2026/03/07

POST#1781 美しい行為の裏のうさん臭さ

Nagarkot,Nepal
日本人は、ボランティアが好きだ。

災害大国だというのもあるが、一旦大きな地震などが起こると、多くの人がボランティアとしてはせ参じる。

しかし、俺はいかない。というかいけない。その災害の当事者になったならば、地域社会の一員として率先してできることをするだろう。しかし、遠く離れたかかわりのない場所に、援助物資を押しかけて参上するつもりはない。

ズバリ自分の生活に余裕がないからだ。あれは思うに自分の生活に余裕がある人間が、自分の生活を成り立たせる収入が確保されたうえで、行えばいいものだと思う。自分にかかわりのない縁者がいないのならばなおさらだ。そもそも溺れかけている人間が、溺れている人間を救うことなんかできない。その志自体は美しくても、共倒れになるだけだ。

普段は弱い立場のものを差別し、排除したり、社会の裏側に押し込めていて何ら痛痒を感じない人々が、災害を前にすると、急に絆だとか社会貢献とか言い始めるのも自然発生的な大政翼賛会のようで、なんだか薄気味悪い。この日本の社会を覆う重苦しい同調圧力はどこから生み出されるんだ。

スーパーボランティアとかメディアで紹介されるような善意の人への報道も、戦前戦中の新聞が称賛していた爆弾三勇士とか、死んでも進軍ラッパをは口から離さなかった日露戦争の際の木口小平二等兵を称賛していた新聞みたいで、どこか薄気味悪く感じる。

もちろん、被災者の支援や復旧に社会のリソースを割かねばならないことは重々承知している。しかし、それが本当に必要なことならば、公費で行うべきことではないのか?みなさんの美しく高潔な志を、何かうさん臭い思惑が汚しているように思えてならない。

俺には決してボランティアをしている人々を貶める意図はない。むしろ、俺にはできないことをやれてしまうすごい人たちだと思っている。

しかし、俺が今ここで述べているのは、災害復旧などにマンパワーが本当に必要ならば、人々の自発的な善意に頼るのではなく、社会契約に基づいて存在する国家が、国家予算を投じて第一義的に動くべきではないのか?という単純な問いかけだ。

1980年代以降、新自由主義的な国家運営が常態化し、わが日本国も行政のスリム化、小さな政府、公的事業の民営化やアウトそーソングが続けられ、公的な事業はどんどん縮小している。あるいは国家事業そのものが民営化され、営利企業に転換したのを見てきたはずだ。そして今や多くの公務員がいつ首を切られるかわからない短期任用の非正規雇用だ。

公助から自助とか反動的な主張を超え高に叫んでいた首相もいた。にもかかわらず、国家予算は年々拡大増大の一途だ。

本当に社会に対して必要な緊急性の高い事業だからこそ、そういったボランティアにも、公費で最低限の賃金を保証するのが正しいあり方だと俺は思う。

そうすることによって、人々に国から資本が注入され、それはさまざまな形の商品へと変換してゆき、資本の流動性を高め、経済成長に貢献するのではないですか。

また、被災地などでのボランティアには危険が伴う。さらに正義感や義務感に駆られて、自らの体力の限界を超えて働き、命を落としたりケガをしたりする方もいる。

そういった二次的な災害というか不幸に対しても、国家なり自治体なりが予算を組んでサポート体制と組織化を行い、保険をかけて不測の事態に備えるべきだと思う。ボランティアだから自己責任というのは、あまりにも理不尽ではないだろうか?

ボランティアとはそもそも義勇軍を意味する。ウクライナの戦役に、世界各地から参戦した個人の戦闘者のような存在だ。俺はウクライナの人々にい同情はするけれど、義勇軍になるのはごめんだ。ガザやイランに行くのもご遠慮させていただきたい。その代わり、国連UNHCR協会と国連WPFに月々2千円づつ寄付することで、長年ささやかながら関わらせていただいている。もう何年も続けている。だからと言って税制優遇が大してあるわけでもないし、純粋に少しでもマシな世界にするために、自分に無理のない範囲で出来ることをしているだけだ。俺の乏しい稼ぎなら、それで十分じゃないか?継続は力なりだぜ。ミサイル一発で吹っ飛ぶ幸せや暮らしの重さには代えられないけれど、連帯を意思表明し、わずかながらも日々の暮らしから力添えをする。俺にはそれが精いっぱいだ。

また、ボランティアのすそ野は広がっている。

教員の負担軽減のために、地域のボランティアのかたに学校のクラブ活動を見てもらおうという試みが始まってはいるが、スポーツのコーチングや文化的なリベラルアーツを若者たちに指導するには、相応の知識経験だって必要だ。その専門スキルを無償で提供することで、本来自身の生活のためにそのスキルや自らの時間を生かすことによって生まれていたはずの収入=資本の増加の機会が損失するだろう。この機会損失は個々人にとっては微々たるものかもしれないが、日本全国津々浦々に視野を広げたとき、その損失はかなりのものになるだろう。

また、その人たちにも生業がある。万一その活動中に指導員や若者に事故やケガがあったとき、その保障は誰が担うのか?ボランティア個人に担わせるのか?学校や自治体、あるいは厚生労働省が担うことになるのか?

さらに踏み込めば、そのボランティアの人々の指導方法が適切なものかどうか?ハラスメント的なものや根性論的なものになっていないか?あるいはそこに性犯罪履歴のあるものが志願していないか?そういった問題をどう防ぎ、どのように管理していくのか?

