2026/05/12

POST#1847 最後に君たちの前にビリー・ブラッグとカントを召喚しようか

 

成田
俺は実は、イングランドのミュージシャンでアクティビストのビリー・ブラッグ🔗を10代の頃から敬愛している。彼のことを思うと、胸が熱くなり、時に涙が流れる。

たった一人でテレキャスターをかき鳴らし、時に激しく、時にユーモラスに、人々に連帯と権力による横暴に対する異議申し立てを続けてきたミュージシャンだ。

この人の言葉が、一連の俺の発想の源なんだ。

例えばこんなことを彼は言っている。

「もし自分の家を愛しているなら、その家を掃除し、壊れたところを直し、客人を温かく迎え入れようとするだろう? 国を愛することもそれと同じだ。欠点から目を背けるのではなく、より良くしようと努力すること。それが本当の愛国心なんだ」

彼は多文化主義を肯定して、 「イングランドを愛しているし、この国が愚かな真似(排他的な行動)をしてほしくない」とし、Raheem Sterling(黒人のサッカー選手)のような存在が差別に立ち向かう姿こそが「イングランド人であること」の誇りだと述べている。

また、白地に赤い十字のイングランドの旗(セント・ジョージクロス🔗)について: 「この国の旗が、隣人を威嚇するために使われることに反対する」と述べ、極右に独占されがちな国旗を「すべての人のための、団結と寛容のシンボル」として取り戻すべきだと主張している。

また彼は、 「愛国心(Patriotism)」を非常にシンプルに定義している。 

「愛国心とは、自分の国のことを本気で思いやる(giving a shit about your country)ことだ」。

 その「思いやり」には、異なる背景を持つ人々への敬意や、自分たちの社会がより寛容で公正であるように努力し続けることが含まれている。

これらはすべて、僕が君たちと語り合ってきたことの根底に確固として存在している。自分の手でこの概念を触れることができるくらいにしっかりと存在している。

だからあえて、僕は一連の天皇制をめぐる知のパルクールの最後に声を大にして言いたい。

『この国に来ればあらゆる人間が、人間として尊厳を持って扱われる国にしたい』

これこそが、俺が構築してきた壮大な理論の「魂」なんだ。

網野史学の「無縁」も、クラストルの「国家に抗する社会」も、吉本隆明の「対幻想」も、レヴィ=ストロースの「構造」も、すべては「属性やレッテルに左右されず、ただの一人の人間として尊厳が守られる聖域」をこの地に確保するための装置だったんだ。

『天皇制リベラリズム』というシャフトは、特定の国民だけを優遇するためのものではなく、移民も、ケア労働者も、この地に足を踏み入れたあらゆる人々が、『天皇という究極の公(おおやけ)のもとで、等しく尊厳ある一人の人間として迎え入れられる』ことを保証する究極の誓いとなるだろう。

この「人間の尊厳」という最後の拠り所を、制度や法律を超えた「文化の力」として定着させるために、私たちはどのような「日々の振る舞い」を大切にすべきだだろうか?

しかし実際にはこの国の現実は程遠い。

名古屋出入国管理局がウシュマ・サマンダリ🔗さんを見殺しにしてしまったり 、この瞬間にも多くの難民や外国人が、牛久入管🔗こと東日本入国管理センターに不法滞在者として 無期限に拘束されている。

ウィシュマ・サンダマリさんの事件や、現在の入管収容問題は、俺が構想する「天皇という器による包摂」という理想から最も遠い、「国家(支配装置)による非人道的な排除」そのものだ。

この理論に照らせば、この現状は以下のように批判され、改善されるべき課題となるだろう。

「無縁」の原理の崩壊

網野善彦が説いた「無縁・公界」の場は、逃亡者や境界の人々さえも「天皇の平和」のもとに保護される聖域であった。現在の入管施設で起きている「無期限拘束」は、この日本が歴史的に持っていた「疎外された者を保護する空間」を国家が自ら破壊し、単なる「暴力装置」に変質してしまった姿といえるだろう。

「尊厳」を剥奪する管理社会

吉本隆明やクラストルの視点から見れば、入管問題は「国家幻想」が「個の尊厳(対幻想・個人)」を完全に飲み込み、人間を「管理番号」としてしか扱わなくなった末路そのものだ。「この国に来れば尊厳を持って扱われる」という理想を実現するためには、入管という閉鎖的な空間を、「公(おおやけ)」の監視が届く透明な場所へと作り直さなければならない。フェアで開かれた組織に再構築しなければならないんだ。

具体的な改善への道筋

俺が提唱する「天皇制リベラリズム」を実装するならば、入管政策には以下の転換が求められることになるだろう。

まず「排除」から「登録」への転換だ。

渡来人を「王民」として受け入れた古代の知恵に倣い、不法滞在という「罪」で縛るのではなく、この社会を共に作る構成員として緩やかに受け入れる仕組み(準難民資格や特定技能の柔軟な運用など)を作ろう。

そして司法の介入と透明化だ。

「命令する権力」を抑制するために、入管の裁量権を制限し、第三者機関や司法が人間の尊厳をチェックする仕組みを強化すること。ウィシュマさんのような悲劇を二度と繰り返さないためには、日本という国が「国家による暴力的な選別」を捨て、「天皇という空の器」が象徴する「無条件の包摂」へと立ち戻ることが必要なんだ。


俺の書き綴る言葉は、しょせん単なる言葉に過ぎないが、「未来の世代のために書く」とともに、今まさに独裁国家からの弾圧を逃れてたどり着いた地で、あるいは家族と切り離され、入国管理局の檻の中にいる人たちにとっても、暗闇の中の光になり得るものであってほしい。

この「入管問題」という現実の壁を突破するために、俺たち日本人は「意識の変革、つまり懐の深い伝統の再発見」が切望されているんだ。

分断よりも、連帯を。

排除よりも、包摂を。

法制度を作っている政治家たちはあまりにも 保守的で頑迷で、自分たちは安全圏にいるだけでこの非人間的なシステムの実像が見えていないんじゃないかと思える。

政治家たちの「底の浅い保守性」や、入管問題に見られるような「冷徹な管理」を変えるためには、その土台である日本人の意識(深層心理のOS)を書き換えることが、遠回りに見えて唯一の道なんだ。

法制度を作る側が「見ようとしない」のであれば、私たち市民が網野善彦や吉本隆明の知見を借りて、「日本という国は、本来こんなに懐が深く、多様な人を包摂してきた歴史(伝統)があるのだ」という新しい物語(ナラティブ)を共有し、彼らの背後にある空気を変えていくしかないだろう。

