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こいつをインストールしたことで秦は中国を統一し、今日に続く中国の全体主義、専制主義の糸口をつかんだということなんだ。カール・ポパー🔗が聞いたら頭を抱えるさ。
エマニュエル・トッドの『世界の多様性』における核心的理論、すなわち「共同体家族(共同居住、兄弟一律平等の遺産相続、強い親権、内婚傾向)」というシステムが持つ「高い権威主義(全体主義)と平等の両立」のパワーを、秦の穆公🔗が西戎🔗・スキタイ🔗のルートから中華世界へと持ち込んだ――。この視点によって、中国史が持つ「なぜあれほど苛烈な全体主義国家(秦)が生まれ、それが今日の中国(共産党体制・専制主義)にまで2000年以上脈々と受け継がれているのか」という最大の謎の底流が一気に繋がるんだ。まさに一気通貫だ。
トッドの家族構造論を基盤に、この極めて本質的な結論をさらに立体的に補強・整理するかな。
1. 「共同体家族」というシステムが持つ恐るべき国家統治力
トッドの理論において、ロシア人や中国人=漢民族のベースにある「共同体家族」は、近代において「共産主義(全体主義・強権的な国家管理)」を非常に受け入れやすい土壌として定義されているんだ。なぜかって?
中原(夏殷周)の「直系家族」と西方の「共同体家族(遊牧民的システム)」
長子が家督を継ぎ、本家と分家の不平等な階層(宗法・身分制)を固定化する『直系家族システム』。このシステムでは、個々の「家」の独立性が高く、国家が一元管理しようとしても、強固な親族ネットワーク(つまり氏族・貴族)が抵抗勢力となるわけだ。もっと言うと国家に対するバッファーになるんだよ。
一方で共同体家族はどうなのか。このシステムでは親の権威は絶対(強権)なんだけど、兄弟間は「一律平等」なんだ。だから社会のシステムとしても、貴族の血統のような「縦の特権階級」を認めず、全員をフラットな兵卒・臣民として扱う方に流れていくんだ。
ざっくり言えば、将棋の駒の直系家族とどれも同じ扱いの碁石の違いみたいなもんだ。
秦は、穆公が西戎からこのエッセンス、つまり共同体家族的なマインドセットを注入したことで、中原の国々のような「貴族の既得権益」に縛られない、「絶対的なトップ(君主)と、その下で一律平等に管理される兵民(国家=疑似的な巨大共同体家族)」というシステムへ移行する基礎を得たという構図が描けるわけだ。
2. 商鞅🔗の改革とは「国家による共同体家族のシステム化」だった
穆公から約250年後、秦で商鞅🔗が無理くり断行した「商鞅の改革」は、まさにこのトッドの言う共同体家族の価値観を、国家法(OS)として全土に強制インストールする作業脱兎という算段だ。もちろん、この極端な政策を人々が受け入れたのは、穆公によって秦に移入された西戎経由のスキタイ的な社会構造があってのことなのはいうまでもないよ。
大家族(直系的な親族)の解体と平民化(分異の法)
商鞅は、1つの家に複数の大人の男子が同居して自立しない場合、税金を2倍するという無茶苦茶な政策を国民に押し付けたんだ。これにより、中原的な「一族の固まり(直系家族の巣窟)」を徹底的に破壊し、すべての人間を国家の前に「一律平等な核家族=個人」にバラしてしまったんだ。つまり父親の果たしていた役割を国家に肩代わりさせるようなもんだね。
軍功授爵制(平等の徹底)
どれほど名門の生まれの直系家族の長男であっても、戦争で敵の首を取らなければ奴隷に落とされ、逆にどれほど身分が低くても、成果を上げれば爵位がもらえるという、極端な能力主義社会を商鞅は設計したんだ。このシステムの持つ「トップの絶対的な権威(法・君主)」の下で、「すべての臣民はスタートラインにおいて平等である」という強烈な平等のダイナミズムこそ、秦の共同体家族システムの持つ最大の爆発力なんだよね。
中原の諸侯が「直系家族」のイデオロギー、つまり儒教🔗の祖先崇拝、身分の秩序、礼法で国をコーティングしていたのに対し、秦は「共同体家族・遊牧民」のリアリズム(法家、軍功、一律管理)で国をサイボーグ化したわけだ。
だからこそ、秦は他の6カ国を物量と組織力で圧倒し、始皇帝🔗の元で天下を統一できたわけだ。
3. 今日まで続く「中国の専制主義」の直系ルート
そして、この時に秦が完成させ、漢以降の王朝が(表面上は儒教で飾り立てながらも)裏の統治システムとして採用し続けた「外儒内法(表面は儒教、中身は法家)」の構造こそが、現代の中国の全体主義へと直結しているんだ。
歴史ってのは、侮れないもんなんだぜ。
トッドが現代の中国(共産主義・専制主義)の権威主義構造のルーツを漢民族の共同体家族の基盤に求めたように、その「家族システムの政治的・国家的一元化」を歴史上初めて成し遂げたのが秦だったという事さ。そして、その最初の遺伝子を西戎から持ってきたのが穆公だった、という筋道は自信をもって読者諸兄諸姉にお送りするよ。
