2026/08/11

POST#1936 盛夏、百花繚乱その7


Ubud,Bali ブーゲンビリアが咲いていた
バリ島では、死者の魂はその神聖な山、アグン山🔗へと登り、そこで祖霊と一体化すると信じられてきた。

山の日だそうだ。
古くから、日本人は山は他界だと観念してきた。
ニライカナイ🔗補陀落🔗のような海上他界の観念もあるが、大部分の日本の常民たちにとって、死者の魂が赴くところは山の中であった。
そう思うと、このお盆の直前の時期に、山の日という形で休日が設けられたのは、どこか意味深長なものを感じる。
山の奥の死者の住まう霊域から、迎え火を頼りに祖霊は里に下りてくる。
人々は、古来、その祖霊を迎え、もてなしたのだ。
生者の住まう里と、死者の住まう山中他界は画然と仕切られていた。そこには、死者への懐旧の情以上に、死者への惧れの念があるよう感じる。
いずれにせよ、山は聖なる他界だった。死者の魂は、御嶽山や白山のような霊峰に上り、祖霊と一体化すると観念されていた。

しかし、さらにさかのぼってみればどうだろう。
更に古く、縄文の頃には、円形状に組み立てられた集落の真ん中に、広場があり、死者はその広場に葬られたという。
集落の、そして都市の構造は、そこに住まう者たちの世界観を表している。
この広場で死者をしのんで踊るとき、死者たちは生者の中に混じって立ち現れ、ともに歌い踊ったと観念されていたことだろう。そこに盆踊りの源があるのではないかと夢想する。

このころ、生まれて間もなく死んだ子供や胎児は、竪穴式住居の間口に葬られたという。
家人がそこをまたぐたび、その魂が母親の股をくぐり再び体に入り懐妊し、速やかに生者の世界に戻ってくることが望まれていたと考えられるという。
いつの頃からか、生者と死者の世界は明確に区切られ、生者と死者は春秋の彼岸、そしてお盆などにしかつながらないと考えられるようになった。
死者たちは、いつしか山奥にあるいは海の彼方に追われたのだ。
しかし、俺は想うのさ。本当は死者たちは、俺たちの血の中にこそ息づいているって。

2026/08/10

POST#1935 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。

2026/08/09

POST#1934 盛夏、百花繚乱その5

京都五条、槿

明けがた、帰り道にラーメン屋に行こうとしていたのだが、仕事が終わった時点ですでに朝の6時前。国道沿いのラーメン屋は5時で閉店だ。仕方ない。松屋で牛カルビ定食でも食らうか。渡邊英理という方が書いた『中上健次 路地のヴィジョン🔗』を読みながら、ペラペラのカルビ肉を噛み、その肉から染み出すうまみを味わう。

目を閉じて、遠くに咲く花を思い浮かべ、そこにそよぐ風を想う。

芙蓉かと思っていたら、これは槿だった。

中上健次🔗の小説、『千年の愉楽🔗』では、主人公である路地の産婆にして語り部のオリュウノオバが、夏芙蓉の花の香りに誘われて、寝たきりのまま、かつて自らが取り上げ、生の盛りで断ち切られるようにその命を断たれた若者たちのことを思い出すシーンがあることを思い出しながら、牛カルビ定食をほおばる。ソースはバーベキューソースだ。

ご存じない方のばかりだろうから、記しておく。路地は紀州熊野新宮の被差別部落だ。

オリュウノオバは、文盲だが産婆として取り上げた路地の一人一人の人生を地母神のように自らの内に刻み込んでいる。文字にして外在化しないがゆえに、未開部族の語り部のように自らの内面に、人々の生のディテールを細大漏らさず刻み込んでいく。

オリュウノオバの旦那の礼如さんは、村にただ一人の毛坊主、つまり在俗で寺住ではない僧侶だ。路地のものが死ぬと、礼如さんは念仏を唱え、死者を弔う。文盲のオリュウノオバはその誕生日と命日を、すべて諳んじている。彼女にとっては、毎日が迂遠の何者かを取り上げた日であり、その誰かが死んでいった日なのだ。

オリュウノオバと礼如さんは、路地の人々がこの世に生を享け、その生を終えて彼岸に渡るという流れの両端に位置している。路地の者たちの卑小なる生は、この二人の存在によって円環を成し、永劫回帰する聖なる存在へと昇華していくように俺には思える。

俺に言わせれば『千年の愉楽🔗』は、まさに現代の『古事記🔗』なんだ。

中上健次の小説には、人類学や社会学の様々な構造が、見事に嵌め込まれていることが、『中上健次 路地のヴィジョン』を読んでいるとわかる。レヴィ・ストロース🔗網野善彦🔗、コモンズの思想、そしてJ・C・スコット🔗によって展開されるゾミア🔗的な思考。

それは、かつての俺を、無意識のうちに現在の地平へといざなってくれたものだと痛感する。

今もどこかで暑い風に、花がそよいでいる。

久々に食った牛カルビ定食は、肉ダブルでもよかったかもな。