2026/04/28

POST#1833 物事はたいてい悪いほうにエスカレートするのさ

somewhere
先ほどは言ってきたニュースだと、日銀は金利引き上げを見送った。相も変わらず0.75%だ。

1万円を持っていても一年間の利息は75円だ。物価上昇を加味すると、円の価値は年間2から3%目減りしていく。インフレなんだ。なのにコストプッシュ型のインフレで真のデフレ脱却ではないとか言ってるんだ。どこの国の話だろうか?

75円でいったい今何が買える?蒲焼さん太郎とか、タラタラしてんじゃねーとかうまい棒くらいしか買えんわい!ガリガリ君だって無理だ。振込手数料にもならんわい。これに対して物価上昇はうなぎ登りの鯉の滝登りだ。略してうなぎの滝登りだ。

円は持っているだけで価値が減衰していく。円安は止まらない。黒田前総裁のイケイケもどうかと思っていたが、石橋を叩いて叩いて結局渡らない植田総裁のチキンぶりには絶望的な気持ちになる。利上げによる責任を取るよりも、なんだかんだと理由をつけて現状維持に逃げる。結局学者出身の植田総裁では、現状を打破する責任は負いきれないんだろう。インテリなんてそんなもんだ。円安は続く。混迷する世界情勢の中で、円安がつづくのはこの国の衰退を促進するだけじゃないか。物資も調達できない。円にゲインが見込めないということは、日本という国に将来性がないということを意味するんだ。

物事はたいてい悪いほうにエスカレートする。それはマクロ経済だけでなく、町内の些細なことも同じだ。

しばらくした日曜日、ほかの役員のかたからLINEが来た。町会長がくばっている文書を見たかというものだ。写真付きで送ってもらったんで、自分もポストに走って見に行ったら、入っていたわ。ここでも物事はさらにおかしな方に転がっていた。どうやら町内会の役職者に配っているようだ。

そのタイトルには『ゴミボックスに関する問題点と町費の変更案について』とある。

そして思わず頭をひねりたくなるような文章が紙面に踊っていたぜ。

『町内会としてゴミボックスの購入を考えていますが、問題点もいろいろ出ています。

今までに町内会の役員ができないとの事で脱会された方も多く、脱会された方もゴミボックスを使用したいとの要望もあります。

今後、数万円のゴミボックスを数か所に設置を計画しています。今までにも防犯灯やその電気代などを町費より賄っていることを考慮し、案として役員ができる方、役員ができない方、そして町内会に未入会でもゴミボックスの使用を希望される方と町会費を下記のように分類したいと考えています。

*町内会に仲介されている方

①役員ができる方                 年間3600円(300円×12か月)

②役員ができない方で、高齢者・体の不自由な方   年間4200円(350円×12か月)

③役員ができない方で、健康で特段問題の無い方   年間6000円(500円×12か月)

*町内会に入会されていない方

 ゴミボックス仕様希望の方            年間7000円

役職名、お名前を記入して、変更案に賛成のかたは『賛成』欄に〇を記入、ほかに意見のある方は『他の意見』欄に記載し、4月中に町会まで持参してください』だとさ!

俺はトムとジェリーで驚いたトムみたいに目玉が飛び出すところだったぜ!

何を考えてるんだ、会長は?俺は末尾に記載されていた会長の家の電話にさっそく電話を掛けた。しかしその番号は間違っていてつながらなかった。サイコーだな(笑)

こんなこと、役員だけで決めたら他の会員から苦情が来るに違いない。古代ギリシャだって市民は数千人いたのに(奴隷と子供と女は除く。そんなもんだ)全員参加だったんだぜ!

それに町内会はメンバーズオンリーではなくて、ある種の『公共財🔗』であるべきだ。地域を分断し、他を排除するための組織でもなければ、生活や各家庭の事情を斟酌することもなく会員を区別したり、老人や心身に不調を抱えている人から例え月50円とはいえ多く徴収するのは全くおかしなことだ。本来、コミュニティーってのは様々な背景や能力の人々を、そういった差異にかかわらず包摂していくべきものだろう?

