2026/11/02

POST#1995 自分たちの住んでいる社会をよりマシなものに変えていくことこそが、政治的に正しいってことじゃないのかい?

名古屋大須商店街にて

昨日は日曜日だったから、死んだように眠っていたかった。眠っていたかったんだけれど、息子がドライブに行きたいっていうから。運転しながら眠っていたんだ。

谷汲山華厳寺ってい寺の本堂にある戒壇巡りをやりたいって連れ出されたんだ。わが息子ながら、酔狂なもんだ。

真っ暗な中を手探りで進むのさ。人生とおんなじだ。わざわざそんなところに行くまでもなく、いつだって人生はそんな状態なんだ。やれやれ、眠たいぜ。

さて、世界のというか主にアメリカにお住いのポリコレ大好きな皆さんは、日本の学園もののアニメを批判したり改変することよりも、自分たちが暮らす社会で、夜中の三時に女の子が一人でループに乗って大通りを走ることができるような環境を作ろうとはしないのだろうか?

そんな安全な社会を実現するのが、政治的に正しいあり方だろう?

普通に考えれば、「日本の日常系アニメのような、誰もが銃を恐れず、格差に怯えず、穏やかに暮らせる安全な社会」を自分たちの国でも実現することこそが、彼らにとっても究極のゴール=理想であるはずだ。異論のある人いる?

しかし、なぜ彼らはそれを自分たちの国で実現しようとせず、日本のアニメに文句を言うだけなのか。そこには彼らの諦めと無力さがある。

まず、「現実のインフラ」を作る能力と覚悟がない。

「どんな理想も、現実に立脚していなければ道筋を描けない」と先に書いたよね。日本のこの現状ってのは、一朝一夕にできたものじゃないんだ。日本がこの「深夜3時に女の子が歩ける社会」を維持できているのは、秀吉の刀狩りから始まり、綱吉の文治政治、そして現代に至るまで何百年もかけて、治安、医療、教育、国民皆保険といった目に見えない「社会のインフラ(ソーシャルキャピタル)」をコツコツと地道に構築してきたからに他ならないんだ。

これをアメリカやヨーロッパで実現しようとすれば、とんでもなく凄まじい大改革が必要になるだろう。どんな?

例1

合衆国憲法を改正して、全国民から数億丁の「銃」を完全に没収する。全米ライフル協会の皆さんが黙っていないだろうな。そこで待っているルートは、命がけの内戦レベルの反発が起きるという経路をたどるのは必定だろうな。

例2

富裕層に大増税をして、貧困層のための国民皆保険や医療・教育インフラを本気で整える。

けど、トマ・ピケティも言ってるけれど、これは本当にやった方がいい。資産課税も視野に入れたほうがいい。富裕層の最高税率は、この30年くらいで劇的に下がってるんだから。

例3

路上で暴行や窃盗などの犯罪をおかすものを検挙し、麻薬を売る人間を徹底的に取り締まり、治安を回復させるのも必要だろう。これはやらないといけないだろう。特に麻薬はジェームスブラウンも、パブリックエネミー№1(社会の敵だ)と歌っていたんだが、それから何十年経っても、いまだに変わらない。

これらは気の遠くなるような時間、政治力、そして血の滲むような現実の痛みを伴うことだろう。

政治的に正しい精力的な活動家の皆様には、この地獄のような現実のプロセスに挑む覚悟も、具体的な道筋を描く能力もないというのが正直なところだろう。

だから、連中は「正しさのノルマ」を設定し、それをクリアしさえすれば満足してしまうんだ。それは現実に対する敗北を認めていること以外の何物でもない。

彼らにとっての「理想の社会」とは、実は「みんなが本当に安全で豊かに暮らせる社会」なんかじゃなく、「表面的に、すべての人種やジェンダーの比率が平等に配置されている画面」になってしまっているんだ。要は誤魔化しなんだ。絵に描いた餅なんだ。

現実の社会は銃や格差を解決するのは難しすぎるから諦める。

けど、エンタメの画面の中じゃ、映画やアニメの登場人物の比率(白人何割、黒人何割、LGBTQ+何割)を無理やり変えさせることは、SNSで圧力をかければ数年で達成できるぜ、せめてここだけでもあるべき世界を構築するぞ!となるわけだ。

