2026/09/11

POST#1966 9月11日か・・・。俺はイスラモフォビアには反対だ

Istanbul,Turk
早いもので、2001年のアメリカ同時多発テロ事件🔗から25年、四半世紀だ。

俺の人生で起きた世界史的な事件のうちでも、東西冷戦終結、天安門事件と並んでビックスリーに入るね。

あれ以来、地球上にたくさんいらっしゃるイスラム教徒の皆さんに対する、いわれのない恐怖感を持つ人々がいるのは、まったく残念なことだ。なんせ地球人の4分の一はムスリムなんだぜ。

俺は、言うまでもないけれど、イスラモフォビア🔗には断固反対だ。

どんな宗教でも、いいやつもいれば、悪い奴もいる。そして、宗教的に守るべきルールが違ったところで、それを非難する資格もなければ、する必要もない。

すでに、俺たちの周りには多くのムスリムが暮らしている。息子の小学校にもムスリムの子息が通っている。給食はどうしてるんだろうな。学校給食はハラール🔗じゃないからな。

労働現場にも、インドネシアから多くのムスリムがやっていている。インドネシアは人口レベルで見ると、世界最大のイスラム国家だ。近年経済成長著しいマレーシアもイスラム国家だ。もちろん、日本の石油製品の大半は、湾岸諸国やイランなどの石油に依存している。

彼らの存在なしには、日本という国は成り立たないんだ。

ムスリムはその宗教的な教義のために、土葬の墓地を必要とする。それを水質汚染につながると頑なに拒否する人たちがこの日本にはたくさんいる。俺たちのじいさんくらいの代まで、どこに行っても日本中普通に土葬してたのにね。土饅頭って言葉は土葬墓地のことを意味してるって知らないわけじゃないだろう。

よく知らないからといって、感情的になって反発したり排除したりするのは、良き市民のあるべき姿とは言えないんじゃないかな。すでに、この国は疲弊して外部からの人々の力を借りなければ、社会のインフラの維持もできないんだ。わかってるだろう?

イスラム教徒だからといって、誰もがアルカイーダ🔗ISIL🔗みたいなテロ組織ではないんだとはっきり言いたい。日本にだって暴力団はいる。規模が違うからそれは不問に付すのか?あるいはターリバーン🔗のような抑圧的な社会を構成するわけじゃない。

確かに、価値観が違う面はあるかもしれない。

しかし、人間という実存存在に何ら変わりはないだろう?もっとも、何ら変わりもない人たちを穢多・非人といって差別してきたのも俺たち日本人だ。関東大震災の時に、朝鮮人を虐殺したのも俺たち日本人だ。15年戦争で、アジアでさんざん残酷なことをしまくったのも日本人だ。それを繰り返すような愚行をしてはいけない。

誰かを排除することで、自分のアイデンティティを確立することは、単なる分裂生成に過ぎないんだ。あいつじゃないから俺たちなんだっていう、恣意的な線引きなのさ。

あの日から、25年経った。俺たちは少しはマシになっただろうか?

かつてビリー・ブラッグ🔗は、19世紀の詩人ラドヤード・キップリング🔗の有名な一節 “What should they know of England who only England know?” を引いて、『イングランドしか知らない者は、イングランドのことを何も分かっていない』と歌った。

つまり「比較対象(他者)を持たない閉じた視点は、自己の姿すら正しく認識できない」という認識論的な真実をリスナーに突き付けたんだ。

俺は自分自身に問いたい。『日本しか知らない者は、日本のことを何もわかってない』

俺は日本以外の世界のことがわかっているだろうか?