そして、その閉塞感を打ち破るためにスキタイ起源の西方の風(共同体家族の原形)を取り込んで「始皇帝の専制国家」を誕生させ、それが今日の中国にまで至る――。
この歴史のグランドデザイン(大局観)は、東洋史の点と点がトッドの人間社会学という補助線によって一本の巨大な線に繋がる、知的な興奮に満ちた、なかなか面白い仮設だと思うよ。覚えておいて損はないぜ。
さて、問題はこのスキタイ人だ。
スキタイ人は、紀元前8世紀〜紀元前3世紀頃に黒海北岸の南ロシア草原で活動した、世界最古の遊牧騎馬民族だ。 イラン系民族🔗に属し、高度な騎馬技術と優れた金属器文化 を持ってユーラシア大陸の広範な歴史に決定的な影響を与えたとされている。
その概要と、後世や周辺文明に与えた文化的影響について整理してしてみよう。
1. スキタイ人の主な特徴
遊牧騎馬国家の先駆者で独自の戦闘風習を持つシルクロードの仲介者
もともと黒海🔗付近に住んでいたと考えられてるスキタイ人は、西アジアのヒッタイトから鉄器の製造技術を学び、優れた馬具や武器を開発した。けれど彼らは遊牧民だったので、神殿などの永続的な建物は建てず、移動しながら暮らしていたわけだ。
彼らの精強さと独自の戦闘風習は、ギリシャの歴史家ヘロドトス🔗の著書『歴史🔗』に詳しく記録されている。まぁ、この人は話を盛る傾向にあるから、眉唾物も山ほどあるんだけどね。スキタイ人は戦闘で倒した敵の血を飲む、頭皮や人皮を剥ぎ取って馬具や矢筒の装飾にするといった苛烈な戦士文化を持っていたという。まるで敵を家畜か獲物かなんかのように思っていたんだろうな。
スキタイ人は定住生活はしなかったものの、その移動範囲は広く、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網の仲介人として働き、東西の文化交流を促進したとされているんだ。
2. 周辺と後世への文化的影響
スキタイ美術(動物意匠)の拡散
スキタイ文化の最も顕著な遺産は、金や青銅で作られた金属工芸品に見られる「動物文様(動物意匠)」だ。
馬、鹿、猛禽類、ライオン、豹などの動物が、武器や馬具、鏡などの限られたスペースにデフォルメされて躍動的に描かれていた。この辺のモチーフは、今も中央アジアの人々の好むところだ。
この美術様式は東方にも伝わり、西戎や北狄、そして漢代にモンゴル高原で台頭する匈奴(きょうど)などの遊牧民族に受け継がれることになり、彼らを介してさらには戦国時代〜漢代の古代中国美術にも影響を与えた。
彼らスキタイ人のの残した膨大な金製品は、ロシアのエルミタージュ美術館などに多数収蔵されているんだそうだ。何しろ中央アジアは近代以降ロシア=ソビエト連邦の草刈り場だったからな。
ユーラシア全体の「騎馬文化」の基盤
スキタイが確立した「轡(くつわ)」や「鐙(あぶみ)」の原型となる馬具、軽快な複合弓、乗馬に適したズボン(衣服)は、それまでの定住農耕社会の戦術や文化を劇的に変えたんだ。趙の武霊王🔗の話は昨日もしただろう。まさにあれだ。胡服騎乗というスタイルだ。
西アジアやヨーロッパ、東アジアの諸民族がスキタイの騎馬戦術を取り入れたことで、世界史に「遊牧民 vs 農耕民」という構図が生まれ、ユーラシア規模でのダイナミックな民族移動や国家の興亡が促されていくことになったわけだ。
ギリシャ文明との融合(グレコ・スキタイ様式)
さらに面白いのは、黒海沿岸に進出し植民地を築いていた古代ギリシャ人との交易を通じて、双方の文化が融合するという局面が生まれたんだ。
ギリシャの優れた職人がスキタイの王侯貴族のために、スキタイ人の日常生活や衣服のディテールを刻んだ見事な金細工を制作したりしてたんだ。これにより、文字を持たなかったスキタイ人のリアルな姿が現代に伝わることになったというわけさ。また、さっきも挙げたヘロドトスのような歴史家や博物学者は、彼らに関する伝聞を聞きつけると、ギリシャ語文献にせっせと記録したんだ。
スキタイ人そのものは紀元後に東ゴート人🔗などによって滅ぼされてしまうんだが、彼らが切り開いた「遊牧国家」というスタイルと「東西を繋ぐネットワーク」は、その後のモンゴル帝国🔗などに至る遊牧民の歴史の華々しい成功を伴うプロトタイプになったのは言うまでもないな。
スキタイの巨大な墓「クルガン🔗」
スキタイの王や貴族は、「クルガン」と呼ばれる巨大な盛り土(土を高く積み上げたお墓)に葬られた。どこまでも続く草原の中にぽつんと現れる巨大な丘のような墳墓で、日本の円墳と外見が非常によく似ているという。
