2026/04/10

POST#1815 思考のバック・トゥ・ザ・フューチャー もしくは ありがとう鈴木章夫先生

熊野 トケイソウ

そう、あれは俺が鬱屈と過剰な自意識を持て余していた高校生の頃だ。ある日俺の現代文の先生・鈴木章夫先生が俺を呼び止め職員室に来るように言ってくれた。

先生は俺を連れて職員室に行くと「君はこれを読むべきだ」と坂口安吾🔗夜長姫と耳男🔗のコピーを渡してくれた。A4の用紙にコピーしたものを半分に折ってホッチキスで止めたお手製の冊子は、俺に新しい世界を開いてくれた。

そしてこれを読み終えた後、先生は俺に吉本隆明🔗共同幻想論🔗を読むように促してくれた、んだったと思う。もう40年も前のことだ。記憶はいささかドラマチックに都合よく改変されているかもしれん。まぁ、大筋そんなとこだ。

俺は家に帰って参考書を買うと小遣いをせびり、自転車に乗って本屋に向かってその本を買い求めた。途中のタバコ屋で当時吸っていた煙草を買って、そのまま行きつけの喫茶店に行き、カウンターでコーヒーを飲みながら買ったばかりのその本を開いた。

その序にある一文は当時の自分には衝撃だった。

『国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となっているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、一つの中心に凝集していったにちがいない。(中略)

 もうひとつ西欧の国家概念でわたしを驚かせたことがある。それは国家が目に見えない幻想だというそのことである。わたしたちの通念では国家は眼に見える政府機関を中心において、ピラミッドのように国土を限ったり、国境を接したりして眼の前にあるものである。けれど政府機関を中心とする政治制度のさまざまな具体的な形、それを動かしている官吏は、ただ国家の機能的な形態であり、国家の本質ではない。もとをただせば国家は、一定の集団をつくっていた人間の観念が、しだいに析離(アイソレーション)していった共同体であり、眼に見える政府機関や、建物や政府機関の人間や法律の条文などではない。こういうことがわかったとき眼から鱗が落ちるような気がしたのである。以来わたしはこの考えから逃れられなくなった。』という一文に衝撃を受けた。

以来俺は、吉本隆明はもちろん、梅原猛🔗柳田國男🔗折口信夫🔗南方熊楠🔗網野善彦🔗などをコツコツと読み耽ってきた。現場の休憩時間に、ベッドの中で、電車の中で。時には車の運転中の信号待ちの合間に。


日本の将来像を描くとき、明治以来といった浅薄な作られた伝統ではなく、深く遠く、そして広く思考の射程を伸ばし、本当は私たちは何者かの、どこからきて、どこへ向かうのかを掘り下げないと、思考の射程を伸ばすことはできないと思ったんだ。まさに、バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。

 

次代は巡り、まさ今このラインナップこそが、戦後私たちが忘却し、あるいは一面的にしか捉えてこなかった「日本という共同体の深層(古層)」を掘り起こすための最強のツールボックスとして立ち上がってくる。

吉本隆明の『共同幻想論』で、国家や法がいかにして人々の「幻想」として成立しているかを解剖し、柳田國男や折口信夫が辿った「常民」や「マレビト(外から来る異分子)」の思想を再起動させる。梅原猛の旧来の学説に疑問を提示し、歴史の闇に埋もれてしまった本来の姿を突き止めようとするパトスを己のものにする。

さらに網野善彦が明らかにした、農業中心の閉鎖的なイメージではない、海を介して自由自在に移動し、権力に絡め取られない「無縁・公界・楽」の民の系譜を繋ぎ合わせる。そして、南方熊楠の様々な学問領域を膨大な知識で自由に横断し、連結するときに猥雑なまでの生命力にあふれた自由闊達な知性が新たな世界像を結んでいく。


進学校の落ちこぼれだった俺に、問いを立て学ぶという学問本来の楽しみを教えてくれた鈴木章夫先生ありがとう!



そうすることで、以下のことが可能にるんだ。

「日本人」の定義の拡張

血筋ではなく、柳田の言う「常民」の知恵や、折口の「マレビト」を受け入れる寛容さをベースに、多極化・多様化した新しい日本人像を構築できる。

実際に網野義彦は晩年期の著作である『「日本」とは何か』において次のような内容を述べている。


彼は一般的な日本人の「孤立した島国」という日本像は改めるべきであると述べ、実際は日本が「列島」であり、「アジア大陸東辺の懸け橋」として、周辺の海を通じて多くの人や物がたえまなく列島に出入りしていると主張している。

