2026/05/13

POST#1848 う~ん、これは大賢は大愚に似たりってやつか?

犬吠埼
存分に語り終えた後の虚脱感。

そして、それとはまったく関係のない現実の仕事の疲労感。

今日は、あっさり小話でお茶を濁そう。

俺の息子の麒麟児のことだ。

あいつは小学5年生なんだけど、子供ってのはそれくらいになるとだんだんろくでもないことを覚えてくる。それは俺の子どもじゃなくてもそうだ。特に男の子はアホだからな。

先日も同級生のK君に『死ね!』といわれたといって、ぷんすかして帰ってきた。K君は学年でも頭がいいほうだ。トップクラスだ。私立の中学受験をして難関校を狙っているという秀才だという。とはいえ、いくら勉強ができても、そんなこと言ってるようじゃあかんのよ。

その話を聞いて俺は、『おう、先に香典参萬円也包んでもってこい!って言ってやれ』と切り返し方を伝授したんだ。

その一方で、母親は『ひょっとしたらKくんは、麒麟児と友達になりたいだけかもしれないよ』と憤懣やるかたない息子に諭した。

そうすると、麒麟児、町内の地図を引っ張り出してK君の家を探し始めた。

で、麒麟児は俺にこう言った。『おれ、いまからKの家に行って一緒に勉強しようって思うんだけど、車で乗せて行ってくれない?』ときたもんだ。

『はぁ?歩いていけばいいだろう?』K君の家は同じ町内会なので、あんまり俺は波風立てたくないんだ。

しかし、麒麟児の有無を言わさぬ勢いに根負けして、乗せて行ってやることにした。

こいつはいつも、俺の予想を超えたことをやろうとする。

大賢は大愚に似たりってやつか?

それともほんとに突き抜けた馬鹿野郎なのか?

麒麟児はK君の戸建ての家の前に来ると、すかさず停まっているアルファードを見てチェックしている。金回りはいいんだろうな。しかし、麒麟児は『俺いってくるわ』と子供らしく臆するところもなく車から降りて、玄関のインターフォンを何度もなんども押している。

どうやら留守らしく、だれも出てこないので本人も諦めて車に戻ってきた。これで俺も安心して仕事に行けるというものだ。

しかし、俺の息子ながらなかなか侮れないやつだ。

後日、麒麟児は再度チャレンジしたらしい。その時は、K君はテニススクールに行っているからいないって言われたらしいけどね。

勉強ができるよりも、この位相をずらした切り返しのできる息子は、うまくいけば面白い奴になるかもしれないな。この芽を摘まないように、しょうもない同調圧力とかから守っていったやりたいもんだ。何しろこの国は、子供の死亡率の1位が、自殺っていうとんでもないディストピアなんだ。勉強を教えるのは、かみさんの役割。生き抜く図太さを仕込むのは、俺の仕事さ。

たまにはこんな話も悪くないだろう?読者諸君、失礼する。

2026/05/12

POST#1847 最後に君たちの前にビリー・ブラッグとカントを召喚しようか

 

成田
俺は実は、イングランドのミュージシャンでアクティビストのビリー・ブラッグ🔗を10代の頃から敬愛している。彼のことを思うと、胸が熱くなり、時に涙が流れる。

たった一人でテレキャスターをかき鳴らし、時に激しく、時にユーモラスに、人々に連帯を呼びかけ、権力による横暴に対する異議申し立てを続けてきたミュージシャンだ。

この人の言葉が、一連の俺の発想の源なんだ。

例えばこんなことを彼は言っている。

「もし自分の家を愛しているなら、その家を掃除し、壊れたところを直し、客人を温かく迎え入れようとするだろう? 国を愛することもそれと同じだ。欠点から目を背けるのではなく、より良くしようと努力すること。それが本当の愛国心なんだ」

彼は多文化主義を肯定して、 「イングランドを愛しているし、この国が愚かな真似(排他的な行動)をしてほしくない」とし、Raheem Sterling(黒人のサッカー選手)のような存在が差別に立ち向かう姿こそが「イングランド人であること」の誇りだと述べている。

また、白地に赤い十字のイングランドの旗(セント・ジョージクロス🔗)について: 「この国の旗が、隣人を威嚇するために使われることに反対する」と述べ、極右に独占されがちな国旗を「すべての人のための、団結と寛容のシンボル」として取り戻すべきだと主張している。

