2026/04/17

POST#1822 今の日本には漱石も太宰もいないげ、俺たちには村上春樹がいる!

日本の…どこだっけ?
以前、参政党の候補が地元の駅前で演説をしていたことがある。2025年の夏の衆議院選挙だったかな?俺が京都の現場に行くために地元の駅前を歩いていた時だったから。道の反対側に停めた選挙カーの上で、女性の候補者の横に立った威勢のいいおっさんが、『日本人が劣化したから、今の日本には夏目漱石や太宰治といった文豪がいないではありませんか!』とばかばかしいことを垂れ流していた。ひょっとしたら、あれは神谷宗幣本人だったかもしれないが、どうでもいい。

冗談じゃないぜ!いや、冗談だとしたらサイコーだな!漱石は神経衰弱でカミさんから気味悪がられていた。太宰治は薬中で挙句の果てには知り合ったばかりの女性と心中した。

俺は反射的に、現場で鍛え上げた大音声で『俺たちには、村上春樹がい・る・ぞー!』と叫んだ。一瞬、音が消えた。ふ、爽快だ!

文学は、社会の矛盾に苦しんだり、社会のルールと自らの生き方の相克に苦しんできた人たちが、命を削るようにして記してきたものだ。そして同じように苦しんでいる弱い立場の人々にそっと寄り添ってきたんだ。選挙のネタにされてたまるか!

ちなみに、参政党がオレンジを自分たちの党派色にしているのはオレンジ=橙を先祖代々のダイダイにかけてるんだそうだ。なんだ親父ギャグかよ。しょうもない。

 彼らの自称保守政治家や自称右派政治家の語る「日本」には、柳田國男や南方熊楠、折口信夫や宮本常一、梅原猛や網野義彦などの人文学の巨人たちが命懸けで掘り起こしたような深い歴史への敬意や狂気じみた探究心がほとんど感じられない。もちろん、漱石や太宰もそんなもん読んだこともないような世間の皆様に対する、選挙演説のためだけのコケオドシでしかない。そこには何のリスペクトシンパシーも感じられないぜ、悪いけど。

俺は、俺の前にそんなインチキな奴らが現れたときには、反射的にやっちまうんだ。困ったやつだ。(笑)

実際のところ、自称保守の政治家たちが依って立っているのは、1万6000年の豊穣な歴史ではなく、極めて限定的な「政治的記号」であることが多いのが現実だ。俺に言わせれば、屁みたいなもんだ。つまりは「歴史」ではなく「神話(ファンタジー)」への依存なんだ。

彼らが好むのは、緻密な史料批判や民俗学的なフィールドワークに基づいた事実ではなく、自分たちの政治的立場に都合の良い「明治維新の成功物語」や「戦後の成長神話」といったファンタジーだ。まるで司馬遼太郎の小説みたいなもんだ。

彼らの言説は学術的知性との乖離が甚だしい。だいたい本なんか読んでないんだろうな。麻生太郎は漫画しか読まないだろうし。麻生漫画太郎に改名してほしいぜ(笑)

佐伯啓思氏や中島岳志氏などの保守的な知識人からは、安倍氏らが掲げた「美しい国」といったスローガンは中身のない政治的レトリックに過ぎず、真の保守主義とはかけ離れていると厳しく批判されている。要は愛国ポエムだ。

ずいぶん前に亡くなられた江藤淳🔗は、真正の保守といわゆる保守派というものは全くの別物だと語っていたな。「保守」の定義がすっかり変質しちまってるんだ。

本来の保守とは「歴史に対して謙虚であること」のはずだ。急激に何かを変えるのではなく、その変革によって何が失われ、どのようなリスクがあるのか厳密に勘案し、守り保つべきは守り、変えるべきは綿密に対策を断行するもののはずだ。

が、しかし現代の自称保守は「日本に自信を持つ姿勢」といった感情的なエシカル(倫理)に置き換わってるんだなぁ、これが!つまり愛国ポエムだ。脳内桜の園だ。その言説には客観的な研究に基づいた議論よりも、他者を「論破」し敵視することを好む傾向がありありだ。結果、社会は分断を深める一方だな。残念…。

