2026/10/14

POST#1982 ハートマン軍曹のいかれたブートキャンプ

ベトナム阮朝の旧都フエ。庶民はスクーターで縦横無尽に駆け抜ける

かつてのアメリカ軍は、徴兵制だった。
様々な階層から徴兵された兵士が、組織の中に混在していた。なかには、後に政治家や大統領になるようなエスタブリッシュメントの若者も軍務につき、第一線で活躍してノブレス・オブリージュ🔗を身をもって果たしていた。
後のJ・F・ケネディ🔗大統領なども、小型潜水艦で戦った。何処と?大日本帝国じゃないか。パパ・ブッシュ🔗も最年少パイロットとして第一線に参戦し、撃墜されたりもした。
当時のアメリカの政治家やエスタブリッシュメントたちにとって、戦争は他人事ではなく、自らの子弟が参戦して命を懸けた戦う類のものだった。だからこそ、質の高い文民統制が機能していたんだろう。

しかし、ベトナム戦争における市民の反発を受け、徴兵制はなくなった。
なくなる前から、エスタブリッシュメントの劣化は進んでおり、徴兵逃れが蔓延していた。
世界のノーベル平和賞候補No.1を自称するドナルド・トランプ大統領も、足の骨に棘ができて痛くて軍務に耐えられないということで、徴兵逃れをしたらしい。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
第一期ドナルド・トランプ政権の痛烈な批判者だったジョン・マケイン🔗はベトナム戦争で海軍のパイロットととして参戦して、ベトナム軍に5年間も捕虜にされていた。
そして、生還した彼は英雄と讃えられた。
そんな生きた英雄で、トランプの暴政に節を曲げなかったマケインを、トランプはとことん嫌い『彼は(ベトナム戦争で)捕虜になったから戦争の英雄だと言われているが、私は捕虜にならなかった人たちの方が好きだ』とイランことを言って顰蹙を買っていた。
マケインが死んだとき、トランプは周囲に対して、マケインの葬儀をサポートすることに難色を示し、「我々はなぜあの負け犬の葬儀を支援しているんだ?」といった趣旨の不満を漏らしていたという疑惑が浮上したという。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
 

さて、徴兵制が廃止された後に、誰が自発的に軍隊にはいることになるだろう?
そう、生活に余裕がない者。もっとストレートに言えば貧困層だ。アメリカの製造業の退潮に伴い、かつての好況な時代なら、工場でそこそこの仕事にありついていた層が、ズルリと貧困ラインを割り込んでいった。そして、そのクラスの若者たちが割の良い収入、大学への学費補助、家族も含めた無料の医療費などを目当てに軍に入る。
そして、ブートキャンプで軍人、つまり戦争機械へと脳改造されるって筋書きだ。

アメリカ軍の5つの軍種(陸・海・空・宇宙・海兵隊)の中で、海兵隊は最も訓練が過酷で、規律が厳しいことで知られている。フルメタル・ジャケット🔗を見れば分かるだろう。そう、ハートマン軍曹🔗が出てくるあれだよ、あれ。
このブートキャンプで行われるのは、訓練という名の洗脳だ。オペラント条件付けだ。

そこでは徹底的な自己の破壊と再構築が行われるんだぜ。
まぁ、もっとスマートに言えば洗脳だ。
俺はごめんさ。
「ブートキャンプ」と呼ばれる新兵訓練では、ハートマン軍曹みたいなドリルインストラクター(つまり鬼教官)から凄まじい怒声と精神的プレッシャーを浴びせられ、個人のプライドを一度完全に破壊されることになる。
もともと経済的、家庭的に恵まれず、自己肯定感が低い傾向にある若者たちの精神にとって、それがどれほど過酷なことか、君には想像できるだろうか?人間としての中身が徹底的に否定され、空っぽにされてしまうんだ。
この過程で、「上官の命令には条件反射で従う」という、戦場でパニックにならないための強靭なメンタルを植え付けられるわけだ。兵器としての軍人に、自分で考える必要はない。
撃てと言われたら、条件反射のように撃つ。殺せと言われたら、躊躇なく殺す。そんな優秀な兵士に、戦闘員に洗脳されるのさ。
そういえば、ハンナ・アーレント🔗はユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマン🔗を考察するなかで、『考えないことが罪』であるという結論に達していたっけな。
その対極の人間性を叩き込まれるのさ。