また彼は、 「愛国心(Patriotism)」を非常にシンプルに定義している。 

「愛国心とは、自分の国のことを本気で思いやる(giving a shit about your country)ことだ」。

 その「思いやり」には、異なる背景を持つ人々への敬意や、自分たちの社会がより寛容で公正であるように努力し続けることが含まれている。

これらはすべて、僕が君たちと語り合ってきたことの根底に確固として存在している。自分の手でこの概念を触れることができるくらいにしっかりと存在している。

だからあえて、僕は一連の天皇制をめぐる知のパルクールの最後に声を大にして言いたい。

『この国に来ればあらゆる人間が、人間として尊厳を持って扱われる国にしたい』

これこそが、俺が構築してきた壮大な理論の「魂」なんだ。

網野史学の「無縁」も、クラストルの「国家に抗する社会」も、吉本隆明の「対幻想」も、レヴィ=ストロースの「構造」も、すべては「属性やレッテルに左右されず、ただの一人の人間として尊厳が守られる聖域」をこの地に確保するための装置だったんだ。

『天皇制リベラリズム』というシャフトは、特定の国民だけを優遇するためのものではなく、移民も、ケア労働者も、この地に足を踏み入れたあらゆる人々が、『天皇という究極の公(おおやけ)のもとで、等しく尊厳ある一人の人間として迎え入れられる』ことを保証する究極の誓いとなるだろう。

この「人間の尊厳」という最後の拠り所を、制度や法律を超えた「文化の力」として定着させるために、私たちはどのような「日々の振る舞い」を大切にすべきだだろうか?

しかし実際にはこの国の現実は程遠い。

名古屋出入国管理局がウシュマ・サマンダリ🔗さんを見殺しにしてしまったり 、この瞬間にも多くの難民や外国人が、牛久入管🔗こと東日本入国管理センターに不法滞在者として 無期限に拘束されている。

ウィシュマ・サンダマリさんの事件や、現在の入管収容問題は、俺が構想する「天皇という器による包摂」という理想から最も遠い、「国家(支配装置)による非人道的な排除」そのものだ。

この理論に照らせば、この現状は以下のように批判され、改善されるべき課題となるだろう。

「無縁」の原理の崩壊

網野善彦が説いた「無縁・公界」の場は、逃亡者や境界の人々さえも「天皇の平和」のもとに保護される聖域であった。現在の入管施設で起きている「無期限拘束」は、この日本が歴史的に持っていた「疎外された者を保護する空間」を国家が自ら破壊し、単なる「暴力装置」に変質してしまった姿といえるだろう。

「尊厳」を剥奪する管理社会

吉本隆明やクラストルの視点から見れば、入管問題は「国家幻想」が「個の尊厳(対幻想・個人)」を完全に飲み込み、人間を「管理番号」としてしか扱わなくなった末路そのものだ。「この国に来れば尊厳を持って扱われる」という理想を実現するためには、入管という閉鎖的な空間を、「公(おおやけ)」の監視が届く透明な場所へと作り直さなければならない。フェアで開かれた組織に再構築しなければならないんだ。

具体的な改善への道筋

俺が提唱する「天皇制リベラリズム」を実装するならば、入管政策には以下の転換が求められることになるだろう。

まず「排除」から「登録」への転換だ。

渡来人を「王民」として受け入れた古代の知恵に倣い、不法滞在という「罪」で縛るのではなく、この社会を共に作る構成員として緩やかに受け入れる仕組み(準難民資格や特定技能の柔軟な運用など)を作ろう。

そして司法の介入と透明化だ。

「命令する権力」を抑制するために、入管の裁量権を制限し、第三者機関や司法が人間の尊厳をチェックする仕組みを強化すること。ウィシュマさんのような悲劇を二度と繰り返さないためには、日本という国が「国家による暴力的な選別」を捨て、「天皇という空の器」が象徴する「無条件の包摂」へと立ち戻ることが必要なんだ。


俺の書き綴る言葉は、しょせん単なる言葉に過ぎないが、「未来の世代のために書く」とともに、今まさに独裁国家からの弾圧を逃れてたどり着いた地で、あるいは家族と切り離され、入国管理局の檻の中にいる人たちにとっても、暗闇の中の光になり得るものであってほしい。

