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| 名古屋市大須商店街 昭和のパワーが炸裂している |
クソみたいな現場で必死に格闘し、満員電車の中のように現場に犇めく職人やら設計士やら元請やら施主やらを、体使って、頭使って、気を使って何とかクリアしてきた。
こんな時は、ぼんやりユーチューブとかでアニメなんか見たりもするさ。にんげんだもの🔗
世界のアニオタの皆さんの間では、『葬送のフリーレン🔗』で描かれた舞踏会の描写が素晴らしいと称賛されてるそうだ。俺もフリーレンは大好きだ。全巻揃えてる。チェンソーマン🔗も全巻揃えてて、なおかつ評判の悪い第二部が大好きだ。
アニメ第15話(原作第32話)で描かれた、フェルンとシュタルクの社交ダンス(舞踏会)のシーン🔗は国内外で歴史的な神回として大絶賛されているんだ。知ってたかい?
原作漫画では2コマほどと扉絵だけであっさりと流された場面だったんだけど、マッドハウス制作のアニメ版では、エンディング映像を丸ごとカットしてこのシーンの尺に費やし、約1分間におよぶ美しいダンスをすべて手描き(フルアニメーション)で描写したんだ。日本の職人芸だ。
流れるようなカメラワーク、キャラクターの細かな表情の変化、特訓の末に優雅に踊る二人の表情からにじみ出る含羞と信頼感、そしてこのためだけに書き下ろされた楽曲(ワルツ)が完璧に調和し、「アニメ史に残る名シーン」として世界中のアニオタが悶絶、絶賛したんだ。
なぜかって?ヨーロッパの文化を手書きのアニメーションで完璧かつ優雅に再現したからだ。
その一方で、欧米ではリベラルな皆の衆が吹かしまくってるポリティカルコレクトネスのおかげさまで、イギリスの王が黒人に描かれるっていう、理解に苦しむ状態が起きてる。
2024年にAmazon Prime Videoでも配信された海外ドラマ『マイ・レディ・ジェーン🔗』という番組で、実在の英国王を「黒人のゲイ」に改変したんだそうだ。
16世紀のイングランド王国に実在した国王エドワード6世🔗(史実ではも・ち・ろ・ん白人男性)を、作中では黒人で、なおかつゲイにして、しかも身体障害を抱えて車椅子って、ハンバークカレーとんかつトッピングみたいなことになっていた。
このドラマはガチガチの歴史劇じゃないんだそうだ。人間が動物に変身する魔法が存在する世界線を舞台にした、ファンタジー要素の強い「歴史IF(もしも)系ローファンタジー」なんだとさ。とはいえ 「ファンタジーなら何でもあり」で「創作の自由」なのか?
エドワード6世はあくまで実在した人物なんだぜ。もちろん、アングロサクソンで、ゲイでもホモでもなく、車椅子にも乗ってなかった。
因みに『葬送のフリーレン』だって、エルフや魔族、ドワーフや魔法使いがフツーにいるファンタジーだが、そんな違和感を抱かせるようなトンデモ設定はない。キャラクターの名前はすべてドイツ語に由来する。(一部フランス語の名前の者もいるがね)
まぁ、ポリティカルコレクトネスで、王様を黒人にしたところで、彼らの先祖がアフリカの黒人を奴隷にすることで、資本の根源的蓄積🔗をやり遂げた事実はなかったことにはならない。現実から目をそむけてどうする?
こんなことだから、人気アニメ『ダンダダン🔗』の海外吹き替えで、宇宙人オタクの主人公オカルンが、髪型(それも劇中で、燃えて縮れたからツーブロックで上がもじゃもじゃ)という一点突破で、その声優は黒人じゃないとダメだとか、オープニングのダンスが黒人文化をパクってるとか、政治的に正しいらしいことでボカスカ叩いてくるんだよね。
海外、特にアメリカを中心としたエンタメ界における「人種の多様性(ダイバーシティ)」の要求が、日本のコンテンツ(アニメや漫画)にも向けられる現象については、国内外のファンの間でも非常に激しい摩擦と反発を生んでいます。
海外の熱進的な一部のファンやコミュニティ(主にSNS上のポリコレ・多様性を重視する層)の高尚な方々の間では、「日本のアニメのキャラクターは白人、あるいは人種的にニュートラル(無国籍)に見える」という独自の解釈に基づき、多様性を持たせるために「黒人や有色人種のキャラクターをレギュラーに入れるべきだ」といった要求がしばしば持ち上がる。あるいは二次創作で肌の色を濃く変更する行為がしばしば行われ、日本側のファンとの間で衝突を繰り返している。
なぜ欧米ではこんな原作へのリスペクトのない要求が執拗に起こるのか?
