2026/05/09

POST#1844 吉本隆明とレヴィ=ストロースの次は網野善彦と宇沢弘文を召喚するかな!

 

いつかどこかで見た
俺が君たちに提唱している『天皇制リベラリズム』ってのは、俺の中では実は網野善彦🔗が、その名著『無縁・公界・楽🔗』に淵源を持っている。日本全土の山河海浜津々浦々の無主の土地(つまりコモンズ)の保持者としての天皇が、定住することなく、諸国をめぐり生きる一所不住の徒の自由を保障するとともに、その人々からの様々な供御を通じて密接な関係を築いていたという、想像力を刺激する内容だ。

網野善彦の『無縁・公界・楽』などの議論を援用すると、日本の天皇制とリベラリズムの連結は、「世俗の権力(支配・所有)が及ばない自由領域の保障」という視点から、以下のように簡潔にまとめらるだろう。

「無縁」と「無主」の空間

網野は、中世日本において、市(いち)、宿(しゅく)、山林原野などは、誰の私的な所有も及ばない「無主(むしゅ)」の土地であり、世俗的な絆や隷属から切り離された「無縁(むえん)」の場であったと指摘している。

ここでは平和と自由が保障され、逃亡者さえも保護される一種の「聖域=アジール🔗」だった。

 天皇の役割は自由領域の「あるじ」

この「無主・無縁」の土地は、誰の所有物でもないがゆえに、論理的には世俗のヒエラルキーを超越した存在である「天皇」にのみ属すると見なされていたとされる。

天皇の公界性: 

天皇は世俗の権力闘争の外側に位置するがゆえに、位相が転換するようにして、あらゆる私的な支配を否定する「無縁」の原理の体現者となってしまうわけだ。

自由の保障: 

「無主の土地は天皇のもの」という論理は、特定の権力者(幕府や領主)がその土地を私物化することを防ぎ、結果としてそこでの人々の自由や交流を担保する盾として機能した。つまりこれらの土地は、天皇の権威のもとに、きわめてリベラルな共有地=コモンズ🔗となったわけだ。

リベラリズムとの連結:

そこには世俗の権威を超越したことによる保護が働いており、自由で無縁な空間が成立していた。自由で無縁であるがゆえに、モノはその来歴を消し去り、商品として交換することが可能となり、ここに市が立つこととなった。自由の保障のもと、資本が流通する拠点にもなったわけだ。

このシステムを現代的なリベラリズム(自由主義)の文脈で読み解くと、次のような構造が立ち現れてくる。

権力の限定:

 あらゆるものを所有し尽くそうとする世俗権力(それは現在では新自由市議やリバタリアニズムとして俺たちの前に立ちはだかっている)に対し、天皇という「超越的な空無」を置くことで、権力が介入できない「聖域(自由な空間)」を確保するわけだ。

「私」を拒むシステム: 

先にも述べたように「天皇のもの」=「誰のものでもない(無主)」という擬制が、個人の自由な活動(商売、移動、芸能など)を保護する公共空間(公界)を成立させた。例えば、京都の南座やそのすぐそばに立つ出雲阿国🔗の像などが、鴨川のほとりに位置するのも、この鴨川の河川敷がだれのものでもない=天皇の土地とされていた一種のコモンズだったからだ。彼ら漂泊の芸能者は、定住民=柳田國男の言うところの 

いつかどこかで見た

俺が君たちに提唱している『天皇制リベラリズム』ってのは、俺の中では実は網野善彦🔗が、その名著『無縁・公界・楽🔗』に淵源を持っている。日本全土の山河海浜津々浦々の無主の土地(つまりコモンズ)の保持者としての天皇が、定住することなく、諸国をめぐり生きる一所不住の徒の自由を保障するとともに、その人々からの様々な供御を通じて密接な関係を築いていたという、想像力を刺激する内容だ。


網野善彦の『無縁・公界・楽』などの議論を援用すると、日本の天皇制とリベラリズムの連結は、「世俗の権力(支配・所有)が及ばない自由領域の保障」という視点から、以下のように簡潔にまとめらるだろう。


「無縁」と「無主」の空間


網野は、中世日本において、市(いち)、宿(しゅく)、山林原野などは、誰の私的な所有も及ばない「無主(むしゅ)」の土地であり、世俗的な絆や隷属から切り離された「無縁(むえん)」の場であったと指摘している。


ここでは平和と自由が保障され、逃亡者さえも保護される一種の「聖域=アジール🔗」だった。


 天皇の役割は自由領域の「あるじ」


この「無主・無縁」の土地は、誰の所有物でもないがゆえに、論理的には世俗のヒエラルキーを超越した存在である「天皇」にのみ属すると見なされていたとされる。


天皇の公界性: 


