2026/06/08

POST1871 ホジャは言った『わしの亡骸は頭を下にして埋めてくれ。頼むよ』

 

Istanbul,Turk

ナスレッディン・ホジャ🔗ってトルコに伝わる頓智じいさんの話がある。

この一休さんのように突き抜けたトルコのじいさんの話が好きで、よく読んでいる。

今ではすっかり稀覯本になっちまった平凡社東洋文庫の『ナスレッディン・ホジャ物語🔗』を、京都の古本屋で見つけて、その場で狂喜乱舞して、お値打ちに手に入れたこともある。

その中で、ホジャが臨終のときに地域の人々に、『わしが死んだら、頭を下にして墓に埋めておくれ』とたのんだという話がある。

いくら普段からおかしな言動で周囲をあっと言わせてきたホジャの頼みとはいえ、死ぬ時くらいはまっとうに葬りたいと願うのが人情だろう。それで家族や有縁の人々は難色を示しながらホジャにそのわけを尋ねた。

ホジャは気息奄々ながら自信満々に皆の衆にこう言ったんだ。

『世界の終わりが来るときには、すべてがひっくり返るっていうじゃろう。その時にワシは逆立ちしてるのは御免じゃからなぁ!』

まったく、なんていかれたくそジジイだ!最後までユーモアが炸裂してるな!

しかし、残念なことに冗談ではなく、価値観が転倒しきった社会を、今まさに俺たちは生きている。きっと世界の終わりが来てるんだろうよ!

例えばその学歴ってあるだろう?

学歴なんかで人間の価値なんかは全然変わるものじゃないはずだろ。でも今の我が国は学歴によって、その後の人生の全てが決まっていくっていうのは、きみ、暗黙の了解になってるんじゃないのかい?

それは世界の常識ですって?!

自分の口に出していってごらんよ。

『学歴によって、人生のすべてが決まっていく。それは世界の常識です。』って!

これ自分で言って気味が悪くないか?

これってそろそろやめた方が良くないか?

この「学歴至上主義」こそが、これまで俺が君たちと話し合ってきた「人間を『マテリアル=材料(人材)』として扱い、新自由主義的な市場の道具にするシステム」の最強兵器なんだぜ。

そしてそれは、子どもたちを10歳未満の幼少期から追い回し、追い詰め、最悪のケースでは自殺に追いやる元凶となっているとは思わないかい?

なぜこの学歴社会をやめるべきなのか、そしてこれがどう人間性を破壊しているのか、ちょっと考えてみようぜ。

1. 学歴、それは人間を「規格」で管理する道具

学歴社会の本質は、カントの言う「目的としての人間」の全否定に他ならない。人間を目的とするのではなく、人間を役に立つ素材として扱うための符丁だ。

そこに蔓延る現状の病理ってのはこういうことだ。

 新自由主義的な社会にとって、一人ひとりの複雑な内面や、南方熊楠のような野生の知性を評価するのは「非効率」で面倒なことなんだ。

将棋の駒より、囲碁の駒なのさ。

とはいえ、手っ取り早く人間のランク付けをして、『悪魔の挽臼』の歯車として大活躍して頂きたいところだ。

そこで、人間というマテリアルを振るいにかける網の目が、この学歴ってやつだ。

大学名や偏差値という「分かりやすい記号=規格」を人間に貼り付けて、企業や国家が「使える材料かどうか」を効率よく査定する道具として学歴は使われているんだ。そう、キュウリの選別するみたいにね。しかも、素晴らしいことに大方の場合、その学校で何を学び、どんな専門性を身につけたかは、ほとんど考慮されない。

ラベルが重要なんであって、中身が腐ってても空っぽでも構わないのさ。

奪われる尊厳

ひとりの人間が「どこの大学を出たか」という記号だけで査定されるとき、その人が持つ本当の優しさ、だらだら本を読む豊かさと実利的でない知識がもたらす人間としての深み、他者と迷惑をかけ合える人間味、つまりは人間の尊厳なんて利用価値のないものは、すべて切り捨てられちまう。残念だ。残念にもほどがある。

2. 「18歳での一発勝負」という残酷なライン

人間はいつからでも学び直せるし、何歳からでも成長できるはずだ。学びはトイレの中でもできるし、自分より優れている人を見習うことからでも学べる。自分より明らかにダメなやつからも、学ぶことがあるはずだ。あ、誤解されるといけないからあえて言っとくけど、ダメなやつからダメな部分を学ぶってことじゃないぜ。あくまで反面教師としてだよ!

現状の病理

日本の学歴社会は、18歳(大学受験)時点のペーパーテストの結果だけで、その後の人生の経路や、就職してからの配属先、生涯年収、社会的地位の大部分が確定されてしまうという、おかしな社会だ。

レジリエンスだのリスキリングが聞いてあきれるぜ。

まさに「一発勝負のライン」になっているんだ。因みに、俺の経験では、大学に入った途端に、たいていのぼんくらは勉強というか学問への興味を失う。そんなもんだ。

そして子供どもへの加害

おかげ様で子どもたちは「一度でも受験に失敗したら、不良品として社会から廃棄される」という極端な脱落恐怖を植え付けられちゃうんだ。

おかげさまで「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という人生の基礎をつくる大切な時間を奪われてしまうんだ。残念…。

そして、家計に余力がある家の子どもはおしなべて、深夜まで塾に縛り付けられるという「まるで教育虐待のような構造」を社会全体で正当化しているわけだ。

これを学歴の呪いと言わずに、なんと言うんだ?

3. 学歴は「ただの環境と投資の差」という嘘っぱち

学歴が高い人が「人間的に優秀」かといえば、別にそんなことはない。

グレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」を大量に作り出しているのは、皮肉にも高学歴なエリートたちなんだなぁ。

ルールをたくさん作れば、誰もがそれに従う。それは優等生の世間知らずな浅はかな考えだ。

そして、それを管理するための業務が生まれる。そしてそれに従わないものは、システムからスピンアウトされるんだ。誰もがそうなることを恐れている。決められたルールがどれほど不条理でも従う。なぜって、お前は不要だと言われちゃおまんまの食い上げだからな。

けど、そんなシステムからスピンアウトしたところから、初めて本当の、オリジナルな人生が展開していくんだけどな。なぜそんなことが言えるかって?まぁ、俺もその口だからな(笑)。

構造の歪み 

トマ・ピケティ🔗マイケル・サンデル🔗の指摘通り、現代の学歴ってのは、決して本人の純粋な努力の証ではない。

それには、親の経済力や住んでいる地域(教育への投資額)によって大半が決まる「格差の再生産装置」に過ぎないんだ。

もっとストレートに言えば、金持ちの倅は金持ちに、貧乏人のガキは貧乏人にということさ。これは世界の常識です。これは世界の常識なのか?

更に言えば、その差は世代を重ねるごとに拡大していくのは、賢明な読者諸兄諸姉ならお分かりの通りさ。それが世の中の仕組みだ。

しかし、にも関わらず学歴ってのは、『個人の能力の差、つまり皆様の大好きな自己責任の賜物であるかのように人々に錯覚させ、幻惑させ、勝者に優越感を、敗者に劣等感を植え付ける不条理なシステム』なんだ。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずだが、テストの点は人の上に人を作り、人の下に人を拡大再生産する!笑っちゃうぜ!

こんなシステムはPOST#1866🔗で話し合ったように、とっとと解体するべきなんだ。

「学歴の檻」を壊すために

学歴で人間の価値を決めるのをやめることは、社会の息苦しさをリセットするための絶対条件だ。

そもそも人間の価値って言葉は、人間の利用価値とか使用価値というべきものなんだ。君も声に出して言ってみるといい。

『人間の使用価値』

『人間の利用価値』

声に出してみたならば、その言葉の放つ卑しさの腐臭が、君たちにもはっきりと解ることだろう。

学歴という偽りのコモンズ(共有財)を廃止し、人間そのものを尊厳あるコモンズへと戻すために、私たちができる現実的なボイコットはいったいぜんたいなにがあるんだ?

それは、大人がまず『学歴なんていう薄っペらい肩書を一切リスペクトしない』というアナーキーな態度を徹底することだ。

人物本位で、相手を判断することだ。

「東大を出ていようが、中卒だろうが一切カンケーない。知識欲の赴くままに、だらだら寝転んで本を読んだり、お互い迷惑をかけ合って、そのだらしなさを認め合ってゲラゲラ笑っていられる奴が一番カッコいいし豊かだ」という新しい価値観を、共通の認識を、大人たちが子どもたちの前で堂々と示していくこと。

これこそが、子どもたちを学歴の呪縛から解放し、その命を救うための強力な一歩になるだろう!