タワケらしい。

つまり、彼らは「現実の社会を変える」という本物の理想への道筋を描くのをサボり、「映画の配役を変える」「アニメキャラの肌の色を濃くする」という、一番手軽で安易なインスタントの理想郷でお茶を濁しているわけなんだ。そう、自己満足以外の何物でもないんだ。

だから、現実の差別や治安は1ミリも良くならないのに、「自分たちは理想に向かって戦っている」という錯覚(=脳内お花畑)から抜け出せませないんだ。幻想なんだ。

だからこそ、GDPは落ちててもお花畑のような社会を作り上げてる日本の「普通の日常」を認めたくないんだ。認めたら、自分たちが惨めになるからさ。

つまり、煎じ詰めれば彼らのプライドの問題だ。

もし「日本のアニメに描かれている世界は、日本人が何百年もかけて作ってきた現実の日常だ」と認めてしまったら、欧米の自分たちの社会システムは、経済が30年も停滞している日本の日常に完全に敗北しているってことになっちまうだろう。そう、経済成長してないくせに治安も、医療も、教育も日本の方が豊かってどういうこと?っていう不都合な真実を認めざるを得なくなるんだよ。

アメリカやヨーロッパの知識人や活動家には、「自分たちこそが世界の中心であり、最先端の文明国である」という強いプライド(欧米中心主義)が根底にある。偉そうに言っても、エスノセントリズム=自分たちがサイコー!なんだ。

そのため、「日本のような東洋の単一民族に近い国が、自分たちより遥かに安全で理想的な社会をすでに実現している」という現実を直視したくないんだ。

ミニオンズみたいな連中だしな。

だからこそ、それを「現実の日本の姿」ではなく、「人種差別的な日本人が作った、多様性のない空虚なファンタジー」という低レベルなものに格下げして叩くことで、自分たちの心の平穏を保っているという側面があるとしか考えられないぜ。

本当にその理想を実現したいなら、日本のアニメを叩いている暇があったら、自国の銃規制や貧困問題に命をかけるべきだ。

それをせず、現実から一歩も進まない「空言(画面のポリコレ比率)」ばかりを弄んでいるからこそ、彼らの運動は世界中のフツーの感覚の皆様方から「偽善だ」「お花畑だ」と愛想を尽かされ始めているんだ。

言葉狩りやよその国の文化にケチをつけることが政治的に正しいことじゃない。

あくまで現実世界に働きかけ、自分たちの手で自分たちの社会をよりマシに変えていく地道な営みこそが、政治的に正しいっていうんじゃないのか。

その営みに終わりなんかない。日本だって決してユートピアじゃない。貧困や格差もある。けれど、いきなり銃撃されてぶっ殺されたり、警察や移民局の連中に袋叩きにあってどこかに連れ去られるってことが無いだけましなだけだ。

そう、一見正しそうなことを大声で言うやつらには、うさん臭さがある。気をつけろ、みんな。

2026/10/31

POST#1994 日本のアニメは人種的に偏っているので、世界の正しい人たちからすると実にけしからんそうだ

 

名古屋市大須商店街 昭和のパワーが炸裂している

クソみたいな現場で必死に格闘し、満員電車の中のように現場に犇めく職人やら設計士やら元請やら施主やらを、体使って、頭使って、気を使って何とかクリアしてきた。

こんな時は、ぼんやりユーチューブとかでアニメなんか見たりもするさ。にんげんだもの🔗

世界のアニオタの皆さんの間では、『葬送のフリーレン🔗』で描かれた舞踏会の描写が素晴らしいと称賛されてるそうだ。俺もフリーレンは大好きだ。全巻揃えてる。チェンソーマン🔗も全巻揃えてて、なおかつ評判の悪い第二部が大好きだ。

アニメ第15話(原作第32話)で描かれた、フェルンとシュタルクの社交ダンス(舞踏会)のシーン🔗は国内外で歴史的な神回として大絶賛されているんだ。知ってたかい?