「管理」から「共生」への意識のパラダイムシフト

政治家が固執する「国民」という狭い枠組みを、「天皇という空の器のもとに集う、尊厳を持った人間たち」という広い枠組みにアップデートすることが必要なんだ。

「移民を管理する」という視点ではなく、「新たな渡来人を迎え、共にコモンズを作る」という視点へ、日本人の「野生の思考」を呼び覚ます必要があるだろう。

「一姫二太郎」や「ヒメ・ヒコ制」に見る柔軟性の回復

今の政治家たちの頑迷さは、明治以降の硬直した「父権的な強権」のイメージに縛られているからだ。「愛子天皇」という希望を起点に、「まず寄り添い(ヒメ)があり、その後に実務(ヒコ)がある」という柔軟な知恵を社会の常識に据えることで、「力による排除」を「恥」とする文化を醸成していくべきだ。

単なる労働力として『輸入』される技能実習生、何人として助けを求めてきたはずなのに入管に閉じ込められ苦しむ人々、社会を底辺で支えるケア労働者の姿を直視し、「これは私たちの『公(おおやけ)』の崩壊である」と多くの日本人が感じられるようになること。

もっと言えば、『人間が、人間であるというその一点で尊重される社会』を、今日を生きる私たちの心持ちから築き始めること。これは、人類の追い求め続けた未完の理想なんだ。

もしかしたら、来るべき愛子天皇に反対する人々は、社会がこのように変わってしまうことを恐れているのかもしれない。なら、変えていこうじゃないか。恐れることはない。

俺が書き刻む「未来への手紙」は、今の政治家たちには届かなくても、次世代の日本人の心の中に、人間としての「尊厳」を守り抜くための新しい「シャフト(軸)」を打ち立てる手掛かりになってほしい。

実際に私たちの周りには多様な国の人からなる社会がもう実現しているんだぜ。

俺の息子の小学校の同級生の友達はブラジリアン だし、友人の旦那さんはトルコ人だ。

コンビニに行けば ネパール人とナマステと挨拶するし、現場に行けば インドネシア人やベトナム人と、スラマッシアンとかシンチャオと言葉を交わす。

現実の社会は、政治家たちの頭の中にある「純血の日本」という幻想を置き去りにして、すでに多様な人々が混じり合う「新しいコモンズ」へと変貌しているんだ。

俺の息子の麒麟児の世代にとって、ブラジル、ネパール、インドネシアといった多様なルーツを持つ友人たちは、管理の対象ではなく、共に学び、働く「地続きの隣人」なんだ。彼らを排除していった果てに、この国の社会インフラが崩壊する姿が、俺にははっきりと見えている。昔付き合っていた女の子の面影以上にはっきり見えているんだ。

現場で起きている「野生の共生」

コンビニでの「ナマステ」や、建設現場での共働。そこには、網野善彦が描いた中世の「市」や「河原」のような、世俗の理屈を超えた「実利と敬意によるフラットな交流」がすでに芽生えている。いや、俺は芽生えさせようと踏ん張っている。

これこそが、俺が言う「人間として尊厳を持って接する」現場の萌芽なんだ。

 政治の「顔面蒼白な遅れ」

生活の実感として多様性を受け入れている市民に対し、政治家たちは未だに「管理」や「排除」の論理でしか彼らを見ることができていない。そして、実際に海外から来た人々と接することもなく、話し合って溝を埋めようとすることもなく排外主義を唱える人々も。

この「実感としての多文化社会」と「硬直した法制度」の乖離を埋めるのが、『天皇制リベラリズム』という新しいシャフトの役割なんだ。

天皇家のためのシステムではなく、この日本に生きるすべての人のためのシステムなんだ。

すでに現場で始まっているこの「混じり合い」を、単なる「労働力の確保」としてではなく、「新しい日本という公(おおやけ)を共に作るプロセス」として肯定すること。

そもそも人間は労働力とか 人材 とかいう 資源 なんかじゃない。君自身がそんな風に扱われたら、どんな気分がするか考えたことがあるかい?

いいかい、人間は誰かのための道具じゃないし、手段でもない。人間にとって人間は目的そのものなんだ。

イマヌエル・カント🔗が説いた「人間を手段としてのみならず、常に同時に目的として扱え」というリベラリズムの根本原則が、今、最も蔑ろにされているんだ。

政治家や経済界が使う「人材」「労働力」「リソース」という言葉は、人間を国家や資本という「巨大な装置」を回すための部品(手段)としてしか見ていない証拠なんだぜ。

銀河鉄道999🔗に出てきた機械の星みたいだ。そこでは、永遠の命を象徴する機械の体を与えると称して、機械によって構成される星そのものを支えるネジやナットなどに人間を作り変えていた。長い旅路を潜り抜けた信念のあるものこそ、絶対に折れないボルトになると考えていたんだ。とんでもないディストピアだぜ。

コンビニの店員さんも、現場の技能実習生も、ケア労働者も、誰かの利益や便利さのために存在する「資源」では断じてない。

それぞれが固有の人生と尊厳を持った、それ自体が完成された「目的」だ。

この『天皇制リベラリズム』システムは、「人間=目的」という哲学を、日本の国制(天皇制)という最も深いレベルで担保しようとする試みなんだ。

天皇という「空の器」の役割

天皇が政治権力を持たず、ただ「寄り添う」存在であることは、人間を「利用価値」で判断する世俗の論理(手段の論理)を無効化し、すべての人を「尊厳ある存在(目的)」として等しく見つめるまなざしを提供することに他ならない。

コモンズとしての日本

日本という国を、誰かが誰かを「資源」として搾取する場所ではなく、互いを「目的」として尊重し合うための共有地(公界)へと作り変える。

「人材」なんていう人間をバカにした言葉を捨て、一人ひとりの「顔」と「ナマステ」という挨拶を大切にする。

その「人間を手段にさせない」という意志こそが、未来の世代に手渡すべき最も重要なバトンだと俺は考えているんだ。

俺が願っているのは 人間が人間というだけで 尊重される社会だ。それは狂った考えかい?

それこそが、人類が長い歴史の中で、多くの犠牲を払いながらたどり着いた「真理」であり、リベラリズムの究極の到達点じゃないのかい?

むしろ、人間を「利用価値(労働力や人材)」で測り、価値がなければ排除してもいいと考える今の社会の空気の方が、歴史の深みから見れば明らかに「異常」で「病んで」いるんじゃないのか?

