2026/03/23

POST#1797 小さな行動をあきらめちゃいけない

一宮 椿の花がぽとりと落ちていた

高市首相がトランプ大統領との会談した際、ホルムズ海峡での自衛隊派遣を何とかかわすことができたのは、自民や維新の皆さんが目の敵にして何とか骨抜きにしたり改変したりしたくてたまらない憲法九条のおかげさまだった。

日本は朝鮮戦争の時にも、当時日本を占領していたGHQの指示で機雷掃海艇を戦場に送りこみ、死者も出している。そんなことにならずに済んで本当に良かった。

いつだって戦争をしたがる奴は、自分は戦場にはいかない。

「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだと思っている。そのために私は諸外国に働きかけてしっかり応援したいと思っている。」とは、さすがは高市首相。余人にこの言葉は吐けまいて。俺は思わず噴き出したし、そのあと本気かよと独り言ちた。

対米従属を通り越して、もうゲイシャ外交ここに極まれりだ。脱力して笑うしかない。

いつだって戦争したがる奴が平和を守ってるんだとさ!


さてと、先日の話に戻ろうか。

スロボディアンが破壊系資本主義🔗のなかで描く「ゾーン」の増殖は、俺たち市民一人ひとりが共有し、管理し、享受すべき「コモンズ(公共財・共有地)」の解体と表裏一体だ。

2026年現在の視点で見ても、この懸念は極めて深刻なリアリティを持っている。

俺が町内会や子供会を大切にするのは、それも一つのコモンズを守る営みの一環だとおもっているからなんだ。

俺たちの社会からコモンズが失われ、社会が「ゾーン」の集合体になってしまったときに何が起きるのか…。その憂鬱な近未来のシナリオを整理してみる?

皆さんは、自分には関係ないかとお思いかもしれないが、意外とそうでもないと思うよ。


①「島」に取り残される人々(格差の固定化)

ゾーン(IR、特区、基地)は、特定の資本や権力を持つ人々にとっては利便性の高い「天国」ですが、そこから排除された人々にとって、公共サービスや法的保護は「コスト削減」の対象として削られていく。

コモンズ(公園、図書館、医療、インフラ)が民営化され、アクセスに「料金」が発生するようになれば、生活そのものが課金制のサービスのようになってしまうだろう。

現に、わが国の財務省の皆さんは国立の博物館などに、自ら稼ぎ経費を賄えと通達し、それができなければ統廃合も視野に入れているという。

民営化された日本郵便グループが、不祥事のデパートになっていたりするのも、まぁ似たようなもんだ。


②民主主義の形骸化

「ゾーン」の中では、意思決定の主体は有権者ではなく、株主や投資家、あるいは他国の軍事当局だ。自分の住む土地で何が起きるかを自分たちで決められないという「無力感」が社会全体に蔓延し、政治への諦めが加速するだろう。

沖縄ではもうすでにこれが何十年も続いてる。

娘がレイプされても、アメリカ本国なら絶対に許されないところに滑走路があっても、学校にヘリコプターが落ちても、基地の周りからPFASが高濃度で検出されても、日本人にはなすすべがない。

完全に治外法権だ。

日本政府も、アメリカに従属するしかないから、沖縄県民の声なんて聞かない。むしろ潰しにかかってるのは皆さんよくご存じの通りさ。


③法的保護の「パッチワーク化」

かつては日本全国どこにいても同じ労働法や環境法で守られていたが、ゾーンごとにルールが異なれば、国民の権利はバラバラになる。

「このゾーンでは残業代が出ない」「このゾーンでは環境基準が緩い」といった例外が常態化すれば、法治国家としての均質性は失われる。

日本各地に設置されているアマゾンの巨大倉庫も、ある意味で小さなゾーンだといえるだろう。

実際に、アマゾンの倉庫なんかでは、作業員が倒れてもすぐに救急車は呼ばれないそうだ。本当に日本の労働規制が守られているのか、まったく不透明だ。


④「公(パブリック)」の消失

本来、国家や自治体の役割は、市場原理では解決できない人々の生存や文化を支えること(コモンズの維持)にあったはずだ。

しかし、右派的な「ゾーン建設」に邁進する勢力は、その「公」を「非効率なもの」として解体し、切り売りし続けている。



スロボディアンは、こうした「ゾーン」化を「民主主義を封じ込めるための技術」と呼んでいる。

国民生活が成り立つためには、市場でも国家でもない、市民が共に支え合う「コモンズ」というセーフティネットが不可欠だ。

その地道で小さな営みこそ、市民にできる抵抗なんだ

それが「ゾーン」という名の利権と隔離の空間に飲み込まれていく現状に対し、どのようにして「共有の場所」を取り戻していくかが、これからの大きな課題になるだろう。


スロボディアンが描くような強大な資本と政治が結託した「ゾーン化」の流れを前にすると、個人の力ではどうしようもないという無力感に襲われるのは当然のことだ。

具体的に「これだ」という解決策が見えにくいのは、このシステムが「人々に諦めさせ、思考を停止させること」自体を統治の手段としているからに他ならないんだ。


けれど俺たちは自分自身で考えることを、自分たちでできる小さな行動を起こすことを無駄だとあきらめてはいけないんじゃないかな。

2026/03/22

POST#1796 公共性を取り戻す小さな営み

俺の住む町一宮
今日は朝から町内会の総会だった。
俺は無頼漢のように見えるかもしれないが、四月からは町内会の班長をやらなきゃいけないんだ。二回目だ。それだけじゃない、子供会の副会長もね。ちなみに男性で子供会にかかわってるのは俺だけだ。

