2026/06/10

POST#1873 この社会で民主主義をリビルトするにはどうしようかな?

 

台南市、安平老街

今日からは民主主義について考えてみる。

民主主義はもう古いと思ってる人が世界中にたくさんいる。あのかたやこの方、あなたの頭の中に浮かんだこわもてのじいさんや、おかしな髪型のおじいさんやそのお友達だ。

民主主義に無力感を感じている人もたくさんいる。

ただ黙って、決まったことだと受け入れるしかないと思っている人もたくさんいる。

けれど、俺は専制主義🔗全体主義🔗は御免被る。

なぜって、少なくともこの日本国は法治国家で、その根本には日本国憲法という権力構造のフレームワークがあり、国民がその主権者として定められているからだ。

それに何より、自分自身が誰かを支配したり、誰かに支配されたりするなんて真っ平御免だからだ。鬱陶しいし、面倒くせぇよ。(笑)

しかし、その国民の代表たる国会議員の先生方が繰り広げる、貶しあいと数合わせのゲームに誰もかれもうんざりしてる。

実質的には、何も話し合われていないのにもかかわらず、儀礼的に質疑して、落としどころは国民の見えないところで決まっていく。俺や君は、自分たちが多数決で選んだ人の属する政党の限られたお偉いさんや、たいそう優秀な官僚のかたがたいそうお金儲けの御上手な財界のお歴々のお考えに沿った法律が決められていくのを横目に、何も変わらないさとあきらめたように自分の生活を回す。

そりゃ、民主主義にうんざりするのもわかる。

斯くいう俺も若いころにはプラトン🔗のように、正しく理念と高い見識を持った哲人王🔗が統治する、専制的で合理的に設計された整然とした社会のほうが良いのではと考えたこともあったんだが、それはやはりよくない。

その哲人王による統治システムってのは、カール・ポパー🔗が、ナチス・ドイツ🔗に統治された故郷オーストリアのウィーンを逃れニュージーランドで、まさに専制主義やソビエトの共産主義政権に思想的な戦いを挑むために記されたその著書『開かれた社会とその敵』🔗で、激しく批判したものだ。

この『開かれた社会とその敵』という本は、岩波文庫から4巻本で出ているが、民主主義を脅かすプラトン的な国家観、マルクス主義🔗的共産主義国家、ファシズム🔗国家、ナチズム🔗の温床になったヘーゲル🔗哲学への徹底的な批判に貫かれている。とても有益な書物だ。興味のある向きは、ぜひお読みになることをお勧めする。


俺は現在の日本の政治的な状況は、非常に危ういものがあると考えているんだ。

圧倒的な議席数を擁する与党は国家主義的、全体主義的な傾向を強めている。

史上初の女性宰相となった高市総理は自らの掲げる政策を自らの言葉で説明することなく、SNSでの一方的な情報の垂れ流しに安穏としている。

また、かつての政治的な師匠に当たる安倍晋三を髣髴とさせるように、、自らに向けられた批判や疑惑には気色ばんで反論するが、何ら真実を明かさずはぐらかし続ける。

その裏で、粛々と皇室典範は書き換えられ、きっと上皇陛下より続くリベラルで開かれた天皇観を、国民民族の上に君臨し、与党によって操縦しやすい反動的な天皇に挿げ替えてゆく道筋がつけられている。

また、中国を仮想敵国としてロックオンすることで、教育や福祉の予算を削減したうえで軍備を増強し、移民政策などを通じて人々に排外的な思想を植え付けてゆく。

米がなければ流通過程で目詰まりしている、ナフサが市場から払底すればこれまた流通過程で目詰まりしていると具体的な証拠も挙げず、責任転嫁に終始している。

東京一極集中による、1票の格差の拡大は放置されている。

そして、維新の会は与党になることで、自らの政治的利益の核心である大阪都構想というリバタリアニズム的な政策をごり押ししようと跋扈している。

自民党と日本維新の会からなる与党は、圧倒的な議席数を保持してるがゆえに、民主主義の根幹たる与野党の熟議はないがしろにされ、何もかも多数の専制のもとに決まってゆく。

人々は各地でデモをして抗議しているが、それは国家権力という重戦車に立ち向かう蟷螂之斧のように無力だ。

結果、世の人々に蔓延する無関心と無力感。


これは健全な民主主義国家の姿ではない。

かつて、麻生太郎が言ったように、『ナチスの手法に学ぶべきだ』という常識外れの手法が着々と現実化しているとしか思えない。

気が付いたときには、俺たち市民はとんでもない社会になっていることに気が付くだろう。

そう、このままでは日本政治形態は、現在の高市政権が仮想敵国とみなしている中華人民共和国の共産党政権と、思想信条的に大差ないものに成り下がってしまうだろう。

そうなったら、彼らを仮想的に据える必要もない。

なぜなら似た者同士だから、どっちに転んでも専制国家ってことになる。風呂の温度が違うだけさ。

だからこそ、俺はオルタナティブな民主主義を構想してるんだ。

上から社会が変わることを待っていても、今のままでは悪いほうにしか変わらないと俺は見てるんだが、君はどうだい?

