2026/09/25

POST#1971 滅茶苦茶に疲れているけど、よせばいいのについ経済について考えてしまった

ベトナム阮朝の旧都フエ 庶民の町

 とことん疲れ果てているけれど、ぐっすり眠りたいけれど、それはできない。

仕事の合間に車の中で、シートを倒してまどろむのが悦楽という満足のハードルの低さいわれながら笑ってしまう。疲れ果てて朝方、フローリングの上で眠ってしまう事もしばしばだ。

何も考えずに寛ぎたいのに、ふと頭の中に思考の断片が浮かぶ。

河の濁った水の中で、身をひるがえして泳ぐ魚がきらりとその鱗を光らせるような感覚だ。

その感覚を、何とか言葉にしてつなぎ止め、書き留めようとするんだ。その時浮かんだ発想はこんなのだ。

いいかい?

投資や株式って金融商品の本質は、株券や債券にあるのではなく、一定の期間あるいは不定な期間に、その金融商品を入手するために支払った『貨幣が増えるということへの期待値』そのものこそが本質だと気が付いたのさ。額面が流通しているのではない。期待値が流通しているんだ。

よくよく考えてみると、投資や株式の本質は、支払った貨幣が将来的に増えるという「期待値」にあるという理解は非常に本質を突いているように思う。

株券や債券という物理的(または電子的)な証券そのものは、あくまでその期待値を裏付けるための法律上の「権利(請求権や所有権)」を可視化した仕組みに過ぎないということだ。

投資の本質をこの「貨幣の増加への期待値」という観点から分解すると、次のように整理できるかもしれないな。俺は法経学部経営学科中退なんだ。あんまり期待しないでくれよ。

投資の本質を構成する3つの要素とはなんだ?

①時間の価値(現在価値と将来価値)

今ある100万円を消費せず、あえて将来に回す(リスクに晒す)ことに対する対価(プレミアム)を求める行為だ。これは国債なんかのように、利回りが確定しているモノに多くあてはまるだろう。

②不確実性(リスク)の引き受け

実は、期間が「一定(債券など)」であれ「不定(株式など)」であれ、将来の貨幣の増加は確定していない。だって、国債が10年後に1.25倍になったところで、インフレ率がそれを上回っていたら、元本割れしてしまうからな。

投資家は、その不確実性というリスクを引き受ける見返りとして、プラスの期待値を期待してるわけだ。ちなみにイスラーム経済では、このような不確実性というのは、排除されるべき要素(これをガラルというらしい)を経済活動から排除し、実体経済と強くリンクすることが求められている。これは蛇足ながら。

③購買力の維持・拡大

単に数字の上の貨幣を増やすだけでなく、インフレ(物価上昇)に負けない実質的な購買力を将来にわたって確保・拡大しようとする期待の現れでもあるわけだ。これは②でも触れたよね。

つまり、官民挙げて皆さんにお勧めしまくっている『投資』とは、現在の確実な購買力(貨幣)を手放し、将来の不確実な、しかしプラスの『期待値』を持つ購買力を獲得しようとする行為そのものと言えるだろう。

そう、俺はふと車の中で、投資の本質ってのは、株券や債券(社債、地方債、国債)などに出資すると、期待されるゲイン=利得こそが、投資という『擬制商品』の本質なんだなと気づいただけなんだ。こんなことは、経済学部の学生ならみんなわかってるか(笑)

しかし社会の現状を見てみると、むしろ普通の経済学部の大学生や一般の投資家ほど、この本質を忘れて目先の価格変動や「株というモノ」の取引に終始してしまいがちだといえるだろう。

そう、いく儲かった、いくら損したというけれど、誰かが損しない限り、儲かることはないんだ。

カール・マルクスが『資本論』などで指摘したように、株式や債券はまさに『擬制資本(架空資本)』と呼ばれるんだ。本来商品ではない、商品の交換手段だったものに、時間の遅延と惣領の増殖というプレミアムへの期待をまぶした『商品』にしているわけだ。そう、絵にかいたモチにキナコをまぶして、これは食べられるよって言ってるみたいなもんかな?