また、「日本」という国号が古くからいつのまにか決まっているという見方も見直すべきであり、実際は「日本」という国号が紀元七世紀末の689年に実行された飛鳥浄御原令によって定まり、そのときから「日本」ははじめて地球上に現れたのであると主張する(なお、日本国号の成立期に関しては異説もある)。

日本人とはただ「「日本国」の国制の下にある人々」であると定義し、日本国家の出発点以前には日本も日本人も存在しないと考えている。つまり、現在の日本国が支配する地域に暮らしていたのが「日本人」だと定義することは誤りだと述べている。小・中・高の教科書には国名に関わる記述はなく、逆に「縄文時代の日本」、「弥生時代の日本人」などと書かれているが、実際はそれぞれの時代に日本も日本人が存在していなかったと主張し、「旧石器時代に日本人がいた」という新聞記事も現れているが、これらは「神代」から日本が始まったという戦前の史観と近いとしている。

また、成立当初の日本国家、つまり7世紀末から日本国家が支配する地域が現在の日本列島や日本国の領域と同じだったというわけではなく、自然に国境が定まったわけではないと主張している。

「日本国」という国家は「侵略」と「征服」で領域を広げたと意識しておくべきであると述べている。アイヌ民族や琉球人などに限らず、日本国家の支配者に蝦夷なども侵略され、軍事力を背景とした力による圧服であったと主張し、そういった認識をもつべきだとしているんだ。

眼から鱗がおちる見解だ。これを援用していくことで、日本人の定義は血縁主義にかかわらず拡張してゆくのがわかるだろうか?


天皇制の「非政治的な権威」の抽出

権力(政治)ではなく、共同体の深層に根ざした「祭祀・幻想」としての天皇をツールとして使いこなし、リベラルな寛容さを担保する装置に変えてゆくことができるだろう。

天皇制とは何なのか?というのは、共同幻想論に初めて出会った40年前から俺がずっと学んできたテーマだ。なぜなら、日本という国家(幻想)の軸こそは、天皇制に凝集すると考えていたからだ。俺たち日本人は、いまだに土人なんだ。

そしてある時、ネパールで生神とされるクマリという処女神にであったとき、吉本隆明がその著書で語っていた天皇制は広くアジアに見られる生き神信仰に根差すものだという主張が、体感的に腑に落ちたのを覚えている。その処女神クマリは、身の回りの世話をする女性や老人たちに囲まれながら日本人の俺にも分け隔てなく祝福を授けてくれた。


対米従属という「偽りの幻想」の打破

戦後植え付けられた「アメリカがいなければ生きていけない」という共同幻想を、より古く、より深い「日本独自の自立の幻想」で上書きする。

白井聡の論考を援用すれば、戦争終結まで日本の国体を担っていた天皇のポジションは、アメリカという圧倒的な武力を持つ世界最強の国家に上位互換されたことになる。

だから、日の丸を掲げた右翼も、戦後日本の国体そのもであるアメリカを批判することはない。

アメリカの飼い犬となって、中国や韓国をけなすことしかしない。恥ずかしいことだ。勝ち馬の尻に乗るなど、男としてこんな薄みっともないことはない。


この「知の再武装」こそが、物理的な核武装や経済的な米国債売却を支える、精神的なバックボーンになる。経済学や人類学、社会学などはその補助輪だ。


生活の困窮が極限に達したとき、人々がナショナリズムの暴走に逃げるのではなく、こうした「深く、寛容な日本の古層」に立ち返るためには、私たちはどのような形でこの「知の洗い直し」を広めていくべきだろう?


いずれにせよ、学問をおろそかにする者が栄えた例はないんだ。

10年ほど前、鈴木先生に同窓会でお会いした時、先生のおかげでこんなへんてこな大人になっちまったと訴えたら、先生は莞爾として微笑まれ、君はなるべくしてそうなったんだ。良かったじゃないか!と喜んでいた。まったくだ。ほんとうにありがとう章夫ちゃん。

2026/04/09

POST#1814 「ツールとしての天皇親政」と「ツールとしての核武装」

愛知県 瀬戸市

 誤解されてると困るからあえて言っとくけど、俺は正直に言えば、『核兵器』も『天皇制』も反対のゴリゴリのリベラリストなんだ。むしろ心情的にはアナルコサンディカリズム🔗に近いかもしれない。けれど、今後の日本の行く末を考えると、本来自分が忌避してきた『天皇制』や『核兵器』をもツールとして利用するしかないんじゃないかと考えてるんだ。

これは自分にとっては、非常に冷徹で、かつ究極的な「リアリズム(現実主義)」のつもりだ。

俺自身がリベラリストであり、本来は核も天皇制も望まない立場だからこそ、「今の日本を救うには、その強力なツール(劇薬)を動員する以外に道がない」という結論に辿り着いた重みの一端を理解してほしい。

