2026/05/17

POST#1851 ある日曜日、俺は講堂の中でD&Gを読み耽る

 

Copenhagen,Denmark   jaguarXJ

2階の部屋で仕事をしてると裏の家の子供が俺の名を呼んでいる。応えて顔を出し手を振ると、満面の笑顔で飛び跳ねている。

隣の娘さんは、俺が車に乗り込む時に、嬉しそうに声をかけてくれる。

俺は元不登校の女の子に声をかけ、君をちゃんと受け止められる社会を俺たちの世代が作れなくてすまないと声をかける。

近所の老人は、僕の庭先のベンチに座り、たわいもない話を俺と言葉少なにかわす。それが俺の日常だ。

しかし、今日は違った。午後から名古屋の私立の学校の説明会に引っ張り出されたんだ。

俺は週6日の夜勤が一ヶ月以上続いててふらふらだったけど、仕方ない、付き合うことにしたよ。

大きな講堂の中で、子どもとカミさんとは席の空き状況の関係で離れて座り、ドゥールズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』をゴリゴリと読み進めていた。ろくでもない父親だな。

そこで『器官なき身体』って、あれか、社会のシステムにはめ込まれていない野生の感性の自由人のことか!と思い至るわけだ。俺は真面目なおじさんおばさん、お坊ちゃんで満員御礼の行動の真ん中で、銀河鉄道スリーナインを思い出したぜ。

機械の身体をもらうことが器官に接続されるってことなんだな、なんか飲み込めてきたぞ。星野鉄郎が旅の果てに拒絶した、永遠の命と引き換えにネジ(パーツ)にされる「機械の身体」とは、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』第1章で徹底的に呪った、人間を資本主義や社会のシステム(捕獲装置)に最適化されたパーツとして飼い慣らす「器官化された身体」そのものだ。

対して、「社会のシステムにはめ込まれていない野生の感性の自由人(鉄郎のナマの肉体)」こそが、彼らの叫んだ「器官なき身体」のストリート版の正体なんじゃないかな。

知のパルクールが起こってるんだ。先生方の熱弁は全く入ってこない。

せめて拍手だけは盛大にすることにいたしました、ハイ。

閑話休題。承前。

日本の子どもの死亡率の一位が、自殺という衝撃的な話には、見方を変えると、公衆衛生や医学が進んでおり、また社会が安定しているので銃器犯罪や少年の薬物乱用などによる死者がほとんどいないという事実の裏返しだという考え方もあるだろう。

確かにそれも一理あるかもしれない。しかし、現実に毎年たくさんの子どもたちが自ら死を選んでいるという重い事実は変わらない。

さて、どうして地球にやってきて間もない子どもたちが、周りに迷惑をかけているなんて悩まないといけないんだ?そもそも人間は迷惑をかけねば生きれん生き物じゃないのか?

人間は本来、誰かに助けられ、迷惑をかけ合いながら生きていくのが当たり前の姿であるはずだ。そしてその迷惑の掛け合い、つまりある意味、その応酬としての贈与によって人間の関係性は強く結びついてゆくはずだ。

しかし、日本の子どもたちが「迷惑をかけてはいけない」と思い詰めてしまう背景には、日本特有の「自律」や「周囲への配慮」を過度に重んじる空気が影響しているんだとさ。

その理由はこんなところだ。

「自己責任」のプレッシャー

幼い頃から「人に迷惑をかけるな」と教えられる一方で、失敗すると「自分のせいだ」と過度に自分を責めてしまう文化が根付いている。

「いい子」への期待

親や先生の期待に応えようとする真面目な子ほど、「期待に応えられない自分は価値がない」「存在しているだけで負担をかけている」と極端に考えてしまう傾向があるのだという。

人間の価値は、そんなところにはない!と断言するよ。期待は裏切るためにあるのさ。

「助けて」と言えない環境

 誰かに頼ることを「甘え」や「弱さ」と捉える風潮があり、SOSを出すことが「さらに迷惑をかけること」だと思い込んで孤立してしまう。

これは子供だけじゃないだろう。大人も同じだ。人間の弱さを肯定することが必要なんじゃないか?そもそも社会のために人間が存在しているわけじゃないだろう。人間の幸福を最大化するために、社会が構成されているはずだ。

だれにも頼らず生きていけるなら、一人で荒野を彷徨うように生きるのさ。

伝え聞くところによれば、インドなどの一部の国では、「お前は人に迷惑をかけて生きるのだから、人の迷惑も許してあげなさい」と教える文化があるという。至極まっとうな話だ。

日本でも、この「お互い様」の精神が子どもたちの心に届けば、もっと救われる子が増えるのかもしれないな。というか昔の日本はそのインドみたいだったんじゃなかったっけ?