原作漫画では2コマほどと扉絵だけであっさりと流された場面だったんだけど、マッドハウス制作のアニメ版では、エンディング映像を丸ごとカットしてこのシーンの尺に費やし、約1分間におよぶ美しいダンスをすべて手描き(フルアニメーション)で描写したんだ。日本の職人芸だ。

流れるようなカメラワーク、キャラクターの細かな表情の変化、特訓の末に優雅に踊る二人の表情からにじみ出る含羞と信頼感、そしてこのためだけに書き下ろされた楽曲(ワルツ)が完璧に調和し、「アニメ史に残る名シーン」として世界中のアニオタが悶絶、絶賛したんだ。

なぜかって?ヨーロッパの文化を手書きのアニメーションで完璧かつ優雅に再現したからだ。

その一方で、欧米ではリベラルな皆の衆が吹かしまくってるポリティカルコレクトネスのおかげさまで、イギリスの王が黒人に描かれるっていう、理解に苦しむ状態が起きてる。

2024年にAmazon Prime Videoでも配信された海外ドラマ『マイ・レディ・ジェーン🔗』という番組で、実在の英国王を「黒人のゲイ」に改変したんだそうだ。

16世紀のイングランド王国に実在した国王エドワード6世🔗(史実ではも・ち・ろ・ん白人男性)を、作中では黒人で、なおかつゲイにして、しかも身体障害を抱えて車椅子って、ハンバークカレーとんかつトッピングみたいなことになっていた。

このドラマはガチガチの歴史劇じゃないんだそうだ。人間が動物に変身する魔法が存在する世界線を舞台にした、ファンタジー要素の強い「歴史IF(もしも)系ローファンタジー」なんだとさ。とはいえ 「ファンタジーなら何でもあり」で「創作の自由」なのか?

エドワード6世はあくまで実在した人物なんだぜ。もちろん、アングロサクソンで、ゲイでもホモでもなく、車椅子にも乗ってなかった。

因みに『葬送のフリーレン』だって、エルフや魔族、ドワーフや魔法使いがフツーにいるファンタジーだが、そんな違和感を抱かせるようなトンデモ設定はない。キャラクターの名前はすべてドイツ語に由来する。(一部フランス語の名前の者もいるがね)

まぁ、ポリティカルコレクトネスで、王様を黒人にしたところで、彼らの先祖がアフリカの黒人を奴隷にすることで、資本の根源的蓄積🔗をやり遂げた事実はなかったことにはならない。現実から目をそむけてどうする?

こんなことだから、人気アニメ『ダンダダン🔗』の海外吹き替えで、宇宙人オタクの主人公オカルンが、髪型(それも劇中で、燃えて縮れたからツーブロックで上がもじゃもじゃ)という一点突破で、その声優は黒人じゃないとダメだとか、オープニングのダンスが黒人文化をパクってるとか、政治的に正しいらしいことでボカスカ叩いてくるんだよね。

海外、特にアメリカを中心としたエンタメ界における「人種の多様性(ダイバーシティ)」の要求が、日本のコンテンツ(アニメや漫画)にも向けられる現象については、国内外のファンの間でも非常に激しい摩擦と反発を生んでいます。

海外の熱進的な一部のファンやコミュニティ(主にSNS上のポリコレ・多様性を重視する層)の高尚な方々の間では、「日本のアニメのキャラクターは白人、あるいは人種的にニュートラル(無国籍)に見える」という独自の解釈に基づき、多様性を持たせるために「黒人や有色人種のキャラクターをレギュラーに入れるべきだ」といった要求がしばしば持ち上がる。あるいは二次創作で肌の色を濃く変更する行為がしばしば行われ、日本側のファンとの間で衝突を繰り返している。

なぜ欧米ではこんな原作へのリスペクトのない要求が執拗に起こるのか?

