2026/10/22

POST#1990 北朝鮮は大日本帝国のデッドコピーなんじゃないかな

 

ネパール カトマンズ郊外のパタンのクマリが人々に祝福を与える

死後との、いや仕事の山を一つ越えた。気が楽になったぜ。疲労が消えるわけではないがね。しかし、心は少し軽くなったのは事実だ。まったく、小市民だな。我ながら呆れるぜ。

金正恩の妹の金与正🔗が38度線付近で、北朝鮮の兵士が韓国の兵士から攻撃を受けているとか、南朝鮮=韓国の為政者の化けの皮がはがれたとか主張し、この上は北朝鮮の主張を大音量で放送するアジテーションを再開すると、いつものように冷酷に鼻息荒く宣言している。

ネットでは、金正恩🔗が脳梗塞で死亡し、金与正が権力を握ったというデマが世界を駆け巡ったが、これはいつものように、こうだったらいいのになぁっていうデマだ。金正恩だっていつかは死ぬが、それは今じゃないんだろう。そんなもんだ。
俺は常々、日本の皆様が、世界に誇る万世一系(とされるナラティブを持つ)天皇っていう存在は、世界に広く確認される『生き神様信仰🔗』のヴァリエーションの一つだと考えてる。他にはダライ・ラマ🔗とか、ネパールのクマリ🔗とかなんかもこのカテゴリーに入れることになるよね。ここまでは世間でも一般的で、神社本庁や右翼の皆さん界隈以外ではおおむね肯定される意見だろう。
ここからが、俺の独自の思考跳躍だ。
日本の仮想敵国No.ONEであり、トランプ大統領のお気に入りのリトルロケットマンの君臨する北朝鮮の金王朝だって、あれは生き神様信仰の萌芽が見られると思うんだ。

北朝鮮の金王朝の首領崇拝を、日本の「天皇(特に近代の現人神思想)」や、ネパールの「クマリ(生き女神)」と並ぶ「生き神様信仰(現人神・現身の神)」のバリエーションとして捉える視点は、宗教人類学や比較政治社会学において最も核心を思わずずぶりとついちゃったんじゃないかな。(笑)

どれほど国家の側が「万世一系」や「世界で唯一の歴史と血統」という、検証不可能な物語を演出してもだ、煎じ詰めてその心理的・構造的な仕組みを剥ぎ取ってみれば、そこにあるのは「人間の肉体を器として、そこに絶対的な超越性や理想のシンボルを宿らせようとする、人類共通の精神システム=共同幻想」に他ならないんだから、尊厳も何もあったもんだにゃあわな。

この「生き神様信仰」という対称的なフレームワークから、ちょいと考察をひろげてみるぜ。皆の衆、いい加減忙しいとは思うが、退屈してるんならさあご一緒に!俺は面白くてためになるブログを標榜してるんだ。

まず、一番プリミティブなネパールの「クマリ」の純粋な「祝福のシステム」を見てみようか。ネパールのクマリ(Kumari)は、幼い少女の肉体にヒンドゥー教の女神ドゥルガー🔗が宿ると信じられている生き女神信仰だ。俺自身もかつて、カトマンズ郊外のパタンでクマリの祝福を与えられたことがある。こうして今も生きて大口をたたいていられるのも楚の御蔭かもな。

クマリの本質は、人々に「法律」や「命令」を下して支配することではないんだ。彼女がなすのは、ただ民衆を眺め、微笑み、「祝福(恩寵)」を与えることだ。ただそれだけだ。権力なんかない。神社の氏神様が身体を持っていたら、ただ氏子を眺め、微笑み、その営みに祝福を授けるだけだというのに等しいだろう。

かつてネパールの国王すらもクマリの前に膝を折り、その祝福を受けることで自らの王権を承認(正当化)されていたんだ。まるで、征夷大将軍を任命し、その支配権を承認していた中近世の天皇のようだな。

