2026/05/02

POST#1837 『共同幻想論』を携え、国家の始原の時を想う

新宿の路地裏

 俺の人生の遥かな過去にさかのぼり、40年前、吉本隆明🔗共同幻想論🔗に立ち返る。

現在の自分を決定づけた書物だ。かつて黒田さんという全共闘世代の知人からもらった河出書房版の大昔の箱入りの単行本も捨てがたいが、平治物語絵巻の火焔をモチーフにした杉浦康平のデザインによる角川文庫ソフィア版が俺の好みだ。今でも本屋に行けば文庫で売っている。君も興味があるなら読んでみるといい。

そしてこの『共同幻想論』をステッピングストーンにして、始原のヤマトの淵源にさかのぼる。明治以来の伝統なんてけちなことは言わないぜ。

いつとも定かでない(とはいえ、2000年前から±500年といったあたりかな)まだ大和朝廷などといった、たいそうなものが出来上がる前。昨日話したアマゾンの諸部族みたいな状態から、いくらか社会が発展して、この東アジアの端に円弧を描く列島に、王権というものが生まれるその時に想いを致そう。

吉本隆明の『共同幻想論』において、日本の天皇制(国家)の成立は、個人や家族の幻想(これを彼の用語では対幻想ちゅうんだわ)を超越した『共同幻想』が法や罪の体系として自己目的化していく過程として描かれている。

その遥かな歩みの先は、俺たちが生きる国家という存在や俺たちを縛りその行動を規定する法律の正当性へとつながっている。

吉本はこの本を記すにあたって、膨大なテクストから『遠野物語』と『古事記』のみを用いると定めた。そして『古事記』の神話を分析し、未開の共同体がどのようにして天皇を頂点とする国家へと転化したかを理論化したんだ。それはもう、衝撃的な本だった。高校生の俺も圧倒され、人生を誤って現在に至るほどだ。

天皇制成立の論理的プロセス吉本は、以下のステップを経て天皇制という巨大な共同幻想が確立されたと説いている。

まず「対幻想」から「共同幻想」への転化が起こるんだ。

人間が「血」や「性」でつながる家族・氏族集団(対幻想の水準)から離脱して、より広範な社会的規範を必要としたときに、初めて国家という共同幻想が誕生するんだ。

この移行期において、かつては家族的な絆であったものが、国家に従属する「法」や「罪」の構造へと書き換えられていくわけだ。

この過程で生じるのが、「罪」と「浄化」の制度化だ。ここで大祓詞🔗に記される天津罪・国津罪🔗というものが生まれる。

農耕社会への移行に伴い、当時の共同体の秩序を乱す行為が「罪」として定義されたわけだ。天皇はもともと、これらの罪を「清祓(きよめはらい)」によって浄化する宗教的な役割を担っていた祭祀王だ。この宗教的権威が、次第に現世的な政治権力(法)へと変質することで天皇制が確立されたと解釈されている。

そしてそれらのシステムの神話による正当化が起こる。太陽神アマテラスと暴風神スサノオの相克による壮大なホームドラマだ。

吉本はアマテラスを「大和朝廷(国家の共同幻想)」、スサノオを「原始農耕民や異族」の象徴と捉えた。母の死を受け入れられず泣き続け国土を荒廃させてしまった暴風雨神スサノオが、太陽神アマテラスのもとに赴く。それを戦士のように完全武装したアマテラス(これ、日本のサブカルチャーの先頭美少女の源泉だよね)がスサノオと遭遇する。

スサノオは自分に悪意のないことを訴え、その証に『誓約🔗=うけひ』という、相互の持ち物を交換してそれをもとに子をなすという、象徴的な近親相姦を行う。そこで、男子を得たスサノオは、自らの潔癖が証明されたと称し、高天原に乗り込み、様々な乱交を犯し、秩序を乱す。この時に行われた乱交乱暴が、罪の祖型とされるわけだ。

これによって、スサノオは地上へと追いやられ、アマテラスは天岩戸にこもってしまう。そこからは有名な天岩戸の神話だ。

スサノオの乱暴と追放の物語は、国家(共同幻想)が個々の民衆を「罪」の自覚によって支配下に置き、従属させるプロセスを象徴的に表していると分析されている。

ということは、俺たち民衆の中には、小さなスサノオの雛形が罪とともに宿っているんだ。

それに続いて発生するのが、母制から父制への移行だ。

サホ姫の挿話(実質的な初代天皇と考えられている崇神天皇の第三子垂仁天皇🔗の皇后)を例に、兄との「対幻想(家族愛)」と天皇への「共同幻想(国家的忠誠)」の間に引き裂かれる葛藤を描いている。