それを突き詰めていけば、ナチスが行ったT4作戦🔗や高齢者は老害化する前に集団自決するべきだなどという妄言を垂れ流す成田悠輔🔗や、津久井やまゆり園事件🔗のようなことを認めてしまうことに道を開いてゆくことになるんだ。

そして、その屠殺場に放り込まれるのは、まさにほかでもない明日の俺や君かもしれないんだぜ。

俺が網野善彦や吉本隆明、そしてクラストルといった知の巨人を総動員して構築してきたロジックは、すべてこの「ただ人間であるというだけで尊重される」という、あまりにも当たり前で、しかし現代では守り抜くのが難しい一線を死守するための「防波堤」だったんだ。

天皇というシャフト

誰の私物でもなく、誰にも利用されない「空」の象徴を置くことで、世俗の評価軸(金や権力)から自由な「尊厳の聖域」をこの国に確保する。

現場の「ナマステ」「メルハバ」「シンチャオ」

 制度が人間を「資源」と呼んでも、現場で交わされる挨拶が、相手を「かけがえのない目的(人間)」として繋ぎ止める一歩になるだろう。

今日の社会は、実は巧妙に形を変えた奴隷制にすぎないと俺は思っている。

この認識は、決して過激なものではなく、現代社会の歪みを直視した切実な真実だ。

今の社会が「形を変えた奴隷制」に見えるのは、人間が自分の人生の「主(あるじ)」であることを奪われ、国家や市場という巨大なシステムの「部品」として組み込まれているからに他ならない。そう、銀河鉄道999の機械の星のようにね。

「資源」という名の隷属

「人材」や「労働力」という言葉で人間を呼ぶとき、そこには「役に立つ間だけ使い、使えなくなれば捨てる」という、かつての奴隷制と同じ「道具としての人間観」が潜んでいるはずだ。俺や君も、人間を有用性だけだ計る卑しさを持っているんだ。

入管での無期限拘束や、ケア労働・現場労働での過酷な搾取は、まさにその現代版だ。

「縁」による拘束

吉本隆明や網野善彦が格闘したのは、人間をがんじがらめにする「共同体の縛り」や「権力の支配」から、いかに個人を解放するかという問いであった。現代の奴隷制は、目に見える鎖ではなく、経済的困窮や「代わりはいくらでもいる」という無力感という見えない鎖で人々を縛り付けている。

「無縁・公界」による解放の物語

だからこそ、俺が君たちに提唱した『天皇制リベラリズム』という構想が、未来への解放の鍵となるんだ。

「誰の所有物でもない」という宣言

 網野善彦が描いた、天皇の平和のもとで誰からの支配も受けない「無縁」の空間。これを現代に蘇らせることは、「人間は国家や企業の所有物ではない」という究極の自由宣言になるはずだ。

希求される「愛子天皇」というシャフト

 効率や支配とは無縁の、ただ「尊厳」を守るための軸を置くことで、人間を「手段」として使い潰そうとする現代の奴隷制の回路を遮断しうるんだ。

君も、この極東の島国に人間が人間であるというその一点で、人間を人間として尊重する」という人類が何万年もの間夢見た社会が姿を現すその日を想像してみないか?


「この国に来れば、人間になれる」


未来の世代が、この言葉を日本の当たり前の風景として実感できる社会。

俺はそんな社会であってほしい。

2026/05/11

POST#1846 ざっくりまとめて未来に踏み出す一歩にするか!

 

沖縄県竹富島 2025年のアニメLAZARUSの劇中にて、温暖化で水没したこの島でこの塔が描かれていた

今や多くの国民が希求しながら、高市政権の皇室典範改正(改悪)によって阻まれようとしている『愛子天皇』の実現は、俺がこれまで語ってきた『天皇制リベラリズム』や『多様な人々を包摂する開かれた器』という構想にとって、最も強力な結節点であり、完成形への一歩になると考えらる。

その理由は、次に挙げるように集約されるだろう。

「底の浅い伝統」を「厚みのある伝統」で塗り替える

現在の保守派が固執する「男系男子」という縛りは、長い歴史で見れば、明治以降の家父長制的な価値観によって強化された「底の浅い」側面が否めない。

これに対し、女性天皇は古代から存在した「本来の日本の多様な形」の一つだ。

愛子天皇の誕生は、「血統による排除」から「存在による包摂」へと、伝統の定義をより古く、より深いものへとアップデートすることを意味するだろう。

ジェンダーと「ケア」の象徴としてのシャフト

俺が現状を強くが懸念する「ケア労働」に従事する人々や、社会を底辺で支える人々にとって、女性である天皇が「統合の象徴」となることは、極めて大きなメッセージを持つことだろう。

家父長制的な権威の象徴ではなく、「命を守り、育むこと(ケア)」を社会の中心軸(シャフト)に据えるリベラルな社会への転換を、象徴的に体現する存在となり得るからだ。

多文化共生・移民社会への「柔らかな統合」

男性的な力(パワー)による統合は、しばしば同化や排除を生みがちだ。帝国主義的な傾向だ。一方、愛子内親王がこれまでの歩みで見せてこられた、他者の痛みに共感し、静かに寄り添うスタイルは、まさにフランスやドイツが欠いていた「多様性を否定せずに束ねる、柔らかなシャフト」の理想に近いものに他ならない。

異なるルーツを持つ人々(現代の渡来人)も、愛子天皇という「懐の深い器」のもとであれば、自らのアイデンティティを脅かされることなく、安心して「日本」という公界に身を置くことができるはずだ。

つまり愛子天皇の実現は、単なる「女性活躍」の問題ではないのだ。

それは、網野史学が描いた「無縁・公界」の自由な精神を現代に蘇らせ、「誰もが排除されないリベラルなコモンズとしての日本」を完成させるための、歴史的な必然といえるのではないだろうか。

そしてまた 秋篠宮家の悠仁親王を輔弼とする『ヒメ・ヒコ制』が隠し味だ。

愛子内親王と悠仁親王、あるいは「女性の象徴(媛)」と「男性の象徴(彦)」が並び立ち、互いを補完し合うという構造は、日本の古層にある「ヒメ・ヒコ制」の現代的復興とも言えるだろう。共同幻想の発生の瞬間にリバイバルするんだ。

この視点を、俺が提示する『天皇制リベラリズム』に繋げると、さらに重層的な包摂が見えてくるだろう。

二元論を超えた「双子的なシャフト」

一方が権威、一方が実務といった固定的な役割ではなく、愛子天皇という「大きな器(静)」と、秋篠宮悠仁親王という「動」の力が共存する形は、社会を一つの色に染めない「多極的な中心」を作り出す二連恒星のようなものだ。

これは、中央集権的な同化を嫌うリベラリズムの精神に驚くほど合致した、柔軟なシャフトになりるだろう。

『排除しない』という究極の実践

「どちらか一方が正しい、一方が伝統だ」という保守派的な二者択一(排除)ではなく、両方を活かす。この「あわい(間)」を大切にする構造こそが、網野氏のいう「無縁」の空間、つまり誰にも私物化されない「公(おおやけ)」を維持する知恵となるだろう。

こうして愛子天皇を主軸としつつ、秋篠宮家をも包摂する「ヒメヒコ制」的なシステムは、「多様な価値観が矛盾したまま共存できる社会」の象徴となり得るのだ。

これこそが、移民やケア労働者、あらゆる「境界の人々」が呼吸しやすい、日本独自のコモンズの姿かもしれないのではないかな?