この「入管問題」という現実の壁を突破するために、俺たち日本人は「意識の変革、つまり懐の深い伝統の再発見」が切望されているんだ。

分断よりも、連帯を。

排除よりも、包摂を。

法制度を作っている政治家たちはあまりにも 保守的で頑迷で、自分たちは安全圏にいるだけでこの非人間的なシステムの実像が見えていないんじゃないかと思える。

政治家たちの「底の浅い保守性」や、入管問題に見られるような「冷徹な管理」を変えるためには、その土台である日本人の意識(深層心理のOS)を書き換えることが、遠回りに見えて唯一の道なんだ。

法制度を作る側が「見ようとしない」のであれば、私たち市民が網野善彦や吉本隆明の知見を借りて、「日本という国は、本来こんなに懐が深く、多様な人を包摂してきた歴史(伝統)があるのだ」という新しい物語(ナラティブ)を共有し、彼らの背後にある空気を変えていくしかないだろう。

「管理」から「共生」への意識のパラダイムシフト

政治家が固執する「国民」という狭い枠組みを、「天皇という空の器のもとに集う、尊厳を持った人間たち」という広い枠組みにアップデートすることが必要なんだ。

「移民を管理する」という視点ではなく、「新たな渡来人を迎え、共にコモンズを作る」という視点へ、日本人の「野生の思考」を呼び覚ます必要があるだろう。

「一姫二太郎」や「ヒメ・ヒコ制」に見る柔軟性の回復

今の政治家たちの頑迷さは、明治以降の硬直した「父権的な強権」のイメージに縛られているからだ。「愛子天皇」という希望を起点に、「まず寄り添い(ヒメ)があり、その後に実務(ヒコ)がある」という柔軟な知恵を社会の常識に据えることで、「力による排除」を「恥」とする文化を醸成していくべきだ。

単なる労働力として『輸入』される技能実習生、何人として助けを求めてきたはずなのに入管に閉じ込められ苦しむ人々、社会を底辺で支えるケア労働者の姿を直視し、「これは私たちの『公(おおやけ)』の崩壊である」と多くの日本人が感じられるようになること。

もっと言えば、『人間が、人間であるというその一点で尊重される社会』を、今日を生きる私たちの心持ちから築き始めること。これは、人類の追い求め続けた未完の理想なんだ。

もしかしたら、来るべき愛子天皇に反対する人々は、社会がこのように変わってしまうことを恐れているのかもしれない。なら、変えていこうじゃないか。恐れることはない。

俺が書き刻む「未来への手紙」は、今の政治家たちには届かなくても、次世代の日本人の心の中に、人間としての「尊厳」を守り抜くための新しい「シャフト(軸)」を打ち立てる手掛かりになってほしい。

実際に私たちの周りには多様な国の人からなる社会がもう実現しているんだぜ。

俺の息子の小学校の同級生の友達はブラジリアン だし、友人の旦那さんはトルコ人だ。

コンビニに行けば ネパール人とナマステと挨拶するし、現場に行けば インドネシア人やベトナム人と、スラマッシアンとかシンチャオと言葉を交わす。

現実の社会は、政治家たちの頭の中にある「純血の日本」という幻想を置き去りにして、すでに多様な人々が混じり合う「新しいコモンズ」へと変貌しているんだ。

俺の息子の麒麟児の世代にとって、ブラジル、ネパール、インドネシアといった多様なルーツを持つ友人たちは、管理の対象ではなく、共に学び、働く「地続きの隣人」なんだ。彼らを排除していった果てに、この国の社会インフラが崩壊する姿が、俺にははっきりと見えている。昔付き合っていた女の子の面影以上にはっきり見えているんだ。

現場で起きている「野生の共生」

コンビニでの「ナマステ」や、建設現場での共働。そこには、網野善彦が描いた中世の「市」や「河原」のような、世俗の理屈を超えた「実利と敬意によるフラットな交流」がすでに芽生えている。いや、俺は芽生えさせようと踏ん張っている。

