2026/06/27

POST#1890 中国だってはじめから専制主義国家だったわけないんだ。ちゃんと訳があるんだぜ。

越南、河内、百越の末裔たちがスクーターで疾走する
君たちに話したいことが頭の中を渦を巻いている。しかし、肉体的な能力には限りがある。

現に昨日も13時20分から市の商工会議所で、年金事務所の電子申請の講習を受講することになっていたんだけど、目を覚ましたの13時という素晴らしいタイミングだった。何とか間に合ったものの、仕事を終えて寝落ちしていたので携帯電話の充電は切れていたという素晴らしさだ。おまけにその夜に仕事を終えて帰る時、車のルーフキャリアに脚立を乗せ、縛るのを忘れたまま帰途につき、走り出して1キロくらい行ったところで車の屋根から吹っ飛ばしてしまった。後続車がいたらと思うとぞっとするぜ。猫の子一匹もいない真っ暗な夜道でよかったよ。

そして這う這うの体で帰り着いてから、仕事のレポートをまとめてから歯医者に行ったんだ。あまりに疲労困憊してて、歯を削っても、歯の型を取ってもその間眠りまくっていたぜ。

スティーブ・マーティン🔗が、リトル・ショップ・オブ・ホラーズ🔗で演じたサディストの歯医者🔗だったらよかったな。

おまけに息子は40度まで発熱しひっくり返ってる。カミさんは指に鉛筆が刺さったので、その芯を切除してもらったおかげさんで、水仕事ができないという。ひどい有様だ。

さらに最悪なのは、七月は仕事があるからあけておいてといっていたお客が、例によってあるある詐欺だった。このままじゃ七月は読書週間だ。まぁ、それも悪くないけどね、お金さえあれば。俺のっ仕事は労多くして見返りの少ない仕事なのさ。おまけに、女房子供に老いた父親、どいつもこいつも俺の稼ぎを虎視眈々と狙っているんだ。たまらないぜ。

まぁ、愚痴はこんなもんにしよう。

ウィリアム・ブレイク🔗の『エルサレム🔗』の一節を思い出すんだ。

Bring me my Bow of burning gold:我が燃える黄金の弓を

Bring me my Arrows of desire:渇望の矢を

Bring me my Spear O clouds unfold:群雲の槍を

Bring me my Chariot of fire!炎の戦車を 与えよ!

I will not cease from Mental Fight,精神の闘いから ぼくは一歩も引く気はない

Nor shall my Sword sleep in my hand,この剣をぼくの手のなかで眠らせてもおかない

2026/06/26

POST#1889 中国という堅固な社会システムは秦の穆公から始まった

台北

中国四千年なんて言うと、昔のラーメンの広告みたいでちょっとドン引きだけど、しかし、なぜ豊かになっても中国は民主化しないのかという脳内お花畑な謎を摘み取り、デカルトみたいに切り刻んで解剖し、解き明かしていくためには4000年、いやそれ以前の新石器時代までさかのぼる遠大な視点を持たないといけない。

過去に対して深い射程を持っているならば、未来を見通す射程も、自ずと長くなるはずだからだ。

4000年のまさに大河ドラマのような歴史のうねりの中、俺が決定的に流れを変えた人間はだれかと考えてみるに、紀元前7世紀、中華世界の西方の辺境に現れた秦🔗穆公🔗(ぼくこう)を挙げるだろう。

秦の穆公(ぼくこう)は、中国の春秋時代(在位:紀元前659年〜紀元前621年)における秦の第9代君主です。後に秦が中国を天下統一する基盤を築いた名君であり、「春秋の五覇🔗」の一人にも数えられているんだ。中国古代史のスターの中のスターだ。

覇者ってのは、周王朝が領地を自分の親族の諸公や心中する諸侯に分割していったため、弱体化してしまい、天下をまとめることができなくなった時代に、武力で有力国を取りまとめ、総本家の周王朝への服従を誓わせた偉いさんのことだ。まぁ北斗の拳🔗に出てきたラオウ🔗みたいなもんだと思っといてくれると話が早い。

秦の穆公が中原つまり中国の中心部の諸侯たちと決定的に違っていた点は、「中華の伝統や格式(礼治)にとらわれず、実利と実力主義を徹底したこと」だろう。

中原の国々が周王室とつながる「血統」や「形式」を重んじて衰退していく中で、辺境も辺境、ド田舎の国であった秦の穆公は、独自の合理的な選択で国力を伸ばしていったんだ。