本当の保守じゃなく、保守というイメージ戦略、言説としての保守コスプレだよ。いっそ羽織袴でも着てコスプレに徹してくれりゃいいのにな。

小選挙区制と政治の世襲化によって、日本の保守政治の本流が劣化したと俺は見ている。

かつてのような「真正保守」の地下水脈(歴史に学び、戦争に対して慎重である姿勢)が失われ、代わりに「国家主義的右派」が台頭しているといえるだろう。 

結局、彼らにとって歴史や文化は「探究すべき真理」ではなく、「選挙や権力維持のために利用する小道具」に成り下がっているんだ。だからこそ、プロイセン憲法に由来する大日本帝国憲法や教育勅語のような「最近の、しかも外国の借り物」を、縄文以来1万6千年の歴史を有する我が国の伝統だと勘違いして平気でいられるのだろう。

柳田國男や網野義彦らの知の巨人たちが命を削って見出した「日本」の姿を、彼らが一瞬でも直視したとしたら、今のその薄っぺらなスーツ姿では一歩も歩けなくなるはずだぜ。

先にも触れたように、そもそも『保守(Conservatism)』 っていうのは 物事を一気に変えるんじゃなくて、その影響を慎重に見極めながら検討し、変えるところは 変え、会えるべきでないところは守るように知るという慎重な姿勢を表してるもんだったと記憶しているが、現今の微塵党じゃなかった自民党から、維新、賛成じゃなかった参政党の人たちまで、右派の人々はやたらと改革を連呼するんだよな。おかげで、中道改革連合やら共産党まで、中道から左派までが、保守的と人々の目に映るようになっている。ジョージ・オーウェルの1984年🔗だったかな、あれに出てきたニュースピーク、つまり言っていることに本来とは全く違う意味が充てられているような不気味な現象だ。

エドマンド・バーク(保守主義の父)が説いたように、本来の保守とは「人間の知性には限界がある」という謙虚さを前提に、「一気に変えると取り返しのつかないことになるから、歴史の知恵を借りながら慎重に歩もう」という姿勢のことだ。

しかし、今の日本の「自称保守」の人たちがやっているのは、むしろ「右派的な革新(ラディカリズム)」だ。なぜ「慎重な保守」ではなく「叫ぶ革新」になったのか?

それは、それは、「保守」という言葉が独り歩きしてブランドと化してしまったからだ!

彼らにとって「保守」は哲学ではなく、単なる「強いリーダーシップ」や「リベラルへの反対」を意味するファッションになってる!ファッショ🔗じゃないぜファッションだ。そのため、慎重さよりも「力強さ」や「スピード感」をアピールしてるんだなぁ。

けれど、明確な日本の将来へのヴィジョンがないから、明治の「富国強兵」モデルへの先祖返りやオリンピックや万博や新幹線のバージョンアップのリニアなんかの昭和の成功体験にすがるんだ。夢よ、もう一度だ。

彼らが理想とするのは、江戸以前の穏やかな循環社会ではなく、明治維新という「大改革(確信)」によって強国になった姿だ。つまり、彼らのルーツ自体が「一気に変える」という革新の成功体験に縛られているわけだ。しかし、そんな過去の成功体験を追い求めていても、地球の資源はもう持たないんだけどな。

そして決め手は劣化コピーとしての「決断できる政治」だ!この潔さ、言い切っちゃう力強さにみんな痺れちゃうんだヨなぁ。

「何も決められない政治」を批判するあまり、熟議や慎重さを「弱さ」と勘違いし、独断で推し進めることを「保守の強さ」と履き違えてしまっているわけだ。

しかも、熟議や慎重な合意形成を求めるもの、反対意見を求めるものを『敵対勢力』『反対勢力』と指弾して、貶めるのは小泉構造改革で味を占めた自民党のお家芸だ。

俺は、彼らの改革主義に1万6000年の時間軸を忘れた焦りを見る。

柳田國男や南方熊楠といった先人たちは、何百年、何千年のスパンで日本と日本人を、世界と物事を見ていたはずだ。それに対し、今の政治家は「次の選挙」や「今の株価」という数年単位どころか一四半期のスケールでしか物事を考えていない。

1万6000年の歴史を持つ国の「保守」を自認するなら、本来は「今すぐ変えろ!」と叫ぶのではなく、「この変更は、1000年後の日本人の身体性を壊さないか?」と、熟考すべきはずじゃないか?

