2026/04/13

POST#1808 本当に自由な人間とは、互いに迷惑をかけあえる人間なんじゃないか?

 

タイ、バンコク

今夜から新しい現場が始まるんで、あれもこれもやっておかなけりゃと気が気じゃないんだが、可燃ごみ捨て、掃除洗濯、便所と風呂の配水管の掃除、おまけに終わった現場の図面のシュレッダーに印刷していな図面の印刷、請求書を作成して送り、帳簿に記載とあれもこれもやっておかないと落ち着かない。生きるってことは地を這うような泥臭さだ。

さて、そんな気が狂いそうなせわしなさの中でも俺はやるぞ。

たとえこの先、国家がなくても、闇市のようにして生き抜く時代がやってくる可能性がないとは言い切れない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、実際に世界にはそんな地域はごまんとある。それを見て見ぬふりするのはとんだ脳内お花畑だ。それがもし、80年ほど前の日本のように、再び日本を襲ったならば、その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれない。

「国家」という虚構が剥がれ落ちた後の、「闇市的サバイバル」。これこそが、明治以来のプロイセンモデルや戦後の対米従属という「借り物の服」を脱ぎ捨てた、日本人の剥き出しの生命力が試される場なんだ。人間の地力が試される。

かつて日本全国を歩き回り、人々の生活を記録し続けた宮本常一🔗が出会ったような、過酷な自然や理不尽な権力の中でもしぶとく知恵を出し合って生き抜いた日本の「常民」の姿が、現代の廃墟の中に再現されるかもしれない。

そこは法理より実利、理念より生存が優先される世界だ。

国家のシステムが機能不全に陥ったとき、人々は誰に頼ることもできず、自分の頭で考え、自分の手足で食い扶持を稼ぎ、信頼できる仲間と「闇のネットワーク」を築くしかなくなるだろう。君には信頼できる仲間はいるか?地縁、血縁、生業のつながり、そういったリアルな人間関係こそが人間を生かすんだ。迷惑かけたくないとかきれいごと言ってる場合じゃない。人間はそもそも、お互いに迷惑をかけあわないと生きていけない生き物なんだ。誰かに迷惑をかけて助けてもらったら、今度は誰かの迷惑を引き受けて生きるんだ。

債権も国家の信用によって流通していた紙幣も、単なるトークンつまり代用貨幣🔗になってしまうだろう。本当に信用できる資本は、手が二本、足が二本で四本=資本主義だ。

そのリアルで泥臭い『贈与』と『反対給付』によって、事なかれ主義の日本人は『一個の自立した人間』へと鍛造されるんだ。この泥臭いプロセスを経て生き残った人々こそが、甘えや依存を削ぎ落とされた、真に「自分の足で立つ」強靭な日本人になるだろう。

自律した自由な人間てのは、まったく逆説的だけれど、自分の限界を知っていて、他人の力を借り、他人に力を貸せる人間のことを言うんだ。この逆説的なところは大切なことだから、よく吟味して腑に落ちてほしい。

孤立した人間は、自由どころか野垂れ死んでしまうだけだ。良くて誰かの奴隷にされて家畜のようにこき使われる。

自由というのは、一人で成し遂げられるものではないんだ。

こうして相互に依存し協力し合うことによって、新しい共同体の萌芽が生じるだろう。

闇市という混沌の中から、再び「天皇」という古層の権威=オーソリティを紐帯とした、寛容でインクルーシブな「新しい寄り合い」が自然発生的に立ち上がってくることを俺は願っている。

このままアメリカに盲従していくなら、間違いなく日本国は詰んでしまうだろう。

一度「おしまい」を迎え、国家という重石が消えた更地で、雑草のようにしぶとく根を張る日本人。その時、俺たちは初めて、明治以来のプロパガンダではない「本当の自分たち」に出会えるのかもしれない。

この「闇市」から始まる新しい日本の姿を、俺自身がどの程度の時間軸(数年、あるいは数十年)で、形を成すと見ているかといえば、何世代もあと、きっと俺の死んだ後になるだろう。けれど、俺が死んだとて、この世からバカが一匹減っただけ。