穆公の「中原の諸侯とは違う凄さ」がよく分かる、3つの具体的なストーリーを紹介しよう。どれも彼の「超・実力主義」「実利の追求」「圧倒的な寛容さ」がリアルに伝わるエピソードばかりだ。


1. 羊の皮5枚で買った男を総理大臣に

〜 中原の常識をぶち破る「奴隷の抜擢」〜

中原の国々では、先祖代々の最高級貴族が政治を動かすのが絶対のルールだった。麻生漫画太郎先生みたいなもんだ。そんな中、穆公は敵国の元奴隷だった70代のおじいさん、百里奚🔗(ひゃくりけい)を宰相(総理大臣)に迎えるわけだ。

出会いの異常さと33晩のスカウト

百里奚は亡命に失敗し、隣国で「馬飼いの奴隷」にされていた。その賢さを耳にした穆公は、大金で身請けしようとすると敵国に警戒されると考え、当時の奴隷の相場である「黒い羊の皮5枚」だけを支払って、平然と引き取ったわけだ。しかし、人間ひとりの値段が、黒い羊の皮五枚とは、なんともやるせない気持ちになる話だな。

秦に連れてこられた百里奚の服を脱がせ、穆公は彼と33晩にわたって国の未来を語り合ったという。そして、その能力を確信した穆公は、周囲の貴族たちの反対を押し切り、一国を丸ごと任せる宰相に大抜擢したという筋書きだ。

身分がすべてだった時代に、奴隷でも、他国人でも、老人でも、有能なら国のトップにするという穆公の決断は、中原の国々を大いに驚かせたことだろう。あり得ねぇし。

とはいえ、中国の大昔の話には、太公望の話とかそんなびっくりどんでん返しみたいな話は多いから、これは多少は割引しておくべきだろう。ただ、その核心はのちの時代の曹操のように、人格破綻者でも破廉恥漢でも、仕事のできる奴は片っ端から連れてこい!みたいなすさまじさの先鞭なのは間違いないね。


2. スパイ作戦を逆手に取った「西戎(せいじゅう)の完全制覇」

〜 メンツを捨て、異民族の知恵を強奪する 〜

中原の諸侯は、西方の遊牧民族(西戎)を「言葉も通じない野蛮人」と見下し、関わろうとしなかった。俺は実は、西戎はスキタイ系の文化を持っていたと考えている。これについては、明日にでも話そう。どこまでも脱線して収拾がつかなくなる。

しかしできる男・穆公は違ったんだ。

美女によるハニートラップと狙い通りの自滅とヘッドハンティング

西戎の王から、由余(ゆうよ)という極めて優秀な男が使者として秦にやってきた。彼の賢さに危機感を覚えた穆公は、中原の端くれのという『文明人』のプライドなど捨て、西戎の王に「大量の美女と音楽隊」をプレゼントしするわけだ。

まんまと骨抜きになった西戎の王は政治をサボり、忠告する由余を遠ざけちまった。いつだって、ダメな奴は忠告する奴を遠ざけるのさ。穆公は絶妙なタイミングで由余に手を差し伸べ、自分の家臣としてスカウトしたわけだ。

地形を逆利用して勝利

穆公は由余から、西戎の土地の弱点や攻め方をすべて聞き出したんだ。そして由余を道案内に立てて電撃作戦を敢行し、中元の国々が何百年も手を焼いていた西戎を、わずか数年で服属させて広大な領土と人民を手に入れた。そして、この西戎征服こそが、秦に決定的な変化を促すことになるんだ。これはこの後話すから楽しみにな。


3. 大惨敗した将軍たちを「抱きしめて泣いた」事件

〜 処刑が当たり前の時代に、失敗を投資に変える 〜

中原の国々では、戦争に負けた将軍は「国の恥」として処刑されるか、自殺に追い込まれるのが普通だったそうだ。日本でも責任取って切腹って時代があったからな。あんまり笑えないぜ。

慢心による大敗北と異例の出迎え

穆公は、百里奚たちの反対を押し切って隣国の「晋」へ遠征軍を送ったんだが、待ち伏せに遭い、3人の将軍(孟明視ら)が生け捕りにされるという歴史的大惨敗を喫するわけだ。

のちに釈放されて秦に帰ってきた将軍たちは、死刑を覚悟して白い喪服を着ていたそうだ。ほらますます、戦国時代の日本みたいだろう。

しかし、穆公はわざわざ国境まで自ら出迎え、彼らの前で「私が老人の意見を聞かなかったのが悪い。君たちの罪ではない」と泣いて謝罪したというのだ!