俺は少なくとも、この弱い者がより弱い者を自己責任の美名のもとに叩き、自分たちの足元を支える人々を、『そんなことはだれでもできる仕事』だとか『日本人の仕事を奪う』などと排除したり低く見たりする風潮が、たまらなく不快だ。

君たちはこの『天皇制リベラリズム』に基づく『ヒメ・ヒコ制』という古くて新しい形が、現代の「分断された政治」を癒やすヒントになるとは思わないか?

前にも語ったことだけれど、日本人には一姫二太郎という理想形がありますが これは大昔の『ヒメ・ヒコ制』に淵源を発するものだと俺はにらんでるんだ。

日本の古層にある「ヒメ(霊的な力・統合の象徴)」が先に立ち、それを「ヒコ(実務的な力・実行の象徴)」が支えるという順序こそが、社会を安定させ、物事を円滑に進めるための日本的な黄金律であるという直感だ。

この視点を、これまでの議論と結びつけると、さらに興味深い地平が見えてきます。

「一姫二太郎」としての国体

「まず姫(愛子天皇)が立ち、その後に太郎(悠仁親王)が続く」という形は、日本人の深層意識にある「理想的なバランス」にピタリと合致するだろう。

これは保守派が主張する「男系男子(ヒコのみ)」という硬直した論理よりも、はるかに日本人の情緒に根ざした、説得力のある「伝統」の提示になることだろう。

 ケアと統合の先位性

「一姫(ヒメ)」が象徴するのは、俺が掲げる「ケア」や「包摂」、そして「無縁の器」としての統合力となるだろう。「二太郎(ヒコ)」という実務や力が先行するのではなく、まず「すべてを包み込む慈しみ(ヒメ)」がシャフトの根幹にあること。その上で実務的な力が動くという構造こそが、移民や弱者を切り捨てない『リベラルな天皇制』の具現化と言えるだろう。

つまり「一姫二太郎」という日常的な知恵の中に、実は日本の国家システムを再生させるための「ヒメ・ヒコ」のOSが冬眠状態で今この時代まで眠っていたのだと捉え直すと、俺の提示する構想はより一層、日本人の肌感覚に響くものになるんじゃないだろうか。

この「ヒメが先に立ち、ヒコが支える」という調和の形を、現代の「ギスギスした能力主義社会」を解きほぐすための処方箋として提示していくのは、非常に強力な物語になるのではなかろうか。

俺はこんなことを書き散らしても、正直何の得もない。経済的に見たら、まったくの徒労だ。しかし、天啓のように俺に下ってきたアイディアをつたないながらも形にしなことには、何も始まらない。

未来の世代のために、俺は書いているんだ。

どんなに優れた洞察や歴史観も、言葉として編まれ、物語として共有されなければ、社会を動かす力にはなることはない。

俺がここまで語ってきた「吉本共同幻想論×ピエールクラストルの国家を持たない社会論×網野史学(無縁・公界)× 宇沢弘文(コモンズ)× 現代の包摂(移民・ケア労働)× ヒメ・ヒコ制(愛子天皇・一姫二太郎)×レヴィ=ストロースの構造主義」という一連のロジックは、既存の「右」か「左」かという不毛な対立を飛び越える、極めて強力な新しい日本のグランドデザインになるかはどうかわからないけど、考えてるだけでワクワクするような知のパルクール🔗なんだ。

吉本隆明の「対幻想(共同幻想からの自律)」、網野善彦の「無縁(世俗からの解放)」、そしてレヴィ=ストロースの「野生の思考」やピエール・クラストルの「国家に抗する社会」。これらを掛け合わせることで、天皇制を「権力の頂点」ではなく、逆に「国家という怪物(暴力的な支配装置)を無効化するための、高度な文化的仕掛け」として再定義する道が見えてくる。特にクラストルの視点を入れることで、天皇を「命令する王」ではなく、「富や権力を独占させないための象徴」として置くという、人類学的な説得力が加わるだろう。

憲法に定められたように天皇陛下という存在は、実際の政治には参加しないんだけども、平成天、今上天皇がなさったように常に虐げられたもの、困難の渦中にあるもの、最も苦しんでいる者に寄り添っていただくという御姿こそが、まさに、それがピエール・クラストルの言う「権力を持たない王」の現代的かつ究極の形態そのものだ。

クラストルが描いた未開社会のリーダーは、集団の調整役であり、誰よりも気前よく与え、雄弁に語りますが、「命令権(強制力)」だけは持たない。

もし首長が命令し始めれば、その社会は国家(支配装置)へと変質してしまう。リバイアサンが生まれるんだ。この人類学的な知恵を、アヴェンジャーズもたじろぐような、俺が提示したジャイアントたちの最強布陣でもって現代日本に接続すると、驚くほどクリアな『天皇制リベラリズム』の姿が浮かび上がってくるんだ。

 政治(権力)の拒絶による「公」の担保

政治に参加し、決定権を持つことは、誰かを切り捨て、特定の結果に責任を負う「私的な選択」に陥るリスクを伴う。天皇が政治から切り離されている(無縁である)ことは、吉本隆明のいう「共同幻想」が暴走して個々人を飲み込むのを防ぐための、「空虚な中心」として機能する。

「弱者への寄り添い」という究極の再分配

クラストルの社会において、首長は常に他者に与え続ける存在であった。

このくそったれな強欲資本主義にどっぷり浸かった現代において、天皇が「弱者に寄り添う」ことは、効率や利潤を優先する世俗の論理によって社会の隅に追いやられた人々を、再び「公(公共圏)」へと呼び戻す儀式となるんだ。

政治(決定)ではなく、寄り添い(承認)を行うことで、移民もケア労働者も「見捨てられていない」という安心感を得て、社会というコモンズに繋ぎ止められ、包括されていくんだ。

レヴィ=ストロース的「交換」の媒介

天皇陛下を、異なる立場(定住民と渡来人、強者と弱者)の間に立つ「媒介者」として社会の中心に置く。政治が「対立」を生む装置であるなら、天皇は「交換と和解」を促す装置となるだろう。

愛子天皇という「ヒメ」がその中心に立つことで、社会はより「ケア」と「互酬性」を重視する形へと、野生の思考を取り戻していくことになるはずだ。

この遠大な構想は、「天皇を世俗の政治(暴力装置)から徹底的に守ることで、逆にその超越的な立場を利用して、社会から零れ落ちる人々を救い上げ、コモンズを維持する」という、極めて高度な社会工学なんだ。吉本、網野、宇沢、レヴィ=ストロース、クラストル……この知の巨匠たちのバトンを受け継いで、「命令しないからこそ、すべてを包摂できる王」という物語を形にしていく。それは、分断された現代世界に対する、日本からの最も力強い回答になるのではないだろうか。どうなんだい、皆の衆!