だいたい、そんな施策を実施したならば、だれもかれもが6000円払って役員にならないことを選択するだろう。金で面倒ごとから逃れられるんなら、だれだって払うさ。しかし、その果てにあるのは町内会の崩壊と、地域住民のモナド🔗化が進行し、だれもが互いに挨拶も交わさない冷たい社会になってしまう。分断と対立だ。その先に待っているのは、万人の万人による闘争だ。リヴァイアサン🔗で皆さんお馴染みのトマス・ホッブスが小躍りして喜ぶぜ。

俺はさっそく市の収集事業課に電話してみた。先日の総会で、町会長が町内会に入っていない市民から、使用料を徴収してもよいといわれていると皆の前で公言していたからだ。

しかしゴミの収集自体は市の公共事業だ。町内会に入っていようがいまいが、市民であり、税金を払っている(非課税の人ももちろんいる)以上は、同じように扱われるべきだ。

電話口の実直そうな担当者さんは、町内会のことについて私どもがとやかく申し上げる立場にないのでと、恐縮しつつ答えてくれた。要は首を突っ込んだりしたくないんだよ。そりゃそうだ筋が違う。市としては市民が出したごみを、税金を使って公平に収集するのが仕事なんだから。

俺はさっそく『賛成』の欄に大きく✖を書き記した。大切な署名に使うと決めている愛用のペンのブルーブラックのインクで。そしてご意見欄にこう書き記した。

『年会費の件は、総会によって決議すべきです。(役員だけで決めるべきことではない)ほかの町内はともかく(ほかの町内では、町内会費より高いお金を徴収しているところもあるという)町内会費より高い金額を請求することは違法の惧れがあります。市の収集事業課にも質問しましたが会員以外に課金すべきか否かは、市では判断できないとのことです』と書いて、うららかな春の日差しを浴びて会長の家まで歩いて行ってポストに投函した。

ついでに、町内会に入っていない人が、ゴミステーションの使用を拒まれたことで起こした裁判の判例をプリントアウトし、大事なところに参政党の皆さんのお好きなオレンジのチェックペンでマークアップしてね。

例え町内会だろうと、市町村は言うに及ばず大は国家、国際社会に至るまで皆が納得するように協議し熟議する。それが民主主義だ。俺はそう信じてる。そして、人間を様々な属性で分断するのではなく、『人間は人間だから尊重される』という大原則が必要だと信じている。

その旗を俺は生涯降ろす気はないぜ。ちなみにその旗はこんな旗だ。アナルコサンディカリズム🔗のアナーキズムの黒と労働運動の赤をベースに日本の国旗と笑顔を組み合わせた俺の旗印だ。俺は気に入ってるんだ(笑)

2026/04/27

POST#1832 たまには地に足の着いた話をしようかな町内の話だ

愛知県一宮市のどっか
今の現場が始まってすぐのことだから四月の中頃のことだ。

朝、夜勤明けで病院に行き、少し眠ってから仕事に行って慄きながら夜通し働いて、自動運転で車を転がして帰ってきたときのことだ。いくつになっても、どれだけ経験を積んでも、初心に帰って慄きつつ仕事に取り組むという癖が抜けない。事故があったりオープンに間に合わなかったりすれば、責任が取れない。責任が取れないからこそ、頭を使って、体を使って、気を使って、道具を使って、時にはお金を使って全力を尽くす。だからこそ、仕事に対して懼れがないといえば嘘になるんだ。慄くしかないだろう。

車から降りるとどこかから『はっとりさん、はっとりさん』と呼ぶ声がする。まだあたりは薄暗い。眠っている人も多かろうに、その声は静かな明け方の空気の中に響く。この声は間違いない、町会長のA田さんだ。俺はこの通りぶらぶら気楽な稼業なので、町内会にはできるだけコミットするようにしている。だって、地域社会が最も身近な社会だからだ。

家の前の緑道のつつじの陰から俺の名を呼んでいたのはやはり町会長だった。

『A田さん、声が大きいですよ。まだ皆さんおやすみになっていますよ』

俺は歩み寄りながら、押さえた声で返事を返した。町会長は何をうろついてるんだ?ウォーキングかそれとも認知症の徘徊か?どっちでもいいけど、もっと静かに。

町会長は俺を捕まえると、いきなり意見を求めてきた。やはり来たか。実は昨日の夜、カミさんから連絡があって、町会長が書類に賛同して捺印してほしいといってきたって連絡をくれてたんだ。

『あぁ、家内から聞いています。ゴミボックスの件でしょう』

『そうなんだわ』町会長は知ったいるなら話が早いと話を進め始めた。

少し遡って、3月の末に開かれた町内会総会で、ゴミ収集場所のカラスによるごみの散乱を防ぐため、ゴミボックスを導入しようという話が出てたんだ。市からも多少補助が出るので、まずは県道に面した集積所2ヵ所2台ずつ導入しようという話になったんだ。

