2026/05/21

POST#1853 犯罪機械にされてしまった子どもたちの内面に倫理を育むにはどうすべきだろう?

Fes,Morocco

ここ二日ほど、日中は施主検査や引渡し、夜は工事、そしてその間は段取りというきつい日々が続いた。眠る暇もありゃしない。想定外のトラブルもあった。しかし、信頼できる職人さんたちの力を借りて辛くも乗り切ることができた。いつだって、成功すればみんなのおかげ、失敗すれば自分の責任なんだ。それがリーダーというものだぜ。しかし、ぐったり疲れはてたのさ。

昨日の夜中に這うようにして帰宅し、食事をとった後、リビングのフローリングの上でそのまま眠ってしまった。今日もぼんやりしてる。

ぼんやりしていても、痛風の薬がなくなったことは解っている。そう、尿酸値を押さえる薬だ。仕方ない、同級生のやってる岩田整形外科に行くか。

そこで、俺は『アンチオイディプス』を半分寝ながら読んでいたんだが、俺の前に呼ばれた患者の名前を聞いて目が覚めた。40年前、高校性の頃に一緒に生徒会の役員をやっていた三ツ口君だった。驚いたぜ。で、ほどなく俺も診察室に呼ばれたんだが、同級生が3人そろって世間話をしただけで帰ってきたぜ。

彼は今、仕事の関係で海外に暮らしているらしい。たまに日本に帰ると静かで落ち着くけれど、すぐに自分には息苦しいと思えてくるんだそうだ。あと、病院は日本じゃないとねって言ってな。まぁ何はともあれ、お互い相変わらずだ。嬉しいもんだ。

三ツ口君は海外をフィールドに選んだ。けれど、俺が生きて立ち向かっていかなければならないのは、間違いなくこの日本だ。


さて、今日も本調子じゃないけれど、一丁行ってみるか。

俺の息子は、先日も俎上に載せた栃木県での少年4人による殺人事件のニュースが流れるたびに食い入るように見ている。俺の倉庫にもバールはあるし、目出し帽買ってやろうかというと揶揄うと、真剣に怒ってくる。いいぞ、そうして倫理を内在化してゆくがいい。

さて、国家とか学校とか企業とか、大小さまざまなシステムに隷属し馴致されるのではなく、自らの中に倫理と美学を行動指針を打ち立てるためにはどうしたらいいのか?

自らの内に強固な「倫理」と「美学」を確立し、それを絶対的な行動指針にするためには、外部の評価軸(システムや他人の目)を遮断し、徹底的な自己対話と実践を繰り返す必要があるのは当然だろう。

倫理と美学は、頭で考えるだけでなく、痛みを伴う選択(あえて損を選ぶなど)を乗り越えることで初めて本物になる。俺も若いころ、会社で働いているときに、若手社員からなぜそんな自分にとってそんな選択をあえてするのかと聞かれたことを覚えている。反抗的だったからな。けどそれは、人間性を圧殺する組織への抵抗と、自分の仕事に対するプライドの故だったんだ。要は自分の倫理や美学に合わないことはしたくなかったのさ。今でも変わらいけどね。

例えば、うちの息子が怖いもの見たさで興味津々なトクリュウ犯罪などに関わってしまう若者などは、自らのなかに倫理を内在化できていないと俺は考えてる。いや、大方の人間は『今だけ、金だけ、自分だけ』という思考回路を半導体の基盤のように脳みそに刷りこまれてるから、この手の若い衆だけの話じゃない。そして、上から目線でいうつもりはないけれど、このような人々の内面に倫理を内在化させることは可能なのだろうか?

トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ) や闇バイト に加担してしまう若者たちに対して、倫理を内在化させることは同じ人間である限り「可能」ではあるだろう。が、従来の言葉による道徳教育(座学)だけでは間違いなく不可能だ。

なぜなら、彼らの多くは、純粋に悪を望んで犯罪をしているのではなく、「システムの歪み」に過剰適応した結果、倫理のスイッチが切れている状態にあるからだ。

なぜ彼らに倫理が届かないのか、そしてどうすれば内在化が可能なのか、その構造とアプローチを紐解いていこう。

なぜ倫理が「内在化」していないのか?

