2026/06/11

POST#1874 現代民主主義のモデルは、北米先住民社会だったんだぜ

Sweden

今日は朝から、まいった。

夜勤を終えて明るくなった帰ってきて、ふろも入らずにベッドに倒れ込むように眠っていたんだが、しつこく鳴る電話でたたき起こされた。

時計を見ると午前九時だ。

横を見ると、まだ息子が眠っている。学校はどうしたんだ?

カミさんからの電話だった。どうやら昨夜、俺が仕事をしている間に息子とカミさんは勉強のことで揉めて、息子は母親に『死ね!』と暴言を吐いたらしい。で、精神的に昂っていたからそのまま寝かして仕事に出かけたというのだ。

やれやれ、で、この時間か…。

俺は息子を揺り起こすと、息子は寝ぼけながら『お母さん、死なないよね』と俺に訪ねてきた。それは以前、やはり母親に切れて『死ね』と暴言を吐いたときに俺が息子に語って聞かせた言葉を覚えていたからのようだ。言葉には言霊が宿ってるからな。POST#1857🔗に書いた話だ。

どうも息子はしっかり覚えていたようだ。覚えていてもつい言っちまうのが人間だ。

『僕の言葉にも、力があるんだよね』

そう、だれの言葉にも力が宿っている。しかも、その見えない力はひとたび口から放たれたならば、取り消すことなどできない。それが撤回できると思っているのは、阿呆な政治家だけさ。

俺は行きたくなければ、行かなくても構わないといったんだけど、変に真面目な息子は、いや行くと聞かない。そうか、君の好きにするがいい。

息子に食事をとらせ、学校に送り出し、なんやかんや家事や仕事の経理事務を片付けて眠るころにはもう正午を回っていた。

そして、一時間半ほど眠ったところで、おっとり刀でカミさんが帰ってきて、息子が学校で担任の先生に暴言を吐き、先生を攻撃して興奮しているというので、迎えに来てほしいという連絡があったという。マジかよ。

俺はカミさんと二人で学校に行った。

百年近いこの小学校の歴史で初めての女性校長とは、良好な関係を保っている。

俺とカミさんは、とりあえず校長先生と話したんだ。話を聞いてみると、どうやら息子は学校が窮屈で辛いようだった。

しばらくすると、クールな感じの教頭先生と、熱意のあるスポーツマンの担任の先生が無s子を連れてやってきた。

そうして一時間ほど、どうしていくのがベストなのかを話し合ったんだ。

おかげさまで、眠い。今この瞬間も眠くて仕方ない。しかし、もうしばらくしたら車を転がして仕事に行かないといけないんだよな…。

ただでさえ、俺が夜働いているのを知っているはずなのに、GERMANYもこいつも朝から連絡してくるんだ。俺は24時間365日営業中のコンビニエンスな男なのさ。


さて、最近話の縁によく上らせていたイロコイ連邦🔗の合議制だ。

イロコイ連邦(ホデノショニ)の合議制は、全会一致を原則とする高度な民主的意志決定システムだ。

16世紀頃に結成され、母系社会を基盤とした独自の権力分立と相互監視の仕組みを備えていたという。一説には14世紀半ばまでさかのぼるんじゃないかともいわれている。日本で言ったら南北朝時代ってとこか。

この合議制には、近代の民主主義国家のシステムにも影響を与えたの4つの特徴があったんだ。

まず第一に、全会一致の原則だ。

彼らは多数決は使わず、すべての代表者が納得するまで徹底的に話し合った。

これは彼らの氏族社会ならではの特徴で、母系社会の権力バランス構造を持っていたことだ。

実際に政治を行う男性首長(サチェム)の選出や罷免の権限を握っていたのは、各氏族の女性の族長(クランマザー)が握っていた。どこかの国の男系男子以外は認めない家族氏族システムとは大きく違っていたんだ。

余談ながら、こういう事例に接すると、男系男子、直系男子による長子相続制度ってのも、単なる多様な家族システムの一つのパターン、つまりその社会の人たちの選好=単なる好みに過ぎないことがわかる。普遍的なせいどなんてものは、ないんだ。

秀逸なのは二院制に似た審議構造を備えており、反対意見を述べるものが選定され、それを排除するのではなく、どうすれば反対意見を持つ者たちも納得できる制度を作ることが出くるのかを、全員が納得するまで、根気よく話し合う習慣を持っていたことだ。