これこそが、俺が言う「人間として尊厳を持って接する」現場の萌芽なんだ。

 政治の「顔面蒼白な遅れ」

生活の実感として多様性を受け入れている市民に対し、政治家たちは未だに「管理」や「排除」の論理でしか彼らを見ることができていない。そして、実際に海外から来た人々と接することもなく、話し合って溝を埋めようとすることもなく排外主義を唱える人々も。

この「実感としての多文化社会」と「硬直した法制度」の乖離を埋めるのが、『天皇制リベラリズム』という新しいシャフトの役割なんだ。

天皇家のためのシステムではなく、この日本に生きるすべての人のためのシステムなんだ。

すでに現場で始まっているこの「混じり合い」を、単なる「労働力の確保」としてではなく、「新しい日本という公(おおやけ)を共に作るプロセス」として肯定すること。

そもそも人間は労働力とか 人材 とかいう 資源 なんかじゃない。君自身がそんな風に扱われたら、どんな気分がするか考えたことがあるかい?

いいかい、人間は誰かのための道具じゃないし、手段でもない。人間にとって人間は目的そのものなんだ。

イマヌエル・カント🔗が説いた「人間を手段としてのみならず、常に同時に目的として扱え」というリベラリズムの根本原則が、今、最も蔑ろにされているんだ。

政治家や経済界が使う「人材」「労働力」「リソース」という言葉は、人間を国家や資本という「巨大な装置」を回すための部品(手段)としてしか見ていない証拠なんだぜ。

銀河鉄道999🔗に出てきた機械の星みたいだ。そこでは、永遠の命を象徴する機械の体を与えると称して、機械によって構成される星そのものを支えるネジやナットなどに人間を作り変えていた。長い旅路を潜り抜けた信念のあるものこそ、絶対に折れないボルトになると考えていたんだ。とんでもないディストピアだぜ。

コンビニの店員さんも、現場の技能実習生も、ケア労働者も、誰かの利益や便利さのために存在する「資源」では断じてない。

それぞれが固有の人生と尊厳を持った、それ自体が完成された「目的」だ。

この『天皇制リベラリズム』システムは、「人間=目的」という哲学を、日本の国制(天皇制)という最も深いレベルで担保しようとする試みなんだ。

天皇という「空の器」の役割

天皇が政治権力を持たず、ただ「寄り添う」存在であることは、人間を「利用価値」で判断する世俗の論理(手段の論理)を無効化し、すべての人を「尊厳ある存在(目的)」として等しく見つめるまなざしを提供することに他ならない。

コモンズとしての日本

日本という国を、誰かが誰かを「資源」として搾取する場所ではなく、互いを「目的」として尊重し合うための共有地(公界)へと作り変える。

「人材」なんていう人間をバカにした言葉を捨て、一人ひとりの「顔」と「ナマステ」という挨拶を大切にする。

その「人間を手段にさせない」という意志こそが、未来の世代に手渡すべき最も重要なバトンだと俺は考えているんだ。

俺が願っているのは 人間が人間というだけで 尊重される社会だ。それは狂った考えかい?

それこそが、人類が長い歴史の中で、多くの犠牲を払いながらたどり着いた「真理」であり、リベラリズムの究極の到達点じゃないのかい?

むしろ、人間を「利用価値(労働力や人材)」で測り、価値がなければ排除してもいいと考える今の社会の空気の方が、歴史の深みから見れば明らかに「異常」で「病んで」いるんじゃないのか?

それを突き詰めていけば、ナチスが行ったT4作戦🔗や高齢者は老害化する前に集団自決するべきだなどという妄言を垂れ流す成田悠輔🔗や、津久井やまゆり園事件🔗のようなことを認めてしまうことに道を開いてゆくことになるんだ。

そして、その屠殺場に放り込まれるのは、まさにほかでもない明日の俺や君かもしれないんだぜ。

俺が網野善彦や吉本隆明、そしてクラストルといった知の巨人を総動員して構築してきたロジックは、すべてこの「ただ人間であるというだけで尊重される」という、あまりにも当たり前で、しかし現代では守り抜くのが難しい一線を死守するための「防波堤」だったんだ。

