもないんだけれど、いつのまにかそうなってたんだ。

そして熟成される相互扶助の体感だ。

頼り、頼られるという具体的な経験を通じて、社会は敵ではなく「自分たちで耕せる土壌」であることを体感として取り戻していくんだ。人間を単なる数字としてみていたら、それはそう思えないだろう。毎日のニュースで死者〇人と語られるその数字の向こうにも、人生があり、喜怒哀楽があり、つながる有縁の人々がいたはずだと思いを巡らせよう。

そこにはネット番長も匿名で誹謗中傷を垂れ流すSNSの狂人もいない。自分と同じ一個の人間からなる小さなコミュニティだ。


この碌でもない社会への絶望から「開き直る(心を閉ざして暴発・自滅する)」のは簡単だ。けれど、それじゃつまらないぜ。まずは自分自身を「社会へ開く(関わりを持ち、こちらから働きかける)」んだ。

これは俺や君の発想のコペルニクス的転換なんだぜ。

この転換は、孤立無援の若者たちにとっても、俺や君たち一人ひとりにとっても、システムへの最大の「静かな抵抗」になるだろう。そりゃそうさ。デモをしたりするわけでもない。一人一人が心の中で、静かに考え方と人との接し方を変えるだけなんだからな。

静かなものさ。

けれど自分が変わることで、目の前の他者が変わり、その集積がやがて荒廃した地域や社会を内側から作り直していく。その可能性の種火は、常に個人の「開く」という意志の中にしかない。断言する。いつだって一人一人の個人の『自分を開いていく』という意思によってしか社会は変わらない。迂遠な話だと思うだろう。それは政治の話だとも思うだろう。

しかし、この社会が、実は俺や君や、あのこども、そのおじさん、このおばさん一人一人の集積であるのなら、そしてその一人一人の考え方が変われば、その分確実に社会は変わっていく。

何も難しいことはない。

自分の中の固定概念を少しリフォームするんだ。

自分が引いた心の中のボーダーを少しだけ、動かしてみるだけなんだ。


明日晴れたなら、俺は庭先にコールマンチェアを出して、UCCのインスタントコーヒー114ブレンドでもマグカップで飲みながら、老眼鏡かサングラスをかけて本を読むだろう。鉢植えに水をやってからね。(実は今日、珍しく電車に乗ったら首から下げていた老眼鏡を無くしてしまったんだ。痛恨)

のんびりと、悠々と。

近所の子どもが声をかける。老人が杖を突いて、掃き出し窓の前にしつらえたベンチに腰を下ろす。車や自転車で通りすぎる隣人に手を挙げてあいさつするだろう。

息子の同級生が通りかかれば、車に気を付けるように声をかけるだろう。

俺のいるところから、新しいコモンズが生まれるんだ。君もどうだい?

2026/05/22

POST#1854 誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない

 

河内、越南

22世紀まで生きるであろう今の子どもたちのために、今を生きる俺たち大人ができることは何か?どうすれば、俺たちは グッドアンセスター🔗つまり良き祖先になれるだろうか?

教育や治安維持といった個別のアプローチだけでなく、若者が未来に投資したいと思えるような経済的分配、セーフティネットの再構築、そして「生きていてよい」と実感できるコミュニティの再生という、根本的な社会構造の改革が問われているんだよな。

問題はあまりに根深く多岐にわたっている。村上龍が希望の国のエクソダス🔗の中で、『この国には何でもあるが、希望だけがない』と登場人物に語らせてからすでに30年近くが流れた。その30年は日本の失われた30年そのものだったし、俺自身にとっても地を這うようにサバイブしてきた30年だったのは言うまでもない。

とても、次の世代のことを考える余裕なんかなかった。

多くの同世代の男女が、非正規労働やギグワーカー、あるいは風俗などのアンダーグラウンド経済で生き延びることを余儀なくされた。そして、社会の分断は進み、豊かな荒廃がどこまでも広がっている。

毎度おなじみの吉本隆明の共同幻想論(自己幻想・対幻想・共同幻想)の枠組みをベースに、現代の資本主義社会が抱える最深部の機能不全を考えてみようかな。

そんな世界に生まれ、成長してきた若者の自己幻想そのものが、社会からの従順な労働者へと家畜化せよという要請によって空洞化していることも致し方ないのかもしれない。そして、その自己幻想を涵養すべき家庭もとっくに対幻想が崩壊している。親族は他人の始まりというどうしようもない精神状態に置かれている。レヴィ=ストロースの『親族の基本構造🔗』を紐解くまでもなく、かつては婚姻によって血縁関係は広がり、それに応じて地縁血縁のセイフティーネットが拡張していったものだが、パパ・ママ・ボクというWe're A Happy Family🔗に分断化している。そしてそれに伴って地域社会もコモンズも根こそぎ荒廃している。