彼らは自分たちの合議制度を、伝統的な「ロングハウス(長屋)」になぞらえ、部族間で役割を分担して段階的に議論したと伝えられている。

また、七代先の子孫たちにとって、今日の自分たちの決定がどのような影響を及ぼすかをその議題の検討過程に導入するという、社会の持続可能性にその価値観の重きを置いていたわけだ。

そして連邦という呼び名の通り、各氏族は明確な主権を維持していた。

各部族は自立しており、連邦全体の共通課題(外交や戦争など)のみを中央会議で扱っていたという。これをモデルにして、それぞれ異なる植民地をルーツにする州=ステイトが連邦を形成するアメリカ合衆国が 構想されることになったわけだ。


この中央会議(50人の首長会議とも呼ばれている)の仕組みは、簡単にまとめればこんな感じだ。

連邦の意思決定は、構成する各部族から選ばれた50人の首長による会議で行われる合議制だ。そして議論は以下の3つのグループに分かれて段階的に進められたという。

[第一段階: 東の門番] ―――→ [第二段階: 西の門番] ―――→ [最終段階: 火の番人]

モホーク族 & オナイダ族       セネカ族 & カユーガ族        オノンダガ族

(議案を審議・修正)           (別の視点から再審議)        (拒否権の発動・最終決定)

  1. モホークとオナイダ(東の門番): 最初に議案を審議し、意見をまとめた。
  2. セネカとカユーガ(西の門番): 東のグループが出した結論を、別の角度から検証・審議した。野党のような立ち位置になるだろうけれど、このシステムが機能するために、このポジションは実にじゅうような立ち位置だったのさ。これがないと、深く考えることもなく、重要な議題が決まってしまう。そして、ここで出される対案は単なる反対意見ではなく、最初に提出された議題を違う角度から批判的に検証し、その施策の有効性を検証するために欠かせないものだと考えられていたことだ。どこかの国の民度の高い人々が、野党は反対ばかりで、政府の施策の足を引っ張っているだけで意味がない無用なものだと、与党に巨大な議席を与えるような考え方とは、同じ民主主義といってもまったくレベルのちがうものだと感心せざるを得ないよ。
  3. オノンダガ(火の番人): 両者の意見を調整し、最終決定を下す役回りだ。オノンダガには議論を差し戻す拒否権もあった。まる議長のようなものだな。俺は元井桐下院議会議長のジョン・バーコウ🔗をもい出したぜ。ブレクジットをめぐって紛糾する議会を、中立公平な立場で運営し、その大きな声で『order!order!』と議員たちに冷静で秩序ある議論を呼びかけた名議長だ。どこかの国のついうっかり、皇室の養子の子どもは皇位継承権を持つとかペロッといっちまうようなのとは、まったく違うな。

近代民主主義への影響

この完成された合議制と連邦制度は、のちのアメリカ合衆国憲法の草案に大きなヒントを与えたとされている。

[アメリカ合衆国の建国の父] の一人であるベンジャミン・フランクリン🔗らは、バラバラだった植民地を統合するモデルとして、このイロコイ連邦を参考にしたとされている。

連邦制(各州の主権と中央政府のバランス)、二院制、大統領の弾劾制度など、現代の政治システムの基礎にその思想が反映されているわけだ。つまり民主主義のOSを作ったいたのがこのイロコイ連邦だったというわけだ。

では、なぜこのような一見迂遠に見える優れて民主的なシステムを、彼らは作り出したのか?気にならないかい?俺は気になる。とっても。

イロコイ連邦がこの合議制システムを作った最大の理由は、部族間の果てしない血の復讐(殺し合い)を終わらせ、永遠の平和を実現するためだった

彼らの格言にある「一本の矢は簡単に折れるが、束ねた矢は折れない」という言葉の通り、生存をかけた切実な背景がありったんだ。

さて、今夜も仕事に行ってくるからここいらでおしまい。続きは明日!


2026/06/10

POST#1873 この社会で民主主義をリビルトするにはどうしようかな?