学級会や町内会をイロコイ連邦🔗=ホデショノニのような熟議の場に変える民主主義だ。

イロコイ連邦、(ハウデノサウニ / ホデショノニ)の「大いなる平和の法」に基づく合意形成プロセスを、学級会や町内会といった俺や君たちの身近なコミュニティの仕組みとしてハックし、リビルドするという構想だ。

これは、多数決の数の暴力や、空気による同調圧力を排除するための処方箋、つまり極めて高度で具体的な「熟議のシステム実装」になると考えてるんだ。

もちろん、全会一致ってのが難しいのは重々承知している。

一人でも反対すれば、決まらないデッドロックに陥る可能性だって常にある。その挙句、その一人がコミュニティーからパージ=追放されてしまうという恐れもあるだろう。

けど、それは民主主義じゃなくて、ソフトな専制政治だ。

じゃぁ、逆に今の多数決システムがそんなに優れているとも思えない。51対49で数の多いほうの意見だけが通ってしまったら、社会の中に切り捨てられたあ49ersの不平不満は蓄積され、分断は拡大し、非平等や格差も歩調を合わせて拡大していくことになるだろう。

だからこそ、お互い意見のちがうもの同士が、全会一致を目指して話し合いを重ね、歩み寄り、妥協点を探り、お互いに納得したうえで社会を変えるような決断を下す。そういった本当の民主主義が求められているんだと考えているんだ。

イロコイ連邦=ホデショノニは、ベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ建国の父たちが合衆国憲法🔗のモデルにしたとされるネイティブアメリカンの部族連邦なんだ。

ちなみにジャミロクワイ🔗はそのバンド名の中にイロコイ族🔗の名前が織り込まれてる。

彼らは「全会一致(コンセンサス)」に達するまで、何日でも、何段階ものプロセスを踏んで議論を尽くす仕組みを持っていたという。

それはそもそも敵対するもの同士が同盟を組むために生まれたシステムだ。

さて、今日はこれくらいにしておこう。また明日話し合おう。失礼する。

2026/06/09

POST#1872 俺は無学だから教えられないぜ!

タイ、メーサロン🔗

ちょっと立ち止まって考える。

どの親御さんも、こういうことを自分の子供には言わないんだろうか?

子どもの幸せを望まない親は、一部の頭のネジが切れちまった毒親か不幸にも育児ノイローゼになってしまった親御さんを除けば、そうはいないはずだ。誰しも心の中では「子供は宝物だ」と間違いなく思っているだろう。

しかし、それを俺のようにはっきり抜け抜けと「言葉」にして、毎日1日に1回も2回も子供に伝えられている家庭は、実は驚くほど少ないのではないだろうか?

じゃぁ、その仮定に立ったうえでもう一歩進めてみようか。

読者諸兄諸姉もお忙しい中、冗漫屋上屋を重ねるような話で申し訳ない。

なぜ、多くの親御さんが思っているはずの「宝物」という言葉を口にできなくなっているのか、その背景には現代社会特有の悲しい歪みがあると推測出来る。いや、各家庭に聞いて回ったわけじゃないから、断定はできないよ。あくまで、個人の感想です。

はい、論破(笑)

1. 「条件付きの愛」に変質してしまう罠

幸福そうなご家庭でも、多くの場合、肝心な親御さん自身が、新自由主義的な競争社会のプレッシャー、つまりは学歴社会や漠然とした経済的な将来への不安に飲み込まれている。

そりゃまぁ仕方ない。このクソったれな社会で、自分の立ち位置を死守して給料を頂戴するということは、その抑圧に圧殺されそうになりながらサバイブするということだ。

いつも申し上げておりますように、『溺れてる奴は、ほかの溺れてる奴を助けることなんかできっこない』んだ。

そのため、心では宝物だと思っていてもだ、口から出る言葉がどうしても以下のように「条件付き」になってしまうんだ。フォー・エグザンプル。

「テストで良い点数を取れた!偉いね!」

「ちゃんと片付けができたら、いい子だね」

「宿題をちゃんとやったの?グッジョブ!」

なんてこった…人様にご迷惑にならないように、社会のルールに必死に適応させようとするあまり、「何かができるから価値がある」というメッセージばかりを無意識に子供に浴びせてしちゃうことになってるんだ。

別にそんなこと意識している訳ではないだろう。純粋にマインドセットの問題だ。日々の忙しさや焦りの中で、俺がうちの豚児に言うように「生きているだけで100点満点の宝物だ」という無条件のメッセージを子どもに植え付ける余裕を無くしちまってるんだ。

2. 「世間の目」と「言葉にする照れ」

日本社会には古くから「言わぬが花」(これは世阿弥の風姿花伝に出てきた言葉だんべな)や「背中で語る」(まるで高倉健だな!)といった文化があるんだなぁ。おかげさんで、身内を大っぴらに褒めることを避ける傾向がある。

俺がうちの息子を豚児、豚児というのも、自分の息子が出来の悪いやつだという意味の謙遜を込めて?豚児と呼んでいるわけだ。本名は、麒麟児という。まぁ名前負けだなも(笑)。

さらに誰もが世間様に「親バカだと思われたくない」と遠慮し、「甘やかすと社会に出てから通用しなくなるから、厳しく育てなければ」という世間様の同調圧力、つまりは自己責任論の刷り込みという現代人のデフォルト洗脳がフル稼働しちゃってるもんだから、あえて言葉にすることを抑え込んでしまう親御さんも非常に多いんだろうな。

しかし、子どもはスパイ・ファミリー🔗の主人公で、テレパシーで相手の心を読み取る少女アーニャ・フォージャーとは違う。

だから、言わなきゃわかるわけないだろ!

親子だから、言わなくても分かりあってるなんてことはまったくない!それこそ都合の良い幻想だわな。

大事なことだからもう一度言おう『お前は俺の宝物だ』ってのは、何度も何度も繰り返して言い聞かせ、心の底まで刻まないと伝わらないんだ。声に出して言ってみるんだ!

