2026/08/24

POST#1948 俺はかつて大学を辞めた。授業がばかばかしかったからだ

那覇の街角にて
高校三年生の時、大学受験のための判定会が学校で行われた。

自分でB全紙を買ってきて、枠を書いて受かりそうな偏差値の志望校を書くんだ。

それを学校の先生たちが見て、ここを受けてもいいけど、ここは落ちるからやめておけって判定するんだ。今はどうだか知らない。もう40年も前のことだ。

書いていてしょうもない大学ばかりだったから、大学に行くのはやめることにした。こんな大学行くくらいなら、馬鹿田大学でもいったほうがましだ。いっそ、志望校馬鹿田大学って書いてやればよかったかな?なんせ第一志望が早稲田大学第二文学部、つまり中退1流、留年2流、四年で出るのはただのバカといわれた早稲田大学文学部の夜間コースだ。

それすら難しかった。

結局、今は亡き友人の誘いで地元の愛知大学を受験した。

友人は落ちた。俺は法経学部経済学科と経営学科を受けて経営学科だけ合格した。

友人は母親の実家の松島に近い仙台の大学に進学した。皮肉な話だが、世の中往々にしてそんなもんだ。

俺は仕方なく、後ろめたさを抱えながら大学に通ったのだが、あまりいい生徒ではなかった。英語のマルカム・ダフ先生には、遅刻をするたびに叱られた。

フランス語の河原先生は、はっとりをフランス語風にアトゥヒと発音するのが、鬱陶しかったな。

俺は高校の頃から、ユングとかフロイトとかに興味があったから、一般教養課程で心理学を履修することにしたんだ。

そこで出くわしたのが、行動主義心理学🔗に属するオペラント心理学🔗という代物だった。

俺が想像していた、人間の精神世界を探るような心理学とは、バラス・フレデリック・スキナー🔗教授が構築したオペラント心理学はまったくの別物だった。

オペラント心理学(オペラント条件づけ)とは、端的に説明すると行動のあとに起こる「結果」によって自発的な行動の頻度が変わる仕組みを研究する学習心理学だ。

その基本の仕組みはこんなところだ。

①自発的行動(オペラント行動):動物や人間が自ら行う動作。

②スキナー箱の実験:ネズミが偶然レバーを押してエサが出ると、レバーを押す回数が増える現象。

③結果の影響:良い結果が起きると行動が増え、悪い結果が起きると行動が減る。

そして被験体の行動を変化させる4つの要素は強化と弱化に分類される。

①正の強化:良い結果(報酬)を与えて行動を増やす。 

②負の強化:嫌なこと(苦痛)を取り除いて行動を増やす。

③正の弱化(罰):嫌なこと(罰)を与えて行動を減らす。

④負の弱化:良いこと(報酬)を奪って行動を減らす。

素晴らしいことに、このオペラント心理学は、ペットのしつけや子供のしつけに広く応用されているらしい。まぁ、わからんでもない。要は、人間も含めてあらゆる生物の行動は、外部からの刺激によって操作するつまりオペレイトすることができるという考え方だ。

ぶっちゃけて言えば、ボタンを押せば餌が出るということを学習させることによって、その被験体の行動を操作することができるという素敵なものだ。

そこに、人間の精神とか尊厳の入り込む余地はなかった。すべては、刺激に対する反応だった。同じ教科書の中で、ハリー・ハーロウ🔗の『愛着実験』の様子を撮影した、ケージの中で、母親の形に作られた粗末な人形の前で怯えてような表情を見せている子ザルのモノクロ写真は、今でもありありと思い出せる。


しかし、俺はそこに人間の自発性や尊厳、精神の自由さを感じることはできなかった。
何しろスキナー教授は、自由とは無知のことであるといっていたくらいの人物だからだ。
知性とは、自由を捨てさることによって手にするものだということだそうだ。わお!

俺はうんざりした。こんなバカバカしい功利主義的なことを学ぶために大学に入ったんじゃない。俺が大学を辞めることにした原因の一つに、このオペラント心理学があったんだ。

この行動主義心理学は人間を「環境の刺激に対して反応する機械」のように扱い、内面の意識を排除する傾向がある。人間を機械のように、記号のように扱うにはもってこいだ。

そして、利益というニンジンを鼻面にぶら下げて人間の行動をいかようにでも操作できるようになるという思想だ。

これに対して、人間性心理学は人間の自由意志、自己実現、独自の精神性を重視し、行動主義を「非人間的」だと強く批判してきた歴史がある。

なにしろスキナーの理論は実験室の動物(ネズミやハト)をベースに作られたため、「人間の高潔な精神や尊厳を無視している」という批判は当時から現在に至るまで根強く存在してるんだ。俺の直感は正しかったってわけだ。