成功したら皆のおかげ、失敗したら自分の責任と言い切れるリーダーは、強い。

3度目の正直でリベンジ

穆公は彼らを文字通りクビにせず、そのまま軍のトップに据え続けた。

将軍たちは恩義に報いるため猛訓練を重ね、数年後、再び晋と戦って見事に大勝利。やったね!こうして秦を文字通りの覇権国家へと押し上げたんだそうだ。

このように、穆公は「前例」や「君主としてのプライド」よりも、常に「どうすれば結果が出るか」という合理性を突き詰めたリーダーだったわけだ。

名君として称えられた穆公ですが、紀元前621年に亡くなった際、177人もの家臣が殉死(後を追って死亡)させられたという。その中には国を支える有能な名臣たちも含まれていたため、秦の国力は一時的に衰退してしまい、後世の歴史家からは批判的に見られる一面もあるそうだ。しかし、それは実は穆公が秦国の社会に西戎から移入したイデオロギーの影響があったんじゃないかと俺は見ている。

さて、そんな穆公の主な功績をサラッと述べると、そりゃこんなところだ。

1. 西戎🔗の覇者となる [1]

当時の秦は中国の西方にある遅れた国と見なされていたんだ。要は田舎者だ。しかし、遊牧民族の西戎を討って領土を大きく広げていったんだ。そもそもが、秦の始祖の非子🔗自体が馬の生産に従事していたようだ。つまり、もともと遊牧民かそれに近いバックボーンを持った国だったわけだ。これ、すごく大事だから頭に入れておいて。

何が大事かって?ここで西戎を征服して自らの内に繰りこんでいったことが決定的な社会の変容をもたらしたと俺はにらんでるんだ。毎度おなじみのエマニュエル・トッド🔗の家族構造理論を援用しながら説明しよう。

秦の穆公が「西戎」すなわち西方の遊牧・半農半牧民族を制覇し、そのエネルギーや社会構造を秦の国家システムへと取り込んでいったプロセスは、中国史における「直系家族から共同体家族(権威主義×平等主義)への転換」を決定づけた歴史的事件なんだ。

穆公がどのように西戎を解体・吸収し、それがどのように秦の家族システムを書き換えていったのか、その具体的なメカニズムは以下の3つの段階に分けることができそうだな。

1. 「覇権の獲得」:西戎の王の右腕(由余)のスカウトと内情把握

穆公の西戎制覇において最も決定的な役割を果たしたのが、先にも記した由余(ゆうよ)という人物の獲得だ。彼はもともと中原の晋の出身だったが、西戎の王に仕え、遊牧民の社会構造を熟知していた変わり種だったわけだ。制度の境界線上に位置していた奴なんだろうな。

遊牧民の強みの学習と分断工作と軍事制覇

漢代に編まれた『史記🔗』によると、由余は穆公に対し「中原の国々は礼楽や法制度(直系・宗法的な秩序)で統治しようとするから上下が対立するが、西戎は上の者が純朴な心で臨み、下の者が忠誠を尽くすため、国全体が一つの大きな家族のように統治されている」と語ったんだそうだ。それは、遊牧民的な社会構造だ。首長のもとに地縁血縁でつながった者たちが、星形に接続されている社会だ。この断片的な情報からしても、当時の西戎が共同体家族だったという推論は間違っていないだろう。

穆公は由余を漢民族側に寝返らせ、西戎の内部事情をすべて把握したわけだ。そして紀元前623年、西戎の国々に美女や音楽を送って王を骨抜きにし、不意を突いて12の国(部族)を制覇し、千里の領土を拡大しそうだ。なかなかやるな。