 

台南市、安平老街

今日からは民主主義について考えてみる。

民主主義はもう古いと思ってる人が世界中にたくさんいる。あのかたやこの方、あなたの頭の中に浮かんだこわもてのじいさんや、おかしな髪型のおじいさんやそのお友達だ。

民主主義に無力感を感じている人もたくさんいる。

ただ黙って、決まったことだと受け入れるしかないと思っている人もたくさんいる。

けれど、俺は専制主義🔗全体主義🔗は御免被る。

なぜって、少なくともこの日本国は法治国家で、その根本には日本国憲法という権力構造のフレームワークがあり、国民がその主権者として定められているからだ。

それに何より、自分自身が誰かを支配したり、誰かに支配されたりするなんて真っ平御免だからだ。鬱陶しいし、面倒くせぇよ。(笑)

しかし、その国民の代表たる国会議員の先生方が繰り広げる、貶しあいと数合わせのゲームに誰もかれもうんざりしてる。

実質的には、何も話し合われていないのにもかかわらず、儀礼的に質疑して、落としどころは国民の見えないところで決まっていく。俺や君は、自分たちが多数決で選んだ人の属する政党の限られたお偉いさんや、たいそう優秀な官僚のかたがたいそうお金儲けの御上手な財界のお歴々のお考えに沿った法律が決められていくのを横目に、何も変わらないさとあきらめたように自分の生活を回す。

そりゃ、民主主義にうんざりするのもわかる。

斯くいう俺も若いころにはプラトン🔗のように、正しく理念と高い見識を持った哲人王🔗が統治する、専制的で合理的に設計された整然とした社会のほうが良いのではと考えたこともあったんだが、それはやはりよくない。

その哲人王による統治システムってのは、カール・ポパー🔗が、ナチス・ドイツ🔗に統治された故郷オーストリアのウィーンを逃れニュージーランドで、まさに専制主義やソビエトの共産主義政権に思想的な戦いを挑むために記されたその著書『開かれた社会とその敵』🔗で、激しく批判したものだ。

この『開かれた社会とその敵』という本は、岩波文庫から4巻本で出ているが、民主主義を脅かすプラトン的な国家観、マルクス主義🔗的共産主義国家、ファシズム🔗国家、ナチズム🔗の温床になったヘーゲル🔗哲学への徹底的な批判に貫かれている。とても有益な書物だ。興味のある向きは、ぜひお読みになることをお勧めする。


俺は現在の日本の政治的な状況は、非常に危ういものがあると考えているんだ。

圧倒的な議席数を擁する与党は国家主義的、全体主義的な傾向を強めている。

史上初の女性宰相となった高市総理は自らの掲げる政策を自らの言葉で説明することなく、SNSでの一方的な情報の垂れ流しに安穏としている。

また、かつての政治的な師匠に当たる安倍晋三を髣髴とさせるように、、自らに向けられた批判や疑惑には気色ばんで反論するが、何ら真実を明かさずはぐらかし続ける。

その裏で、粛々と皇室典範は書き換えられ、きっと上皇陛下より続くリベラルで開かれた天皇観を、国民民族の上に君臨し、与党によって操縦しやすい反動的な天皇に挿げ替えてゆく道筋がつけられている。

また、中国を仮想敵国としてロックオンすることで、教育や福祉の予算を削減したうえで軍備を増強し、移民政策などを通じて人々に排外的な思想を植え付けてゆく。

米がなければ流通過程で目詰まりしている、ナフサが市場から払底すればこれまた流通過程で目詰まりしていると具体的な証拠も挙げず、責任転嫁に終始している。

東京一極集中による、1票の格差の拡大は放置されている。

そして、維新の会は与党になることで、自らの政治的利益の核心である大阪都構想というリバタリアニズム的な政策をごり押ししようと跋扈している。

自民党と日本維新の会からなる与党は、圧倒的な議席数を保持してるがゆえに、民主主義の根幹たる与野党の熟議はないがしろにされ、何もかも多数の専制のもとに決まってゆく。

人々は各地でデモをして抗議しているが、それは国家権力という重戦車に立ち向かう蟷螂之斧のように無力だ。

結果、世の人々に蔓延する無関心と無力感。


これは健全な民主主義国家の姿ではない。

かつて、麻生太郎が言ったように、『ナチスの手法に学ぶべきだ』という常識外れの手法が着々と現実化しているとしか思えない。

気が付いたときには、俺たち市民はとんでもない社会になっていることに気が付くだろう。

そう、このままでは日本政治形態は、現在の高市政権が仮想敵国とみなしている中華人民共和国の共産党政権と、思想信条的に大差ないものに成り下がってしまうだろう。

そうなったら、彼らを仮想的に据える必要もない。

なぜなら似た者同士だから、どっちに転んでも専制国家ってことになる。風呂の温度が違うだけさ。

だからこそ、俺はオルタナティブな民主主義を構想してるんだ。

上から社会が変わることを待っていても、今のままでは悪いほうにしか変わらないと俺は見てるんだが、君はどうだい?