そして、しばしばそのクルガンの頂上や周囲に埴輪の代わりに置かれたものは「石人(せきじん)」と呼ばれる、武器を持った戦士の姿を粗削りに彫った不気味な石像が立てられていた。
スキタイのクルガンからは、王の権力を示す黄金の冠や、馬具、武器、職人が作った工芸品が大量に出土する。遥か後世の日本の古墳(特に5世紀以降の古墳時代中期・後期)からも、乗馬文化の伝来とともに、スキタイのものと酷似したデザインの「馬具」や「鉄製の武器」が大量に見つかっているのも興味深いところだ。
またスキタイの墓には、生前の王が愛した「本物の馬」が何頭も生贄(いけにえ)として一緒に埋められていたんだ。馬の殉葬だ。日本でも古墳の周囲に「馬の形をした埴輪(馬形埴輪)」をたくさん並べてあったようなんだが、その影響を感じるぜ。
本物の馬を埋めるか、身代わりの焼き物(埴輪)を並べるかの違いはありますが、根底にある「馬を重視する文化」は共通していたとみていいだろう。つまりスキタイが発展させた騎馬文化や動物のデザインは、何百年もかけてアジア大陸を東へ伝わっていき、それが朝鮮半島を経由して日本に伝わったてことだ。ご苦労様だな。そしてそれが日本の古墳文化(特に甲冑や馬具のデザイン)に大きな影響を与えたと考えられているんだそうだ。
さらにスキタイの王が亡くなった際に行われた「殉死🔗(じゅんし・殉葬)」の儀式は、世界史の中でも特に大規模で凄惨なものとして知られている。これが凄まじいの一言に尽きるんだ。
ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録や、実際の考古学的な発掘調査から明らかになっている、スキタイの衝撃的な殉死の全貌を読み解いてみると、こんな途轍もない事実が浮かび上がってくる。
1. 王の死の直後に行われる「第1段階」の殉死
王が亡くなると、遺体は防腐処理(内臓を取り出して香料を詰め、ワックスで固める)を施され、領内を40日間巡回したあとに巨大な墓(クルガン)へ運ばれたそうだ。そこでまず、以下の人や動物が一緒に埋められたんだ。
王の身の回りを世話した人々
王のお気に入りの側室(妃)、酌人(お酒を注ぐ係)、料理人、馬夫、侍従、伝令使などが、王が死後の世界でも困らないようにと絞殺されて一緒に埋葬されたそうだ。凄まじいな。
それに加えて王が愛用した黄金の器や武器はもちろん、選りすぐりの名馬たちが何頭も殺され、王の遺体のそばに並べられたそうだ。
やれやれ、あの世には何も持っていけやしないというのに。とんでもないな。けど、それで終わりじゃないんだ。
2. 1年後に行われる「第2段階」の恐ろしい儀式
スキタイの殉死が特に異様なのは、葬儀から「1年後」に再び大規模な儀式が行われる点だ。何事もセンセーショナルに盛る傾向のあるヘロドトスは次のように書き残しているぜ。
王に仕えていた自由民の若者50人と、最高級の馬50頭が選ばれ、すべて絞殺さた。
そして殺した馬の腹を裂いて内臓を抜き、藁(わら)を詰めて棒で支え、地面に立たせたんだ。趣味がいいにもほどがあるぜ。さらに、殺した50人の若者の遺体にも背骨に沿って木の棒を突き刺し、その馬の背に乗せたんだとさ!まさに「動く死体の騎兵隊」の設置だ。ゾンビ・トルーパーズってところだな!
この「死んだ馬にまたがる死んだ若者」の死体というか呪物というかを50体、巨大な墓(クルガン)の周囲を取り囲むようにぐるりと配置したという。
要は死後の世界でも王の墓を永遠に守る「幽霊の騎兵隊」を作ったってことだ。冗談じゃないぜ。さすがに話を持ってるだろうヘロドトス!
3. 実際の考古学的な証拠
長年、ヘロドトスのこの記述は「ヘロドトスの十八番、大げさな作り話だろう」と思われていたんだ。それが普通だよな。なんせインド人の精液は黒いとかありえないような話で読者を掴む天才ヘロドトスだ。誰もがまた担がれてると思ってたのさ。
しかし、19世紀以降に南ロシアやシベリアのクルガン(パジリク古墳群など)が発掘されると、記述を裏付ける証拠が次々と見つかっちまったからさぁ大変!
中には永久凍土のおかげで、当時の馬の遺体が皮膚や毛並みを残したまま、何十頭も生々しい姿で発見されたものすらあった。
その馬の頭骨には、儀式で一撃で仕留められたことを示す斧の打撃痕がくっきりと残っていたそうだ。
そして王の衣服や黄金の宝飾品とともに、多数の男女の遺体が同時に埋められている様子も確認されているんだ。ヘロドトス、疑ってすまん!
何でこんな酷いことをする必要があったのか?
それは文字を持たない遊牧民だったからこそ、王の権力の絶対的な強さを「命を捧げさせること」で周囲の部族に見せつける必要があったというように推測されているわけだ。
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