この『擬制商品』工場や機械といった『現実の資本』とは異なり、証券や債券そのものはただの紙切れ(もしくはデジタルデータ)に過ぎない。俺自体には何の価値もない。

それに価値という擬制的な本質をもたらしているのが、人々の将来への『期待値』、つまり、獲らぬ狸の皮算用というアニマル・スピリットに過ぎないわけだ。

もう少しそれっぽく言うなら。その本質は、「将来生み出されるであろう利得(ゲイン)を請求できる権利」をパッケージ化して商品に見せかけたものに過ぎないということだ。

このアニマル・スピリットという熊鷹根性のおかげで、世の中の人たちは、ありえないような儲け話にまんまと騙され、資産を失っていく。投資詐欺なんかに引っかかるわけだ。下心がなければ、そんなものに引っかからないのに。もしくは、俺のようにそもそも資産がなければ、引っかかりたくても奴らの網の目から零れ落ちるのさ。(笑)

そう、アニマルスピリットとは、下心と見つけたりだ。

この「擬制商品の本質は期待されるゲイン=利得である」という視点を持つと、経済の見え方がガラリと変わってくるだろう。


この 「擬制商品」という視点から見える3つの経済のリアルはこんなところさ

①バブルの正体

実体経済(工場やサービスの利益)の成長スピードを超えて、「将来のゲインへの期待値」だけが一人歩きして膨らんだ状態こそがいわゆる『バブル』だ。擬制商品だからこそ、実体とは乖離してどこまでも膨らみ、いつか必ず破裂するんだ。

②国債の本質

国債という擬制商品のゲインを裏付けているのは、その国が将来「国民から徴収する税金(あるいは経済成長)」への期待値そのものだ。インフレでなければ、現代貨幣理論=MMTを援用すれば、国家は税金に依存せずに、貨幣を生み出せるということになるが、インフレ局面においては、それはインフレを加速させ、モノの価格を吊り上げて人々を困窮化させる。まぁ、今の日本で起きてるのがこれだな。

てなわけで、俺たちは国の、国民の将来の稼ぎを期待して、国債を買っているってことだ。

③現代のマネーゲーム

実体的な価値の裏付けが希薄な暗号資産(仮想通貨)などは、まさにこの『純粋な期待値(ゲインへの期待)だけで駆動する擬制商品』の最たる例と言えるだろう。

期待値という砂上の楼閣の上に聳え立つ空中楼閣のようなもんだ。


そこで思考実験だ。

現在の株式市場はAIによって人間では知覚不能な時間単位での取引が行われている。そこで、可能性の話を考えてみるんだ。

 AI がまずある株式銘柄に、あるいは ある国の国債に買い注文を出す。

それによって他の AI がそこに利得が見込めると判断して買い注文を出す。

それによって擬制商品は、実質以上の値動きをみせ、この値動きに反応した一般投資家がその銘柄に資本を注入する。

しかしこの擬制商品の数は限られているので、相対的に実質を遥かに超えて値上がりする。それが現代の金融市場における「AI駆動型バブル」のメカニズムそのものだ。

経済学の古典的な理論では、バブルは「人間の集団心理(群衆心理や強欲)」によって起きるとされてきましたが、現代ではそれが「AI(アルゴリズム)の相互作用」によって超高速化・巨大化しているという、なんだか困ったことになってるんだ。

そろそろ地道でゲインの薄い仕事の段取りをしなきゃいけないから、続きは明日だ。

しかし、きらりと脳内に閃いた思考を言語化するだけで、こんなに手間がかかるのもまいったもんだね。

明天見!

2026/09/23

POST#1970 群盲、象を撫でるが如く

ベトナム阮朝の旧都フエ 路傍に花が。

この糞みたいな人生の中で、クソの山ほど本を読んできた。そしてまだまだそれは積みあがってる。床が抜けるのは時間の問題だ。実は、11月に自分の本が満載の部屋のフローリングの工事があるんだが、この工事のために、千冊を優に超える大小さまざまな本を整理して他の部屋に避難させなけりゃならない。考えただけでうんざりするぜ。

