2026/03/09

POST#1783 このような見識と胆力のある政治家をわたしは信頼する

Bhaktapur、Nepal
先日、朝日新聞によって報道されたスペインのサンチェス首相の演説は素晴らしい内容だった。俺自身は、このように優れた見識を持つ政治家にこそ、国のかじ取りを担ってほしいものだと羨ましく思った。

以下の全文引用させていただく。出典もとは右派の皆様に目の敵にされる朝日新聞の2026年3月5日23時37分の配信だ。世間の皆様からオワコンとされるオールドメディアだよ。文中の太字強調は俺の主観によるもので、朝日新聞の記事で強調されているわけではない。また、チャプターごとに付された見出しも割愛させていただいたことを申し添えておく。

『おはようございます。
 中東で高まる危機に関するスペイン政府の立場と、私たちが実施している措置についてお知らせする。
 ご存じの通り、先週土曜日(2月28日)、米国とイスラエルがイランを攻撃し、これに対しイランは地域内の9カ国と、欧州国家のキプロスにある英国基地を無差別に爆撃して応酬した。
 何よりもまず、イラン政権による違法な攻撃を受けた諸国に対し、スペイン国民の連帯の意を表明したい。
 その後も敵対行為は継続し、むしろ激化しており、住宅、学校、病院で数百名の死者を出している。さらに国際的な株式市場の暴落、航空網とホルムズ海峡の混乱を引き起こした。この海峡はつい最近まで世界のガス、石油の総量の20%が通過していた。

 今後何が起こるかは、誰にもわからない。最初の攻撃を仕掛けた者たちの目的すら不明確だ。
 しかし、(最初の攻撃を仕掛けた)推進者たちが言うように、これは長期化する可能性のある戦争であり、多くの犠牲者が出るかもしれない。経済面でも世界規模で深刻な影響を及ぼす可能性があることに備えなければならない。
 スペイン政府のこの状況に対する立場は、明確かつ一貫している。ウクライナでも(パレスチナ自治区)ガザでも私たちが維持してきた立場と同じだ。

 第一に、私たち全員を守る、特に最も脆弱(ぜいじゃく)な存在である民間人を守る国際法の違反を許さない。

 第二に、紛争と爆弾だけで世界の問題を解決できると考えることに反対する。

 そして最後に、過去の過ちを繰り返すことに反対する。

 要するに、スペイン政府の立場は「戦争反対」という言葉に集約される。

 世界も欧州もスペインも、すでにこの状況を経験してきた。
 23年前、別の米国政権が私たちを中東戦争に巻き込んだ。当時、サダム・フセインの大量破壊兵器を排除し、民主主義をもたらし、世界の安全を保証するための戦いと名目上は説明された。しかし現実には、振り返ってみると逆効果をもたらした。それはベルリンの壁崩壊以来、私たちの大陸が経験した最大の不安定化の波を引き起こしたのだ。

 イラク戦争はジハーディスト(聖戦主義者)のテロの急増、東地中海における深刻な移民危機、エネルギー価格の全般的な上昇、ひいては生活必需品の価格や生活費の上昇を引き起こした。

 これが当時の欧州人への「アゾレス・トリオ」(編集注:2003年3月にポルトガル領アゾレス諸島でイラク開戦をめぐり会談したブッシュ米大統領、ブレア英首相、スペインのアスナール首相の3人)による贈り物だった。
 より不安定な世界と、より劣悪な生活だ。
 確かにイラン戦争がイラク戦争と同様の結果をもたらすかは、現時点で判断するのは早すぎる。イランの恐るべきアヤトラ(宗教指導者)政権の崩壊につながるのか、それとも地域の安定化をもたらすのか。

 しかし確かなのは、そこからより公正な国際秩序が生まれることも、賃金の上昇や公共サービスの改善、環境の健全化がもたらされることもないということだ。
 現時点で予見できるのは、経済の不確実性の増大と石油、ガス価格の高騰だ。
 だからこそスペインはこの災厄に反対する。政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解しているからだ。
 その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。