我亡き後に新しい日本が芽吹くことを願っている。

 その過程はひょっとしたら現在のソマリランド🔗みたいなプロセスがあり得るかもしれない。

崩壊した本体(ソマリア)を見捨て、国際社会の承認すら得られない孤立無援の状態から、地元の長老会議(伝統的権威)を基盤に自力で治安と経済を築き上げた「ボトムアップの独立」。

日本が「おしまい」を迎えた後、私たちが辿るべきはまさにあのプロセスかもしれないぜお。興味がある向きは早稲田大学探検部出身のノンフィクション作家高野秀行🔗の傑作『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家分プントランドと戦国南部ソマリア🔗』をお読みになるとよいでしょうな。

そこには日本がお花畑のように見えてくる北斗の拳のような、三国志のような世界がある。

伝統的権威の活用

ソマリランドが部族の長老たちを統合の核としたように、日本は「天皇」という古層のオーソリティを、国家システムではなく共同体の紐帯として再起動させることができるだろう。

実利に基づく自治

中央政府(プロイセンモデルの残骸)が機能しない中、闇市的な経済ネットワークと、宮本常一が描いたような「寄り合い」の知恵で、自分たちの食い扶持と安全を自分たちで守る。うん、地縁血縁と町内会が入り混じったような自治組織だ。

しかし、そんな社会で核兵器が残っていたらこれまた危なっかしくて仕方ないな(笑)。

「承認」より「生存」

アメリカや中国、国際社会にどう見られるか(承認)を後回しにし、まずは「自分たちの足で立つ(生存)」という実態を積み上げる。

国家という虚構=共同幻想が崩壊した後、残された人々が「日本人とは何者か」を身をもって問い続け、数十年かけてじわじわと形を成していく。

それは「核武装した永世中立」というハードウェアと、「寛容なインクルージョン」というソフトウェアが、現場のリアリズムから鍛造されるプロセスだ。

その「ソマリランド化した日本」において、私たちはかつての「豊かな経済大国」という幻想を、完全に捨て去る覚悟が必要になるだろう。

 というか、ユーチューブで日本すごい!動画ばかり見ていると気が付かないかもしれないが、わが国は世界最先端の『衰退途上国』だ!吸いたいじゃないぜ。衰退だ!とっくに経済大国じゃないという認識がない時点で俺たちはアウトなんだ!

にもかかわらずアメリカには関税だ、巨額の投資だ、時代遅れの防衛装備購入だといいようにたかられている。そのうち、ジャンプしてみろ、まだ小銭がちゃらちゃら言ってるだろうといわれるに違いないぜ。 

「まだ日本は経済大国だ」という幻想にしがみついていること自体が、現状を正確に見る目を曇らせ、手遅れにさせている最大の要因だ。

2026年現在、数字を見れば現実は残酷極まる。

GDPの転落: ドイツに抜かれ、インドに抜かれるのを待つばかりの転落。

購買力の喪失: 「安い日本」として世界から買い叩かれ、資源も人材も流出。

技術の空洞化: かつての「技術立国」の遺産を食いつぶし、独自性を失った模倣と中抜き。

「かつての栄光」という麻薬を打ち続け、オリンピックだ万博だ、リニアだと過去のロールモデルをなぞっている間に、アメリカには骨までしゃぶられ、足元からはシロアリのような既得権益に食い荒らされている。

この「死に至る病」に気づかないふりをしていることこそが、日本というシステムの自己崩壊を早めているんだ。

「経済大国」という看板が物理的に叩き割られ、闇市のような極限状態に追い込まれて初めて、日本人は「自分たちは何も持っていない」というゼロ地点に立てる。

そのどん底で、「天皇」という古層の権威と、「核」という非情なリアリズム、そして「宮本常一的」なしぶとい生活の知恵を、バラバラになった廃材の中から拾い集めて組み直していく。レヴィストロースが、その著書『野性の思考🔗』の中で描いた有り合わせのもので何とかするという、ブリコラージュ🔗社会だ。

