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| ベトナム阮朝の旧都フエ。庶民はスクーターで縦横無尽に駆け抜ける |
かつてのアメリカ軍は、徴兵制だった。
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| ベトナム阮朝の旧都フエ。庶民はスクーターで縦横無尽に駆け抜ける |
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| ベトナム阮朝の旧都フエ。街角をスクーターが疾走する。 |
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| ベトナム阮朝の旧都フエ。かつての王宮の裏手の池には素晴らしい光が差していた |
睡眠負債はたまりまくってる。本を読むこと、眠ること、年老いた俺にはそれが愉しみだ。
夢で、このブログをまとめた素敵に分厚い本が出版される夢を見た。本当に分厚い。判型は特殊な正方形のもので、上質な表紙に厚さ7センチはあろうかという分厚いものだった。価格は12500円+TAX。夢にしては妙に生々しいのが笑えるな。
さて、大日本帝国はいざ知らず、今日の日本国について考えてみよう。
この国の主権者はいったい誰なのか?
この国の方向性を決めているのは、いったい誰なのか?
この国に生きる俺たち一人一人は、誰かに支配されているのか?
誰かに支配されているとしたら、その自覚はあるのか?
俺が今日、俎上にあげたいのはこういうことだ。
この日本国が民主主義国家を標榜している以上、その主権者は一人一人の国民だ。
俺や、君や、表を歩いているそんなこと考えてもいないような老若男女の一人非チリがこの国の主なんだ。自民党でもない。高市早苗でもない。麻生太郎でもない。天皇陛下でもない。
一人一人の国民こそが、この国の主なんだ。君は理解してくれているだろうか?
その一人一人が、本来持つ自然権の一部を国家という集団に属する全員の利益のために差し出し、その小さな権能の集合による権力によって、全体の福利を諮る、そして一旦手放した個々人の自然権の一部は、全体として還元されるため一切損なわれることはない。それが、近代国家の基礎的な理念だ。これを構想したのは、誰あろう、ジャン・ジャック・ルソーだ。これが社会契約論という考え方だ。
自らの自然権を平等に差し出す代わりに、国家のメンバーとしての福利を等しく得るというモノだ。そこには、天皇を中心とした神の国とかいう観念の入り込む余地はない。
この社会を運営していくための代表を選ぶために行っているのが、国政選挙や地方自治体の選挙ということだ。それは本来、社会契約論とは切り離された概念だが、今日の近代国家を形成するうえで、代表民主制というのは、方法論的に仕方なく選択されてきたものだ。
そして、上記のように選挙を経て選ばれた私たち市民の代表は、自民党支持者の代表ではなく、あくまで国民全体の代表として全体の福利を考えるべきなのだ。自分に投票しなかった人たちには、予算をつけないなどということは、民主主義を破壊する行為でしかない。
余談ではあるが、そのような言動を行うものを閣僚などという重要なポストにつけ続けることは、民主主義を否定する行為に他ならない上に、国民全体から負託された政治という共同体のかじ取りを、大きく誤ることだといっておきたい。
これを逆照射して考えてみれば、国家とは、国民一人一人の集積に他ならないということだ。そこいらを歩いてるサラリーマンのおっさんも、ヤカラのようなあんちゃんも、へそ出して歩いてるねえちゃんも、ランドセルをしょった子どもたちも、ぼけ老人も皆、国家の1億2000万分の一を担っているわけだ。
どこかに支配者がいて、それらの大衆を支配しているわけではない。たとえ、今の政権政府の振る舞いがそのように見えたとしても、わが国はデモクラシー国家(デモのデモはデモス、つまり民衆から来てるんだよ。デモは無力だという言説は、民衆は無力だといっているのと同じなんだ)であり、けっしてアリストクラシー=寡占制国家ではないんだ。
政治家の皆さんも、俺たち自身も、すっかり忘れているかもしれない。しかし、だからこそ、俺はここで声を大にして言うべきだと思うんだ。
この国は民主国家で、主権者は俺たち国民一人一人だということを。
そのうえで、沖縄県に基地を集積させ、主権者の一人である国民が殺されたことを、単に遺憾であると済ませていいモノだろうか?
遺憾であると済ませてしまう無為無策の根底には、一人一人の国民を、支配される捨て石のように考える思想がないだろうか?
かけがえのない一人一人の人間を、単なる記号のように扱っているのではないだろうか?
思想の左右、政府への距離によって、経済的生産性によって、国民の存在価値=生命の尊厳に優劣をつける郵政思想がないだろうか?
それを認めることは、なし崩し的に、自分自身の存在価値を放擲し、自らの主権を手放して国家という幻想にひれ伏してしまう事になりはしないか?
もう一度君たちに聞いてみたい。
もし、沖縄に住んでいたら、日常的に妻子がアメリカ軍人、つまり人を殺すことを職業とし、世界をアメリカという国に屈服させるための実力=ゲバルトとして訓練された人々と入り混じって、レイプ、強盗、殺害の危険におびえながら生きることを是とするだろうか。
沖縄県民ももちろん、我々と同じ民主国家の成員なのだ。
それとも、中国の脅威に備えるために我慢しろと?
クラウゼビッツが言うように、戦争とは違う形で行う政治の延長だ。だとすれば、政治の力でいかようにでもコントロールできるはずだ。
国民のすべてに、仮想敵を作りだし、敵だと思わせ、犠牲を強い、危機へといざなう。そのような政治のあり方が果たして民主主義国家に属するすべての国民の負託においてなされるべきものだろうか?
右でも左でもなく、近代的な国家観の観点から俺は異議を唱えたい。
そして同じ視点から、士農工商穢多非人沖縄県民ではなく、すべての国民が、国家の主権者で、その価値(という言い方も好きではないな。)いやさ、存在意義に何ら差はないはずだと声を大にして諸君に訴えたい。
明日も続くぜ。明日からは沖縄と米軍基地をめぐる思考実験だ。お楽しみに!