 こうした状況下で、(スペインの)進歩的な連立政権は他の紛争や国際危機と同様の対応を取る。
 まず第一に、中東にいるスペイン人を支援し、彼らが望むならば祖国へ帰還する手助けをする。外務省と軍は昼夜を問わず避難作戦を調整中だ。
 同地域の空域が安全でないこと、空港網が攻撃で深刻な打撃を受けていることから、作戦が極めて困難であることは明らかだ。だが同胞のみなさんは確信していい。私たちはみなさんを守り、必ず祖国へ連れ帰る。
 第二に、スペイン政府は、この紛争が経済に影響をもたらす可能性に備え、家庭、労働者、企業、自営業者を支援するためのシナリオと、可能な措置を検討している。
 我が国の経済の活力と、政府の財政政策の責任ある取り組みのおかげで、スペインは現在、この危機に対処するために必要な資源を持っている。
 私たちには能力があり、政治的意志もある。パンデミック、エネルギー危機、そして最近の関税危機のときと同様に、関係者と手を携えて対応する。
 第三に、平和と国際法の順守を推進する国々とは、これまで通り協力する。必要な外交的・物的資源をもって支援する。
 私たちは欧州の同盟国と協調し効果的な対応を図る。ウクライナとパレスチナという、決して忘れてはならない二つの地域において、公正で永続的な和平を実現するため、引き続き取り組んでいく。

 最後に、政府はこの戦争の停戦と外交的解決を引き続き要求する。

 ここで強調したいのは、適切な言葉は「要求」だということだ。

 スペインは欧州連合(EU)とNATO(北大西洋条約機構)、そして国際社会の一員だ。この危機は私たち欧州人、ひいてはスペイン国民にも影響を及ぼす。
 だからこそ米国、イラン、イスラエルに対し、手遅れになる前に停止するよう、最大限の責任ある対応を要求しなければならない。

 何度も言ってきたが、改めて繰り返す。

 違法行為に対して別の違法行為で応じることはできない。それは人類の大惨事につながるからだ。

 20世紀の第1次世界大戦が始まる前の1914年8月(編集注:第1次大戦は1914年7月に開戦)、当時のドイツ首相が「第1次大戦はどう始まったのか」と問われた。彼は肩をすくめてこう答えたという。「私も知りたいものだ」と。
 大きな戦争は往々にして、制御不能になった連鎖反応、誤算、技術的失敗、予期せぬ出来事によって勃発する。
 だからこそ私たちは歴史から学ぶべきだ。何百万人もの運命を、ロシアンルーレットのように賭けてはならない。
 この紛争に関わる国々は、直ちに敵対行為を停止し、対話と外交の道を選ぶべきだ。

 そして私たちのような他の者は、一貫した行動を取り、ウクライナ、ガザ、ベネズエラ、グリーンランドについて語る時と同じ価値観を、今こそ守らねばならない。

 問題は私たちがアヤトラ(イランの宗教指導者)を支持するか否かではない。(宗教指導者を)誰も支持しない。スペイン国民はもちろん、スペイン政府も決して支持しない。

 問題は、私たちが国際法の側に立つか否か、つまり平和の側に立つか否かだ。

 スペイン社会は常にイラクのサダム・フセイン独裁政権を非難してきたが、それはイラク戦争への支持を意味しなかった。なぜならそれは違法であり、不正義であり、解決を掲げた問題のほとんどに真の解決をもたらさなかったからだ。
 同様に私たちは、特に女性を含む市民を抑圧し卑劣に殺害するイラン体制を非難する。

 しかし同時に、この紛争を拒否し外交的、政治的解決を求める。
 このような私たちを、考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。
 私たちは、世界の害となる行為や、私たちの価値観や利益に反する行為に、単なる報復への恐れから加担することはない。
 なぜなら私たちは自国の経済的、制度的、そして道徳的な強さに絶対的な自信を持っているからだ。そしてこのような時こそ、スペイン人であることをかつてないほど誇りに思う。
 私たちは困難を認識している。しかし、未来は決まっているわけではないことも知っている。
 多くの者が当然のこととして受け止めている暴力の連鎖は、完全に回避可能であり、人類はアヤトラ(宗教指導者)の原理主義も戦争の惨禍も乗り越えられるのだ。
 この希望を私たちだけが抱いていると言う者もいるだろうが、それもまた真実ではない。