そのかわりと言っちゃなんだが「海兵隊員」としての強烈な誇りがインストールされるんだ。
一度海兵隊員になった者は、退役後も "Once a Marine, Always a Marine"(一度海兵、生涯海兵)と言われるほど、組織への忠誠心と戦闘集団としての規律を叩き込まれるんだけど、それは除隊したあともその狂気のメンタリティを自ら肯定し続け、自らのうちに内包しながら市民社会で生きるということを意味してるんだ。
そんなの残酷な呪い以外の何物でもないな。

かつて、日本軍も中国で捕虜にした中国人な首を、新兵に日本刀で刎ねさせた。これも、市民社会での倫理や常識を破壊し、上官の命令によって、犯し尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという苛烈な、非人道的な指令を全うさせるためだった。当時の日本人は、東洋鬼(トンヤンキー)と言われたもんだ。
未だに日本人に対して、中国人が仮想敵と考えるのはそのためだ。彼らの反日感情の根底には、日本人がかつて大陸で繰り広げたウルトラ・バイオレンスがある。それを忘れ去って、敵視するのはお門違いも甚だしい。
まぁ、いつだって靴を踏んだほうは覚えていないが、踏まれたほうは忘れないものさ。
俺はそんな話を子供のころ、おばあさんから何度も聞かされた。俺のばあさんはある意味俺のハートマン軍曹みたいなもんだな(笑)。


このブートキャンプで徹底的に、その兵士自身の自尊心や市民してのメンタリティを徹底的に破壊することこそが、海兵隊員などによる、終わりのないレイプや強盗殺人などの凶悪犯罪を生み出す契機になっていないだろうか?

俺の予想通り、軍事心理学や社会学の研究、そして元海兵隊員たちの証言においても、ブートキャンプにおける「自我の徹底的な破壊と戦闘員への再構築」が、退役後や駐屯地周辺での凶悪犯罪、アルコール・薬物依存、そしてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こす重大な要因(トリガー)になっていることは、繰り返し指摘され、問題視されている。
海兵隊の訓練システムが、どのようにしてご指摘のような問題につながっているのか、見てみよう。

1. 自我の破壊と「超攻撃的・男性優位」な人格の刷り込み

ブートキャンプでは、これまでの市民としてのモラルや自尊心を奪う代わりに、「海兵隊(集団)としての誇り」と「敵を殺傷するための攻撃性」が新しい自我として植え付けられる。

それは一言でいえば、暴力性と支配欲の肯定だ。
訓練の中では、攻撃的であること、強靭であること、相手を圧倒することが最大の美徳とされる。
このマインドセットが基地の外(一般社会)に出た際、特に女性や市民などの「自分より弱い立場の人」に対する支配欲や暴力の衝動(レイプや強盗、暴行など)として歪んだ形で破裂してしまうケースが後を絶たないわけさ。


そして彼らが社会を見る視点は「組織の内と外」で極端に分離するんだ。
自我を破壊し、海兵隊員であるという代替物をインストールされた彼らの脳みそのなかには、「自分たちは選ばれた最強の海兵隊員(身内)であり、それ以外(一般市民)は守るべき対象、あるいは格下の存在」という選民思想的な歪みが生じるという歪んだエリート主義だ。今回のバラード容疑者のSNSの投稿にも見て取ることができるように思う。
しかし、本当の自分自身に基づいていない自尊心に、いったいどんな意味があるというのだろう。
そして、この肥大した自尊心がこれまた現地住民への犯罪に対する心理的ハードルを下げてしまう効果絶大だ!

2. 空虚になった内面を埋めるための「酒・薬物」への依存

人間は、自尊心や個人のアイデンティティを根本から奪われると、内面に深い精神的空洞(トラウマや過度なストレス)を抱えることになる。
人間は、どんなに肉体を鍛えても精神を鍛えることは難しいのだ。
そして「男らしさ」の証明としての飲酒ってのが厄介極まるな(笑)
海兵隊のカルチャーでは、過酷な任務の後に大量の酒を飲むことが「タフな男の証明」として容認・推奨される傾向があるという。
訓練で麻痺させられた恐怖や不安、良心の呵責、あるいは失った本来の自分から逃避するために、多くの隊員がアルコールに依存し、それが理性を失わせ、さらなる凶悪犯罪(飲酒運転、暴行、殺人など)の引き金になっていくんだ。こんなのうちの小学生の息子でも分かりそうなもんだぜ。