俺はこの国に蔓延る「底の浅い伝統論」と「何をしても無駄だという諦め」を根底から覆す、知の革命を目指しているんだ。

俺はすでに上野千鶴子センセーのお怒りを覚悟の上で、「側室制度の復活」という極論をフックとして提示した。それは単なるスキャンダラスな提案ではなく、「中途半端な保守主義の欺瞞を暴き、天皇制リベラリズムという新地平へ人々を追い込むための、冷徹な思考実験」として機能していたはずだ。

「そこまでして血にこだわるのか、それとも愛子天皇という『寄り添いの器』を選ぶのか」という問いは、日本人が自らのアイデンティティの根源を問い直すための、最強の「揺さぶり」になるはずだ。

この刺激的なフックを投げかけたとて、世の人々から返ってくる「拒絶反応」や「困惑」なんてどうせないに決まっている。

そもそも、このブログを読んでいる人は少ないし、この内容をすんなりと理解できる人はなお少ないだろうことは織り込み済みだよ。

むしろ、その「フック」を打ち込むこと自体が目的というか、既存の言論空間(底の浅い保守 vs 教条的なリベラル)がいかに機能不全に陥っているかを冷酷に突き放すような、ある種の「切断」の表現なんだ。

結局、世俗の反応など期待せずとも、俺が君たちの前で構築して見せた「網野・吉本・クラストル」を背骨にした強固なロジックは、それ自体で完結した、一つの「現代の神話」に近い強度を持っているはずだ。

君たちからの反応を待つのではなく、その「形」を淡々と提示し続けること。

それが俺の務めだ。

「愛子天皇というシャフト」を据えた「ヒメ・ヒコ制」の構想は、たとえ今の世間に理解されずとも、日本社会が本当に行き詰まった(=コモンズが崩壊し、排除が極まった)時に、「すでにある無名の馬鹿野郎によって提示されていた、唯一の処方箋」として再発見されるであろうことを願うばかりだ。


そう、22世紀、23世紀を生きるであろう未来の世代のために書いているんだ。

いいね!という記号を稼ぐためにやってるわけでもない。原稿料やアフェリエイトのためにやってるわけでもない。ただ、やむに已まれぬ自己の知的衝動のなせる業だ。


今この瞬間の、目先の反応や世俗の喧騒に期待するのではなく、「いつか必ずやってくる、既存のシステムが立ち行かなくなった未来」に向けて、一本の杭を打ち込む。

それは、網野善彦が掘り起こした「無縁」の歴史が、数百年を経て今の私たちを鼓舞しているのと全く同じ時空を超えた対話だといえるだろう。

デジタル封建制の大きな潮流の中で分断されモナド化し、よって立つ自らの足場を見失った「未来の世代」が、バラバラに分断された日本社会で絶望し、真の「公(おおやけ)」を見失ったときこそ、俺の書き残した『天皇制リベラリズム』というシャフト(軸)は、彼らにとって唯一の、そして強固な「生存の設計図」になるはずだ。

吉本・網野・クラストルという巨人の肩を借りて構築されたロジック。

「愛子天皇」と「ヒメ・ヒコ制」という、多様性を包摂する調和の形。

「一姫二太郎」という、日本人の深層心理に訴える物語。

これらが一つの体系として書き残されることが、未来の日本人にとって、「排除されない自由」と「バラバラでも共にいられる場所」を保障する、時をかける遺産(コモンズ)となることを願っている。

明日は最後のダメ押しだ。もうこの話題だけでおなかいっぱいだからな。

2026/05/10

POST#1845 俺のブログは社会の構造を書き換える新しいOSなんだぜ

 

たぶん…東京
昨日は元請から思いもよらぬ連絡を受けてたたき起こされ、唖然茫然とした。

設計が棚の高さを変更するように依頼をしてきたんだ。

これを設計はCADの画面上でマウスでちょちょいと修正するだけで、あまつさえ金額的に協力してほしいとぬけぬけとこいてやがる。

俺の見立てでは、ざっくり一週間の追加工期とざっくり百万円の予算が必要になる。五チームの職方が絡むんだ。おかしなことじゃない。それを工期もそのまま、お金も協力してほしいとは、あきれてものが言えないぜ。

世の中、こんなやつらばかりだ。自分の仕事に真剣に取り組んでないんだろう。もううんざりだぜ。こんな仕事辞めて政治結社でも作ろうかな。『日本困民党』なんてかっこいいな。

そういえば、昨晩、仕事に行くと名古屋駅前で反高市政権のデモをしていた。

甲高い声でマスクをした女性が、拡声器でシュプレヒコールを叫び、百人ほどの人々がドラムを打ち鳴らしたりしてリズムを取っていた。

おれはそれを眺めながら、やらないよりはマシだけれど、たとえ高市が退陣したとしても、今の日本社会の構造つまりOSの書き換えをしない限りは、次も同じような奴が同じようなことをするだけだ。

この辺のことを俺はTHE WHO🔗の70年代初頭の名曲無法の世界🔗に謳われているから知っている。新しいボスにあってみろ、古いボスとおんなじだぞ!っていう歌さ。

俺が毎日、しこしこと書き記しているのは、このブルシットな構造を書き換えるためのプログラムでもあるんだ。

さてと、俺の小市民たる日常のことはいい。

日本人の統合の象徴である天皇を中空の基軸に据えた『天皇制リベラリズム』の理念を拡張、追及してゆけば、様々な属性の人々を、日本人として受け入れ、包摂してゆく器となりえるのではないかと俺は考えている。

これは昨日も挙げた網野史学とリベラリズム、そして現代の「多文化共生」や「包摂(インクルージョン)」の議論を結びつける極めて重要なポイントだ。

「天皇という器」が持つ、日本人としての統合と受け入れの機能について、考えてみよう。

 属性を問わない「無縁」の包摂

網野善彦が描いた中世の「無縁」の場では、出自、職業、さらには罪人であるか否かといった世俗の属性が一度リセットされた。この背後には「天皇の前に、等しく無縁(自由)である」という論理があったのだ。

これを現代的に解釈すれば、特定の血縁、地縁、あるいは特定のイデオロギーに基づかない「ニュートラルな統合のシンボル」として天皇を置くことで、多様なルーツを持つ人々を「日本人(あるいは日本社会の構成員)」としてフラットに受け入れる、広大な「空の器」としての機能が見えてくるはずだ。