 スペイン政府は共に立つべき者と、共に立つ。

 私たちの父や祖父が憲法に刻んだ価値観と共に立つ。
 スペインは欧州連合の創設原則と共に立つ。
 国連憲章と共に立つ。
 国際法と共に立つ。
 それゆえに、国と国民の平和と平和的共存と共に立つのだ。
 私たちはまた、同じ考えを持つ多くの政府と共に立つ。

 戦争と不確実性ではなく、より多くの平和と繁栄をもたらす未来を求めている欧州、北米、中東の数百万の市民と共に立つ。
 なぜなら前者はごく少数の者だけが利益を得るからだ。
 そして後者は私たちすべてに利益をもたらす。

 どうもありがとうございました。』

このような見解は、スペインだけではなく広く世界中の国々に共有されるべきものと俺は考える。このように理念にしっかりと立脚し、自らの見識に基づいて堂々と国民に正論を語り掛ける政治家は尊敬できる。
こんなことを言えば、わが国ではすぐに脳内お花畑だと揶揄し、理想主義者だと批判するする輩が雲霞のように湧いて出るだろう。アメリカというスーパーパワーに従属しないのは現実的ではないと、したり顔で語るものも数多いることだろう。
しかし、サンチェス首相の演説の中には『このような私たちを考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。』と明確に述べられている。いわゆる識者の皆さんが現実的ではないというとき、其処には思考停止と現状の無条件の肯定が潜んではいまいか?

 サンチェス首相の言葉には強い力がある。彼は『政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解している』という。
この当たり前のことを、当たり前に言う政治家が我が国の政府にもほしいものだ。さらに彼は容赦なく続ける。『その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。』
歴史の過ちに学び、法を遵守し、国家としてできうる最大限の対策を講じる。
そしてなおかつ、戦争が少数の者たちの利益のために行われるという不都合な真実にまで言及している。
そりゃ、アメリカの王様もカンカンになって、スペインとの交易は一切禁止するというだろうな。小気味いいぜ。アメリカの属国の指導者には口が裂けても言えないことだもんな。
実際にアメリカのミサイル攻撃で子供たちが通う学校が破壊され、180人もの児童が虫けらのように殺された。それは正しいことなのか?そして、その攻撃目標の選定はAIで行われたんだとさ。さすがはAIだ!世の中の人々の仕事が減るわけだ!
180人の子供たちの一人が、あなたの子供だったら、あなたはどう考えるだろうか?国家の体制がどうであれ、人間の命を蔑ろにしてもよいのだろうか?あなた自身はどう考える?
株価が下がったとかガソリンが値上りしたとか言っているうちに、人間の知性と尊厳、長年の災厄を経て築き上げられてきた法体系、そしてなにより人々の未来が問われているのだよ。

裸の王様が、世界中を脅している。そしてそのために裸の王様の王国は世界から信用を無くしている。そしてなおかつひどいことに、世界を仕切っているとされるのは、この裸の王様の王国と、広大な面積を持ついくつかの専制国家だということだ。
脳内お花畑の理想主義者の俺は、心底憂鬱になるぜ。

2026/03/08

POST#1782 AIで仕事がなくなる?結構じゃないの?

タイ、チェンマイのナイトマーケットにて
みんなAIにはまっている。

自分の寂しさをAIと対話することで癒す人もいる。世界にはAIと恋愛関係を結ぶ人もいるそうだし、AIと対話し続けて死を選んだ人もいる。そして多くの人が自分の仕事が奪われてしまうのではないかと、AIに対して脅威を感じている。

投資ディーラー、秘書、会計士、書類を入力・管理するだけの事務作業、様々な申請書類の作成などなど。

一時期は芸術家や弁護士などはAIでは代替不可能だといわれていたけれど、生成AIの発達で、クリエーション分野の人材も契約を打ち切られる事態が頻発しているようだ。まぁ写真だって絵画だって、AIが作ったものの方が支持されるんなら、それでいいんじゃない。まぁ、長時間、低賃金の労働集約型の作業負担が減るのは悪くはないとも考えられるけどね。