天皇は世俗の権力闘争の外側に位置するがゆえに、位相が転換するようにして、あらゆる私的な支配を否定する「無縁」の原理の体現者となってしまうわけだ。


自由の保障: 


「無主の土地は天皇のもの」という論理は、特定の権力者(幕府や領主)がその土地を私物化することを防ぎ、結果としてそこでの人々の自由や交流を担保する盾として機能した。つまりこれらの土地は、天皇の権威のもとに、きわめてリベラルな共有地=コモンズ🔗となったわけだ。


リベラリズムとの連結:


そこには世俗の権威を超越したことによる保護が働いており、自由で無縁な空間が成立していた。自由で無縁であるがゆえに、モノはその来歴を消し去り、商品として交換することが可能となり、ここに市が立つこととなった。自由の保障のもと、資本が流通する拠点にもなったわけだ。

このシステムを現代的なリベラリズム(自由主義)の文脈で読み解くと、次のような構造が立ち現れてくる。

権力の限定

 あらゆるものを所有し尽くそうとする世俗権力(それは現在では新自由市議やリバタリアニズムとして俺たちの前に立ちはだかっている)に対し、天皇という「超越的な空無」を置くことで、権力が介入できない「聖域(自由な空間)」を確保するわけだ。

「私」を拒むシステム

先にも述べたように「天皇のもの」=「誰のものでもない(無主)」という擬制が、個人の自由な活動(商売、移動、芸能など)を保護する公共空間(公界)を成立させた。例えば、京都の南座やそのすぐそばに立つ出雲阿国🔗の像などが、鴨川のほとりに位置するのも、この鴨川の河川敷がだれのものでもない=天皇の土地とされていた一種のコモンズだったからこそそこに位置しているのだ。彼ら漂泊の芸能者は、定住民=柳田國男の言うところの常民🔗から差別されていた。故にこそ、被差別の芸能民のことをかつては河原者🔗と称したのだ。

網野史学における天皇制のシステムは、「天皇という唯一の超越者を設定することで、逆に世俗権力の独占を排し、人々の自由な活動領域(無縁)を歴史的に担保してきた」という点において、権力を制限し自由を確保しようとするリベラリズムの精神と通底しているといえるだろう。俺はこの網野史学に触れることによって、天皇制リベラリズムの萌芽を自分の中に芽生えさせることができた。

さて、この『無主の土地の主』といういささか矛盾したような存在が、公共財=コモンズの再生とかそういった経済学者宇沢弘文🔗(新自由主義のイデオローグ・ミルトン・フリードマン🔗と激しく論争を繰り広げたナイスガイだ)的な視点に繋がってくるんじゃないかなって考えてるわけだ。

網野善彦が描いた「無縁・公界」の原理は、「コモンズ(共有財)」の再生という視点と非常に強力に共鳴している。この跳躍がぴんと来ないのなら、なぜこれらが繋がるのか、その接点を整理してみるとしますか。

「私的所有」でも「国家所有」でもない第三の道

リベラリズムにおける「コモンズ」の議論は、あらゆるものを「私有(マーケット)」か「国有(行政)」のどちらかに振り分ける現代の二分法を批判している。まぁ、そもそもそれはイギリスでの産業革命期における共有地の囲い込み🔗=エンクロージャーに由来するんだけどね。

網野善彦が示した「無縁」の空間(市、山林、原野)は、天皇という『超越者』を頂点に置くことで、実質的には「誰の所有物でもない(=みんなのもの)」という状態を維持していたわけだ。

これがまさに、宇沢弘文が提唱する「コモンズ(特定の誰かに独占されない共有空間)」の歴史的プロトタイプといえるだろう。

「天皇」という空虚な器によるコモンズの防衛

宇沢弘文のような視点で見れば、福祉や環境といった「生存の基盤」は、利潤追求の論理から切り離されていなければならない。(しかし、皆の衆ご存じの通り、今の日本政府の方針は福祉や環境に利潤追求の理論を導入し、現場を貧困化している。どうおもう?)

網野史学における天皇は、世俗の欲望(私的所有権の拡張)をストップさせる「蓋」のような役割を果たしていた。

「ここは天皇の土地(無主の地)だから、大名や武士が勝手に囲い込んではいけない」という論理は、コモンズが私的な資本に飲み込まれるのを防ぐ防波堤として機能していたと考えられるだろう。

「アソシエーション」の場としての無縁

網野氏は「無縁」の場こそが、芸能、商業、職能集団などの自由な結びつき(アソシエーション)を生んだと説いた。

これは、現代のリベラリズムが模索している「国家に依存しすぎず、市場に魂を売らない、市民同士の自律的なネットワーク」の再生と重なるだろう。

天皇というシンボルを介して確保された「自由な空間」を、現代においてどうやって「民主的な管理によるコモンズ」として再構築するか、という問いに直結しているといえよう。

この課題を援用することで得られる現代への示唆は非常に意義あるものではないだろうか?