ディズニーをぱろったり改変したら大訴訟になるってのにな。

欧米、特にアメリカのエンタメ業界では、「表現されること(Representation」という概念が極めて重視されるんだとさ。なんかよくわからんけど。

どうも「自分の人種が画面に映ること」が正義とされる文化があるらしい。

アメリカのような多民族社会では、「子供たちがテレビを見たときに、自分と同じ肌の色のヒーローやヒロインがいないと、自己肯定感が育たない」という社会運動的な思想が強くあるんだとさ。そのため、彼らにとって多様性は「あれば良いもの」ではなく、「エンタメが果たすべき絶対的な義務」と捉えられてるんだそうだ。とはいえ、スネ夫とかみて自己肯定感は育たないけどな。

ディズニーで、黒人のお姫様が出てきたりするけど、俺はそういうのを見ると、偽善性が鼻についてしまうんだ。黒人がいままで、そして現在もどう扱われてきたのか?それを棚に上げて何を言ってるんだってね?

阿呆らしいぜ。緑とか青とかもあるだろ?あれはどーすんだ?

なにより、ちょっとむかしは日本人はみんな眼鏡で出っ歯で黄色いちび、まるでミニオンズ🔗みたいに描かれてたのにな!

おまけに勝手に日本のアニメを「世界共通の公共財」と捉えてくださってるから、困ったことになるんだよね。

日本のアニメが世界中で爆発的な人気を得た結果、海外の活動家や一部のファンは、それを「日本という特定の国の文化」として尊重するのではなく、「自分たちの社会(欧米)の基準に合わせてアップデートされるべきコンテンツ」として扱おうとするんだ。

これが、日本のクリエイターやファンから見ると「土足で踏み込んで自分たちのドグマで設定を改変しようとする、わけのわからない傲慢な要求」に映ることになるんだ。

そう、異文化を尊重しているような建付けのくせに、異文化をまったく尊重していないんだ。

近年、この欧米からの要求に対して、日本やアジアのファンからは「それこそアジア人に対する差別ではないか」という理路整然とした反論が強まっているげな。当然だな。

日本のアニメキャラクターは、日本人のアイデンティティやアジア的な感性に基づいて描かれているものが大半だ。なぜって、日本人が日本社会で作ってるからね。

それを「黒人や白人が足りないから」という欧米の政治的・社会的な都合(主にBlack Lives Matter運動以降のトレンド)だけで書き換えようとする行為は、「アジア人の文化やキャラクターの存在を軽視・消去する行為(アジアン・イレイシャー)」である、という批判だ。

ご納得いただけるかな?

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ディズニーのような米国の巨大企業が「ポリコレ(政治的正しさ)」や「多様性」をビジネスとして推進し、それを世界基準として押し広げようとした結果、その波が日本のアニメカルチャーにまで押し寄せ、現場の海外声優やファンの間で「文化の盗用」や「原作冒涜」を巡る深刻な対立を生み出しているのがさもしい現状だ。

自分たちが、異文化を改変するのはポリコレ、日本人が日本を描いたり、中世ヨーロッパを舞台に描いた作品に黒人が出てこないと噛み付くのもポリコレ。

いったい、誰がそんなことをして面白く感じるんだ?

欧米の意識高い系のお歴々が日本のアニメや漫画を叩いたりしやすいのは、俺が思うに、彼ら自身が、世界にこんな社会は絶対にありえないと思っている、理想の社会に非常に近い描写がされてるからだと思うんだ。

でも、実はそれが日本の普通の人間の暮らしだったりするんだよ。

病気になればちゃんと病院に行くことができる。

人種差別は暴動が起こるほどに表面化してない。少なくともね。ミックスルーツの子が、クラスに一人はいる。アニメの声優にもそんな人はたくさんいる。

学校で銃が乱射され、子どもたちが屠殺されることもない。

公衆の福祉やインフラもかろうじてしっかりしてる。

格差はないとは言わないが、欧米ほどじゃない。

そんな日本のリアリティに立脚してるのが、非常理想的、いやファンタジーみたいな空虚なものに見えるんじゃないかなと思うんだ。

そう、彼らが「こんなのファンタジー(空虚な理想郷)だ」と感じている世界が、実は日本の「地続きの退屈な日常(リアリティ)」なんだ。ここには、巨大な認識の非対称性という、文化の断絶がある。