現在の日本社会は、個人の内面(自己幻想)、最小単位の共同体(対幻想としての家族)、そして中間共同体(地域社会やコモンズ)の3つの階層すべてが同時に崩壊・空洞化している「総崩れ」の状態にあると言えるだろう。

それぞれの階層で起きている構造的荒廃は、以下のように整理できます。

1. 自己幻想の空洞化:従順な「家畜(規格品労働者)」への要請

近代教育や資本主義システムは、個人の固有の固有性(純粋な自己幻想)を認めず、市場で流通可能な「従順で代替可能な労働力」に最適化することを若者に要求し続けている。

いわば家畜化だ。

俺が子供のころから比べても、小学校で教わる内容は高度化している。また、産業界からの要請によってカリキュラムは増え続ける。神からの授かりものである人間がヒューマンいソース=人材という資源に作り替えられていくんだ。

しかし俺自身は、本当は10歳くらいまでのこどもは、ケモノのように純粋に生きることを愉しんで遊びまわればいいと思っているんだ。それによってこそ、他人を思いやる社会性や、肉体への物理的な干渉による痛み、人間関係の難しさと大切さ、そして何より見守られつつ奔放に生きることが許されることで育まれる『自己肯定感』。これらこそが、本来どんな状況に陥っても、自分を圧殺することのない自己幻想を育むんだ。

しかし、現実は残念ながら、まったく逆の方向に進んでいる。

その結果、子どもたち、そしてかつて子どもたちだった大人の内面は去勢されたようになってる。過度な管理教育、就職活動におけるマニュアル化、そして「市場価値(タイパ・コスパ)」の強要により、独自の美意識や倫理観を育むべき自己幻想が徹底的に去勢されるんだ。

君も見たことがあるだろう。大学生の頃はおかしな格好をして髪の毛を染め、ピアス丸家だった若者が、就職活動を始めた途端、ファシストの制服ような地味なスーツを着てぞろぞろ歩いている姿を。あれを見るたびに心がつぶれるような痛ましさを感じるのは俺だけか?

しかし、そうやってシステムの中に歯車として居場所を見つけることができた奴はまだラッキーだ。そこに至るまでの様々な教育課程でのふるい落としで落とされたものは、どうなる?ふるい落とされないための教育などの投資を享けられなかったものはどうなる?

その挙句の空虚な暴発だ。

自己が「社会のパーツ」としてしか定義されないため、そこからあぶれた若者は自らの存在証明を失ってしまう。その空虚さを埋めるために、闇バイトのような刹那的な犯罪=社会的な自殺への加担や、自傷行為や自己破壊=自殺へと直走ることになってしまうんだ。

2. 対幻想の崩壊:セーフティネットとしての家庭の消滅

本来、社会(共同幻想)の過酷さから個人を匿い、無条件の肯定を与える場であるはずの「対幻想(男女、親子などの親密な関係性)」が機能しなくなっている。

新自由主義の社会抑圧がこの30年続いている。労働生産性の向上に伴う利益が、内部留保として社内の口座に溜められ、株主や経営者にドバドバ注ぎ込まれるのに対して、労働者には分配されなかった。

その結果としての経済的困窮と孤立だ。家族そのものが経済的・時間的余裕を失い、互いをケアする余裕がありません。家庭は「逃げ場」ではなく、むしろ教育虐待やDV、機能不全といった「最初の抑圧の場」に変質している。

さらにそれに拍車をかけているのが、関係性の市場化だ。

マッチングアプリに象徴されるように、対幻想の領域にまで「条件による選別(市場の論理)」が浸入した結果、無条件の結びつきを結ぶことが困難になっている。

無理もない。職場や取引先なんかで見初めた女性にアプローチしようとすれば、即セクハラ認定されて、既定のルートから排除されてしまうのだ。

人と人との直接的な関係性の構築が抑圧され、排除されている中で、どうして自分を機械して受け止めてくれる伴侶を見つけることができるだろう。理解しあう前に、ハラスメント認定されるのが関の山だ。