2. 「社会の統合」:部族ごとの強制移住と「中原化」

穆公は征服した西戎の遊牧民を、ただの奴隷や他者として排除したわけじゃない。そこが穆公がターニングポイントになったという点だ。

穆公は彼らを秦の領内(現在の陝西省・甘粛省周辺)に「部族(集団)ごと」に強制移住させ、秦の農耕民と混住・雑居させたわけだ。

遊牧民の「平等な兄弟関係」の流入と血統(直系)の希薄化

遊牧民族は、厳しい環境を生き抜くために「長男だけが優遇される直系構造」ではなく、「部族の男たちはみな対等な戦士(平等主義)」という強い横の連帯を持っているとされるんだ。こうして数世代を経るうちに、秦の元々の住民(中原系)と西戎が混血・混交を繰り返す過程で、それまで中原の国々が頑なに守っていた「祖先からの純粋な血統(直系家族の核心)」が物理的に破壊されていったわけだ。

では、ここで問題。この時期に中国から失われてしまった直系家族ってシステムは、どこに残存しているでしょう?それは、天皇制の存続で大揉めしている皆さんお馴染みの太平洋の島国だ!

「長男が家を継ぎ、親の権威が強い日本の『家制度』のルーツが、実はこの時中国から押し出された古いシステムと同じなんだ。この成立はまた稿を改めよう。無間に話が脱線してしまうぜ。君に俺の脳みその中を見せてやりたいくらいだ。

だからこそ、日本人は、かつて中国が直系家族的な価値観を色濃く残していた時期に形成された儒教などの素養が馴染みやすく、社会基盤のOSのなかに組み込まれているわけだ。

さてここで、エマニュエル・トッドが『世界の多様性🔗』から『我々はどこから来て、今どこにいるのか?🔗』などで展開している説を借りれば、人類の家族システムの中で、ユーラシアの共同体家族ってのは、最も進んだ家族形態だといえるそうだ。

ちなみに一番原初的で、普遍的な家族システムはなんでしょう?

それは核家族、それもイギリスやその系統を引き継ぐアメリカのような核家族だ。これはおそらく、多くの人にはちょっとした衝撃だろう。

3. 「家族システムの変容」と国家直結の「共同体家族」の土壌

この西戎の大量取り込みによって、秦の社会にはエマニュエル・トッドのいう「共同体家族」の土壌(権威主義と平等主義の融合)が急速に形成されていったんだ。

君主への絶対服従(権威主義)と家族のフラット化(平等主義)

西戎は強力なリーダー(汗/カーン)を戴く文化を持っていた。

穆公はこの遊牧民的な「ボスへの絶対帰属」のエネルギーを、秦の君主権力へとスライドさせたんだ。構造をすっぽりと移植したんだ。これが穆公の死の際、177人の名臣たちが喜んで殉死したという狂信的な忠誠心に繋がるわけだ。

由余が指摘した「国全体が一つの家族」という西戎の性質は、家族の内部においては「兄弟がみな対等に国家(君主)に奉仕する」という構造を作ることになる。

親や一族の長(直系の権威)よりも、「国家という巨大な共同体」のトップである君主が絶対視されるようになったわけだ。

おい、これは毛沢東や習近平の大好きな構図じゃないか?

先に述べた穆公の死に際しての殉死も、実はこの『共同体家族』的な発想に基づくものだと俺は考えている。穆公死して猶、そのそばに仕えたいという家臣たちの強烈な意思によるものだ。そしてそこには、個人の命より全体を優先する、現在のデジタル監視国家にも通じる怖さの萌芽が見え隠れするように思うのは、俺だけか?

そして穆公が敷いた「法家(商鞅)へのレール」

こうしてみると、穆公による西戎制覇は、単なる領土拡大ではなかったんだ。「西戎のフラットで強力な集団主義」を、秦という半農耕半牧畜国家の内部にハイブリッド(混交)させるという壮大な社会実験だったわけだ!

この時、一族の血統(直系家族システム)を重んじるブレーキが壊れ、国家が個人を直接動かす土壌ができたからこそ、のちの戦国時代に秦に商鞅がやってきた際、「一族を強制的にバラバラにし、全員を国家の兵士・農民にする」という過激な法家改革(共同体家族のシステム化)が、他の国では大反対されたにもかかわらず、秦の地でだけ奇跡的に大成功し、秦を戦国最強の戦闘マシンにしてしまったんだ。