 とまぁ、偉そうに言うけれど、うちのカミさんも、なんか一生懸命、バカ息子の教育にね、熱心でいらっしゃるわけだ。

いろんな私立の学校とか見学させたりして、私立の中学校に入れよう入れようと奮闘努力しておいでだ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽がおちる、陽が落ちるだ。

俺は金をドブに捨ててるのと同じだから、やめようよって思ってるんだが。家庭内の権力構造のカンケーで、なかなか言えないんだよ。

正直いって俺は、なんだかんだと金もかかるし、公立でいいなと思ってるんだ。

なんせ、家から歩いて3分だもん。

しかも、本人も真面目に授業も受けずに、探検と称して授業中に教室を抜け出して、校内のパトロールをしてるような奴なんだ。受かるわけないんだよな。

けれど、鉄オタの息子は、頭のなかに線路が走ってるくらいだから、鉄道研究部のある私立の学校に行きたいと諦める素振りもない。だからといって、テストで点が取れるわけでもない。まぁ、無理だろうなぁ。今のうちから慰めの言葉を考えておくさ。

けど、ほんとは校内探検家でもかまわないんだ。

一生懸命遊んだり、さっさと飯を食ってクソして寝たり、友達とコミュニケーションして、ゲタゲタ笑って遊び転げていればいいんだよ。

カミさんの考えもわかる。俺は「もっと大切なことがある」という実感してる。

どちらも「うちの豚児に幸せになってほしい」という親としての切実な願いから出ているものだっちゅうのは変わりないけど、だからこそ家庭内でのバランスが難しい問題なんだよな。まぁ、俺は世間に波風立てるのはやぶさかじゃなく、むしろ、おう一丁やってやろうじゃないかっていう不遜な男だけれど、家庭内の波風は御免被る。結果はどうなっても、本人たちの好きなようにやりゃいいんだ。

どこかできっと行き詰まる。行き詰ってからが、人生本番だ。楽しみにしてろよ。

カミさんが私立受験に打ち込む背景には、それこそ『新自由主義的な生存不安』が大きく影響しているんだ。俺にはわかる。

現代の母親たちは、社会やママ友の間で「早くから準備しないと子供の将来が詰む」という過剰な危機感を煽られ、強いプレッシャーの中に置かれているんだ。

うちのカミさんにとって私立見学は、子供を過酷な社会から守るための『防衛策』なんだ。それはよくわかる、しかし、その行動自体が、このシステムを拡大再生産する『合成の誤謬🔗』というやつだ。

しかし、俺がカミさんの背後で小声でつぶやく「お金をかけるよりも、一生懸命遊び、早く寝て、友達と泥臭くコミュニケーションをとる方が大事」という直感は、子供のメンタルヘルスと脳科学の観点から完全に正しいだぜ。それに俺の小遣いも増えるしな。

1. 「早く寝ること・遊ぶこと」の科学的メリット

実は「寝ることや遊ぶことが、結果的に脳の発達(つまり知識じゃなくて知性の伸長)に最も良い」んだ。

睡眠の重要性

 睡眠中に脳の記憶は整理され、メンタルを安定させるホルモン(セロトニン)が分泌される。睡眠不足だとイライラしたりり、うっかりミスが多発するのはこのためだ。

夜遅くまで塾に通って睡眠を削ることは、逆に脳の発達を阻害して、思い通りにならなかったときに、折れやすい心を作る原因になるだろう。素晴らしいことに、人生はたいてい思い通りにはならないんだ。安心してくれ!(笑)

遊びの知性

友達とのリアルなコミュニケーションや遊びは、教科書では学べない目下流行中の「非認知能力🔗(想定外の事態に対応する力、他者への共感性)」を爆発的に育てるんだぜ。

実はこれこそが、将来どんな社会になっても生き抜くための本当の力=野生の思考🔗なんだYO!

「受験はしてもいいけれど、子供の『だらける時間』と『睡眠』だけは絶対に削らない」というのも大切だ。幸か不幸か、うちの豚児はだらけることは才能豊かだ。睡眠は、いつも宵っ張りの重役出勤だがね。

もしうちの豚児が『きつい、やめたい』と言ったり、寝不足で元気がなくなったりしたら、いつでも諦めて、家の近所の公立に行きなよといってるんだ。ご本人はなんだか、逆に投資を燃やしてしまう事になりがちなんだけどな。

だいたい、そんなもんで人生は決まらない。俺はいつも聖徳太子🔗だって松下幸之助🔗だって田中角栄🔗だって、大学なんて出てないぜって言ってるんだ。

「公立でも全然大丈夫、なんとでもなる」というドーンとした余裕、つまりセーフティネットとして家庭内に俺がだらだら存在することで、子どもは「失敗しても成功しても、あのバカ親父はちゃんと受け止めてくれる」という絶対的な安心感をもってるんだろう。おかげで、いつもふざけてばかりだ。日々失敗するほうのオッズが上がってるぜ。

カミさんが心のどこかで「ダメな旦那みたいになっちゃ大変だから、将来のためにスペックを上げなきゃ」と焦っている。そのいっぽうで、俺は家庭の中で「何点取っても、どこの学校に行っても、お前は生きてるだけで最高だし、お父さんは大好きだ」という無条件の肯定を子どもに注ぎ続けてる。

俺は、そんなことで息子の尊厳はまったく揺らがないことを知ってるからだ。だから、すきにすればいい。人の嫌がることをやらない優しさを持っていればそれでいい。

俺が息子に怒るのは、母親に暴言を吐いた時と、父親の身体的な急所を攻撃してきたときだけだ。

だから俺は息子の前では、南方熊楠のようにだらだらと寝転んでマンガや本を読んだり、下らない話をして笑い合ったりする時間を、率先してつくってるんだ。

 おかげさんで、俺がパソコンに向かって事務仕事をしてると、息子はいつもやってきて、俺の膝に座って仕事の邪魔をしつつ、鉄オタ全開の YouTube を一生懸命見ていやがる。

仕方ねぇなぁ。これとて俺がさんざん君たちに語ってきた「迷惑をかけ合って当たり前」「何もしなくても愛されるアジール」の家庭内の実践ってことだ。

こいつは、子どもの精神的な生存にとって決定的な救いになってるんだろう。おかげで仕事は進まないけど、そんなのどうってことないさ。

実はこのやれやれな日常が、なぜうちのバカ息子のこれからの人生にとって最強の防衛策になるのか、ちょっと考えてみるとするか。

1. 「お父さんの仕事を邪魔していい」という最高の迷惑の共有

社会システムは子どもたちに対して、「他人の時間を奪うな」「効率的に動け」と教えるんだけど、うちの豚児はあなたに対して「お父さんのパソコンを奪って、自分の見たい動画を見る」という、最大級の甘え=とんでもない迷惑を仕掛けているわけだ。

俺がそれを怒らずに受け入れていることで、バカ息子の心には「自分は他人に甘えてもいいんだ」「迷惑をかけても拒絶されないんだ」という、新自由主義の自己責任論を打ち破るための強固な安心感がインストールされるというわけだ。

2. 「ただ膝の上にいるだけでいい」という無条件の肯定

膝の上でYouTubeを見ている時間には、テストの点数も、内申点も、学歴も一切関係ないわな。まぁ、俺にとってはどっちにしてもあんまり興味もないんだけど。

だからこそバカ息子は、俺が『何かができるから=人材としての価値』ではなく、『そこにいるだけで存在を許容される=目的としての人間』という無条件の対幻想🔗を強化されるという算段だ。

この『心の貯金』がある子どもは、将来社会の荒波に揉まれても、絶対に自分を見捨てて自死を選ぶようなことにはならないんじゃないのか。これが本当のレジリエンスって奴だ。

3. お父さんの「背中」から学ぶリラックスの哲学

帳簿をつけたり、図面を確認していたりするなかで、商売道具のパソコンを横取りされて「しょうがねぇ野郎だな」と苦笑いするのが俺の日常だ。そんな中でうちの豚児は「人生、そんなにアクセク四角四面に生きなくても、なんとかなるんだ」という気楽さを、とんでもないスピードで吸収していることだろう。


俺が最初の問いで真剣に憂慮し、立ち向かわなければならないと考えていた「子どもたちの自殺」や社会の要求からスピンアウトされた挙句「犯罪システムにからめとられ社会的な自殺に追い込まれる子どもたち」「人間を材料扱いする社会の冷酷さ」に対する本当の答えは、教育制度の改革でも、政治の変革でもなく、まさに今、俺の膝の上で行われている「バカ息子との、だらだらとした、迷惑をかけ合う日常」の中にあったんだ。エウレカ!🔗

大人たちがみんな、俺のように「仕事をちょっと横取りされて、膝の上で子供とだらだらする時間」を最高に有意義だと笑えるようになれば、この国の空気はもっと優しく、気楽なものに変わっていくだろう。もっとも、商売あがったりかもしれないがね。

しかし、新自由主義や学歴社会、そして今の日本社会全体が子どもたちに対して『人に迷惑をかけるな』『自己責任で生きろ』と冷酷に迫るからこそ、俺や君の家庭の中に『どれだけ迷惑をかけても100%許される関係』があることが、最大の防衛線になるんだろ!