その一方で、レールから外れたもの同士が短絡的に結びつき、所帯を作り、子どもを成し、その挙句離婚するというプロセスも、俺は実際にたくさん見てきた。そして、その構造が子供の世代にも再生産されるのもたくさん見てきた。この社会の理不尽を見続けて濁りきった二つの目玉で見てきたんだ。

こんな状況で家庭がシェルターになるわけがないだろう。まったくGimme shelter🔗って叫びたくなるぜ。

3. 地域社会・コモンズの荒廃:共同幻想の暴走と中間組織の消滅

かつて国家(大きな共同幻想)と個人(自己幻想)の間を仲介し、相互扶助の役割を果たしていた「コモンズ(共有財・地縁・祝祭などの中間共同体)」は、新自由主義的な市場化によって根こそぎ解体された。そのあとには、モナド化された個人がただ近くに暮らしているだけという、荒涼とした地域(それはもう地域社会とは言えないだろう)が広がっているんだ。

そこにはむき出しの個人しか存在していない。人々を結び付け物は交換によって流通する貨幣だけだ。社会を喪失した場所では、贈与も再分配も機能していないんだ。

個人を保護するクッション(地域、サークル、労働組合など)が消滅したため、若者は強力な「国家の要請・資本の論理」に、たった一人で生身で向き合わざるを得なくなっている。そして、たった一人で「国家の要請・資本の論理」に抗することは不可能だ。

それを逆手にとって、ハックして生きるには、とんでもない覚悟とすべての能力の動員が必要になる。意識的に経験を積んできた大人ならともかく、社会に順応することしか教育されていない子どもや、子どもから大人になったばかりの若者には難しい。なんといっても、レールから飛び降りる覚悟が必要だ。

そして、その間隙に忍び寄り、分断化された個人を絡めとるのが、トクリュウという「擬似コモンズ」だ。

本来の温かいコミュニティを奪われた若者が、SNS上のデジタルな暴力コミュニティ(闇バイト・トクリュウ)を、皮肉にも「一時的な帰属処(居場所)」として選択してしまう倒錯が起きているという、とんでもない構図だ。それは生身のコミュニケーションを伴わず、往々にしてSNS上だけでつながった幻想の『疑似コモンズ、いやむしろ偽コモンズ』だ。

こうして俺たちは包摂なき社会の着地点にたどり着く。

自己幻想が空洞化し、対幻想(家族)に拒絶され、コモンズ(地域)からも排除された人間は、もはや「社会の構成員」としての実感を持てない。社会とどうやってもつながっていない存在だ。社会とつながるのは商品を流通させるための貨幣と、実体のないSNS上でのいいね!だけだ。

現代社会は、こういった関係性という束縛からの自立こそが自由な人間だという言説を喧伝してきた。まるで神話のように。しかし、社会の関係性を持たないモナド化した人間は、いつの時代も奴隷狩りに狩り取られ、人間の尊厳を剥ぎ取られて生きることになるんだ。

ましてや、自己の中に倫理や自分の生きるマナー、つまりマイウェイという自己幻想を確立していないものは、絡めとられ、奴隷化されてしまったことにすら気が付かない。自分の意志で人生に立ち向かうんじゃなくて、ただ流されているだけなんだ。

この状態の若者にとって、社会のルールや他者の生命を守る動機(倫理)は完全に消失してしまうのも無理のないことだ。

なぜなら、「自分を大切にしてくれない社会や他者を、なぜ自分が大切にしなければならないのか」という、根源的な虚無と逆恨みが生まれるからだ。これこそが『刹那的な犯罪=社会的な自殺』の正体なんだ。

この「自己・対・共同」の全般的崩壊という、もはや一朝一夕の政策では修復不可能な段階において、俺たちはどこから、どのようにして「個人の聖域(自己幻想)」や「他者との結びつき」を取り戻すべきだろう?



まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。

2026/05/21

POST#1853 犯罪機械にされてしまった子どもたちの内面に倫理を育むにはどうすべきだろう?