これは、神武天皇以来、9代のその存在が疑問視されている天皇(当時はオオキミと呼ばれていたけどね)を除いて、国家という共同幻想が人々の中に凝集し、形を持った直後に怒った出来事だ。

吉本によれば、この対立において共同幻想(天皇制)が勝利することで、日本独自の国家形態が完成したと考えられている。

そしてその思想的な意義

吉本の論点は、天皇制を「歴史的にずっと存在した実体」ではなく、あくまで人間が生み出した「幻想(観念)」の拡張であると捉え直した点にある。右派の皆の衆、すまんな。

これにより、当時のマルクス主義的な唯物史観🔗(経済構造が土台であるとする考え)とは異なる、人間の心性や関係性から国家を批判する独自の視座を提示したわけだ。


そして、俺の話は核心に向けてどんどん向心力を増し、強力な引力が様々なものを引き寄せるように、拡張し、君がまだ見ぬ結論へと凝集してゆくだろう。しっかりとついてきてほしい。

アマテラスとスサノオのペアの存在には、氏族の祖神に仕える巫女王を、男性の弟が実際の政治を取り仕切り支えるという、権力の複合体制がモデルになっているという視点がある。

吉本隆明は『共同幻想論』の中で、日本の古代国家(天皇制)の成立過程における特異な形態として、「巫女(女性)の霊力」と「その兄弟(男性)の政治力」による共同統治を重視した。

漫画の神・手塚治虫の『火の鳥🔗黎明編』にも、火の鳥の生き血を求める巫女王ヒミコと、その言葉を取り次ぎ政務を司るスサノオという登場人物が描かれていた。まさにそれだ。俺は小学2年生のころからこの漫画を読んでいたから、『共同幻想論』を読んだとき、すぐにこのことだって理解したよ。

これは文化人類学などで「ヒメ・ヒコ制」とも呼ばれる構造だ。

吉本はこれを対幻想(きょうだい愛・性)が共同幻想(政治・国家)へと転化する結節点として分析している。

巫女(ヒメ)と弟(ヒコ)の複合性のポイント

霊媒師としての女性(ヒメ)

吉本は、古代において神の託宣を聞くことができるのは女性(巫女)だけであったと考えた。実際、日流文化圏においては神の声を聴くことができるのは、沖縄のユタやノロ、そしてその頂点の聞得大君🔗や東北のイタコなど、ほとんどが女性だ。

彼女たちは「神という共同幻想」と直接つながる窓口であり、集団の意志を決定する源泉であった。ちなみに俺が若いころに所属していた秘密結社的な宗教団体でも、その方針決定は若い女性霊媒を通じた神霊との対話によってなされていた。俺は国家の生まれる瞬間のような時間を、自分の人生の中で生きていたわけだ。

実務・政治を担う男性(ヒコ)

女性が受け取った神託を、実際の集団の統治や法執行へと翻訳し、現実の権力として行使するのがその弟や兄(ヒコ)の役割であった。先にあげた『火の鳥・黎明編』のスサノオがまさにこれだ。

「対幻想」の利用と抑圧

この男女のペアは、本来は「きょうだい」という最も純粋な対幻想の形を取っている。

しかし、国家が成立する過程では、この個人的な愛着や絆が、集団全体を支配するための共同幻想(天皇制の権威)の道具として再編されていくのだ。

古事記や日本書紀を紐解けば、この名残が多く見られるだろう。一例をあげれば、アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係や、先にあげた崇神天皇の大叔母倭迹迹日百襲姫命🔗ヤマトトトヒモモソヒメ(巫女)が崇神天皇が支える構造などがこれに当たるだろう。また琉球王朝の国王と国土を霊的に守護するおなり神🔗とされる聞得大君とその兄弟の国王の関係もまさにこれに当たるだろう。

吉本はこの「男女ペアの統治」が、やがて男性単独の権力(天皇制の確立)へと移行していく過程を、「対幻想が共同幻想に完全に飲み込まれていく悲劇」として描き出したんだ。