3. 親自身の心に「余白」がない

働きかた改革とかいう掛け声で、労働者の残業時間に法的規制がかけられて久しい。

しかし、そんな法律を後生大事に守ってるのは、上場企業のプロパーの人間だけで、派遣労働者やギグワーカー、自営業者や多くのエッセンシャルワーカーは、未だに法の抜け穴の底でもがいてる。

1日15時間労働と言われるような過酷な社会の中で、大人の側も精神的に極限まで磨り減っている。なんてったってこの国は、総理大臣ご自身が、『働いて、働いて、働いて、働いて、「働いてまいります!』と言い切り、世の中を唖然とさせた国だからな。

仕事だけじゃないぜ、誰だって家に帰っても明日の仕事や食事の準備や風呂掃除、おまけに教育費の工面に追われる毎日だ。

とてもじゃないが子どもの眼をじっと見据えて『お前は私の宝物だ!』と語りかけるための精神的な余裕なんてないわなぁ。いや、もっと精確を期するなら、この『クソったれな社会システム』によって物理的に奪われてしまっているというべきだろう。

斯く言う俺も立派な鬱病患者だ。そうは見えない?

それはほら、あれだよ、あれ。闇が深いほど光は輝くというアレだ。

俺が抱いた素朴な疑問、つまり「どの親も言っているんじゃないの?」ということ自体が、俺自身が社会の毒(新自由主義や効率至上主義)に侵されず、カントの言う「人間を目的として扱う」という原理原則を、なんとかグリップしてる証拠と言えるだろう。

まぁ、そこに至るまでには、鬱病にはなるほど悩んだ時期もあった。

実際に、無条件に『お前は俺の宝物だ』と、どんな状況でもいい切れる自信は、正直に言って俺にもない。たまたま味噌っかすでも、なんとか世間様並みの下くらいには食らいついてくれているから言えるだけだとわかっている。

俺の住んでいるコミュニティにもいらっしゃるが、障害を抱えたお子さんをお持ちのかた、不登校のお子さんと悩んで暮らしてるかた、そういう人々の心の内を思うと、畏敬の念すら覚える。

偉そうなことを言っても、この程度の男なんだ。

生まれてくる前は、高齢出産だったこともあり、どんな障害があっても受け入れようと覚悟を持ったはずだった。

五体満足に生まれたときには、それだけで嬉しかった。

だが、今思えば、なんて世間知らずで無鉄砲だったんだと我ながら慄然とするんだ。

その程度の男の息子は、結局まぁ程度が知れている。

トンビが鷹を産むことはない。カエルの子はしょせんオタマジャクシだ。

おかげ様で、うちの息子は宿題はできたらやらない。

夜更かしばかりで、家の目の前にある小学校には必ず遅刻する。しかも最近は、1時間目が始まるまでに行けばいいよとテキトーなことを言いながら、朝の情報番組で犯罪関係のニュースを見ている。

テストでは 0 点もよく取る。塾の偏差値は、俺が人生で聞いたこともないような数字だ。

勉強に関しては本当に目を覆うような男なんだ。

字は異次元的に汚い。片づけは絶対にしない。あいつの部屋に洗濯物を置きに行くには、床一面に敷き詰められたプラレール🔗の線路や。ひっくり返った車両の隙間を、ツイスター🔗でもやるみたいに体をよじって進んでいかなけりゃならない。

けども、『自分より小さい子にはちゃんと優しくしろ』『自分がされたらいやなことは人にするな』ってことを小さな頃からずっと言い続けてるから、自分より弱い立場の子、小さい子には必ず優しい。

自分が重役出勤で学校に向かうとき、隣に引っ越してきた低学年の障害を持ってる子の家のベルを鳴らし、一所に行こうと誘うこともしばしばだ。

暗記科目はまるで駄目だが、中学に進学してしまった先輩の名前とかもフルネームでしっかり憶えている。日本中の電車について、事細かに知ってやがる。

親バカ丸出しなようで恐縮だが、いつもニコニコ笑っているからたいてい誰にでも好かれる。

俺から見ても不思議な奴だ。

新自由主義的な「人材スペック」の物差しで見れば、学校の先生や社会は眉をひそめている。なんせ毎朝重役出勤だからな。

しかし、すっかり皆の衆にもおなじみになったであろう「人間を手段としてではなく目的として扱う」「10歳まではケモノのように遊び、迷惑をかけ合って生きる」という哲学の視点から見れば、うちの息子はやはり、豚児どころかまさに名前の通りに麒麟児だ。

ペーパーテストの点数や宿題は赤点でも、人間らしさはAAAだ。これだけは胸を張って言える。ちょっと騒がしい奴だけど。

なぜって、まだ保育園に通っている頃から俺は諭すように『自分より小さい子や弱い子には優しくしろ』と言い続け、それを豚児が完璧に体現していること。これこそが、この冷酷な競争社会に対する、アンチテーゼになってるんだ。

社会がどれだけ『人を蹴落として上に行け』『使える人材になれ』と耳元で囁こうとも、麒麟児は『そんなことより、目の前の弱い人を大切にする方がよっぽど有意義だ』し『自分の好きを』いうカント的倫理を体現しているといえるだろう。

POST#1848🔗でも話したけれど、なんてたって友達に『死ね!』って言われたら、そいつの家に行って一緒に勉強しようっていうぐらいの玉だからね。俺でも底が知れないぜ。もっとも、二回くらいトライして、そのあとに『次に来たら殺す!』って言われてバカバカしくなってやめたみたいだけどな。