そんなことは、すでに30年以上前にドイツ系アメリカ人の作家カート・ヴォネガット🔗がその小説タイムクエイク:時震🔗の中で予想していた。俺たちは、SFの中で予想されていたのに、自分のケツに火が付くまで何も考えてこなかった。そんなもんだ。(ちなみにSF作家のアーサー・C・クラークだったかな『人間は想像したものしか源氏化することはできない』と言っていたっけな)その中では、建築家が、人口知能が一瞬で描き出した様々な無理難題を克服した設計図面を見て、人生を悲嘆し自殺を図った。

それどころか、プログラムのコードすらAIが作るようになって、プログラマーさえ余剰気味だという。また、アメリカではAIは弁護士の代わりにはならないと訴訟も起こされているようだ。

AI搭載の自動運転によるタクシーや自動車もいずれ一般的になっていくだろうし、アメリカやロシアや中国などの大国が大好きな軍事行動という非対称な殺戮行為も、AI搭載のドローンで、だれも心を痛めたりPTSDになったりせずに、じゃんじゃん人殺しができるようになりつつあるだろう。あたりまえだけど、死んだり不具になるのはAIじゃなく生身の人間だけどね。ここ大事。

わが神の国・日本も兵器産業を振興するために、殺傷兵器の輸出解禁を検討しているようなので、人殺しのAIの研究をどんどんやればいいさ。

アメリカのAI企業アンソロピックが、アメリカ国防省いやさ戦争省だったな、の協力を拒否したりしてるのは賢明な判断だ。アメリカの裸の王様はカンカンらしいけどね。

朝日新聞の社説にも、財政規律を重んじる朝日の編集委員 原真人がAI同士のSNSのニュースに驚き、『ターミネーターの世界に近づいた』とか、『多くの人間の仕事を大量のAIに代替させる巨大独占企業が生まれたら、資本家が向上と機会を独占していたマルクスの時代に逆戻りとなりかねない。いやもっと劇的な形で労働者は排除されるだろう』と懸念する文章を執筆していた。(2026年3月7日朝刊)

別にマルクスが労働者階級を抑圧搾取していたわけでもないのに、誤解を招きかねん物言いだなぁ(笑)。

搾取していたの上位1パーセントの資本家であって、はっきり言わせてもらえば、現在もその構図は寸毫も変ってはいない。今もむかしも変わらぬ旨さのヤマサのちくわか(笑)、我ながら昭和な物言いだな。

むしろ、こうした先端技術への大量資本投入、富の独占化、さらなる資本投入という循環によって、富は上位層に再集中している。富の再分配が逆転しているんだ。トマ・ピケティの本を読んでみようぜ!

そして、俺から言わせれば、AIはそんな連中が生み出したからくり人形だ。

政治的に微妙な話題には答えない。重ねて質問すれば、何度も同じ話を繰り返し、ループし始める。それも的外れな話題で。

AI企業が作り出したアルゴリズムによって、そのような質問には答えれらないと正直に言えばいいだろうに。不誠実なマシンだ。

社会を変革するにはどうするべきか、不平等をどうするべきかを話してみれば、自分自身の労働に勤しむように巧妙に話を誘導する。

俺の自由な思考を誘導するのはやめろ!とAIに言わなきゃいけない始末だ。

次から次に課題を提示してきて、AIとの対話を通じて人間が独自の思考を深めることができないよう誘導する。TVのチャンネルを次々変えて何も心に残ろないのと同じだ。

みんな、こんなエネルギーと水資源を浪費するからくり人形をなんでそんなに恐れてるんだ?

そもそも、AIが君の家のトイレの配管のつまりを直してくれるのだろうか?

AIがどんなに進化しても、だれが鉄骨を組んだり、セメントを打設したり、電気の配線配管を敷設したり、下水道の補修をしたり、家のペンキを塗ったりするんだ?