かつての日本には「お互い様」の精神で迷惑を許容し合う、インドに近いおおらかな空気があったはずだ。

現在の「迷惑をかけてはいけない」という強い規範は、主に明治時代以降の近代化の過程で形成されたという側面がある。

昔の日本(江戸時代など)の姿を考えてみよう。

「お互い様」の共生

昔の日本、特に江戸時代の長屋などでは、人々の距離が近く、お互いに助け合ったり迷惑をかけ合ったりすることが日常の一部だった。というか、そうして基礎的な共産主義を実践して助け合わなければ、サバイブできなかったんだ。

多種多様な生き方の許容

当時は「迷惑以外の何者でもないような人」であっても、社会の中にその人の居場所を作るだけの「精神的な余力」があったと指摘されている。

「粋(いき)」な文化

トラブルが起きても謝って水に流すような、相手を思いやる「粋」な計らいやコミュニケーションが大切にされていた。今も永田町あたりでは、失言やカネのちょろまかしは謝って、時にはしらばっくれて水に流すという生きな文化が残っているな。結構なことだ。『粋』だねぇ。

では、なぜ「迷惑=悪」になったのか?

近代化と公共空間

明治時代以降、大都市に人が集まり、通勤電車などの『公共空間』が生まれると、見ず知らずの人との共同生活を円滑にするために「他人に迷惑をかけない」というマナーが強調されるようになったという。

しかし、この『公共空間』は『コモンズ』と似ているようで少し違う。どちらかというと、『世間』というようなとらえどころないもののように感じられるな。

学校教育の影響

 1910年(明治末期)頃から、教育や社会規範として「人に迷惑をかけない」ことが説かれ始めまたのだという。俺に言わせれば、それは国家というシステムが転倒し、人間をシステムの維持のための規格品に改造しようとし始めたことだと理解できる。機械の星の部品にするということさ。

共同体の崩壊

 以前は血縁や地縁といった濃い人間関係の中で「迷惑を許容」していたが、高度経済成長を経て核家族化が進み、地域のつながりが弱まったことで、一度の「迷惑」が即座に「排除」につながりやすい不寛容な社会へと変化していった。

そこはすでに、地域社会、地域共同体などというものではなく、核家族にモナド化した家庭が密集して住んでいるだけでしかない。

俺が地域社会の再生を語るのは、このモナド化した人々を有機的につなぎ、社会をリビルトするためだ。

じゃぁ、日本とインドとの共通点と違いはなんなのさ。

インドでは「自分も迷惑をかけて生きるのだから、他人の迷惑も許せ」という考えが根付いているそうだが、かつての日本も、仏教的な「縁」や「慈悲」の心、あるいは八百万の神々を信じる文化の中で、弱さや不完全さを認め合う土壌があった。つまり、国家というシステム以前に、神仏という共同幻想がみなを結び付けていたんだ。

「迷惑をかけるな」という教育は、麻生漫☆画太郎先生の大好きな民度の高い人々の公徳心を養う一方で、子どもたちから「困った時に人を頼る力」を奪ってしまったといえるだろう。

大人として恥ずかしい限りだ。そこで、今日の冒頭の俺の日常に立ち返る。あれは地域社会を耕しているんだ。『私たちの庭を耕さねばなりません』とその著書『カンディード🔗』の末尾を締めくくったヴォルテール🔗のようにね。

2026/05/16

POST#1851 景気のよさそうな大本営発表の裏で、子どもたちは死を選んでる

那覇の飛び梁
俺がこの問題の奥に、日本社会が明確に衰亡に向かってる、いやある意味すでにディストピアになっていると気が付いたのは、毎度おなじみエマニュエル・トッド🔗の処女作『最後の転落🔗』を読んでいた時だ。この本はソビエト連邦崩壊の15年も前に、ソビエト連邦に行ったこともないトッドが、乳児死亡率が1970年ごろから上昇していることから、社会の基盤が崩壊に向かって崩れはじめ、いずれソビエト連邦は自壊すると論じたものだ。
この本を書いた当時、弱冠25歳のトッドは実際にソビエトに行ったこともなく、ソ連の衛星国家であったハンガリーに行ったことがあるだけだったのだが、乳児死亡率というデータから、経済の発達を示す統計のウソを見破り、社会が行き詰っていることを白日にさらしたんだ。