それこそが世界の常識だ!

社会に出れば、使えるか使えないかで値踏みされたり、理不尽な要求をされたり、学歴の壁にぶつかったりすることがあるだろう。それがこのすべての価値が転倒し、人間が手段となった社会の現実だ。しかし、『どんな自分でも受け入れてくれた原体験』を持つ人間は、社会の暴走に心を壊されることはないだろう。

この圧倒的な全能感と安心感が心 の根底にあれば、子どもたちは自ら命を断つような絶望の淵に立たされる前に、必ず信頼できる大人の側に踏みとどまり、SOSを出すことができるはずだ。

 そう、だからこそ子どもたちの命を救うのは「だらしない優しさ」なんだ

子どもの自殺を減らすために社会が必要としているのは、もっと高度な教育カリキュラムでも、レジリエンスの訓練でもない。

そんなのばかばかしいったりゃありゃしないぜ。

大人たちが、とりわけ親が『お前の迷惑なんか、いくらでも引き受けてやるよ』という、大らかで、少しだらしなくて、圧倒的に優しい態度を示し続けることだ。

それには何のコストもいらない。俺たちの思考をもう一回さかさまに転倒させるだけでいいんだ。

どうやって?教えてあげよう。俺がやっていることを。

俺はいつだって、 1 日に 1 回は息子に『お前は俺の宝物だ、知ってるか?』って尋ねる。息子はそのたびに『知ってる』と言い切る。こいつこそ、命を守るマジックワードだ。

これこそが、これまで俺や君たち対話してきた、『人間を材料(手段)として消費する新自由主義社会に対する、最大かつ完璧な対抗策(アンチテーゼ)』なんでございます。

その言葉は、毎日農夫が鋤を地面に打ち込むように、「無条件の存在証明」を子どもの脳と心に深く刻みつける。

社会はこれから、子どもたちに対して『テストの点数は何点だ』『どこの学校へ行くんだ』『お前は社会の役に立つ人材か=俺たちに利益をもたらしてくれる金づるか?』という『条件付きの評価』、つまりは『市場価値』ばかりを突きつけてくるだろう。

しかし、『お前は俺の宝物だ』と毎日言うことで、子どもたちの心には『何かができるからではなく、ただここに生きているだけで、自分は100点満点なんだ』という無条件の存在の肯定が、脳の奥深くに強烈に刷り込まれていくんだ。雨が地面にしみこみ。命を育むように。

この言葉の貯金がある子どもは、社会のに待ち受ける学歴やらスペックやらのしょうもない査定に晒されても、決して自己否定に陥ることはないぜ。だいたい査定なんて、中古車じゃないんだから、勘弁してほしいぜ。

もしも将来、学校や社会でどんなに理不尽な目に遭い、いじめられ、挫折して、世界中のすべてが敵に見えるような夜が来たとしても、こうして心を涵養された人間は、絶望の淵から生の世界へと踏みとどまることができるんじゃないか?

そしてそれこそが、「人間を目的として扱う」ことの最高の実践の第一歩なんだ。

かつてイマヌエル・カント🔗が説いた『人間を手段ではなく、目的そのものとして扱うべきだ』という哲学は、別に難解なことじゃない。誰でも今すぐ始めることができる。それにコストはいらないんだぜ。

自分の子どもを「将来、自分を養ってくれる人材(手段)」としてではなく、「そこにいるだけで尊い、人生の目的そのもの」として、もっといえば神的な存在=世界そのものから託された存在として大切に守り育てるんだ。

そうすれば、やがて大人になったとき、隣人たちを「材料」として値踏みせず、一人の人間として尊重できる、本当の意味で豊かな大人、つまり南方熊楠のような野生の知性と優しさを持つ人間へと育っていくだろう。

消費税率を変えるだけで大騒ぎの政治家たちに、 国や社会のシステムを今すぐ変えることはできない。

けれど、俺や君たち大人が自分の目の前にいる子どもに対して、『君は社会の材料(人材)なんかじゃない。俺様の宝物なんだぜ!』と言い続け、迷惑をかけ合いながらだらだらと抱きしめること。

これこそが、この手段と目的が真っ逆さまに転倒した狂った競争社会を足元から解体し、子どもの命を100%救うための、社会へのアプローチだ。

諸君、ご清聴ありがとう!また会おう!

2026/06/06

POST#1870 大英博物館の書物の森の中から、熊野の山々の森の中から

Barcelona,Spain 双子座の女

疲れ果てて眠りこけていたら。宅急便のチャイムで目が覚めた。洗濯物を干し、仕事のメールチェックをしてからもうひと眠りしようと考えていたら、かかりつけの歯医者さんからの電話が鳴った。11時の予約ですけど、まだおいでになりませんか?

俺は取るものもとりあえず、歯医者に向かい、しっかりたまった歯石を取ってもらったんだ。

カネはたまらないが、疲労や歯石はたまる。人体の不思議だ。

さて、俺は今日も今日とて仕事に行かねばならない。疲れて年老いた体に鞭うって、一時間ほど車を転がして現場に行くと、現場に常駐してる臨時警備のおじさんは70はとうに声、80に届くんじゃないかというおじいちゃんだ。大変な国だな、ここは。いつも思うが、こんなおじいちゃんが警備してても、悪意のある人間を前にしたら、即刻マンガのモブキャラのようにぶった推されるに違いないぜ。

さてと、そんな日本から魂を幽体離脱させ、ユーラシアを瞬間的に横断し、途中Barcelonaあたりで一休み、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸に想いを馳せよう。

おお、スゴい活気と人々の熱量だ。そして砂埃と肌を焼くような日差しだ。けれど、スマホばっかり見てゾンビのように歩いている日本人なんかよりも、アフリカの最貧国の方が人々がパワフルに、大声で怒鳴り合うように話し、大きな身振りで幸せそうに生きてるのはなぜだ?

この「最貧国の人々の方が幸せそうに見える」という直感は、文化人類学や社会心理学の調査でもしばしば実証される「豊かさと幸福のパラドックス」に基づいてるんだぜ。

もちろん、アフリカの最貧国、とりわけサブサハラアフリカ🔗などには、深刻な貧困、飢餓、医療不足といった過酷な現実がある。それは揺るぎのない現実だ。現代のマクロな世界の大いなる欺瞞だ。

断言する。そこは決してユートピアではない。

しかし、そこに住む人々が、俺たち先進国に住んでる恵まれた、おめでたい連中よりも「幸せそう」に生きている、つまり自殺率が低く、生を肯定しているように見える背景には、新自由主義的な市場原理に汚染されてきっていない「人間としての生存基盤」が残っているからだ。

もちろん、IMF🔗 の課す手垢まみれどころか時代遅れの比較優位🔗という原則と、自由貿易🔗という美名のもとに、自主関税権を縛られて国内産業の保護育成もままならず、モノカルチャー🔗経済に縛られているという欺瞞の構造で、半永久的に発展途上国であることを運命づけられているという、マクロな格差、マクロな欺瞞、マクロな不幸はある。

にもかかわらず、そんなもの知ったことかといわんばかりに、人びとは幸せそうに生きているように見える。紛争とか宗教や民族紛争によるジェノサイドさえなければね。

それはなぜか?