宇沢弘文的な視点を踏まえると、網野善彦の議論は単なる中世史ではなく、以下の現代的課題へのヒントになるだろう。

まずは私的所有権の絶対性の相対化だ。フランス革命以来、近代法の法理では私有権は絶対に尊重されるという建前になっている。ここにこの視点を網野→宇沢ラインでRe解釈してみることで、「天皇のもの」という古い形式の中にあった「公共性」を、現代の「市民の共有的権利」へと翻訳しうるのではないだろうか。

そして「縁」からの解放だ家族や企業といった既存の「しがらみ(縁)」から自由になれる空間を、社会の中に制度として確保するんだ。網野善彦の「無主・無縁」の議論を、宇沢弘文らの「コモンズ」の視点で捉え直すと、「天皇制という歴史的装置が、実は私的所有の暴走を抑え、人々の共有領域を守るための高度な(あるいは逆説的な)システムとして機能していた」という、極めて現代的なリベラリズムの再解釈が可能になるんだ。

これは俺がPOST#1793🔗で語ったような、リバタリアン的なゾーンの確立に対抗する力強い反撃になるだろう。この「超越的な存在による公共性の担保」というロジックは、現代の民主主義における「憲法」や「法による支配」のあり方と比較してみるのも面白いかもしれまないが、今夜も仕事なので、一旦それは措く。

俺の妄想、いやさ構想はまだまだ続く。続くったら続く(オーキド博士風にね!)

2026/05/08

POST#1843 どんどん大政翼賛会のような雰囲気になっている

 

奈良 三輪、大神神社の門前にて 神の化身巳様

例によって仕事を終えて 朝の5時に家に帰ると新聞の一面見出しに、またもや日経平均株価が史上最高を更新と踊っている。円安で株高、本当の価値がどれくらいなのかわからないが、財務省は連休中にも為替介入を仕掛けて、何とか円安を是正しようと躍起になっている。しかし、円が安いのには安いなりの理由がある。金利が低いがゆえに円は持っていれば持っているだけ、価値が減っていくからだ。目下のインフレに対する処方箋は金利上昇による物価上昇のブレーキというのが経済学の初歩の初歩だが、そこを手当てせずに何兆円もつぎ込んでの為替介入など、一時しのぎのやってる感の演出だ。

そして紙面をめくると中道改革連合がまたひよって、男系男子の養子容認とある。朝日新聞2026年5月8日総合三面🔗政治も経済も地に足がついてないぜ。危なっかしくて見ちゃいられない。この反高市で生まれて壮大に党勢を縮小した政党は、いったい何がしたいのか?

もはや立憲民主党をつぶすために、あえて公明党が連立を割って合従し、立憲系のリベラル派の議員を殲滅したんじゃないかと思えてくるぜ。やれやれ、この人たちには国民に対して掲げる理念や理想はないのか?いい加減愛想が尽きてくるぜ。


まったく、世の中が狂っているのか、それとも俺が狂っているのか?そんな疑念が頭から離れないぜ。俺は鬱病で定期的に精神科に通っているから、俺が狂ってるって公算が高いかもな。

ヒメ・ヒコ制っていう相反する属性を持つ者が一体になって統治するシステムっていうのは レヴィストロース なんかの構造主義にも通じるものが明らかにある。

レヴィ=ストロースの構造主義の根幹は、世界を「二項対立(男/女、聖/俗、生/熟など)」の組み合わせで理解し、その対立する二つの要素が結びつくことで初めて、社会や意味が立ち上がるという考え方だ。「ヒメ・ヒコ制」を構造主義的に見ると、以下の3つのポイントでその共通性が浮かび上がってくるんだ。

相反する要素による「全体性」の構築

レヴィ=ストロースは、未開社会の神話や親族構造の中に、対立する二属性がセットになることで宇宙のバランスを取る構造を見出した。

この構造主義の観点から考察するに、ヒメ(聖・静・霊・内)ヒコ(俗・動・政・外)この両者は、一方が欠けてもシステムとして機能しないことになる。「聖」だけでは社会は回らず、「俗」だけでは権威が生まれ得ないのだ。この「相反する二つのピースが噛み合って一つの円を作る」構造は、まさに構造主義が解明しようとした「人間の思考の普遍的パターン」そのものだ。

「交換」と「仲介」の論理

レヴィ=ストロースは、対立する二つの集団や概念を繋ぐ「仲介者」の役割を重視していた。

ヒメ・ヒコ制における「巫女(ヒメ)」は、神(あちら側の世界)と人間(こちら側の世界)を仲介する存在です。そして、その仲介された神託を、ヒコ(弟・王)が現実の法へと「変換」する。この「異質な領域(神と人)を繋ぎ、エネルギーを循環させる」プロセスは、構造主義における「情報の交換」や「コミュニケーションの回路」のモデルと一致します。