株価60,000円突破、税収過去最高、企業の利益は過去最高という景気のいい報道が流れる中、日本の子どもの死因の第一位は自殺だ。
俺は、エマニュエル・トッドの『最後の転落』を読んでいるうちに、これは現在の日本で起きていることそのままだと感じたのさ。

このままでは、日本の社会は崩壊する。どこかのおかしなメガネの学者が言うように『老人が集団自決』すれば救われるようなものじゃない。そんなことをしても社会の崩壊は加速するだけだ。

問題から目を背けず、まずは考えることだ。

なぜ日本は子供の自殺率が高いのか?
日本の子どもの自殺率が高い背景には、「学校問題」や「精神的幸福度の低さ」といった複数の要因が複雑に絡み合っているそうだ。
G7諸国の中で10代の死因1位が自殺なのは日本のみであり、その深刻さが浮き彫りになっているといえるだろう。
主な要因として指摘されている点は以下の通りだ。
もちろんこれは世間一般で指摘されている通り一遍の内容だから、その奥の構造を深堀してみないといけないけれど、それに関しては今は留保しておこうか。

学校に関わる悩み
中高生の自殺原因で最も多いのが「進路の悩み」や「学業不振」などの学校問題だそうだ。
子どもたちの社会は、学校と家庭という閉じた社会だ。そこでの悩みは彼らの内的世界を揺るがすものになるのは容易に想像がつく。

学業・進路のプレッシャー
良い成績や進学を求める社会的・家庭的な期待が強いストレスとなっている。
けれど、言わせてくれ、人生はレールから外れたときから初めて自分のものになるんだ。
誰かの引いたトラックを順調に走るだけの人生なんて、そんなの人生じゃないだろう!

人間関係
 いじめや友人関係の悩みに加え、近年ではSNS上のトラブルが要因となるケースも増加している。そのような報道が繰り返されるたびに、無力感とやり場のない憤りに胸がいっぱいになる。純真無垢で生まれてきた子どもたちを、そんな無情に駆り立ててしまったものは何なのか?

長期休暇明けの不安
夏休み明けの9月1日前後は、学校への不適応感から自殺が急増する傾向にあるという。
それで死にたくなるくらいなら、学校なんて修羅場に飛び込む必要なんてないんじゃないのか?命を懸けていく学校も会社もないんだぜ!

精神的幸福度の低さ
ユニセフの調査(2020年)によると、日本の子どもの「身体的健康」は世界トップクラスである一方、生活満足度や自殺率を指標とする「精神的幸福度」は38カ国中37位と最低水準にある。まったく素晴らしい調査だ。
何でこんなことになるんだ?俺たち大人はもっと真剣に考えないといけないんじゃないか?

自己負担感と孤立
「周りに迷惑をかけている」という感覚、つまり自己負担感や「どこにも居場所がない」という感覚、ストレートに言えば孤立感が自殺願望を高めると分析されている。
鬱病を患って、長いことレクサプロを飲んでる俺にもよくわかるよ。

家庭環境や社会的背景
家庭内の問題
家庭不和や虐待、親からの叱責なども大きな要因の一つだ。
精神疾患の増加: 
高校生などを中心に、うつ病をはじめとした精神疾患の増加も背景にあると見られている!

原因の特定が困難なケース
文部科学省の調査では、自殺した子どもの約6割が「原因不明」とされている。
原因を追究すれば、いろいろと不都合が生じる時、人々は往々にして原因不明という鵺のような現象だと語りたがるのさ。そう、その原因は一つのものではなく、キメラのように複雑に絡み合っているんだ。
これは、周囲が異変に気づかないまま子どもが「声にならない声」を抱え込み、一人で追い詰められている現状を物語っているだろう。

俺たちのような大人が、子供たちに対してひとりの人間として真摯に向き合わないといけないんだ。しかし、そんな精神論では片づけることのできない、大きな構造が潜んでいるはずだ。
 そもそも、なんで子どもたちが周りに迷惑をかけることを極端に恐れないといけないんだ?

人間は周りに迷惑をかけずにたった一人で生きていけるような存在じゃないんだぜ。
タワマンに住んで、十分な資産を持ち、おひとり様を満喫する人はどうか知らないけれど、人間って、お互いに迷惑をかけあうことでしか生きてなんかいけない存在のはずじゃないか?