俺は君たちと長い間、『なぜ日本の子供の死因の第一位が自殺なのか』『なぜ子どもたちは犯罪組織に容易にからめとられて社会的な自殺をしてしまうのか』という、気が滅入るようなこの国の深い絶望から話を始めてここまで歩んできた。俺の友人も、あまりのテーマの重さに言葉を失っていた。

ロングウェイだった。

そこで見てきたのは人間を『材料』として扱い、『学歴』や『生産性』で切り捨てる冷酷な社会構造だった。それはそのまま、俺が社会をはいずるように生きてきた中で、この目で見てきたことそのままだ。

しかし、その暗闇に対する解決策が、大人が子供を 『宝物』として無条件に愛し、だらだらすることを許し、迷惑をかけ合って生きるということだったていうのか?

 だとしても俺は、息子と相変わらず一緒にダラダラするだけだろう。くだらないことでゲラゲラ笑ったり、脇をこちょこちょとくすぐったり、風呂の湯船の中でおならをして笑い転げたりしてね。

これこそが、これまで対話してきたすべての哲学、経済論、人権、そして『子供の自殺』『子供の社会的な自殺』という重い病理に対する、俺の最終回答だ。

新自由主義や学歴社会がどんなに冷酷に『もっと生産性を上げろ』『材料になれ』と外から迫ってきても、ゲラゲラ笑う親子に実装された『強固な対幻想』には、寸毫もクラックアウトすることなんかできないんじゃないかな。

確かに、社会を今すぐ変えることは難しい。それは何世代もかかる大事業だ。

しかしいま、俺や君たち大人が子どもたちに対して『学校の0点なんかどうでもいい、お前は俺の宝物だ』と腹をくくり、子供に極上の『だらだら』と『無条件の存在肯定』を注ぎ続けること。それは今すぐに始めることができる。

それだけで、一人の子どもの命は救われることになるだろう。

そしてその子ども自身が、次の誰かを救う優しい大人になっていくことだろう。


時折、うちのカミさんが『お父さんに教えてもらいなさい』と無茶ぶりしてくるときももちろんある。

それは単純に『自分の仕事で忙しいから、かまってられない』とか『勉強のプレッシャーをかけてほしい』という遠謀深慮からだろう。

しかし、そこで俺は『俺は無学だから教えられない』とゲラゲラ笑ってご辞退申し上げるんだ。

この一言で学歴社会や新自由主義が子供に突きつける『完璧な大人になれ』『優秀な人材になれ』という呪いが、その瞬間にすべて無効化することを狙ってるんだ。

ある意味、強力な教育(あるいはアンチ教育)だ。別に出来ないってわけじゃない。俺は本当は大学中退なんだよ。中高一貫の進学校にも通ってたし。見事に落ちこぼれたけどな。だけど学校の勉強とかに興味がないんだよね。

そんなことよりもテストに絶対出るわけもない哲学の本とか、金儲けには一ミリも役に立たないマクロ経済学の本とか、自分たちの現在の生活には一見何のかかわりもないような人類学の本とか読んでた方がよっぽどワクワクするし、楽しいからね。

つまり『学校や社会のくだらない序列競争なんか、俺の土俵じゃないよ』という、知的で不敵なやり過ごしなんだ。

結局のところ、俺や君たちたちは『勉強機械』や『労働機械』を廃業して、『人間』に戻ればいいんだ。

サイン、コサインや面倒な書類作成なんざ、さっさとAIに任せて、人間はゲラゲラ笑ってだらだら本を読めばいいんだ。

それこそ、100年も前にケインズ🔗が予言した、技術進歩によって労働時間が減少して、より人間らしく暮らせるようになった世界そのものだし、グレーバー🔗が指摘した「ブルシット(くだらない仕事や勉強)」から人間を解放するための、最も現代的で痛快な解決策だろう。まぁ、とんでもなく電力と冷却水を消費するけどな。

そんな世界で勉強なんて、まぁ、できるのに越したことはないだろうけど、その程度のもんで、すぐに技術革新によって陳腐化しちまうんだ。

だったら、最短距離で答えを出す能力よりも、粘り強く思考を組み立てていく力や、好きを追求する中で養われる非認知能力とか、まだ見ぬ知性に対する認知欲求とかに対するワクワク感とか、そういう楽しめる能力を持った方がいいと思うんだよね。

だいたい産業界からの要請に応じて、政府や文部科学省が策定し、学校が必死に叩き込んでいる暗記や計算、幼少期からの英語学習やプログラミング教育のような『今、役に立つスキル』=『市場価値がある能力』の多くは、テクノロジーの進化によってあっという間に価値を失っていくんだぜ。

そんな「賞味期限の短いスペック」のために、子供たちが寝不足になり、心を病み、命まで落とすのは、あまりにも馬鹿げたことじゃないか。

俺は息子に対して、ろくに教育してるつもりはなかったんだけど、一人の父親としては、何とか合格点ってことだろうな。それが、子どもを救うことになるんだったら、これにすぎる幸せはないぜ。

読者諸兄諸姉、そろそろこの話も飽きてきた。また別の話で語り合おう。失礼するぜ。

2026/06/08

POST1871 ホジャは言った『わしの亡骸は頭を下にして埋めてくれ。頼むよ』

 