宗教人類学者や我が心の師・吉本隆明らが指摘したように、日本の天皇制、特に政治的な実権(軍事力や法律の制定)を握る前の古代(6世紀以前など)の天皇や后(神功皇后など)の本来のあり方は、まさにこのクマリに近い「純粋な祭祀王(神の依り代)」だったんじゃないかとも推論されている。

国家のトップに「権力を持たない、ただ祝福を授けるだけの生き神(アバター)」を置くことで、共同体の精神的な安定と秩序(平和)を維持しようとする、高度なアニミズムの知恵だったと言えるだろうな。

これが、西洋の大国からの開国要求を受け、尊王攘夷だ開国だとすったもんだして日本全国南から北の五稜郭までひっくり返して明治維新を成し遂げたとき、その錦の御旗の天皇を、国家の根本原理として「現人神」としたわけだ。この原初的でフラットだったはずの「生き神様信仰」を、近代国家の「軍事・支配の道具」として強引にハックして利用したのが、明治以降の大日本帝国における「現人神(あらひとがみ)」思想であり、それを第二次大戦後にそっくりそのままデッドコピーしたのが、現在の北朝鮮の「金王朝(白頭の血統)」だという俺の見立てさ。どうよ、このシステムにハッキングされた狂気!

権力と神格化の最悪の合体だ。 本来、クマリのように政治権力から遠ざけられているべき「生き神の依り代」に対して、近代の国家は「軍隊の統帥権(大元帥)」や「憲法上の絶対権力」を合体させて、人々の遥か頭上に君臨する超越的な現人神に祭り上げちまったわけだ。: これによって、人間(天皇や首領)が発する個人的な命令や政治的決断が、そのまま「神の意志」へとすり替わるんだ。

恐ろしいことだぜ。

国民は自分で深く考えること(ロゴス)を奪われ、「天皇陛下(あるいはその劣化コピーの首領様)のために死ぬことは、神聖な義務である」という集団催眠に搦め取られ、結果として無謀な戦争や凄惨な人権侵害(焦土化や身分制)を心理的抵抗なく受け入れる「不思考の家畜」へと仕立て上げられてしまったわけだ。戦前の社会を美化する者が、往々にして北朝鮮を批判し、この世の地獄のようにそしるのは、自らの歴史にあまりに疎いのではないかと健忘症を心配してしまうほどだ。

それじゃなぜ、俺たち人間は「生き神様」のようなおかしなものを必要とするのかな?

うむ、それがし思うに、人間は、天の上にいる抽象的な「一神教の神」を信じるだけでも飽き足らず、「今、自分たちの目の前に生きて存在している、肉体を持った人間」を神として崇めたいという、強烈な実存の弱さ(超越性への渇望)を持っているんじゃないかな。

普通の車よりフェラーリみたいな超越性を持った車にあこがれるみたいに?ちょっと違うかな?(笑)

自分と同じように飯を食い、老い、傷つく生身の人間をあえて「生き神」という記号に祭り上げることで、人々は分解してゆく一方の社会の中でバラバラに孤立した不安(モナド化)から逃れ、「私たちはこの偉大な存在のパーツなのだ」という安易な連帯感に浸ることができるわけだ。そして、安易なものは往々にして空疎なものだぜ。愛は厳しいのさ(笑)。

日本人がいまだに天皇家の物語を信じ込もうとし、北朝鮮の民衆が首領を涙を流して崇める心理の根底にあるのは、まったく同じ「自分の足で立ち、自分の頭で考えることの恐怖」からの逃走に他ならない。ハンナ・アーレントは、『考えないことが罪』だと説いたがね。

日本の天皇制も、北朝鮮の独裁も、ネパールの少女信仰も、すべては「人間が自らの弱さと孤独を埋めるために作り出した、生き神様という名の共同幻想」の具現化であり、その本質に上下も貴賤も、変わりはない。十把一絡げだ。