自己責任?

地球にやってきたばかりの子どもたちにそれを求める人たちは、自分が子供のころ、自分の力だけで生きてきたと思っているおめでたい奴だとしか言いようがないぜ。

迷惑をかけあえる、そして行政につなげば憲法の精神に則って人間として尊厳のある生活を送れるような支援を受けることができる。そんな当たり前のことが、当たり前じゃない世の中なんだ。

自己責任とか言って、人間をモナド🔗化してしまってはいけない。それは人間を目的とするのではなく、人間を社会システムの維持のための部品に変えてしまうパワーワードなんだ。

みんな、目を覚ませ!そして、子どもたち、隣人たちの心の声に耳を澄ませ!

2026/05/15

POST#1850 中高生の死因の第一位は自殺という国に住んでいる


台北市漢中街171巷

昨日、小学5年生のむすこ麒麟児を、自分が仕事に出撃するタイミングで塾に送っていった。
この車の中は、俺と息子の二人だけの会話の空間だ。息子は車に乗り込んだかと思うと、『おれさぁ、5年3組の女の子と結婚しようと思うんだ』ときやがった!
『はぁ?!なにいきなり言ってんだよ?!』まだ、孫は勘弁してくれ。
『明日結婚しようと思うんだよね』と息子
『ばか、10年早いよ!まぁ、そんなのはさぁいろいろよく考えて選ばないとだめだぜ。で、その娘のどこがいいんだよ?』
『そうだねぇ、笑顔かな』と息子。
なかなか面白い奴だ。
人間を、属性で判断せずに、ストレートに笑顔がいいといえるのは、大人でもなかなかいない。そういうところは俺の息子のいいところだな。
 『で、担任のBB先生に明日結婚式やるから、ケーキ用意して欲しいって頼んだんだ』
やれやれ、俺は先生のご苦労を心中で思いやったぜ。子どもってのは、面白いもんだ。頼むからそのままおもしろい大人になってほしいもんだ。

しかし、この日本では子供の死因の第一位が自殺だ。
厳密には中学生から高校生にかけての死因の第一位が自殺だ。
日本の小中高生の自殺者数は、近年増加傾向が続いており、2025年(令和7年)の1年間で538人に達している。
これは統計が残る1980年以降で過去最多の数値だ。嘆かわしいことだ。
もう40年も前だけど、俺が高校生の頃にも同じ学校の一つ下の女の子が自殺して、その子と付き合っていた同級生の少年が泣き崩れていたのをどうすることもできず見ていたことを思い出す。
日本の子供の自殺に関する最新の実態とデータの内訳は以下の通りだ。
1. 学校種別の内訳(2025年統計)
子供の自殺者数は年齢が上がるにつれて増加する傾向にある。
小学生:10人前後
中学生:約170人
高校生:約350人

もちろん、不慮の事故や小児がんなどでなくなる子どもも多い。しかし、高校生に至っては全体の死因の約半数が自殺だ。

俺たちはこの国が先進国だと思っているけれど、そんな体たらくの先進国なんて他にない。
この社会は深刻な病理に侵されていると考えるべきだろう。

日本スゴイ系動画にも、日本の若者の死因の第一位は自殺!なんて動画は絶対にUPされない。不都合な真実から目を背けているんだ。
けれど、不都合な真実に目を向けない限り、俺たちは自分の手でくそったれな社会よりマシな社会に変えていくことなんてできないだろう。

ひとりの父親として、もし自分の息子が自殺してしまったらと考えると、想像を絶する喪失感だ。生きていても仕方ないと思えることだろう。
子どもたちが生きにくい社会は、大人たちにとっても生きづらい社会なんじゃないのか?

自分の子どもだけじゃなく、どの子どもも健やかに成長してほしい。
偽善じゃなくて本当にそう思う。
そして、社会の理不尽に流されることなく、資本主義という巨大なシステムの歯車として使い潰されることなく、人として尊重される人生を送ってほしい。
それには右も左も関係ないだろう。自己責任だというやつは、言わしておけばいい。そういうやつは自分が苦境に陥ったときには、必死に責任逃れをする奴だと俺は経験的に知っているから。屁とも思わないさ。

よし、これからしばらくこのテーマで話し合っていこうか。お付き合い頼むぜ。