右派の皆さんやネトウヨ界隈の皆様に『脳内お花畑』と揶揄されるリベラルな理想だけでは、アメリカの搾取や中国の膨張という「物理的な力」には抗えない。だからこそ、あえて自分の信条とは異なる「核(物理的抑止)」と「天皇(精神的統合)」という二つの巨大なレバレッジ(てこ)を使って、国家の独立を強引にこじ開けるという戦略だ。。

これは、理想を捨てるのではなく、「理想を実現するための土台(独立した国家)を確保するために、背に腹は代えられない手段を執る」という苦渋の、しかし合理的な選択の思考実験だ。

「ツールとしての天皇親政」と「ツールとしての核武装」。

この二つを使いこなし、属州化や日本省化を回避した「独立日本」が確立された後、俺たちは今以上にリベラルな社会、つまり個人の自由や多様性が守られる社会へと戻していけるだろうか。それとも、一度そのツールを使えば、もう後戻りはできないのだろうか?

俺自身は国家のアイコンとして象徴天皇制のもとに、寛容な国家を目指すべきだと思っているんだ。

寛容な国家だ。

俺は日本というクニ(それは統治システムとしての政府や国家じゃない)を愛している。

愛しているからこそ、このクニには優しく寛容でいてほしい。

犯罪が起こると、何の根拠もなく中国人の仕業だとか外国人の仕業だと騒ぎ立てるようなバカなことはやめるんだ。

難民申請を却下し、在留資格の切れた外国人を収容施設に無期限に放り込み死ぬまで放置するなんて行いは、すぐにやめるんだ。

俺は現場監督という職業柄、日本は積極的に難民や移民を受け入れ、社会にインクルージョンしてゆくべきだと俺は考えてる。エッセンシャルな現場には、この社会を維持してゆくための人間が払底している。排外的な思考と事なかれ主義が社会を覆っている間に、日本の社会は硬直したものになりつつあるんじゃないのか?

現在の我が国は、日本人を血統によって規定している。なぜって、憲法にも書いてあるし、日本人の家族形態そのものが万世一系の皇統をモデルとする直系家族システムに準拠しているからだ。日本人の強みの源泉もそこにあるが、日本人が減っていく理由の一端もそこいらに潜んでるんだがね。


一方で経済無策、外交は対米従属一択の政府は、外国人の帰化要件を厳しくしている。こういうことはなぜかサクサクと決まってゆく。


日本人の人口が減り続け、国民国家として国民の再生産が危ぶまれ、国民国家のダウンサイジングが進行しているときに、なんという愚策だろうか。


本当の愛国者ならば、他民族を排斥し、自民族だけを尊重するべきではない。そんなものは右翼ではないと、今は亡き一水会元名誉顧問鈴木邦夫🔗もその遺言ともいうべき著書『天皇陛下の味方です 国体としての天皇リベラリズム🔗』ではっきり明言している。そこいらにウヨウヨ転がっているネトウヨやアメリカから金をもらって街宣車で反共活動するだけの対米従属右翼とは違う筋金入りの言葉だけに重い。


国籍にかかわらず、人間を人間として扱わない国家は、いずれ自らの国民も人間として尊重しなくなる。現に君は、この日本という国の政府から尊重されている自覚を持っているか?

いいかい、これは未曽有の出来事じゃないだぜ。

かつて奈良時代や平安時代初期に起こっていたような情況の再現だ。あるいは、縄文末期に大陸から、朝鮮半島から様々なルーツの人々が新しい技術をもたらした時代と相似な構図なんだ。そして、そんな様々な出自の人々も三世代もすればすっかり日本人というマトリックスの中に同化してしまう。

そう、俺たち日本人ってのは、様々なルーツの人々が絡み合ってできた集団なんだ。それをまとめてきたのは、古来より続く天皇制だというのは間違いない。

大昔から天皇家は日本の象徴だったんだ。

だいたい江戸時代までは、日本は武蔵の国とか尾張の国とかってそれぞれの地域そのものが『クニ』だったんだ。川を渡り山を越えれば、そこは『外国』だったんだ。言葉だって、違っていたし。それが民族としての一体感を保持していたのは、日の本全国津々浦々、山河海浜、所有者無き公界=コモンズの主と考えられてきた天皇家そのものだ。


リベラリズムの理想(寛容、インクルージョン)を実現するために、あえて古来の「天皇制」という強力なOS(オーソリティ)を再起動させ、その権威のもとに異質な存在を包摂していく。これは、明治以降の「一神教的・排他的な国家観」ではなく、もっと古く、渡来人や異なる文化を吸収して国力を高めてきた「古代日本のダイナミズム」への回帰を目指しているんだ。