と言うか、北朝鮮の金王朝自身が、えー、日本の天皇制をコピーしたとしか俺には思えないんだけどな。

これは実は、ほんとのことのようだ。

歴史的な事実として、北朝鮮の金王朝(金日成体制)の個人崇拝や国家の仕組みは、かつて彼らが統治されていた「近代日本の天皇制(大日本帝国の国体)」をそっくりそのままコピー(模倣)して作られたものだそうだ。マジかよ。だとしたら、あのリトルロケットマンの国は、貧しい民衆の姿は、マシンガンで処刑される人々の姿は戦争が終わっていなかった世界線の日本の姿だってことだ。勘弁してくれよ。俺は眼を背けたいけれど、背けてはいけない。目を見開いて、考えるんだ。

残念なことに、これは単なる俺の根拠のない推測ではなく、近年の歴史学や中東・アジアの比較政治社会学においても「首領制(金日成体制)のルーツは、戦前の昭和天皇制(絶対主義的天皇制)の国体思想にある」として深く研究され、実証されている事実なんだとよ!

「社会主義」という世俗的で近代的な上着を羽織ってはいるものの、その中身がなぜこれほどまでに歪な「生き神様信仰の封建国家」になってしまったんだ?

そして彼ら金一族がいかに日本の天皇制をコピーしたのか、共通点を通して、そのデッドコピーというか劣化コピーの痕跡をたどろうぜ。

1. 「万世一系」をコピーした「白頭の血統」

日本の天皇制を支える最大の柱は、天照大神から地続きで一度も途切れたことがないとされる「万世一系」という血統の神話=ナラティブだ。

金正恩の戦争上手なじいさんの金日成は、自分の権力基盤を盤石にするために、この万世一系システムをハックしたんだ。。白頭山(ペクトゥサン)神話の捏造: 金日成は、自らの独裁を永久化するために、これと全く同じシステムを作り上げたんだ。

それが「白頭の血統」というやつだ。なんだそれ?北朝鮮の建国神話の聖地である白頭山に金一族のルーツを重ね合わせ、金日成🔗、金正日🔗、金正恩へと「神聖な血」が受け継がれているというナラティブは、日本の天孫降臨や皇統のコピーそのものだろう。そう、北朝鮮版の天孫降臨の里・高千穂だ。よく研究してるぜ、まったく。なんせ、終戦までは彼は一応日本人だからな。

2. 「現人神(大元帥)」をコピーした「首領(総書記)」

戦前の日本において、昭和天皇は「現人神」であると同時に、大日本帝国陸海軍を率いる最高指揮官(大元帥)だった。宗教的な神格性と、軍事的な最高権力を一人の肉体に合体させることで、国民に「命を捧げる不思考の義務」を強いたわけだ。最強だ。このご意向に逆らうのは生半可な覚悟じゃ無理だ。

金王朝が完成させたシステムもまさにこれなんだ。戦争上手な金日成や映画監督になりたかった金正日は「首領(最高尊厳)」という生き神でありながら、同時に軍の最高司令官(大元帥)として君臨していたんだ。国民を「一億総特攻(銃爆弾となれ)」と駆り立てた戦前日本の精神構造が、現在の北朝鮮の「先軍政治」や「最高尊厳のために爆弾となれ」というスローガンの中に、100%そのまま息づいているんだ。知れば知るほど、憂鬱になれるな。もう一錠レクサプロを飲んどくか?

それだけじゃないぜ!高市総理も大好きな「教育勅語」をコピーした「唯一思想体系」なんてのもある!もう、憂鬱を通り越して、へらへらした笑いが止まらないぜ。

戦前の日本人は、学校で「教育勅語」を暗唱させられ、天皇を中心とする家族国家観(国体)を徹底的に脳内に刷り込まれたのは、ご存じの通り。それを現代によみがえらせようとしたのが懐かしい森友学園だというのも皆さまお忘れでしょうか(笑)。

これと全く同じことを、北朝鮮ではやっているのさ。

北朝鮮の民衆が毎日暗唱させられ、生活を縛られている「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、まさにその教育勅語の現代版だ。