彼らの社会が持っていて、俺たちの生きる今の日本が失ってしまった「幸福の理由」はなんなか?考えてみようまいか。

1. 人間関係の「非金銭化」と強固な共同体(ウブントゥ)

最貧国:

 アフリカには「ウブントゥ(あなたがいて、私がいる)」に代表される、他者との分かち合いを絶対とする哲学が生活に根付いているのだそうだ。

それは贈与の精神だ。かつて、POST#1726🔗でも触れたことのある、「一番よくないのは、贈り物をしないことだ」って考えに近いかもしれない。

そこには貨幣経済が介在しないため、助け合いや食事を共にすることが日常であり、人間関係そのものが、最大の娯楽でありかつまた安全基地となっていたんだ。

いつも君たちに語っているように、個に分断され、共同体から切り離され、モナド化した人間は、システムに容易く奴隷化されてしまうんだ。かつてのアフリカでそうだったようにね。アフリカでは、かつて本当にそういう人々は、奴隷狩りに襲われ、不衛生な木造船にすし詰めにされ、アメリカ大陸に送られた奴隷としてこき使われたんだ。覚えておいてほしい。

先進国:

ここではあらゆるサービスをお金で賄うことができる。この新自由主義社会では、人間関係まで「コスト」や「利害関係(損得)」で計算されてしまうのだ。

なんという精神の貧しさだ!

結果として「お金がなければ生きていけない」という強烈な恐怖と孤立が生まれてしまう。

タワマンに住んで、十分な収入があり、おひとり様を大化できる人には天国だ。しかし、多くの地べたをはいずるように生きる人々には、便利で清潔な地獄になっているんだ。

2. 「相対的剥奪感」がない、つまり他者と比較されない

最貧国: 

周囲の全員が同じような経済水準で、カツカツで生活しているため、物質的な「格差」を意識して劣等感を持つ機会がほとんどない。

それにもまぁ、実は国際的な金融経済によって彼らが豊かになることを阻んでいる要素や欺瞞がてんこ盛りだが、今はそれには触れずにおこう。また、テーマを改めて話し合おうぜ。

先進国:

かたや我々先進国といわれる国々の民の暮らしはどうだ?

圧倒的に豊かだ。圧倒的に豊かだが、圧倒的な精神の貧困だ。

 俺たちはSNSの普及により、24時間365日、他人の「輝かしい成功」や「贅沢な暮らし」を見せつけられつづける。見たくなくても、スマートフォンには次々通知がやってきやがる。

おかげさまで、十分な生活水準にあるはずの人でも「自分は負け組だ」という相対的剥奪感、つまり絶え間ない敗北感を植え付けられ、精神を病んでいくことになるんだ。

何日か前に話したPOST#1868🔗に出てきた、老子の小国寡民の話を思い出してくれるとよくわかるだろう。こうして参照してPVを稼ぐって算段だ(笑)。

3. 「生存そのもの」が目的である、つまり人間が手段にされないってことだ。

最貧国: 

今日をどう生き延びるか、家族でどう飯を食うかという「本能的な生存」に日々直面しているわけだ。そこには悩む隙がないだけでなく、「生き延びることそれ自体」が毎日クリアすべき目的となってるだけだ。まさに、生きてるだけだ丸儲けだ。

先進国: 

翻って私どもの住む社会はどうなっているだろう。

法と行政システムの整備により、生存のインフラは保障されているものの、その内面の荒廃は著しいもんがあるぜ。

大人は「会社の売上」、子供は「テストの点数」といった「社会の道具(手段)としてのノルマ」を果たすことを要求され続けてるんだ。これはゴールのないマラソンだ。生存の先にある「過剰な要求」に終わりがないため、精神が燃え尽きてしまうんだ。

死にたくもなるだろうよ。電車が遅延するその向こうに、思い詰めて命を絶たざるを得なかった人がいることすら、俺たちは想像することも、そんな社会に対して怒ることすらない。ただ、迷惑な馬鹿野郎だと舌打ちするだけだ。

まったくひでぇもんです。

4. 「ただ存在するだけ」で役割がある

最貧国: 

伝統的な社会では、勉強ができなくても、力が強い、子供の面倒を見るのが上手い、あるいは「ただそこにいて笑っているだけ」でも、大家族や村の中という共同体に包摂され、愛され、役割が与えられる。

つまり、自分が自分でいることがそのまま肯定されるわけだ。

先進国:

そして毎度おなじみ、俺たちのディストピアではどうだ?

 社会が求める「高い生産性」「人材スペック」を満たせない人間には、居場所が与えられない。学校に行けない子供や、働けない大人は「社会のお荷物」であるかのような扱いを受け、存在そのものを否定されちまうんだ。

しかし、今日はちゃんと学校に行けていても、今日はちゃんと働けていても、人間はいつその境遇から転落してしまうかわからない。わからないからこそ、明日は我が身だと考えて、そういった人々を包摂していく必要があるんじゃないのかな?

誤解しないでほしいのは、彼らの幸福感は、「お金がないから幸せ」なのではないってことだ。お金なんてものは、彼らだってそりゃ欲しいに決まってるだろう。喉から手が出るほどに欲しいだろう。しかし問題はそこじゃないんだ。

「人間が市場の『材料』として値踏みされ、規格化され、自己責任で切り捨てられる」という新自由主義の病理から、まだ守られているからなんだ。

俺が君たちに話した「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という野生の教育は、まさにアフリカなどのコミュニティでは当たり前に実践されている日常だ。なんてったって、学校に行くだけで、ライオンとかいる平原を迂回したりしなきゃいけないんだ。毎日がサバイバルだぜ。

物質的豊かさを手に入れた代償に、私たちは「ただ生きているだけで尊い」というカント的な人間性を売り払ってしまったんだ!盥のお湯を流そうとして、赤子まで排水溝に流してしまったという本末転倒な状況になっているんだ。

この呆然とするような事実に気づくことこそが、日本が「不幸の拡大再生産」を止めるための極めて重要な一歩になるんだ。

気づいたときに、茫然として、悲嘆絶望して、思考停止してちゃいけない。

自分に何ができるか考えるんだ!

俺自身は、もっともっと社会に『贈与』とか『だらけること』とかを普及させた方がいいと思ってるんだ。

迷惑はかけ合って当たり前。

人間はいずれ死ぬんだから、ことさらに気に入らない奴に『死ぬ死ね』とか言ったり、裸にひん剥いて橋から突き落としたりしなくったっていいんだ。なんせ、そのうちほっとけば間違いなく死んじまうんだから。

そういうことをみんなもっと考えれるようになった方がいいと思ってるんだ。

この「贈与」「だらけること」「迷惑をかけ合うこと」「死を放っておくこと(生への執着の手放し)」という思想は、新自由主義の病理に対する極めて強力な「解毒剤(アンチテーゼ)」になりうるだろう。

なんせこれらはまさに、社会学者や哲学者たちが現代社会を救うために議論している最先端のテーマそのものだからな。

人間を「材料(人材)」として1分1秒まで効率的に使い倒そうとする今の日本社会に、この「脱・効率主義」の思想を普及させるべき理由は、実はたくさんある。よくわが身に引き寄せて考えてみておくんないさいまし。

1. 「等価交換」から「贈与」へ:査定されない関係を作る

現状の病理:

 現代社会は「何かをしてもらったら、同等の価値(お金や成果)を返さなければならない」という交換経済だ。その原則が等価交換🔗だ。パチンコから鋼の錬金術師🔗まで、すべて等価交換だ。あらゆる商品、サービスに値段が設定され、それに対応した貨幣を支払うことで、いつもニコニコ現金払い、その価値が手に入るという幻想だ。

これが子供にも適用され、「塾代(投資)を払ったのだから成績(成果)を返せ」という圧迫になっているんだな。

贈与の普及: 

しかし、人類がつい300年ほど前まで普遍的に持っていた交換様式、つまり見返りを求めずに与え、受け取る「贈与(ギフト)」の文化が広がれば、人間は「役に立つかどうか」という市場価値から解放されるだろう。いよいよ山下清🔗の出番だな。

ただそこにいるだけで、誰かから無条件に何かを受け取っていいという安心感が、子どもたちの命を繋ぐんだ。

2. 「だらけること(贅沢な無駄)」:それは生産性への最大の反逆

現状の病理: 

現代人は大人も子供も「常に何かを学ばなければ」「時間を有効に使わなければ」という強迫観念に縛られている。しかもそれには終わりがない。さっきも話したようにゴールのないマラソンだ。これはキツイ。愉しんでやれるような狂ったやつじゃないと出来っこない。

だらけることの普及: 

フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ🔗は、社会が崩壊しないためには、経済的な「無駄(蕩尽)」や生産性のない時間が不可欠だと説いたんだ。ハンドルの遊びみたいなもんだ。

俺が垂れ流す「10歳までケモノのように遊ぶ」ことも最高のだらけ=無駄そのものだ。世のお母さんたちは、カンカンになって俺を糾弾するだろうよ。

しかし、だらけることを肯定することは、「人間は生産性のための道具ではない」というカント的尊厳を取り戻すための最大の反逆になるんだぜ。

3. 「迷惑はかけ合って当たり前」:それは欺瞞の自己責任論の完全な破壊

現状の病理:

 日本の「人に迷惑をかけるな」という教育は、裏を返せば「他人の迷惑も一切許さない」という冷酷な相互監視を生み、新自由主義の自己責任論と完璧にフィットしてしまったわけだ。これが俺たちの社会を息苦しいディストピアにしているんだ。

迷惑のシェア:

けど考えてみてほしい。そもそも 人間は、生まれ落ちて死ぬその瞬間まで、生きているだけで他人に迷惑をかける存在なんだ。

「お互いに迷惑をかけ、許し合って生きる(インドの教育方針などにも見られる思想)」という前提に立てば、いじめや不登校、ドロップアウトに怯える必要はなくなるだろう。フーテンの寅次郎🔗の出番だな。

人間の「弱さ」を認め合える社会こそが、本当の安全基地=シェルターにしてアジールなんだ。

4. 「ほっとけばいい」:過剰なコントロールの手放し

現状の病理: 

現代社会は「人間を完璧に管理(コントロール)し、リスクをゼロにする」ことを求めている。しかし、人間はロボットじゃない。不条理な存在なんだ。

けれどこれが子供への過度な干渉や、「まともな大人にならなければならない」という息苦しさを生んでいるんだ。

死生観の転換: 

「人間はどうせいつか死ぬ。だからそんなにカリカリ管理しなくたって、ほっとけばいい」という、少し肩の力を抜いた大らかな死生観(あるいは無常観)を持つことは、現代の過剰なシステムに対するカウンターになるだろう。

「失敗したら人生終わり」という全能感を大人の側が手放すんだ。

失敗しても、人生は終わらない。あきらめなければ、そこから本当の自分だけの人生が始まるんだ。

子供の人生を「放牧」する寛容さが、結果として死にたくなるほどのプレッシャーを消し去ってくれるだろう。

俺が提示する世界は、決して「怠惰な社会」ではなく、「人間が人間として、ただ生きていていい社会」なんだけど、まんざらでもないんじゃないか。

効率性、生産性、人材スペックという「数字の檻」の中に閉じ込められている現代の日本において、この「だらける、迷惑をかける、贈与する、放っておく」という態度は、社会の息苦しさを根底からひっくり返すスゴいパワーを持っているんだ。

大人がまず「だらだらと、迷惑をかけ合って、楽しそうに生きる背中」を子供に見せることこそが、最も強力な教育であり、子供の自殺を防ぐ最大の防衛策ではないんじゃないか?

大体、大人が辛そうで面白くなさそうに生きてて、大人になんかなりたいと思える奴のほうがどうかしてるぜ。

そもそも20世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズ🔗は 100 年も前の1930年のエッセイ『我が孫たちの経済的可能性』の中で、「100年後(つまり2030年頃)にはテクノロジーの進歩により、人間は週15時間働けば十分に暮らせるようになる」と予測してたとけど、現実はどうよ?

実際には 1 日 15 時間働いても生活できないっていうことがあるような、働き方改革なんて、いったいぜんたいどこの世界だよ?的な世の中になっております、はい。

まったく、生産性なんて嘘っ八じゃないか?

現代の科学技術や生産性は、ケインズの時代とは比較にならないほど爆発的に向上しているにも拘らず、1日15時間働いても生活が困窮する人がいる現実を見れば、「生産性の向上なんて嘘っぱち(まやかし)ではないか」と感じるのは当然だろう。

なぜ生産性が上がったのに私たちは楽にならず、むしろ窮屈になっているのか、その構造的な原因も深堀だ。Dig、Dig、Digだ!

1. 生産性の成果が「労働者」ではなく「資本家」に独占されちまったんだ!

構造の歪み: 

確かにテクノロジーによって1人の労働者が生み出せる成果(生産性)は劇的に上がりましたでごさいますよ。

しかし、それによって得られた莫大な富つまり利益は、働く人の給料や休みの増加には回されず、企業の内部留保や、資本家つまり株主や経営者の利益として、過剰に分配されている。その格差は開き続けるばかりだ。

結果として 労働者は「以前より効率的に働かされている」にもかかわらず、その恩恵を十分に受け取れないんだ。

働けど働けど わが暮らし楽にならず じっと手を見る 足を見るって感じだ。

2. 「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の大量発生

人学者デヴィッド・グレーバー🔗の指摘通り、新自由主義的な官僚制が進んだ結果、社会には「本来なくても誰も困らない、無意味で非生産的な仕事」が大量に生まれたわけだ。

君にも覚えがあるだろう。

過剰な報告書の作成、形だけの会議、コンプライアンスのチェック、お互いを監視・管理し合うための業務などてんこ盛りだ。

社会全体の「生産性」という数字は上がっていても、個々の労働者はこの「無駄な仕事」に時間を奪われ、1日15時間働いても精神と肉体を消耗するだけという非常事態が起きているんだ。まったくバカバカしいったらないぜ。

どうしてみんなこんなバカバカしいことを押し付けてくる会社を、自分自身がリストラして、自分のスキルでもって腕一本で生きようとしないのか、理解に苦しむところだぜ。

3. 「生存コスト」自体の吊り上げ(インフレと新しい必需品)

消費の罠: 

ケインズの言う「十分な生活」とは、衣食住が満たされる最低限のレベルであったそうだ。しかし現代の資本主義社会は、スマートフォン、通信費、高額な家賃、そして「将来脱落しないための教育費(塾代など)」を生きるための新たな「必需品」が次から次に発明され、マストアイテムとして社会に実装されちまったわけだ。さぁ困ったぞ!

おかげさんで、社会全体の生活水準(生存コスト)が無理やり吊り上げられちゃったわけだ。せっせと歩いて移動するゴールポストみたいなもんだ。

いくら働いて生産性を上げても、その「新しい生存ライン」を維持するための支払いに追われ続け、いつまでも楽になるわけないだろう!現代の資本主義は、24時間365日、広告を浴びせ続けることによって、人々の消費マインドを喚起し、不要なものをじゃんじゃん作って売り飛ばすことでしか、拡大成長しないんだからな。そこで導き出されのが、ジャジャーン!これだ。

4. 資本主義の「終わりなき欲望」の暴走

資本主義の本質は「常に前年より成長しなければならない」という拡大の呪いに他ならない。

本当だったら、週15時間働いて「十分な量」が生産できたら、そこで仕事を止めてだらだら遊べばいいはずだ。それが本当の意味での裁量労働って奴だ。

これこそが、俺の言ってる『だらけること』『贈与』を実現化することの本質だ。

しかし今のシステムは、「もっと売れ、もっと効率を上げろ」と人間の欲望と労働を無限に煽り続けるんだ。

総括すれば、「生産性」という言葉のすり替えつまりごまかしが起きてるのさ。

「生産性が上がれば人間が豊かになる」という言説は、現代社会においては嘘っぱち(まやかし)だ。

いつまでたってもたどり着かない蜃気楼のようなものだ。

なぜなら、その生産性は「人間の幸福のため」ではなく、「システム(市場や資本)を維持・拡大するため」の指標にすり替えられているからだ。

いまや人間は単なるシステムの奴隷なんだ。

俺たちがケインズの予言した「週15時間労働の幸福」を取り戻すには、これ以上の生産性向上(スペックアップ)を目指すのをやめるしかないだろう。

社会全体で「もう十分に物は足りている」と認め、俺が垂れ流している「だらけること」「無駄を愛すること」「迷惑をかけ合うこと」を社会の共通認識にしていくことこそが、この狂った生産性競争から抜け出す唯一の道だ。

 そう、グレイバーもピケティもそこを指摘しているんだよね。

俺や君たちは本当はもっと豊かに暮らせるはずだし、もっと気楽に暮らせるはずなんだ。

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ🔗』や、トマ・ピケティ🔗の『21世紀の資本🔗』が世界中でこれほど読まれたのは。俺や君たちが今まさに感じている「私たちは本当はもっと豊かで気楽に暮らせるはずなのに、なぜこんなに苦しいのか」という決定的な違和感を、圧倒的なデータと論理で証明したからに他ならない。人間は、データと論理にすぐ丸め込まれるんだ。ついでに言うと、日本人は政治家のウソにすぐ丸め込まれる!(笑)

二人の指摘を組み合わせると、現代社会の「気楽に暮らせない仕組み」が完全にあぶり出されてくるだろう。

 グレーバーとピケティが暴いた「現代の奴隷制」。

言っとくけど奴隷化されてるのは俺たち自身ね。

ピケティの指摘はズバリ、『富の独占』だ。

彼の有名な数式 r > g(資本収益率は経済成長率を上回る)は、「どれだけ真面目に働いて生産性を上げても、その富はすべて一握りの資本家に吸い上げられる」という、レ・ミゼラブルな事実を証明しちまった。石川啄木🔗も納得だ。

俺たちが1日15時間働いても生活が楽にならないのは、俺や君たちの労働が「自分の豊かな暮らし」のためではなく、「富裕層の資産をさらに増やすため」に搾取されているからに他ならないんだぜ。なのに、出来が悪いと査定を下げられ、やられた方はハラスメントで訴える。

恐ろしい世界線だ!