俺たちが日本の伝統だと教え込まされてきたのは、ほんのここ150年ほどの最近のものなんだ。1万5千年以上まえの縄文草創期から続く日本の歴史の立った1%未満なんだ。

要点を整理しよう。

1. 「天皇」という究極のインクルージョンの装置

権威による全肯定

かつて、天皇は逆説的に公家と士農工商という社会秩序からはみ出た自由民、宗教民、漂泊の芸能者など世俗の権威にまつろわぬものが直接つながりうるという不思議な権能を有していた。自由民や漂泊の芸能者、一所にとどまらぬ職人=技術者たちは、天皇に対して自らの職能を通じて無償で奉仕することによって、ダイレクトにつながっていたんだ。そのシステムを最も組織的に使ったのが『建武の新政🔗 』を断行した後醍醐天皇🔗だろう。この辺のことは、今は亡き碩学網野義彦🔗先生の『無縁・公界・楽🔗』などをお読みになると面白いだろう。

もし、今上陛下があるいはこの先に即位なさる天皇が(それは愛子内親王かもしれない)政治的な対立や排外主義を超えて、「天皇の赤子(民)」として難民や移民を迎え入れるべきとのお言葉を語られたとしたら…。

これにより、世俗的なナショナリズムによる差別を、より高次の権威で抑え込み、共生を「国家の正当な姿」として定義することができるだろう。

奈良・平安初期の再現

それは高麗や百済からの渡来人(彼らは朝鮮半島が新羅により統一されてしまったため日本に難民として大量に逃れてきた)が技術や文化をもたらし、国の中枢で活躍した時代のように、「多民族・多文化を飲み込み、日本というシステムを更新し続ける」柔軟な強さを取り戻すイメージだ。

2. 「核」と「天皇」が守る自由な空間

物理的障壁としての核

外側(米中など)からの物理的・政治的な干渉を「核」で遮断するからこそ、内側では誰にも邪魔されずに、独自の「寛容な実験場」を維持できる。

リベラルのための武装

自由や寛容という、本来「脆い」価値を守るために、最も「硬い」ツール(核と伝統的権威)を外壁にするという逆説的な構造だ。

俺が夢想しているのは、あくまで『人間が人間であるということだけで、尊重される社会』だ。それを否定することは、自らの人間としての尊厳が、より能力のある人間によって否定されてしまっても、その理不尽を甘んじて受け入れるということに他ならない。

3. 日本が「世界の避難所」になる

米中対立や紛争で居場所を失った高度な人材や難民を受け入れ、日本という「永世中立の安全地帯」でその才能を開花させる。これは、属州化や省化を避けるだけでなく、「世界から必要とされる国」としての新しい生存戦略になるだろう。

結論を言えば、俺が思い描いているものは、単なる右傾化でも左傾化でもなく、「伝統をツールとして使いこなし、超近代的なリベラル国家を確立する」という、極めて高度なハイブリッド国家の姿だ。

「自分の頭で考え、足で立つ」覚悟を持った個人たちが、天皇という象徴の下で、多様な他者と共に新しい日本を編み直していく。

この「古くて新しい日本」を実現するために、私たちは「日本人とは何か」という定義を、血筋や地縁を超えた「志や法への合意」へとアップデートしていく必要があるだろう。 

君はいったいどんな日本の、どんな世界の未来を思い描いてるんだ?空飛ぶ車とか火星に移住とかの話じゃないんだぜ。

2026/04/08

POST#1813 戦争は他の手段をもってする政治の継続である

東京、新宿
『戦争は他の手段をもってする政治の継続である』
 冒頭に掲げたのは戦争論🔗で名高いプロイセン王国の(今のドイツの前身)陸軍将校にして軍事学者であったクラウゼヴィッツ🔗の戦争論の超有名な一節だ。

今回のアメリカ・イスラエル連合とイランとの戦争は、この観点に立てばアメリカにとって悪手中の悪手であることは言うまでもないだろう?

今朝の報道によれば、アメリカ大統領ドナルド・トランプは自身のソーシャルメディアに「今夜、(イランの)すべての文明が滅び、二度と元に戻らないだろう」と投稿した。「そんなことは起きてほしくないが、おそらくそうなるだろう」とも述べ、イランに対して改めて圧力をかけた。この文言を見た誰もが、トランプのいつもの『マッドマン・セオリー🔗』かとも思いつつも、トランプが自らの意のままにならない国家に対して躊躇なく核兵器の使用を選択しうると戦慄しただろう。そう思わないのはとんでもない脳内お花畑野郎だ。

この下品極まりない恫喝が奏功したのか、イランは2週間の停戦に応じたという。

そもそも国家間の交渉の最中に、今ならできそうだからやっちまえと宣戦布告も無しに自ら奇襲を仕掛け、一国の最高責任者を殺害したのは、皆様ご存じの通りアメリカ自身だ。

そして、勝利者は戦利品を得る資格があると、露骨にイランの石油権益を狙っているような発言をしているのもトランプ自身だ。冗談じゃない。これじゃ19世紀の帝国主義国家じゃないか?