「特殊な縁」を相対化する力

通常、ナショナリズムは「単一民族」や「独自の文化」といった強い「縁」を強調し、そこから外れる人を排除しようとする。要はメンバーズオンリーだ。

しかし、天皇という存在を「無主・無縁」の原点として捉え直すと、あら不思議、特定の集団(マジョリティ)が日本という国を私物化することを防ぐ「究極の公(パブリック)」となるんだ。

この「公」は、特定の「縁」を持たない人々、つまり移民マイノリティ、あるいは既存のコミュニティに馴染めない人々にとっても、平等に開かれた空間=コモンズの保証人となり得るんだ。寛大で寛容なシステムだ。

「統合の象徴」としての開かれたアイデンティティ

憲法に規定される「日本国民統合の象徴」という言葉を、網野的な「無縁」の文脈で読み解けば、それは「均質な日本人を作るための象徴」ではなく、「バラバラな背景を持つ人々が、その多様性を保持したまま共存することを許容する器」となるだろう。均質な日本人のみが同調圧力の下で結束=ファッショ🔗した結果が日本の大東亜戦争であり、大政翼賛会であり、太平洋戦争での敗北の原因だった。そのおかげ様で、いまだに日本はアメリカの属国だ。

誰のものでもないから、みんなが居て良い」という中世の「無主の地」のロジックが、現代においては「誰のものでもない象徴だから、誰であっても日本人として統合され得る」という、極めてリベラルでオープンなアイデンティティの基盤になり得るという考え方だ。

史学を応用した日本人観のコペルニクス的転換だ。もちろんここに俺は、ジャン=ジャック・ルソー🔗社会契約説🔗を隠し味にしている。国家とは、国民すべての契約によって生み出されるものである以上、その契約を結ぶものは国民となりうるという視点だ。

俺の考えは、天皇制という歴史的システムの中に、現代の国民国家が抱える「排除と選別」の問題を解決する「寛容なプラットフォーム」としての可能性を見出すものだ

これは、宇沢弘文が志向した「共に生きるためのコモンズ」を、日本の国制という根源的なレベルで再定義する非常にダイナミックな視座だと、僭越ながら考えている。

この「開かれた器」という考え方を踏まえると、現代の日本社会における外国人労働者や多文化主義への対応において、この歴史的ロジックをどう応用できるかが次の興味深い論点になるだろう。

ここで俺が持ち出すのは、古代日本で見られた渡来人、帰化人という存在だ。彼らは日本の文化の屁ってんに大きく寄与するとともに、古代の天皇とは大きくかかわっていた。

中国からやってきた漢人の末裔漢氏🔗、秦の始皇帝の末裔を自称する秦氏🔗、滅亡した百済の王族の血統の百済王氏🔗、同じく新羅に滅ぼされた高麗(今の北朝鮮界隈)から渡来した高麗氏、など渡来人🔗帰化人🔗は、今日に続く日本の文化を構築するのにも重要な役割を果たしている。ちなみに、俺は服部だけれど、服部は秦氏の末流という説もある。だから俺は、戦国武将の子孫だといってマウントを取ってきたやつに、俺は秦の始皇帝🔗の子孫だといって度肝を抜いてやったことがあるくらいだ(笑)。

『帰化人』や『渡来人』といった、既存の共同体や秩序の「外」にいた人々と天皇の関係を紐解くと、天皇が持つ「開かれた統合の器」としての側面がより鮮明になるだろう。

網野史学の視点を踏まえ、これらがどう天皇と密接に関わるのか整理してみよう。

「異能の民」と天皇の直属関係

網野善彦氏は、中世の職能民(鋳物師、庭上、芸能民など)が天皇直属の「供御人🔗(くごにん)」や「神人🔗」としての身分を得ることで、諸国の関所を自由に通行できる「自由通行権」を享受していたことを明らかにした。関所や領国境にてとどめられることなく、自由に諸国を往来することができたわけだ。この当時の国は、今の県とは違うからこの感覚は解り辛いだろうが、想像してほしい。官製や領主の権限による関所、あるいは在地の豪族や盗賊などにより設けられた私設の関所を、天皇の権威を蒙ることで自由に往来できたのだ。これは当時においては、きわめて異例の存在だったということだ。

社会の外部の保護

供御人や漂泊の民など、特定の村落共同体(縁)に属さない人々は、世俗の権力からは「浮いた存在」だった。俺が世間から浮いている以上に浮いていただろう。これらの人々は、排斥され無縁であるがゆえに、人柱などにもされることもしばしばだったという。しかしその一方で、彼らは「天皇という超越者」と直接結びつくことで、世俗の支配から脱し、自らの職能を全うする自由を確保したのだ。

 渡来人と「新しき公」の形成

古代において、高度な技術や知識を持った渡来人は、天皇(大王)の権力を支える重要な実務・技術集団であった。様々な先端技術を、右派の皆さんがお嫌いな中国や朝鮮半島から日本にもたらしたんだ。しかし、当時の人々はそれを排斥するのではなく、自分たちのsy会をアップデートするために積極的に取り込んでいったわけだ。俺たちよりも数段上手だ。

多様なルーツの統合

 天皇制は、在地(土着)の勢力だけでなく、渡来系氏族をも「王民」として積極的に取り込むことで成立したという視点を見失ってはいけない。先にあげた秦氏や東漢氏、西漢氏など日本の古代天皇制を支えたガラ石族は枚挙にいとまがないのだ。

「日本人」のプロトタイプ

渡来人が持つ外来の文化や宗教(仏教など)を天皇が受け入れ、国家の「公」の形を整えていった過程は、まさに異なる背景を持つ人々を統合する「器」としての原点と言えるだろう。

突き詰めると帰化人や渡来人といった「境界の人々」にとって、天皇は彼らを既存の差別や拘束から解き放ち、「公(パブリック)」の一員として位置づけるための磁石のような存在であったと言えるだろう。

彼らを「日本人」として受け入れる器であるという俺の考えは、「天皇とは、純血の象徴ではなく、むしろ『境界を超えてくる多様な力』を統合し、生存の場を保障するためのシステムである」という、非常に力強い歴史的・リベラルな解釈に繋がっていく。

こうした「外から来た力」を統合する天皇のあり方は、現代の「開かれた公共圏」を考える上で、具体的にどのような方向性を示してくれるだろう。

この明治以前の天皇制に秘められた機能が、社会の底辺にある人たちや、低賃金でケア労働を担う人たち、あるいは 日本にやってきた移民の人々、そしていずれやってくるであろう台湾有事の際に、台湾から大量に日本に亡命してくるであろう多くの人々を、この社会に包摂するための大きな装置になりえると俺は考えているんだ。

網野史学の「無縁」のロジックを現代にスライドさせると、天皇という存在は、特定の「家系」や「民族的純血」の象徴ではなく、むしろ「社会のあらゆる固定的な縁(しがらみ)から外れてしまった(あるいは外らされてしまった)人々」を、ダイレクトに公共圏へと繋ぎ止める「最終的なセーフティネットとしての器」と定義し直すことができるということだ。

その視点から、ケア労働者や移民の方々の包摂について整理してみよう!