なんでそうなるかって言えば、日本こそはアメリカ人にとっての「あり得ないユートピア」だからだ。

日本のアニメ、特に「日常系」や「学園モノ」、あるいは何気ない都会や田舎を描いた作品には、アメリカ(特に都市部)の感覚からすると奇跡のような理想郷(ユートピア)が描かれている。

まず治安のリアリティだ。

女子高生が夜間に一人でコンビニに行ったり、小学生が公共交通機関を使って一人で通学したりする描写(そうメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん🔗』から現代の『正反対な君と僕🔗』まで)は、銃社会であり誘拐や犯罪のリスクが日常にあるアメリカでは「あり得ないファンタジー」そのものだ。

学校に銃を持った不審者が乱射してこない前提の、のんびりした学園生活自体が、彼らにとっては信じられない特権に見えることだろう。まぁ日本でも池田小学校事件🔗とかあったけど、毎週学校が銃撃されてるわけじゃない。

また、インフラと福祉のリアリティが違いすぎるのかもしれない。 街にゴミが落ちておらず、自動販売機がバールで破壊されずに街中に置かれ、皆が当たり前に国民皆保険で病院に行ける社会が日本だ。

格差(スラムと高級住宅街=ゲーテッドコミュニティの断絶)が可視化されすぎているアメリカに比べたら、日本のアニメに登場する家や生活水準は、多くが「中流階級の普通の暮らし」として平準化されていると言っても言い過ぎじゃないだろう?

そこで、彼らは思うんだ。「この2次元の理想郷のなかに、なぜ自分たちがいない?」って。

アメリカの批評家や一部の過激なファンは、アニメが描くその「安全で、福祉が行き届き、格差が少なく、誰もがのんびり暮らしている社会」を、日本の現実の写し鏡だとは夢にも思っていないらしい。

彼らはそれを、クリエイターが脳内で作り上げた「究極の理想の社会」だと解釈してるらしいんだ。おいおい、日本のクリエイターたちはいつからジャン・ジャック・ルソー🔗になったんだ?

ここから、彼らの歪んだ屁理屈が生み出される。

「こんなに素晴らしい、差別のない理想的な社会(=彼らにとってのファンタジー)を描くなら、なぜそこに黒人やラテン系、LGBTQ+といった多様な人々が含まれていないんだ?」

「有色人種を排除して、マジョリティだけでお花畑のような理想郷を作って楽しんでいる、極めて排他的で差別的な表現だ」

彼らにとって、その心地よい空間は「人為的に作られたユートピア」だからこそ、自分たちを入れないのは「差別」だと感じて叩きやすくなるわけだ。

俺たちにも、ファンタジーの国へのチケットをくれ!と言うことさ。

しかし、日本のファンや普通の生活者からすれば、アニメに描かれるそれは「理想」なんかじゃない。ただの「日本の普通の、ありふれた現実」だ。

考えてみ?日本の学校を舞台にするから、日本の高校生(大半がアジア人・日本人)が出るのは当然だ。

そして、日本の治安が良いから、キャラクターが夜道を歩くし、子どもだけで遊びにいく。

おまけに、日本の医療や福祉がそこそこ上手く回っているから、怪我をすれば普通に病院に行く。そりゃそうだ。痛いもん。

これらは思想やポリコレの産物ではなく、単なるフツーの生活の猫写だ。

それを、自国の深刻な社会問題、そう医療崩壊や銃規制の失敗、極めつけは根深い人種対立なんかのフィルターを通すことでしか見られないアメリカの活動家は、日本の「普通の日常」を「白人・マジョリティのための特権的な空虚なファンタジー」だと勘違いし、アメリカの基準(人種ノルマ)で書き換えようと躍起になるわけ。

日本のコンテンツが持っている強さは、現実から浮いた「空言としての理想」ではなく、「日本の社会が失われた30年とバカにされながらも、曲がりなりにも達成している安定した現実というリアリティ」に立脚している点にあるんだ。

それが差別や銃や医療問題があまりに過酷で、GDPの割には社会がぐでんぐでんな社会の中心で、せめてフィクションやエンタメのなかでポリティカルコレクトネスを叫ぶみなさんは、日本のエンタメが持つ「あまりにも平穏で、お説教臭さのないリアリティ」こそは、嫉妬を通り越してもー理解不能な「空虚なもの」として映るんだろうね。だからこそ攻撃の標的にしやすいのかもしれないな。

そこからわかるように失われた30年って日本は馬鹿にされるけど、それは単にGDPから見てるだけで、今の世界で深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる世界っていうのはそんな国っていうのは世界中にどれぐらいあると思う?