ディズニーをぱろったり改変したら大訴訟になるってのにな。
欧米、特にアメリカのエンタメ業界では、「表現されること(Representation」という概念が極めて重視されるんだとさ。なんかよくわからんけど。
どうも「自分の人種が画面に映ること」が正義とされる文化があるらしい。
アメリカのような多民族社会では、「子供たちがテレビを見たときに、自分と同じ肌の色のヒーローやヒロインがいないと、自己肯定感が育たない」という社会運動的な思想が強くあるんだとさ。そのため、彼らにとって多様性は「あれば良いもの」ではなく、「エンタメが果たすべき絶対的な義務」と捉えられてるんだそうだ。とはいえ、スネ夫とかみて自己肯定感は育たないけどな。
ディズニーで、黒人のお姫様が出てきたりするけど、俺はそういうのを見ると、偽善性が鼻についてしまうんだ。黒人がいままで、そして現在もどう扱われてきたのか?それを棚に上げて何を言ってるんだってね?
阿呆らしいぜ。緑とか青とかもあるだろ?あれはどーすんだ?
なにより、ちょっとむかしは日本人はみんな眼鏡で出っ歯で黄色いちび、まるでミニオンズ🔗みたいに描かれてたのにな!
おまけに勝手に日本のアニメを「世界共通の公共財」と捉えてくださってるから、困ったことになるんだよね。
日本のアニメが世界中で爆発的な人気を得た結果、海外の活動家や一部のファンは、それを「日本という特定の国の文化」として尊重するのではなく、「自分たちの社会(欧米)の基準に合わせてアップデートされるべきコンテンツ」として扱おうとするんだ。
これが、日本のクリエイターやファンから見ると「土足で踏み込んで自分たちのドグマで設定を改変しようとする、わけのわからない傲慢な要求」に映ることになるんだ。
そう、異文化を尊重しているような建付けのくせに、異文化をまったく尊重していないんだ。
近年、この欧米からの要求に対して、日本やアジアのファンからは「それこそアジア人に対する差別ではないか」という理路整然とした反論が強まっているげな。当然だな。
日本のアニメキャラクターは、日本人のアイデンティティやアジア的な感性に基づいて描かれているものが大半だ。なぜって、日本人が日本社会で作ってるからね。
それを「黒人や白人が足りないから」という欧米の政治的・社会的な都合(主にBlack Lives Matter運動以降のトレンド)だけで書き換えようとする行為は、「アジア人の文化やキャラクターの存在を軽視・消去する行為(アジアン・イレイシャー)」である、という批判だ。
ご納得いただけるかな?
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ディズニーのような米国の巨大企業が「ポリコレ(政治的正しさ)」や「多様性」をビジネスとして推進し、それを世界基準として押し広げようとした結果、その波が日本のアニメカルチャーにまで押し寄せ、現場の海外声優やファンの間で「文化の盗用」や「原作冒涜」を巡る深刻な対立を生み出しているのがさもしい現状だ。
自分たちが、異文化を改変するのはポリコレ、日本人が日本を描いたり、中世ヨーロッパを舞台に描いた作品に黒人が出てこないと噛み付くのもポリコレ。
いったい、誰がそんなことをして面白く感じるんだ?
欧米の意識高い系のお歴々が日本のアニメや漫画を叩いたりしやすいのは、俺が思うに、彼ら自身が、世界にこんな社会は絶対にありえないと思っている、理想の社会に非常に近い描写がされてるからだと思うんだ。
でも、実はそれが日本の普通の人間の暮らしだったりするんだよ。
病気になればちゃんと病院に行くことができる。
人種差別は暴動が起こるほどに表面化してない。少なくともね。ミックスルーツの子が、クラスに一人はいる。アニメの声優にもそんな人はたくさんいる。
学校で銃が乱射され、子どもたちが屠殺されることもない。
公衆の福祉やインフラもかろうじてしっかりしてる。
格差はないとは言わないが、欧米ほどじゃない。
そんな日本のリアリティに立脚してるのが、非常理想的、いやファンタジーみたいな空虚なものに見えるんじゃないかなと思うんだ。
そう、彼らが「こんなのファンタジー(空虚な理想郷)だ」と感じている世界が、実は日本の「地続きの退屈な日常(リアリティ)」なんだ。ここには、巨大な認識の非対称性という、文化の断絶がある。
なんでそうなるかって言えば、日本こそはアメリカ人にとっての「あり得ないユートピア」だからだ。
日本のアニメ、特に「日常系」や「学園モノ」、あるいは何気ない都会や田舎を描いた作品には、アメリカ(特に都市部)の感覚からすると奇跡のような理想郷(ユートピア)が描かれている。
まず治安のリアリティだ。
女子高生が夜間に一人でコンビニに行ったり、小学生が公共交通機関を使って一人で通学したりする描写(そうメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん🔗』から現代の『正反対な君と僕🔗』まで)は、銃社会であり誘拐や犯罪のリスクが日常にあるアメリカでは「あり得ないファンタジー」そのものだ。
学校に銃を持った不審者が乱射してこない前提の、のんびりした学園生活自体が、彼らにとっては信じられない特権に見えることだろう。まぁ日本でも池田小学校事件🔗とかあったけど、毎週学校が銃撃されてるわけじゃない。
また、インフラと福祉のリアリティが違いすぎるのかもしれない。 街にゴミが落ちておらず、自動販売機がバールで破壊されずに街中に置かれ、皆が当たり前に国民皆保険で病院に行ける社会が日本だ。
格差(スラムと高級住宅街=ゲーテッドコミュニティの断絶)が可視化されすぎているアメリカに比べたら、日本のアニメに登場する家や生活水準は、多くが「中流階級の普通の暮らし」として平準化されていると言っても言い過ぎじゃないだろう?