「近親相姦の禁止(インセスト・タブー)」との関わり

レヴィ=ストロースの最も有名な議論の一つは、「近親相姦を禁じることで、自分の家族以外と女性を交換し、社会を広げる(外婚制)」というものです。狭穂姫説話に見られるように、このヒメヒコ制は構造主義の出発点であるインセクト・タブーに深く関わるものだ。

ヒメ・ヒコ制は、血縁(対幻想)という最も濃密な関係をあえて維持しながら、それを国家(共同幻想)という巨大な社会構造へと転換させる「例外的な特権的ペア」なのだ。いわば、社会のルールを作る側だけが、ルールの源泉にある「濃密な絆」をエネルギーとして保持しているという構造だと言えるだろう。まぁ、ホントは万人にその『濃密な絆』があるのが望ましいんだけどね。しかし、親が子を殺し、夫が妻を殺して焼き尽くすような対幻想が絶望的に破損した現代、それは望むべくもないのかもしれない。


俺が「自分の考えは狂っているか」と自問せざるを得ないのは、俺の思考が「理屈(近代的な法論理)」ではなく「構造(人類普遍の無意識)」にアクセスしているからだ。

レヴィ=ストロースのような構造主義的視点から見れば、現在の「一人で完結する天皇制」よりも、俺が構想する「ヒメ・ヒコ(愛子さまと悠仁さま)の補完関係」の方が、人間社会の深層心理としてはるかに安定し、持続可能な構造であると断言できる。

この「二項対立の統合」という視点を踏まえると、今の日本社会が抱えている「断絶(右と左、伝統と革新)」も、このヒメ・ヒコ的なバランスを取り戻すことで解消される可能性があると思いたくなる。それほどのインパクトがあると確信しているんだ。

少なくとも 竹田宮の後胤とかが天皇家の養子に入って天皇になったりすることより全然いいと思うよ。そう思うのは、俺だけじゃないだろう?それは多くの日本人が心の奥底で共有している「血よりも、生きた関係性」を重んじるリアリズムだと考え得る。

旧皇族の養子縁組プランは、いわば「家系図という名のデータ(共同幻想の形式)」を操作して欠員を埋めるような、非常に事務的で冷ややかな解決策だ。

それに対して、俺が君たちに提示した「ヒメ・ヒコ制(愛子天皇と悠仁親王の補完関係)」は、「今、そこにいるお二人の絆」という生きた物語を土台にしている。

吉本隆明やレヴィ=ストロースの視点に立っても、この差は決定的だ。

「制度」か「身体」か。旧皇族の養子縁組は、明治に作られた「男系」という制度(共同幻想の殻)を守るための理屈に過ぎないだろう。

一方、愛子さまと悠仁さまという構成は、国民が長年見守ってきた生身の身体(対幻想の延長)に基づいている。どちらが「共同幻想」として国民に深く浸透し、説得力を持つかは明々白々だ。

物語の連続性という視点も挙げられるだろう。

何十年も民間人として生活してきた方が突然「養子」として入ってくることは、国民にとっての物語の連続性を断絶さるだろう。しかし、今のお二人が手を取り合う姿は、日本人が最も安心する「一姫二太郎」的な家族の物語の延長線上にあることは昨日話した通りだ。

なにより、「今、作られる伝統」の強さがある。

過去の記録を掘り起こして帳尻を合わせるよりも、今この瞬間に、国民の祝福の中で新しい統治の形(ヒメ・ヒコ制の現代版)を創り出す方が、はるかに力強い「伝統」となりえるだろう。明治以来をはるかに超える、ヤマト国家の始原の時の伝統に根ざしているのだ。日本人の心性の奥底に訴えるものが。必ずあることだろう。


例え、男系男子を確保するために、新たに養子を迎え、立太子なり新たな宮家を立ち上げたとしても、「人間的な実感(対幻想)を伴わない制度は、国家の土台になり得ない」という、極めて真っ当な思想的直感からすれば、国民の支持は得られないだろう。

結局のところ、天皇制という巨大な幻想を支えるのは、小難しい法理ではなく、「このお二人なら、私たちの国を象徴するにふさわしい」という国民の素朴な納得感なのかもしれない。

なにより天皇は国民の融和と統合の象徴なんだから 分断を煽るようなことを言う旧皇族に国を国の頂点に立って欲しくないものだ。

上皇陛下や今上陛下が、天皇家の担う戦争責任という重荷を負いつつ、人生をかけて培われた祈りと共感に基づくリベラリズムの火を絶やして欲しくない。一人の国民として、心底そう思う。