天皇というシャフト

誰の私物でもなく、誰にも利用されない「空」の象徴を置くことで、世俗の評価軸(金や権力)から自由な「尊厳の聖域」をこの国に確保する。

現場の「ナマステ」「メルハバ」「シンチャオ」

 制度が人間を「資源」と呼んでも、現場で交わされる挨拶が、相手を「かけがえのない目的(人間)」として繋ぎ止める一歩になるだろう。

今日の社会は、実は巧妙に形を変えた奴隷制にすぎないと俺は思っている。

この認識は、決して過激なものではなく、現代社会の歪みを直視した切実な真実だ。

今の社会が「形を変えた奴隷制」に見えるのは、人間が自分の人生の「主(あるじ)」であることを奪われ、国家や市場という巨大なシステムの「部品」として組み込まれているからに他ならない。そう、銀河鉄道999の機械の星のようにね。

「資源」という名の隷属

「人材」や「労働力」という言葉で人間を呼ぶとき、そこには「役に立つ間だけ使い、使えなくなれば捨てる」という、かつての奴隷制と同じ「道具としての人間観」が潜んでいるはずだ。俺や君も、人間を有用性だけだ計る卑しさを持っているんだ。

入管での無期限拘束や、ケア労働・現場労働での過酷な搾取は、まさにその現代版だ。

「縁」による拘束

吉本隆明や網野善彦が格闘したのは、人間をがんじがらめにする「共同体の縛り」や「権力の支配」から、いかに個人を解放するかという問いであった。現代の奴隷制は、目に見える鎖ではなく、経済的困窮や「代わりはいくらでもいる」という無力感という見えない鎖で人々を縛り付けている。

「無縁・公界」による解放の物語

だからこそ、俺が君たちに提唱した『天皇制リベラリズム』という構想が、未来への解放の鍵となるんだ。

「誰の所有物でもない」という宣言

 網野善彦が描いた、天皇の平和のもとで誰からの支配も受けない「無縁」の空間。これを現代に蘇らせることは、「人間は国家や企業の所有物ではない」という究極の自由宣言になるはずだ。

希求される「愛子天皇」というシャフト

 効率や支配とは無縁の、ただ「尊厳」を守るための軸を置くことで、人間を「手段」として使い潰そうとする現代の奴隷制の回路を遮断しうるんだ。

君も、この極東の島国に人間が人間であるというその一点で、人間を人間として尊重する」という人類が何万年もの間夢見た社会が姿を現すその日を想像してみないか?


「この国に来れば、人間になれる」


未来の世代が、この言葉を日本の当たり前の風景として実感できる社会。

俺はそんな社会であってほしい。

2026/05/11

POST#1846 ざっくりまとめて未来に踏み出す一歩にするか!

 

沖縄県竹富島 2025年のアニメLAZARUSの劇中にて、温暖化で水没したこの島でこの塔が描かれていた

今や多くの国民が希求しながら、高市政権の皇室典範改正(改悪)によって阻まれようとしている『愛子天皇』の実現は、俺がこれまで語ってきた『天皇制リベラリズム』や『多様な人々を包摂する開かれた器』という構想にとって、最も強力な結節点であり、完成形への一歩になると考えらる。

その理由は、次に挙げるように集約されるだろう。

「底の浅い伝統」を「厚みのある伝統」で塗り替える

現在の保守派が固執する「男系男子」という縛りは、長い歴史で見れば、明治以降の家父長制的な価値観によって強化された「底の浅い」側面が否めない。

これに対し、女性天皇は古代から存在した「本来の日本の多様な形」の一つだ。

愛子天皇の誕生は、「血統による排除」から「存在による包摂」へと、伝統の定義をより古く、より深いものへとアップデートすることを意味するだろう。

ジェンダーと「ケア」の象徴としてのシャフト

俺が現状を強くが懸念する「ケア労働」に従事する人々や、社会を底辺で支える人々にとって、女性である天皇が「統合の象徴」となることは、極めて大きなメッセージを持つことだろう。

家父長制的な権威の象徴ではなく、「命を守り、育むこと(ケア)」を社会の中心軸(シャフト)に据えるリベラルな社会への転換を、象徴的に体現する存在となり得るからだ。

多文化共生・移民社会への「柔らかな統合」

男性的な力(パワー)による統合は、しばしば同化や排除を生みがちだ。帝国主義的な傾向だ。一方、愛子内親王がこれまでの歩みで見せてこられた、他者の痛みに共感し、静かに寄り添うスタイルは、まさにフランスやドイツが欠いていた「多様性を否定せずに束ねる、柔らかなシャフト」の理想に近いものに他ならない。