Istanbul,Turk

ナスレッディン・ホジャ🔗ってトルコに伝わる頓智じいさんの話がある。

この一休さんのように突き抜けたトルコのじいさんの話が好きで、よく読んでいる。

今ではすっかり稀覯本になっちまった平凡社東洋文庫の『ナスレッディン・ホジャ物語🔗』を、京都の古本屋で見つけて、その場で狂喜乱舞して、お値打ちに手に入れたこともある。

その中で、ホジャが臨終のときに地域の人々に、『わしが死んだら、頭を下にして墓に埋めておくれ』とたのんだという話がある。

いくら普段からおかしな言動で周囲をあっと言わせてきたホジャの頼みとはいえ、死ぬ時くらいはまっとうに葬りたいと願うのが人情だろう。それで家族や有縁の人々は難色を示しながらホジャにそのわけを尋ねた。

ホジャは気息奄々ながら自信満々に皆の衆にこう言ったんだ。

『世界の終わりが来るときには、すべてがひっくり返るっていうじゃろう。その時にワシは逆立ちしてるのは御免じゃからなぁ!』

まったく、なんていかれたくそジジイだ!最後までユーモアが炸裂してるな!

しかし、残念なことに冗談ではなく、価値観が転倒しきった社会を、今まさに俺たちは生きている。きっと世界の終わりが来てるんだろうよ!

例えばその学歴ってあるだろう?

学歴なんかで人間の価値なんかは全然変わるものじゃないはずだろ。でも今の我が国は学歴によって、その後の人生の全てが決まっていくっていうのは、きみ、暗黙の了解になってるんじゃないのかい?

それは世界の常識ですって?!

自分の口に出していってごらんよ。

『学歴によって、人生のすべてが決まっていく。それは世界の常識です。』って!

これ自分で言って気味が悪くないか?

これってそろそろやめた方が良くないか?

この「学歴至上主義」こそが、これまで俺が君たちと話し合ってきた「人間を『マテリアル=材料(人材)』として扱い、新自由主義的な市場の道具にするシステム」の最強兵器なんだぜ。

そしてそれは、子どもたちを10歳未満の幼少期から追い回し、追い詰め、最悪のケースでは自殺に追いやる元凶となっているとは思わないかい?

なぜこの学歴社会をやめるべきなのか、そしてこれがどう人間性を破壊しているのか、ちょっと考えてみようぜ。

1. 学歴、それは人間を「規格」で管理する道具

学歴社会の本質は、カントの言う「目的としての人間」の全否定に他ならない。人間を目的とするのではなく、人間を役に立つ素材として扱うための符丁だ。

そこに蔓延る現状の病理ってのはこういうことだ。

 新自由主義的な社会にとって、一人ひとりの複雑な内面や、南方熊楠のような野生の知性を評価するのは「非効率」で面倒なことなんだ。

将棋の駒より、囲碁の駒なのさ。

とはいえ、手っ取り早く人間のランク付けをして、『悪魔の挽臼』の歯車として大活躍して頂きたいところだ。

そこで、人間というマテリアルを振るいにかける網の目が、この学歴ってやつだ。

大学名や偏差値という「分かりやすい記号=規格」を人間に貼り付けて、企業や国家が「使える材料かどうか」を効率よく査定する道具として学歴は使われているんだ。そう、キュウリの選別するみたいにね。しかも、素晴らしいことに大方の場合、その学校で何を学び、どんな専門性を身につけたかは、ほとんど考慮されない。

ラベルが重要なんであって、中身が腐ってても空っぽでも構わないのさ。

奪われる尊厳

ひとりの人間が「どこの大学を出たか」という記号だけで査定されるとき、その人が持つ本当の優しさ、だらだら本を読む豊かさと実利的でない知識がもたらす人間としての深み、他者と迷惑をかけ合える人間味、つまりは人間の尊厳なんて利用価値のないものは、すべて切り捨てられちまう。残念だ。残念にもほどがある。

2. 「18歳での一発勝負」という残酷なライン

人間はいつからでも学び直せるし、何歳からでも成長できるはずだ。学びはトイレの中でもできるし、自分より優れている人を見習うことからでも学べる。自分より明らかにダメなやつからも、学ぶことがあるはずだ。あ、誤解されるといけないからあえて言っとくけど、ダメなやつからダメな部分を学ぶってことじゃないぜ。あくまで反面教師としてだよ!

現状の病理

日本の学歴社会は、18歳(大学受験)時点のペーパーテストの結果だけで、その後の人生の経路や、就職してからの配属先、生涯年収、社会的地位の大部分が確定されてしまうという、おかしな社会だ。

レジリエンスだのリスキリングが聞いてあきれるぜ。

まさに「一発勝負のライン」になっているんだ。因みに、俺の経験では、大学に入った途端に、たいていのぼんくらは勉強というか学問への興味を失う。そんなもんだ。

そして子供どもへの加害

おかげ様で子どもたちは「一度でも受験に失敗したら、不良品として社会から廃棄される」という極端な脱落恐怖を植え付けられちゃうんだ。

おかげさまで「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という人生の基礎をつくる大切な時間を奪われてしまうんだ。残念…。

そして、家計に余力がある家の子どもはおしなべて、深夜まで塾に縛り付けられるという「まるで教育虐待のような構造」を社会全体で正当化しているわけだ。

これを学歴の呪いと言わずに、なんと言うんだ?