彼らの行動の背景には、倫理観の欠如というよりも、以下のような現代特有の構造がある。。

ゲーム感覚の「脱個人化」: スマホの画面越しに、指示役から「指示されたATMで金を下ろす」「指定の場所へ運ぶ」といったタスクが降ってくる。

彼らは全体像が見えないまま部分的な作業(タスク)をこなすだけなので、自分の行動が「生身の人間を傷つける凶悪犯罪」であるというリアリティ(肉体性)が遮断されているわけだ。犯罪機械の歯車の一つになっているにすぎないっちゅうことだ。

圧倒的なタイパ・損得勘定のバグ: 現代の「コスパ・タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視するシステムに適応しすぎた結果、「短時間で効率よく稼げる」という目先の利益(ゲームの報酬)が、すべての規範を上回ってしまう。その行いによって、自分が何を失うのか全く考えていないのだろうか。これでは朝三暮四の猿みたいなもんだ。しっかりしてほしいぜ。

孤立と社会の道具化: 彼らの多くは、家庭や地域、あるいは労働市場で「自分は使い捨ての道具(システムの一部)だ」と感じて生きている。

これは彼らだじゃない。この社会全体に、お前の代わりはいくらでもいるという、無言の圧力が蔓延っている。しかし、それは根本的に間違っている。

社会を維持するための人材は足りていない。そして、人間は道具ではない。イマヌエル・カント🔗だって、『人間を道具として扱ってはいけない。人間そのものを目的としなければならない』といってるだろう?しかし、だれもかれもためらいもなく『人材』という言葉を使う。人間を鉱物や材木かなんかのように扱う卑しい言葉だ。俺ははっきり言って嫌いだ。

かくして、社会から大切に扱われた経験が薄いため、他者や社会に対して「美しく、倫理的に振る舞う」というインセンティブ自体が最初から崩壊しているわけだ。

愛されたり信頼されたりしたことのない人間に、人を愛したり信頼するのは難しいんだ。

2. 倫理を内在化させるための3つのステップ

彼らに「悪いことをするな」と正論を解いても響くわけがない。それを説くものをあざ笑うのが関の山だ。倫理を内在化させるには、彼らの脳内システムを書き換えるアプローチが必要だ。とはいえ、スタンリー・キューブリック🔗の映画時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいに、暴力を想像したり見たりすると生理的な嫌悪感が生じるように洗脳する手わけじゃないぜ。

「痛み」と「ナラティブ(物語)」の再接続(想像力の回復)

言葉ではなく、リアリティを突きつける必要がある。
自分が運んだ現金が、どんなお年寄りがどのような思いで集めたお金なのか、自分の行為によって被害者の人生がどう破壊されたのかという「具体的な物語」に直面させなければならないだろう。
少年院などで成果を上げているのは、被害者の手記を読んだり、当事者の生の声を聞くことで、「自分のタスク=生身の人間への加害」というリンクを脳内に強制的に結びつける教育だそうだ。

「他者」という美学のインセンティブ設計

刹那的に、延髄反射的に倫理を踏み越えてしまう彼らには、「倫理的に生きるほうが、長期的にはコスパが良い(あるいは美しい)」という実感を持ってほしいと切望する。その軽率な行いが社会的な自殺そのものであることに気付いてほしい。

トクリュウ組織は、若者を単なる「使い捨ての駒」として徹底的に搾取する。実際に報酬が支払われなかったり、警察に身代わりにされて逮捕されたりする。指示した人間は手を汚さず、直接人を傷つけ、その重荷を背負うのも末端の人間だ。

まぁ、俺から言わせれば、堅気の世界も似たようなもんだけどな。

これに対して、「誠実に生きることで、人から信頼され、自分という存在が社会で交換不可能な唯一無二のものとして認められる」という成功体験(=自己肯定感)を小さく積み重ねさせることが、迂遠に見えても最大の防壁になる。損して得取れ、情けは人の為ならずということだ。