3. 「戦場(異常)」と「日常(正常)」のスイッチの切り替えの難しさ

海兵隊員は「いつでも戦場へ行き、人を殺せる状態」を維持するための訓練を受けている。即応部隊だからな。
しかし、その高ぶった精神(過覚醒状態)のまま一般社会に戻されると、脳がバグを起こしちゃうわけだ。

ここには、自衛隊との決定的な違いがある。
日本の自衛隊は「法を遵守する公務員」としての自我を維持したまま訓練を受けるけれど、海兵隊は「戦う戦闘マシン」としての自我を求められる。
この「人を殺すための規律」は、一歩間違えれば一般社会における最悪の犯罪者を生み出すシステムと紙一重であり、アメリカ国内でも海兵隊員の退役後の犯罪率の高さやホームレス化、自殺率の高さは深刻な国家問題となっているんだ。
なんて素晴らしい社会!
なんて素晴らしいシステム!
こいつは一体、誰が幸せになるシステムなんだ?

さて、こんなことを知っても、君は海兵隊員のナイスガイを、君の家にホームステイさせるかね?
俺は厄介事はゴメンだぜ。

2026/10/13

POST#1981 君は自分の家にアメリカの海兵隊の皆さんをホームステイさせてみる気はあるかい?

ベトナム阮朝の旧都フエ。街角をスクーターが疾走する。
国民の代表として、国民全体から我が国の行政を負託されている政府は、長年にわたって沖縄県に米軍基地負担を担わせておいて、事故が起こるたびに『遺憾である』とオウムのように繰り返してきた。
かつて、悪夢のような民主党政権(BY 安倍晋三談)において、鳩山由紀夫が、普天間基地の移設は『最低でも県外』という方針を立てたが、その途端にアメリカからか、保守勢力からか批判の大合唱で、交渉は頓挫、停滞を余儀なくされ、当の沖縄県民からも、期待外れの狼少年のように扱われ、鳩山政権は退陣に追い込まれた。

以来、30年近く、米軍の沖縄からの移転は政治的に禁忌とされている。

アメリカ本国の政治家や外交官が見ても、アメリカ国内だったら絶対に設置が許されない住宅密集地の真ん中に、普天間基地は存在する。
しかし、それは動かない。
アメリカ人から見たら、日本人など取るに足らない存在だということだ。
PFASが漏れて水質汚染しようが、オスプレイが墜落しようが、大学にヘリコプターがおちようが、市街地に戦闘機が墜落しようが、それで日本人が死んだとて、イラクでミサイル攻撃された小学校で惨殺された小学生の女子たち140人と変わりないんだ。

もう一度、言わせてもらおう。いや何度でも言わせてもらおう。
この国は民主国家だ。デモクラシーだ。ということは国の主権者は、政府のお偉いさんたちではなく、一人一人の国民だ。俺や君や、そこいらのにいちゃんねえちゃん、おじさんおばさんだ。その象徴として、ある意味一般意思を体現する象徴的存在として、天皇陛下という存在が規定されているんだ。

この代替基地として計画されている辺野古基地は、堆積シルトのような軟弱地盤により一向に建設は進まない。よしんば建設できたとしても、滑走路の長さが足らないから、米軍は使わない可能性が高い。ばかばかしい。
アメリカの海兵隊員が沖縄の女性をラブホテルで殺害してから10日ほどたつが、すでにその話題は過去のものとなりつつある。
しかし、この辺野古の建設基地反対運動の抗議船に同乗し、京都の同志社高校の生徒さんが溺死した件に関しては、確かに問題は多々あるにせよ、あれからずいぶん経ったのに右派的な皆様の非難は鳴りやまず、文部科学省からの補助金もカットされる見込みだ。

この民主主義国家では、アメリカ軍の存在に疑義を呈したり、反対したりすれば、非国民のように扱われるのだ。
しかし、これは民主国家の主権者として、当然の行動ではないのか?
それとも、そういった異論を許さないというのは、わが国の政権が敵視する中国共産党のように、人間の思想信条や内面すらも統制し、管理し、従わない者は徹底的に弾圧するということなのだろうか?
だとすれば、この日本という民主主義国家は、すでに共産中国を恐れることはない。
やり口がソフトかハードかという違いだけで、すでに内実は共産中国と大差ない国家体制になっているということだからだ。
日本国が、真に守らなければならないのは、民主的で、思想信条の自由があり、そこに生きる人々が法に基づいて平等に扱われ、理不尽な目にあうことを許さない社会であるという規範のはずだ。
それこそが民主主義国家のあるべき姿ではないですか?
異論のある人は、反論してほしい。