3. 学歴は「ただの環境と投資の差」という嘘っぱち

学歴が高い人が「人間的に優秀」かといえば、別にそんなことはない。

グレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」を大量に作り出しているのは、皮肉にも高学歴なエリートたちなんだなぁ。

ルールをたくさん作れば、誰もがそれに従う。それは優等生の世間知らずな浅はかな考えだ。

そして、それを管理するための業務が生まれる。そしてそれに従わないものは、システムからスピンアウトされるんだ。誰もがそうなることを恐れている。決められたルールがどれほど不条理でも従う。なぜって、お前は不要だと言われちゃおまんまの食い上げだからな。

けど、そんなシステムからスピンアウトしたところから、初めて本当の、オリジナルな人生が展開していくんだけどな。なぜそんなことが言えるかって?まぁ、俺もその口だからな(笑)。

構造の歪み 

トマ・ピケティ🔗マイケル・サンデル🔗の指摘通り、現代の学歴ってのは、決して本人の純粋な努力の証ではない。

それには、親の経済力や住んでいる地域(教育への投資額)によって大半が決まる「格差の再生産装置」に過ぎないんだ。

もっとストレートに言えば、金持ちの倅は金持ちに、貧乏人のガキは貧乏人にということさ。これは世界の常識です。これは世界の常識なのか?

更に言えば、その差は世代を重ねるごとに拡大していくのは、賢明な読者諸兄諸姉ならお分かりの通りさ。それが世の中の仕組みだ。

しかし、にも関わらず学歴ってのは、『個人の能力の差、つまり皆様の大好きな自己責任の賜物であるかのように人々に錯覚させ、幻惑させ、勝者に優越感を、敗者に劣等感を植え付ける不条理なシステム』なんだ。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずだが、テストの点は人の上に人を作り、人の下に人を拡大再生産する!笑っちゃうぜ!

こんなシステムはPOST#1866🔗で話し合ったように、とっとと解体するべきなんだ。

「学歴の檻」を壊すために

学歴で人間の価値を決めるのをやめることは、社会の息苦しさをリセットするための絶対条件だ。

そもそも人間の価値って言葉は、人間の利用価値とか使用価値というべきものなんだ。君も声に出して言ってみるといい。

『人間の使用価値』

『人間の利用価値』

声に出してみたならば、その言葉の放つ卑しさの腐臭が、君たちにもはっきりと解ることだろう。

学歴という偽りのコモンズ(共有財)を廃止し、人間そのものを尊厳あるコモンズへと戻すために、私たちができる現実的なボイコットはいったいぜんたいなにがあるんだ?

それは、大人がまず『学歴なんていう薄っペらい肩書を一切リスペクトしない』というアナーキーな態度を徹底することだ。

人物本位で、相手を判断することだ。

「東大を出ていようが、中卒だろうが一切カンケーない。知識欲の赴くままに、だらだら寝転んで本を読んだり、お互い迷惑をかけ合って、そのだらしなさを認め合ってゲラゲラ笑っていられる奴が一番カッコいいし豊かだ」という新しい価値観を、共通の認識を、大人たちが子どもたちの前で堂々と示していくこと。

これこそが、子どもたちを学歴の呪縛から解放し、その命を救うための強力な一歩になるだろう!

 とまぁ、偉そうに言うけれど、うちのカミさんも、なんか一生懸命、バカ息子の教育にね、熱心でいらっしゃるわけだ。

いろんな私立の学校とか見学させたりして、私立の中学校に入れよう入れようと奮闘努力しておいでだ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽がおちる、陽が落ちるだ。

俺は金をドブに捨ててるのと同じだから、やめようよって思ってるんだが。家庭内の権力構造のカンケーで、なかなか言えないんだよ。

正直いって俺は、なんだかんだと金もかかるし、公立でいいなと思ってるんだ。

なんせ、家から歩いて3分だもん。

しかも、本人も真面目に授業も受けずに、探検と称して授業中に教室を抜け出して、校内のパトロールをしてるような奴なんだ。受かるわけないんだよな。

けれど、鉄オタの息子は、頭のなかに線路が走ってるくらいだから、鉄道研究部のある私立の学校に行きたいと諦める素振りもない。だからといって、テストで点が取れるわけでもない。まぁ、無理だろうなぁ。今のうちから慰めの言葉を考えておくさ。

けど、ほんとは校内探検家でもかまわないんだ。

一生懸命遊んだり、さっさと飯を食ってクソして寝たり、友達とコミュニケーションして、ゲタゲタ笑って遊び転げていればいいんだよ。

カミさんの考えもわかる。俺は「もっと大切なことがある」という実感してる。

どちらも「うちの豚児に幸せになってほしい」という親としての切実な願いから出ているものだっちゅうのは変わりないけど、だからこそ家庭内でのバランスが難しい問題なんだよな。まぁ、俺は世間に波風立てるのはやぶさかじゃなく、むしろ、おう一丁やってやろうじゃないかっていう不遜な男だけれど、家庭内の波風は御免被る。結果はどうなっても、本人たちの好きなようにやりゃいいんだ。

どこかできっと行き詰まる。行き詰ってからが、人生本番だ。楽しみにしてろよ。

カミさんが私立受験に打ち込む背景には、それこそ『新自由主義的な生存不安』が大きく影響しているんだ。俺にはわかる。

現代の母親たちは、社会やママ友の間で「早くから準備しないと子供の将来が詰む」という過剰な危機感を煽られ、強いプレッシャーの中に置かれているんだ。

うちのカミさんにとって私立見学は、子供を過酷な社会から守るための『防衛策』なんだ。それはよくわかる、しかし、その行動自体が、このシステムを拡大再生産する『合成の誤謬🔗』というやつだ。