ソマリランドのような「承認なき自立」を歩むとき、私たちは「豊かな国」というプライドを捨てた代わりに自立と自由を手にすることになるだろう。

しかし、人は自由の過酷よりも奴隷の安逸を喜ぶんだ。いつだって。

なぜって人間にとって「自由」は、自分で判断し、全責任を負わなければならないという耐えがたい「孤独」と「不安」を伴うものだからだ。自己責任だといって、ネットで弱者を部ったくような自己責任とはレベルが違う。そんな時に、弱者を自己責任だと突き放し、唾を吐きかけていた手合いが、どんな顔をするか、楽しみだ。それを見るためだけでも長生きしたくなるってもんだ。

多くの日本人は、アメリカに骨までしゃぶられ、ゆでガニのように緩慢な死に向かっていても、なお「誰かが決めてくれたレール」の上で奴隷の安逸を貪ることを選ぶんだろうな。

その方が、自分の頭で考える苦痛より楽だからだ。

しかし、システムが完全に自己崩壊し、その「安逸」という麻薬が物理的に供給されなくなった時、俺たち日本人は選択の余地なく自由という荒野に放り出されることになるだろう。

自立の代償は高くつく。 守ってくれる「主(アメリカ)」も、配給をくれる「官僚機構」もいない。自分たち自身で力を合わせていかないと一日たりとも生きられない。

そして自由とは過酷なものだと思い知ることになる。闇市で食い扶持を探し、天皇という古層の権威を紐帯に、核という呪い(抑止力)を背負って生き抜く。

その過酷な自由の中でこそ、宮本常一が歩いた時代のような、あるいはソマリランドの長老たちが体現しているような、「剥き出しの人間としての尊厳」が、皮肉にも日本人に再搭載されることを夢想する俺だ。

「安逸な奴隷」として滅びるか、「過酷な自由」の中でしぶとく再生するか。君はどう生きる?

2026/04/12

POST#1807 キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養をゲットしろ!

タイ、チェンマイ

さてと、日曜日だというのに夜勤明けに眠って目が覚めたらもう日は傾いていた。セッティング・サン🔗だな。 ガソリンを入れてシェービングジェルを買い、本屋にふらりと入ったら、ウィトゲンシュタイン🔗哲学探究🔗を衝動買いしてしまった。キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養と暇つぶしのネタが手に入る。素晴らしいこった(笑)

さて、閑話休題

日本の核武装に関しては統計社会学による預言者として名高いエマニュエル・トッドも長年提唱している。俺も最初に読んだときには面食らったが、よくよく吟味してみたら家族システムをもとにした社会分析に定評があるトッドの提言、いささか日本びいきのきらいはあるものの、まったく荒唐無稽なこととは思えなかった。

国論を二分するとかおっしゃるのなら、これくらいのことをぶち上げないとね。高額医療費補助を削減するとかじゃなくてさ。まったく、この国の政治はレベルが低いぜ。 

トッドの提言を「日本びいきの学者の独り言」と片付けられないのは、彼が「家族システム(直系家族)」という、その国の深層にあるOSから国家の行動原理を読み解いているからだ。

トッドが日本に核武装を勧めるロジックは、まさに「対米従属」の打破と直結している。

まずアメリカという「保護者」からの卒業だ。

トッドに言わせれば、核を持たない国は、核を持つ国(アメリカ)に対して「精神的な子ども(被保護者)」の地位に甘んじることになる。マッカーサーも日本人を精神年齢12歳と言っていたしな。アメリカは日本を子ども扱いしているんだ。自立した大人(主権国家)として対等に渡り合うには、核という「自前の盾」が不可欠だというリアリズムだ。