身体性を伴う居場所(セーフティネット)の提供

そして何より、これが大切だ。

倫理とは、精神論ではなく「関係性」の中に宿るものだ。
自分を無条件で肯定し、間違ったときに本気で叱ってくれる「生身の人間(コミュニティ)」との繋がりができることで、初めて「この人を裏切りたくない」「この人に恥じない自分でいたい」という内発的な倫理観(美学)が芽生えるんだ。あるいは自己の中に、この相手には恥じるようなことはできないという空想上の人格でもいいだろう。俺だって、吉本隆明や忌野清志郎に対して恥じるようなことはできないからな。


トクリュウに流れる若者は、屠殺場のようなシステムに「順次処理」され、自己を喪失した最悪の帰結と言えるだろう。彼らに倫理を取り戻させることは、彼らをもう一度「システムから地続きの生身の人間」へと引き戻す泥臭い作業にほかならない。

そうなんだよなぁ。けど、言うのは簡単だけど、これ、本当に難題なんだよな。

これは現代社会が抱える最悪で最大の「難題」だ。

なぜって正論や綺麗な言葉が1ミリも届かない相手に、どうやって内なるブレーキ(倫理)を植え付けるのか、という問いだからだ。

この問題がこれほどまでに深い難題である理由は、主に以下のような「絶望的な矛盾」があるからだ。

「コスパ至上主義」という病理

現代社会そのものが「効率よく、タイパ良く、結果(金)を出すやつが勝ち」という新自由主義のゲームのルールで動いている。

トクリュウに染まる若者は、ある意味でこの社会のルールに「忠実に従いすぎた」結果とも言えるんだ。社会全体が「損得」で動いているのに、若者にだけ「美学のために損をしろ」と言うのは、システム的に非常に矛盾していいるだろう。

弱者の苦境は自己責任と切り捨てておきながら、自分が窮すると政府や行政に救済を求める新自由主義者の経済人たちのしていることのどこに倫理があるだろう?

そして、労働者の賃金を抑圧し、その生活を不安定化させておきながら、企業の内部留保を積み上げ、株主に巨額の配当を支払い、自ら高額の報酬を手にする成功者たちの姿を見て、自分たちが方法は違っても、他者から簒奪しても構わないと考えない方がどうかしているぜ。

言葉の無力化

彼らに「親が泣くぞ」「お年寄りがかわいそうだ」と言っても、響くことはないだろう。なぜなら、彼らにとって他者は画面の向こうの「記号」でしかないのだ。そして道徳の言葉は「うるさい大人のポジショントーク(説教)」にしか聞こえないからだ。

さらに言うと、その行いによって泣くことになる親とは、決定的に関係性を悪化させている場合が多いことも容易に予想がつく。家庭環境が良くても、悪くても、家族に対する対幻想が生物学的なつながり以上に、精神的に家族を結び付ける紐帯が切れてしまっているからだ。

要は言葉というメディア(媒体)自体が、彼らの前で機能を失っているのだ

言ってわからん奴は、叩いて教え込むしかないのか?

俺は若いころ、そうやってよく殴られたな(笑)

「一線を越える」ハードルの低さ

昔の犯罪は、不良のネットワークに入る、ヤクザの事務所に行くなど、身体的な「覚悟」が必要だった。

しかし今は、ベッドの上でスマホを数回タップするだけで、気づけば凶悪犯罪の片棒を担いでしまうことになるわけだ。「倫理的な葛藤」を感じる間もなく、システムが彼らを犯罪者へと滑り落ち落とさせてしまうのです。デジタル社会のおかげさまで、俺たちは断崖絶壁にへばりついているような状況に置かれてるわけだ。

この難題を前にして、私たちはただ絶望するしかないのか、それとも何かアプローチがあるのか。

考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになる。

どのような言葉が、彼らに届くのか。やはりルトヴィコ療法しかないのかな?