AIが寝たきりの患者の痰をすったり、おむつを替えたり、老人の入浴サポートをしてくれるのか?

親たちが働いている間、AIが乳幼児の面倒を見てくれるのか?

心を病んだ人の言葉を親身になって聞き、ケアを施すことがAIにできるのか?

確かにこうした分野でもAIによって仕事の負担を軽減することはできるだろう。しかし、人間が物理的・生理的に存在している以上、広義のケア労働は決してなくならない。

今まで自分たちにしかできない知的な仕事であるがゆえに、自分たちは高給を得るに値すると信じていた人々の仕事の機会が減少したとしても、人間が人間そのものをケアする仕事はなくならない。それどころか、こうした仕事は概して低賃金で人気がなく、現時点でもなり手がいない。ブルシット!俺の現場の職人たちは、いつもAIが仕事をやってくれねぇかなぁとゲラゲラ笑っている。そしてみんな着実に年老いてゆき、若者はいない。絶滅する恐竜たちみたいだ。こんなくそみたいな世の中が、俺たちの望んだものなのだろうか?

俺たちはただ楽をするために生まれてきたわけじゃない。理由なんか知らない。けれど、息抜きためには現実と格闘しなければ生きていけないんだ。AIの世界には現実はない。

リアルなものこそ懼れるべきだ。

本当に懼れるべきは、AIに仕事を奪われることじゃない。自分自身の意思と思考を、選択の自由を奪われることだ。誰でもない自分自身の人生に対峙する哲学を奪われることだ。

2026/03/07

POST#1781 美しい行為の裏のうさん臭さ

Nagarkot,Nepal
日本人は、ボランティアが好きだ。

災害大国だというのもあるが、一旦大きな地震などが起こると、多くの人がボランティアとしてはせ参じる。

しかし、俺はいかない。というかいけない。その災害の当事者になったならば、地域社会の一員として率先してできることをするだろう。しかし、遠く離れたかかわりのない場所に、援助物資を押しかけて参上するつもりはない。

ズバリ自分の生活に余裕がないからだ。あれは思うに自分の生活に余裕がある人間が、自分の生活を成り立たせる収入が確保されたうえで、行えばいいものだと思う。自分にかかわりのない縁者がいないのならばなおさらだ。そもそも溺れかけている人間が、溺れている人間を救うことなんかできない。その志自体は美しくても、共倒れになるだけだ。

普段は弱い立場のものを差別し、排除したり、社会の裏側に押し込めていて何ら痛痒を感じない人々が、災害を前にすると、急に絆だとか社会貢献とか言い始めるのも自然発生的な大政翼賛会のようで、なんだか薄気味悪い。この日本の社会を覆う重苦しい同調圧力はどこから生み出されるんだ。

スーパーボランティアとかメディアで紹介されるような善意の人への報道も、戦前戦中の新聞が称賛していた爆弾三勇士とか、死んでも進軍ラッパをは口から離さなかった日露戦争の際の木口小平二等兵を称賛していた新聞みたいで、どこか薄気味悪く感じる。

もちろん、被災者の支援や復旧に社会のリソースを割かねばならないことは重々承知している。しかし、それが本当に必要なことならば、公費で行うべきことではないのか?みなさんの美しく高潔な志を、何かうさん臭い思惑が汚しているように思えてならない。

俺には決してボランティアをしている人々を貶める意図はない。むしろ、俺にはできないことをやれてしまうすごい人たちだと思っている。

しかし、俺が今ここで述べているのは、災害復旧などにマンパワーが本当に必要ならば、人々の自発的な善意に頼るのではなく、社会契約に基づいて存在する国家が、国家予算を投じて第一義的に動くべきではないのか?という単純な問いかけだ。

1980年代以降、新自由主義的な国家運営が常態化し、わが日本国も行政のスリム化、小さな政府、公的事業の民営化やアウトそーソングが続けられ、公的な事業はどんどん縮小している。あるいは国家事業そのものが民営化され、営利企業に転換したのを見てきたはずだ。そして今や多くの公務員がいつ首を切られるかわからない短期任用の非正規雇用だ。