「慎重さ」こそが保守の真髄なのに、誰よりも声高に「改革!」「革新!」と叫ぶ矛盾。そこに、彼らの語る言葉の「心に響かない薄っぺらさ」の根本的な原因があるのではないだろうか。皇室典範改正とか憲法改正(改悪)とかね。


けれど、彼らが絶対に叫ばない改革がある。日米安保条約と日米地位協定だ。戦後以来今日まで続く現代の不平等条約だ。明日はそれについて話し合おう。俺も仕事しないといけないんだ。


2026/04/16

POST#1821 そういえば、伝統伝統という割に、紋付袴の右派政治家はおらんな(笑)

愛知、常滑

起きてる時間のほとんどが、仕事に消えてゆく。

けど、俺はおさるのジョージみたいに好奇心旺盛 だ。おれのハイスペックな脳味噌は常にいろんなことを考えて止まらない。

さてと、右派の政治家の人達って伝統 伝統とか言う割には和服を着てたり 羽織袴を着てたりあるいは ちょんまげを結ってたりする人なんて一人もいないよね。(笑)

それに 自称保守の右派の人たちの方がやたら口を開けば 改革 改革 改革、憲法改正、憲法改正、憲法改正、挙句の果てには皇室典範改正って何よ?

そんなことより、他にもっとやるべきことがあるだろ!アメリカ様のおかげ様で、止まりそうにない物価上昇、リンクして上がる税金に、切り詰められてく社会福祉。

いったいぜんたい、この国を動かしてるお偉いセンセーたちは、何がしたいんだ?

ここんとこ俺がぶち上げた俺が掲げる『ジプチ方式』と『天皇制 リベラリズム』の第一の障害になるものこそは、この自称保守の連中なんだ。奴らは一皮むけばアメリカの走狗で我利我利のリバタリアンなんだよ。

あいつらの言う 改革ってのは庶民から税金を吸い上げて 富裕層に再分配するためのシステムを構築するっていうことなんだ。これはもう再分配 っていうよりも 山分け だよね。国家的なスケールのネズミ講さ。

この切り込み口は、現在の日本の言論空間において最も「痛いところ」を突く、極めて効果的な戦術になるはずだ。

いわゆる「保守」や「右派」を自称しながら、その実態は米国の軍事・経済戦略に追従し、新自由主義的な弱肉強食(リバタリアン的発想)を加速させている人々。奴らの掲げる錦の御旗「偽物のナショナリズム」の仮面をはがし、『対米従属』で最終的にアメリカに、日本の富を貢ぐような政治をさっさとを解体しなきゃ、この豊葦原の瑞穂の国に真の独立自尊などあり得ない。

彼らの「虚」を暴くポイントは、以下の3点に集約されるのでないかな?

1. 「対米追従」と『愛国』の矛盾

自民党をはじめとする右派政党はアメリカの走狗なんだぜ。

日本の富が米国債や兵器ローンとして吸い上げられることを容認しつつ「愛国」を唱える欺瞞。

嘘はいけないと子供の頃に躾けられてないのか?

真の右派であれば、まず「主権の完全回復(地位協定の改定や独自軍備)」を最優先にするはずだろうが、彼らはアメリカの虎の威を借ることで自らの地位を守っているんだ。

だいたい、いまのアメリカ様のご乱心が日本の『存立危機事態』そのものだろ?