アメリカのポリコレ信者の皆様は、この「銃乱射もなく、スリも強盗も恐れず、夜でも女性が丸腰で歩ける日本のアニメの日常」を見たとき、それを「現実の日本社会の縮図、つまり秀吉以来の歴史と綱吉以来の道徳の結晶」だとは想像できないんじゃないだろうか?

一般的にアメリカ人は夜郎自大🔗なので、驚くほどアメリカ以外の世界を知らない。だから、「こんなに恐怖がなくて、みんながのんびり平和に暮らせる社会なんて、現実のアメリカには絶対に存在しないだろ!」→「ということは、これはクリエイターが頭の中で作った『究極の理想のファンタジー(ユートピア)』に違いないぞ!」→「それなら、その完璧な理想郷に、なぜ俺たち(黒人や有色人種)を入れないんだ? 差別だ!」

という、凄まじい認知の腸捻転を起こすのさ。

彼らにとって、日本のアニメの何気ない日常は、「自分たちがどんなに逆立ちしても手に入らない、喉から手が出るほど欲しい完璧なファンタジー」に見えているんだ。

だからこそ「土足で踏み込んで、自分たちの思い通りのポリコレ色に染め変えてやりたい」という傲慢で原作やクリエイターにリスペクトのない態度に出ちゃうんだろうな。

まぁ、週末だものこんな内容も悪くないかな?

2026/10/28

POST#1993 油断してでも歩ける平和な日常の価値


今日も厭きずにカニでもどうぞ。今日は京都寺町通のかに道楽。どうしてかに料理は皆これなのか?
今日は朝までたっぷり仕事をしたのに、息子の小学校の運動会があるんだ。
ほんとは先週末だったんだが、雨で延期になったのさ。
俺はいつ眠ればいい?

さて、前回の続きだ。少なくとも今の日本では、スリに会うってうこと自体があんまりないよね。

俺はいつも仕事の際に、ノースフェイスのヒューズボックス(ほら、高校生とか若い子がみんなしょってる長方形のリュックだよ)のチャックを面倒くさくて開けたまま歩いてるけど、中のものが取られたことは一度もないよ。

そもそもからして、中にはそんなに大事なものも入っていないがね。誰が必要にしてるのかわからないような書類とノートパソコンくらいさ。

京都で仕事をしていた時には、観光で来ている善良な外国人に注意されることしばしばだった。彼らは血相変えて注意してくるんだ。その度に、俺は笑ってこういったものさ。

サンキュー、ノープロブレムだ。日本は平和なんだ。

それは世界の皆さんからすれば、本当に驚くことらしい。何より今の日本の「他者を信頼できる治安の良さ」を象徴する、これ以上ない生々しい実体験になることだろう。

バックパックのチャックを開けたまま歩いていても、中身が無事というのは、海外の主要都市(特にスリが横行するヨーロッパの観光地や、アメリカの地下鉄など)の感覚からすると、「奇跡」を通り越して「都市伝説」と言われるレベルの安全さらしい。大袈裟なと呆れるが、それがグローバルスタンダードだ。世界の定説だ。

つまり、「油断して歩ける」という究極の贅沢なんだ。

世界の大方の国では、カバンのチャックを閉めて前に抱え、手で押さえて歩くのが「最低限のマナーというか自衛」とされている。

チャックが開いているバッグというのは、泥棒からすれば「どうぞ盗んでください」というサインでしかないんだそうだ。じゃあ、チャックの空いてるズボンは?(笑)

ほんの数秒、スマホに目を落とした隙や、後ろからすれ違った瞬間に、財布や貴重品は綺麗に消え去ってしまうだろう。

それに対して、日本社会では「他人のカバンが開いていても、誰も盗もうとしない(むしろ『開いてますよ』と教えてくれる親切さがある)」という、凄まじく高いレベルの「相互信頼(ソーシャルキャピタル)」が機能している。それどころか、誰も彼もがスマートフォンを見つめながら歩いている。