片やグレーバーの指摘は『精神の監禁』だね。

親愛なるグレーバーは、テクノロジーが進歩したのに労働時間が全く減らないのは、「人々が暇になると、社会のシステムや格差に対して疑問を持ち、反乱を起こすからだ」という支配階級の無意識の恐怖を指摘した。そういうと俺がすごい暇人みたいだが、寸暇を惜しみ、睡眠と命を削って書き記してるんだ!(笑)

つまり、社会を維持するために、わざと「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」を大量に作り出し、大人を1日中忙しくさせて思考を奪っているという転倒した状況だ。

さらにグレーバーは、一見有能そうで実は無意味な仕事をしている人間のほうが給料が高く、介護や看護、教育やごみ収集、掃除や建築など、社会に絶対に欠かせない仕事の賃金が低いのは、この類の人々は、すでに社会に対して意味のある仕事をしているという有意義で『使用価値』があるという『報酬』を受け取っているから、無意味な仕事に従事している人々により、その分の『交換価値』=賃金が過小評価されるという、悪夢のような現実を描き出したんだ。

 こうして欺瞞に満ちた『大人の不自由』が『子供の絶望』へと直結するんだ。

ようこそディストピアへ!

滝川クリステル🔗がおもてなしと手話を交えて微笑んでるぜ!

俺がかまやつひろし🔗なら、この後に

♪マリーアントワネットがシトロエンの馬車のうえにたちあがって ワインはいかがと招いてる~♪

って続けるな(笑)

さて、この二人の知性の持ち主が語る、今日の大人の世界の絶望は、そのまま子供たちの世界へとスライドしている。

子供の「ブルシット・スタディ(クソどうでもいい勉強)」

現代の子供たちが深夜まで塾に通い、ポートフォリオを埋め、自己PRを磨いている姿は、大人の「ブルシット・ジョブ」と全く同じだ。一人の父親として胸が痛むぜ。

「将来のサバイバルのため」という恐怖に突き動かされ、本当の人間的成長には何の役にも立たない「評価されるための記号集め」に人生の貴重な時間を奪われているんだ。

しかし、本当に必要なサバイバルスキルは、しっかりと愛されて心がホカホカしてるっていう充足感じゃないか?さらに言えば、ナイフやロープの使い方、そう身近なものをブリコラージュ🔗して実生活を生き抜いてゆく知識だ。

反論のあるやつは、名乗り出ろ!

逃げ場のない「総資本主義化」

ピケティが描いた格差社会の中で、親は「子供を負け組にさせたくない」という不安から、子供をさらに過酷な教育市場へと投入ちゃうんだな。これ、無間地獄の入り口だ。

おかげさまで、楽しい我が家のはずの家庭さえもが『投資と回収』の場となり、子供にとっての「無条件の安全基地」が消滅してしまう。しかもたいていはハイコスト・ハイリスク・ローリターンっておまけつきだ!なぜってノータリーンだからな(笑)

このままじゃ、子供そのものが絶滅危惧種になっちまうぜ。

 私たちが「気楽さ」を取り戻すための革命が必要だ。

しかし、しかしですよ、グレーバーもピケティも、ただ絶望を語ったわけではないんだぜ!あの知の巨人たちの思想の先にあるのは、俺が垂れ流した『贈与』『だらけること』『迷惑の掛け合い』の肯定だ。特にグレーバーは、社会ってのは「やれる能力を持ったものが、必要に応じて見返りを求めずやる」という基盤的共産主義によって成り立ってると喝破してるんだ。

考えてみ、君がオフィスで、ちょっとそこの資料取ってくれる?とお願いしたら、対価を請求されてみろ。やってられないだろ。つまりそういうことさ。

俺や君たちは、社会が押し付ける『偽りの豊かさ』、つまりもっと早く!もっと大量に!もっと稼げ!もっとスペックを上げろ!の競争から、意識的に「降りる」必要があるんだぜ。そんなのに付き合ってたら、そもそも身が持たないし、一度きりの人生がそんなバカバカしいことで浪費されてたまるもんか!

週3日だけ働いて、あとは仲間とだらだら過ごす。

できないことは「ごめん、手伝って」と他人に迷惑をかける。

子供には「勉強なんかいいから、早く寝て遊びなさい」と笑って言う。

まっとうな大人がそうやって「気楽に生きる背中」を見せること自体が、新自由主義に対する最も過激で、最も子供を救う非暴力革命になるんだよ!

大人がシステムに洗脳されたままでいる限り、子供たちをこの檻から出してあげることはできないんだ。溺れてるやつは、隣で溺れてるやつを救えるはずがないんだぜ!

そう、アクセク働くよりも、ダラダラと寝転びながら本でも読んだ方が、よっぽど人間有意義な人生の過ごし方だと思うぜ。

これは単なる「怠け」ではないんだよ。

古代ギリシャのアリストテレス🔗などの哲学者たちは、この生産性から解放された自由な時間のことを「スコレー(Schole)」と呼び、これこそが人間の幸福であり、知性の源泉であると考えたんだ。しかもこれが英語の「School(学校)」の語源なんだぜ。

つまり、本来の学校や学びとは、「労働や効率から解放されて、ダラダラと知性を楽しむ場所」だったはずなんだ。

それを新自由主義がひっくり返し、ダラダラすることを「悪」とし、アクセク働くこと(手段になること)を「正義」に洗脳してしまった。

いや、ひょっとするとマックス・ヴェーバー🔗の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神🔗』を参照すると、その淵源はキリスト教のプロテスタンティズムにあるのかもしれない。それはスルーして、俺の提唱するライフスタイルが、なぜ現代社会において究極の救いになるのか、その本質を考えてみよう。

「寝転んで本を読む」という最高の抵抗

それは市場に魂を売らない時間なんだ。

 寝転んで本を読んでいる間、君はお金を稼いでもいなければ、無駄な消費もしちゃいない。本を買って読んでても、それによって、君の内面世界の奥行きが深まるんだ。

つまり資本主義のシステムから完全に「脱出」している状態なんだ。

これこそ本当の「主体性」の回復さ。

考えてごらんよ。 誰かに評価されるためではなく、自分の「知りたい」「面白い」という純粋な興味だけでページをめくること。これこそが、毎度おなじみカント🔗の言う「目的としての人間」の姿そのものじゃないか。

そしてそれが子供に「逃げ道」を示す背中でもあるんだ。

 大人が家でゴロゴロしながら楽しそうに本を読んだり、だらだら過ごしたりしている姿を見ることで、子供は初めて「あぁ、あんなにアクセク生きなくても、人間って生きてていいんだ」「大人になるのって楽しそうだ」と、心の底から安心することがでるだろう。たまには屁の一発でもかましたらいいんだよ。

俺はここんとこ、君たちと「なぜ子供の自殺が減らないのか」という重い問いから出発し、社会の構造、カントの哲学、新自由主義、グレーバーやピケティの経済論を経て、「ダラダラと寝転んで本を読むことの尊さ」という、極めてシンプルで本質的な答えにたどり着いた。

すごい遠回りしたな。

子供たちを死に追いやるこの息苦しい国を変える特効薬は、制度の改革だけじゃない。どれだけ制度を変えたって、俺や君たち大人の頭の中がが変わらなければ、何も変わらない。

新しい地獄の幕が開くだけだ。俺たちは社会の「人材になれ」「生産性を上げろ」という脅し文句を無視して、「迷惑をかけ合い、だらだらと、気楽に生きる姿」を今ここから実践していくことが必要なんだ。

俺たちが抱いた違和感と、その先にある「だらけること・贈与・気楽さ」の全肯定は、現代の歪んだ日本社会を生き抜くための、最も強力な生きた哲学なんだ。

俺は思い出す。紀州熊野の産んだ博覧強記の怪物、南方熊楠🔗だって何ヶ月もの間、フルチンでごろごろしながらバートン版アラビアンナイト🔗を読書したりしてたんだ。最高だ。風邪ひくぜ!