しかし、俺がカミさんの背後で小声でつぶやく「お金をかけるよりも、一生懸命遊び、早く寝て、友達と泥臭くコミュニケーションをとる方が大事」という直感は、子供のメンタルヘルスと脳科学の観点から完全に正しいだぜ。それに俺の小遣いも増えるしな。

1. 「早く寝ること・遊ぶこと」の科学的メリット

実は「寝ることや遊ぶことが、結果的に脳の発達(つまり知識じゃなくて知性の伸長)に最も良い」んだ。

睡眠の重要性

 睡眠中に脳の記憶は整理され、メンタルを安定させるホルモン(セロトニン)が分泌される。睡眠不足だとイライラしたりり、うっかりミスが多発するのはこのためだ。

夜遅くまで塾に通って睡眠を削ることは、逆に脳の発達を阻害して、思い通りにならなかったときに、折れやすい心を作る原因になるだろう。素晴らしいことに、人生はたいてい思い通りにはならないんだ。安心してくれ!(笑)

遊びの知性

友達とのリアルなコミュニケーションや遊びは、教科書では学べない目下流行中の「非認知能力🔗(想定外の事態に対応する力、他者への共感性)」を爆発的に育てるんだぜ。

実はこれこそが、将来どんな社会になっても生き抜くための本当の力=野生の思考🔗なんだYO!

「受験はしてもいいけれど、子供の『だらける時間』と『睡眠』だけは絶対に削らない」というのも大切だ。幸か不幸か、うちの豚児はだらけることは才能豊かだ。睡眠は、いつも宵っ張りの重役出勤だがね。

もしうちの豚児が『きつい、やめたい』と言ったり、寝不足で元気がなくなったりしたら、いつでも諦めて、家の近所の公立に行きなよといってるんだ。ご本人はなんだか、逆に投資を燃やしてしまう事になりがちなんだけどな。

だいたい、そんなもんで人生は決まらない。俺はいつも聖徳太子🔗だって松下幸之助🔗だって田中角栄🔗だって、大学なんて出てないぜって言ってるんだ。

「公立でも全然大丈夫、なんとでもなる」というドーンとした余裕、つまりセーフティネットとして家庭内に俺がだらだら存在することで、子どもは「失敗しても成功しても、あのバカ親父はちゃんと受け止めてくれる」という絶対的な安心感をもってるんだろう。おかげで、いつもふざけてばかりだ。日々失敗するほうのオッズが上がってるぜ。

カミさんが心のどこかで「ダメな旦那みたいになっちゃ大変だから、将来のためにスペックを上げなきゃ」と焦っている。そのいっぽうで、俺は家庭の中で「何点取っても、どこの学校に行っても、お前は生きてるだけで最高だし、お父さんは大好きだ」という無条件の肯定を子どもに注ぎ続けてる。

俺は、そんなことで息子の尊厳はまったく揺らがないことを知ってるからだ。だから、すきにすればいい。人の嫌がることをやらない優しさを持っていればそれでいい。

俺が息子に怒るのは、母親に暴言を吐いた時と、父親の身体的な急所を攻撃してきたときだけだ。

だから俺は息子の前では、南方熊楠のようにだらだらと寝転んでマンガや本を読んだり、下らない話をして笑い合ったりする時間を、率先してつくってるんだ。

 おかげさんで、俺がパソコンに向かって事務仕事をしてると、息子はいつもやってきて、俺の膝に座って仕事の邪魔をしつつ、鉄オタ全開の YouTube を一生懸命見ていやがる。

仕方ねぇなぁ。これとて俺がさんざん君たちに語ってきた「迷惑をかけ合って当たり前」「何もしなくても愛されるアジール」の家庭内の実践ってことだ。

こいつは、子どもの精神的な生存にとって決定的な救いになってるんだろう。おかげで仕事は進まないけど、そんなのどうってことないさ。

実はこのやれやれな日常が、なぜうちのバカ息子のこれからの人生にとって最強の防衛策になるのか、ちょっと考えてみるとするか。

1. 「お父さんの仕事を邪魔していい」という最高の迷惑の共有

社会システムは子どもたちに対して、「他人の時間を奪うな」「効率的に動け」と教えるんだけど、うちの豚児はあなたに対して「お父さんのパソコンを奪って、自分の見たい動画を見る」という、最大級の甘え=とんでもない迷惑を仕掛けているわけだ。

俺がそれを怒らずに受け入れていることで、バカ息子の心には「自分は他人に甘えてもいいんだ」「迷惑をかけても拒絶されないんだ」という、新自由主義の自己責任論を打ち破るための強固な安心感がインストールされるというわけだ。

2. 「ただ膝の上にいるだけでいい」という無条件の肯定

膝の上でYouTubeを見ている時間には、テストの点数も、内申点も、学歴も一切関係ないわな。まぁ、俺にとってはどっちにしてもあんまり興味もないんだけど。

だからこそバカ息子は、俺が『何かができるから=人材としての価値』ではなく、『そこにいるだけで存在を許容される=目的としての人間』という無条件の対幻想🔗を強化されるという算段だ。

この『心の貯金』がある子どもは、将来社会の荒波に揉まれても、絶対に自分を見捨てて自死を選ぶようなことにはならないんじゃないのか。これが本当のレジリエンスって奴だ。

3. お父さんの「背中」から学ぶリラックスの哲学

帳簿をつけたり、図面を確認していたりするなかで、商売道具のパソコンを横取りされて「しょうがねぇ野郎だな」と苦笑いするのが俺の日常だ。そんな中でうちの豚児は「人生、そんなにアクセク四角四面に生きなくても、なんとかなるんだ」という気楽さを、とんでもないスピードで吸収していることだろう。


