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| 東京、築地より |
ここんとこ縷々つづってきた子どもの自殺をめぐる現象は、俺が思うに新自由主義🔗がすべてを商品化し、社会を分断してしまったことの陰画なんだ。
「人間を材料(人材)扱いする風潮」や「カント的視点の喪失」の背景には、1980年代以降、日本を含む世界中に広がった「新自由主義(ネオリベラリズム)」の思想が決定的な影響を与えている。
ハイエク🔗やミルトン・フリードマン🔗によって打ち立てられた新自由主義は、経済だけでなく、社会の構造から、人間の生き方や教育のあり方までをも根本から作り変えてしまった。そこで起こったのが、「教育の市場化」だ。
新自由主義の本質は、あらゆるものを「市場原理(自由競争・自己責任・効率性)」で支配することだ。(実は、自分たちが困ったときには政府に救済してもらうというバックドアが仕込まれてるんだがな)これが教育現場に持ち込まれた結果、以下のような変化が起きた。
学校の「工場・育成機関」化
教育の目的が「豊かな人格の形成(カントの言う『目的』)」から、「グローバル市場で勝ち抜ける優秀なコマ(新自由主義的な『人材』)の育成」へと完全にシフトした。エミール🔗を記した親愛なるジャン=ジャック・ルソーが見たら、パンテオン🔗の棺から起き上がってくるんじゃないかって心配になるほどさ。
教育の自己責任化と投資化
いつの間にやら「学びは将来稼ぐための自己投資である」という自己責任論が定着した。私見ながら、俺はなにかの為にする学びは嫌いだ。自らのうちから湧き出る好奇心の赴くままに、問いをたて、学び、自分の血肉にしたいね。閑話休題。
これにより、子供は幼少期から「自分の市場価値を高めるための競争」に強制参加させられることになっちまったんだなぁ。それどころか、大学は単なる就職予備校になり、専門課程はほどほどに就職活動に奔走するなんておかしなことになってる。そのくせ、通勤電車の扉の横には、土日に経営専門大学院に通ってMBAつまり経営学修士🔗の資格を取ることが宣伝されているほどだ。まったく、何のために働いてるんだ?俺が思うに、人生は愉しむためにあるんだぜ。
そして、子どもたちを追い詰める「新自由主義的」3つの罠が待ち受けている。3つの口から破壊光線を出すキングギドラみたいだなぁ(笑)
新自由主義的な価値観は、子ともたちの精神を内側から破壊する特有の構造を持っているんだ。おっかないぜ。
① 無限の自己責任論(「努力不足」という呪い)
新自由主義は「誰もが自由に競争できる」という建前をとるため、失敗した原因はすべて「本人の努力不足・能力不足(自己責任)」に帰結させられちまう。
いじめ、不登校、成績不振に陥った子どもは、社会構造や環境のせいにできず、「自分が無能だからだ」と過剰に自分を責め立てるようになってしまうんだ。そんな馬鹿なことってあるか?
② 「自己啓発」の強要(ありのままの否定)
新自由主義社会では、現状維持は「退化」を意味するんだ。経済が常に成長し続けていかないといけないという呪縛そのままだ。だから預金じゃなくて投資が奨励されるんだな。ダハハ!
その呪縛のせいで、地球はだんだん金の星どころか金星みたいな灼熱の惑星へと変わり始めてるんだけどな。
おかげさんで、子どもたちは常に「もっと主体的に」「もっとスキルを身につけて」と、終わりなき自己改革を求められ続ける。終わりのないマラソンだ。大人だってうんざりだぜ。
カントが説いた「生きているだけで尊い」という状態は全否定され、「常に成長し続けなければ価値がない」という強迫観念に晒され続けるんだ。まともな神経でいられるわけがないぜ。
③ 連帯の分断と孤立(頼れない社会)
徹底した競争社会は、クラスメイトを「共に生きる仲間」ではなく、「席を奪い合うライバル(敵)」に変える。俺の通っていた私立の中学に、先年用事があって行ってみたら、下駄箱の横に、『上を見て落ち込むな!下を見ていい気になるな!右を見ても受験生、左を見ても受験生!』とうんざりするようなことが書いてあったぜ。俺は思わず、名誉校長とかになりあがってたかつての数学の教師に『中島さん、あんたちょっと見ん間に、偉なったもんじゃんのう。これがあんたの理想の学校かいな?はよ、あんたの銅像も建ててもらえるとええのう』と、半ば軽蔑感を隠すこともなく言ってのけてしまったわ。ダハハ!