公助から自助とか反動的な主張を超え高に叫んでいた首相もいた。にもかかわらず、国家予算は年々拡大増大の一途だ。

本当に社会に対して必要な緊急性の高い事業だからこそ、そういったボランティアにも、公費で最低限の賃金を保証するのが正しいあり方だと俺は思う。

そうすることによって、人々に国から資本が注入され、それはさまざまな形の商品へと変換してゆき、資本の流動性を高め、経済成長に貢献するのではないですか。

また、被災地などでのボランティアには危険が伴う。さらに正義感や義務感に駆られて、自らの体力の限界を超えて働き、命を落としたりケガをしたりする方もいる。

そういった二次的な災害というか不幸に対しても、国家なり自治体なりが予算を組んでサポート体制と組織化を行い、保険をかけて不測の事態に備えるべきだと思う。ボランティアだから自己責任というのは、あまりにも理不尽ではないだろうか?

ボランティアとはそもそも義勇軍を意味する。ウクライナの戦役に、世界各地から参戦した個人の戦闘者のような存在だ。俺はウクライナの人々にい同情はするけれど、義勇軍になるのはごめんだ。ガザやイランに行くのもご遠慮させていただきたい。その代わり、国連UNHCR協会と国連WPFに月々2千円づつ寄付することで、長年ささやかながら関わらせていただいている。もう何年も続けている。だからと言って税制優遇が大してあるわけでもないし、純粋に少しでもマシな世界にするために、自分に無理のない範囲で出来ることをしているだけだ。俺の乏しい稼ぎなら、それで十分じゃないか?継続は力なりだぜ。ミサイル一発で吹っ飛ぶ幸せや暮らしの重さには代えられないけれど、連帯を意思表明し、わずかながらも日々の暮らしから力添えをする。俺にはそれが精いっぱいだ。

また、ボランティアのすそ野は広がっている。

教員の負担軽減のために、地域のボランティアのかたに学校のクラブ活動を見てもらおうという試みが始まってはいるが、スポーツのコーチングや文化的なリベラルアーツを若者たちに指導するには、相応の知識経験だって必要だ。その専門スキルを無償で提供することで、本来自身の生活のためにそのスキルや自らの時間を生かすことによって生まれていたはずの収入=資本の増加の機会が損失するだろう。この機会損失は個々人にとっては微々たるものかもしれないが、日本全国津々浦々に視野を広げたとき、その損失はかなりのものになるだろう。

また、その人たちにも生業がある。万一その活動中に指導員や若者に事故やケガがあったとき、その保障は誰が担うのか?ボランティア個人に担わせるのか?学校や自治体、あるいは厚生労働省が担うことになるのか?

さらに踏み込めば、そのボランティアの人々の指導方法が適切なものかどうか?ハラスメント的なものや根性論的なものになっていないか?あるいはそこに性犯罪履歴のあるものが志願していないか?そういった問題をどう防ぎ、どのように管理していくのか?

それを学校の教員に担わせるのは本末転倒なのは火を見るよりも明らかだ。

私たちの社会を、私たち自身で運営していくには、自らの総体たる国家へ自らの能力を委譲しなければならないとしても、それでも私たちには何も損なわれるものはないというジャン=ジャック・ルソー🔗の説いた社会契約論🔗のような視点が絶対に欠かせない。近代民主社会はその思想を起点にして民主国家というフレームを構築しているのだから。しかし、今や税金を徴収され、より経済成長の美名のもとに、より豊かなものに国民から集めた詩音が再分配される転倒減少が続いている。それは国家としてのあり方としてどうなのか?本当に公平なのか?それを有耶無耶にしたまま、一朝ことあればボランティアをあてにするというのは、国家の体を成していないのではないだろうか?それは単なる抑圧と搾取のシステムではないのけ?

抑圧のシステムではなく、私たちが共に生きてゆく共通基盤のとしての国家というものを、私たちは自らに身近なボランティアという視点からも、もう一度問い直さねばならないのではないだろうか。