そこには「首領様を天のように崇め、その命令には無条件で服従せよ」という、かつての「滅私奉公」や「忠君愛国」のロジックが、一言一句同じ精神性で複製されています。そいつに、『欲しがりません勝つまでは』とか『鬼畜米帝』とか書いてあっても俺はもうおどろかないぜ。

かつて日本は「西洋の野蛮な近代の植民地主義」に対抗するために、独自の生き神様システム(現人神・大元帥)を急拵えし、国民を不思考の兵士に仕立て上げて朝鮮、中国、東南アジアなどの周辺国を蹂躙しまくった。みんな無謀な戦争に駆り出され、マラリアになったりワニに食われたりした挙句、武器もないのに特攻し玉砕した。

そして、その日本から解放されたはずの北朝鮮を率いた金日成が、今度は「アメリカという現代の十字軍」から自分たちの権力を守るための防壁として、最も憎むべき敵であったはずの「日本の天皇制のOS(支配システム)」をまるごとデッドコピーし、自分たちの都合の良いようにして21世紀にまで生き残らせたって筋書きだ。

金日成以来、金日成、金正恩そして娘のジュエ様🔗に至るまで、すでに四代、このままじゃ。日本が女性天皇を持つより早く、ジュエ様が後を継いじゃうな。国連にも女性の人権に配慮してると評価されるかもしれないな。

それまた、ブラックジョークだぜ。勘弁してほしいぜ。

2026/10/21

POST#1989  一神教という「傲慢なシステム」への静かな反逆

Thailand、アユタヤ。有名な仏頭だけど、どこかアニミズムのイメージを喚起させる

昨日の夜の現場は最悪だった。 
ここ何年かで一番メンタルをやられた。 20人近い職方が、左官、土工、サッシ屋、電気屋、それぞれ みんな好きそれぞれに動いてて、俺はそれをまとめるのに必死だった。 理性のストッパーが外れて、暴れ出したくなる気持ちに、ぐっと手綱をひく。
人間は自分の立場でしかモノを考えられないという俺の認識は、こういう経験から打ち立てられる。

そもそも無理な工程の組み方で 制約の多い現場なんだ。 雇われの現場監督にすぎない俺に、元請けは全ての采配と責任を担わせて、誰も彼もが好き放題に主張したり、要求したりする。
感情崩壊のリミットが近づいていたのがわかった。
逃げ出すことができるものなら、一目散に逃げ出してしまいたいけれども、人生は逃げ出すわけにいかない。
吐き気を抑えて立ち向かうしかない。

そんな 過酷な状況の中でも自分の正気を保つためだけに このブログを書き続ける。目には見えない世界の構造を知覚する時、脳内から ドーパミンが出るからね。

宗教国家アメリカと宗教排除国家のフランスについて考えているときに、ふと脳内で跳躍が起こった。
いつものことだ。この脳内思考の跳躍、思考のパルクールこそが、飲まない、打たない、買わないの三拍子そろった今の俺の生きてる愉しみだ。

日本の神道の神様ってさ、宗教法人神社本庁の皆さんとかは、なんかすごく御大層なものにみたいにいってるけれどね、パプアニューギニアの人たちが信じてる祖霊や精霊、あるいは、タイの人たちが信じてるピーとかいう精霊とかと、構造的に何ら変わりはないんだよね。


そう、日本の神道は、何か特別で神秘的な「高尚で唯一無二の宗教」などではなく、パプアニューギニアの部族が信じる祖霊や、タイの民衆が深く信仰する「ピー(精霊)🔗」と、ミャンマーの「ナッ🔗」などと本質的には何ら変わりがないんだ。

皇統3千年の荒唐無稽な主張の神社本庁のような組織が、どれほど厳かさや国家的な権威、独自の伝統を演出したとしても、その根底にあるのは世界各地に普遍的に存在する「アニミズム」であり「祖霊信仰」という人間の極めて原初的で肉体的な精神の形なんだぜ。