弱みを見せたら脱落するため、子どもたちは周囲にSOSを出せなくってしまう。結果、「過酷な競争の中で誰も信じられない」という致命的な孤立を生み出すことになってしまうだろう。親は競馬馬の馬主みたいなもんだからな。親にもそんな弱みは見せられないだろうしな。
もっとも、その親自身も、社会の中で同じようにもがいているわけだ。溺れている者が、溺れている者を救うことはできないのさ。
さてそこで、 日本特有のケミストリーが生じるんだ。まさに「最悪の掛け合わせ」だ。
日本の子供の自殺が突出して減らないのは、この「新自由主義」に、日本古来の「同調圧力・連帯責任」が最悪の形で融合したからだと考えるのが妥当だろう。
そもそも核家族から社会が構成されているアングロサクソン型の欧米の新自由主義は「自己責任」だが、ルールを外れても「個人の自由」としてある程度放置される傾向にある。よく言えば、これは多様性が担保されてるってことだ。
しかし、我らが日本の新自由主義は一味違う。 経済や能力面では「自己責任の競争」を強いる一方で、学校生活では「みんなと同じ行動、高い協調性(同調圧力)」を絶対の鉄板ルールとして求められるんだ。子どもたちの無意識は、相反するベクトルに引き裂かれることになるだろう。利益相反してもへっちゃらな汚れちまったおじさんとは違う若者たちの心は、混乱するよな。
つまり、日本の子どもたちは『激しいサバイバル競争を勝ち抜きながら、周囲の空気も完璧に読まなければならない』という、二重の過酷な要求に縛られているわけだ。
これが、逃げ場をなくし、自死を選ばざるを得ないほどの息苦しさの正体なんじゃないかな。
人間を「目的」ではなく「手段(利益を生む道具)」として扱い、使えなければ自己責任として切り捨てる新自由主義は、現代の子どもたちから「無条件で愛され、守られる権利(生存の安全基地)」を奪い去りってしまった。
子供の自殺問題は、この過剰な市場原理主義がもたらした「社会の精神疾患」そのものであると言えるだろう。
俺は思うに、子どもなんて 10 歳ぐらいまでは勉強なんかそっちのけで、けもののように友達と遊びまくる方が絶対に人間的に成長すると思うんだよ。そんな中で人間関係の機微を学んだり、自分で工夫したりする知恵を身に着けたり、有り合わせのもので何とか問題を解決するブリコラージュ🔗の能力を身に着けたりするんだ。そう、非認知能力🔗って奴だ。
この考えは教育学、心理学、そして脳科学の視点から見ても、圧倒的に正しく、本質的な人間性の成長を捉えているといえるだろう。
10歳頃までに「けもののように友達と泥まみれになって遊びまくる」経験こそが、新自由主義が求める薄っぺらな「人材スペック」ではなく、カントの言う「目的としての人間」として生きるための強固な土台(根っこ)をるんだ。
近年進展の著しい脳科学も「遊びが先、勉強は後」の順序の妥当性を証明している。
脳の発達順序から見ても、 人間の脳は、感情や本能をつかさどる「大脳辺縁系(けものの脳)」が先に発達し、論理的思考や勉強をつかさどる「大脳新皮質(人間の脳)」が後から発達するようになってるようだ。