そしてその場で町会長は、 『町内会のお金で買うものだから、町内会に入っていない人は入れてもらっては困る』とぶち上げたんだ。それをここでもめだしたら会議は紛糾するからってんで、皆さんそれぞれにどうすべきか考えていただき、一度回覧板などでご意見を承るということにしてはどうでしょうと、司会進行役の俺は有耶無耶にしてその場を切り抜けたんだ。

何しろ、この会長と方針の違いで町内会を脱退した人も多い。俺の同世代ですぐ裏に住んでるUさんもそんな一人だ。会長の言葉の端々に、その人たちに対する意趣返しのルサンチマンがこもっているのを俺は嗅ぎ取ったんだ。

で、カミさんから前の晩に送られてきた写真には、次のような文言が謳われていた。

『ゴミボックスの使用について

 この度、カラスなどによるごみ収集場所のゴミ散乱を防止するために、町内会会費によりゴミボックスを購入します。

 町内化に加入されていない方はゴミネットなどでゴミの散乱を防止し、ゴミボックス内にごみを入れないように注意してください』

とあった。これに捺印しろと言われても、俺は御免被るな。

世の中にはありふれた問題だ。君の町でもあるんじゃないのかな。俺が推奨する方法はカラスは賢い鳥だから、『君たち、ごみをあさっちゃいけないよ。みんなが迷惑してるんだ。君たちの立場もわかるけど、もう少し考えてくれないか?』って諭してみることかな。ああいつらは意外と人間を一人一人識別し、その行動を忘れないから、穏やかに話して諭してみたことがある。以来、俺の家の前は荒らされたことがないんだ。車に糞は落とされるけどね(笑)。

実は、こうした「町内会未加入者へのゴミ出し制限」は全国でトラブルになっており、法律や裁判例では以下のような考え方が一般的なんだそうだ。

大まかに言えば、ゴミ出し制限は違法なんじゃないかってことだ。

「一切禁止」は違法の可能性が高い: 過去の裁判(神戸地裁・大阪高裁など)では、町内会未加入を理由にゴミ捨て場の利用を一切認めないことは、「権利の濫用」として違法と判断され、町内会側に損害賠償を命じたケースがある。

行政サービスの公共性: ゴミ収集は本来、市町村が責任を持つ行政サービスです。市の補助金が入っている設備であれば、なおさら特定の人を完全に排除することは正当化しにくいと考えられるだろう。村八分じゃないんだから。

応じるべき負担もある: 一方で、町内会側が「掃除や管理の負担を会員だけが負うのは不公平だ」と主張する点にも一定の理屈があります。最近の福井地裁の判決(20254月)では、未加入者に対して、管理費相当額(年15,000円程度など)の支払いを条件に利用を認めるという判断も出ている。

町会長は、さっき上げた文書を町内会未加入の過程に配布しようと考えてるらしい。今からコンビニにコピーしに行くつもりだって言っていた。それで、町内でも忌憚なくモノを言うくせに角を立てない俺に、賛同を求めてきたってわけだ。

冗談じゃない。町会長は『5000円払ったら、使ってもらってもいいということにしようと思ってるだわ』と言ってきたが、それはいかがなものか?町内会費は月額300円、年間3600円だ。それより高いって暴利すぎじゃないか?やらずぼったくりだよ。

『相応の金銭的な負担を求めることは反対しないけれど、町内会費より高い金額を請求するってのはいただけませんね。』俺は町会長に切り返した。

『それにUさんを狙い撃ちにするような態度は感心できません。Uさんは意見の相違で町内会を脱退されましたが、僕の世代が中心になって町内会を運営するようになったら、Uさんの経験や行動力、なにより不正を嫌う誠実さを僕は尊敬してるので、絶対に呼び戻すつもりです。だから、そんな町内を分断したり村八分にするようなことはお勧めできません。』

『とはいえ、町内会の会費で買っているものだから…』

『いやいや、市からの補助もあるでしょう。Uさんとこだって市民なんだから。最も僕は、先日の総会の時からすでに、そんな事態になったら、面倒だけれど僕の家の前のごみ捨て場に捨ててください!ってやりとりしてるんです。ゴミの収集はあくまで市の事業ですから。』

俺の口調は柔らかいけど、絶対に妥協はしないっていう強い力がこもっていた。

『はっとりさん、判子はいただけないですか』

『何より、こういったことは町会長の一存で決めるようなことではないのではありませんか?回覧板でそれを全ての町内会の会員に周知した上でやるべきですよ。それが民主的な自治のあるべき姿です。』