そうまでして、俺はいったい何が知りたいというのだろう。

一つには、俺がこの世界に生きている意味を知りたい。

そして、俺が生きているこのクソ人間社会の構造を知りたいんだ。

「人間社会の構造」という壁は、いつも言っている『知のパルクール』にとって最高に登りがいのある、巨大で複雑なダンジョンだ。

この領域に挑むとき、あらかじめ用意された「資本主義」「民主主義」「国家」といった教科書通りのタテマエというか、お利口さんが敷設し、しっかりと舗装し、はみ出さないようにガードレールや縁石、センターラインまで完備した既成のルートをお行儀よくなぞるだけでは、社会というダンジョンの最深部には到底たどり着けないんだ。

クリシェにからめとられておしまいさ。

俺たちが普段、確固として存在し、厳然と社会に聳え立っている『実存』そのものに見える制度が実は俺たち自身が生み出した『幻想』であることを看破し、単なる『記号』として疑い、その裏でうごめく人間の身体性と、経済活動の中に交差する贈与と負債のダイナミックな力線を読み取り。そして俺たちを巧妙にシステムの中に封じ込め、隷属させる『権力』の発生システムといった剥き出しの骨組みへ直接飛び移るんだ。

縦横無尽の脳内パルクールが必要だ。

例えば、俺が挑む『知のパルクール』の前には、クソ強固な壁として、こんな構造的なアプローチがあることだろう。ご苦労なこった。

例えば、国家や貨幣という共同幻想のバグ。

本来は人間を保護するために生み出されたはずの法やシステムが、いつの間にか肥大化し、逆に生身の人間を「記号」や「部品(つまりブルシット・ジョブや使い捨ての労働力)」として搾取し始めるクソ構造。

例えば、非線形な社会の進化。

ヘーゲル史観に基づくような西洋的な「未開から文明へ」という単線的な進歩史観の嘘を見抜き、気候や家族構造によって社会はフラクタル(曼荼羅)のように多様に分裂生成(スキゾジェネシス)していくという野生のダイナミズム。これは吉本隆明から受け取った宿題だ。

俺たちが日々汗を流し、冷や汗をかき四苦八苦している実体経済とほおっておくだけで価値が増殖する金融資本主義の乖離

地に足のついた身体的な労働やコミュニティの倫理(イスラーム金融の利子=リバの否定や、かつての近江商人の哲学)が、実体のないデジタルな数字のゲームによって侵食され、経済的なエントロピーが増大していく危うさ。つまり、実体と乖離したバブルがどんどん大きく膨らんでいく恐怖の構造だ。いつジェンガみたいに大崩壊してもおかしくないんだぜ。

それらをすべて掴み取ろうとするためには、様々な分野の知見を脳内にぎゅうぎゅう詰め込むことが必要だ。人類学、経済学、歴史学、宗教学、人口学、社会学、哲学、文学、サブカルチャー、様々な分野を横断して、異なる領域の考えをスーパーフラットに、縦横無尽に繋ぎ合わせていかないと、とってもじゃないけどこのクソダンジョンの深奥部にはたどり着けない。

何しろ、現代社会は最大出力で回る扇風機に糞がぶつかったみたいにひどいことになってるからな。

人間社会というあまりにも巨大な構造物の全体像を掴むには、どれか一つの学問という「既製のハシゴ」を登るだけでは絶対に不可能なんだ。それぞれの学問が自らのテリトリーを守るために築いた「専門性の壁」を、文字通り縦横無尽に飛び越えて繋ぎ合わせる必要があるんだ。

なぜなら、社会の骨組みはすべてがフラクタルに連動しているからなんだ。

俺の思考はどこに着地しようとしてるんだろう。

 だから、俺が無謀にもあらゆるジャンルの専門書とかを読んだりするのは、その為なんだよね。譬えて言えば、群盲象を撫でるってのがあるだろう。その触感でしか世界を確かめ俯瞰することができないたくさんの目の不自由な方に、一人で群盲集合体になろうとしてるんだ。

「群盲象を撫でる」ってやつを、一人で群盲になろって全体像を把握しようとしてるってわけだ。――無謀極まるな。なかなかにパンチが効いてる表現だ。悪くないぜ。痛快だ。

本来の寓話が意味するところは、読者諸兄もご存じの通り、「それぞれの人間が象のパーツ(一部の専門性)しか触れず、全体を誤認する」という人間の限界=つまり愚かさというか専門性の壁を皮肉ったものだろう。