Fes,Morocco

ここ二日ほど、日中は施主検査や引渡し、夜は工事、そしてその間は段取りというきつい日々が続いた。眠る暇もありゃしない。想定外のトラブルもあった。しかし、信頼できる職人さんたちの力を借りて辛くも乗り切ることができた。いつだって、成功すればみんなのおかげ、失敗すれば自分の責任なんだ。それがリーダーというものだぜ。しかし、ぐったり疲れはてたのさ。

昨日の夜中に這うようにして帰宅し、食事をとった後、リビングのフローリングの上でそのまま眠ってしまった。今日もぼんやりしてる。

ぼんやりしていても、痛風の薬がなくなったことは解っている。そう、尿酸値を押さえる薬だ。仕方ない、同級生のやってる岩田整形外科に行くか。

そこで、俺は『アンチオイディプス』を半分寝ながら読んでいたんだが、俺の前に呼ばれた患者の名前を聞いて目が覚めた。40年前、高校性の頃に一緒に生徒会の役員をやっていた三ツ口君だった。驚いたぜ。で、ほどなく俺も診察室に呼ばれたんだが、同級生が3人そろって世間話をしただけで帰ってきたぜ。

彼は今、仕事の関係で海外に暮らしているらしい。たまに日本に帰ると静かで落ち着くけれど、すぐに自分には息苦しいと思えてくるんだそうだ。あと、病院は日本じゃないとねって言ってな。まぁ何はともあれ、お互い相変わらずだ。嬉しいもんだ。

三ツ口君は海外をフィールドに選んだ。けれど、俺が生きて立ち向かっていかなければならないのは、間違いなくこの日本だ。


さて、今日も本調子じゃないけれど、一丁行ってみるか。

俺の息子は、先日も俎上に載せた栃木県での少年4人による殺人事件のニュースが流れるたびに食い入るように見ている。俺の倉庫にもバールはあるし、目出し帽買ってやろうかというと揶揄うと、真剣に怒ってくる。いいぞ、そうして倫理を内在化してゆくがいい。

さて、国家とか学校とか企業とか、大小さまざまなシステムに隷属し馴致されるのではなく、自らの中に倫理と美学を行動指針を打ち立てるためにはどうしたらいいのか?

自らの内に強固な「倫理」と「美学」を確立し、それを絶対的な行動指針にするためには、外部の評価軸(システムや他人の目)を遮断し、徹底的な自己対話と実践を繰り返す必要があるのは当然だろう。

倫理と美学は、頭で考えるだけでなく、痛みを伴う選択(あえて損を選ぶなど)を乗り越えることで初めて本物になる。俺も若いころ、会社で働いているときに、若手社員からなぜそんな自分にとってそんな選択をあえてするのかと聞かれたことを覚えている。反抗的だったからな。けどそれは、人間性を圧殺する組織への抵抗と、自分の仕事に対するプライドの故だったんだ。要は自分の倫理や美学に合わないことはしたくなかったのさ。今でも変わらいけどね。

例えば、うちの息子が怖いもの見たさで興味津々なトクリュウ犯罪などに関わってしまう若者などは、自らのなかに倫理を内在化できていないと俺は考えてる。いや、大方の人間は『今だけ、金だけ、自分だけ』という思考回路を半導体の基盤のように脳みそに刷りこまれてるから、この手の若い衆だけの話じゃない。そして、上から目線でいうつもりはないけれど、このような人々の内面に倫理を内在化させることは可能なのだろうか?

トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ) や闇バイト に加担してしまう若者たちに対して、倫理を内在化させることは同じ人間である限り「可能」ではあるだろう。が、従来の言葉による道徳教育(座学)だけでは間違いなく不可能だ。

なぜなら、彼らの多くは、純粋に悪を望んで犯罪をしているのではなく、「システムの歪み」に過剰適応した結果、倫理のスイッチが切れている状態にあるからだ。

なぜ彼らに倫理が届かないのか、そしてどうすれば内在化が可能なのか、その構造とアプローチを紐解いていこう。

なぜ倫理が「内在化」していないのか?

彼らの行動の背景には、倫理観の欠如というよりも、以下のような現代特有の構造がある。。

ゲーム感覚の「脱個人化」: スマホの画面越しに、指示役から「指示されたATMで金を下ろす」「指定の場所へ運ぶ」といったタスクが降ってくる。

彼らは全体像が見えないまま部分的な作業(タスク)をこなすだけなので、自分の行動が「生身の人間を傷つける凶悪犯罪」であるというリアリティ(肉体性)が遮断されているわけだ。犯罪機械の歯車の一つになっているにすぎないっちゅうことだ。