なぜって彼らはみんな新自由主義の鬼子なんだもの。この社会そのものが生み出した存在なんだ。

「新自由主義の鬼子」――まさにトクリュウや闇バイトの構造は、新自由主義が極限まで進行した結果、社会の最底辺に現れた「最悪の突然変異」にほかならない。

彼らは、新自由主義が掲げる以下のロジックを、文字通り極限まで突き詰めて実行しているだけだからだ。

徹底的な「人間性のカット」と「効率化」

新自由主義は、あらゆるものを市場原理、つまりコストと利益で測る。そこに倫理や地球環境や人類の未来に対する配慮など、ない。トクリュウはこれを犯罪組織として完璧に最適化しているわけだ。

指示役は実行犯の顔も名前も知らず、捕まってもトカゲの尻尾切りで済むようリスクを外部化(コストカット)する。

実行犯は、被害者を「生身の人間」ではなく、単なる「現金の入ったターゲット(利益の源泉)」として処理する。

お互いが相手を「交換可能な道具」としてのみ扱う、究極のドライな関係だ。そもそもそこには人間のつながりすらない。

「自己責任論」のバグった果て

「努力して稼げないのは自己責任」「勝てば官軍」という価値観を浴びて育った結果、彼らの脳内では「捕まらなければ、どんな手段を使っても稼いだやつが勝ち」というバグった実力主義が完成している。なぜって、社会の頂点に君臨する大人たちが、それを実行しているからだ。
ルールを守って貧困にあえぐくらいなら、ルールを破ってでも一発逆転を狙う方が「合理的」だと判断してしまう。新自由主義が肯定する「強欲」のストッパー(倫理・美学)を外すと、この怪物が生まれるのは必然の理だ。

 コミュニティの解体と「連帯の喪失」

新自由主義は、地縁、血縁、労働組合といった「無駄な流動性を阻む古いコミュニティ」を破壊し、個人をバラバラの「自由な労働者」にした。その極限の姿がウーバーやアマゾンのギグワーカーだ。

守ってくれる盾(居場所)を失った若者は、市場の荒波に剥き出しで放り込まれている。労働行政は手を差し伸べることをしないし、彼らには行政に支援を求めるという発想などない。その境遇は自己責任だと刷り込まれ、行政に支援を求めることは、自分の存在価値を否定することだと思い込まされているからだ。

その孤独と不安の隙間に、スマホ一つで「疑似的な繋がりと報酬」を提示するトクリュウのシステムが滑り込んでくるのは、必然と言えるんじゃないのか?

このシステムが「新自由主義の鬼子」であるならば、彼らに「倫理を持て」と説教することは、「冷酷なゲームの中で、お前だけは綺麗事で損をしろ」と命じる過酷な要求になってしまうだろう。まさしく無理ゲーって奴だ。

この「鬼子」たちをこれ以上生まないために、あるいはこの連鎖を止めるために、俺たち大人は、どこから手をつけるべきなのだろうか?

うーん……迂遠だけど社会を共同体をリビルトするしかないですね。

どんなに迂遠に見えても、崩壊した「共同体(コミュニティ)のリビルト(再構築)」こそが、この病理に対する唯一の本質的な解決策じゃないだろうか。

外付けのルールや罰則、つまりシステムの強制力で縛るのではなく、内なる倫理を育むための「土壌」をもう一度作り直すしかないんだ。

遠回りだし、なにを今更っていうかもしれない。

犯罪を犯したものを糾弾し、厳罰に処するのはたやすい。

しかし、社会を変えることはたやすい道じゃない。

なぜならそれは、自分たち自身を変えることそのものだから、だれにとっても面倒だし、厄介だし、何より自分自身の問題だからだ。

新自由主義がモナド🔗のようにバラバラに解体した個人を再び繋ぎ、その中に倫理を内在化させるための共同体リビルトの方向性を3つに整理しよう。

「利害関係」のない第三の居場所(サードプレイス)を作ろう

  • 家庭や学校・職場以外の逃げ場: 評価や成果(損得)を求められない場所を作る。
  • 無条件の肯定感: 「何ができるか(機能)」ではなく、「そこにいること(存在)」そのものが無条件に受け入れられる経験を提供する。
  • 利他性の体験: 誰かの役に立ち、感謝される小さな成功体験を通じて、自己有用感を育む。