21世紀の今日に至る歴史の決定的分岐点は、まさに穆公が西戎のエネルギーをその家族システムごと胃袋に収めた、この瞬間に始まっていたと言えちゃうだろう。

何はともあれこの功績により、穆公は「西戎の覇」と称され、春秋戦国時代随一の一大強国へと成長していったわけだ。

2. 隣国「晋」との深い関係

穆公は東に隣接する大国「晋🔗」の内紛にたびたび介入しした。まぁ、当時も今も、自分たちにかかわりのある推しが王様になってくれれば、何かと便利だからな。
後に春秋の五覇のトップスターとなる文公🔗(重耳)が亡命生活を送っていた際に、穆公は彼を保護して晋の君主に就けたりしたんだ。
もっとも、この文公重耳の器の大きさを見込んでいながら、暗愚な弟の恵公🔗夷吾こそ恩を売れば操りやすいと踏んで、彼を晋の王位につけたりしてるんだがね。で、恵公には王位につけたなら領土を割譲してもらうって密約を結んでたんだけど、たいていこういう約束は反故になるもんだ。穆公はかなりむっとしたけれど、しばらくして晋が飢饉に陥ると、穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い」といって、秦から晋へと大量の食糧を送って援助したりする人格者だったわけだ。
で、しばらくして今度は秦が飢饉になったとき、隣国晋の恵公は穆公の援助に対して答えるどころか、チャンス到来とばかりに侵攻してきたわけだ。ひどい奴だ。
さすがの穆公もこれには切れて出兵し、晋と秦は韓原の戦い🔗で雌雄を決することになるんだ。一時は晋の軍勢に包囲され絶体絶命に陥った穆公だけれど、彼の人徳を慕う決死の民兵の活躍で恵公を捕虜にし、勝利したんだ。
そんなすったもんだがあって、結局人格者の流浪の老公子の重耳を晋の王位につけることになるわけだ。
そして文公の死後はまたまた晋と激しく戦い、最終的には勝利を収めて優勢を保つことになるんだ。
周の王室に連なる晋はのちに、韓、魏、趙の三国に分裂してゆく。
そして、辺境の遊牧民の血を引き、積極的に西戎を自らの内に繰りこんでいった秦は、当時の中原、つまり中国文化の中心地の人々の倫理や社会観を凌駕する施策を取り、後の始皇帝による中国統一につながっていったわけだ。

そこには次のような構図があるだろう。 

1. 穆公の絶望

恵公夷吾に裏切られた穆公の内心では、文化の先進地たる中原の「信義」という綺麗事がガラガラと崩壊していったことだろう。

恩を仇で返す晋と綺麗事(儒教的モラル)の無力さ

穆公は晋の危機(飢饉)の際、大量の食糧を船で運んで救ってやった(泛舟の役)にもかかわらず、翌年に秦が飢饉になった時、晋は助けるどころか秦へ攻め込んできました。

穆公はこの手痛い裏切りを通じて、「中元の連中が言う『信義』や『道徳』なんてものは、しょせん自分の利害でひっくり返る綺麗な嘘(プロパガンダ)だ」と、骨の髄まで思い知らされたことだろうな。人格者故にその絶望の深さは激しかったと思うぜ。

2. 「法家思想」と「強固なシェル」の誕生への必然

「信じられるのは、絶対的な力とルールだけだ」

この穆公の時代に植え付けられた強烈なトラウマ(ニヒリズム)が、のちに秦が商鞅🔗を登用し、韓非子🔗の思想を内面化させていく、確固たる土壌(OS)になりったことだろう。

「人間の善意や信義など信じない。信じられるのは、人間を利害で一律に管理する『法(システム)』と『力』だけだ」という冷徹な法家思想🔗という現在の中国へと続く統治理論のモンスターの誕生だ。

そしてこの秦のDNA(西戎の血✕法家思想)が、紀元前221年に始皇帝によって「2000年間、王朝が変わって、人民共和国になってももびくともしない巨大な統治のシェル(外郭)」として結実たと俺は見てるんだ。

さて、先日君たちと話し合った西側の「近代化理論」、つまり経済がテイクオフし、国民が豊かになれば自然と民主化すると信じて中国に投資したのは、恵公を信じて晋の王位につけた穆公と同じおめでたさなんだ。

日本や西欧が「豊かになれば民主化する」と信じて中国に投資したのは、かつて晋の恵公に「食糧を分けてやれば感謝して仲良くしてくれるだろう」と信じた穆公のおめでたさ(甘さ)と全く同じだ。穆公はその屈辱から学ぶところ大だったのだろう。秦国を強力な戦争機械に作り替えたのだから。

中国共産党が豊かになった後にデジタル監視国家(監獄)へと変貌し、毛沢東の亡霊じみた執念で台湾を狙うのは、西側を「裏切った」のではないんだ。

彼らからすれば、穆公の時代から2600年間染み付いている「外部の甘い綺麗事に騙されず、システム(法)と力で内部を一律に統治し、生存(最大化)を図る」という穆公によって生み出された強固なOSが、ただ歴史の必然として、極めて正常に作動しただけだったんだ。

やれやれ、なんてこった!