圧倒的なタイパ・損得勘定のバグ: 現代の「コスパ・タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視するシステムに適応しすぎた結果、「短時間で効率よく稼げる」という目先の利益(ゲームの報酬)が、すべての規範を上回ってしまう。その行いによって、自分が何を失うのか全く考えていないのだろうか。これでは朝三暮四の猿みたいなもんだ。しっかりしてほしいぜ。

孤立と社会の道具化: 彼らの多くは、家庭や地域、あるいは労働市場で「自分は使い捨ての道具(システムの一部)だ」と感じて生きている。

これは彼らだじゃない。この社会全体に、お前の代わりはいくらでもいるという、無言の圧力が蔓延っている。しかし、それは根本的に間違っている。

社会を維持するための人材は足りていない。そして、人間は道具ではない。イマヌエル・カント🔗だって、『人間を道具として扱ってはいけない。人間そのものを目的としなければならない』といってるだろう?しかし、だれもかれもためらいもなく『人材』という言葉を使う。人間を鉱物や材木かなんかのように扱う卑しい言葉だ。俺ははっきり言って嫌いだ。

かくして、社会から大切に扱われた経験が薄いため、他者や社会に対して「美しく、倫理的に振る舞う」というインセンティブ自体が最初から崩壊しているわけだ。

愛されたり信頼されたりしたことのない人間に、人を愛したり信頼するのは難しいんだ。

2. 倫理を内在化させるための3つのステップ

彼らに「悪いことをするな」と正論を解いても響くわけがない。それを説くものをあざ笑うのが関の山だ。倫理を内在化させるには、彼らの脳内システムを書き換えるアプローチが必要だ。とはいえ、スタンリー・キューブリック🔗の映画時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいに、暴力を想像したり見たりすると生理的な嫌悪感が生じるように洗脳する手わけじゃないぜ。

「痛み」と「ナラティブ(物語)」の再接続(想像力の回復)

言葉ではなく、リアリティを突きつける必要がある。
自分が運んだ現金が、どんなお年寄りがどのような思いで集めたお金なのか、自分の行為によって被害者の人生がどう破壊されたのかという「具体的な物語」に直面させなければならないだろう。
少年院などで成果を上げているのは、被害者の手記を読んだり、当事者の生の声を聞くことで、「自分のタスク=生身の人間への加害」というリンクを脳内に強制的に結びつける教育だそうだ。

「他者」という美学のインセンティブ設計

刹那的に、延髄反射的に倫理を踏み越えてしまう彼らには、「倫理的に生きるほうが、長期的にはコスパが良い(あるいは美しい)」という実感を持ってほしいと切望する。その軽率な行いが社会的な自殺そのものであることに気付いてほしい。

トクリュウ組織は、若者を単なる「使い捨ての駒」として徹底的に搾取する。実際に報酬が支払われなかったり、警察に身代わりにされて逮捕されたりする。指示した人間は手を汚さず、直接人を傷つけ、その重荷を背負うのも末端の人間だ。

まぁ、俺から言わせれば、堅気の世界も似たようなもんだけどな。

これに対して、「誠実に生きることで、人から信頼され、自分という存在が社会で交換不可能な唯一無二のものとして認められる」という成功体験(=自己肯定感)を小さく積み重ねさせることが、迂遠に見えても最大の防壁になる。損して得取れ、情けは人の為ならずということだ。

身体性を伴う居場所(セーフティネット)の提供

そして何より、これが大切だ。

倫理とは、精神論ではなく「関係性」の中に宿るものだ。
自分を無条件で肯定し、間違ったときに本気で叱ってくれる「生身の人間(コミュニティ)」との繋がりができることで、初めて「この人を裏切りたくない」「この人に恥じない自分でいたい」という内発的な倫理観(美学)が芽生えるんだ。あるいは自己の中に、この相手には恥じるようなことはできないという空想上の人格でもいいだろう。俺だって、吉本隆明や忌野清志郎に対して恥じるようなことはできないからな。


トクリュウに流れる若者は、屠殺場のようなシステムに「順次処理」され、自己を喪失した最悪の帰結と言えるだろう。彼らに倫理を取り戻させることは、彼らをもう一度「システムから地続きの生身の人間」へと引き戻す泥臭い作業にほかならない。