それは野蛮で未開なことなんかじゃない。人間中心の世界観に打ち込まれた、今を生きる人間だけを世界の主体にしない遥かな過去からやってきた未来の思想でもあるんだ。

1. タイの「ピー」、ミャンマーの「ナッ」と日本の「カミ」の完全な一致

タイには仏教が深く根付いていますが、それ以前の土着の信仰として「ピー(精霊・祖霊)」が今も人々の生活を支配しています。ミャンマーも小乗仏教の国だけれど、人々は「ナッ(祖霊・精霊・土地の神)」を信じている人がたくさんいる。

その二面性の構造は、俺たち日本人の氏神様とかとすごく近い。

ピーやナッには、自分たちを守ってくれる「先祖のピー(祖霊)」や「土地のピー(鎮守の神)」もいれば、粗末に扱うと祟りをもたらす「邪悪なピー(怨霊・物の怪)」もいる。ナッも同じだ。人々を守護する一方で、機嫌を損ねたりすると、或いは気まぐれに災厄をもたらすんだ。こんなところも日本の神道との生き写しなんだ。 これは日本の神道が、菅原道真のような怨霊を神(天神)として祀って鎮めたり、地域の氏神を「怒らせると恐ろしいもの(荒御魂)」として畏れ、祭りを通じて「和御魂(穏やかな守り神)」へと変えていくシステムと全く同じだろう?

神社にある「御札」や「祠(ほこら)」は、タイの家々の庭にあるピーの家(サーンプラプーム)と精神の次元において完全に一致している。

実際に行ってみると、日本の家に祀られてる小さな祠みたいなのを目にする。文化が地続きなんだ。

更にギアを上げていこうや。パプアニューギニアの祖霊に見る「英霊」というフィクションの破壊だ!

パプアニューギニアの密林に生きる人々は、目に見えない無数の「精霊(スピリット)」や「祖先の霊」がすぐ近くの森や川に息づいていると感じ、彼らと共に生きている。

諸星大二郎🔗先生の『マッドメン🔗』や『海神記🔗』を読めば、それが肌感覚で体感できる。あるいは水木しげる🔗先生の戦争体験などもそうだ。水木先生は、パプアニューギニアの森の中、片腕を亡くした敗残兵として彷徨ううち、それらの存在を感知して妖怪に目覚めたんだ。

この生々しいアニミズムの視点に立つとき、国家(神社本庁の背後にあるような国家神道のシステム)が作った「お国のために死んだから、国家を護る特別な『英霊(神)』として靖国神社に祀る」という近代の政治的フィクションがいかに不自然で、歪なものであるかが暴かれることになるだろう。俺はずっと昔から気づいてたけどね。

パプアニューギニアでもかつての日本人の祖霊観でも、死者の霊は自然へと回帰する。戦争で亡くなった人々は、国家の管理物(英霊という記号)などではなく、本来はパプアニューギニアの精霊たちと同じように、「ただ生身の人間として死に、静かに故郷の山や川、自然の理法(スピリット)の中へと還っていくべき存在」なんだ。日本人は山の奥や海の向こうにそうした他界を想定した。

国家が作った「神の位」というタグを剥ぎ取り、世界共通の「ありのままの祖霊」として彼らを個人の記憶の中に還すことこそが、本当の弔いであると言えるわいな。

3. 一神教という「傲慢なシステム」への最大の反逆

アメリカや西欧の一神教に基づく近代システムは、こうしたタイのピーやニューギニアの精霊、そして日本の神道を「未開の迷信」として、かつて十字軍がやったように排斥し、単線的な進化の歴史から消し去ろうとした。少なくとも、人類の最も未開で低俗な世界観だと貶めようとしてきた。一神教サイコー!って称揚して、同じ一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教で王座決定戦を繰り広げてた。いや、今でも続いてるか。

しかしだよ、神道の八百万の神々やアイヌの人々の信仰するカムイ、ピーやナっなどのアニミスティックな信仰の普遍性こそが、人間を記号(モナド)に変えて支配する現代のデジタル監視資本主義や、一神教的な善悪二元論に対する最大の「防壁」になるんじゃないかね。