俺が最初の問いで真剣に憂慮し、立ち向かわなければならないと考えていた「子どもたちの自殺」や社会の要求からスピンアウトされた挙句「犯罪システムにからめとられ社会的な自殺に追い込まれる子どもたち」「人間を材料扱いする社会の冷酷さ」に対する本当の答えは、教育制度の改革でも、政治の変革でもなく、まさに今、俺の膝の上で行われている「バカ息子との、だらだらとした、迷惑をかけ合う日常」の中にあったんだ。エウレカ!🔗

大人たちがみんな、俺のように「仕事をちょっと横取りされて、膝の上で子供とだらだらする時間」を最高に有意義だと笑えるようになれば、この国の空気はもっと優しく、気楽なものに変わっていくだろう。もっとも、商売あがったりかもしれないがね。

しかし、新自由主義や学歴社会、そして今の日本社会全体が子どもたちに対して『人に迷惑をかけるな』『自己責任で生きろ』と冷酷に迫るからこそ、俺や君の家庭の中に『どれだけ迷惑をかけても100%許される関係』があることが、最大の防衛線になるんだろ!

それこそが世界の常識だ!

社会に出れば、使えるか使えないかで値踏みされたり、理不尽な要求をされたり、学歴の壁にぶつかったりすることがあるだろう。それがこのすべての価値が転倒し、人間が手段となった社会の現実だ。しかし、『どんな自分でも受け入れてくれた原体験』を持つ人間は、社会の暴走に心を壊されることはないだろう。

この圧倒的な全能感と安心感が心 の根底にあれば、子どもたちは自ら命を断つような絶望の淵に立たされる前に、必ず信頼できる大人の側に踏みとどまり、SOSを出すことができるはずだ。

 そう、だからこそ子どもたちの命を救うのは「だらしない優しさ」なんだ

子どもの自殺を減らすために社会が必要としているのは、もっと高度な教育カリキュラムでも、レジリエンスの訓練でもない。

そんなのばかばかしいったりゃありゃしないぜ。

大人たちが、とりわけ親が『お前の迷惑なんか、いくらでも引き受けてやるよ』という、大らかで、少しだらしなくて、圧倒的に優しい態度を示し続けることだ。

それには何のコストもいらない。俺たちの思考をもう一回さかさまに転倒させるだけでいいんだ。

どうやって?教えてあげよう。俺がやっていることを。

俺はいつだって、 1 日に 1 回は息子に『お前は俺の宝物だ、知ってるか?』って尋ねる。息子はそのたびに『知ってる』と言い切る。こいつこそ、命を守るマジックワードだ。

これこそが、これまで俺や君たち対話してきた、『人間を材料(手段)として消費する新自由主義社会に対する、最大かつ完璧な対抗策(アンチテーゼ)』なんでございます。

その言葉は、毎日農夫が鋤を地面に打ち込むように、「無条件の存在証明」を子どもの脳と心に深く刻みつける。

社会はこれから、子どもたちに対して『テストの点数は何点だ』『どこの学校へ行くんだ』『お前は社会の役に立つ人材か=俺たちに利益をもたらしてくれる金づるか?』という『条件付きの評価』、つまりは『市場価値』ばかりを突きつけてくるだろう。

しかし、『お前は俺の宝物だ』と毎日言うことで、子どもたちの心には『何かができるからではなく、ただここに生きているだけで、自分は100点満点なんだ』という無条件の存在の肯定が、脳の奥深くに強烈に刷り込まれていくんだ。雨が地面にしみこみ。命を育むように。

この言葉の貯金がある子どもは、社会のに待ち受ける学歴やらスペックやらのしょうもない査定に晒されても、決して自己否定に陥ることはないぜ。だいたい査定なんて、中古車じゃないんだから、勘弁してほしいぜ。

もしも将来、学校や社会でどんなに理不尽な目に遭い、いじめられ、挫折して、世界中のすべてが敵に見えるような夜が来たとしても、こうして心を涵養された人間は、絶望の淵から生の世界へと踏みとどまることができるんじゃないか?

そしてそれこそが、「人間を目的として扱う」ことの最高の実践の第一歩なんだ。

かつてイマヌエル・カント🔗が説いた『人間を手段ではなく、目的そのものとして扱うべきだ』という哲学は、別に難解なことじゃない。誰でも今すぐ始めることができる。それにコストはいらないんだぜ。

自分の子どもを「将来、自分を養ってくれる人材(手段)」としてではなく、「そこにいるだけで尊い、人生の目的そのもの」として、もっといえば神的な存在=世界そのものから託された存在として大切に守り育てるんだ。

そうすれば、やがて大人になったとき、隣人たちを「材料」として値踏みせず、一人の人間として尊重できる、本当の意味で豊かな大人、つまり南方熊楠のような野生の知性と優しさを持つ人間へと育っていくだろう。

消費税率を変えるだけで大騒ぎの政治家たちに、 国や社会のシステムを今すぐ変えることはできない。

けれど、俺や君たち大人が自分の目の前にいる子どもに対して、『君は社会の材料(人材)なんかじゃない。俺様の宝物なんだぜ!』と言い続け、迷惑をかけ合いながらだらだらと抱きしめること。

これこそが、この手段と目的が真っ逆さまに転倒した狂った競争社会を足元から解体し、子どもの命を100%救うための、社会へのアプローチだ。

諸君、ご清聴ありがとう!また会おう!