それを学校の教員に担わせるのは本末転倒なのは火を見るよりも明らかだ。

私たちの社会を、私たち自身で運営していくには、自らの総体たる国家へ自らの能力を委譲しなければならないとしても、それでも私たちには何も損なわれるものはないというジャン=ジャック・ルソー🔗の説いた社会契約論🔗のような視点が絶対に欠かせない。近代民主社会はその思想を起点にして民主国家というフレームを構築しているのだから。しかし、今や税金を徴収され、より経済成長の美名のもとに、より豊かなものに国民から集めた詩音が再分配される転倒減少が続いている。それは国家としてのあり方としてどうなのか?本当に公平なのか?それを有耶無耶にしたまま、一朝ことあればボランティアをあてにするというのは、国家の体を成していないのではないだろうか?それは単なる抑圧と搾取のシステムではないのけ?

抑圧のシステムではなく、私たちが共に生きてゆく共通基盤のとしての国家というものを、私たちは自らに身近なボランティアという視点からも、もう一度問い直さねばならないのではないだろうか。

2026/03/06

POST#1780 ラインを越えて

台北
仕事をしていると、必ず責任分界点という境界線に誰もがぶち当たる。
資格や技能などの制約、契約の内容、様々な不文律そういったもので、ここからは手を出せないという領域がある。
しかし、一つの現場を任されてトータルに収めてゆかなければならない立場で、責任分界点にここの作業者がぶち当たって手をこまねいている状況にある時、俺はこっそりと責任分界点の向こう側に歩みを進める。
自分の経験と、使い慣れた道具、仕事への知見、最終的に責任は自分がとる覚悟。

静かに、踏み越える。
そして時には、どうしてあんたがそんなもの持っているの?と周囲に疑問を抱かせるような道具を持ち出して、盛大に踏み越える。
けど、内緒だぜ。
心の中には、未開人のように有り合わせのもので何とかするという野性の思考🔗を大事に抱えている。そして何より、俺の中にはパンクロックから教わったDo IT Myself精神がある。

境界線を踏み越えてしかたどり着けない場所がある。

人間が作った様々な境界線、職能の専門性、知の専門性、自己規制のような抑圧、そして国境という見えない線。

できうることなら、あらゆる境界線を、静かに、そして大胆に踏み越えてゆきたい。
くそくらえだ! 

2026/03/05

POST#1779 私たちの神は 一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている

沖縄 斎場御嶽
啓典の宗教を奉じる啓典の民🔗が、宗教の違いで理解できず争いあうのは、自分のような本質的にアニミズム🔗 の日本人には意味が分からない。なんせ日本はアニメ大国だからな。アニミズムとアニメーションは同じ語源なのさ。

奉じる宗教や文化、家族形態とそれを基層にした社会構造が違っても、人間であることは同じではないか。なぜいつまでたっても理解しあえないのか、まったく意味不明だ。

自分と異なる文化に属する人々を、野蛮人と称し、劣等人種と差別し、殺戮しても何の痛痒も感じない。それは残念ながら人類にはよく見られることだ。ことに、自らのアイデンティティーを確立し、自らの集団の独自性と優秀性を強調するときにはありとあらゆる形態の文化で見られる。あえて他集団とは違う様式を選好し、その選好故に、他集団よりも自らの集団が優れていると喧伝し、信じ込む。

しかし、文化も人種も可塑的なものだし、相対的なものだ。人間は所与の環境次第で、いかようにも変化する柔軟性を持っている。いささかトートロジーめいて恐縮だが、この人類の多様性こそがその柔軟性の証左だ。その違いをあげつらって争っていても仕方がないのではないかな。

その違いをあげつらうことなく、異なった価値観のもの同士が共存するためのものが法だ。

国際法を自分には必要ないと言い切るものに従属し続けるならば、その無法はいずれ自分たちにも向けられるだろう。16世紀の覇権国家スペインの首相が、アメリカによるイランへの攻撃をはっきり国際法違反だと指摘し、自国内にあるアメリカ軍の基地のイラン攻撃への使用を拒否したことは、見事なふるまいだった。また、イギリスの政権もアメリカの大義無き軍事行動には賛意を示していない。まぁ、イラクの時に彼らはひどい目に合ってるからな。

一方で、ダボス会議ではアメリカの批判を展開しつつ、軍事行動に関しては早々に指示を打ち出したカナダ。がっかりだ。

北朝鮮はますます核ミサイルの実験にいそしみ、ハリネズミのようになっていくだろう。

中国はますます軍事費を積み増し、その伸び率は年率7%。兵は凶器也。肥大化した人民解放軍(実は対外的な戦争に勝ったことはないけど)をどこまで抑え込めるのか。それは外に向かうのか。それとも、経済的に疲弊し、国民が豊かになる前に老い始めてしまった社会がその重さに耐えきれず自壊するともに、地方軍閥化し、国家を分裂させてゆくのか。

世界はますます混沌としてる。しかし、俺には自分の仕事を誠実にこなすことしかやれることはない。

閑話休題。

俺には、もし神的存在があるとするならば、木々を照らす光の中、風に揺らぐ一木一草の中にも、もちろん私たち一人一人の中にも存在するとしかおもえない。

仏陀の開いた最高にクールな仏教ですら、この国に生まれた神観念をベースに取り込んだことで、山川草木悉有仏性を唱えるようになった。宮沢賢治、手塚治虫、宮崎駿、こういった人々の作品にもその思想が色濃く流れているのがわかる。ナウシカは言った『私たちの神は 一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている』(風の谷のナウシカ7巻208頁)

アジアの東の果てに長く伸びるこの国は、山川草木悉皆成仏の国なのだ。

できることならば、万物に霊性を見出すその普遍主義に則って、あらゆる生命をこそ判断基準の根拠に据える寛容で、それを蔑ろにするものを正しく諫めることのできる国であってほしい。まぁいろいろ事情があって無理なのはわかってるけどね。