そう、八百万の神々やピーやカムイを信じる世界には、「自分たちだけが正しい選民だ」という傲慢な正義(十字軍精神)は生まれないわけだ。

そこにあるのは「他者(自然や異なる文化)のスピリットを畏れ、お互いの領域を侵さずに共生する」という、 Pierre Clastres が描いたような、支配をもたない社会の平等の知恵だって言いうことができるだろう。

神社本庁の皆さんのように、日本の神道をあたかも「万世一系の誇るべき独自の高等宗教」であるかのように語る言説は、歴史の勝者が作った浅薄なナラティブ( illusory )に過ぎない。

それを煎じ詰めて政治的な虚飾を剥ぎ取れば、そこにあるのはパプアニューギニアの森のざわめきであり、タイの路地裏に佇むピーの祠と同じ、人間がこの地球という過酷な自然(宇宙の理法)の中で、生身の肉体を持って生き抜くために共有してきた、全人類共通の「野生の知恵(アニミズム)」そのものだろう?君はどう思う?

「神道もピーもパプアニューギニアの祖霊も皆同じ」という、この多元的でフラットな視点は、国家や宗教組織が施してきたあらゆる「権威の洗脳」を無効化し、俺たち三21世紀以後の世界を生きる人間が再発見すべき、人間が太古から持っているはずの「地球の住人としての野生のロゴス(理性)」を完全に取り戻す手段かもしれないな。

これが、吉本隆明の言ってた『アフリカ的段階』ってやつかもしれないな。

2026/10/20

POST#1988 フランス人はいつだってやりすぎる。やりすぎたおかげで近代国家が生まれた

パリ、クリニャンクール。あの日は雪だった
フランスが燃えているらしい。

数年前の黄色いベスト運動をはるかに上回る暴動がフランスで起きているようだ。

詳細はまだわからない。10月17日に、それまで続いていた高校生!による教育への予算拡充を求めるデモを発火点にして、社会のあらゆる持たざる者たちの不満が爆発し、うねりのようなデモとなり、有機的な人津波のようにしてパリを飲み込んでいるという。まるで脳を持たない粘菌が、有機的に不定形に移動してエサをのみ込むように。

街角では、様々なものが燃やされ、バリケードが築かれ、警官隊は平和的なデモに対して弾圧を加えることでコントロール不能にし、人々の怒りに油を注いでしまった。

様々な商店が略奪され、燃やされた。その損害額は数億ユーロに上るというが、いったいどれほどの損害額になるか、誰にも分らない。

デモは、大統領の官邸であるエリゼ宮に向かったという。マクロン大統領は、正当な主張には対応するが、略奪や暴動に対しては断固とした処置をとると息巻いている。

そして、外野のドナルドトランプは、いつものように『デモは移民のせいだ』と的外れなことを言っている。フランスとアメリカの移民への包摂のシステムが全く異なることを、全然理解していない暴論というか、フランスの暴動にこじつけて自分の主張を垂れ流しているだけの愚かな発言だ。

いまや宗教右派とリベラリストの対立の場になっているアメリカと、公共の場からあらゆる宗教的なものを排除し、極力平等を推し進め、神からすらも自由であろうとするフランス人とでは、根本的に思想の立脚点が異なるんだ。

そして、この神無き市民=シトワイヤンの国フランスは往々にして、やりすぎる。

やりすぎるがゆえに、往々にして暴動になる。

その根底には、フランス革命の成功体験がある。王権も教会の権威も貴族の特権も否定して、社会をひっくり返し、多くの人々をギロチンにかけ、そのいけにえのもとに近代国家のロールモデルを築き上げたという成功体験が。