「身体性」を伴うローカルな繋がり

  • ネット空間からの離脱: 画面上の記号ではなく、生身の人間と泥臭く関わる機会を増やす。
  • 地域のセーフティネット: 挨拶を交わす、一緒にご飯を食べるなど、お互いの顔が見える「小さな経済・生活圏」を取り戻す。
  • 迷惑をかけ合える関係性: 「自己責任」の呪縛を解き、困った時に「助けて」と言える心理的安全性を地域に埋め込む。

「物語(ナラティブ)」の共有

  • 共通の記憶と文化: 祭り、行事、あるいは共通の趣味や目的を通じて、一つの「私たちは仲間だ」という感覚を育てる。
  • 美学の伝承: 「こういう生き方は格好いい」「これはダサい」という、法を超えた「粋・野暮」の感覚を先輩から後輩へと背中で伝える。
  • 他者への想像力: 濃密な関わりの中で「自分がこれをしたら、あの人が悲しむ」という、倫理の原点であるブレーキを機能させる。


このリビルトは、国家規模の巨大な計画ではなく、おそらく「手の届く小さな半径のコミュニティ」を無数に作ることからしか始まらない。非常に地道で、時間の Laaag(タイムラグ)がある闘いだ。

正直に言えば、俺は手品のようにすぐに結果が出ることだとは思っちゃいない。何世代もかかるかもしれない。けれど、今種をまかないと、この社会の荒廃は、どんどん進んでいく。そして、その荒廃が突き詰めたところに現れるのは、暴力で人々を鎖につなぐ専制政治と相互監視的な窮屈でいやらしい世界だ。リヴァイアサンの誕生だ。そいつは御免だぜ。

やっばそうか。そうだよな。志のある大人がやらないといけないんだよな…。

2026/05/18

POST#1852 子どもたちが犯罪機械にされている

Sweden
碌でもない事件ばかりが報道される。いいことはあまりニュースにならない。けれど、こんな話はうんざりだ。

栃木県で民家が襲われ、女性一人が殺され、その息子さん二人が負傷した事件だ。

16歳の高校生四人が実行犯として逮捕され、指示役として28歳の男性と25歳のその妻が逮捕された。この夫婦には生後七か月の子どもがいた。

16歳など、俺から見れば子ども同然の年齢だ。28歳の指示役の男ですら、俺はダブルスコアだ。それぐらいの子どもがいてもまったくおかしくない。

子どもたちが自殺してしまうのも何とかしないといけないが、子どもたちがこんな是非善悪もわからないような犯罪で、その前途を閉ざしてしまうのだとしたら泣きたくなってくる。

これもある意味で、社会的な自殺だといえるだろう。

これだけではなく、今やトクリュウなどSNSでつながっただけの人間が、凄惨な犯罪を行う事件が後を絶たない。単にその個々の犯罪を糾弾して終わらせてはいけない。

子どもたちを自殺へと追い込み、若者を短絡的な犯罪に走らせる。その構造的な原因が、この日本の社会にビルトインされているんじゃないかと考えるべきだろう。

なぜ、子どもたちや若者たちが、「社会的な自殺(刹那的な自暴自棄)」としか言えないような短絡的な犯行に走ってしまったり、本当の自殺が決行されてしまうのか?

