2026/08/15

POST#1940 盛夏、百花繚乱その11

 

タイ、チェンラーイ郊外、ポインセチア!

終戦記念日か。

俺は心の中でいつも敗戦記念日と言い換えている。それが真実だ。世界の定説だ。

そして、失われた30年の果てに、円安にあえぎ、物価高に苦しみ、企業栄えて国民窮乏する一方の混迷を極める今日の日本は、ずばり『経済戦争の敗戦処理』を延々と生きている。

高騰する株価に目を奪われていてはいけない。自分の生活実感こそを信じるんだ。

この円安、海外旅行なんて狂気の沙汰だ。没落する日本はすでに世界の辺境でおあつらえむきの観光地だ。かつて、日本人が大挙して押し寄せたヨーロッパや東南アジアから、とんでもない数のもの好きがやってくる。千客万来だ。なんて言っても、物価はとんでもなく安いからな。これも円安のおかげ様だ。

仕事仲間と話していたら、日本の風俗街にやってくるのは今や観光客の外国人ばかりだ。何年か前までは外国人お断りという店も多かったが、これも時代の流れだろう。

かつて、日本人のおっさん連中が、東南アジアに買春ツアーとか行っていたことを思い出し、その業が今帰ってきたんだと妙に納得する。言葉の通じないところに、情愛は生まれない。相手を一個の人間として尊重する気にもならない。人間を自らの欲望の解消の手段にするわけだ。カントが聞いたら口から泡吹いて卒倒するだろうな(笑)。

日本人の俺は、生活に汲々として、とてもじゃない海外旅行に行く気になんかなれないさ。この円安に加えて、じいさんの面倒で可処分所得が減りまくっているからな。

だから、今日は女房子どもとリトルワールド🔗に行くことになるんだろうな。

せめて、リトルワールドで手軽に世界一周旅行の気分を味わうのさ。おすすめはチベット寺院とその横の売店だな。ただでさえ乏しい小遣いを散財することになるんだろうよ。

写真にあげたタイ北部ランナー地方の農家を再現した住宅も素敵だぜ。

愛知県犬山市の山の中に移築されたタイ北部ランナー地方の高床式農家

楽しみだな。どんなくだらないものが売っているのか。そして、それを手に入れることで、自分の世界に、遥か彼方の世界の人々との間に細々とした回路を築いてくれることが!

2026/08/14

POST#1939 盛夏、百花繚乱その10


 

Ubud,Bali、俺は悪人だから、死んだら蓮の花の上さ
中上健次の傑作『千年の愉楽』の登場人物のオリュウノオバは、かつて蓮池を埋め立てて造られた路地と呼ばれる被差別部落に住む産婆だ。

彼女は、現在と過去を自在に行き来し、マジックリアリズム的に重層的な過去を今ここにあるかのように思い返す。自ら取り上げ、淀んだ高貴な血の宿命を背負って、卑小な生をいき、非業の死を迎えた中本の一党の男たちのことを、年老いて不自由な体で想い返す。

時にその精神は寝たきりに衰えた肉体を抜け出し、時空を自在に飛翔する。

そして自らが世に生を享ける前の蓮池に咲いていた蓮の花が朝日を浴びて開く音すら幻のように耳にする。

このイマジネーションという能力こそが、人間の知覚を拓く。

やたらめったら丈夫なだけが取り柄の父を墓参りに連れて行ったあと、俺は帰りの車で父に、『おい親父よ、死んだ(俺の母親の)淑子さんや(俺の祖母の)ノブちゃんが、息子たちの迷惑にならんように早くこっちにおいで』って言ってなかったか?とブラックジョークを飛ばしまくった。父は車の後部座席の居心地が悪そうな顔をしながら、しれっと『いや、いってなかったなぁ…』と小声でつぶやいていた。冗談じゃないぜ。

おかしいな。俺にはそういう声が聞こえたように感じたんだがな。

2026/08/13

POST#1938 盛夏、百花繚乱その9

ウブド、バリ 蓮
美しい蓮の花は、仏教でもヒンドゥー教でも宗教的な象徴である。
そして、蓮の花は泥の中からしか咲かない。
人間のどろどろとした醜悪な側面、際限のない欲望、そして、あらゆる不適切な表現として今日退けられているような様々な事柄から目を背けるだけならば、人間性ってのは蓮の花のように開花しないんじゃないだろうか。
南方熊楠🔗が、なにかに書いていた話をふと思い出した。
昔、インドか西域の商人が交易に行くときに、日ごろから身持ちの悪いことで評判だった妻女が不貞を働いたらすぐにわかるように、その下腹部に蓮の絵を描いたという。半年ほど交易に出てかえってきて、真っ先に身持ちの悪い妻女の下腹部を検めるとあに計らんや、やはり密通していたようで蓮の絵が乱れていた。
さて、商人が妻女を問い詰めると、妻女は『蓮のもとには蓮根があるもの。誰かが蓮根を取りに来たのでしょう』ととぼけたという話だ。
どこに書いてあったのか、何十年も前に読んだ話だからすでに記憶があやふやで申し訳ないが、大意は間違っていないはず。何せ、読んで盛大に笑った記憶があるからね。

ふと、親鸞聖人🔗の『善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや』という言葉を思い出す。 いわゆる悪人正機🔗だ。俺は自分が善人か悪人か選ぶように言われれば、即座に悪人だと答えるだろう。心の中でよこしまなことを想ったら、やったも同じとイエス様も言っていたしね。

つねづね、いいことを言うときには、ちょっと悪いことをしているような後ろめたさを持つべきだという吉本隆明🔗の言葉を自分の中で反芻している。
そして、そこから導き出される自分の倫理は、善行は知られないようにそっと行い、悪行は堂々と行うという、一般的な価値観と転倒したものになる。仕方ない。それが俺の倫理観だ。面白いな。
そんな特異な倫理観を持つ自分からすれば、良いことをしました、よいことをやりますと!SNSなどで自己宣伝するのは、どうにも居心地が悪い。
良いことは、贈与のように見返りを求めず、称賛すら求めず、自らの内なる声に従って、ただ黙って行えばいいと俺は想う。
思うだけで、自分の生活で手いっぱいの自分が、偉そうに何を言うかという話だけどね。
明日は、不死身のクソ親父を連れて墓参りに行くのさ。なに家から車で15分。
そんなに難儀なことでもないがね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
あなかしこ、あなかしこ