だからこそ、フランス人は、徹底的な政教分離を成し遂げた。これをライシテって言うんだ。

未だに天動説を信じてるような人がゴマンといるアメリカ!とは真逆なんだ。

アメリカには、フランスの「ライシテ(laïcité)」のような、公共空間から宗教を徹底的に排除するという厳格な原則はない。

同じ「政教分離」と訳される制度であっても、アメリカとフランスではその目的も、歴史的背景も、社会的な現れ方も全く真逆と言っていいほど異なっている。「アメリカは宗教から脱却していない」んだ。

なんでそんなに違うのかって?いろいろ理由があるのさ。

1. 歴史的な「敵」の違い

なぜこれほど差が生まれたのかは、それぞれの国が建国時に「何と戦っていたか」を見れば分かるってもんだ。建国神話みたいなものさ。

• フランス(ライシテ):宗教(教会)からの自由

フランス革命において、カトリック教会は国王と並ぶ「抑圧者(特権階級)」だった。

そのためフランスにとっての政教分離とは、「国家や市民を、教会の独裁や迷信から守る(つまり、解放する)」ための戦いでもあったんだ。

宗教はプライベートな空間に閉じ込めるべきであり、公の場(政治、学校、役所)に持ち込んではならないという厳格な拒絶がライシテの根底にあるんだ。

• アメリカ:国家からの(宗教の)自由

これに対してアメリカの祖であるピューリタンたちは、イギリス国教会(=イギリスの国家公認宗教ね)から信仰を弾圧されて新大陸に渡ってきたわけだ。

そのためアメリカにとっての政教分離とは、「自分たちの多様な信仰を、国家の介入から守る」ためのものでったわけだ。

ベクトルが真逆なんだ。

「国家が特定の宗教(国教)を強制してはいけない」だけであって、「政治家や市民が公の場で宗教を熱心に信仰すること」は、むしろ大いに推奨される国としてスタートしたのさ。

2. 現実の社会における決定的な差

この違いがあるため、フランスのライシテの視点から見れば、アメリカの政治・社会は「宗教にまみれた異常な光景」に映るわけだ。

ライシテこフランスでは、宗教色を完全に排除して、大統領の宣誓に聖書は絶対に使わない。

公立学校では、宗教的シンボル(十字架、ヒジャブ等)の着用禁止だ。

そして、政治は常に宗教の持つ社会的影響力を弱めるように働く。

これに対して、宗教国家アメリカはどうか?


大統領の誓いの際には、聖書に手を置いて誓う。In God We Trustだ!まぁムスリムの大統領だったらクルアーンに手を置いて宣誓することになるんだろうが、アメリカにムスリムの大統領が生まれることはないだろうな。

学校では、神への祈りや聖書クラブの活動が信仰の自由として盛んに行われる。まぁ無差別銃撃事件もよく起きるけどね。

そして政治はいつも宗教的価値観に翻弄され、中絶禁止などを法制化しようとするわけだ。

フランスでは、公的な場所で宗教を大っぴらにアピールすることは「社会の分断を招くルール違反」とみなされる。あくまで個人の内面の問題だ。

しかしアメリカでは、大統領が演説の最後に「God bless America(神がアメリカを祝福せんことを)」と毎度叫ぶように、宗教、いやキリスト教は国家のアイデンティティそのものなんだ。

アメリカの政教分離は、あくまで「いろんなキリスト教の宗派が喧嘩しないように、国教は作らないでおこう」という、いわばキリスト教徒たちのための安全協定に過ぎなかったてわけさ。

だからこそ、250年経った今でもアメリカは宗教から脱却するどころか、政治の最前面にキリスト教のドグマが堂々と居座り続けている。

フランスのような徹底的な世俗化の手続きを踏んでいないアメリカが、中東に対して「十字軍」的な独善性を持って攻め込んでしまうのは、この制度的・文化的なルーツから見ても必然であると言えるだろうな。イラクの時も、今回のイランもそうだったぜ。


さて、この宗教を排除して、宗教によって担保されていた王政や貴族制を打ち倒すフランス革命を成し遂げたっていうことそのものが、その後の人類な革命観において、フランス革命が一種の普遍的なものとして成り立つ一番大きな契機だと思うんだ。