そうなんだよなぁ。けど、言うのは簡単だけど、これ、本当に難題なんだよな。

これは現代社会が抱える最悪で最大の「難題」だ。

なぜって正論や綺麗な言葉が1ミリも届かない相手に、どうやって内なるブレーキ(倫理)を植え付けるのか、という問いだからだ。

この問題がこれほどまでに深い難題である理由は、主に以下のような「絶望的な矛盾」があるからだ。

「コスパ至上主義」という病理

現代社会そのものが「効率よく、タイパ良く、結果(金)を出すやつが勝ち」という新自由主義のゲームのルールで動いている。

トクリュウに染まる若者は、ある意味でこの社会のルールに「忠実に従いすぎた」結果とも言えるんだ。社会全体が「損得」で動いているのに、若者にだけ「美学のために損をしろ」と言うのは、システム的に非常に矛盾していいるだろう。

弱者の苦境は自己責任と切り捨てておきながら、自分が窮すると政府や行政に救済を求める新自由主義者の経済人たちのしていることのどこに倫理があるだろう?

そして、労働者の賃金を抑圧し、その生活を不安定化させておきながら、企業の内部留保を積み上げ、株主に巨額の配当を支払い、自ら高額の報酬を手にする成功者たちの姿を見て、自分たちが方法は違っても、他者から簒奪しても構わないと考えない方がどうかしているぜ。

言葉の無力化

彼らに「親が泣くぞ」「お年寄りがかわいそうだ」と言っても、響くことはないだろう。なぜなら、彼らにとって他者は画面の向こうの「記号」でしかないのだ。そして道徳の言葉は「うるさい大人のポジショントーク(説教)」にしか聞こえないからだ。

さらに言うと、その行いによって泣くことになる親とは、決定的に関係性を悪化させている場合が多いことも容易に予想がつく。家庭環境が良くても、悪くても、家族に対する対幻想が生物学的なつながり以上に、精神的に家族を結び付ける紐帯が切れてしまっているからだ。

要は言葉というメディア(媒体)自体が、彼らの前で機能を失っているのだ

言ってわからん奴は、叩いて教え込むしかないのか?

俺は若いころ、そうやってよく殴られたな(笑)

「一線を越える」ハードルの低さ

昔の犯罪は、不良のネットワークに入る、ヤクザの事務所に行くなど、身体的な「覚悟」が必要だった。

しかし今は、ベッドの上でスマホを数回タップするだけで、気づけば凶悪犯罪の片棒を担いでしまうことになるわけだ。「倫理的な葛藤」を感じる間もなく、システムが彼らを犯罪者へと滑り落ち落とさせてしまうのです。デジタル社会のおかげさまで、俺たちは断崖絶壁にへばりついているような状況に置かれてるわけだ。

この難題を前にして、私たちはただ絶望するしかないのか、それとも何かアプローチがあるのか。

考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになる。

どのような言葉が、彼らに届くのか。やはりルトヴィコ療法しかないのかな?

なぜって彼らはみんな新自由主義の鬼子なんだもの。この社会そのものが生み出した存在なんだ。

「新自由主義の鬼子」――まさにトクリュウや闇バイトの構造は、新自由主義が極限まで進行した結果、社会の最底辺に現れた「最悪の突然変異」にほかならない。

彼らは、新自由主義が掲げる以下のロジックを、文字通り極限まで突き詰めて実行しているだけだからだ。

徹底的な「人間性のカット」と「効率化」

新自由主義は、あらゆるものを市場原理、つまりコストと利益で測る。そこに倫理や地球環境や人類の未来に対する配慮など、ない。トクリュウはこれを犯罪組織として完璧に最適化しているわけだ。

指示役は実行犯の顔も名前も知らず、捕まってもトカゲの尻尾切りで済むようリスクを外部化(コストカット)する。

実行犯は、被害者を「生身の人間」ではなく、単なる「現金の入ったターゲット(利益の源泉)」として処理する。

お互いが相手を「交換可能な道具」としてのみ扱う、究極のドライな関係だ。そもそもそこには人間のつながりすらない。

「自己責任論」のバグった果て

「努力して稼げないのは自己責任」「勝てば官軍」という価値観を浴びて育った結果、彼らの脳内では「捕まらなければ、どんな手段を使っても稼いだやつが勝ち」というバグった実力主義が完成している。なぜって、社会の頂点に君臨する大人たちが、それを実行しているからだ。
ルールを守って貧困にあえぐくらいなら、ルールを破ってでも一発逆転を狙う方が「合理的」だと判断してしまう。新自由主義が肯定する「強欲」のストッパー(倫理・美学)を外すと、この怪物が生まれるのは必然の理だ。