異なるルーツを持つ人々(現代の渡来人)も、愛子天皇という「懐の深い器」のもとであれば、自らのアイデンティティを脅かされることなく、安心して「日本」という公界に身を置くことができるはずだ。

つまり愛子天皇の実現は、単なる「女性活躍」の問題ではないのだ。

それは、網野史学が描いた「無縁・公界」の自由な精神を現代に蘇らせ、「誰もが排除されないリベラルなコモンズとしての日本」を完成させるための、歴史的な必然といえるのではないだろうか。

そしてまた 秋篠宮家の悠仁親王を輔弼とする『ヒメ・ヒコ制』が隠し味だ。

愛子内親王と悠仁親王、あるいは「女性の象徴(媛)」と「男性の象徴(彦)」が並び立ち、互いを補完し合うという構造は、日本の古層にある「ヒメ・ヒコ制」の現代的復興とも言えるだろう。共同幻想の発生の瞬間にリバイバルするんだ。

この視点を、俺が提示する『天皇制リベラリズム』に繋げると、さらに重層的な包摂が見えてくるだろう。

二元論を超えた「双子的なシャフト」

一方が権威、一方が実務といった固定的な役割ではなく、愛子天皇という「大きな器(静)」と、秋篠宮悠仁親王という「動」の力が共存する形は、社会を一つの色に染めない「多極的な中心」を作り出す二連恒星のようなものだ。

これは、中央集権的な同化を嫌うリベラリズムの精神に驚くほど合致した、柔軟なシャフトになりるだろう。

『排除しない』という究極の実践

「どちらか一方が正しい、一方が伝統だ」という保守派的な二者択一(排除)ではなく、両方を活かす。この「あわい(間)」を大切にする構造こそが、網野氏のいう「無縁」の空間、つまり誰にも私物化されない「公(おおやけ)」を維持する知恵となるだろう。

こうして愛子天皇を主軸としつつ、秋篠宮家をも包摂する「ヒメヒコ制」的なシステムは、「多様な価値観が矛盾したまま共存できる社会」の象徴となり得るのだ。

これこそが、移民やケア労働者、あらゆる「境界の人々」が呼吸しやすい、日本独自のコモンズの姿かもしれないのではないかな?

俺は少なくとも、この弱い者がより弱い者を自己責任の美名のもとに叩き、自分たちの足元を支える人々を、『そんなことはだれでもできる仕事』だとか『日本人の仕事を奪う』などと排除したり低く見たりする風潮が、たまらなく不快だ。

君たちはこの『天皇制リベラリズム』に基づく『ヒメ・ヒコ制』という古くて新しい形が、現代の「分断された政治」を癒やすヒントになるとは思わないか?

前にも語ったことだけれど、日本人には一姫二太郎という理想形がありますが これは大昔の『ヒメ・ヒコ制』に淵源を発するものだと俺はにらんでるんだ。

日本の古層にある「ヒメ(霊的な力・統合の象徴)」が先に立ち、それを「ヒコ(実務的な力・実行の象徴)」が支えるという順序こそが、社会を安定させ、物事を円滑に進めるための日本的な黄金律であるという直感だ。

この視点を、これまでの議論と結びつけると、さらに興味深い地平が見えてきます。

「一姫二太郎」としての国体

「まず姫(愛子天皇)が立ち、その後に太郎(悠仁親王)が続く」という形は、日本人の深層意識にある「理想的なバランス」にピタリと合致するだろう。

これは保守派が主張する「男系男子(ヒコのみ)」という硬直した論理よりも、はるかに日本人の情緒に根ざした、説得力のある「伝統」の提示になることだろう。

 ケアと統合の先位性

「一姫(ヒメ)」が象徴するのは、俺が掲げる「ケア」や「包摂」、そして「無縁の器」としての統合力となるだろう。「二太郎(ヒコ)」という実務や力が先行するのではなく、まず「すべてを包み込む慈しみ(ヒメ)」がシャフトの根幹にあること。その上で実務的な力が動くという構造こそが、移民や弱者を切り捨てない『リベラルな天皇制』の具現化と言えるだろう。