学級会や町内会をイロコイ連邦🔗=ホデショノニのような熟議の場に変える民主主義だ。

イロコイ連邦、(ハウデノサウニ / ホデショノニ)の「大いなる平和の法」に基づく合意形成プロセスを、学級会や町内会といった俺や君たちの身近なコミュニティの仕組みとしてハックし、リビルドするという構想だ。

これは、多数決の数の暴力や、空気による同調圧力を排除するための処方箋、つまり極めて高度で具体的な「熟議のシステム実装」になると考えてるんだ。

もちろん、全会一致ってのが難しいのは重々承知している。

一人でも反対すれば、決まらないデッドロックに陥る可能性だって常にある。その挙句、その一人がコミュニティーからパージ=追放されてしまうという恐れもあるだろう。

けど、それは民主主義じゃなくて、ソフトな専制政治だ。

じゃぁ、逆に今の多数決システムがそんなに優れているとも思えない。51対49で数の多いほうの意見だけが通ってしまったら、社会の中に切り捨てられたあ49ersの不平不満は蓄積され、分断は拡大し、非平等や格差も歩調を合わせて拡大していくことになるだろう。

だからこそ、お互い意見のちがうもの同士が、全会一致を目指して話し合いを重ね、歩み寄り、妥協点を探り、お互いに納得したうえで社会を変えるような決断を下す。そういった本当の民主主義が求められているんだと考えているんだ。

イロコイ連邦=ホデショノニは、ベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ建国の父たちが合衆国憲法🔗のモデルにしたとされるネイティブアメリカンの部族連邦なんだ。

ちなみにジャミロクワイ🔗はそのバンド名の中にイロコイ族🔗の名前が織り込まれてる。

彼らは「全会一致(コンセンサス)」に達するまで、何日でも、何段階ものプロセスを踏んで議論を尽くす仕組みを持っていたという。

それはそもそも敵対するもの同士が同盟を組むために生まれたシステムだ。

さて、今日はこれくらいにしておこう。また明日話し合おう。失礼する。

2026/06/09

POST#1872 俺は無学だから教えられないぜ!

タイ、メーサロン🔗

ちょっと立ち止まって考える。

どの親御さんも、こういうことを自分の子供には言わないんだろうか?

子どもの幸せを望まない親は、一部の頭のネジが切れちまった毒親か不幸にも育児ノイローゼになってしまった親御さんを除けば、そうはいないはずだ。誰しも心の中では「子供は宝物だ」と間違いなく思っているだろう。

しかし、それを俺のようにはっきり抜け抜けと「言葉」にして、毎日1日に1回も2回も子供に伝えられている家庭は、実は驚くほど少ないのではないだろうか?

じゃぁ、その仮定に立ったうえでもう一歩進めてみようか。

読者諸兄諸姉もお忙しい中、冗漫屋上屋を重ねるような話で申し訳ない。

なぜ、多くの親御さんが思っているはずの「宝物」という言葉を口にできなくなっているのか、その背景には現代社会特有の悲しい歪みがあると推測出来る。いや、各家庭に聞いて回ったわけじゃないから、断定はできないよ。あくまで、個人の感想です。

はい、論破(笑)

1. 「条件付きの愛」に変質してしまう罠

幸福そうなご家庭でも、多くの場合、肝心な親御さん自身が、新自由主義的な競争社会のプレッシャー、つまりは学歴社会や漠然とした経済的な将来への不安に飲み込まれている。