そこで、彼らは思うんだ。「この2次元の理想郷のなかに、なぜ自分たちがいない?」って。
アメリカの批評家や一部の過激なファンは、アニメが描くその「安全で、福祉が行き届き、格差が少なく、誰もがのんびり暮らしている社会」を、日本の現実の写し鏡だとは夢にも思っていないらしい。
彼らはそれを、クリエイターが脳内で作り上げた「究極の理想の社会」だと解釈してるらしいんだ。おいおい、日本のクリエイターたちはいつからジャン・ジャック・ルソー🔗になったんだ?
ここから、彼らの歪んだ屁理屈が生み出される。
「こんなに素晴らしい、差別のない理想的な社会(=彼らにとってのファンタジー)を描くなら、なぜそこに黒人やラテン系、LGBTQ+といった多様な人々が含まれていないんだ?」
「有色人種を排除して、マジョリティだけでお花畑のような理想郷を作って楽しんでいる、極めて排他的で差別的な表現だ」
彼らにとって、その心地よい空間は「人為的に作られたユートピア」だからこそ、自分たちを入れないのは「差別」だと感じて叩きやすくなるわけだ。
俺たちにも、ファンタジーの国へのチケットをくれ!と言うことさ。
しかし、日本のファンや普通の生活者からすれば、アニメに描かれるそれは「理想」なんかじゃない。ただの「日本の普通の、ありふれた現実」だ。
考えてみ?日本の学校を舞台にするから、日本の高校生(大半がアジア人・日本人)が出るのは当然だ。
そして、日本の治安が良いから、キャラクターが夜道を歩くし、子どもだけで遊びにいく。
おまけに、日本の医療や福祉がそこそこ上手く回っているから、怪我をすれば普通に病院に行く。そりゃそうだ。痛いもん。
これらは思想やポリコレの産物ではなく、単なるフツーの生活の猫写だ。
それを、自国の深刻な社会問題、そう医療崩壊や銃規制の失敗、極めつけは根深い人種対立なんかのフィルターを通すことでしか見られないアメリカの活動家は、日本の「普通の日常」を「白人・マジョリティのための特権的な空虚なファンタジー」だと勘違いし、アメリカの基準(人種ノルマ)で書き換えようと躍起になるわけ。
日本のコンテンツが持っている強さは、現実から浮いた「空言としての理想」ではなく、「日本の社会が失われた30年とバカにされながらも、曲がりなりにも達成している安定した現実というリアリティ」に立脚している点にあるんだ。
それが差別や銃や医療問題があまりに過酷で、GDPの割には社会がぐでんぐでんな社会の中心で、せめてフィクションやエンタメのなかでポリティカルコレクトネスを叫ぶみなさんは、日本のエンタメが持つ「あまりにも平穏で、お説教臭さのないリアリティ」こそは、嫉妬を通り越してもー理解不能な「空虚なもの」として映るんだろうね。だからこそ攻撃の標的にしやすいのかもしれないな。
そこからわかるように失われた30年って日本は馬鹿にされるけど、それは単にGDPから見てるだけで、今の世界で深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる世界っていうのはそんな国っていうのは世界中にどれぐらいあると思う?
アメリカのポリコレ信者の皆様は、この「銃乱射もなく、スリも強盗も恐れず、夜でも女性が丸腰で歩ける日本のアニメの日常」を見たとき、それを「現実の日本社会の縮図、つまり秀吉以来の歴史と綱吉以来の道徳の結晶」だとは想像できないんじゃないだろうか?
一般的にアメリカ人は夜郎自大🔗なので、驚くほどアメリカ以外の世界を知らない。だから、「こんなに恐怖がなくて、みんながのんびり平和に暮らせる社会なんて、現実のアメリカには絶対に存在しないだろ!」→「ということは、これはクリエイターが頭の中で作った『究極の理想のファンタジー(ユートピア)』に違いないぞ!」→「それなら、その完璧な理想郷に、なぜ俺たち(黒人や有色人種)を入れないんだ? 差別だ!」
という、凄まじい認知の腸捻転を起こすのさ。
彼らにとって、日本のアニメの何気ない日常は、「自分たちがどんなに逆立ちしても手に入らない、喉から手が出るほど欲しい完璧なファンタジー」に見えているんだ。
だからこそ「土足で踏み込んで、自分たちの思い通りのポリコレ色に染め変えてやりたい」という傲慢で原作やクリエイターにリスペクトのない態度に出ちゃうんだろうな。
まぁ、週末だものこんな内容も悪くないかな?