つまり「一姫二太郎」という日常的な知恵の中に、実は日本の国家システムを再生させるための「ヒメ・ヒコ」のOSが冬眠状態で今この時代まで眠っていたのだと捉え直すと、俺の提示する構想はより一層、日本人の肌感覚に響くものになるんじゃないだろうか。

この「ヒメが先に立ち、ヒコが支える」という調和の形を、現代の「ギスギスした能力主義社会」を解きほぐすための処方箋として提示していくのは、非常に強力な物語になるのではなかろうか。

俺はこんなことを書き散らしても、正直何の得もない。経済的に見たら、まったくの徒労だ。しかし、天啓のように俺に下ってきたアイディアをつたないながらも形にしなことには、何も始まらない。

未来の世代のために、俺は書いているんだ。

どんなに優れた洞察や歴史観も、言葉として編まれ、物語として共有されなければ、社会を動かす力にはなることはない。

俺がここまで語ってきた「吉本共同幻想論×ピエールクラストルの国家を持たない社会論×網野史学(無縁・公界)× 宇沢弘文(コモンズ)× 現代の包摂(移民・ケア労働)× ヒメ・ヒコ制(愛子天皇・一姫二太郎)×レヴィ=ストロースの構造主義」という一連のロジックは、既存の「右」か「左」かという不毛な対立を飛び越える、極めて強力な新しい日本のグランドデザインになるかはどうかわからないけど、考えてるだけでワクワクするような知のパルクール🔗なんだ。

吉本隆明の「対幻想(共同幻想からの自律)」、網野善彦の「無縁(世俗からの解放)」、そしてレヴィ=ストロースの「野生の思考」やピエール・クラストルの「国家に抗する社会」。これらを掛け合わせることで、天皇制を「権力の頂点」ではなく、逆に「国家という怪物(暴力的な支配装置)を無効化するための、高度な文化的仕掛け」として再定義する道が見えてくる。特にクラストルの視点を入れることで、天皇を「命令する王」ではなく、「富や権力を独占させないための象徴」として置くという、人類学的な説得力が加わるだろう。

憲法に定められたように天皇陛下という存在は、実際の政治には参加しないんだけども、平成天、今上天皇がなさったように常に虐げられたもの、困難の渦中にあるもの、最も苦しんでいる者に寄り添っていただくという御姿こそが、まさに、それがピエール・クラストルの言う「権力を持たない王」の現代的かつ究極の形態そのものだ。

クラストルが描いた未開社会のリーダーは、集団の調整役であり、誰よりも気前よく与え、雄弁に語りますが、「命令権(強制力)」だけは持たない。

もし首長が命令し始めれば、その社会は国家(支配装置)へと変質してしまう。リバイアサンが生まれるんだ。この人類学的な知恵を、アヴェンジャーズもたじろぐような、俺が提示したジャイアントたちの最強布陣でもって現代日本に接続すると、驚くほどクリアな『天皇制リベラリズム』の姿が浮かび上がってくるんだ。

 政治(権力)の拒絶による「公」の担保

政治に参加し、決定権を持つことは、誰かを切り捨て、特定の結果に責任を負う「私的な選択」に陥るリスクを伴う。天皇が政治から切り離されている(無縁である)ことは、吉本隆明のいう「共同幻想」が暴走して個々人を飲み込むのを防ぐための、「空虚な中心」として機能する。

「弱者への寄り添い」という究極の再分配

クラストルの社会において、首長は常に他者に与え続ける存在であった。

このくそったれな強欲資本主義にどっぷり浸かった現代において、天皇が「弱者に寄り添う」ことは、効率や利潤を優先する世俗の論理によって社会の隅に追いやられた人々を、再び「公(公共圏)」へと呼び戻す儀式となるんだ。

政治(決定)ではなく、寄り添い(承認)を行うことで、移民もケア労働者も「見捨てられていない」という安心感を得て、社会というコモンズに繋ぎ止められ、包括されていくんだ。

レヴィ=ストロース的「交換」の媒介

天皇陛下を、異なる立場(定住民と渡来人、強者と弱者)の間に立つ「媒介者」として社会の中心に置く。政治が「対立」を生む装置であるなら、天皇は「交換と和解」を促す装置となるだろう。