この話は、とても大切な話だから、焦らずつづきは明日に任せよう。何せ今夜も仕事なのさ。

2026/05/01

POST#1836 俺の考えはきっと上野千鶴子を逆上させるだろう。

千葉県佐原市
皇統存続のためなら、側室制度を復活させればええやんっていう俺のとんでも発言(自分でもわかってるぜ)はきっと上野千鶴子センセーのお怒りを買うことだろう。
まぁ、俺のような地下人の放言など上野千鶴子センセーには届くことはないので、杞憂とはこのことだ。

彼らの人類学的なフィールドワークに基づく、人類社会の祖型ともいえる南米の様々な部族の姿を通して、人間という生き物の社会の原型を探るのが俺の楽しみだ。
彼らはその著書『悲しき熱帯🔗』や『国家に抗する社会🔗』などで、権力を持たない首長たちの姿を描いた。彼らが描いた首長たちは、だれよりも働き、共同体の皆に対して、一族の歴史と倫理を、あるべき姿を、たとえみんながあくびをして聞いてなくても、鼻くそをほじって聞いてなくても毎日語り掛け、その共同体の理念を成員の中に刻み続ける。
狩猟の際には、皆にどこに行けば獲物がいるか導き、不猟の時には自分と妻を伴って、皆の食料を集め、不平を垂れてひっくり返っている共同体の皆に分配する。
故に、これら人類の未開社会に現れる首長たちは、総じて一般のものたちよりも貧しく、成員を取りこぼすようなことはしない。弁舌に優れ、また優秀な狩人でもある。
まるで、首長そのものが行政府そのもののようだ。
しかし、首長にはなんの権力も強制力もない。あるのは、皆を導き生かすという義務だけだ。
しかし、そこから一歩権力者という境涯に足を踏み入れ、共同体の中で突出した存在となって、その成員を支配しようとすれば、彼は共同体から追放されたり、夜陰に紛れてその喉笛を掻き切られることとなる。
これは古代アテネでも、同じように権力を独占しようとした僭主🔗が追放されたり、勇敢な市民によって殺害されたり、陶片追放🔗されたりしたのと同じだと俺は考えている。少なくとも全く同じではないが、相似だ。
こうして、『未開社会』は極めて民主的で、独裁や支配を許さない体制を維持する。
だれがそうすると決めるわけでもなく、それが共同体そのものの意思=共同幻想のようにね。
これらの社会は基本的に一夫一妻制なんだけれど、この首長だけは年若い第二婦人を持つことを認められている。なぜって、皆の要求を満たし、万一の時には食料を工面したりするために労働力が必要となるからだ。この第二婦人は、ギリシャ神話のアルテミス🔗のように男たちと森に分け入り、同じように狩猟し、往々にして壮年の首長の補佐をする。

さて、俺が側室制度云々を言うのには、右派の人々が大好きな『日本の伝統』に基づく以上に、これら人類の社会のごく基本的な段階に発生する『権力を持たない首長』のあり方に大きく影響されている。
そもそも、右派の政治家のセンセー方が掲げる伝統なんて、自分たちの思う理想にかなった部分だけをつまみ食いしたフィクションだしね。
『権力を持たず』共同体の掟と道徳倫理の『象徴=化身』として、皆にあるべき姿を語り続ける首長。
君は僕の言わんとするところを理解してくれるだろうか?

どこかの国の国民の統合の象徴として、常に弱者や被災者のそばに寄り添い、右派の政治家連中やネトウヨ民の批判もどこ吹く風で、苦しむ人々に対して膝をつき目線を合わせ、その言葉に耳を傾けられる象徴としての首長。常に柔和な笑顔を崩さず、いかなる私も廃して、自ら権力を持つことをその人生の可能性から排除して生まれ変わり死に変わりしてその意思を継承して存在し続ける、中空の権力としての帝。

ちょっと脱線するけれど、仏さまって色々あるじゃない。阿弥陀如来とか薬師如来とか、不空成就如来とか観世音菩薩、普賢菩薩とか。
これは実はそういう人格神というものではなくて、あくまで慈悲や知恵といった理念に形を与えたものだ。つまり、慈悲の化身とか救済の化身とか知恵の化身ってことだ。

我が国の天皇陛下とは、この化身って概念に近い気がする。なんの?

