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| ベトナム阮朝の旧都フエ 路傍に花が。 |
この糞みたいな人生の中で、クソの山ほど本を読んできた。そしてまだまだそれは積みあがってる。床が抜けるのは時間の問題だ。実は、11月に自分の本が満載の部屋のフローリングの工事があるんだが、この工事のために、千冊を優に超える大小さまざまな本を整理して他の部屋に避難させなけりゃならない。考えただけでうんざりするぜ。
そうまでして、俺はいったい何が知りたいというのだろう。
一つには、俺がこの世界に生きている意味を知りたい。
そして、俺が生きているこのクソ人間社会の構造を知りたいんだ。
「人間社会の構造」という壁は、いつも言っている『知のパルクール』にとって最高に登りがいのある、巨大で複雑なダンジョンだ。
この領域に挑むとき、あらかじめ用意された「資本主義」「民主主義」「国家」といった教科書通りのタテマエというか、お利口さんが敷設し、しっかりと舗装し、はみ出さないようにガードレールや縁石、センターラインまで完備した既成のルートをお行儀よくなぞるだけでは、社会というダンジョンの最深部には到底たどり着けないんだ。
クリシェにからめとられておしまいさ。
俺たちが普段、確固として存在し、厳然と社会に聳え立っている『実存』そのものに見える制度が実は俺たち自身が生み出した『幻想』であることを看破し、単なる『記号』として疑い、その裏でうごめく人間の身体性と、経済活動の中に交差する贈与と負債のダイナミックな力線を読み取り。そして俺たちを巧妙にシステムの中に封じ込め、隷属させる『権力』の発生システムといった剥き出しの骨組みへ直接飛び移るんだ。
縦横無尽の脳内パルクールが必要だ。
例えば、俺が挑む『知のパルクール』の前には、クソ強固な壁として、こんな構造的なアプローチがあることだろう。ご苦労なこった。
例えば、国家や貨幣という共同幻想のバグ。
本来は人間を保護するために生み出されたはずの法やシステムが、いつの間にか肥大化し、逆に生身の人間を「記号」や「部品(つまりブルシット・ジョブや使い捨ての労働力)」として搾取し始めるクソ構造。
例えば、非線形な社会の進化。
ヘーゲル史観に基づくような西洋的な「未開から文明へ」という単線的な進歩史観の嘘を見抜き、気候や家族構造によって社会はフラクタル(曼荼羅)のように多様に分裂生成(スキゾジェネシス)していくという野生のダイナミズム。これは吉本隆明から受け取った宿題だ。
俺たちが日々汗を流し、冷や汗をかき四苦八苦している実体経済とほおっておくだけで価値が増殖する金融資本主義の乖離
地に足のついた身体的な労働やコミュニティの倫理(イスラーム金融の利子=リバの否定や、かつての近江商人の哲学)が、実体のないデジタルな数字のゲームによって侵食され、経済的なエントロピーが増大していく危うさ。つまり、実体と乖離したバブルがどんどん大きく膨らんでいく恐怖の構造だ。いつジェンガみたいに大崩壊してもおかしくないんだぜ。
それらをすべて掴み取ろうとするためには、様々な分野の知見を脳内にぎゅうぎゅう詰め込むことが必要だ。人類学、経済学、歴史学、宗教学、人口学、社会学、哲学、文学、サブカルチャー、様々な分野を横断して、異なる領域の考えをスーパーフラットに、縦横無尽に繋ぎ合わせていかないと、とってもじゃないけどこのクソダンジョンの深奥部にはたどり着けない。
何しろ、現代社会は最大出力で回る扇風機に糞がぶつかったみたいにひどいことになってるからな。
人間社会というあまりにも巨大な構造物の全体像を掴むには、どれか一つの学問という「既製のハシゴ」を登るだけでは絶対に不可能なんだ。それぞれの学問が自らのテリトリーを守るために築いた「専門性の壁」を、文字通り縦横無尽に飛び越えて繋ぎ合わせる必要があるんだ。
なぜなら、社会の骨組みはすべてがフラクタルに連動しているからなんだ。
俺の思考はどこに着地しようとしてるんだろう。
だから、俺が無謀にもあらゆるジャンルの専門書とかを読んだりするのは、その為なんだよね。譬えて言えば、群盲象を撫でるってのがあるだろう。その触感でしか世界を確かめ俯瞰することができないたくさんの目の不自由な方に、一人で群盲集合体になろうとしてるんだ。
「群盲象を撫でる」ってやつを、一人で群盲になろって全体像を把握しようとしてるってわけだ。――無謀極まるな。なかなかにパンチが効いてる表現だ。悪くないぜ。痛快だ。
本来の寓話が意味するところは、読者諸兄もご存じの通り、「それぞれの人間が象のパーツ(一部の専門性)しか触れず、全体を誤認する」という人間の限界=つまり愚かさというか専門性の壁を皮肉ったものだろう。
けど俺は、あらゆるジャンルを横断し連結することで、自分自身がいくつもの異なる「盲目の目」になり代わり、それぞれの視点から象のあらゆる部位を触りまくることで、その脳内に巨大な象の立体像、つまり人間社会の真の構造を一人で再構築しようとしているわけだ。
これこそが、あらゆる専門書を横断し、思考を繋ぎ合わせる読書の真意だったんだ。
とんでもない欲望だ。
一つの学問(たとえば経済学だけ、あるいは歴史学だけ)という「一本の細いハシゴ」に頼る人間は、自分が触っているのが「象の尻尾」や「象の足」に過ぎないことに気づけないだろう。そして、その隘路を極めて大家になることができるだろう。
しかし、それは木を見て森を見ずだ。
自分の実際の生活感覚に軸足を置きつつ、敢えて自らを異なる分野の「群盲」へと解体し、貪欲に本を読み漁ることで、既存のアルゴリズムや均一化された社会のシステムが絶対に見せようとしない「社会の本質的な手触り」を掴み取ろうとしているのさ。
我ながら、ご苦労なこった。
そんなことしたって、いったい何になるってのさ。女の子にちやほやされるわけでもないしな。単なる自己満足じゃないか。まぁ、俺の人生だから、好きにやらせてもらうさ。
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