そこで提案だ。思考実験だ。
例えば海兵隊の基地を、大阪の夢洲や東京湾岸地区、みんなの大家さん事件でクローズアップされた成田空港周辺の原野に移設したと考えたらどうだろう?
そして、アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じてくれているナイーヴな皆さんのおうちに、海兵隊の屈強な皆さんを、人を躊躇なく殺すことを職業倫理として叩き込まれた精鋭の皆さんをホームステイさせるのはどうだろう?
夜になれば、六本木や大阪の道頓堀界隈は、酔っぱらった海兵隊員でごった返す。京成成田駅付近の成田山参道付近も、海兵隊員で大賑わいだろうよ。スカイライナーに乗れば、35分で日暮里までつくから便利だしね。意外と日暮里辺りまで海兵隊の皆さんで潤うかもしれないぜ。
そうなったとき、街を歩く若い女性たちはへそを出して歩くのをやめて、海兵隊員にレイプされないように、アフガニスタンのイスラム教徒のように全身を覆い隠すような格好をし始めるかもしれないな。ウフフ…。紫外線よりレイプされて殺される方がおっかないのは言うまでもないからね。

それが、沖縄の市民があの狭い町の中で体験していることだ。
基地があるおかげで経済が潤っている?それは詭弁だ。基地があるおかげで、産業のない田舎町のように飲み屋しか商売が成り立たないんだ。地方都市に行ってみるがいい。人口規模の割に、やたらと飲み屋が多い街を見つけることができるだろう。産業がないからだ。人々のブルースを癒すために、生活してゆくために飲み屋が必要なのさ。

これをバカバカしいと一蹴する前に、自分の街のこととして、我がこととして考えてみるべきではないだろうか。
殺されたのが、あなたの妻や、あなたの妹や、あなたの娘だったらどう思うか考えてみてはどうだろう。

なぜって、この国は曲がりなりにも民主国家だからだ。国民の一人一人が主権者の国だからだ。大の虫を生かすために、小の虫を殺してもいいというトロッコ問題のような理論=屁理屈は成り立たないはずだ。

沖縄に住んでいる人も、東京に住んでいる人も、福島に住んでいる人も、大阪に住んでいる人も、すべて皆同じ存在意義を見止まられ、この国の主権者としてこの国土に偏在して住んでいるんだからね。

こんなことを書き記す俺のことを、『パヨク』と小バカにする君!
君こそ家にメキシカン・キラーを名乗るような屈強な海兵隊員さんをホームステイさせてみてはどうだい?
意外と愉快な日々が送れるかもしれないぜ。俺は御免だけどな。
あいつらに付き合って酒を飲んだら痛風の発作が出るだろうし、レイプの時に足を押さえているのも御免だぜ(笑)。

2026/10/12

POST#1980 あらためて言っておくけれど、民主主義国家なんだぜ、この日本は

ベトナム阮朝の旧都フエ。かつての王宮の裏手の池には素晴らしい光が差していた
泥のように眠った。

睡眠負債はたまりまくってる。本を読むこと、眠ること、年老いた俺にはそれが愉しみだ。

夢で、このブログをまとめた素敵に分厚い本が出版される夢を見た。本当に分厚い。判型は特殊な正方形のもので、上質な表紙に厚さ7センチはあろうかという分厚いものだった。価格は12500円+TAX。夢にしては妙に生々しいのが笑えるな。

さて、大日本帝国はいざ知らず、今日の日本国について考えてみよう。

この国の主権者はいったい誰なのか?

この国の方向性を決めているのは、いったい誰なのか?

この国に生きる俺たち一人一人は、誰かに支配されているのか?

誰かに支配されているとしたら、その自覚はあるのか?

俺が今日、俎上にあげたいのはこういうことだ。

この日本国が民主主義国家を標榜している以上、その主権者は一人一人の国民だ。

俺や、君や、表を歩いているそんなこと考えてもいないような老若男女の一人非チリがこの国の主なんだ。自民党でもない。高市早苗でもない。麻生太郎でもない。天皇陛下でもない。

一人一人の国民こそが、この国の主なんだ。君は理解してくれているだろうか?