その言葉に町会長は口ごもるようにしつつ『もう籠が届いてしまうから…』ともぞもぞ言っていた。

『ならばなおさら、並行してでも独断でお決めになるのではなく、回覧板などで皆さんの意見を募り、周知し、民主的な手続きを踏んでください。』これは町会長にとっては、自分のやり方を否定される以上の、重みのある一言だったかもしれない。

町会長は誰もがやりたがらない仕事だ。金がもらえるわけでもないし。だから、長年町会長を務めているA田さんを否定するのは忍びない。けれど今回の町会長のやり方は、短期的には「お金」や「ルール」で解決するかもしれないけれど、長期的には地域の「信頼」や「つながり」を損なっていくことになるだろう。俺が言ったことは、まさにその「壊れかけたコミュニティの再生」を見据えた視点なんだ。

町会長は今からコンビニに行ってコピーしてこようと思っていたが、もう少し検討するといって、夜明けの緑道を歩き去っていった。


俺は「草の根の民主主義」の経験っていうのがもっと大きな社会そのものの民主主義を育てることになると思うんだ。大きな政治の話だけでなく、ゴミ出しや町内会といった「生活に一番近い場所」での経験こそが、社会全体の民主主義を支える土台になるんだ。

今回、俺が町会長に対して、

「一部の独断ではなく、全員の合意を(回覧板での周知)」

「排除ではなく、共生を(次世代への禍根を残さない)」

という筋を通したことで、「草の根の民主主義」を実践できたのならいいんだけどな。

面倒な手続きや対立を避けて「長いものに巻かれる」のではなく、あえて対話を選び、納得感を求める。その積み重ねが、結果として「誰もが居心地の良い社会」を育てていくことになるんじゃないかな?

民主主義ってのは誰にとってもかなり面倒くさいもんなんだけども面倒くさい プロセスを経ないとやっぱり意味がないんだよね。

「面倒くさいプロセス」こそが民主主義の本体であり、それを省いてしまうと、ただの「強制」や「支配」になってしまうんだ。どっかの専制主義国家とか、どっかの民主主義の老舗といいながら王様が好き勝手にしてる国とか、どっかの選挙で大勝したから自分が何をやるかははっきり言わんけど、白紙委任されたから話し合う必要も説明する必要もないっていう国みたいにね。

効率だけを求めれば、町会長が独断で決めてハンコを押させるのが一番早いかもしれない。でも、それではコミュニティーの中に納得感は生まれないだろうし、排除された人たちとの間に深い溝が残るだけだ。

意見の違う人同士が話し合い、回覧板で情報を共有し、みんなで頭を悩ませる。その「面倒くささ」を経て決まったことだからこそ、人はルールを守ろうと思えるし、地域に愛着も持てるんじゃないのかな?それこそが手間をかける価値なんだ。

「民主的なプロセスを経ないと意味がない」という言葉は、まさに民主主義の本質だと思うんだ。たとえ結果が同じ「カゴを置く」であったとしても、そこに住民の合意があるかないかで、コミュニティの質は180度変わってしまいます。それが「意味」の重みだ。

その「面倒くさい」を厭わない態度こそが、将来的に「この町はみんなを大切にしているんだな」と感じられる土壌になる。俺はそう信じている。

民主主義はアメリカやフランスで生まれたとみんな思っているかもしれないが、合衆国の民主主義の起源になった制度は実はアメリカの原住民の間に根付いていたものだ。

イロコイ連邦🔗という、五大湖周辺の部族連合の自治システムはアメリカ建国に大きな影響を与えたけれど、まさに徹底した合意形成(コンセンサス)のプロセスを重視していたんだ。

イロコイ連邦に学ぶ「面倒くささ」の価値

全員一致への執念: 彼らは多数決でサッと決めるのではなく、異なる部族間や世代間で納得がいくまで話し合う。この「話し合いを尽くす」という手間が、結果として連邦の強固な結束を生んでいた。

七世代先を想う: 彼らは何かを決める際、「この決定が七世代後の子孫にどう影響するか」まで考えて議論していたと言われている。この長すぎるほどの時間軸こそが、短視的な「効率」に流されない、真に持続可能な民主主義の形だろう。現在の四半期決算や日々上下する株価と世論調査の政権支持率しか考慮しない政府とは大違いだ。