2026/06/25

POST#1888 デジタル・パノプティコンによる国家という監獄の誕生

 

香港 麺

俺の手元に、藤原新也の『全東洋街道 下巻🔗』に、改革開放前夜70年代末の上海に赴いた藤原新也のルポタージュと、写真がある。これは素晴らしい写真集だから上下巻合わせて読んでみてほしい。君の世界が広がるだろう。

人々は、世界を放浪してきた熟練の写真家藤原新也が、人の群れの中に偽装して写真を撮るために人民服—そう、このころの中国人はすべて皆、人民服を着ていたんだ—に身を包んで左手にカメラを隠し持っていたのを、上海の人々は世界中のどこの人々よりも遠くから見破り、そのカメラに視線を注いでいたという一文がある。

藤原は記した。

『上海人は、私の持っていいるカメラを見たのではない。十メートル前方のある男が左手に隠すように持っているを見たのである。

言いにくいことを言う。しかしこれは事実だ。上海人は人と人が出会った時、多くのニンゲンがそうするように目と目を見合わすのではなく、おおむねまず相手の手に持つ物に意識が走り、そして目線が走っていく。

上海人の顔が無表情に見え、その目に冷たいものを感じるのは彼らが人の目を見るのではなく、モノを絶えず意識し、そして見ているせいではなかろうかと思った。』(集英社文庫版 全東洋街道 下巻 第十章 168~172頁より)

この写真集に収められた写真に収められた上海は、全体的にグレーで薄暗く、どこかブレードランナーに出てくるようなすがれた暗い雰囲気をまとっている。

そして、若き藤原新也が上海を旅したその日から、今日までの約半世紀に流れた時間の重みを想う。


ここから現在の中国の発展へのターニングポイントになったのは、まさに日本と中国の国交正常化だ。

そしてそれに続く1970年代から1990年代にかけての日本による対中支援が、つまり積極的な日本の技術移転と、そして天安門事件後も円借款を続けた日本の政府産業界の奉仕にあるのではないかってことなんだ。

中国が100年以上続いた戦乱と政治的混乱(大躍進・文化大革命)で、すっかり凍結させていた潜在能力を「再起動」させる上で、日本の政府および産業界が果たした役割は、主に以下の3つの大転換期に集約されるんじゃないかな。

1. 日中国交正常化(1972年)と大平正芳の先見性

経済協力のグランドデザインと近代化のインフラ基盤の提供

1972年の国交正常化後、1979年に当時の大平正芳首相が対中政府開発援助(ODA・円借款)の開始を決定した。藤原新也が上海を訪れたのはおそらくこのころだ。

当時、外貨も技術もなかったまさにどん底の中国に対し、日本は港湾、鉄道、発電所、通信網などの大規模なインフラ建設を円借款🔗(低金利の長期融資)で全面的に支えたんだ。これが、後に中国が「世界の工場」として外資を受け入れるための物理的な土台となったことは、今更くどくど言うまでもないよね。

2. 日本産業界による「技術移転」と鄧小平の衝撃

最高峰の技術を丸ごと移転し、経済先進地「江南」は復活

1978年に鄧小平が訪日した際、新幹線やパナソニック(当時の中下幸之助)の門真工場、新日鉄(現日本製鉄)の君津製鉄所などを視察し、日本の圧倒的な工業力に衝撃を受けたという。この話はちょっと前にもしたはずだ。覚えていてくれたかな?