そりゃまぁ仕方ない。このクソったれな社会で、自分の立ち位置を死守して給料を頂戴するということは、その抑圧に圧殺されそうになりながらサバイブするということだ。

いつも申し上げておりますように、『溺れてる奴は、ほかの溺れてる奴を助けることなんかできっこない』んだ。

そのため、心では宝物だと思っていてもだ、口から出る言葉がどうしても以下のように「条件付き」になってしまうんだ。フォー・エグザンプル。

「テストで良い点数を取れた!偉いね!」

「ちゃんと片付けができたら、いい子だね」

「宿題をちゃんとやったの?グッジョブ!」

なんてこった…人様にご迷惑にならないように、社会のルールに必死に適応させようとするあまり、「何かができるから価値がある」というメッセージばかりを無意識に子供に浴びせてしちゃうことになってるんだ。

別にそんなこと意識している訳ではないだろう。純粋にマインドセットの問題だ。日々の忙しさや焦りの中で、俺がうちの豚児に言うように「生きているだけで100点満点の宝物だ」という無条件のメッセージを子どもに植え付ける余裕を無くしちまってるんだ。

2. 「世間の目」と「言葉にする照れ」

日本社会には古くから「言わぬが花」(これは世阿弥の風姿花伝に出てきた言葉だんべな)や「背中で語る」(まるで高倉健だな!)といった文化があるんだなぁ。おかげさんで、身内を大っぴらに褒めることを避ける傾向がある。

俺がうちの息子を豚児、豚児というのも、自分の息子が出来の悪いやつだという意味の謙遜を込めて?豚児と呼んでいるわけだ。本名は、麒麟児という。まぁ名前負けだなも(笑)。

さらに誰もが世間様に「親バカだと思われたくない」と遠慮し、「甘やかすと社会に出てから通用しなくなるから、厳しく育てなければ」という世間様の同調圧力、つまりは自己責任論の刷り込みという現代人のデフォルト洗脳がフル稼働しちゃってるもんだから、あえて言葉にすることを抑え込んでしまう親御さんも非常に多いんだろうな。

しかし、子どもはスパイ・ファミリー🔗の主人公で、テレパシーで相手の心を読み取る少女アーニャ・フォージャーとは違う。

だから、言わなきゃわかるわけないだろ!

親子だから、言わなくても分かりあってるなんてことはまったくない!それこそ都合の良い幻想だわな。

大事なことだからもう一度言おう『お前は俺の宝物だ』ってのは、何度も何度も繰り返して言い聞かせ、心の底まで刻まないと伝わらないんだ。声に出して言ってみるんだ!

3. 親自身の心に「余白」がない

働きかた改革とかいう掛け声で、労働者の残業時間に法的規制がかけられて久しい。

しかし、そんな法律を後生大事に守ってるのは、上場企業のプロパーの人間だけで、派遣労働者やギグワーカー、自営業者や多くのエッセンシャルワーカーは、未だに法の抜け穴の底でもがいてる。

1日15時間労働と言われるような過酷な社会の中で、大人の側も精神的に極限まで磨り減っている。なんてったってこの国は、総理大臣ご自身が、『働いて、働いて、働いて、働いて、「働いてまいります!』と言い切り、世の中を唖然とさせた国だからな。

仕事だけじゃないぜ、誰だって家に帰っても明日の仕事や食事の準備や風呂掃除、おまけに教育費の工面に追われる毎日だ。

とてもじゃないが子どもの眼をじっと見据えて『お前は私の宝物だ!』と語りかけるための精神的な余裕なんてないわなぁ。いや、もっと精確を期するなら、この『クソったれな社会システム』によって物理的に奪われてしまっているというべきだろう。

斯く言う俺も立派な鬱病患者だ。そうは見えない?

それはほら、あれだよ、あれ。闇が深いほど光は輝くというアレだ。

俺が抱いた素朴な疑問、つまり「どの親も言っているんじゃないの?」ということ自体が、俺自身が社会の毒(新自由主義や効率至上主義)に侵されず、カントの言う「人間を目的として扱う」という原理原則を、なんとかグリップしてる証拠と言えるだろう。

まぁ、そこに至るまでには、鬱病にはなるほど悩んだ時期もあった。

実際に、無条件に『お前は俺の宝物だ』と、どんな状況でもいい切れる自信は、正直に言って俺にもない。たまたま味噌っかすでも、なんとか世間様並みの下くらいには食らいついてくれているから言えるだけだとわかっている。

俺の住んでいるコミュニティにもいらっしゃるが、障害を抱えたお子さんをお持ちのかた、不登校のお子さんと悩んで暮らしてるかた、そういう人々の心の内を思うと、畏敬の念すら覚える。