これがアメリカだったら、あっという間にノックアウトされて身ぐるみ剥がされることもあり得るんだ。ウルトラアリエールだ。

さて、ここで考えておきたいのが「盗まれない社会」を維持するコストだ。

日本でスリや置き引きが劇的に少ないのは、もちろん警察の優秀さもあるだろう。が、何よりも「わざわざ他人のものを盗む必要がないという社会のポテンシャルがあり、あるいは『盗むのは恥ずべきことだ』という高い規範意識が全員に共有されているからなんだ

そう、これこそ前回君たちと話し合った豊臣秀吉の刀狩りから始まり、江戸時代の朱子学によって「己を律する」ことを骨の髄まで叩き込まれてきた、歴史の地続きにあるリアリティそのものなんだ。

中国のように、お上がカメラで24時間監視しなくても、市民が「お天道様が見ている」「他人に迷惑をかけてはいけない」という内面的なブレーキを持っているからこそ、俺のノースフェイスのバッグの中身は守られているわけさ。

そして、ここに現実の重みを知らない人々との決定的な断絶がある。フォッサマグナみたいな断絶だ、

もし、海外の「ポリコレの皆さん」が俺のノースフェイスのバックパックのはなしを聞いたら、十中八九「いくらなんでもそりゃ嘘だ、そんな社会があるわけないだろ」と否定するか、「それは単一民族的で閉鎖的な特権社会だから成立しているんだ」といった、別のいちゃもんをつけてくるかもしれない。

しかし、彼らがどう言おうと、「チャックを開けたまま歩いても何も盗まれない」というのは、俺が今生きている日本の「紛れもない現実」なんだ。

なにしろ今日も全開だったしな。

この卑近で平穏な現実のありがたみを知っているからこそ、俺たちは「現実を無視した綺麗な空言」の胡散臭さにすぐ気づくこともできる。

そして日本のアニメが描く「何気ない、普通の高校生たちの日常」に、何百年もの歴史が紡いできた本物のリアリティと価値を感じることができるんだ。

もっと話を掘り下げてみよう。

右派の皆さんがなにを言おうが、既に日本社会は多様な民族構成で成り立ってる。息子の小学校にも、ムスリムの子、日系ブラジル人の子、お母さんがトルコ人と再婚し、ハーフの弟のいる子がいる。

だけど、日本に来た日系ブラジル人やトルコ人、イラク人とかネパール人、タイやミャンマーやフィリピン人とかベトナム人とか、とにかく世界の皆さんは、まぁはじめのうちは、文化の違い(あって当然だ。なきゃ面白くないだろ!)からくる多少のトラブルはある。あったとしても、しかし急速に日本人の文化に馴染んでいく。

そして、それが当たり前だと思えるようになってくんだよね。そしてついには本国に帰りたくないと思うようになるのさ。だってここは、お花畑だからな。

こいつは移民や多文化共生をめぐる議論において、非常に本質的で、現場のリアリティに根ざしたどえりゃあ重要な現実なんだ。

だいたい移民てのは、フランスのように同化を強いられるか、移民集団として社会の1階層を作って隔離されるかだ。いずれにせよ、そこには軋轢と葛藤、排除と衝突がある。

欧米の批評家の一部は「日本の治安の良さは単一民族的(排他的)だから維持できている特権だ」と片付けたがる傾向があるようだ。

しかし、現実は違う。

日系ブラジル人、イラク人、ネパール人、ベトナム人、トルコ人など、異なる文化的背景を持つ人々であっても、日本で暮らすうちに「日本の安全や快適さというリアリティ」を当たり前として受け入れ、その文化に急速に馴染んでいくというのは、日本各地の移民コミュニティで実際に起きている強力な現象だ。

特に「子どもはもう本国に戻せない」という親世代の切実な実感には、日本の社会システムが持つ圧倒的な「包摂力(インクルージョン)」が現れていると見ることができるだろう。なぜ?