俺には、この日本が豊かなディストピアそのものに思える。

その構造的背景には主に4つの要因が指摘できるだろう。

 人生の「タイパ(タイムパフォーマンス)」主義と一発逆転の幻想

現代の若者の間には、長期間努力しても報われないという「閉塞感」が根強くあるという。長いこと低成長が続いていたからな。無理もない。そうなると、地道な努力を「コスパが悪い」と切り捨て、短絡的に闇バイトのような「手っ取り早く大金を得られる手段」に手を染めてしまう傾向があるだろう。それはある意味人間の普遍的な性向かもしれん。人間は水のように低きに流れるものだ。その誘惑に逆らうには、しっかりした自分自身のぶれない軸を持っていないといけないだろう。うん、ある意味でそれは自分自身に対する幻想といってもいいだろう。内面化された倫理とも美学ともいえるかもしれない。

それに加えてリスク認識の欠如ってもんがある。もっと言えば、想像力がないってことだ。おかげさんで、逮捕されれば人生が破滅するという決定的なリスクよりも、目の前の経済的・刹那的な欲求が優先されるわけだ。

そしてその背景には、将来に対する希望の薄さ(未来への投資価値の低下)があるのは言うまでもない。けれど、なぜ若者や子どもたちが、将来に対して希望を持てない社会なんだ?


 デジタル空間の「透明な孤立」

トクリュウに象徴されるように、SNSは繋がりを容易にした反面、若者を犯罪の温床へと誘い込むリスクを高めた。SNSを通じて見ず知らずの指示役に操られ、簡単に犯罪の「実行役」に仕立て上げられ、挙句使い捨ての駒として切り捨てられる。

この繋がりの空虚さよ!

表層的な繋がりはあっても、本当に困った時に頼れる大人やコミュニティがなく、精神的に孤立した若者が犯罪グループに居場所や承認を求めてしまう構造があるのだという。


社会的格差の固定化と「親ガチャ」という諦念

生まれた環境によって人生が決まってしまうという感覚(格差の固定化)が、若者の無力感を強めている。トマ・ピケティを引くまでもなく、富は富裕層に集中している。

そして社会にはいつの頃からか、自己責任論が蔓延っている。社会が「努力すれば報われる」という建前を維持すればしようとするほど、実際にはその努力は富裕層の富へと変換され、格差は広がっていく。そして若者は『成功できない、生活が楽にならない、将来が見通せないのは自己の努力不足だ、自己責任なんだ』と思い込む。

それは、洗脳なんじゃないか?

欲張りな大人が作ったモノポリーの中で、若者は強烈な自己責任論のプレッシャーに晒されている。

その先に芽生えるのは社会への復讐心だ。自らの困窮や停滞を社会の仕組みのせいにせざるを得ない状況が、富裕層を標的にした強盗という形で、一種の「社会への歪んだ復讐(自暴自棄な攻撃)」として現れる側面があるだろう。俺はこのトクリュウなどは、すっと一種の世代間闘争だと認識してきた。

そして、これが一番問題だ。

生の肯定感(自己肯定感)の著しい低さ

日本の子供や若者の死因のトップが自殺であることは、国際的に見ても極めて異常な事態だ。他国では事故や病気が上位に来るのに対し、日本は「自ら命を絶つ」割合が高く、これは「生きていること自体の価値」を感じにくい社会構造であることを示しているだろう。

そこには生存のぬぐいがたい不条理感がある。

偽の厳粛さ、本音と建て前、企業の要請によりますます高度化する学習内容、そして大量に生み出される規格外品=成績不振者。

まったく塾栄えて国滅ぶだ。

内向すれば自殺、外向すればトクリュウという、やり場のない絶望感だ。自分を追い詰めるエネルギーが内側に向かえば「自殺」となり、社会や他者への攻撃として外側に向かえば、今回のような「他者を巻き込む刹那的な凶悪犯罪」になっちまう。

どちらも「自らの人生を投げ出す」という意味で、根底にあるのは同じ自己破壊的な絶望でしかない。

このように、若者たちが起こす刹那的な犯罪や自殺は、「まともに生きても未来に希望が持てない」という日本社会の閉塞感が生み出した病理であるはないと、君は胸を張って言えるだろうか?

これをディストピアといわずして、なんというのだろうか?