この鄧小平の懇願に応じる形で、新日鉄は当時の最新鋭技術を注ぎ込み、長江下流域に「上海宝山製鉄所」を建設したんだ。

かつてポメランツの時代に経済の先進地だった長江流域(江南)が、日本の技術移転によって20世紀末に「近代重工業の先進地」として再び息を吹き返した象徴的な出来事だなこれは。

これに続き、自動車、家電などあらゆる日本企業が中国に現地法人を作り、製造業のノウハウ—つまりは熟練労働者の育成や品質管理システムをを叩き込んだわけだ。

これには当然、安い労働力を使って利益を最大化したいという産業界のそろばん勘定もあったのは間違いないだろう。また、アメリカ一辺倒ではない外交を模索する政治家や官僚の思惑もあったに違いない。しかし、その底流には中国に対して大日本帝国が行った非道の数々への贖罪という意識があったのは間違いないだろう。

歴史は途切れることなく続いているんだ。そして、あの天安門事件🔗がやってくる。

3. 天安門事件(1989年)と日本の独断による「救済」

西側諸国の孤立化を日本が打破

1989年の天安門事件により、欧米諸国は中国に対して厳しい経済制裁を科した。ウクライナ戦争の際にロシアに経済制裁を科したのと同じようなものだ。つまりは兵糧攻めってことさ。

当然ながら中国経済は再び国際社会から完全に孤立する危機=ポテンシャルの再封殺に直面することになったんだから、さぁ大変だ。

円借款の再開と「経済の血流」の維持

しかし、何にもはっきり言わねぇ♪と忌野清志郎🔗に揶揄されていた当時の海部俊樹🔗首相をはじめとした日本政府は「中国を国際社会で孤立させるべきではない」と珍しくはっきりと主張したんだ。そして1990年のヒューストン・サミットで西側諸国を説得しまくり、他国に先駆けて第3次円借款の凍結を解除したわけだ。

産業界のコミットメント

この政府の動きに連動し、日本の産業界も中国市場からの撤退ではなく投資を継続・拡大していった。この日本の決断が呼び水となり、中国は最悪の政治的危機を乗り越えちゃったんだ。これがなかったら、アイフォンだってテスラだって、中国で作られることはなかっただろう。

で、1992年、改革開放の旗を死守すべく行われた鄧小平による「南巡講話🔗」を経て、2000年代のWTO🔗加盟と爆発的な高度経済成長へと突き進む外交的・経済的なセーフティネットを得ることとなったんだ。

この流れをざっくりまとめてみると、今日の日本人の皆さんにとって、不都合な事実が浮かび上がる。

中国が「100年の国難」による荒廃から立ち上がり、かつて持っていた経済的ポテンシャルを爆発させることができた背景には、まさに「日本が国交正常化によって門戸を開き」「産業界が血肉となる技術を教え」「天安門事件の危機においても経済的血流(円借款)を止めずに支え続けた」という歴史的事実があったってことだ。

この一連のプロセスは、単なるビジネスや外交の枠を超え、中国の近代化を日本が実質的にプロデュース・牽引した側面が極めて強いといわざるを得ないってことさ。

つまり、現代の中国ってのは、日本が生みの親といっても過言じゃないんだ。


そして、日本の説得を受け入れた西欧各国も、中華人民共和国が経済的に豊かになれば、民主化するだろうという甘々な期待を持っていたんだが、あにはからんや、そこに出来上がったのはデジタルを駆使した専制国家だったというわけだ。

20世紀末から2000年代にかけて日本や西欧諸国が抱いていた「経済的に豊かになれば、中間層が育ち、自然と民主化へ向かうだろう」という期待は完全に裏切られたんだ。

代わりに西欧諸国と日本の前に立ち現れたのは、最新テクノロジーを駆使した強固な「デジタル専制国家(デジタル権威主義)」で、アメリカすらも脅かす経済大国であったという素晴らしい展開だ!

この「期待の裏切り」と「デジタル専制国家の誕生」のメカニズムは、主に以下の3つの要因によって説明されるだろう。

1. 「近代化理論」の破綻

西側の過信と中国共産党の学習能力

西欧や日本には「経済発展 = 民主化」という、欧米の歴史をモデルにした「近代化理論」への強い信仰があったんだよ。

そう、日本や西欧諸国は、中国をWTO(世界貿易機関)に加盟させ、豊かにさえすれば、自由や人権を求める民衆の声が内部から高まり、共産主義独裁体制を変換してゆくことになるだろうと無邪気にも信じていたんだよ。

しかし、この自由民主主義体制って物自体が、アメリカやイギリスの社会構造から導き出されたもので、けっして人類には普遍的なものではなかったんだ。

彼らは、無邪気にもヘーゲル🔗の『歴史哲学講義🔗』に描かれた、文明史観—つまり、社会は段階を追って単線的に発達してゆき、未開な段階から東洋的専制主義を経て、最終的には自由と民主主義的な社会へと到達するという歴史観を信じていたんだ。