2. 「伝統」を隠れ家にしたリバタリアニズム

自民党の皆さんが大好きな自助努力という名の棄民。

世の中の正規の労働市場からこぼれた人間は、ギグワーカーか風俗嬢。酒とタバコといった税率と中毒性の高い嗜好品で生活苦を紛らわし、親方日の丸のギャンブルで散財する。少し目先の利くやつは、お上の旗振るNISAや投資で、高配当を信じながら、なけなしの金を資本家たちの運転資金に回してる。

伝統や家族の絆を口にしながら、実際には弱者を切り捨て、セーフティネットを破壊する構造改革を支持する。

こいつはむかしそのむかし、宮本常一が描いたような「共同体でしぶとく生き抜く日本人の互助精神」とは真逆の、冷酷な市場原理主義そのものだろう。

おまけにコミュニティに働きかけたらたちまち不審者扱いで、私服警官がやってくるのさ!素敵な国だろニッポンは!

3. 「プロイセンモデル」の亡霊

誰も彼もがこれ大昔から、日本に伝わる社会の形と、信じ込まされ騙されてきた、カチンコチンに硬直した、薄っぺらな国家観。

明治以降に作られた「上からのナショナリズム」に固執して、もっと古層に広々広がり一万年をはるかに超えてる「誰でも彼でも溶かし込み同化させてく、寛容で未来性をもつインクルーシブな日本のダイナミズム」を奴らは理解しようとしないんだ。

奴らにとっての天皇は単なる便利な「統治の道具」であって、俺がかくあれと乞い願う「多様性を包摂するオーソリティ」ではまったくない!

今に旧宮家の右派論客が、いつの間にやら男系男子と天皇陛下になる日も近いぜ!

なにせ巷のネトウヨは、畏れ多くも畏くも、上皇陛下を名指して、パヨクとからかい憚らず、我が身の不敬に気がつかぬ!笑止千万!

国民的に大人気の愛子内親王殿下が、先々御即位召されれば、男系男子の万世一系途絶えると、慌てふためき急ぐは皇室典範改正。

そんなに男系男子がいいのなら、仁徳天皇陵掘って、そこに眠れる仁徳天皇、畏れ多くも遺伝子情報サルベージして、今上陛下の玉体の御身傷つけ得た血に潜むDNAとくらべてみたらいいんじゃない?

第一伝統伝統と、伝統工芸士みたいに連呼してるあの人たち、そんなに言うなら毎日の国会質疑に答弁に、羽織袴に白足袋で現れて、有権者の皆様に向け朝の辻立ちしてみれば?

薄くなってる頭でも、いっそチョンマゲ結ってみて、これぞ日本の伝統を、その身に体現した姿!なんて外連味にたっぷりに、予算委員会で大見得きってごらんなせぇ。そこまでやるなら、その伝統も口先だけのまやかしじゃなく、本気と書いてマジと読むと、認めてやってもよござんす!(笑)

この「似非右派」どものメッキを剥がし、彼らが単なる「アメリカの利権の管理人」に過ぎないことを白日の下にさらしてみせよ。外道の本性破邪顕正!

それは、国民が「安逸な奴隷」から目覚めるための、不可欠な儀式(デトックス)になるだろう!

そんじょそこらのおじさんおばさん、お兄ちゃんお姉さんは騙せても、俺はうかうかその手には乗りはしないぜ金輪際!おかしいことはおかしいと、しっかり言わせてもらおじゃないか

2026/04/15

POST#1820 俺は自分のことをずっとアナーキストだと思っていたんだ

ベトナム、ハノイ

俺がつねづね気に入らないと思ってるのは、小はその辺のおまわりさんから、大は総理大臣まで、どいつもこいつも国家が巨大なシステムであると同時に、大小さまざまな権力の保持機能だと思っているところだ。

まさに、そこが「小利口な秀才たち」の致命的な勘違いなんだ。

彼らにとって国家は、自分たちの権力を維持し、国民を管理・コントロールするための「箱(保持機能)」でしかないんだよな。だからこそ、明治憲法のもとになったプロイセン憲法のような「管理に便利な道具」を金科玉条とし、数合わせに奔走するわけだ。しかし、俺がここんとこを展開し続けている「天皇制リベラリズム」という言葉に込めた真意、そして柳田や折口、梅原猛たちが追い求めた日本の姿は、全くの別物のはずだ。