つい最近、シャショナ・ズボフ🔗の『監視資本主義🔗』を読んで、この言葉が出てくるまで、そんなことすっかり忘れていたのに。

俺たちの生活の隅々まで入り込んだデジタル封建制のビックテックの思想には、このオペラント心理学が息づいている。

2026/08/23

POST#1947 コンビニに行くたびに

ボダナート、ネパール
俺の住んでる郊外はいざ知らず、大きな町でコンビニに入ると、しばしば働いているのはネパール人の若者だったりする。顔なじみになるとすぐにお互いにナマステ!とあいさつし、ダンニャバードと礼を述べる。はじめはみんな驚いた顔をするのさ。多くの日本人にとって、彼らはコンビニで働く外国人という記号でしかない。

しかし、俺自身はほんの少しでも、異文化に寛容な日本人でありたいんだ。なぜって、自分が海外を旅したときに、現地の人々から損得抜きで歓待されたりしたことが多々あるからね。

ネパールに行ったのはもうずいぶん前のことだ。

コンビニにいき、ネパール人の若者が働いているのを目にすると、この写真に写っていたような子どもたちが、すっかり成長して日本にやってきているように感じる。

だから無碍に出来る気がしない。

そっと見守り、わかりやすい言葉で話しかけ、彼らにそっと歩み寄りたいと思う。もちろん、その態度はけっして上から目線ではなく、一種の父性のような感覚だ。気が付けば若者に対して、そんな感覚を持って接するべき年頃なんだ。いつのまにか驚いたことに!(笑)

時には彼らの名前は、ナラヤンとかデヴィーとか、ヒンドゥー教の神様の名前を使っていることもあるから、その名札から名前に込められた意味を読み取ることもある。タイミングを見計らって、素敵な名前だね!と称賛したくなる。

少しでも彼らに、日本に来てよかったと思ってもらいたい。日本はいい国だと思ってもらいたいものだ。それが俺の思う愛国的なスタンスだ。つまり、寛容で朗らか。

しかし、排外主義的な風潮が日本社会を覆っている。俺のベクトルとは真逆だ。

政権与党の幹部たちが、それを煽っている。きっと彼らはコンビニとかで買い物することはないんだろう。

日本の現在地点は、彼らが思っているよりもずっと深刻な状態だ。

現場ではベトナム人やインドネシア人の若い職人ばかりだ。かつて多く見られた中国人はもういない。日本では稼げないと見切りをつけてしまったのだ。そしてその中国人たちは、今や日本人が買えない金額の商品を、ハイブランドで買い漁る。俺の仕事はそのおこぼれで回っているようなものさ。

排外主義を唱えたい人は唱えればいい。

けれど、不寛容な社会は、多様性を受け入れない社会はいずれ衰退する。断言するよ。

2026/08/22

POST#1946 奇妙な世界

アユタヤ、タイ
仕事を終えて家に帰り、届いていた新聞を見る。

一面にはAI関連のニュースがいくつも踊っている。

AIで新薬の可能性を広げる遺伝子配列が二日で17個もみつかった。

AIで数十年も数学者たちを悩ませてきた数学の難問が解けた。

文部科学省が教育に特化したAIを開発することにした。

防衛関連にアメリカのAIを採用することとした。

株式市場はAI関連銘柄がけん引している。

中国ではAIを搭載した人型ロボットが、生産現場で使用され始めている。

エトセトラ、エトセトラ。

素晴らしい時代だ。素晴らしすぎて、笑えてくる。

AIがメールを書いてくれる。AIがメールを要約する。そしてその返事をAIが書く。

生成AIが画像を作り、AIボットがそれを見る。

技術の進歩によって、生産性が上がったとしても、人間の創造性や思考力は、相対的に落ちていくことだろう。

そして、問題が起こってもAIは責任なんか取らないぜ。

まぁ、大概の人間も責任から逃げ回ってるから同じようなもんだけど。

人間を無意味なクソどうでもイイ仕事=ブルシット・ジョブから、AIが解放してくれると期待してはいけない。新たな、よりナンセンスな仕事が増殖していくんだ。


早いとこAIで、職人のモチベーションや仕事の質を見極めたり、そもそもAI そのもので、減少する一方の、身体性を伴うエッセンシャルワークをこなしてくれるようにならないかな。

能書きだけじゃ、世の中何もできないんだ。