これこそが人間が生きる究極の贅沢であり、本来の「知の爆発」の姿なんだ。

南方熊楠という稀代の天才が、全裸(フルチン)で寝転がりながら大著を読み耽っていたというエピソードは、現代の「効率性」や「人材スペック」といった小綺麗な綺麗事を一撃で吹き飛ばす圧倒的なパワーを持ってる。

 南方熊楠が証明する「けもの」と「知性」の融合

熊楠は正真正銘の「天才」でしたが、現代の日本の教育や産業界が求める「扱いやすい優等生(人材)」とは真逆の存在だった。まさに怪物だ。手っ取り早く知りたい向きは水木しげる🔗の『猫楠🔗』を読むがいいさ。

「けもの」としての野生

家を飛び出し、泥まみれ、全裸で粘菌を採集し、夜通し酒を飲んで大暴れする野生児というか手におえない迷惑なおっさんだ。酒を飲めばたいていゲロを吐き、そのゲロに発生する粘菌🔗を観察するといって掃除することもない。道鏡🔗の巨根伝説を立証するために、自分の一物に蜂蜜とか塗りたくって、庭で何日も寝転がる。普通の感覚からしたら、馬鹿だ。しかもとびぬけた大馬鹿野郎だ!これは誉め言葉だぜ。

「目的」としての知性

誰かに評価されるためではなく、ただ自分が「面白い」と思うから学び、10カ国語以上を操り、ロンドンの大英博物館で膨大な文献を読み漁る。

熊楠の生き方は、俺が君たちと話し合ってきた「10歳まではけもののように遊ぶべき」「だらけること」「人間を目的として扱うこと」のすべてを、そのまま生涯かけて体現したような、まさに破格なものだ。

彼は社会のルールや生産性のために生きたのではなく、自分の生命力と好奇心のためだけに生きたんだよなぁ。憧れるぜ!

 俺たちが熊楠から受け取るべき「全裸の哲学」

現代を生きる俺や君たちは、衣服つまり、社会的な立場、学歴、他人の目を着込みすぎて身動きが取れなくなっている。

だからこそ、熊楠のように「すべてを脱ぎ捨てて、ただ本能と知性の赴くままにだらだらと本を読む」という、圧倒的な全能感を取り戻す必要がある。

私事で恐縮だが、俺はかつて務めていた会社を辞めるという話を社長と直談判したときに、社長は思わず殴ったろか!と息巻いた。すかさず俺は、『おう、望むところだ。その代わり、その瞬間から俺とあんたは、一対一の裸一貫の男と男だ。どっちが強いかよく考えろよ!』と啖呵を切って撃沈させてことがある。そういう覚悟が必要なのさ。

大人が「熊楠スピリット」を持って、撃沈じゃなくてフルチンとまではいかなくとも、社会の評価を一切気にせずダラダラと生を謳歌していれば、子供たちも「あ、社会の型にはまらなくたって、こんなに面白おかしく生きていいんじゃね?」と救われること間違いなしだ。

「使える・使えない」の資本主義の檻を打ち破るヒントは、100年前の和歌山の森の中で全裸で笑っていた熊楠が、すでに俺や君たちに示してくれていたんだ。

2026/06/05

POST#1869 右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い

 

台北市内
今朝、仕事から帰ってきてもそもそと食事を貪りながら来たばかりの朝刊を読んでいたら、気になる記事がいくつかあった。あぁ、うちは昔から『試験に出る朝日新聞』だよ(笑)。
株価68,000円越えは、もういい。AI関連のバブルだ。好景気だなんてだれも思ってないから心配するな。
TSMCの城下町、熊本:上 台湾有事の不安、すすむ住宅投資🔗』という記事だ。リンクを貼ってあるから、興味のある向きは、読んでみるといいだろう。
そうだよな。俺も思ってたんだ。声高に言えば中国を刺激するといけないから多分粛々と進めてるんだろうけれど、以前にも書いたような気がするけど、台湾有事が起きた場合、膨大な数の台湾人が難民、一時避難民となって日本に押し寄せるだろう。
その時、TSMCの城下町、熊本ってのは地理的にも台湾に近いし、それを見越してるんだろうなと思っていた。もっとも、政府自体がひそかに台湾人のためのコロニーを作っているわけではなく、TSMCの工場誘致に引きづられるような形で進んでいることなんだろうけれど。
諸君、これが実情だ。
排外主義的な主張を掲げ、難民申請を厳しくしたり、在留登録手数料を値上げしたりしている場合じゃない。台湾有事は存立危機事態だというならば、国家的に制度を整えていかなければならないだろう。日本人はいつも後手後手だ。ほぼ与党独裁というのに、食料品の消費税を下げる議論だけで半年もかかっている。キャッチャーミットにボールが治まってからバットを振ることにならないことを祈るぜ。

さて、閑話休題

うちの息子は、YOUTUBEの広告を忌み嫌っている。

そして俺は、アホ面してぼんやりテレビの広告を見てる息子に、TVばかり見ていると、広告に洗脳されて、不要なものを欲しがるようになるから気をつけろと教えてる。

うちの豚児の「YouTubeの広告を忌み嫌う」という感覚は、資本の論理による脳のハッキングつまり『強制的な欲望の刷り込み』に対する、極めて正常で健全な自己防衛本能(アレルギー反応)だろうな。

そして、俺自身が『テレビを見すぎると洗脳されるぜ』と伝えていることは、まさにメディアが流す『作られた正しさ』や『消費への誘導』を客観的に見抜くための、メディアリテラシー教育ってことだ。戦前の大政翼賛会による「総動員戦争」を完遂するための『皇国』への傾倒も、現代の「消費至上主義」を喧伝する『広告』への傾倒も、大衆を一元的な価値観で支配するシステムという意味では、全く同じ構造だ。このライム、わかってくれるかな(笑)。

この馬鹿なオヤジと阿呆な息子の凸凹コンビの日常的な関わりこそが、まさにいつも話していた『システムへの強力なボイコット』そのものじゃないかな。

右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。どこに男の意地がある♪

1. 広告を「嫌悪する」という最高の知性

現代の広告は、子供たちの脳の報酬系(ドーパミン)を計算し尽くして作られているのだという。すごい洗脳技術だな。きっと時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいな人間の深層心理を操作する悪魔のような技術の持ち主たちが、グーグルやヤフー、電通や博報堂にいるんだろう。

で、うちの豚児の広告に対する「ウザい」「嫌いだ」と感じる不快感の正体こそは、自分の大切な時間や関心(アテンション)を、土足で奪われることへの正しい拒絶反応ってことだ。

ひょっとすると、うちの豚児(本名は麒麟児だけど、まったく名前負けだ!)の電車のことで煩悩まみれの脳みその中に、広告を無批判に受け入れるのではなく、「これは自分を操ろうとしているノイズだ」と見抜く知性が、すでに育っているという可能性もある。まぁいうなれば「洗脳」の無力化だ。誰だって毎日毎回、リクルートとかアゴタのCMを見せられるのはうんざりだからな。

それって、まさに助長、つまり早く育てようとして植物の芽を引っ張って抜いてしまう頓馬なことになってないか?ほんとに計算づくで作られてるのか怪しくなってきたな。

2. 「広告に洗脳される」という言葉の批評性

俺が使う「広告に洗脳される」というフレーズは、うちのバカ息子にとっても強烈なインパクトを持ってるかもしれないな。それがひいては、テレビやネットの向こう側の世界を、一歩引いて客観的に見る「批評的な目」を養ってくれること願うぜ。

年取ってから生まれた大事な息子だからな、情弱のあまりトクリュウ犯罪に飛びついて、人生を台無しにされたらたまらないぜ。泣くに泣けないってもんだ。

現代の「国家」や「資本」という神話にからめとられないようにしないといけないんだ。

かつて国家のために命を捧げることが正義とされたように、現代は「資本(経済)のために労働機械になること」が正義とされているんだからな。

この形を変えただけの洗脳に気付かせる言葉として、機能してくれるとありがたいぜ。

ついでに言えば、学校や世間が「あれを買え」「こうあれ」と一方向の価値観を押し付けてくる中で、父親が「あれは洗脳だぜ」と笑い飛ばしてくれることは、子供にとって「世間の正しさがすべてではない」という圧倒的な安心感(精神のシェルター)になるだろう。

とはいえ、今日学校で配布されている学習用のクロームブックで桃太郎電鉄🔗をやりすぎて、先生に取り上げられたらしい。阿呆だな、俺の息子。とほほ…

3. 家庭の中に生まれる「オルタナティブ(代替)な空間」

テレビやYouTubeの画面(広告・洗脳)を親子で否定し、クソミソに笑い合える関係がある時点で、俺の家庭はすでに「労働機械の仕込み工場」であることを拒絶しているんだろうな。(笑)