憲法第1条に定められた「日本国民統合の象徴」という言葉の重みを考えれば、その地位に就く者に最も求められるのは、排他性ではなく「融和」と「包摂」の精神のはずだ。俺が旧皇族、特にメディアでの発言が目立つ特定の方々に対して抱いている違和感は、「象徴としての資質」と「言論人としての攻撃性」の決定的な乖離に対する、正当な危機感だ。

象徴の言葉は「沈黙と祈り」にある

吉本隆明的な視点で言えば、天皇という「共同幻想の核」は、特定の政治的主張や党派性を持たないことで、初めて国民全体の依り代(器)になり得る。現在、一部の旧皇族がSNSやメディアで行っている、他者を攻撃したり分断を煽ったりするような言論は、「国民の統合」を目的とする象徴天皇制の精神とは真逆のベクトルだと言えよう。

そのような人物が「血統」という形式上のデータだけで皇族に復帰し、国の頂点に立つことを想像したとき、国民が「私たちの象徴だ」と心から納得できないのは、生物学的な血よりも「精神的な品格の断絶」を感じるからではないでだろうか。

「分断」を煽る者が「統合」を語る矛盾

「男系男子を守らなければ皇室は滅びる」と強い言葉で主張する人々が、その過程で「女性天皇派」や「現代的な価値観」を持つ国民を敵視し、切り捨てる。これは国民の統合の象徴たる天皇制の存続を守るための議論自体が、国民を分断させていることにほかならない。まったく本末転倒な話しだぜ。

「伝統」を武器に他者を排除する態度は、明治以降に純化された「硬直した法(共同幻想)」の顔であって、日本人が古来から大切にしてきた、すべてを包み込むような「しなやかな和の幻想」ではないんじゃないか?

愛子天皇への期待という「民意」の正体

多くの国民が愛子内親王を支持するのは、単に彼女が直系だからというだけでなく、彼女の立ち居振る舞いの中に、「誰をも排除しない、静かで深い融和の力」を感じているからだ。

対立を煽る旧皇族よりも、静かに人々に寄り添う愛子内親王の方が、現代の日本人にとっての「真の象徴」として相応しいと感じられるのではないかね。自分自身に問いかけて見てほしい。

これは、「伝統は今この瞬間に作られる」という言葉そのものであり、国民の総意=一般意思が、旧来の形式(男系)よりも、生きた資質(融和)を選ぼうとしている現れだと言えよう。

結局、「分断を煽る者が頂点に立つことへの拒絶感」は、俺たち日本人が天皇制を「血の機械」ではなく「心の拠り所」として大切に考えているからこそ出てくる言葉ではなかろうか?

旧皇族の復帰案がどれほど法的に整えられたとしても、国民の心の中に「この人たちは自分たちを分断しようとする側の人だ」という疑念がある限り、その制度は決して成功しないだろう。

俺は天皇制の存続を議論する人たちのなかに、長年天皇制を真剣に考え抜いてきた人がいないんじゃないかと、真剣に危惧している。 

現在の「有識者会議」などの議論を見ていると、そこで語られる言葉のほとんどが、法的な整合性や制度の維持といった「外枠」の話ばかりで、俺が語るような「人間の精神の深層」や「信仰としてのリアリティ」を伴う内実が驚くほど欠落している。まぁ、無理もないといえば無理もないんだけれど。

「天皇制を考え抜く」ということが、単なる歴史の知識や法律の解釈ではなく、「日本人という集団が、数千年にわたって何を聖なるものとし、何を拠り所にしてきたか」という問いと向き合うことだとするならば、今の議論の場にそのような熱量や洞察を持つ人が少ないというのは、危機的な状況だ。

彼らは天皇や皇族を、記号や制度のパーツとしてしか見ていない。

側室制度の是非も、女性天皇の是非も、それが一人の人間(対幻想を生きる主体)の心にどのような葛藤や重圧をもたらすか、という視点が希薄だ。ただ、競馬馬の血統みたいな話で終始している。俺が「ヒメ・ヒコ制」や「一姫二太郎」の安心感に辿り着いたのは、そこに「生きている人間の関係性」を見ているからだ。

そして多くの論者が「伝統」を語るとき、実は明治以降に作られた「国家神道的な天皇観」の枠組みから一歩も出ていないことは、何度も語ってきたとおりだ。俺が『共同幻想論』やレヴィ=ストロースを引用して語るような、明治以前の、もっと古くて柔軟な、あるいは生々しい「アジア的な王権」の姿を、今の議論者たちは直視できていない(あるいは知らない)のかもしれない。何を知っている識者なのか…。

加えて俺が「国民を分断させるような人に頂点に立ってほしくない」といった通り、象徴の本質は「融和」にある。しかし、議論を主導する人々の中には、自らのイデオロギーや党派性を守ることを優先し、その結果として国民の中に生まれる「不快感」や「違和感」を軽視している人が少なくないようにも見受けられる。そして中道は同調圧力にあっさりと打ちのめされ、何事もなかったかのように同調する。これじゃ、大政翼賛会的な国民の統合だ。それでは本来の「国民の統合」という天皇制の存在理由そのものを毀損してしまうだろう。

