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| 日本の…どこだっけ? |
冗談じゃないぜ!いや、冗談だとしたらサイコーだな!漱石は神経衰弱でカミさんから気味悪がられていた。太宰治は薬中で挙句の果てには知り合ったばかりの女性と心中した。
俺は反射的に、現場で鍛え上げた大音声で『俺たちには、村上春樹がい・る・ぞー!』と叫んだ。一瞬、音が消えた。ふ、爽快だ!
文学は、社会の矛盾に苦しんだり、社会のルールと自らの生き方の相克に苦しんできた人たちが、命を削るようにして記してきたものだ。そして同じように苦しんでいる弱い立場の人々にそっと寄り添ってきたんだ。選挙のネタにされてたまるか!
ちなみに、参政党がオレンジを自分たちの党派色にしているのはオレンジ=橙を先祖代々のダイダイにかけてるんだそうだ。なんだ親父ギャグかよ。しょうもない。
彼らの自称保守政治家や自称右派政治家の語る「日本」には、柳田國男や南方熊楠、折口信夫や宮本常一、梅原猛や網野義彦などの人文学の巨人たちが命懸けで掘り起こしたような深い歴史への敬意や狂気じみた探究心がほとんど感じられない。もちろん、漱石や太宰もそんなもん読んだこともないような世間の皆様に対する、選挙演説のためだけのコケオドシでしかない。そこには何のリスペクトもシンパシーも感じられないぜ、悪いけど。
俺は、俺の前にそんなインチキな奴らが現れたときには、反射的にやっちまうんだ。困ったやつだ。(笑)
実際のところ、自称保守の政治家たちが依って立っているのは、1万6000年の豊穣な歴史ではなく、極めて限定的な「政治的記号」であることが多いのが現実だ。俺に言わせれば、屁みたいなもんだ。つまりは「歴史」ではなく「神話(ファンタジー)」への依存なんだ。
彼らが好むのは、緻密な史料批判や民俗学的なフィールドワークに基づいた事実ではなく、自分たちの政治的立場に都合の良い「明治維新の成功物語」や「戦後の成長神話」といったファンタジーだ。まるで司馬遼太郎の小説みたいなもんだ。
彼らの言説は学術的知性との乖離が甚だしい。だいたい本なんか読んでないんだろうな。麻生太郎は漫画しか読まないだろうし。麻生漫画太郎に改名してほしいぜ(笑)
佐伯啓思氏や中島岳志氏などの保守的な知識人からは、安倍氏らが掲げた「美しい国」といったスローガンは中身のない政治的レトリックに過ぎず、真の保守主義とはかけ離れていると厳しく批判されている。要は愛国ポエムだ。
ずいぶん前に亡くなられた江藤淳🔗は、真正の保守といわゆる保守派というものは全くの別物だと語っていたな。「保守」の定義がすっかり変質しちまってるんだ。
本来の保守とは「歴史に対して謙虚であること」のはずだ。急激に何かを変えるのではなく、その変革によって何が失われ、どのようなリスクがあるのか厳密に勘案し、守り保つべきは守り、変えるべきは綿密に対策を断行するもののはずだ。
が、しかし現代の自称保守は「日本に自信を持つ姿勢」といった感情的なエシカル(倫理)に置き換わってるんだなぁ、これが!つまり愛国ポエムだ。脳内桜の園だ。その言説には客観的な研究に基づいた議論よりも、他者を「論破」し敵視することを好む傾向がありありだ。結果、社会は分断を深める一方だな。残念…。
本当の保守じゃなく、保守というイメージ戦略、言説としての保守コスプレだよ。いっそ羽織袴でも着てコスプレに徹してくれりゃいいのにな。
小選挙区制と政治の世襲化によって、日本の保守政治の本流が劣化したと俺は見ている。
かつてのような「真正保守」の地下水脈(歴史に学び、戦争に対して慎重である姿勢)が失われ、代わりに「国家主義的右派」が台頭しているといえるだろう。
結局、彼らにとって歴史や文化は「探究すべき真理」ではなく、「選挙や権力維持のために利用する小道具」に成り下がっているんだ。だからこそ、プロイセン憲法に由来する大日本帝国憲法や教育勅語のような「最近の、しかも外国の借り物」を、縄文以来1万6千年の歴史を有する我が国の伝統だと勘違いして平気でいられるのだろう。