偉そうなことを言っても、この程度の男なんだ。

生まれてくる前は、高齢出産だったこともあり、どんな障害があっても受け入れようと覚悟を持ったはずだった。

五体満足に生まれたときには、それだけで嬉しかった。

だが、今思えば、なんて世間知らずで無鉄砲だったんだと我ながら慄然とするんだ。

その程度の男の息子は、結局まぁ程度が知れている。

トンビが鷹を産むことはない。カエルの子はしょせんオタマジャクシだ。

おかげ様で、うちの息子は宿題はできたらやらない。

夜更かしばかりで、家の目の前にある小学校には必ず遅刻する。しかも最近は、1時間目が始まるまでに行けばいいよとテキトーなことを言いながら、朝の情報番組で犯罪関係のニュースを見ている。

テストでは 0 点もよく取る。塾の偏差値は、俺が人生で聞いたこともないような数字だ。

勉強に関しては本当に目を覆うような男なんだ。

字は異次元的に汚い。片づけは絶対にしない。あいつの部屋に洗濯物を置きに行くには、床一面に敷き詰められたプラレール🔗の線路や。ひっくり返った車両の隙間を、ツイスター🔗でもやるみたいに体をよじって進んでいかなけりゃならない。

けども、『自分より小さい子にはちゃんと優しくしろ』『自分がされたらいやなことは人にするな』ってことを小さな頃からずっと言い続けてるから、自分より弱い立場の子、小さい子には必ず優しい。

自分が重役出勤で学校に向かうとき、隣に引っ越してきた低学年の障害を持ってる子の家のベルを鳴らし、一所に行こうと誘うこともしばしばだ。

暗記科目はまるで駄目だが、中学に進学してしまった先輩の名前とかもフルネームでしっかり憶えている。日本中の電車について、事細かに知ってやがる。

親バカ丸出しなようで恐縮だが、いつもニコニコ笑っているからたいてい誰にでも好かれる。

俺から見ても不思議な奴だ。

新自由主義的な「人材スペック」の物差しで見れば、学校の先生や社会は眉をひそめている。なんせ毎朝重役出勤だからな。

しかし、すっかり皆の衆にもおなじみになったであろう「人間を手段としてではなく目的として扱う」「10歳まではケモノのように遊び、迷惑をかけ合って生きる」という哲学の視点から見れば、うちの息子はやはり、豚児どころかまさに名前の通りに麒麟児だ。

ペーパーテストの点数や宿題は赤点でも、人間らしさはAAAだ。これだけは胸を張って言える。ちょっと騒がしい奴だけど。

なぜって、まだ保育園に通っている頃から俺は諭すように『自分より小さい子や弱い子には優しくしろ』と言い続け、それを豚児が完璧に体現していること。これこそが、この冷酷な競争社会に対する、アンチテーゼになってるんだ。

社会がどれだけ『人を蹴落として上に行け』『使える人材になれ』と耳元で囁こうとも、麒麟児は『そんなことより、目の前の弱い人を大切にする方がよっぽど有意義だ』し『自分の好きを』いうカント的倫理を体現しているといえるだろう。

POST#1848🔗でも話したけれど、なんてたって友達に『死ね!』って言われたら、そいつの家に行って一緒に勉強しようっていうぐらいの玉だからね。俺でも底が知れないぜ。もっとも、二回くらいトライして、そのあとに『次に来たら殺す!』って言われてバカバカしくなってやめたみたいだけどな。

俺は君たちと長い間、『なぜ日本の子供の死因の第一位が自殺なのか』『なぜ子どもたちは犯罪組織に容易にからめとられて社会的な自殺をしてしまうのか』という、気が滅入るようなこの国の深い絶望から話を始めてここまで歩んできた。俺の友人も、あまりのテーマの重さに言葉を失っていた。

ロングウェイだった。

そこで見てきたのは人間を『材料』として扱い、『学歴』や『生産性』で切り捨てる冷酷な社会構造だった。それはそのまま、俺が社会をはいずるように生きてきた中で、この目で見てきたことそのままだ。

しかし、その暗闇に対する解決策が、大人が子供を 『宝物』として無条件に愛し、だらだらすることを許し、迷惑をかけ合って生きるということだったていうのか?