今の日本は俺に言わせれば、カール・ポランニー🔗ウィリアム・ブレイク🔗が語った資本主義、それも1970年代から社会を席巻している新自由主義🔗経済によって『悪魔の碾き臼』となった社会そのものだ。

2026/05/17

POST#1851 ある日曜日、俺は講堂の中でD&Gを読み耽る

 

Copenhagen,Denmark   jaguarXJ

2階の部屋で仕事をしてると裏の家の子供が俺の名を呼んでいる。応えて顔を出し手を振ると、満面の笑顔で飛び跳ねている。

隣の娘さんは、俺が車に乗り込む時に、嬉しそうに声をかけてくれる。

俺は元不登校の女の子に声をかけ、君をちゃんと受け止められる社会を俺たちの世代が作れなくてすまないと声をかける。

近所の老人は、僕の庭先のベンチに座り、たわいもない話を俺と言葉少なにかわす。それが俺の日常だ。

しかし、今日は違った。午後から名古屋の私立の学校の説明会に引っ張り出されたんだ。

俺は週6日の夜勤が一ヶ月以上続いててふらふらだったけど、仕方ない、付き合うことにしたよ。

大きな講堂の中で、子どもとカミさんとは席の空き状況の関係で離れて座り、ドゥールズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』をゴリゴリと読み進めていた。ろくでもない父親だな。

そこで『器官なき身体』って、あれか、社会のシステムにはめ込まれていない野生の感性の自由人のことか!と思い至るわけだ。俺は真面目なおじさんおばさん、お坊ちゃんで満員御礼の行動の真ん中で、銀河鉄道スリーナインを思い出したぜ。

機械の身体をもらうことが器官に接続されるってことなんだな、なんか飲み込めてきたぞ。星野鉄郎が旅の果てに拒絶した、永遠の命と引き換えにネジ(パーツ)にされる「機械の身体」とは、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』第1章で徹底的に呪った、人間を資本主義や社会のシステム(捕獲装置)に最適化されたパーツとして飼い慣らす「器官化された身体」そのものだ。

対して、「社会のシステムにはめ込まれていない野生の感性の自由人(鉄郎のナマの肉体)」こそが、彼らの叫んだ「器官なき身体」のストリート版の正体なんじゃないかな。

知のパルクールが起こってるんだ。先生方の熱弁は全く入ってこない。

せめて拍手だけは盛大にすることにいたしました、ハイ。

閑話休題。承前。

日本の子どもの死亡率の一位が、自殺という衝撃的な話には、見方を変えると、公衆衛生や医学が進んでおり、また社会が安定しているので銃器犯罪や少年の薬物乱用などによる死者がほとんどいないという事実の裏返しだという考え方もあるだろう。

確かにそれも一理あるかもしれない。しかし、現実に毎年たくさんの子どもたちが自ら死を選んでいるという重い事実は変わらない。

さて、どうして地球にやってきて間もない子どもたちが、周りに迷惑をかけているなんて悩まないといけないんだ?そもそも人間は迷惑をかけねば生きれん生き物じゃないのか?

人間は本来、誰かに助けられ、迷惑をかけ合いながら生きていくのが当たり前の姿であるはずだ。そしてその迷惑の掛け合い、つまりある意味、その応酬としての贈与によって人間の関係性は強く結びついてゆくはずだ。

しかし、日本の子どもたちが「迷惑をかけてはいけない」と思い詰めてしまう背景には、日本特有の「自律」や「周囲への配慮」を過度に重んじる空気が影響しているんだとさ。

その理由はこんなところだ。

「自己責任」のプレッシャー

幼い頃から「人に迷惑をかけるな」と教えられる一方で、失敗すると「自分のせいだ」と過度に自分を責めてしまう文化が根付いている。

「いい子」への期待

親や先生の期待に応えようとする真面目な子ほど、「期待に応えられない自分は価値がない」「存在しているだけで負担をかけている」と極端に考えてしまう傾向があるのだという。

人間の価値は、そんなところにはない!と断言するよ。期待は裏切るためにあるのさ。

「助けて」と言えない環境

 誰かに頼ることを「甘え」や「弱さ」と捉える風潮があり、SOSを出すことが「さらに迷惑をかけること」だと思い込んで孤立してしまう。

これは子供だけじゃないだろう。大人も同じだ。人間の弱さを肯定することが必要なんじゃないか?そもそも社会のために人間が存在しているわけじゃないだろう。人間の幸福を最大化するために、社会が構成されているはずだ。