柳田國男や網野義彦らの知の巨人たちが命を削って見出した「日本」の姿を、彼らが一瞬でも直視したとしたら、今のその薄っぺらなスーツ姿では一歩も歩けなくなるはずだぜ。
先にも触れたように、そもそも『保守(Conservatism)』 っていうのは 物事を一気に変えるんじゃなくて、その影響を慎重に見極めながら検討し、変えるところは 変え、会えるべきでないところは守るように知るという慎重な姿勢を表してるもんだったと記憶しているが、現今の微塵党じゃなかった自民党から、維新、賛成じゃなかった参政党の人たちまで、右派の人々はやたらと改革を連呼するんだよな。おかげで、中道改革連合やら共産党まで、中道から左派までが、保守的と人々の目に映るようになっている。ジョージ・オーウェルの1984年🔗だったかな、あれに出てきたニュースピーク、つまり言っていることに本来とは全く違う意味が充てられているような不気味な現象だ。
エドマンド・バーク(保守主義の父)が説いたように、本来の保守とは「人間の知性には限界がある」という謙虚さを前提に、「一気に変えると取り返しのつかないことになるから、歴史の知恵を借りながら慎重に歩もう」という姿勢のことだ。
しかし、今の日本の「自称保守」の人たちがやっているのは、むしろ「右派的な革新(ラディカリズム)」だ。なぜ「慎重な保守」ではなく「叫ぶ革新」になったのか?
それは、それは、「保守」という言葉が独り歩きしてブランドと化してしまったからだ!
彼らにとって「保守」は哲学ではなく、単なる「強いリーダーシップ」や「リベラルへの反対」を意味するファッションになってる!ファッショ🔗じゃないぜファッションだ。そのため、慎重さよりも「力強さ」や「スピード感」をアピールしてるんだなぁ。
けれど、明確な日本の将来へのヴィジョンがないから、明治の「富国強兵」モデルへの先祖返りやオリンピックや万博や新幹線のバージョンアップのリニアなんかの昭和の成功体験にすがるんだ。夢よ、もう一度だ。
彼らが理想とするのは、江戸以前の穏やかな循環社会ではなく、明治維新という「大改革(確信)」によって強国になった姿だ。つまり、彼らのルーツ自体が「一気に変える」という革新の成功体験に縛られているわけだ。しかし、そんな過去の成功体験を追い求めていても、地球の資源はもう持たないんだけどな。
そして決め手は劣化コピーとしての「決断できる政治」だ!この潔さ、言い切っちゃう力強さにみんな痺れちゃうんだヨなぁ。
「何も決められない政治」を批判するあまり、熟議や慎重さを「弱さ」と勘違いし、独断で推し進めることを「保守の強さ」と履き違えてしまっているわけだ。
しかも、熟議や慎重な合意形成を求めるもの、反対意見を求めるものを『敵対勢力』『反対勢力』と指弾して、貶めるのは小泉構造改革で味を占めた自民党のお家芸だ。
俺は、彼らの改革主義に1万6000年の時間軸を忘れた焦りを見る。
柳田國男や南方熊楠といった先人たちは、何百年、何千年のスパンで日本と日本人を、世界と物事を見ていたはずだ。それに対し、今の政治家は「次の選挙」や「今の株価」という数年単位どころか一四半期のスケールでしか物事を考えていない。
1万6000年の歴史を持つ国の「保守」を自認するなら、本来は「今すぐ変えろ!」と叫ぶのではなく、「この変更は、1000年後の日本人の身体性を壊さないか?」と、熟考すべきはずじゃないか?
「慎重さ」こそが保守の真髄なのに、誰よりも声高に「改革!」「革新!」と叫ぶ矛盾。そこに、彼らの語る言葉の「心に響かない薄っぺらさ」の根本的な原因があるのではないだろうか。皇室典範改正とか憲法改正(改悪)とかね。
けれど、彼らが絶対に叫ばない改革がある。日米安保条約と日米地位協定だ。戦後以来今日まで続く現代の不平等条約だ。明日はそれについて話し合おう。俺も仕事しないといけないんだ。