で、10歳くらいまでに友達と全力で遊ぶことで、脳の感情システムやストレス耐性が爆発的に発達するらしい。この「根っこ(土台)」が未成熟なまま、早期教育で上の「人間の脳」ばかりをいじくると、ポキッと折れやすい木(メンタルを病みやすい子供)になってしまうであろうことは、容易に理解できる。一階が無きゃ二階はできない。そして土台がなきゃ家は建たないんだ。
新自由主義社会が「教科書」や「習い事」で教えようとしている能力ってのは、実は「放任された遊び」の中でしか身につかないんだ。人間は「生きる力」のすべてを遊びの中で学んでいるといても過言じゃない。
嘘じゃないぜ。
本物のコミュニケーション能力: ルールのない遊びの中で、言葉の通じない相手とどう折り合いをつけるか、喧嘩した後にどう仲直りするかを体で覚えるんだ。
本当の主体性と課題解決能力: 「次は何をして遊ぶか」「泥の中に落ちたボールをどう拾うか」を、大人に指示されず自分たちで必死に考えることで、本当の知性が磨かれていくんだ。
レジリエンス(折れない心): 転んで痛い思いをしたり、遊びのルール変更に耐えたりする中で、自然と「失敗しても大丈夫」という精神の免疫が作られていくんだ。
私事で恐縮だけれど、俺は世の中の平均的な人間ができるたいていのことは、努力すれば何とか格好がつくくらいにはできるだろうと世の中を舐めた姿勢でこの年までやってきたんだけど、確かに子供のころ畑のあぜ道や雑木林の中で駆け回った経験が基礎になっていると実感するぜ。痛い目もたくさん見たけどな。
友達とただ楽しく遊び狂う時間には、評価(テストの点数、内申点)が一切存在しない。
この「何かができるからではなく、ただ生きているだけで楽しい」という無条件の幸福感(自己肯定感の原点)を10歳までに心に貯金できた子どもは、大人になって社会の荒波や「人材査定」に晒されても、簡単には潰れないんだ。心の中に「絶対に壊れない安全基地」を持っているからだ。つまり、『何もしなくても愛される』という絶対的な全能感が熟成されてるんだ。
しかし現在の日本ではどうだろう。新自由主義的な焦燥感から、この大切な「10歳までの放牧期間」を塾や習い事で埋め尽くしてしまっている家庭が多いんじゃないだろうか。これこそが現代社会が抱える「遊びの喪失」という病だ。
結果として、「小綺麗で、大人の言うことをよく聞くけれど、内面はスカスカで傷つきやすい子供」が大量生産されてしまうんだ。
子供を一度「けもの」として野生のまま徹底的に遊ばせることは、決して教育の放棄ではないんだ。それこそが、社会の道具(手段)にされない「自立した一人の人間(目的)」を育てるための、最も高度で贅沢な教育なんじゃないだろうか。
もちろん、それについての反論もあるだろう。それは俺も重々承知しているし、不安になる親心もひとりの親としてよくわかる。
けれど、子供が死にたくなるような国って、それはあなたにとっていい国なんですか?
少なくとも俺にとっては、少なくない数の子どもたちが自ら命を絶ちたくなるような国は、どれだけ経済的に豊かで治安が良くても、決して「いい国」とは言えないと確信してる。
むしろ、社会のシステムがどこかで致命的に機能不全を起こしている「極めて不健全な国」であると断言するべきだ、というのがカントの哲学やルソーの人権の視点に立った結論じゃないかな。
なぜそのような国になってしまったのか?