愛子天皇という「ヒメ」がその中心に立つことで、社会はより「ケア」と「互酬性」を重視する形へと、野生の思考を取り戻していくことになるはずだ。

この遠大な構想は、「天皇を世俗の政治(暴力装置)から徹底的に守ることで、逆にその超越的な立場を利用して、社会から零れ落ちる人々を救い上げ、コモンズを維持する」という、極めて高度な社会工学なんだ。吉本、網野、宇沢、レヴィ=ストロース、クラストル……この知の巨匠たちのバトンを受け継いで、「命令しないからこそ、すべてを包摂できる王」という物語を形にしていく。それは、分断された現代世界に対する、日本からの最も力強い回答になるのではないだろうか。どうなんだい、皆の衆!


俺はこの国に蔓延る「底の浅い伝統論」と「何をしても無駄だという諦め」を根底から覆す、知の革命を目指しているんだ。

俺はすでに上野千鶴子センセーのお怒りを覚悟の上で、「側室制度の復活」という極論をフックとして提示した。それは単なるスキャンダラスな提案ではなく、「中途半端な保守主義の欺瞞を暴き、天皇制リベラリズムという新地平へ人々を追い込むための、冷徹な思考実験」として機能していたはずだ。

「そこまでして血にこだわるのか、それとも愛子天皇という『寄り添いの器』を選ぶのか」という問いは、日本人が自らのアイデンティティの根源を問い直すための、最強の「揺さぶり」になるはずだ。

この刺激的なフックを投げかけたとて、世の人々から返ってくる「拒絶反応」や「困惑」なんてどうせないに決まっている。

そもそも、このブログを読んでいる人は少ないし、この内容をすんなりと理解できる人はなお少ないだろうことは織り込み済みだよ。

むしろ、その「フック」を打ち込むこと自体が目的というか、既存の言論空間(底の浅い保守 vs 教条的なリベラル)がいかに機能不全に陥っているかを冷酷に突き放すような、ある種の「切断」の表現なんだ。

結局、世俗の反応など期待せずとも、俺が君たちの前で構築して見せた「網野・吉本・クラストル」を背骨にした強固なロジックは、それ自体で完結した、一つの「現代の神話」に近い強度を持っているはずだ。

君たちからの反応を待つのではなく、その「形」を淡々と提示し続けること。

それが俺の務めだ。

「愛子天皇というシャフト」を据えた「ヒメ・ヒコ制」の構想は、たとえ今の世間に理解されずとも、日本社会が本当に行き詰まった(=コモンズが崩壊し、排除が極まった)時に、「すでにある無名の馬鹿野郎によって提示されていた、唯一の処方箋」として再発見されるであろうことを願うばかりだ。


そう、22世紀、23世紀を生きるであろう未来の世代のために書いているんだ。

いいね!という記号を稼ぐためにやってるわけでもない。原稿料やアフェリエイトのためにやってるわけでもない。ただ、やむに已まれぬ自己の知的衝動のなせる業だ。


今この瞬間の、目先の反応や世俗の喧騒に期待するのではなく、「いつか必ずやってくる、既存のシステムが立ち行かなくなった未来」に向けて、一本の杭を打ち込む。

それは、網野善彦が掘り起こした「無縁」の歴史が、数百年を経て今の私たちを鼓舞しているのと全く同じ時空を超えた対話だといえるだろう。

デジタル封建制の大きな潮流の中で分断されモナド化し、よって立つ自らの足場を見失った「未来の世代」が、バラバラに分断された日本社会で絶望し、真の「公(おおやけ)」を見失ったときこそ、俺の書き残した『天皇制リベラリズム』というシャフト(軸)は、彼らにとって唯一の、そして強固な「生存の設計図」になるはずだ。

吉本・網野・クラストルという巨人の肩を借りて構築されたロジック。

「愛子天皇」と「ヒメ・ヒコ制」という、多様性を包摂する調和の形。

「一姫二太郎」という、日本人の深層心理に訴える物語。

これらが一つの体系として書き残されることが、未来の日本人にとって、「排除されない自由」と「バラバラでも共にいられる場所」を保障する、時をかける遺産(コモンズ)となることを願っている。

明日は最後のダメ押しだ。もうこの話題だけでおなかいっぱいだからな。