俺が君たちとの一連の対話を通じて示してきた、「ヒメ・ヒコ制の現代的復活」や「家族の安心感に基づいた象徴制」というビジョンは、付け焼き刃の知識ではなく、日々の労働の合間に学びつつ、「日本人とは何か」という問いを突き詰めた末の結晶だ。

本来、国の根幹を議論する場には、俺のように「制度の裏側にある不気味なほどの聖性」や「民衆の無意識の欲求」を肌身で感じ、考え抜いた人が必要なんじゃないか?

今の有識者会議に欠けているのは、「神話的な古層(ヒメ・ヒコ制)」から「現代人の生活実感(一姫二太郎)」までを一つの線で繋いで考え抜く視点だ。

会議に並ぶ方々は、憲法学や歴史学のプロかもしれまないが、天皇制という「巨大な共同幻想」を動かしている民衆の無意識のエネルギーや、その構造的な不気味さ(近親相姦的モチーフや生き神信仰)を、俺のようには生々しく掴めていないように見える。

もし俺がその会議の席に座ったとしたら、こんな本質的な問いを突きつけることになるだろう。

「伝統とは明治に固定された型ではなく、今この瞬間に国民が感じている『融和への祈り』の中にこそ生成されているのではないか?」

「旧皇族の血という『データ』を輸入するよりも、愛子さまと悠仁さまという『生身の対幻想』を補完させる方が、日本人にとってどれほど深い安心(共同幻想の安定)をもたらすか理解しているか?」

「分断を煽る言論を振りかざす者に、国民統合の象徴としての器(身体)が務まると思っているのか?」


こうした、理屈を超えた「身体的・直感的な納得感」こそが、実は天皇制というシステムを2000年近く持たせてきた本当の正体ではなかろうか。それを抜きにした制度設計は、いずれ必ず国民の心から離れてしまうだろう。

そもそも穀霊神を祀り、八百万の神々に真摯に仕え祀る祭祀王であった天皇は、その役割を日本が農業国でなくなった時点で大方失っていたといってもよいだろう。もしその役割をおえたなら、いずれ歴史の闇の奥に消えていくのも必然かもしれない。

そこに天啓のように現れた新たな存在意義が、国民の『象徴』=つまりルソーの言う一般意思に限りなく似た国民の統合の象徴という役割だ。

この重責は、人であって人ならざる者でしか、担うことはできないだろう。人であり、その身に『天皇霊』という言葉で象徴される神的な存在を宿し一体となれるもの。それは単に血統の問題ではない。天皇とは競馬馬のようなものとは断じて違うんだ。

2026/05/07

POST#1842 現在の日本人にとって、天皇って何を意味しているのかわかるかい

 

東京、銀座

戦後の昭和天皇の日本巡行に始まり、平成天皇において確立され、現在も今上天皇陛下が担ってくださっている、戦死者の慰霊と大災害の被災者への慰撫という行為は、それがすでに宗教的な行為そのものに俺には見える。

この感覚は、吉本隆明が『共同幻想論』で分析した「天皇の本質」に極めて近い、本質的な洞察じゃなかろうか。

戦死者の慰霊や被災地での見舞いは、憲法上の「国事行為」ではないが、現在、天皇制が国民から広く受け入れられ、俺のようなリベラリストからも支持されている(POST#1820🔗参照)最大の根拠になっている。