そしてこれは米中対立の「緩衝材」となりうる。

日本が独自の核抑止力を持つことで、今や世界最悪最強の『ならず者国家』と化したアメリカに引きずり込まれるリスクを減らし、中国に対しても「手出しをさせない」という永世中立的な立ち位置を確保できるという計算だわな。

それに加えてトッドの十八番、直系家族の強靭さだ。

ドイツや日本のような「直系家族(長男が継ぎ、規律を重んじる)」システムを持つ国は、一度方向が決まれば驚異的な団結力と技術力を発揮する。大政翼賛会やナチスドイツの全体主義を見てみればお分かりでしょう。トッドは、その潜在能力が「核」という裏付けを得たとき、真の自律が達成されると見ているのだろうな。

俺が妄想する「天皇制をツールとしたインクルーシブな国家」という構想に、トッド的な「核による主権回復」を組み合わせると、「精神的な古層(天皇)」と「物理的な最終兵器(核)」が、外敵を遮断し、内側の自由を守る二重の城壁になる。ファイヤーウォールだ。

しかし、トッドも指摘するように、最大の問題は「日本人がそれを望むか」だな。

生活の困窮が極限に達したとき、日本人はトッドが期待するような「直系家族的な底力」を発揮して、この劇薬を飲み干すことができるでだろうか?

俺が思うに、その前に「システムの自己崩壊」の方が早く訪れてしまうだろう。そうなったらおしまいだ。

「おしまい」という言葉に込められた、俺の底抜けの諦念と、ある種の解放感が入り混じった感覚を感じてほしいものだ。

日々を懸命に生きる人々の泥臭い生活の現場も、柳田國男が夢見た常民の安寧も、そしてトッドが期待した直系家族の底力も、それらが「真の独立」の足がかかりとして結集する前に、「対米従属」という寄生構造そのものが日本を食いつぶし、システムが内側から自壊する。それが、俺の目に見えている最も精度の高い未来図だ。

現に、アメリカに言われるままに増額を決めた防衛費をひねり出すために、国民の福祉は削り取られている。こどもが砂場で興じる棒倒しのように、いつ日本という社会システムの崩壊がやってくるのか、まさに黒ひげ危機一髪だ。

米国債を売る決断も、核を持つ覚悟も、天皇リベラリズムという大博打も。それら「劇薬」を打つ体力すら残っていないほど、今の日本は中身が空洞化してしまっているのだ。

システムが自己崩壊し、あらゆる「偽りの安心」が剥ぎ取られた焼け跡のような更地。そこに至って初めて、残された人々が「日本人とは何者か」を問い、自分の足で立ち上がるしかなくなるわけだ。

けれど、国家なんかなくても俺たち人間は生きている。 

国家がなくても、闇市のようにして生き抜く。その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれないぞ。実際に戦後すぐのころは、そんなもんだったろう。

その時に頼れるものは、自分自身の四肢と人と人とのつながりだ。紙切れと化した円や債券ががいくらあっても、北斗の拳のような世界は生き抜けないぜ。どうだい?

2026/04/11

POST#1806 「わたしたち日本人とは何者か」を考え続けてきた

 

熊野本宮大社

俺は自民党員でも何でもないけれど、長い間、日本人とは何者で、どこからきて、どこへゆくのかを考えてきた。そこから日本人の普遍性と独自性、寛容性と未来性が明らかになるはずだと確信していたんだ。

「わたしたち日本人とは何者か」という問いを、単なる歴史の授業ではなく、生存を懸けた「国民的対話」へと引き上げる。これこそが、戦後日本がひた隠しにしてきた「空虚」を埋め、自立への熱量を生む唯一の道だ。

そう、俺や君、そこのおじさん、あそこのお姉さん一人一人の、よって来たるところは何処で、私たちは何者なんだってことだ。

柳田國男が歩いた道や、網野善彦が見出した「海民」の自由なネットワークを辿り直せば、日本人の本質は「単一民族の閉鎖的な集団」ではなく、「外来の知恵や人々を飲み込み、独自の形に昇華し続けてきたダイナミズム」にあると気づくはずだ。