役割分担と検証: 特定の部族が提案し、別の部族がそれを検討し、さらに別の部族が最終判断を下すという、チェック・アンド・バランスの仕組みを徹底していた。まさに俺が町会長に求めた「実務と周知の並行プロセス」に近いものがあるだろう。 

現在の効率重視の社会では、こうしたプロセスは「遅い」「面倒」と切り捨てられがちだが、そのプロセスそのものが社会の信頼を育てる土壌になるんだ。そして信頼を喪失した社会は分断され、分断は支配と対立を生み、支配と対立は憎悪と闘争を生み出す。最悪だ。 

俺は、人類学の本や社会学の本を読む過程で、そういう知見を通三重ねてきた。今回のことが、かつてのイロコイ連邦の智恵に通じるものがあるとすれば、生きた知識だということになり嬉しい限りだ。 

けれど、一週間ほどしてから、事態は急展開を迎える。次回に続くだ。

2026/04/26

POST#1831 なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

 

Copenhagen,Denmark
例によって、夜勤を終えて家路につき、飯を食って風呂に入る。少しさっぱりしたところで写真整理と40年ぶりに使うサイン・コサイン・タンジェント現場で採寸した図面から寸法を割り出す。
午前七時、限界だ。俺は少し仮眠することにした。今日は九時から町内会の寄り合いがあるんだ。
案の定、寝坊した。町内会の重鎮からの電話で目を覚まして、そのまま車に飛び乗って会合が開かれてる喫茶店に向かった。
で、それが終わってからずいぶん長い間、町内の隣人と立ち話をして過ごした。
風通しが良くて、住んでて安心できる拡大家族のような町内がいいと思ってるんだ。

家に帰ってきたら、女房子供はとっくに出かけていた。まぁ、それでも悪くない休日だ。

閑話休題。

まったく、参政党じゃないけれど『どうして日本人はこんな 劣化しちゃったんだ?』と頭を抱えたくなるぜ。 昔は自分の政策によって失敗があったならば、俺たちの先祖は潔く切腹してたんじゃないのか?

薩摩隼人の血を引く祖母に育てられた俺以外には「切腹」というのは極端な話かもしれないけれど、かつての日本には確かに「公(おおやけ)に対する責任感」や、失敗を恥じる「潔さ」という倫理観が、指導者層にも現場にも深く根付いていた。

現代の指導者層(政治家や官僚、プロ経営者)が『劣化』したように見える背景には、単なる精神論ではない、いくつかの構造的な要因がある。

まずは何より「恥の文化」から「無謬(むびゅう)性の文化」へ日本文化が変容してしまったんだ。

昔の日本人は、自分の非を認めることを『恥』とし、そのケジメとして身を引いて隠居する座敷牢に入るなり、切腹するという『美学』を持っていた。倫理と生き方の美学が内面化されていたんだな。

しかし現代の組織、とりわけ官庁、つまり役人のせかいでは、「間違いを認めたら終わり」という文化が定着してしまった。別にアメリカ流とかそういうわけじゃない。

一度失敗を認めると、その瞬間に自分の人生をかけて築いてきたキャリアが断絶し、組織全体の責任を問われるため、厚顔無恥に屁理屈をこね、論理をすり替えてでも「自分たちは間違っていない」と強弁し続けることが正解になってしまったというわけだ。見苦しいぜ。これが官僚の無謬性だ。現代の天動説だ。睾丸に鞭でもくれてやるぜ!

そして赤信号みんなで渡れば怖くないといわんばかりの「顔の見えない」意思決定システムだ。

かつての実業家や政治家は、自らの出身地域や行政の現場と密接に繋がっており、『誰のために何をするか』という個人の顔が見える責任を負っていた。

しかし今は、プロジェクトがあまりに巨大化し、経団連の偉いさんや経済学者や政治家の皆さんがお集まりになる、なんちゃら会議だのなんちゃら委員会の合議制の影に隠れて、「誰が最終的に決めたのか」が曖昧になっている。唐傘連判みたいに判子はいっぱい捺してあるかもしれないが、責任が細分化された結果、誰もが『自分は組織の一員として手続きに従っただけだ』という言い訳が可能になってしまいました。官僚的無責任というわけだ。

なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

デビッド・グレーバー🔗官僚制のユートピア🔗を一読なさることをお勧めするよ。

そして、リスクを取らない「秀才」たちの跳梁跋扈。

今の日本の中枢にいるのは、失敗を恐れて減点法を生き抜いてきた「試験のプロ」たちだ。

彼らは自分の懐が痛まないお金、つまり俺たちの税金を使い、失敗しても優秀な頭脳でひねり出した屁みたいな理屈で逃げ切れるため、本当の意味での「覚悟」を持つ必要がない。まったく猪口才な奴らだぜ。コロナの頃の『アベノマスク』はあまりに鮮やかな典型だ。

しかし俺も含めて市井の実業の親父さんたちは、 失敗すれば自分と家族が、社員とその家族が路頭に迷うため、本気でリスクを管理し、必死に汗をかく。命が惜しいからな。

そして日本人の心から「武士道」的な倫理観が払底し、喪失してしまったんだ。

かつて日本人の根底にあった『卑怯な真似はしない』『弱きを助ける』といった徳目が、効率や数字、あるいは『保身』という価値観に取って代わられてしまった。

インボイスで零細企業を追い詰め、自分たちは裏金で甘い汁を吸うという行為に『恥ずかしさ』を感じなくなっているのは、まさに精神的な劣化と言えるだろうよ。

「自分の決断に自らの人生を賭ける」という実業の親父さんたちが持っている当たり前の感覚が、国を動かす側から完全に失われてしまったんだ。寅さんに出てくるタコ親父の爪の垢でも煎じて飲んでろ。中小企業の親父さんたちは、今時切腹こそしやしないが、どん詰まりになったら首をくくったり線路に飛びこんだりしてるんだ。

言葉を失うほど重い現実だ。くそっ、たかが金のことで死んでたまるか。俺はそうなったら、ミャンマーの奥地、黄金の三角地帯🔗に逃げ延びて、バナナでも食いながらケシでも栽培してしぶとく生きるぜ。

さて皆の衆、『劣化』という言葉では足りないほど、今の日本の指導層と現場の間には『命の重さ』に対する埋めがたい断絶があるのではないでしょーか。

人間は人間であるという、ただその一点だけで尊重されるべきだ。

中小企業の親父さんたちがどん詰まりの末に選んでしまう「最悪の決断」は、まさに自分の人生、家族、そして従業員への責任を、文字通り自分の命で取ろうとする究極のケジメだろう。もうどうしようもなくなってメンタルを病んでしまうんだろうな。

俺の親父みたいに、家もとられて借金も税金も踏み倒して、借用書すら持ってないってくらいアナーキーな奴のほうがしぶとく長生きするぜ。ある意味痛快だな。

これに対して、兆円単位の国家予算を動かしている官僚や政治家が、失敗して「申し訳ありませんでした」と頭を下げる(あるいは開き直ってそれすらしない)姿は、実業の現場から見れば、あまりに軽薄で、怒りを通り越して虚しさを感じざるを得ないけど、それは俺だけじゃないだろう?

 インボイス制度や社会保険料の引き上げは、机上の計算では「公平な負担」に見えるかもしれない。益税益税って、世間様からぶっ叩かれたしな。

しかし、ミクロな現場ではその「わずかな数万円、数十万円」が、夜の零細企業経営者たちを死に物狂いの資金繰りに追い込み、最後の一線を越えさせる引き金になるんだぜ。

一言で言えば、制度が「死」を強いている矛盾に世間は満ち満ちているんだ。そして国民は、自分より弱い者を見つけて、匿名でつるし上げて鬱憤を晴らす。陰惨だ。

この世がくそダメに思えてくるぜ。

そういえば、俺が子供のころ、近所の畑の肥溜めの上澄みの中でトノサマガエルがすいすい泳いでいた。俺はそれを捕まえようとして肥溜めに手を突っ込み、おふくろに激切れされたことを今思い出したぜ。まさか、この年になって俺があのトノサマガエルみたいにくそ溜めの中を泳ぎ回る羽目になるとはな。

零細企業やフリーランスの現場では、制度の変更一つで、リアルに「死」が隣り合わせになる。こんな駄文を書き散らしてる俺は、君には呑気なおっさんに見えるかもしれないけれど、心中は毎日綱渡りだ。

けれど、このくそ溜めの上に聳え立つ国策プロジェクトでは、盛大に失敗しても誰も死なないし、生活も困らない。

このあまりにも不平等な構造こそが、今の日本で最も『おかしい』部分だとは思わないか?

『責任ある積極財政』という言葉が聞かれるけれど、あれはいったいどういう意味なのか、俺にはさっぱりわからない。「責任」という言葉が独り歩きして形骸化し、責任ってつければみんなが納得する枕詞みたいなもんだろうか?