だれにも頼らず生きていけるなら、一人で荒野を彷徨うように生きるのさ。

伝え聞くところによれば、インドなどの一部の国では、「お前は人に迷惑をかけて生きるのだから、人の迷惑も許してあげなさい」と教える文化があるという。至極まっとうな話だ。

日本でも、この「お互い様」の精神が子どもたちの心に届けば、もっと救われる子が増えるのかもしれないな。というか昔の日本はそのインドみたいだったんじゃなかったっけ?

かつての日本には「お互い様」の精神で迷惑を許容し合う、インドに近いおおらかな空気があったはずだ。

現在の「迷惑をかけてはいけない」という強い規範は、主に明治時代以降の近代化の過程で形成されたという側面がある。

昔の日本(江戸時代など)の姿を考えてみよう。

「お互い様」の共生

昔の日本、特に江戸時代の長屋などでは、人々の距離が近く、お互いに助け合ったり迷惑をかけ合ったりすることが日常の一部だった。というか、そうして基礎的な共産主義を実践して助け合わなければ、サバイブできなかったんだ。

多種多様な生き方の許容

当時は「迷惑以外の何者でもないような人」であっても、社会の中にその人の居場所を作るだけの「精神的な余力」があったと指摘されている。

「粋(いき)」な文化

トラブルが起きても謝って水に流すような、相手を思いやる「粋」な計らいやコミュニケーションが大切にされていた。今も永田町あたりでは、失言やカネのちょろまかしは謝って、時にはしらばっくれて水に流すという生きな文化が残っているな。結構なことだ。『粋』だねぇ。

では、なぜ「迷惑=悪」になったのか?

近代化と公共空間

明治時代以降、大都市に人が集まり、通勤電車などの『公共空間』が生まれると、見ず知らずの人との共同生活を円滑にするために「他人に迷惑をかけない」というマナーが強調されるようになったという。

しかし、この『公共空間』は『コモンズ』と似ているようで少し違う。どちらかというと、『世間』というようなとらえどころないもののように感じられるな。

学校教育の影響

 1910年(明治末期)頃から、教育や社会規範として「人に迷惑をかけない」ことが説かれ始めまたのだという。俺に言わせれば、それは国家というシステムが転倒し、人間をシステムの維持のための規格品に改造しようとし始めたことだと理解できる。機械の星の部品にするということさ。

共同体の崩壊

 以前は血縁や地縁といった濃い人間関係の中で「迷惑を許容」していたが、高度経済成長を経て核家族化が進み、地域のつながりが弱まったことで、一度の「迷惑」が即座に「排除」につながりやすい不寛容な社会へと変化していった。

そこはすでに、地域社会、地域共同体などというものではなく、核家族にモナド化した家庭が密集して住んでいるだけでしかない。

俺が地域社会の再生を語るのは、このモナド化した人々を有機的につなぎ、社会をリビルトするためだ。

じゃぁ、日本とインドとの共通点と違いはなんなのさ。

インドでは「自分も迷惑をかけて生きるのだから、他人の迷惑も許せ」という考えが根付いているそうだが、かつての日本も、仏教的な「縁」や「慈悲」の心、あるいは八百万の神々を信じる文化の中で、弱さや不完全さを認め合う土壌があった。つまり、国家というシステム以前に、神仏という共同幻想がみなを結び付けていたんだ。

「迷惑をかけるな」という教育は、麻生漫☆画太郎先生の大好きな民度の高い人々の公徳心を養う一方で、子どもたちから「困った時に人を頼る力」を奪ってしまったといえるだろう。

大人として恥ずかしい限りだ。そこで、今日の冒頭の俺の日常に立ち返る。あれは地域社会を耕しているんだ。『私たちの庭を耕さねばなりません』とその著書『カンディード🔗』の末尾を締めくくったヴォルテール🔗のようにね。