まず真っ先に挙げるべきなのが、国家の「目的」が倒錯しているという致命的なバグだ。
カントの思想に立ち返れば、国家や社会というシステムは、「そこに生きる人間が幸福に、尊厳を持って生きること」が究極の目的であるはずだ。
しかし、子供が自殺に追い込まれる国では、その目的が完全に逆転しているといわずるを得ないだろう。
国を維持するため、あるいは経済を成長させるための「手段」として子どもたちが『消費』され、その過酷なシステムに耐えきれなくなった子供たちが命を落としていくんだ。
目的と手段がひっくり返った社会は、人道的な意味において「失敗している国」以外の何物でもない。俺はつねづね、ピンハネするだけで誰も幸福にならないようなクソ会社なんて潰れちまった方がいいんだ!というんだけれど、まさにそれが国家的なスケールで展開してるんだ。
そして俺たちは、「見せかけの豊かさ」に騙されている。
街にゴミが落ちておらず、夜間に女性が一人で歩くことができ、子どもは一人で外に出かけても誘拐されない。スーパーやコンビニの棚にはモノがあふれている。たまに目詰まりしてる時もあるけどな。だから、一見すると「いい国(先進国)」に見えるだろうさ。
しかし、子供の自殺率が高止まりしているという事実は、この国が「物質的には豊かだが、精神的には生存を脅かすほど過酷なディストピア」であることを証明しているんじゃないか?
物理的な治安が良くても、子供の心が安心できる「精神的な治安」が崩壊している国を、良い社会と呼ぶことはできないんじゃないか。
おまけに、 社会の「最後のセーフティネット」が壊れているから質が悪い。
野生のけものが子供を命がけで守るように、本来あらゆる共同体(国家、地域、学校、家庭)にとって、「子供の命を守ること」は最優先されるべき絶対的な防衛ラインだ。
子供が死にたくなるということは、学校も、家庭も、あるいは社会の空気も、すべてが子どもたちにとって「敵の陣地」になってしまい、どこにも逃げ場(安全基地)がなかったことを意味しているだろう。
最も弱く、守られるべき存在である子どもたちを孤立させ、死に追いやる社会は、共同体としての基礎が崩壊していると言わざるを得ないんじゃないか?どうなんだい、社長!
大人が『人材』や『経済成長』『自己責任』といったまやかしの言葉に踊らされ、カントの言う『人間を目的として扱う』という当たり前の倫理を忘れた結果、その歪みのすべてのしわ寄せが、最も無力な子どもたちに向かっているんじゃないのか。
また、その俺たち大人の都合で作り上げられたモデルチャイルドから逸脱したとたんに、社会から居場所がなくなり、引きこもり、或いはトクリュウ犯罪の網に絡み取られていく。
子供が「生まれてきてよかった」と心から思える国、10歳まで泥まみれになって遊び狂っても誰からも責められない国に作り直すこと。それこそが、この国に生きる大人が今すぐにでも果たさなければならない、最優先の責任だと言えるだろう。
子供が幸せに生きられない国は大人も幸せには生きられないと俺は思うんだけれど、どうだろうか。もしそうならば、なぜその幸せに生きられない社会を、俺たちは拡大再生産せざるを得ないんだろうか?思考停止していないか?
子供の自殺や生きづらさは、大人の社会が抱える病理がそのまま投影された結果に過ぎないんだぜ。
にもかかわらず、俺たちがこの「不幸のシステム」を止められず、むしろ拡大再生産し続けている背景には、新自由主義と日本特有の構造が噛み合った「4つの罠」が存在してるんだ。
1. 自分が生き残るための「最適化の罠」
大人たち自身もまた、新自由主義的な競争社会の被害者だ。自覚している、していないに関わらずね。
大人の現状はこうだ。 労働環境の流動化、実力主義、老後不安などにより、大人は常に「明日は我が身」「脱落したら終わり」という強い恐怖の中に置かれている。そそのストレスは多くの人々を抑鬱状態に追い込んでいる。
こんな不健康な社会は変えなきゃならないのに、再生産のメカニズムは無情に進行するんだ。なんてったって、メカ=社会構造だからな。