けれど中国共産党の指導者たちのほうが一枚上手だった。老獪というべきかな。一歩間違ったら自己批判を強要されて命がなくなるんだから、国のかじ取りも命懸けだったってことだ。

中国共産党はソ連崩壊のプロセスを徹底的に研究した。ついでに日本のバブル崩壊のプロセスも必死に研究した。その結果、「経済的な豊かさを与えつつ、政治的な一党支配は絶対に緩めない」という、西側の予測を超えた新しい統治モデル(チャイナ・モデル)を発明してしまった。いやかつて、産業革命以前には中国は世界最大の経済圏を持っていたことを考え合わせると、彼らはこのシステムを歴史の彼方から再構築してしまったというほうが正しいかもしれないな。

2. テクノロジーを「解放の道具」から「監視の武器」へ

インターネットの変質とグレート・ファイアウォール(金盾)の構築

1990年代のWeb1.0の平和な時代、西側は「インターネットが普及すれば、国境なき情報の自由な流通によって独裁体制は維持できなくなる」と考えていようだ。インターネットが人々の分断を煽りまくっている現在の地平から見ると、なんて脳内お花畑な世界線だと呆れてしまうほどの楽天的な考えだ。

けれど、中国共産党の指導部は、この予想の斜め上をいったわけだ。そう、インターネットを禁止するのではなく「網羅的に監視・コントロールする」という道を選んだんだ。

独自の巨大な検閲システムを構築して、西側諸国発のSNSGoogleFacebookXなど)を徹底的に遮断したんだ。その代わりにBaiduAlibabaTencent(のちのBytedanceなど)といった自国のIT企業を保護・育成し、国民の間に爆発的に普及させたわけだ。

3. 「デジタル権威主義」の完成

AIとビッグデータによる超監視社会と効率的な統治

日本の円借款を元手に世界の工場へと経済発展することで獲得した莫大な富と、世界トップクラスに成長した自国のハイテク技術を融合させて、中国共産党は街中に配置した顔認証AIカメラシステム(天網)や、スマートフォンの決済・行動履歴の監視システム(社会信用システム)を構築してしまった。どこでだれが何をやっているか、当局はその気になればすべて把握することができるんだ。プライバシーなんてものはそこにはないんだ。

かつてのソ連のような「物理的な暴力や恐怖による抑圧」に頼る必要すらないほどに、究極まで推し進められたデジタル技術によって「反乱の芽を事前に察知し、市民が気づかないうちにコントロールする」という、極めて洗練され、かつ効率的な専制統治を完成させるに至ったんだ。

そのうえで、人民には豊かな生活と治安の良さを提供することで、多くの国民から一定の支持=消極的合意を取り付けることにも成功しているんだ。

まさに、ミシェル・フーコー🔗が『監獄の誕生🔗』で描いたパノプティコン🔗のデジタル版、デジタル・パノプティコン🔗が完成し、中国そのものが巨大な監獄として顕現したというわけだ。なんてディストピアが出来上がっちまったんだ!

結論

日本や西欧諸国が「良かれ」と思って行った経済・技術支援は、中国を民主主義の陣営に引き入れる結果にはならず、むしろ「資本主義のダイナミズム」と「専制政治」を高度に融合させ、最新テクノロジーで武装した前例のない超大国を生み出す原動力になってしまったといわざるを得ないだろう。

17世紀の「大分岐」から始まった一連の歴史の歯車は、21世紀にいたって「西側の期待とは全く異なる巨大なデジタル専制国家の出現」という、国際秩序の最大の地政学的リスクを生み出す結果となって現在に至っている。

そして一つ言えるのは、現代のデジタル監視社会中華人民共和国というある種のディストピアは、日本人が総力をかけて生み出したフランケンシュタインの怪物のようなものなのさ。

しかし、これは単に日本や西欧諸国の読みが甘かっただけの問題ではないのではなかろうか。中国という巨大な文明圏に脈々と流れる社会のDNAが、現在の技術によってその感性を見ただけじゃないだろうか?

実は俺はそうにらんでるんだ。現象の奥には歴史が、それも中国4000年の歴史が渦巻いているのさ。問題は日本のODAだけじゃなかったんだ。ある意味歴史の必然だったのさ。