総会は9時30分からだったけれど、俺は役員だからね、9時に行ったんだ。
足の悪いお年寄りを気遣いながら出迎えたり、最近姿を見かけない方の安否を尋ねたりしながら、ほかの役員さん、つまり町内会の古参住民の重鎮の方々と一緒に準備してたよ。
そうこうしてると重鎮の一人、A井さんから今回は俺に議長というか司会進行をやってほしいと直前の無茶ぶりがあった。
俺はこの町内に家を買って移り住んでかれこれ10年になるけれど、ほかにふさわしい人たちはいるだろう。いるだろうが、皆お年を召された。お姿を見かけなくなったかたも多い。
町会長なんか他にやる人がいないから、俺が越してきてからもうずっとA田さんがやっている。年々、入れ歯が合わないのか言葉が聞き取りにくくなっていく。
世代交代の時期が迫ってる。
正確には一時俺と同世代の古参住人が町内会長を買って出たんだが、その人はいろいろ嫌になって町内会を脱退してしまった。気心知れていた人だけに残念だ。

さて、そんなこともあるので、ここで固辞するわけにはいかない。やらいでか!

まぁ、100人くらいを前にして定例会議をやったりしている経験もあるからどうってことない。声もよく通ってしかもでかい。町会長のA田さんの話は、いつも論点が整理されていなくてわかりにくいし、やたら長くなりがちだ。俺に話を振ってきたA井さんもそのあたりのことは重々承知で、そのあたりをピシッと抑えてほしいと思っているようだ。

今回はゴミ回収ボックスの導入を町内会の会費を使って行うか否かという議題もある。些細なことだけれど、皆の供託してくれたお金を使うわけだから、有耶無耶のまま話が雲散霧消するようなことになって、町内のお年寄りや年齢層高めの参加者の皆さんを不安にしたりしたくもない。神社の森に棲んでいて、朝夕現場に遠征出勤する烏によるごみあさりに、みんなうんざりしているんだ。
些細なことだ。けれど俺は民主主義ってのは、小さなコミュニティーを蔑ろにしては立ち行かなくて、むしろこの小さなコミュニティーこそが民主主義の学校でゆりかごだと思っているんだ。
そう、なんの権力もなく、皆にあるべき姿、進むべきを道を説き続け説得して合意を得ることで集団をまとめる、人類学の本に出てくる首長のように民主的に行うんだ。

途中で自民党の市会議員がやってきたりアドリブもあったが、俺は何とかうまいことやり切った。正直俺は共産党か旧立憲系の市会議員にしか投票しないから、このセンセーが何者かよく知らなくて焦ったけどね。けれど、こんな町内会の総会にも足を運んで、ほんの一時とはいえ一席ぶって帰っていく自民党の機動力ってのは侮れないもんだ。共産党や中道にはこういう泥臭さが足りないんだよなぁ…。

ゴミ収納ゲージの件も、市からの補助を使いつつ、試験的に二か所導入しましょうということで、町内会の皆さんの合意も取り付けた。いずれも烏の宴会場だ。

賛成の方々は拍手でもってお答えください!
はい、ありがとうございます。
賛成多数のようですの、今申し上げたように進めさせていただきます。
今後の進展経緯に関しては、追って回覧板を通じて皆様にお知らせいたします!
皆様から質疑などございませんでしょうか?

声がでかくて議題の流れを整理してリードしてゆくのが得意というのは、たまには役に立つもんだ。現場で鍛え上げたこの声が地域の皆様のお役に立つのはありがたいこったぜ。
A井さんや民生委員のT島さん、一言居士のM地さん、町内の重鎮の皆さんもご機嫌だったぜ。
こんなことじゃ、そのうち町会長をやってくれと言われかねないぜ…。
町内会長というのは、多忙なものらしい。しかも、いろいろもめて脱退したりすると、これまた厄介だ。持ち家でローンもあるから、さっさと他所に引っ越すなんてできないしな。
俺も仕事しないと飯食っていけないんだがな。まいったな。天下御免の無頼漢で鳴らした俺も、そろそろそんなお年頃なのか。

みんな誰も彼も、その必要性がわかっていながら、いざ自分に順番が回ってくると脱退していく。けれど、それがけっして市民として正しいあり方じゃないのはわかってる。
また、意見が違うからと袂を分かつってのも大人のくせに狭量だと思う。ヴォルテールみたいに意見が違ってもちゃんとその意見を受け止めるような器量が必要だ。
とはいえ、生業を抱えながらやるには町内会長の仕事はタスクが多すぎる。
とはいえ、属人化した業務を、だれでもできるように整理して引き継いでいかないと、先行き真っ暗だ。なんとか誰もが気軽にできるようにしないと、コミュニティーの風通しが悪くなっていく一方だ。