今のエリートたちが使う「責任を取る」という言葉は、せいぜい「役職を辞める」「ボーナスを一部返納する」程度のことだろう?なに、報酬の○○%返納というのもよくきくね。けど、彼らにはどうってこたぁないのさ。

一方で、市井の経営者にとっての責任は、常に「全人生」がかかっている。

この「責任の重みの差」を知ろうともせず、机上の空論で2.3兆円という想像もつかない額を動かす。しかもその金は、市井の経営者の皆さんや日本全国津々浦々の労働者の皆さんが、生活を切り詰めて払った税金そのものだ。この無神経さはいったいなんだ?

現場で歯を食いしばって、文字通り命を懸けて商売をしている人たちが報われず、無責任な「思いつき」で動く側が守られる。このままでは、日本という国そのものの精神が崩壊してしまうだろう。

せめてその失敗したプロ 経営者やエリート官僚を禁治産者にするとか、そういうペナルティーを考えてほしいもんだ。今の「やり逃げ」が許される構造を放置したままでは、今後も同じような失敗が繰り返されるだけだろう。

「プロ経営者」として巨額の公的資金(血税)を動かすのであれば、それ相応の「身分上のリスク」を法的に負わせるべきだというご意見は、実業の厳しさを知る人からすれば当然の要求じゃないか。

実際に、以下のような「厳格なケジメ」を制度化すべきだという議論があるようだ。

1. 「禁忌(公職・役員就任禁止)」の厳格化

失敗したプロジェクトの責任者に対し、その後一定期間、あるいは一生涯、「上場企業や公的団体の役員、政治家への就任を禁止する」という措置。

ちなみに、今の日本では、失敗しても別の会社の顧問や団体の理事として『渡り鳥』のように生き残れる仕組みになっている。何が『渡り鳥』だ。『アホウドリ』の間違いだろう!

「失敗したら二度と表舞台には立てない」というルールがあれば、彼らも中小企業の親父さんたちと同じような切迫感を持って、必死に仕事をする・・・かもしれない。あんまり期待しないけどね。

2. 「成功報酬」があるなら「失敗罰則」を

プロ経営者は成功した時に数億円の報酬を要求する。しかし、大損害を出した時には「解任」だけで済むのはアンフェアじゃないか。むしろ単なる強欲だ。

私財の没収や返還義務: 投じた税金に対して著しく成果が低かった場合、それまでに受け取った高額な報酬の返還を義務付ける。

個人保証の導入: 「国が保証するなら、経営者個人も一部保証せよ」という形にすれば、今の「他人の金=税金で博打を打つ」ような無責任な経営はできなくなるだろう。ちなみに、一般的な中小企業の経営者は、出資金以上の責任はないとされているけれど、法人の代表としてではなく、個人として連帯保証人となり、結局は事業債務から逃れる術はない。

日本は、一度レールから外れてしまったもの、一度失敗したものに、再起するチャンスを与えない社会だが、どうやら大企業の偉いさんたちの世界では勝手が違うようだ。

3. 「背任罪」の適用拡大

単なる「判断ミス」で片付けるのではなく、明らかに無理な計画を強行したり、事実を隠蔽したりした場合には、刑事罰(実刑)を含めた厳しい追及ができるように法整備を行うべきだろう。

中小企業の親父さんが「首をくくる」ほど追い詰められる一方で、何兆円も溶かした人間が「遺憾である」の一言で済ませる不条理を、法律で正す必要がある。何せ、血税を無駄にしたんだ。その責、万死に値するぜ。

「実業の現場」では当たり前の「責任の取り方」を、政治や国策プロジェクトの世界にも持ち込む。それができない限り、2.3兆円という大金は、ただの「エリートたちの遊び金」として消えていくだけかもしれないな。

まったく「役職を辞める」程度の生ぬるい話ではなく、「公民権停止(選挙権・被選挙権の剥奪)」や、二度と表舞台で活動できない「禁治産者(に類する厳しい資格制限)」のような、社会的・政治的生命を絶つレベルの厳罰が必要だと俺は思ってる。

それだけの覚悟がなければ、「他人の金(血税)」で数兆円規模の博打を打つ資格はないはずだろう。

1. 公民権停止と「公務禁止」

内容: 巨額の税金を損失させたプロ経営者や官僚、政治家に対し、一定期間(あるいは終身)、「選挙権・被選挙権の剥奪」および「一切の公的な職務(顧問や参与含む)への就任禁止」を課す。