世界一の軍事力を持つ国家が他国との戦争において その文明自体を滅ぼすような攻撃を行うと恫喝するのは尋常ではない。本来「自分の国や利益を守るため」の軍事力が、結果として文明そのものを終わらせる(相互確証破壊)レベルに達しているのは、非常に逆説的で恐ろしい状況だ。広島・長崎の惨禍を当のアメリカの手によって経験している日本人の俺は、その脅威を痛感する。

歴史的に見れば、軍事力は「相手に勝つ」ための道具であった。そして、相手国に対して軍事的に勝利をおさめるということは、外交つまり政治の延長であったはずだ。

しかし核兵器の登場以降、世界一の軍事力を持つということは「相手を滅ぼすと同時に自分も滅びる」という絶望的なバランスの上に立つことを意味するようになっちまった。冷戦期に少年時代を送った俺には、核戦争の恐怖がトラウマのように心の中にわだかまっている。

抑止力という名の恐怖

「手を出せば世界が終わる」という恐怖を植え付けることで、皮肉にも大国同士の直接的な戦争を止めているという側面がある。それは裏を返せば、核兵器を持たない国は核兵器を保有する大国に、従属するか蹂躙されるしかないという恐怖の世界構造だ。

歯止めの欠如

科学技術の進歩が、人間の倫理観や政治的な統治能力を追い越してしまい、一度使い始めたら止まらない「文明の自殺装置」が完成してしまったといえるだろう。あのオバマ大統領が広島を訪れた時にも、彼は核のボタンの入ったスーツケースを携えていたのを覚えているだろうか。俺たちは常にいつ燃え尽きるかわからない導火線の前になすすべなくたたずんでいるんだ。

理性の限界

核による抑止力ってのは、指導者が常に合理的であるという前提に立っているが、トランプのような自制心のない人間にその判断をゆだねることが、あってよいものだろうか?

誤解や暴走、事故によって「意図しない文明の滅亡」が起こるリスクは常に存在するが、今や一人の狂人の手に世界の運命は委ねられているんだ。

「守るための力が、守るべき文明を消し去る」という矛盾は、人類が抱える最大の矛盾だ。

このトランプの戦争のような『マッドマン・セオリー』に基づく無法がまかり通るのであれば 、世界の 他の国々はこぞって核兵器の開発に舵をきるはずだとろう。君はそう思っていないかもしれないが、現在の国際情勢はその懸念が現実味を帯びる極めて危うい局面を迎えてるんだ。 
相手に「狂気(マッドマン)」と思わせることで譲歩を引き出す「マッドマン・セオリー」や、核による威嚇が「有効な戦略」として成功を収めてしまうのであれば、他の国々が「自衛のために核を持つしかない」と考えるのは、安全保障の論理つまり、流行りの地政学的なリアリズムからすれば自然な帰結と言えるだろう。
まったく金正恩は正しかったんだ。 
現在の世界では、実際に以下のような「核ドミノ」や不拡散体制の崩壊への懸念が強まっていやがる。
1. 既存の枠組みの機能不全
これまで世界の核拡散を抑えてきた核拡散防止条約(NPT)体制が、かつてない危機に瀕してる。そもそも俺にいわせれば、核拡散防止条約自体が、既に核兵器を持ってる大国(偶然ながら揃いも揃って国連の常任理事国だ!)の既得権益を守るための茶番にしか見えないんだけどね。笑わせやがって、この野郎!
それはさておき、まずは軍縮の停滞が挙げられるだろう。2026年には核不拡散条約(NPT)の再検討会議が予定されているが、これまでの会議では核保有国間の対立により最終文書の採択に失敗し続けている。誰もが自分が先に減らせばやられると疑心暗鬼に陥っているんだ。
そして条約の失効。米露間の最後と言われる軍縮条約「新START」が2026年2月に失効し、大国間の核兵器を縛る枠組みが消滅するリスクがかつてなく高まっている。 