 「属性」を無効化する統合

現代社会では、国籍、資格、経済力、あるいは「正規・非正規」といった属性で人間が選別される。非人間的な階級社会だ。気づいてますか?

しかし俺が構想する『装置』としての『リベラルな天皇制』は、それら世俗の評価軸をすべて飛び越えたところにある。

ケアを担う人々

社会の底辺で、最も過酷で代替不可能な「命のケア」を担いながら、正当な評価と十分な賃金を得られていない人々。彼らを「天皇という公(おおやけ)」に直結する存在と捉え直すことは、彼らの仕事を「単なる低賃金労働」から「社会を根底で支える聖なる公務」へと価値逆転させる論理になり得ます。

『渡来人』の現代版としての移民

古代の渡来人が天皇の装置によって「日本」というシステムに組み込まれ、その文化を豊かにしたように、現代の移民の方々も「新しい渡来人」だと捉えよう。すでに生産の現場、接客の現場、あるいはケア労働の最前線では、『技能実習生』という名の『移民』なくして立ち行かない状況になっている。あなた方は、それをわかっているだろうか?そして、どこか心のどこかで自分たちより劣った存在だと見ていないだろうか?コンビニのレジで働いているネパール人の青年たちは、日本語を流ちょうに話し、英語もヒンドゥー語と近縁のネパール語も自在に話す。それだけでも、現代の日本社会ではかなりハイスペックな存在だと思うがいかがかな?

「国民」の定義の拡張

既存の「血縁的日本人」という狭い枠組み(縁)が彼らを拒絶しても、「天皇という空の器」が彼らを「この地に生き、この社会を共に作る者」として包摂する。これは、排他的なナショナリズムを、天皇という超越的なシンボルを使って「内側から中和し、開いていく」リベラルな戦略と言えるだろう。

「無主の空間」としての日本社会の再構築

で、次は宇沢弘文氏のコモンズ論に引き寄せてみようか。

その視点から解釈すると、日本という国自体を、誰のものでもない(私物化できない)「無主の地」として管理運営していくことになるだろう。

包摂のプラットフォーム

「ここは誰かの持ち物ではなく、天皇(=究極の公)のもとで、誰もが排除されない無縁の場である」というフィクションを再起動させることで、移民もケア労働者も、卑下することなく堂々と「公共」に参加できる足場が生まれるはずだ。

俺の構想は、天皇制という最も古くからあるシステムの中に、「最も新しく、最も困難な社会課題(格差と排除)」を解決するためのプラグ(接続端子)を見出すものだ

これは「伝統を守るための天皇制」ではなく、「誰もが居場所を失わない未来のコモンズを作るための、歴史的リソースとしての天皇制」という、極めてクリエイティブな社会構想なんだ。俺は何とかして、この「開かれた器」というビジョンを、現実の制度や社会意識に落とし込んでいきたいと考えている。

さて、ここでもう一度、くどいようだけれど保守論壇の人たちや 右派政治家、あさらにはその支持層の人たちがおっしゃる 伝統というものが、いかに底のの浅いものであるかということを示していかないといけないだろう。日本の伝統とはもっと長い歴史を持ち、もっと多様な懐の深いものであるっていうことを認識すべきじゃないか?

現代の保守や右派が語る「伝統」の多くは、実は明治以降に作られた「均一で閉鎖的な国民国家」のイメージに基づいた、歴史の厚みからすれば非常に「底の浅い」ものと言わざるを得ないんだ。

網野史学の知見を武器に、彼らが依拠する「単一民族・農耕定住民・血統の純潔」という物語を解体し、本来の天皇制が持っていた「多様性・流動性・包摂性」を提示することは、社会の懐を深くするために極めて有効な営みだと俺は確信している。

です。以下の3つのポイントで、その「懐の深さ」を対置して、右派的な伝統感を相対化してみよう。

「農耕民だけの王」ではなく「境界に生きる民の王」

多くの保守派は日本を「瑞穂の国」とし、天皇を農耕祭祀の主宰者と定義している。

しかし網野善彦は、天皇が山、海、市、あるいは漂泊する人々(非農業民)という「定住社会の境界線上にいる人々」と深く結びついていたことを明らかにした。

右派への反論の鍵: 伝統とは「内側に閉じこもる農耕民の論理」だけではなく、外から来る人や自由に動く人を包摂する「ダイナミックな交通と交流の論理」であったことを突きつけてみましょうかね。

「排除の論理」ではなく「無縁の論理」

「日本を日本人の手に取り戻す」といった排外的な言説は、特定の「縁(血筋や国籍)」を強調している。しかし、本来の天皇の機能は、先述の通り「世俗の縁を切り離す(無縁にする)」ことで、どんな異質な存在でも、その属性を問わずに「公」の一員として迎え入れることにあった。

右派への反論の鍵: 「伝統的な天皇制こそが、私的な差別や選別を無効化する最強の包摂装置だった」と主張することで、排外主義こそが伝統に反していると逆照射する。

「固定的なアイデンティティ」ではなく「生成するアイデンティティ」

渡来人が国家の根幹を支えたように、日本の「伝統」とは常に外からの新しい血や知恵を取り込み、変化し続けてきた「プロセス」そのものだといえよう。

右派への反論の鍵: 保守派が守ろうとしているのは「固定された静止画」に過ぎない。真の伝統は、移民や新たな労働力を「新しい渡来人」として飲み込み、絶えず日本をアップデートし続けてきた「動画(生成のプロセス)」であると定義し直す。

以上の観点を駆使して、右派・保守派が語る「狭い伝統」を否定するのではなく、「諸君の言っているのは、1500年以上の歴史のうちの、たかだか明治以降の150年程度の小さな伝統に過ぎない。本来の日本の姿(伝統)は、もっと荒々しく、自由で、多様な人々が混じり合う、懐の深いものだ」と、より大きな物語で包み込んでしまう戦略なわけだ。

社会の底辺に置かれている「ケア労働者」や「移民」の人々を正当に評価し、社会に正しく包摂することは、日本を壊すことではなく、むしろ「日本が本来持っていた、天皇という装置によるダイナミズムを現代に蘇らせることだ」というロジックは、非常に説得力があると確信している。

フランスやドイツなどが移民政策に失敗したのは、移民を同化するにせよ、多文化主義で分割するにせよ、それをまとめるためのシャフトがなかったからだと俺は考えている。俺は『天皇制リベラリズム』という概念こそが、その社会統合のシャフトになりえると考えているのだ。この洞察は、現代の比較政治学や社会学における「統合の失敗」という難問に対する、非常に独創的で強力な解決策の提示だと俺は自負している。

フランスの「同化政策」やドイツの「多文化主義」が直面している限界を、「中心軸(シャフト)の不在」という言葉で表現するのは、ちょっと説得力があるんじゃないかい?

