2026/08/21

POST#1945 目を背けてはいけない

 








 

かつて、旅先でのある朝、妻子が眠っている間に早朝の熱帯の町を散策した。

共産党の旗の鎌を思わせる、ヤシの実ナイフ。

切り取られたヤシの実の房。

生々しく原形を留めたニワトリの肉、つまり死骸。

そして、排水溝に朽ちかけた猫の死骸。

それは、けっして世の人々の目を惹くものでもなく、視覚的に素晴らしい感銘や驚きを与えるようなものでもない。

けれど、生きていくうえで、自分が生きているという実感の地平から、これらの対象に視線を注ぎ、目をそらすことができない。


世界は美しくない。故に、美しい。

世界は残酷だからこそ故に、どこまでも優しい。


目の前の世界から、片時も目をそらしてはいけない。

2026/08/20

POST#1944 なぜ、眠らないと運転が荒くなるのか?



包丁か、鉈か。
朝まで働いて、家にたどり着いた車の中で小一時間眠ってしまった。
陽はとうに昇り、車内の温度は耐えがたいものになり、吹き出す汗の気持ち悪さに目が覚める。
起きてきた子供や女房の話を聞きながら話をしながら、モソモソと食い物を腹に詰め込む。
話は右から左に抜けていく。俺は眠いのさ。眠くてたまらないんだ、

例によって飯を食った後仕事の写真の整理をする。 これをフォルダーにまとめて クライアントに 毎日送るのさ。 俺のクライアントが現場に来ていなくても、現場の状況が手に取るように分かるようにするんだ。
おかげさまで多い時は、一晩に100枚くらい写真を撮るんだ。実は俺の 写真 趣味 っていうのは 現場の写真を撮ってるうちに 面白そうだなと思って 始めてみたものなのさ。 そうあれは長野オリンピックの頃だった。 二度ともう来ることのないだろう 長野の田舎の神社とか 飲み屋街の写真とかを映るんです を買って撮ったりしてたんだ。そっからが始まりだね。

だから俺の現場写真にはどこか君たちにいつもお見せしてるような写真のエッセンスが入ってる。 それが果たして クライアントにとって 見やすいものなのかどうなのかよくわからない。 ま クレームもないからいいけどね。

写真整理をして Google ドライブにアップしたいメールを作ったところでフローリングの床に伸びて眠ってしまった そりゃまあ そうだろう。 俺だって人間だ。そんなこともあるさ。

椎間板の 縮んでしまっている 疲れ切った体には フローリングの硬い床が心地よかったりするんだ。 しかし そんな眠りはすぐに電話のベルで起こされた。

現場で不具合があったからって言うんですぐに現場に行って対応しろって言うんだ。 あまりに酷だぜ。
まさにどっかの首相が『働いて働いて働いて働いて働いてまいります』とか言ってたけど、責任ある仕事をやってる小市民はとっくに働いて働いて働いて働いて働いて倒れるまでやり抜いて、倒れたら這ってでもやるのさ。

少なくとも俺は自分の先輩からはそうやって叩き込まれてきたね。 まる 今の若者とは生きてきた時代が違うってことだ。 決して嬉しいわけじゃないけどね。

しかし 睡眠不足で高速をぶっ飛ばしていくとどうしてあんなに運転が荒くなったり スピードが出ちゃったりするんだろうな〜。
全く こんなことやってちゃ命がいくつあっても足らないよ。

え、今夜?もちろん仕事だよ。
寝てないアピールは高市総理だけの専売特許じゃないのさ。


ちなみにこの鉈だか 包丁だかよくわからんような 刃物。
バリ島のその辺の町並みの朝 散歩してる時にとったものなんだけどきっと 鶏だか ドリアンだかをかち割ったりするんだろうな。手ズレしたグリップや、研がれていないのに、使うところだけ鈍く光る刃先に、写っていない持ち主の身体性が宿る。写真はイマジネーションへの入口であるべきで、けっして百聞は一見にしかず的な、わかり易いモノであるべきではないんだ。
自分の世界への視力を一段上げる踏み台のような写真。
好きだな。

こういう 全く映えない写真が 俺は好きだ。

2026/08/19

POST#1943 今日も疲労困憊した睡魔の中で君に送ろう

Bremen,GERMANY
肖像権という考え方が一般的になってきた。

この15年くらいの間だ。社会が多様性とか、共生とか言い出したころから、歩調を合わせるようにね。コンプライアンスとかハラスメントとか、日本語としてこなれていない言葉が、生活の中に土足で踏み込んできた。

その間に世の中では、多様性といいながら、共生といいながら、普通という閾値は狭くなった。行動のストライクゾーンが狭くなった。生きていくことが形苦しく息苦しくなった。普通というカテゴリーに押し込められ、そこから逸脱すれば、社会的に排除されるようになった。みんな同じような行動や思考のストライクゾーンの中での多様性や共生だったように感じる。

かつては、ストリートスナップは、ヌードと並んで写真の王道だとされていた。

しかし、今ではヌードは女性の生を商品化していると批判され、社会からほぼ排斥された。

ストリートスナップはSNSの隆盛と反比例するように、肖像権が叫ばれ、写真の中で記号として存在しているだけの人々が、異議申し立てをするようになった。

さらば荒木経惟。さらば森山大道。写真よさようなら。

このような写真は、もう今ではとることは憚られるようになった。犯罪者扱いされるのは御免被る。その一方で、災害が起これば、或いはロシアやイスラエルやアメリカの軍事攻撃では、死者○○人と単なる記号で処理される。

街を歩けば、あっちにもこっちにも24時間監視カメラが、俺たちの顔を写し取っている。誰も気にしない。誰かがモニターで、その挙動を見つめているというのに。それには無自覚だ。むしろ、管理され、守られていると安心していられると思っているかのようだ。

しかし、剥き出しの暴力性や身体性の前では、監視カメラは単なる監視カメラだ。ボブ・ディランの”All along The Watchtower"だ。くそ、どこかに抜け道があるはずじゃないのか?

俺はいつも街中で、そんなカメラを見つけると、ぐいと顔を上げ、レンズを睨めつけるように歩くことにしている。

俺は、従順な家畜じゃない。不埒なおっさんでいたいんだ。