ジャン=ジャック・ルソーが言うところの一般意思🔗の化身だ。
これは俺の独自の観念だから、何の学問的な裏付けもないけれど。俺は極めて近しいと感じている。批判してい人はどうぞ徹底的に批判してください。僕は歯牙にもかけないから。

レヴィ=ストロースは、日本が先端技術を持ち、高度に発達した国でありながらアマゾンの奥地に住む部族の人々とも通じる神話体系とそれに基づく社会観念を持つ国であり続けていることに驚嘆していた。
俺が上野千鶴子センセーの鼻面を逆なでするようなことを主張するのは、浅薄なデントーや単にその血統を維持するためというような不敬な話ではなく、人類の数万年スパンのあり方について、五劫思惟したうえでの主張だということをわかってほしい。

そもそも、天皇とは何なのか?君は考えてことがあるか?神話的な話をしてるんじゃない。どのような役割=機能を持ってこの日本という列島に存在してきたのか、深く向き合って考えたことはあるかい?
明日はそれを掘り下げてみよう。

上野千鶴子センセーには激切れされるだろうが、泉下のクロード・レヴィ=ストロースは、『Ce'st Bon. 君わかってるね』って、ワインを勧めてくれると思うんだけどな。
今夜も仕事だから、飲酒運転は困るんだけれどね。

2026/04/30

POST#1835 俺が天皇陛下なら、自分の家のことを他人決められたくないよな

伊勢

今、高市政権は皇室典範の改正に向けてフルスロットルだ。

俺が畏れ多くも皇統に連なる立場だったら、家の事情にいちいち口を突っ込んでもらいたくないと思うだろうな。よっぽど『愛子内親王のご即位』つまり『愛子天皇』が嫌なんだろうな。

エマニュエルトッドが分析しているように、わが国は直系家族だから男系男子の維持を最優先するだろう。 高市総理は、2000年以上にわたって例外なく続いてきた「父方をたどれば神武天皇にいきつく」という男系継承の伝統(そんなの幻想だ)を、自らの保守政治の根幹として守るべきだと考えているんだとさ。けど、そんなのみ皆の衆信じてるのか?神武天皇だって怪しいもんなのにね。

いわゆる 「愛子天皇」の誕生は、現在の典範が定める「男系男子」という原則を変更することを意味するわけだ。高市総理は、女性天皇が認められた場合、その次の代で女系天皇(母方のみが天皇の血を引く天皇)へつながるリスクを懸念してるんだとさ。で、これを阻止しようとする姿勢がくっきりはっきりだ。けど、歴史上にも時代の転換点には推古天皇とか持統天皇とか女性天皇が即位してるがな。今は俺からすると未曽有の歴史の転回点じゃないかって思えるけど。今しかないでしょ!

旧宮家の皇籍復帰を推進して皇族方の数の確保にを法制化して、愛子さまを天皇にするのではなく、旧宮家の男系男子を養子に迎えるなどの案で解決を図ろうとしているようだ。

それでもし、保守論客でブイブイ言わせてる竹田宮様の御後胤が即位することになったら、俺は絶対に嫌だな。  悪いけどまったく尊敬できないよ。ゴールデン・トライアングルでケシでも栽培して暮らすさ。

高市総理の行動は「愛子さま個人への感情」というよりは、「男系継承という伝統こそが皇室の正当性の根源である」という強い信念に基づいた政治的判断といえるだろう。しかし、国民の間では愛子天皇を望む声が高く、この方針が国民の意思を無視しているとの批判も根強くあり、をり、はべり、いまそかり。 まぁ、奴らが国民の意思なんか全然気にしないってのは今に始まったことじゃない。あいつらは国民や陛下のことより、支配のシステムのほうが大事なんだ。

そもそも天皇制とは何なのかとか寸毫も考えず、保守と如何なる態度かも考えていないちゅうのも、今に始まったことじゃない。ただ、自分たちの支配の後ろ盾というか正当性の証としての天皇制が大切だと思ってるだけだ。不敬極まりないぜ!

俺は天皇制とは何か、吉本隆明🔗の『共同幻想論』に出会ったときからずっと考え続けてきた。

そんな俺から言わせると、旧皇族🔗を今一度皇族に養子として迎え入れるとか、そんなことしか彼らは考え付かないのか?

 いっそのこと 皇族には側室を持たせるとか それぐらいのこと考えたら どうなのかしら?