まず第一に、「安全と平穏」という、人間にとって本能的な心地よさがあるだろう。

秀吉や家康、綱吉たちが長い歴史をかけて作った「銃がなく、夜中に歩けて、カバンのチャックを開けていても盗まれない社会」の快適さは、人種や国籍に関係なく、すべての人間にとって本能的に「圧倒的に心地よいもの」のはずだ。しかも、言いたいことを言っても、秘密警察にパクられたりすることもない。どこに行ってもAIカメラで監視されてることもない。黒人だからという理由で、拘束されたりすることもない。

本国では常に張り詰めていなければならなかった「防犯の緊張感」から解放され、肩の力を抜いて生きられる心地よさを一度知ってしまうと、人間はわざわざ過酷な環境へと戻りたくなくなるというものだ。

ゴミ問題や宗教慣習上のトラブルや言語の壁があっても、「ここなら命の危険がなく、普通に働いて、普通に暮らせる」という事実は、誰にとっても何よりも強力な日本の魅力なんだ。

そして「子どもを本国に戻せない」という親のリアリティ。

特に日本で生まれ育った外国籍の「子ども世代」にとって、日本のリアリティはそのまま彼らの「日常(アイデンティティ)」になる。

まずは治安のギャップがあるだろう。日本の学校に通い、友達と放課後にのんびり遊び、夜にコンビニに行くのが「普通」になった子どもにとって、銃社会や強盗・スリが日常にある本国の治安環境は、あまりにも危険で適応が難しくなるというもんさ。

そして教育環境と将来設計だ。まず、学校に銃がない、いや、街を歩く誰もが、まず銃を持っていない。

たとえいじめがあっても命の奪い合いにまでは発展しない、とは言わないが、必ずリンチを食らうわけでもない。教育、医療、交通、上下水道などのインフラが整っているという環境は、親からすれば「子どもを安全に育てられる唯一無二の場所」に映るのかもしれない。だからこそ、親たちは「もう本国には戻せない、ここで生きていこう」と決意することになるのさ。

そしてなにより、日本の「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の強力な同化作用だ。

日本の文化や地域社会には、新しく入ってきた人々を、お説教やポリコレのルールで縛るのではなく、「日々の生活のルール(ゴミ出し、挨拶、マナー)」を通じて、じわじわと日本のリアリティの中に巻き込んでいく独自の同化力がある。ちゃんと挨拶して、ゴミ出しのルールを守れば(日本人でも、守れないやつはゴマンといるさ)、コミュニティに受け入れられる。黒人でも、ムスリムでもだ。

さっきも少し触れたけど、欧米の「多文化主義」てのは、耳には気持ちよく響くけれど、実質は人種ごとにコミュニティを完全に分断(セグリゲーション)させることが多い。結果として治安の悪いスラム(ゲットー)を生み、いつどんなきっかけで暴動が起こるのか、毎日が黒ひげ危機一発状態だ。

一方で日本は、地域社会(自治会や学校など)が「日本の普通の暮らしのルール」を共有することを求めるため、最初は衝突やトラブル(文化摩擦)があっても、次第に外国人住民も「ルールを守る側=日本の日常を維持する側」へと変わっていくという、奇妙な、それでいてプラグマティックな包摂システムがあるように見受けられるのさ。

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海外のポリコレ活動家たちは、日本のアニメに「黒人やラテン系を入れろ」と要求しているようだけど、知らんがな。彼らは「多様な人々が、日本の平穏なリアリティ(ルール)に自ら進んで馴染み、その日常の守り手になっている」という、日本の草の根のリアルな共生など見えてないんだ。

確かに日本もいじめはあるし、差別だってないとは言わない。だけど、これって圧倒的に社会のレベルが高いんじゃないかっていう気がするんだよね。

俺は今まで、いろんなところ、まあ、ユーラシアのエッサウィラから台湾までずっといろんなところを回ったけど、うーん、これに匹敵できるのは台湾ぐらいかなっていう感じだよ。

なぁ、日本社会はほんとうに没落してるのか?

俺たちは惨めな生を空費しているのか?

違うだろ?どうにも腑に落ちないぜ。

なにはともあれ、技術も社会システムも、失われたら二度とはもどならいんだ。