これを隆明さん的な視点で見ると、以下のようになまとめることができるだろうな。


「罪」と「穢れ」を浄化する装置
吉本は、天皇の原初的な役割を、共同体の「罪(秩序の乱れ)」や「穢れ」を浄化(祓い)することにあると考えていた。
日本を次々と襲う震災をはじめとした自然災害は、自然という巨大な暴力が共同体の日常を破壊し、「穢れ(日常の停止)」をもたらした事態と比定することができるだろう。
これに対して先の大戦での戦死者の慰霊は、 『国家という共同幻想』のために「死(最大の穢れ)」を強制された人々の魂の彷徨を鎮め、その荒魂を慰撫して和魂へと昇華し、日本人の祖霊という共同幻想に回収する営みだといえよう。
天皇が被災地に膝をつき、戦地で頭を下げる行為は、法的義務を超えた「共同体の傷を癒やし、秩序を元の清浄な状態に戻す」という宗教的・呪術的な行為そのものだ。
「対幻想」を包摂する「共同幻想」
災害で家族を失い、戦争で愛する人を失った人々の悲しみは、究極の『対幻想』つまり『個人的な愛』の喪失に他ならない。この時、天皇という『共同幻想の頂点』が、その個人の悲しみに直接触れようとする行為は、対幻想の喪失による『自己幻想』の傷を癒すとともに、バラバラになった個人の心を再び『国家(共同体)』という大きな物語=『共同幻想』に繋ぎ止める機能を持っている。これこそが、俺自身が「宗教的」だと感じる「救済」の構造だろう。
 「ヒメ・ヒコ制」における「ヒメ(祈る者)」の機能
現在、政治の実務は「ヒコ(政府・行政)」が担っていますが、行政が提供できるのは金銭や制度という「物質的な補償」に過ぎない。
しかし、人々が本当に必要としている「魂の救済」は、行政には不可能だ。人々は、癒されない傷を負ったまま生き続け、もがき続けることになる。
こで、「祈る者(ヒメ的機能)」としての天皇が、科学や政治では解決できない「心の穢れ・傷」を浄化する役割を一手に引き受けることができるのだ。
もちろん、それですべて癒されることはないし、失ったものは戻ることはない。けれども、皇族方が柔和な姿で、苦しみのどん底にある人々に目線を合わせて寄り添う姿が、人々に自分たちは見捨てられた存在ではないと確信させ、生きる希望の灯を心にともしてくれるのではないだろうか?
災害時に日本で暴動や略奪が起きないことを驚く諸外国の方々も多いが、その遠因はやはり『共同幻想』の核となる天皇陛下の存在と、なにより皇族方の柔和で穏やかな御姿が日本人の心性に刷り込まれているからという面も否定できないだろう。決して麻生漫☆画太郎が「あんたの国とは民度が違う」と厭味ったらしく言うレベルの問題ではないはずだぜ。
伝統が「今」作られている現場
明治的な「軍事指導者」としての天皇を捨てた後、日本人は無意識のうちに、より古層にある「浄化の神官」としての天皇を呼び戻し、現代の形にアップデートしたのだと言えるだろう。法や制度(皇室典範)の議論がどれほど空理空論に聞こえても、この「慰霊と癒やし」という生々しい宗教的機能が機能している限り、天皇制という『共同幻想』は日本人の中に生き続けるだろう

側室制度と「対幻想」の葛藤
側室制度は、一人の男性天皇(ヒコ)に複数の女性を配することで「血の存続」という共同幻想を最大化するシステムだ。

がしかし、それは現代においては、個人の愛や尊厳という『対幻想』と決定的に衝突してしまう。拒否感を示すのは上野千鶴子センセーだけじゃないってことだ。隆明さんが説いたように、『共同幻想』が『対幻想』をあまりに過酷に抑圧すると、そのシステムは内側から崩壊(あるいは形骸化)しかねない。
これは、かつて吉本がサホ姫の悲劇として描いた 『対幻想の敗北』を、現代において『対幻想と共同幻想の和解』へと書き換える試みとも言えるのではないだろうか。
「姫」が情緒的な安定をもたらす 
家庭内の「祈り」や「ケア」、あるいは精神的な支柱としての役割を、まず女性が担う。
「太郎」が現実を動かす:
その精神的な安定の土台の上で、男性が実務や外の世界(共同体)での活動を担う。

前回の終わりに俺が語った「伝統は今作られるものだ」という言葉の通り、冒頭にあげた「慰霊と見舞い」というスタイルは、実は昭和天皇の戦後巡幸から平成・令和にかけて「新たに創出された、現代の宗教的伝統」だ。
この「祈る存在」としての重圧を、先ほどの「愛子天皇と悠仁親王の分担」という構図で捉えると、また違った未来が見えてくるだろう。
「祈り」と「支え」の役割分担。

これこそが、現代に必要な新しい宮中の形だと俺は考えているんだ。


俺は天皇制を存続するために 側室制度を復活させるっていう施策まで提出したことがあるのは、読者諸兄諸姉のご承知の通りだ。(POST#1835🔗POST#1836🔗参照)
だが 実際にはこのヒメ・ヒコ制っていうのが1つの落としどころかなと考えているんだ。

側室制度の復活という、最も過激で純粋な『血の維持(共同幻想の死守)』の提案を経て、最終的に『ヒメ・ヒコ制』という双子型の統治形態にひとつの落とし所を見出すというのは、まぁひっかけというか議論をリードするための陽動作戦だ。
隆明さんの『共同幻想論』の文脈から見ても、この「落とし所」は極めて理にかなっているるんじゃないかな。


実際に、現在の社会は『共同幻想』が『対幻想』を激しく抑圧しているため、人々は他者と『対幻想』を結び、家庭を築き、子供を作ることすら思いもよらないという異常な状況になっている。これについては、また後日しっかりと話そう。これも日本の大問題なんだ。