心に余裕がない大人たちは、社会のシステムそのものを変える(連帯して声を上げる)労力を持てない。結果として、「この過酷なシステム(ルール)を変えるのは無理だから、せめて自分の子供だけは競争に勝てるように、幼少期から『人材』として鍛え上げよう」という行動をとるわけだ。これが、結果的にシステムをさらに強化し、子供を追い詰める側へ回るという悪循環を生んでしまうんだ。
2. 「痛みの学習」による世代間連鎖
人は、自分が受けてきた扱いを他者にも正当化しやすいという心理的特性(認知の歪み)を持っている。俺が少年のころ、スポーツ系のクラブでは先輩によるシゴキといういじめが常態化していた。そしてシゴかれてた連中が上級生になったとき、そのシゴキを荒廃に繰り返すという負の連鎖だ。少年の頃から、俺はこういうシステムを嫌悪してたんだ。
そんな経験を敷衍すると、大人の本音はこんなところか? 現代の親や教師の世代も、かつて「我慢すること」「感情を殺して成果を出すこと」を美徳として叩き込まれ、サバイバルしてきたわけだ。
そこでまたぞろ再生産のメカニズムが発動する。
そのため、子どもたちが「苦しい、遊びたい」と訴えても、大人は「自分もそうやって耐えて大人になったんだ」「社会は甘くない」と、自分が受けた痛みを教育として再適用してしまうわけだ。自分が耐えた理不尽を肯定したいがために、次の世代にも同じ理不尽を強要するというスポーツクラブの上下関係構造そのまんまだ。
3. 社会の「経済至上主義」という巨大な慣性
社会の意思決定を行う政治、行政、経済界が、いまだに「GDP(国内総生産)」や「企業の国際競争力」といった数値の拡大を唯一の正義としている。そうじゃないのはブータン王国くらいか。しかし、GDPが世界で3%平均で100年成長すれば、社会は持続不可能だということは明々白々だ。何せ資源の量もゴミの量も19倍になるんだからな。俺たちは滅びの道を爆走してるんだ。
しかし、そこでも再生産のメカニズムは機械仕掛けの神のように無情に発動する。
本来なら「国民の幸福度」や「子供の精神的健康」を最優先の指標にするべきなのにもかかわらず、現在の社会システムは「経済成長のために人間をどう最適配置するか」というロジックで動いている。
この巨大な経済の慣性(仕組み)を前に、個人の「おかしい」という声がかき消され、政策レベルで「人材育成」の教育改革が再生産され続けるんだ。機械の星の歯車のように全体主義的に動いていくしかなくなるわけだ。そのシステムに従わないことを選べば、現代社会では経済的な死を意味する。そして往々に人は経済的なデッドエンドを迎える時、生物学的な死を選択する。つまり自殺だ。
4. 相互監視が生む「誰も望んでいない同調圧力」
日本社会に深く根ざした「世間の目」が、新自由主義の自己責任論と結びつき、強力な監視社会を作っている。21世紀の経済戦争を勝ち抜くための『大政翼賛会』だ。
だれも望んでいないのに、なぜか止まらないのが再生産のメカニズムだ。
「10歳まではけもののように遊ばせるのが良い」と内心では思っている親でも、周囲の子どもたちが一斉に塾や習い事に行き始めると、「我が子だけ遅れては将来くいっぱぐれて困るのではないか」「親としての責任を放棄していると後ろ指を指されるのではないか」という周囲の視線(同調圧力)への恐怖に負けてしまう。
誰もが「このシステムは異常だ」と思いながら、お互いを監視し合うことで、結果的に誰もそこから抜け出せなくなっているんだ。現代の自発的隷属だ。ラ・ボエシ🔗もあきれることだろうさ。
この「不幸の拡大再生産」を止めるには、俺たちが「降りる勇気」を持つしかない。
社会全体を一気に変えることは難しくても、まずは自分の家庭や身近なコミュニティにおいて、「社会のルール(使えるか・使えないか)」を完全にシャットアウトする「治外法権の安全地帯」を作ることが必要だ。
大人が「私はこの競争レースから降りる。子どもを材料にはしない」と腹をくくることが、この強固なシステムにヒビを入れる唯一の対抗策だろう。
ここからが、また俺の荒唐無稽な社会改革案が開陳される予定だ。こうご期待。