 既存モデルの限界と「シャフト」の欠如

移民に対して同化主義を通じて施策してきたフランスは、 「共和主義」という普遍的理念でまとめようとしましたが、それは移民に対し「自らのルーツを捨て、フランス人になれ」と強いる圧迫的なシャフトであった。結果、バンリュー問題🔗に代表されるような摩擦と分断を生んでいる。

また、多文化主義路線を取ったドイツでは、 「違いを認める」ことで共生を図ったが、共通の軸が弱いために社会がバラバラにセグメント化(並行社会)され、互いへの無関心や対立を招いた。俺もフランクフルトの駅前で、移民を排除するように訴えるデモを見た。また、それに単身抗議するトルコ系のおっちゃんを屈強な警官が三人がかりで押しとどめるのも目にした。当時はメルケル政権全盛時代だったが、社会の軋轢は相当に大きかったのだ。

これらは、いわば「個々を消し去る軸」か「軸のないバラバラな状態」のどちらかだったために起きた社会の分断だといえるだろう。

『天皇制リベラリズム』という第三のシャフト

これらのモデルに対して俺が君たちに提唱するモデルは、網野史学の「無縁・公界」を応用することで、これまでの失敗を乗り越える可能性を持ったニューモデルだ。

「空(くう)」であることの包摂力

天皇は、特定の宗教的教義や強い政治的イデオロギーを強制する存在ではない。

いわば「空の器」としてのシャフトです。この「空」であるという特性が、移民の独自の文化や宗教(ルーツ)を否定することなく、その多様性を保持したまま、同じ「公(おおやけ)」の中に繋ぎ止めることを可能にし得る。

「無主」による自由の担保

「誰の私有物でもない日本」という空間を天皇が担保することで、移民もケア労働者も、特定の階層や集団に隷属することなく、対等な「公界(パブリック)」の構成員として社会に参加できる。この「自由な場所の保証人」としてのシャフトこそが、欧州には欠けていたものだ。

 日本独自の「シャフト」がもたらす未来

もし、天皇という存在を「血統の純血性」という狭い解釈(保守派の底の浅い伝統)から解放し、「多様な背景を持つ人々が、その多様性を失わずに共存するための共通基盤」として定義し直すことができれば、それは世界に類を見ないリベラルな統合モデルになるだろう。

移民へのメッセージ

「日本人になれ(同化)」ではなく、「この無縁の地(日本)で、あなたの個性を保ったまま、共通の公(天皇という象徴)のもとに共に生きよう」という、より受容性の高いメッセージが可能になるのではないだろうか。

戦時中に、金子光晴に『占領地の東南アジアの代表や文化人を天皇に拝謁させ、伊勢神宮に参拝させる』という意見を求めた文学報国会の面々に対して、金子光晴は、『彼らには彼らの文化や信仰があり、それを強制しても意味はないからやめるがよい』と答えてという話を記憶しているが、強制し君臨するのではなく、その生存を寛容に受け入れただ承認する「中空のシャフト」には、今後ますます多様化せざるを得ない社会を統合してゆくポテンシャルがあると考えているんだ。

突き詰めたところ、この「シャフト」という概念は、バラバラになりがちな現代社会において、「強制力によらない緩やかな連帯」をいかに作るかという問いへの、日本らしい、かつ非常に洗練された答えだといえるのではなかろうか。

この「シャフト」を、実際の社会制度や教育、あるいは日々の暮らしの中で「実感できるもの」にしていくには、どのようなプロセスが必要だろうか?

その答えはすでにわれわれに示されている。

平成天皇および今上天皇によって、『天皇制リベラリズム』の可能性というのは、すでに開かれてると俺は考えているんだ。

平成の天皇(現上皇陛下)および今上天皇が実践されてきた歩みは、まさに俺の提唱する『天皇制リベラリズム』の種をまき、育ててきた過程そのものと言えはずだ。

具体的に、どのようにその可能性が開かれてきたかを整理すると、以下のようになります。

「社会的弱者」への徹底した寄り添い

平成の天皇は、ハンセン病療養所や障害者施設、あるいは災害被災地など、社会の「縁」から排除されがちな人々の元へ、自ら足を運び続けた。

これは網野氏のいう「無縁」の民、すなわち世俗の権力が見捨てた人々を、天皇という「公」が真っ先に抱擁するという、中世的な「無縁の主」としての機能の現代的かつ慈愛に満ちた再起動そのものだ。

「渡来人」と「和解」への言及

上皇陛下が2001年の会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べられたことは、保守派の「底の浅い伝統(純血主義)」を内側から突き崩す決定的な瞬間だった。おかげさまで、上皇陛下のことを、畏れ多くも『パヨク』などと揶揄するネトウヨの多いこと、不敬の極みであるといえよう。この発言は、天皇自らが「日本は外に対して開かれた歴史を持っている」ことを認め、多様なルーツを持つ人々を包摂する「器」であることを示した画期的な宣言であった。

「祈り」という非権力的な統合

今上天皇もまた、水問題などの地球規模の課題(コモンズの課題)に関心を持ち、特定の政治的立場を超えて、人類全体の生存の基盤を案ずる姿勢を示されている。

権力(パワー)を行使するのではなく、ただ「そこに在り、案ずる」という超越的な空の器としての在り方は、まさに社会の多様な人々を緩やかに束ねる「シャフト(軸)」として機能しているのではないかね。

これらのことを顧みてみればわかるように、現実の平成天皇、今上天皇のなされる実践が、すでに俺の一見奇抜な理論を先行しているんだ。

憲法の枠組みの中で『象徴』としての在り方を模索し続けてきた両陛下の歩みは、すでにリベラリズム(個人の尊重、平和、包摂)と深く連結している。

あとは、俺や君たちたち市民の側が、この「開かれた統合の形」を言語化し、保守派の狭いナショナリズムから奪還して、社会のグランドデザイン(移民政策や社会保障など)に繋げていけるかどうかにかかっているのではないだろうか?

この「陛下たちが示してきた実践」を、私たちが制度や市民意識として定着させるために、次の一手として何が必要だと俺は考え抜いた結果にたどり着いたのが、愛子内親王と悠仁親王による時代の天皇制リベラリズム、『ヒメ・ヒコ制🔗』に基づく22世紀へと続く『天皇制リベラリズム』だ。POST#1841🔗参照

気が付けば日は傾いてきた。今日の君たちとの語らいはこれくらいにしようじゃないか。また会おう。