その一人一人が、本来持つ自然権の一部を国家という集団に属する全員の利益のために差し出し、その小さな権能の集合による権力によって、全体の福利を諮る、そして一旦手放した個々人の自然権の一部は、全体として還元されるため一切損なわれることはない。それが、近代国家の基礎的な理念だ。これを構想したのは、誰あろう、ジャン・ジャック・ルソーだ。これが社会契約論という考え方だ。

自らの自然権を平等に差し出す代わりに、国家のメンバーとしての福利を等しく得るというモノだ。そこには、天皇を中心とした神の国とかいう観念の入り込む余地はない。

この社会を運営していくための代表を選ぶために行っているのが、国政選挙や地方自治体の選挙ということだ。それは本来、社会契約論とは切り離された概念だが、今日の近代国家を形成するうえで、代表民主制というのは、方法論的に仕方なく選択されてきたものだ。

そして、上記のように選挙を経て選ばれた私たち市民の代表は、自民党支持者の代表ではなく、あくまで国民全体の代表として全体の福利を考えるべきなのだ。自分に投票しなかった人たちには、予算をつけないなどということは、民主主義を破壊する行為でしかない。

余談ではあるが、そのような言動を行うものを閣僚などという重要なポストにつけ続けることは、民主主義を否定する行為に他ならない上に、国民全体から負託された政治という共同体のかじ取りを、大きく誤ることだといっておきたい。

これを逆照射して考えてみれば、国家とは、国民一人一人の集積に他ならないということだ。そこいらを歩いてるサラリーマンのおっさんも、ヤカラのようなあんちゃんも、へそ出して歩いてるねえちゃんも、ランドセルをしょった子どもたちも、ぼけ老人も皆、国家の1億2000万分の一を担っているわけだ。

どこかに支配者がいて、それらの大衆を支配しているわけではない。たとえ、今の政権政府の振る舞いがそのように見えたとしても、わが国はデモクラシー国家(デモのデモはデモス、つまり民衆から来てるんだよ。デモは無力だという言説は、民衆は無力だといっているのと同じなんだ)であり、けっしてアリストクラシー=寡占制国家ではないんだ。

政治家の皆さんも、俺たち自身も、すっかり忘れているかもしれない。しかし、だからこそ、俺はここで声を大にして言うべきだと思うんだ。

この国は民主国家で、主権者は俺たち国民一人一人だということを。


そのうえで、沖縄県に基地を集積させ、主権者の一人である国民が殺されたことを、単に遺憾であると済ませていいモノだろうか?

遺憾であると済ませてしまう無為無策の根底には、一人一人の国民を、支配される捨て石のように考える思想がないだろうか?

かけがえのない一人一人の人間を、単なる記号のように扱っているのではないだろうか?

思想の左右、政府への距離によって、経済的生産性によって、国民の存在価値=生命の尊厳に優劣をつける郵政思想がないだろうか?

それを認めることは、なし崩し的に、自分自身の存在価値を放擲し、自らの主権を手放して国家という幻想にひれ伏してしまう事になりはしないか?

もう一度君たちに聞いてみたい。

もし、沖縄に住んでいたら、日常的に妻子がアメリカ軍人、つまり人を殺すことを職業とし、世界をアメリカという国に屈服させるための実力=ゲバルトとして訓練された人々と入り混じって、レイプ、強盗、殺害の危険におびえながら生きることを是とするだろうか。

沖縄県民ももちろん、我々と同じ民主国家の成員なのだ。

それとも、中国の脅威に備えるために我慢しろと?

クラウゼビッツが言うように、戦争とは違う形で行う政治の延長だ。だとすれば、政治の力でいかようにでもコントロールできるはずだ。

国民のすべてに、仮想敵を作りだし、敵だと思わせ、犠牲を強い、危機へといざなう。そのような政治のあり方が果たして民主主義国家に属するすべての国民の負託においてなされるべきものだろうか?

右でも左でもなく、近代的な国家観の観点から俺は異議を唱えたい。

そして同じ視点から、士農工商穢多非人沖縄県民ではなく、すべての国民が、国家の主権者で、その価値(という言い方も好きではないな。)いやさ、存在意義に何ら差はないはずだと声を大にして諸君に訴えたい。

明日も続くぜ。明日からは沖縄と米軍基地をめぐる思考実験だ。お楽しみに!