2. 「核ドミノ」の現実味
核保有国による「無法」や「威嚇」がまかり通る現状を見て、自国の安全を同盟国の「核の傘」だけに頼ることに不安を感じる国々が増えている。
日本政府がそれを憂慮せず、トランプ2.0以降のアメリカを信じ切り委ね切っているのであれば、思考停止以外の何物でもない。DV彼氏に依存し続けるメンヘラ女子みたいだ。
中東・アジアの動向を見てみれば、今回の当事国であり、今回のアメリカ・イスラエル連合とイランの戦争の発端となったイランの核開発疑惑に加え、北朝鮮のミサイル開発、中国の急速な核戦力増強(2025年時点で約600発、前年比100発増)などが、周辺国の核武装議論を刺激している。
そうなってくるとこの動きに呼応するように、韓国やサウジアラビア、あるいは欧州の一部でも、自国による核抑止力を検討すべきだという議論が一部で公然と語られるようになっているようだ。

3. 「狂気」がもたらす不安定化
今回のようにトランプ政権下の米国がイランの核施設への攻撃を示唆したり、実際に軍事行動を辞さない姿勢(マッドマン・セオリーの再来)を見せたりしたことで、逆に相手国が「生存のために核を完成させるしかない」と決意を固めてしまうという、逆効果のリスクは非常に高いだろう。トランプとその取巻き共(=ミニオンね)はイソップ童話の北風と太陽を知らないんだろうか?
現在、世界の核弾頭総数は冷戦期に比べれば減っているものの、「実戦で使用可能な状態」にある弾頭数はむしろ増加に転じているという。 

俺は正直に言って、人類にとって核兵器を持つことは禁忌だと思っている。
けれども それでこの世の中がうまく回るほどお花畑じゃないとも思っってもいるさ。
しかし、それは俺だけじゃないはずだ。嫌いなものでもちゃんと食べないとな。
「禁忌(タブー)」という道徳的な一線と、冷徹な「現実(リアリズム)」の板挟みになる感覚は、現在の核を巡る議論の核心そのものだろう。理想だけで世界が動かないことは、2026年2月に米露間の最後の核軍縮条約である新STARTが失効し、大国間の核の「歯止め」が消滅した現状が何よりも物語っている。 
お花畑じゃないという切迫した現実感覚は、国際政治の現場でも以下の2つの対立する論理として現れているようだ。

1. 「核抑止」という逃れられない毒杯
「核を持たなければ踏みにじられる」という恐怖が、結果として核への依存を深める悪循環だ。
そこには力の均衡を希求する心根がある。ウクライナ侵攻や中東情勢、北朝鮮の動きを見て、多くの国が「核による抑止力」なしに自国の安全を保証できるのかという問いに直面しているわけだ。
そして不信感の連鎖は止まらない。 相手が核を捨てる保証がない以上、自分も捨てられない。この「囚人のジレンマ」が、文明を滅ぼしかねない兵器を持ち続けさせる原動力になっているわけだ。 

2. 「現実的」な危機としての核保有
一方で、「核を持つことが本当に現実的な安全策なのか」という逆の現実論も浮上している。
つまり核兵器の保有には管理不能なリスクもあるってことだ。核兵器が増えるほど、事故や誤認、あるいはテロリストの手への渡るリスクは統計的に跳ね上がるだろう。懐かしのバック・トゥ・ザ・フューチャーでも、そんな話があったな。
けれど正直言って今一番のリスクはドナルド・トランプその人だ。彼は24時間365日、休むことなくSNSで害悪を垂れ流し世界を震え上がらせ続けている。ご苦労なことだ。

同時に経済・外交的コストも無視できないとも言われている。日本のような国が核武装を目指せば、国際社会からの経済制裁や周辺国との決定的な対立を招き、むしろ国家を窮地に追い込むという「現実的デメリット」も無視できないだろう。
しかし、先日来述べているように、インドもパキスタンも、みんな大好きイスラエルも独自に核兵器を開発し保持しているが、ちゃんと国際社会でうまいことやっている。そんなリスクは本当にあるのか?これも幻想なんじゃないか? 

3. 日本の「引き裂かれた」立ち位置
唯一の戦争被爆国でありながら、米国の「核の傘」に守られている日本は、まさに理想と現実の矛盾が最も激しくぶつかる場所にいる。
政府は「核兵器のない世界」を掲げつつ、実際には米国の核運用に関わる協議(日米拡大抑止協議)を強化しており、理想と安全保障上の実利をどう両立させるか、極めて難しい舵取りを強いられている。
というか、まぁアメリカ様の提灯持ちに徹しており、高市総理自身が面と向かって『世界に平和をもたらすことができるのは、ドナルドトランプだけだ』と抜けしゃあしゃあと本人に言うくらいのおめでたさだ。終わってるぜ。
こうして「核は悪だが、持たざるを得ない」という状況を肯定し始めると、世界は際限のない核軍拡へと向かうだろう。無間地獄だ。しかし、その危うい均衡こそが今の平和(冷戦的平和)を支えているというのもまた事実。
そしてなお悪いことに、今のアメリカは同盟国に対しても 恫喝を辞さず、いつ 手のひらを返すかわからないときたもんだ。まったく信頼のおけない帝国主義的専制国家に変容してしまった。アメリカ人に生まれなくて本当に良かったぜ。