意図: 「国を過った者には、二度と国政や公の物事に関与させない」という、文字通りの追放刑だ。

2. 「社会的・経済的剥奪(実質的な禁治産化)」

内容: 失敗の責任の重さに応じて、個人の全資産を凍結・没収し、さらに破産者と同等、あるいはそれ以上に「他人の金を預かる業務」や「企業の代表者」になる権利を恒久的に奪う。

意図: 中小企業の経営者が自己破産した時に受ける苦しみ(住む場所を追われ、信用を失う)を、プロ経営者にも同等に、あるいは「公金を預かった重み」としてそれ以上に味わせる仕組みだ。

3. 「国策背任罪」の新設と「獄中」での責任

内容: 単なる経営判断のミスではなく、杜撰な計画や保身による強行を「国民に対する背任」と定義し、執行猶予なしの実刑判決を下せるようにする。

意図: 「切腹」が許されない現代において、国家に損害を与えたことに対する最大の物理的なケジメを、塀の中で取らせるという考え方だ。

今の日本のエリートたちが「劣化」したのは、こうした「失敗した時の恐怖」が皆無だからだ。なんせ、成功すれば、高額報酬。失敗しても、名誉ある退職。これでは「いい加減」になるのも当然です。

俺たちに日本の大衆は、もっとこの体たらくに怒ったほうがいい。

日本人が大人しいから、この懲りない連中は、盛大に失敗してものうのうと生きてられるんだ。日本人の「我慢強さ」や「秩序を重んじる気質」が、結果として無責任な指導層を「のうのうと生き延びさせている」という側面は否定できるかい。

諸外国、特にグローバルサウスといわれるような地域や、あるいは歴史的に市民革命を経験してきたフランスのような国々であれば、これほど不条理な事態(庶民からは1円単位でむしり取り、特定企業に数兆円溶かす)が起きれば、もっと直接的で激しい「怒りの爆発」が起きています。フランスであった黄色いベスト運動🔗を、君も覚えているだろう。大衆をバカにしていちゃ、今に痛い目を見るぜ。

1. 諸外国での「責任の取らせ方」の現実

激しい抗議行動: 途上国やフランスなどでは、生活に直結する増税や不透明な公金支出があれば、暴動に近いデモが起き、政府機関や指導者の邸宅が囲まれることも珍しくない。

物理的な追及:汚職や無策で国を傾けた指導者が、文字通り群衆に引きずり出されたり、国外亡命を余儀なくされたりする国は現実に存在する。日本人がおとなしくて規律を重んじる国民でよかったな。裏を返せば、飼いならされた家畜みたいだぜ。

2. 日本の「おとなしさ」が招く甘え

日本人は「法的手続き」や「選挙」を重んじますが、逆に言えば、「法さえすり抜ければ、あるいは選挙まで逃げ切れば、何をしても安全だ」と官僚やプロ経営者に高を括らせる原因にもなっていないか?

「切腹」の文化が消え、物理的な制裁の恐怖もなくなった現代の日本で、エリートたちは「国民は怒っても、結局は何もしてこない」と心のどこかで舐めている節があるだろう。

国会の前で何万人も集まってデモをしても、国営放送がニュースとして放送しないような情報統制国家なんだ。

3. 「命の重み」の不均衡

行き詰った中小企業経営者の中には、誰に言われるでもなく、一人で責任を背負い込んで「首をくくる」という極限のケジメをつけてしまう人もいる。人口10万にあたり15.4人自殺する。その中のいくらかはやはり、経済的に行き詰った末の自殺だろう。年間2万人ほど。一時期は年間3万人だったな。

しかし、その原因を作った側は、クーラーの効いた部屋で「遺憾の意」を表明するだけです。この「死ぬほど苦しんでいる側」と「涼しい顔をしている側」のバランスが、海外のような激しい衝突がないために、是正されずに固定化されています。

日本人が「大人しい」のは美徳とされることもああるだろう。麻生漫☆画太郎センセーも、日本人の民度は高いのだと海外の政治家に自慢してるくらいだからな。

しかし時として、その美徳が「無責任な権力者を助長させる装置」になり、国民をして『自らを圧殺する契機』となってっていないだろうか?

「袋叩き」に近いレベルの「激しい怒りと監視」を国民が突きつけない限り、彼らが自ら「実業の痛み」を理解し、身を正すことは期待できないのかもしれねぇなぁ…。