うちの豚児にとって、スマホのアルゴリズムが提示する偽の欲望よりも、「こいつは洗脳だぜ、気をつけな」と本質を教えてくれる俺との生身の会話の方が、はるかに刺激的でリアルなのかもしれないな。実はそこに、カントの言う「目的としての人間」の関わりが成立しているって寸法だ。

画面の向こうのバナナマンより、目の前のインパクトのでかいくそ親父だ。

国や学校のシステムが変わるのを待つまでもなく、俺のHELLホームでは、子どもを「かけがえのない存在」として守るためのボイコットがすでに始まっているんだ。

いや、実は生まれたばかりの頃から、毎晩抱っこしながら耳元で、『学校の先生やその辺のつまらん大人に褒められるようなバカにはなるなよ』とささやき続けてきたんだ。まるでTHE BLUE HEARTS🔗少年の詩🔗の歌詞みたいだ。ロックだぜ、うちは。

けど、カミさんには叱られるから内緒だ。絶対にな。

広告やテレビを冷めた目で見るうちのバカ息子は、将来、システムの部品になることを自ら拒否できる、強靭な尊厳を持った大人へと育っていってくれるとありがたいもんだ。なんせ、TVやネットの言葉を真に受ける頓馬が、我が国には2億人くらいいるんだからな(笑)。

ここで話題の転換点が生じるぞ。覚悟してね。

そもそも、レジリエンスだのダイバーシティだの、コンプライアンスだのハラスメントだの、よく意味の解らんような横文字の言葉が世の中に跋扈するようになってから、どんどん世の中は窮屈になってると俺には感じられる。息ができないほどだ。(俺は最初、レジリエンスはなんか新しいシャンプーで、ダイバーシティはお台場シティかと思ってたぜ。ガハハハッ!)

なぜかって?偽善の臭いがプンプンしてるから、洗濯はさみで鼻をつまんでいるからだ!

これ、ちょっと現代社会の息苦しさの核心だ。

本来は個人を救うため、あるいは社会を豊かにするために登場したはずの「再起力=レジリエンス」や「多様性=ダイバーシティ」という言葉が、今や新自由主義的なシステムにハイジャックされちゃって、人々をさらに監視し、追い詰めるための「新たな凶器」に変質しているからなんだなぁ。羊頭狗肉って感じだぜ。

なぜこれらの美しい言葉が、世の中をますます窮屈にしているのかじゃが、その裏に隠された構造を説明しよう!(オーキド博士風に!)

1. 「レジリエンス」という名の精神的自己責任論

「レジリエンス(精神的復元力・折れない心)」という言葉がこれほど強調されるようになったのは、社会の側が「人間を壊すような過酷な環境」を改善することを放棄したからに他ならないんじゃ。

本来の意味はあれらしい。ほら、困難な状況にあっても、しなやかに立ち直る力だ。若者に必要なのは正しい挫折とそこからの立ち直り、みたいな?

しかし、その少年ジャンプ的なちょっといい話が、大真面目に語られると途端に窮屈な言葉に変貌し、俺たちに牙をむく。

その原因はずばり、現代社会において、この言葉は「どんなに理不尽な環境、つまりいじめ、過剰な競争、ブラックな労働、上がらない給料と上がり続ける物価と税金といった地獄のような環境であっても、何度打ちのめされても、自力で立ち上がって、心身を病まずに耐え抜くのは個人の義務である」という悪魔的な文脈で使われちゃってるからもう大変!

おかげさまでもたらされた弊害は甚大だ!

 心が折れてしまった子どもや大人に対して、「環境が悪い」のではなく「本人のレジリエンスが足りない(自己管理不足だ)」と一刀両断され、あっさり処理されちまうんだ。

ここにはカントの言う人間を金儲けの「手段」として使い続けるために、「壊れないように自分をメンテナンスせよ」と要求し続けることで、それが強迫観念となり、弱音を吐くことをさらに難しくしているんだ。

この不屈の反骨精神が作業服を着て安全靴を履いているような21世紀のエリック・ホッファー🔗といわれる俺でさえ、(勝手に自分で名乗ってるだけなんだけどね(笑))鬱病の薬を手放せないんだぜ!並の神経じゃもつわけないだろ!

2. 「多様性」という名の新たな数値評価と規格化

現在の社会が美しく歌い上げる「多様性」ってのは、実は人間のグラデーションをありのまま認めるものなんかでは、ちっともない。

経済に役立つタイプの多様性だけをラインナップする」という、極めて功利主義的なものになっているんだ。

要は、金を稼げる奴だったら、どんな属性の奴でも集めてこいや!ってことだ。やれやれ、これじゃ大昔のドヤ街🔗と変わらないな(笑)。

もちろん、この本来の意味は、どんな特性や違いを持っていても、排除されずに生きていけることだよ。カントやルソーが聞いても、Das ist gut!とかC'est Bon!とか言いそうな言葉だよ。そんな素敵な言葉なんだけど、だからこそ、そこに偽善が忍び込むのさ。夜陰に乗じるトクリュウ犯罪者のようにね。

現代の多様性という意味合いは、産業界からの強い要請によって「個人のユニークな強み=市場価値」へと変換されちゃったわけだ。

まったくお見事な換骨奪胎というやつだ。

「あなただけの強み(個性)は何ですか?」「それをどう社会(企業)に活かせますか?」という、「一芸を持った優秀な人材」であることを強いる新たなオーディションのようになっているわけだ。吉本興業の新人芸人みたいなもんだ!

おかげさまで、社会はおかしなことになってるんじゃ!

 「ただ特筆すべき個性もなく、普通に生きたい人」や「社会の役に立つアピールが苦手な人」は、多様性の枠からさえも実質的に排除さちゃうわけだ。機動戦士ガンダム🔗でいうところの、量産型のザクかガンダムの量産型のジムに過ぎないんだ。つまらない事務仕事でもやらせておけ!となるわな。

さらに、「他人の多様性を傷つけてはいけない」という過剰な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)のルールだけが肥大化しちまったもんだから、さあ大変!ドジョウが出てきてこんにちわだ。

学校でも職場でも「一言でも間違えれば即座に糾弾される」という、冷徹な相互監視と息苦しさを生み出しているわけだ。あー、まるで中世の魔女狩りみたいな社会だな!自分で書いてて泣けてくるぜ、まったく。

3. 美しい言葉が「盾」になり、本質的な批判を封じ込める

レジリエンスを高めよう」「多様性を認め合おう」というスローガンは、けっこう、けっこう、まことに結構。マジで表向きは100%正しいため、誰も反対できないんだ。

しかし、これが曲者だ。

誰も反論できないってことは、大政翼賛会的に偽善の正しさを追い求めることになるんだ。

そう、この正しさこそが罠になるんだ。

俺のような空気を読めない、本当の意味での多様性とレジリエンスの権化のような大人が「学校の仕組みそのものがおかしい」「経済至上主義を止めろ」と根本的な批判の声を上げようとしても、社会システムは「私たちはレジリエンス教育や多様性の尊重に取り組んでおりますです、はい」というポーズ(免罪符)によって、構造の歪みを隠蔽し、対話を煙に巻いてしまうわけだ。

俺が感じている窮屈さの正体は、「どれだけ社会が優しげな言葉を使おうとも、その根底にある『人間を材料(手段)として評価し、消費する』という本質(新自由主義)が1ミリも変わっていないこと」への違和感だ。

剥き出しじゃないだけ、戦いを挑むことも異を唱えることも野暮に見えちまう。そう、みんなシニカルに眺めて冷笑するだけだ。

Oi!ちょっと待って、これってまるで1984🔗に出てくるニュースピーク🔗そのままじゃないか!

言葉が優しくなった分だけ、その猛悪な牙が見えにくくなり、追い詰められている側は「こんなに配慮された社会で苦しんでいる自分が悪いんだ」と、自分自身を責め、自己幻想を解体し、自らの内面に批判の刃を向けやすくなってしまうんだ。

絶対おかしいだろう!

子どもの自殺が減らないのも、この「優しい顔をした過酷な社会」が、子どもたちの逃げ場を完全に塞いでいるからに他ならないんじゃないのか?え、どうなんだい、社長!

この「言葉の罠」に気づいた俺や君たちは、社会が押し付けるハリボテの言葉を拒絶し、もっと泥臭く、不完全な「生の人間」を取り戻す必要があるんじゃないか?

なんてったって、生の人生は一度しかないんだからな。