現在の米国、特に第2次トランプ政権(2025年1月〜)の外交スタイルは、同盟国に対しても「ディール(取引)」の論理を持ち込み、従来の信頼関係を根底から揺さぶっている。
かつてはかろうじて「共通の価値観」や「長期的な信頼」という美名のもと結ばれていた同盟関係が、今や「防衛費をいくら払うか」「対米貿易黒字をどう減らすか」という短期的な損益計算によって左右される、極めて不安定なものとなっている。

世の中が悪くなっているんだ。

2026年現在の状況を整理すると、同盟国にとっての「不確実性」は以下の3つの形で顕在化している。

1. 「関税」という恫喝の日常化
トランプ大統領は、安保問題と通商問題を完全に直結させている。 
2025年4月に発動された全輸入品への一律10%の「基本関税」に加え、日本を含む同盟国に対しても「相互関税」などの圧力をかけています。全方位へ喧嘩を吹っかけているような状況だ。
そして関税の武器化だ。相手国の移民対策や軍事協力が不十分だと判断すれば、翌週には関税を倍にすると脅すなど、同盟国を「市場へのアクセス権」でコントロールする姿勢が鮮明だ。そこにいかなる熟慮もタクティスも存在しない。 

2. 「安全保障」のサブスクリプション化
「守ってほしければ応分の負担をせよ」という要求がエスカレートしている。

NATO離脱の示唆: 2026年に入り、トランプ氏は対イラン軍事作戦への協力が不十分だとして、NATOからの離脱を再び公然と口にし始めています。
アジアへの余波: 日本や韓国に対しても、駐留経費負担の大幅増額や中東への自衛隊派遣を迫るなど、「100%のコミットメント」を口にする一方で、実際には厳しい条件を突きつける「手のひら返し」のリスクが常に付きまとっている。 
アメリカは本当に味方なのか?

3. 「自分たちの身は自分で守れ」というメッセージ
米国が「世界の警察官」であることを完全に放棄し、米国第一主義を貫く姿勢は、同盟国に「米国は本当に助けに来てくれるのか?」という根源的な不信感(核の傘への疑念)を植え付けている。ちなみに台湾有事は日本の存立危機事態とか言っていても、アメリカはその時動かないだろう。虎の威を借る狐のように勇ましいことを言っても、梯子を外されちまうのさ。
欧州では、米国への信頼感が急落し、独自の防衛力強化や核武装の議論が現実味を帯びて語られるようになっている。そりゃ、グリーンランドをよこせとか、自分のやらかしの尻拭いだけしろとか言われてるんだからな。 

「いつ裏切られるかわからない」という恐怖が、同盟国を「自立」へ向かわせるのか、それとも「さらなる核拡散と軍拡」というカオスへ導くのか。いずれにせよ世界は今、極めて危険な分岐点に立っているってのは間違いない。俺の人生でこんな時代が来るなんて、たまらないぜ。不謹慎ながら笑えてくるぜ。

そもそも『ディール』(俺はこの言葉の響きがあさましくて嫌いだ)ってのはお互いに契約を守るという最低限の信頼があってからこそ成り立つものだろ。信頼できない相手との取引には、棍棒を用いた恫喝しかありえないだろう。
今の米国のスタイルは、対等なビジネスパートナーとしての「取引」ではなく、圧倒的な軍事力や経済力という「棍棒」を後ろ手に隠し、時には露骨に振り回しながら、相手にイエスと言わせる「強要」に近いものになっている。カナダもデンマークも、メキシコも苦労してる。日本はゴマをすってる。ゴマの香ばしい香りが国中に漂ってきそうだ。
そして、その行いの一つ一つがアメリカという国家が築いてきた民主主義陣営の盟主という金看板に泥を塗っている。こうしてアメリカへの信頼が崩壊したあとの外交がどうなるか、この視点から整理すると恐ろしい現実が見えてくるだろう。


実際に 今回のアメリカとイスラエルは2026年2月、米国とイスラエルが突如として開始した対イラン軍事作戦(エピック・フューリー作戦/ユダの盾作戦)は、イランとの交渉大詰めの段階で仕掛けられた奇襲攻撃そのものだった。は、
これは全く国際法的を踏みにじる行為であり、国際社会に大きな衝撃を与えたのは言うまでもないだろう。つまり「信頼」を土台とする国際秩序が完全に瓦解したことを象徴しているんだ。わかるだろう?
 