国家は「保持」するものではなく「通過」するものだ。

16000年の歴史を見れば、権力者は現れては消える一時的な存在に過ぎまないのさ。死なないやつはいないからな。本来の「日本という形」は、権力者が保持するものじゃなく、その土地の霊性や民の営みが脈々と流れていく「川」のようなものだといえるだろう。

ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらずだ。

天皇が日本社会の中心にぽっかり口を開けたブラックホールというかクラインの壺のような「中空の権力の中心」として祭祀王=「祈る存在」であるのは、権力という汚濁を浄化し、歴史の連なりを次世代へ流すためであって、権力を握りしめるためではないという見方もできうるだろうな。

「管理」ではなく「解放」

「天皇制リベラリズム」の視点に立てば、究極の権威が政治(まつりごと)のさらに奥にあることで、世俗の権力が全能になることを防いでくれるだろう。つまり、政治家ごときが「国家は俺たちの権力保持装置だ」と傲慢になることを許さない、一種の「自由の砦」としての機能だ。

魂を数値化する罪

今の政治家が国家を「権力の保持機能」と考えるから、人間を単なる「労働力」や「消費者」あるいは「有権者数」という数字でしか見られなくなるんだ。しかし、俺たち一人一人の国民は、そんな枠に勝手にくくられるようなものでなく、つぶさに見てゆけば、ひとりひとり差異を持つユニークな存在だ。

彼らは「国家を回している」という万能感に浸っていやがるが、その実は、日本という広大な歴史の森から切り離された、ただの「管理事務員」に過ぎないことに気づいていない。

そもそも国家というのは自然権を持った自由な市民たちが自らの自然権の一部を委譲信託して生み出した一般契約による幻想のはずだ。

ホッブズ、ロック、ルソーたちが築き上げた近代民主主義の「社会契約説」から見れば、国家は市民が便宜のために作り上げた「契約上の幻想」に過ぎないんだ。

俺たち頭の先からつま先まですっぽりと包み込む、母胎のようなものとは違うんだ。

今の政治家たちは、その「市民から預かっているだけの代理権」を、あたかも自分たちが最初から持っている「固有の権力」であるかのように勘違いし、保持し、居座っている。

これこそが、俺の感じる「違和感」の法的な、そして哲学的な正体だ。

しかし、ここで面白いのは、先に挙げた「天皇制リベラリズム」と、この「社会契約による幻想」という視点が重なった時に生まれる究極の逆説だ。

まず「契約」を包み込む「16000年の器」という視点が得られる。

西洋的な社会契約説では、契約が切れたり壊れたりすれば国家は終わりだろうな。しかし、日本にはその「契約(幻想)」が書き換えられたり破綻したりしても、その下で脈々と続いてきた「土着の命の連なり」がある。そりゃ、どこの国民だって人類の数十万年の歴史を経てこの地球上に存在してるのは変わりない。しかし、その歴史の重みのすべてとは言わないが一部を体現しているのが、天皇という存在なんだ。(だから大日本帝国と日本国が連続した政体だという擬制が成立するんだよね。)

そしてそれは政治家や官僚機構による権力の「私物化」への最強のカウンターとなっているわけだ。政治家が「国家は自分たちの権力保持機能だ」と傲慢になる時、「国家は市民の委任による幻想だ」という西洋的な理屈と、「天皇は権力を超えた祈りの存在である」という日本的な理屈は、実は「政治家に全能感を抱かせない」という一点において、強力なタッグを組めるはずだ。

どうだろう?

俺は今まで自分がアナーキスト、もしくはアナルコサンディカリスト(無政府労働組合主義者)に近いと思ってたのに、実は愛国者だったと気づいて自分でも驚いてるのさ。

こんなことってあるんだな(笑)