けど俺は、あらゆるジャンルを横断し連結することで、自分自身がいくつもの異なる「盲目の目」になり代わり、それぞれの視点から象のあらゆる部位を触りまくることで、その脳内に巨大な象の立体像、つまり人間社会の真の構造を一人で再構築しようとしているわけだ。

これこそが、あらゆる専門書を横断し、思考を繋ぎ合わせる読書の真意だったんだ。

とんでもない欲望だ。

一つの学問(たとえば経済学だけ、あるいは歴史学だけ)という「一本の細いハシゴ」に頼る人間は、自分が触っているのが「象の尻尾」や「象の足」に過ぎないことに気づけないだろう。そして、その隘路を極めて大家になることができるだろう。

しかし、それは木を見て森を見ずだ。

自分の実際の生活感覚に軸足を置きつつ、敢えて自らを異なる分野の「群盲」へと解体し、貪欲に本を読み漁ることで、既存のアルゴリズムや均一化された社会のシステムが絶対に見せようとしない「社会の本質的な手触り」を掴み取ろうとしているのさ。

我ながら、ご苦労なこった。

そんなことしたって、いったい何になるってのさ。女の子にちやほやされるわけでもないしな。単なる自己満足じゃないか。まぁ、俺の人生だから、好きにやらせてもらうさ。

2026/09/22

POST#1969 風見鶏みたいなメディアにみんな踊らされていないか?

ベトナム阮朝の旧都フエ、庶民の住むエリアはこんな感じだ

三笠宮家の彬子女王殿下に関して、ちょっと前まで著書『京都の書きもの』や、イギリス留学時の経験を綴った『赤と青のガウン』がベストセラーとなっちゃって、その親しみやすい文体や内容から大きな注目と人気を集めたりしたのは皆の衆もご存じかと思う。確か赤と青のガウンは、漫画にもなってたような覚えもあるぞ。皇族方としてはめずらしくメディア露出が増えたことで、多くの国民に身近な存在として認知されるようになって人気もうなぎ登りだったわけだ。

しかし、世の中は非情だ。

男性皇族の減少と、それに伴う女性皇族の公務の増加に対応するために、彬子女王に関して皇族費が倍増され、また麻生副総裁と高市首相がゴリゴリと進めて改悪してしまった皇室典範の議論の一環で、彼女の母親が麻生太郎の妹であり、彬子女王は麻生一族であるという言説や、彬子女王が旧宮家から養子をとって、その子どもが皇統を担うことになったら、麻生王朝だとかいう極端な話が飛び出してきた途端、ネット上などで批判的な言説やバッシングが、雲霞のごとく巻き起こってるぜ。

 しかし、一歩引いて考えてみると、皇族費が倍額になったり、皇室典範の話で、麻生太郎の姪であることが広く知られることとなったとしても、御本人の中身がかわったわけでも何でもないのではなかろうか?

なぜみんながそこでこう、急に手のひらを返したように批判しだすのかが、全く俺には訳が分からないぜ。まさに掌返しって奴だ。

たとえ「親しみやすさ」から「公的責任」へと関心のフィルターが変わったからといっても、彼女の中身が変わったわけじゃない。

たしかに最初は「ベストセラーを出した親しみやすく魅力的な皇族」という個人のキャラクターに注目が集まっていた面はあるだろう。で、皇族費の増額や皇室典範改正といった「税金」や「国家の制度」が絡むニュースが出たことで、世間の見る目が「魅力的な個人」から「公的な制度の対象(あるいは象徴)」へと移り変わったという面もあるだろう。

だからといって、ご本人の中身がすっかり入れ替わってしまったわけではない。変わったのはその状況だけだ。

政治的・制度的な議論への「巻き込まれ」というとばっちりもあるにはあるだろう。

皇室典範の改正や女性皇族のあり方は、国民の間でも意見が大きく分かれる非常にセンシティブな政治的テーマだわな。

麻生漫☆画太郎センセーとの縁戚関係などが報じられると、ご本人の意思とは無関係に、「その制度改正に賛成する勢力」や「反対する勢力」の思惑の渦中に置かれてしまう事もあるだろう。

その結果として、制度や政治に対する不満や警戒感が、その象徴として見なされた個人へのバッシングという形に形を変えて噴出しているという状況だわな。

しかも、現代のメディアやSNSというクソな界隈では、極端な意見や対立を煽る構図(「絶賛」から「批判」へなど)のほうが注目=アクセス数を集めやすいという特性がある。