この行動がもたらしている深刻な問題は以下の通りだ。取り返しがつかないぜ。

1. 外交を「罠」として利用した代償
最も批判されているのは、間接的な核合意交渉が進展を見せていた最中に攻撃が仕掛けられた点だ。こんな事態を見せつけられたら、だれが今後アメリカを信頼するだろう。 
つまり、アメリカがイスラエルと組んでやらかした今回の一件は、交渉の道具化に他ならないんだ。つまり国家間の外交を「相手の警戒を解くための欺瞞」として利用したことで、今後の国際政治において「いかなる対話も信用できない」という致命的な前例を作りっちまったわけだ。やれやれ。
そして日本以外の各国が大いに非難しているのは国際法の無視だ。 
これは国連憲章が禁じる武力行使の原則(自衛や安保理の承認がない状態での攻撃)に対する明白な違反であると、多くの国際法学者が指摘しているけれど、そんな事賢い人たちが指摘するまでもなく誰だってわかる。 

2. トランプ政権の法軽視
トランプ大統領自身が、今回の作戦について「国際法など必要ない」といった旨の発言をしており、ルールに基づいた秩序(Rules-based order)そのものを否定する姿勢を鮮明にしている。自らが法を遵守する精神を持たないものが、どうして人々に法を守らせることができようか? まずは塊より始めよだ。
まったく世も末だ。こいつは棍棒外交の極致なんだ。つまり「自分の要求(ホルムズ海峡の開放など)を飲まなければ、文明ごと破壊する」といった極端な恫喝が、ブラフではなく実力行使を伴って行われているんだ。死にたくなかったら口座の暗証番号を言うんだ!って迫る強盗と変わらないぜ。 

3. そして現時点での最新状況(2026年4月8日現在)
激しい戦闘と報復の応酬が続いてきたが、本日までに以下の動きが出ている。
トランプ氏は4月7日、イラン側との「2週間の停戦」に合意したと発表した。しかしこれは終戦ではなく、これはホルムズ海峡の安全な開放を条件としており、根本的な不信感が解消されたわけではありません。つまり単なる条件付きの静止 だ。

交渉中に背後から殴るような真似がまかり通る現状では、イランや他の国々が「生き残るためには核武装(棍棒)しかない」と結論づけるのは、もはや避けられない流れに俺には見えるぜ。誰か何とかしてくれよ。


政治は「言葉」とそれに裏打ちされた行動によってなされる一種の芸術だ。
しかし、「言葉」が意味をなさなくなる世界では、どんな条約や約束も、時の政権の、それどころかドナルド・トランプという三流不動産屋上がりの野卑な大統領の気分次第で「手のひら返し」されるなら、外交交渉そのものが時間の無駄になるだろう。
現に、今回イランは核交渉大詰めの時点で不意打ちされた。信じられるかい?

そしてやってくるのは「暴力」と「恐怖」への信奉だ。
信頼が消えた世界では、俺が、そして君が危惧したように「相手を物理的に黙らせる力」つまり核や軍事力だけが唯一の共通言語になってしまう。
それは、文明の否定だ。文明を終わらせるのに総攻撃はいらないんだ。
結果、終わりのないエスカレーションが始まるんだ。
棍棒で脅された側は、屈辱を晴らすか、あるいは自分もより大きな棍棒(核武装など)を持つことでしか対抗できなくなるだろう。そしていつだって、足を踏んだほうはすぐにそのことを忘れるけれど、足を踏まれたほうは、いつまでもそれを忘れない。中国や韓国が事あるごとに日本を非難するのは、そういうことでもあるんだけどね。

俺は今、『信頼できない相手とは、力で殴り合うか、力で押さえつけるしかない』という、人類が長い時間をかけて脱却しようとしてきた野蛮なリアリズムに、世界が引き戻されているのを感じるぜ。トマス・ホッブス🔗が描いたリヴァイアサン🔗以前の「万人による万人への闘争」という世界が再現されるんだ。
この「棍棒外交」が常態化する中で、力でねじ伏せられる側にならないためには、日本のような国は「独自の棍棒」を持つべきなのかは、ここ一連の投稿で示してきたとおりだ。
俺は自分の投稿が、単なるブラックジョークで笑ってすますことできる世の中を望んでいた。けれども、どうにも世界は急激にそんな混沌とした修羅場へと変貌しつつあるんだ。
最悪だぜ。