そう、フランス革命がアメリカ独立革命や他の市民革命を超えて、人類史における「普遍的な(世界中どこにでも適用できる)モデル」になり得た最大の理由は、政治と人間の理性を宗教の呪縛から完全に切り離した点にあるんだ。

これこそがフランス革命が世界史に刻んだ最も偉大な、そして本質的な契機です。その「普遍性」の意味を、ここまでのアメリカとの対比からさらに煎じ詰めるとこんな対比が浮かび上がるのさ。

1. 「特定の神」ではなく「全人類の理性」を土台にした

アメリカの独立革命は、実態としては「イギリス(プロテスタント)の身内同士の権力争いと、キリスト教徒の居場所づくり」というローカルな性質を脱し切れていなかった。だからこそ、今でもキリスト教という特定の宗教に縛られ続けている。政治や世界の行く末に大きな影響力を与えるほどに。

しかし、フランス革命が掲げた「人権宣言」はまるっきり違う。まぁ、白人オンリーとしか思えない愚行をフランスも散々やらかしてはきているけど、その理念は突き抜けてるよな。

彼らは、人権の根拠を「キリスト教の神」に求めず、人間が生まれながらに持つ「理性」に求めたんだ。神からの決別だ。

そしてそれは、誰にでも適用できる普遍性を持ちうるんだよね。

根拠がキリスト教の神であれば、イスラム教徒や仏教徒、あるいは無神論者には通用しないだろ?

しかし、「人間の理性と権利」を土台にしたからこそ、フランス革命の思想はキリスト教圏の枠を飛び越え、アジアやアフリカ、そして中東を含む「地球上の全人類に普遍的に適用できるシステム」として成立したんだ。

2. 「公共の場」という中立なスペースの発明

フランス革命が成し遂げたもう一つの普遍的な功績は、「公的な空間(政治や教育)には、特定の宗教を持ち込んではいけない」というルールを世界で初めて作ったことだ。ライシテはその成文化されたルールだね。

もしこのルールがなければ、国家は常に「どの宗教・どの宗派が一番偉いか」という不毛な争いに明け暮れることになるだろう。

フランス革命は、国家をあらゆる宗教から等距離に置くことで、「どんな信仰(あるいは不信仰)を持つ人であっても、市民として平等に共生できる空間」の設計図を示しましたわけだ。そこに至るまでには、ユグノーのぎゃくさとか、プロテスタントが焼き殺されるとか、ひどいことが山程起こった。ルソーやヴォルテールが人々に近代的な普遍性と人権と寛容さを説き続けた。その行く末にフランス革命が起きたんだ。

おかげさんで、近代民主主義国家が目指すべき「普遍的な理想の形」となったわけだ。

しかし、社会から宗教が、完全に払拭されたフランスの普遍性が抱える現代のジレンマが、今回の暴動のように激しく噴き上がる。この「フランス革命の普遍性」も、現代において新たな壁にぶつかっているんだ。

フランスが「これが全人類の普遍的な正義だ(ライシテだ)」と信じて進めるルール(例えば、公立学校でのヒジャブ着用の禁止など)が、イスラム教徒の側から見れば、「かつて十字軍が自分たちの正義を押し付けてきたのと同じ、形を変えた『西洋の独善(世俗主義という名の宗教)』の押し付けではないか」と反発を招いているという皮肉な現実もある。

自由と平等と博愛を掲げながら、社会の格差は広がり、エリートと庶民の溝は深まるばかりだが、この両極を融和させ包み込むような寛容さに満ちた宗教は、社会には存在しない。

彼らはフランスの市民たちは何に怒っているのか。究極的には本人たちも定かではないかもしれない。しかし、 それがもし、新自由主義が再び社会にもたらした激しい格差に対したいかりであるとともに、言葉だけの薄っぺらな平等という建前に怒っているのだとしたら フランス革命はいまだに未完の革命であり続けていると言えるかもしれないね。