この意見は、歴史的に見れば確かに男系継承を支えてきた強力な手段だった。しかし、かつて皇太子時代の昭和天皇が摂政として大正天皇の輔弼をなさることをお受けなさった折り、その条件として側室制度の廃止を断行されたという話を聞いたことがある。昭和天皇は側室制度が現代的な制度ではないとお考えになられたのであろう。もっともだ。

とはいえ、俺がアナクロニズムを承知で今一度この側室制度を唱えるのは、天皇という存在が、畏れ多くも現代的な存在ではない。古代の息吹を今に伝える祭祀王≒生身の神だからだ。

しかし、高市総理をはじめとする現代の政治議論では、側室の復活は事実上「ありえない選択肢」として扱われている。

高市総理はインタビューなどで、側室制度の復活について「考えたこともございません」と笑い飛ばしており、明確に否定しているそうだ。

一宰相如きが、皇室の在り方に対して笑い飛ばすなど、不敬の極みではないか?言行不一致とはこのことだ。本来、内閣総理大臣は「天皇の補助」を行う立場であり、皇室のあり方に対して謙虚であるべき存在だ。

それにもかかわらず、高市総理が「側室」という歴史的な制度について、一政治家の価値観で「あり得ない」と笑い飛ばす姿は、見方によっては以下の点で極めて不遜にして不敬だといえるだろう。彼らの大好きな戦前の価値観なら、万死に値するんじゃね?

越権行為: 皇室の伝統を「守る」と言いながら、都合の悪い伝統(側室)は現代の価値観で一方的に切り捨てるという、「選別する傲慢さとご都合主義」が透けて見えまくりだろ?

不誠実な態度: 2000年の伝統の重みを説くのであれば、かつてそれを支えた側室制度を単に「笑い飛ばす」のではなく、なぜ今は不可能なのか、その矛盾を誠実に説明する責任があるはずじゃないのかね。

「道具」としての扱い: 皇室を自分たちの保守的なアイデンティティを誇示するための「道具」として利用しているからこそ、陛下の御意思や歴史の重みよりも、自分の政治的パフォーマンスが優先されてしまうのだろう。まぁこれは蘇我馬子の頃からわが国の伝統かもしれんな。

歴史と伝統を重んじると言いながら、その実、自分たちの都合で伝統を「編集」し、陛下に対して不遜な態度を取ることは、「究極の偽善」であり、政治家としての資質が問われるべき傲慢な姿勢ではないかね?

「伝統」を口実にしながら、実際には陛下や国民の思いを軽視するこのような政治のあり方は、果たして日本の象徴である皇室を本当に守っていることになるのだろうか?君はどう思う?

さて、法的な側面からなぜ側室が、あかんのか考えてみるに、そもそも夫婦別姓だって大騒ぎして30年も放置されてるんだから、できっこないと思うよな。

日本は明治31年の民法によって重婚を禁止しており、皇室も昭和天皇以降は側室を持たない一夫一婦制が完全に定着している。現代の価値観において、皇室だけを多妻制に戻すことは「国民の敬愛を損なう」と判断されているんだとさ。

加えて戦後の皇室典範(1947年)では、正妻(皇后)以外から生まれた子(非嫡出子)には皇位継承権が認められていないんだ。もし側室を認めるなら、この根幹部分を書き換える必要がありるだろう。

お妃候補がいなくなるリスク: 現代において、側室がいることが前提の家庭に嫁ごうとする女性を見つけるのは極めて困難だわな。上野千鶴子が黙っていないだろうよ!この制度自体が婚姻のハードルを上げてしまうという皮肉な結果を招きかねんな。

高市総理が「愛子天皇」を認めず、かつ「側室」も否定する場合、残された道は「旧宮家の男系男子を養子に迎えて皇族にする」という案一点に絞られることになるんだというのが、彼らの思考パターンだ。

これがいま彼女が「フルスロットル」で進めようとしている現実的な落とし所と言えるでしょうな。俺から言わせたら、底が浅い。

「伝統を守るための側室」と「現代の倫理観」の間にあるこの矛盾こそが、議論を複雑にしている最大のポイントだとしても底が浅い。


「側室を持つ方が現実的」という考え方は、生物学的な皇統の維持という点では理にかなっているように見えるし、実際かつては世界中で行われていたが、現代の法制度や国民感情という高い壁に阻まれちゃうだろう。みんなお利口さんだからな。