2026/09/10

POST#1965 ここんとこなんだかモヤモヤするな

台南
今年になって、地元に帰ってきてからずっとある会社と仕事をしている。

仕事は今のところ、忙しいよ。うん、確かに忙しい。

まさに心を亡くすような感覚だ。なぜって、一件仕事を片付けると、やれ手直しだ是正だ、追加だと追いまくられてるうちに、次の現場が始まる。

夕方から明け方まで働いて、昼間もひっきりなしに電話やメールがやってくる。俺は実動分しか請求しないのにね。正直な商売なのさ。だからこそ、報酬が発生しない時まで電話やメールに振り回されるのはたまらないぜ。

挙句の果てに、外壁塗装やらなんやらの飛び込み営業もやってくる。そんなことに費やす金はない。自分一人のビジネスだから、役員報酬を増やそうと思えば増やせるけれど、そんな事したら、増やした分より年金や社会保険料の増加分のほうが多くなって、かえって手取りが減っちまう。それは本意ではない。

何も考えずに、本を読んで眠ったりする時間が欲しいのにな。

自分のメンタルをすり減らしてまで働くのは、いかがなものかな?

イスラーム金融論は読み切ったので、さっそく次の本に取り掛かったけれど、心がモヤモヤしてると、どうにも集中できないもんだ。

毎日こうして写真を添えた文章をしたためていると、書きたいことはあるにはあるけれど、書き記すにはやはり時間とエネルギーが必要だ。集中力と。メールや電話で思考が途切れるのは、ちょっと辛い。

そして、つくづく自分の今まで撮ってきた写真が、つまらなく思えてくる。正直、毎日どれにしようかと吟味するのも厭きてきた。

見たこともない景色を見に行きたい。人間が濁流のように群れを成して歩いているようなところへ行きたい。

どうせ行くなら、トライXを奮発して買い込んで、コンタックスG2🔗ホロゴン🔗16㎜F8だけをつけて、その濁流の中に飛び込みたい。指が写りこまないように、ハンドルグリップも必須だな。

しかし、今の俺にはそんな金も暇も、そして体力もないのかもな。

人はこうして、老いていくのさ。アンチエイジング?興味ないね。いずれ年食って死ぬのさ。できることなら、息子には迷惑かけたくないね(笑)。

2026/09/09

Post#1964 人は読書という愉しみを忘れている

Katmandu,Asan Dabu,Nepal 抽象的とは対極にある世界だ
今夜はちょっと仕事がある。

線状降水帯が居座らないことを祈るばかりだ。

気圧が低いと、頭がぼーっとして、考えることも億劫になる。

読みかけの現代イスラーム金融論を開いたまま転寝してしまう。それでも第六章までこぎつけたけどね。

頭が動いていないとき、抽象的な内容の本を読むのは骨が折れる。

鬱病の最盛期みたいに、読んでも読んでも文字の羅列にしか見えてこない。意味が頭に入ってこないんだ。

そんな時、俺は本に書いてある文章を、声に出して読んでみる。

一人で机に向かい、文章を目で追いながら、その一言一言を声に出す。小学生が教科書を音読するように。

そういえば、かつての日本人は、黙読というスキルを持っていなかった。

明治時代の初め頃に活躍した人々は、皆寺子屋で漢文を素読、つまり読み下して声に出して学んでいたんだ。

すると、さび付いていた脳の回路が少しづつ結合してくる。電気信号がシナプスの間を伝達し、脳内に抽象的なイメージが形のない形として立体的に立ち上がってくる。

自分の脳内に格納されている様々な知識と接触し、異分野の知識同士が引き合い、意味を成し、強度と奥行きを作り出す。自分自身の実生活の体験と響き合う。抽象的な意味がまるで手で触れることができるようにはっきりイメージされてゆく。イメージと意味の連環が生まれるんだ。フラクタル図形のように、次々と疑問や関連知識が引き出され回転してゆく。

経済学の本を読んでいても、人類学や、歴史学、ロックやファンクなどの音楽に関する知識などが次々立ち上がり、意味を補強し、強度を与えてくれる。

だんだんと脳の回路が形成され、思考スピードが上がってくると、鈍重な飛行機が離陸するように、音読しなくても意味が頭に入ってくる。

20分もそんなことをしていると、自分自身と向き合っている本の世界以外、どうでもよくなる。

どうして、今の人々が本を読むという楽しみを忘れているのか、意味が解らないね。