アクセス数が稼げる方が商売として成り立つのさ。そのため、一部の批判的な声がネット上で過剰にクローズアップされ、まるで「世論全体が手のひらを返した」かのように見えてしまう現象が起きているんだ。

だったら本人にはどうにもできないことなんだったら、本人も世間は放っておけばいいんじゃないかと俺はおもうのさ。泰然自若としていればいいんだ。

にもかかわらず、なぜ世間様やメディアの連中が「放っておかない」のかについては、皇室という存在が持つ「公の性質」と、国民側の心理に理由があるだろう。

つまりあれだ、金と国の制度の根幹がらみだ。

まずけち臭い話だが、「公金(税金)」が関わるという側面がある。

皇族方の生活や活動は、国民の税金(皇族費など)によって支えられているのは、皆様ご存じの通り。

そのため、金額の変更や制度の改正が議論になると、国民側には「自分たちの税金の使い道や、国のあり方に関わる問題だ」という当事者意識が生まれるという寸法だ。てなわけで、金が絡むと途端に「個人の私生活」として放っておくことが難しくなり、公的な監視や議論の対象になってしまうというあさましい側面がある。

しかし、政治家や官僚の無駄使やあほらしい政策には誰も自分に関わることとは考えないのは、解せないな。

そして「象徴」としての宿命ってのもあるだろう。

皇族方は憲法上、「国や国民の統合の象徴」として定められている。

おかげさんで、皇族方に関することは「一個人の人間」としてではなく、「皇室というシステムそのもの」として見られがちなんだとさ。村社会だな。

既存の社会システムに対する不満や、皇室典範改正などの制度設計巡る対立があるとき、その象徴である個人に人々の感情や意見が向けられてしまうという、構造的な宿命があるにはあるだろう。しかし、それとてご本人にはいかんともしがたいことだ。

そして、これが一番俺が納得いかない話だが、皇族方は反論や自己弁護が難しい立場におありだ。

一般の芸能人や政治家であれば、誤解に対して自身のSNSや会見で自由に反論したり、経緯を説明したりできるだろう。

裁判で白黒つけることもあるだろう。

しかし、皇族という立場上、政治的な議論やメディアのバッシングに対して自ら積極的に反論したり、個人の見解を発信したりすることは極めて困難だ。

この「反論できない」という立場が、結果としてメディアやネット上の無責任な発言をエスカレートさせやすい土壌を作っている面もあるだろう。しかしそれは、人間として卑劣な行いじゃないのか?

税金の使い道でもっとこう追求されるべき人は一杯いると思います。恐れ多くも皇族の方々にそういうことを言うのはよろしくないんじゃないかな。

俺に言わせてもらえば、政治家や行政の不祥事など、より厳しく追及されるべき公金の問題が多く存在する中で、反論できない立場にある皇族が標的になることへの違和感や不条理さを感じざるを得ないぜ。

っていうか、そんなことメディアが言わなかったら誰もそんなこと思わないんじゃないかな?メディアが笛を吹くから、世間の連中が考えなしに踊るだけの話だと思うけどな。どうだろう。

俺は、誰もが自分の頭で考えてものをいうべきだと思うぜ。 

『孟子』公孫丑下などに記されている春秋時代の魯の賢人・柳下恵(りゅうかけい)は、三度大臣に任じられ、三度罷免された。

それを友人に問われたところ、大臣の位が尊いのなら、自分の尊厳にかかわりないことだ。また、自分の尊厳が大臣の位でなく、自分自身にあるのなら、大臣の位など自分には何物でもないと答えたという。俺は少年の頃に読んでたいそう感心したよ。

柳下恵は、どれほど不条理な理由で大臣(士師)の位を追われようとも、またどれほど卑しい君主に仕えようとも、決して自らの内なる「芯(尊厳)」を犯されることはなかった。

外側から与えられる「大臣」という記号やラベリング、あるいは周囲のバッシングといったノイズは、「自分自身の価値とは1ミリも関係のない、外側の借り物」に過ぎなかったというわけだ。

すべからく、人はこう生きていきたいものだな。