けれど、民主主義ってのは、どのレイヤーでも面倒なものだ。なぜって、町内会だろうが国政だろうが、それはみな自分たち自身の問題だからだ。
国政のことをとやかく言うのはある意味容易い。本当に俺たちが一歩を踏み出すのは、自分の住んでいるコミュニティーからだ。

公共を再生するってのは、こういう身近な足元からはじめるしかないんだと思う。
どっちにしても俺たち庶民にはそれしかできない。
けど、それは消費者でも、生活者でもなく、市民として生きるためには避けて通れない道だろう。

2026/03/21

POST#1795 大阪都構想という名の『大阪経済特区構想』

大阪

そして維新の会の皆さんが、何度投票で住民に必要ないといわれてもへこたれない大阪都構想だ。過去2回の住民投票で否決されまたが、日本維新の会は3度目の挑戦に向けた動きを見せているそうな。こいつも「大阪経済特区」を作るようなものではないだろうか?

大阪都構想は「大阪全体を一つの強力な経済特区(ゾーン)として機能させるための土台作り」という側面が非常に強くって、俺にはリバタリアン的な「特区」の発想と共通しているように見えてるんだ。
そのポイントを洗い出してみると、こんな感じか。 
①「特区」としての大阪都構想
一元的な意思決定(スピードアップ): 府と市がバラバラに持っていた権限を一つにまとめ、大阪全体を一つの「ゾーン」として迅速に成長戦略(IR誘致やインフラ整備など)を実行できる体制を目指している。
②規制緩和の呼び水
 維新の会は都構想とセットで「国家戦略特区」などを活用し、金融やエネルギー、ライフサイエンス分野での税制優遇や規制緩和を積極的に進めています。まぁ、税制優遇ってことは、日本の納税者の納めた税金を投入してもらいつつ、その特区に来た連中は低い税率や緩い規制で大盤振る舞いしてもらえるということだ。
③統治機構の実験
 既存の「市」という枠組みを壊し、新たな「特別区」という統治形態を作る試み自体が、国家のあり方を変える一つの実験的な「特区構想」と言えるだろう。 

じゃ、なぜ「ゾーン」的なのかを深堀してみるべ。
通常の特区は特定のビジネス領域を対象にしているけれど、都構想は「行政システムそのもの」を成長に特化した形に作り替えるものなんだ。つまり、住民の福祉や生活は置き去りにされる可能性もあるんだ。
「二重行政の解消」によって生まれた財源やパワーを、成長戦略(ゾーンの価値向上)に集中投下するというロジックは、非常に戦略的でリバタリアン的な合理性に通じている。 

これに加えて、日本維新の会 が主張する 議員定数削減は民主主義の平等性の理念に反する非常にリバタリアン的な発想だとしか俺には思えない。

まさに、こここそが「リバタリアン的な合理性」と「民主主義の平等性」が真っ向からぶつかるポイントだ。
リバタリアン的な視点では、議員定数削減は以下のように正当化されるんだろう。
①「コスト」としての政治:
政治家も一種の「コスト」とみなし、行政の肥大化を防ぐために削減を求める。つまり維新の皆さんの大好きな身を切る改革だ。しかし、円安とインフレによる影響もあり、わが国の予算は毎年過去最高を更新中だ。そんな中で議員の歳費など、嵐の中の屁の一発じゃないか。まぁ、党議拘束で自分の見識も表明できないような議員なら、いらんと言えば要らんが。
②受益と負担の適正化
「身を切る改革」によって、有権者に負担を強いる前にまず自分たちの特権を削るという論理ももちろんあるだろう。しかし、これは「民主主義の理念」から見ると、次のような重大な懸念が生じると思うのは、俺だけか?

まず『多様な意見の切り捨て』
 定数が減れば、少数派の声が議会に届きにくくなり、大政党に有利な構造になるんじゃないか?
次に『一票の格差と平等性』
 1人の議員が代表する人口が増えることで、有権者一人ひとりの影響力が薄まり、参政権の平等性が損なわれる可能性があります。すでに田舎の有権者一人に対して大都会の有権者は3人前というくらいに一票の格差は開いている。これはひどい。
加えて『チェック機能の低下』
 議員が少なすぎると、行政(首長)に対する監視機能が弱まり、独裁的な運営を許しかねないというリスクがある。健全な野党が必要なんだ。

維新の会は「効率的な意思決定」を重視してる。もちろん、戦後最速の予算案衆議院通過をやり遂げた高市内閣もそうだろうけれどね。効率的だからといって、皆が納得する者かどうかは別の問題だ。
それは「熟議や多様性の確保」という民主主義のコストを削ることでもあるんじゃないかね。
この「効率(リバタリアン的)」か「プロセス(民主主義的)」かという対立は、維新の政策を考える上で最も重要な視点の一つと言えるだろう。
だいたい、ろくに話し合いもせず多数決だけで決めるなんて、小学校の学級会以下じゃないか?