 コミュニティの解体と「連帯の喪失」

新自由主義は、地縁、血縁、労働組合といった「無駄な流動性を阻む古いコミュニティ」を破壊し、個人をバラバラの「自由な労働者」にした。その極限の姿がウーバーやアマゾンのギグワーカーだ。

守ってくれる盾(居場所)を失った若者は、市場の荒波に剥き出しで放り込まれている。労働行政は手を差し伸べることをしないし、彼らには行政に支援を求めるという発想などない。その境遇は自己責任だと刷り込まれ、行政に支援を求めることは、自分の存在価値を否定することだと思い込まされているからだ。

その孤独と不安の隙間に、スマホ一つで「疑似的な繋がりと報酬」を提示するトクリュウのシステムが滑り込んでくるのは、必然と言えるんじゃないのか?

このシステムが「新自由主義の鬼子」であるならば、彼らに「倫理を持て」と説教することは、「冷酷なゲームの中で、お前だけは綺麗事で損をしろ」と命じる過酷な要求になってしまうだろう。まさしく無理ゲーって奴だ。

この「鬼子」たちをこれ以上生まないために、あるいはこの連鎖を止めるために、俺たち大人は、どこから手をつけるべきなのだろうか?

うーん……迂遠だけど社会を共同体をリビルトするしかないですね。

どんなに迂遠に見えても、崩壊した「共同体(コミュニティ)のリビルト(再構築)」こそが、この病理に対する唯一の本質的な解決策じゃないだろうか。

外付けのルールや罰則、つまりシステムの強制力で縛るのではなく、内なる倫理を育むための「土壌」をもう一度作り直すしかないんだ。

遠回りだし、なにを今更っていうかもしれない。

犯罪を犯したものを糾弾し、厳罰に処するのはたやすい。

しかし、社会を変えることはたやすい道じゃない。

なぜならそれは、自分たち自身を変えることそのものだから、だれにとっても面倒だし、厄介だし、何より自分自身の問題だからだ。

新自由主義がモナド🔗のようにバラバラに解体した個人を再び繋ぎ、その中に倫理を内在化させるための共同体リビルトの方向性を3つに整理しよう。

「利害関係」のない第三の居場所(サードプレイス)を作ろう

  • 家庭や学校・職場以外の逃げ場: 評価や成果(損得)を求められない場所を作る。
  • 無条件の肯定感: 「何ができるか(機能)」ではなく、「そこにいること(存在)」そのものが無条件に受け入れられる経験を提供する。
  • 利他性の体験: 誰かの役に立ち、感謝される小さな成功体験を通じて、自己有用感を育む。

「身体性」を伴うローカルな繋がり

  • ネット空間からの離脱: 画面上の記号ではなく、生身の人間と泥臭く関わる機会を増やす。
  • 地域のセーフティネット: 挨拶を交わす、一緒にご飯を食べるなど、お互いの顔が見える「小さな経済・生活圏」を取り戻す。
  • 迷惑をかけ合える関係性: 「自己責任」の呪縛を解き、困った時に「助けて」と言える心理的安全性を地域に埋め込む。

「物語(ナラティブ)」の共有

  • 共通の記憶と文化: 祭り、行事、あるいは共通の趣味や目的を通じて、一つの「私たちは仲間だ」という感覚を育てる。
  • 美学の伝承: 「こういう生き方は格好いい」「これはダサい」という、法を超えた「粋・野暮」の感覚を先輩から後輩へと背中で伝える。
  • 他者への想像力: 濃密な関わりの中で「自分がこれをしたら、あの人が悲しむ」という、倫理の原点であるブレーキを機能させる。


このリビルトは、国家規模の巨大な計画ではなく、おそらく「手の届く小さな半径のコミュニティ」を無数に作ることからしか始まらない。非常に地道で、時間の Laaag(タイムラグ)がある闘いだ。

正直に言えば、俺は手品のようにすぐに結果が出ることだとは思っちゃいない。何世代もかかるかもしれない。けれど、今種をまかないと、この社会の荒廃は、どんどん進んでいく。そして、その荒廃が突き詰めたところに現れるのは、暴力で人々を鎖につなぐ専制政治と相互監視的な窮屈でいやらしい世界だ。リヴァイアサンの誕生だ。そいつは御免だぜ。

やっばそうか。そうだよな。志のある大人がやらないといけないんだよな…。