俺は日本人とは何かを掘り下げることで「普遍性」という岩板に到達し、再発見したように考えてる。日本人の「和」や「察し」を、内向きの同調圧力ではなく、「異質な他者と共に生きるための高度なプロトコル」として定義し直すんだ。これは、対立が激化する世界において、極めて普遍的な価値になりえるはずだ。

そして「独自性」の武器化だ。生き神様信仰を基層に持つ天皇という「古層の権威」を維持しつつ、「最先端技術」を生み出す。構造人類学のパイオニアクロード・レヴィストロース🔗をして、アマゾンの奥地に暮らす人々とも通じる神話構造を保持しながら、世界でもまれな発展を遂げた驚嘆すべき国がこの日本だ。この極端な古さと新しさの同居こそが日本の独自性であり、米中いずれにも似ていない「第三の極」としての説得力になり得るだろう。

そして、このアンビバレンツな独自性が「寛容性と未来性」への昇華する。

「私たちはどこから来たか」を問えば、私たちは海を渡ってきた多様な血の混ざり合いであることに突き当たる。柳田國男は海上の道🔗で、日本人は南島から島伝いに黒潮に乗ってやってきたと考えた。その考え自体は現在ではおおむね否認されているが、俺自身はインドネシアや台湾、ベトナムやタイに赴いた際に、日本の習俗と非常によく似たものをたくさん目にした。人類の古層でつながった普遍的なものがつながっているという確信を抱いたんだ。様々な地域からこの列島に流れ着いた人々が、それぞれの地域にクニを作り、それを政治的に連合もしくは併合して現在の日本という国の形が出来上がった。

そんな馬鹿なと思う向きは不勉強の至りだ。一例を挙げれば、福井県敦賀は古くは大陸から一族を連れて移住してきたツヌガアラシトの名に由来する地名だ。ツヌガアラシト=角がある人、つまり角型の装飾がついて兜をかぶった戦闘的な朝鮮半島由来の民族だ。

また、各地に伝わる異形の仮面来訪神をつぶさに見てみれば日本の周縁地にはその記憶がまだ残っていることが察せられる。石川直樹🔗の『まれびと🔗』という写真集をみてみれば、その残滓が消え去りつつある最後の姿を掬い取ることができるだろう。

それらのルーツを認めれば、現代の難民や移民を「マレビト(福をもたらす客人)」として迎え入れることは、日本にとって「本来の姿(未来性)」への回帰になり得るはずだ。

同時にこの「自分たちの正体」を突き止めるプロセスは、アメリカに与えられた「戦後」という仮面を剥ぎ取る作業でもある。

固有の日本人という確固たるイメージを弊履のごとく脱ぎ捨て、どん欲に他者を包摂し同化していくアメーバーのような不定系の日本人。その姿を認識することは、杉田水脈センセーのような認識をお持ちの多くの日本人にとっては痛みは伴うだろうが、その先にこそ、核武装をも辞さない「物理的な強さ」と、多文化を包摂する「精神的な広さ」を両立させた、新しい日本が立ち現れるのだろう。

「国民的な問い直し」を始めるにあたって、まずは義務教育の現場や公共放送のあり方を、根本から作り変えることから着手すべきだろうか?

それとも、もっと非公式でゲリラ的な「知の運動」から広がるべきだろうか?

 俺自身は、国民の自発的な知の運動から始めないといけないと考えてる。だいたい学校の勉強なんて、みんな真面目に受けないやつが大半だし、まじめに受けてるやつも受験が終わればあっさりと忘却してしまう。そんな付刃では堅固な共同幻想と統治システムを揺るがすことはできない。

自らが世界のことを、自分たちのことを知りたいという問いを立て学ぶことこそが、本当に社会を静かに揺るがし変えてゆく力を持つんだ。それはコスパとかタイパとかとは対極にある地道な営みだ。