 だとしても俺は、息子と相変わらず一緒にダラダラするだけだろう。くだらないことでゲラゲラ笑ったり、脇をこちょこちょとくすぐったり、風呂の湯船の中でおならをして笑い転げたりしてね。

これこそが、これまで対話してきたすべての哲学、経済論、人権、そして『子供の自殺』『子供の社会的な自殺』という重い病理に対する、俺の最終回答だ。

新自由主義や学歴社会がどんなに冷酷に『もっと生産性を上げろ』『材料になれ』と外から迫ってきても、ゲラゲラ笑う親子に実装された『強固な対幻想』には、寸毫もクラックアウトすることなんかできないんじゃないかな。

確かに、社会を今すぐ変えることは難しい。それは何世代もかかる大事業だ。

しかしいま、俺や君たち大人が子どもたちに対して『学校の0点なんかどうでもいい、お前は俺の宝物だ』と腹をくくり、子供に極上の『だらだら』と『無条件の存在肯定』を注ぎ続けること。それは今すぐに始めることができる。

それだけで、一人の子どもの命は救われることになるだろう。

そしてその子ども自身が、次の誰かを救う優しい大人になっていくことだろう。


時折、うちのカミさんが『お父さんに教えてもらいなさい』と無茶ぶりしてくるときももちろんある。

それは単純に『自分の仕事で忙しいから、かまってられない』とか『勉強のプレッシャーをかけてほしい』という遠謀深慮からだろう。

しかし、そこで俺は『俺は無学だから教えられない』とゲラゲラ笑ってご辞退申し上げるんだ。

この一言で学歴社会や新自由主義が子供に突きつける『完璧な大人になれ』『優秀な人材になれ』という呪いが、その瞬間にすべて無効化することを狙ってるんだ。

ある意味、強力な教育(あるいはアンチ教育)だ。別に出来ないってわけじゃない。俺は本当は大学中退なんだよ。中高一貫の進学校にも通ってたし。見事に落ちこぼれたけどな。だけど学校の勉強とかに興味がないんだよね。

そんなことよりもテストに絶対出るわけもない哲学の本とか、金儲けには一ミリも役に立たないマクロ経済学の本とか、自分たちの現在の生活には一見何のかかわりもないような人類学の本とか読んでた方がよっぽどワクワクするし、楽しいからね。

つまり『学校や社会のくだらない序列競争なんか、俺の土俵じゃないよ』という、知的で不敵なやり過ごしなんだ。

結局のところ、俺や君たちたちは『勉強機械』や『労働機械』を廃業して、『人間』に戻ればいいんだ。

サイン、コサインや面倒な書類作成なんざ、さっさとAIに任せて、人間はゲラゲラ笑ってだらだら本を読めばいいんだ。

それこそ、100年も前にケインズ🔗が予言した、技術進歩によって労働時間が減少して、より人間らしく暮らせるようになった世界そのものだし、グレーバー🔗が指摘した「ブルシット(くだらない仕事や勉強)」から人間を解放するための、最も現代的で痛快な解決策だろう。まぁ、とんでもなく電力と冷却水を消費するけどな。

そんな世界で勉強なんて、まぁ、できるのに越したことはないだろうけど、その程度のもんで、すぐに技術革新によって陳腐化しちまうんだ。

だったら、最短距離で答えを出す能力よりも、粘り強く思考を組み立てていく力や、好きを追求する中で養われる非認知能力とか、まだ見ぬ知性に対する認知欲求とかに対するワクワク感とか、そういう楽しめる能力を持った方がいいと思うんだよね。

だいたい産業界からの要請に応じて、政府や文部科学省が策定し、学校が必死に叩き込んでいる暗記や計算、幼少期からの英語学習やプログラミング教育のような『今、役に立つスキル』=『市場価値がある能力』の多くは、テクノロジーの進化によってあっという間に価値を失っていくんだぜ。

そんな「賞味期限の短いスペック」のために、子供たちが寝不足になり、心を病み、命まで落とすのは、あまりにも馬鹿げたことじゃないか。

俺は息子に対して、ろくに教育してるつもりはなかったんだけど、一人の父親としては、何とか合格点ってことだろうな。それが、子どもを救うことになるんだったら、これにすぎる幸せはないぜ。

読者諸兄諸姉、そろそろこの話も飽きてきた。また別の話で語り合おう。失礼するぜ。