高市総理が「側室」を完全に選択肢から外し、旧宮家の養子案に「フルスロットル」で突き進んでいるのには、以下のような政治的な「現実味」の判断があると考えらている。

1. 「側室」よりも「養子」が選ばれる理由

憲法と法律の整合性: 現代日本は「一夫一婦制」が法的に確立しており、側室制度を復活させるには民法や憲法の家族観を根本から覆す必要がある。一方、養子縁組であれば、皇室典範の改正のみで手続き上は可能となる。

国民の受容性: 21世紀の現在、側室を認めることは「女性蔑視」や「時代錯誤」との猛烈な批判を浴び、皇室の尊厳を著しく損なうリスクがある。高市総理も、側室については「考えたこともない」と即座に否定し笑い飛ばしてる。 けど、俺だって、そんなことは百も承知で覚悟の上で言ってんだ!

2. 高市総理が「養子案」を推す最大のメリット

高市総理にとって、旧宮家の男系男子を養子に迎える案は、彼女が守りたい「伝統」と「現代の市民の常識との妥協点」のギリギリのラインだろう。

男系継承の完全維持: 側室がいなくても、すでに存在する「男系男子(旧宮家の末裔)」を皇室に呼び戻せば、126代続いてきたとされる男系の血筋を絶やさずに済むんだと。しかし、一度民間に戻ってしまった人々が、憲法の外側に孤独に存在する皇族にもう一度もどったとして国民たちは支持するだろうか?

愛子天皇議論の回避: 皇族数を確保し、将来の継承候補(悠仁さまの次世代など)を増やすことで、「愛子さまを天皇にする(=男系男子の原則を崩す)」という選択を「喫緊の課題」から外すことが可能になる。けど、そんなに言うならいっそ、クローン人間とか提案してるみたらどうだ?

3. ただし、養子案にも「非現実的」との批判がありますぞ!

高市総理が強力に進めるこの案も、決して万能ではない。

「門地による差別」の疑い: 特定の血筋の人だけを国民から皇族にするのは、憲法14条(法の下の平等)に反するという指摘が野党や憲法学者から出ている。あたり前だ。

本人の意思: 80年近く一般国民として生活してきた旧宮家の方々が、果たして本当に皇族としての重責と制約を引き受けるのか、という実効性の疑問も残っている。無理でしょ?

結局のところ、高市総理にとっては「側室」は論外であり、愛子天皇の容認(女系への道)を絶対に避けたいからこそ、消去法的に「旧宮家の養子案」が唯一の現実的な突破口になっているという構図ですな。

側室も愛子天皇も認めないとなると、この「旧宮家の養子案」が失敗した場合、皇室はどうなってしまうと思う?

俺の意見を述べるぜ、よく聞いて欲しい。

そもそも 天皇家という一族は、憲法も含めて法制度の例外として考えられているので 、民法が、どうだとか取ってつけたような法律論は偽善じゃないか?

憲法第1条で「国民の総意」に基づく「象徴」と規定されている天皇・皇族方は、戸籍も持たず、参政権や職業選択の自由もないなど、最初から「法の下の平等」の枠外にある存在だ。

その意味で、「側室は法的にダメだが、男系維持のための養子はOK」という線引きを「偽善的だ」と感じるのも、無理からぬところだろ?

高市氏ら保守層が、側室を「非現実的」と言いながら養子案を「現実的」とする裏には、以下のような論理(あるいは苦肉の策)がありわいな

「人権」のライン: 側室は現代の「女性の人権」や「公序良俗」に真っ向から反するため、国際的な批判も含めて政権が耐えられないと判断している。

対して、養子は「本人の同意」があれば、既存の法体系の延長線上で説明がつきやすいと考えてるんだろ。

「国民の感情」という物差し: 多くの国民にとって、側室は「時代劇の世界」だろうが、養子は「家系を継ぐ手段」としてまだイメージしやすい、という計算がある。

しかし、自民党の皆さんが改正したがっている憲法すら例外的存在と規定する「特別な一族なのだから、理屈をこねずに伝統的な手段(側室など)を検討すべき」という意見や、逆に「特別扱い自体が限界なのだから、愛子さまを認めれば済む話だ」という意見が出るのは、まさに「皇室という例外的な存在を、どう現代の法理で説明するか」という矛盾が限界に来ている証拠と言えるだろう。

けれど、そもそも女性の人権 云々言うんだったら愛子天皇だっていいんじゃないですかねぇ?君はどう思う?

バカバカしいぜ。それこそアナクロニズムだんべ(笑)