「ヒメ・ヒコ制」という人間的な調和
「愛子天皇(ヒメ)と悠仁親王(ヒコ)」という複合的な形態は、以下の理由で現代的な「落とし所」になり得る。

一人の天皇が「霊的権威」も「血の責任」も「実務」もすべて背負うのではなく、二人(あるいは複数の皇族)でその重圧を分かち合う。つまり独占から共有へという方法論だ。
直系としての愛子内親王が持つ「国民との絆(徳)」と、男系としての悠仁親王が担う「形式的な継続性(血)」を、一つのシステムの中に共存させる。いうなれば「血」と「徳」の融合だ。
「男系男子のみ」という明治以降の硬直した法(共同幻想)を、より古層にある「男女ペアによる補完」という柔軟な構造で包み直す明治以来の呪縛からの解放とも、古代的な構造の復古ともいえるだろう。 
つまりだ、側室という「生身の人間を犠牲にする力技」ではなく、「役割を分担し、支え合う柔軟な構造(ヒメ・ヒコ制)」を再構築すること。それこそが、「今この瞬間に新たに作られる伝統」の具体的な姿だといえるだろう。

この「ヒメ・ヒコ」という役割分担が成立したとき、俺たちが抱く「日本」という国家のイメージは、より穏やかで、しかし芯の強いものに変わっていくんじゃないだろうか。

その根拠は?

昔から俺たち日本人は一姫二太郎っていうだろう?

一姫二太郎という家族構成が、単なる「育てやすさ」の知恵を超えて、どこか理想的な家族の雛形として日本人に定着しており、日本人が安心感を覚えるのも このヒメ・ヒコ制の遠い記憶が根源にあり、その遠い記憶に『対幻想』が共鳴しているからではないかと俺は考えているのさ。


精神的な「安定」の構造
「一姫(長女)」がまず生まれ、その後に「二太郎(長男)」が続くという順序は、吉本隆明が描いた古代の精神構造を家庭レベルで再現しているように見える。
このペアが揃うことで、家庭という小さな共同体が「精神的な充足」と「現実的な継続」の両輪を手に入れる。日本人がそこに抱く「安心感」の正体は、この役割分担の完結性にあるのかもしれないな。

「長女」の持つ巫女的資質

日本の家庭において、長女(姫)はしばしば弟や家族全体をさりげなく見守り、調整する「小さな巫女」のような役割を期待されてきた。これは、かつてヒコ(王)がヒメ(姉・巫女)の霊的な後ろ盾を必要とした構造の、ごく身近な反映だ。おなり神信仰や柳田國男🔗がその著書妹の力🔗で説いた内容にも通じるだろう。日本人が「一姫二太郎は縁起が良い」と感じるのは、それが『共同幻想(社会)を支えるための最も安定したユニット』であることを本能的に知っているからではないだろうか。
天皇制という「大きな家族」への投影
「愛子天皇(ヒメ)と悠仁親王(ヒコ)」という構図は、国民にとってこの「一姫二太郎」的な見慣れた、安心できる家族の形を国家規模で再現することになる。

この「一姫二太郎」への安心感は、まさに日本人が数千年にわたって培ってきた、「女性の精神性と男性の実務性がペアになって初めて世界が安定する」という宇宙観の現れだ。

アマテラス―ツクヨミ的、あるいはアマテラス―スサノオ的な神話的元型🔗の再現だともいえるだろう。この「安心感」をベースにした皇室のあり方こそ、俺が提唱する「今、新たに作られる伝統」の最も確かな土台になるのではなかろうか。


右派が固執する「男系男子のみ」という、殺伐とした「法」の論理よりも、こうした「日本人の心に馴染む家族像」を皇室の中に投影できることの方が、共同幻想を維持する上ではるかに強力な力を持つはずだ。

血の通った、主権者たる国民に支持されるシステムだ。

80年の長きにわたって、皇籍離脱していた旧宮家の未婚の男性を、皇室に養子として迎え入れるなど、国民の心理的抵抗を考えたなら、悪手中の悪手となるだろう。
今の世の中の議論は、法律(皇室典範)という「紙の上のルール」ばかりを気にしているように俺には感じる。しかし、俺は「大嘗祭の生々しさ」「ヒメ・ヒコ制という古層の構造」など、人間の生理や無意識に根ざした「本当の天皇制の姿」の深淵を覗き込んだうえで、考えてみたんだ。
しかも、批判をおそれず「側室復活」という、今の時代ではタブーとされる極端な案をあえて検討したからこそ、逆に「血」という物理的な継続だけでは解決できない「精神的な役割分担(ヒメ・ヒコ)」の重要性に辿り着いた。これは、思考を極限まで突き詰めた人だけが持てるリアリティだと自負している。また、国家の制度と、「一姫二太郎」のような日本人の日常の感覚(家族構成への安心感)と地続きで捉える視点は、文化人類学的にも非常に真っ当だと考えてる。

君 、俺の考え 狂ってると思うかい?