そもそも今の学校教育や放送などの既存のシステム自体が「対米従属」と「現状維持」のOSで動いている以上、その内側から変革を求めるのは矛盾しているだろう。

まずはシステムの外側で、ゲリラ的な「知の運動」を巻き起こし、既存の枠組みを揺さぶる「問い」を突きつけることが先決なんだ。

柳田國男や網野善彦らがかつて在野の視点から「日本」を再定義したように、アカデミズムやメディアのフィルターを通さない、剥き出しの「日本人とは何者か」という探求。

それが生活の困窮という現実と結びついたとき、既存のシステムが提供する「偽りの安心」を凌駕する、強靭な共同幻想(ヴィジョン)へと育っていくはずだ。

容易く同調圧力に流されず、自分の問いに対する楽しみのために「自分の頭で考え、自分の足で立つ」個人たちが、ネットや地域コミュニティ、あるいは独自のネットワークを通じて、この「新・日本改造」のロードマップを共有し、静かに、しかし確実にシステムを侵食していく。

その「知の連鎖」こそが、この風通しの悪い世の中を少しづつ変えていく。

他と違っても、同調しなくても、自分はここにいてもいいんだという安心感。

その「知の運動」に基づいた自由な自己認知は、俺たち日本人の固定観念を揺るがせ、俺たちをもっと自由な存在にしてくれるはずだ。

何度も繰り返して語ってきたように、俺たちが「伝統」だと思い込んでいるものの多くは、明治期に国民国家を急造するためにプロイセン(ドイツ)をお手本にして捏造された「創られた伝統」というプロバガンダに過ぎないことを国民の皆様に知ってもらいたい。

この「明治モデル」のプロパガンダを剥ぎ取ることこそ、知の運動の最優先課題だ。

1. 「万世一系」の硬直化からの解放

明治政府は天皇を「統帥権を持つ絶対的君主」としてプロイセン流に定義しましたが、それは本来の日本が持っていた、もっと柔軟で祭祀的な、あるいは網野善彦が指摘したような「自由の象徴」としての天皇像を歪めてしまった。

また国策として廃仏毀釈を推し進めてしまったことで、仏教的な世界思想との接点を日本の天皇制は失ってしまった。生々しい密教的な生命観と古来の神観念が融合したいかがわしさが明治期までの日本には確かにあった。

2. 「単一民族・農本主義」という虚構

「日本人は稲作を行う単一民族である」という物語も、徴兵制や納税を管理しやすくするための管理モデルです。実際には海を越えてやってきた多様な「漂泊の民」や「海民」がダイナミズムを作ってきた事実が意図的に隠されている。なぜなら、一所不定の「漂泊の民」や「海人」やサンカ(山窩)🔗などの「山人」は収税と管理の対象としては非常に手ごわいからだ。柳田國男も明治天皇の葬儀の際に、山の端より立ち上る煙を見て、サンカが弔いの煙を上げていると思った旨のことをどこかに記していたように思う。

3. プロパガンダを壊す「知の爆弾」

俺は日本に生きる皆さんにこんなことを知ってほしい。もちろん知ったところで、腹が膨れることはないし、目の前の苦しみから解放されることもないかもしれないが、心に少しは自由な風が吹く隙間が生まれるはずだ。

まずは、「かつての日本はもっと雑多で、もっと自由だった」ということだ。

 明治以前の日本には、もっと自由で豊潤で過酷な世界があった。そして決してそれを美化するわけでも称賛するわけでもないが、公権力が及ばない「公界(くがい)」という自由空間や「無縁」という土地や地域共同体から切り離され、自分の技量一つで生きてゆく道もあったことを記しておこう。

そして今や「明治モデルは賞味期限切れ」だということだ。

今から150年前に確立された中央集権・富国強兵のプロイセンモデルは、戦後の対米従属構造にも形を変えて引き継がれているわけだが、もはや現代の多極化世界では機能しない「古いOS」であることを。

この「明治以来の偽りの歴史観」を解体したとき、初めて「象徴天皇」という装置をリベラルな「インクルージョンの核」として、きわめて現代的なツールに転換できるはずだ。