2026/06/02

POST#1866 東大至上主義の解体

Sweden

さてと、この息苦しい教育現場の状況を転換し、子どもたちを『人材』から『人間』に取り戻すために、俺が提示する極論は以下の二つだ。

東大至上主義の解体。そして内申書の廃止だ。

この「東大至上主義の解体」と「内申書の廃止」は、子供たちを労働機械へと変える選別システムを根底から無力化し、学校を「ようこそ地球へ!」と歓迎する場に変えるための、極めて具体的かつ強力な実効策になりうるだろう。そんなことは無理だという前に、自分たちの常識を疑ってみるのも、時にはイイ頭の体操になるぜ!

この2つの制度的解体が、子供たちの尊厳を取り戻すことができるとしたら、それはどういうことを意味するだろう。ちょと肩の力を抜いて考えてみようよ。

1. 東大至上主義の解体:一元的な「人間格付け」の終了

日本の教育における頂点として君臨する「東大至上主義」は、社会全体の序列化(ヒエラルキー)の元凶だ。

この東京大学に入った時点の成績で将来官僚になってどこまで出世するかが決まっているという噂まである。いずれにせよ、国会答弁で出てくるような各省庁の事務次官つまり、実質的な官僚機構のトップは、例外なく東大出身だ。

しかし、そもそも東大はそんなにスゴイ大学なのか?

世界的に見たら、アメリカのハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、イギリスのケンブリッジ、オックスフォードに比してどうなのよ。それどころか、右派の皆様の毛嫌いする中国の精華大学や北京大学にも及ばないんだ。

まぁ、俺は入る気づかいはなかったけどな。俺の経験からすると、高校の同級生で東大を目指してたやつは、みんな大なり小なりちょっとぶっ壊れてたな。

では、東京大学を頂点とする日本の大学教育のポイントは何か。そして東大ってのはその中で何を意味してるのか?

まず「正解を速く出す機械」の頂点ってことだ。東大を頂点とする受験システムは、カントの言う「手段としての人間」の優秀さを測るスクリーニング装置に過ぎないんだ。

しかし、この日本の教育制度の頂点に君臨する東京大学という存在が、全世代への呪縛となってるわけだ。この頂点が存在するおかげさまで、高校、中学、果ては幼児教育までが、上流の規格に合わせるための「前処理プロセス」と化しているわけだ。

つまり、それはどういうことかって?子どもたちは成長の過程で、この東大一直線🔗的な価値観を無意識のうちに強要される。そして、常にふるいにかけられるわけだ。頑張れば将来上級国家公務員となり、老後も天下りで心配なしだもんな。先行きくらい現代日本で、こんな将来の保証されたポジションはない。そこに残って医学部の教示とかになれば、製薬メーカーからキャバクラやソープランドの接待を受けることもできるだろう(笑)。

要は、子どもたちは、常にその数少ない椅子をめぐって熾烈な椅子取りゲームを行い、常に膨大な数の落伍者を生み出し続けてるんだ。

このシステムの解体の意味を真剣に考えてみよう。

この日本の教育システムの頂点を解体することは、社会の物差しを多元化することに他ならない。「どこの大学を出たか」という記号ではなく、「その人が何に熱中し、どう生きているか」という生身の存在へ、社会の関心を強制的に引き戻すことになるだろう。

また、オフィスに定住して働くサラリーマンや官僚が社会的な地位が高く、日々あちらこちらの現場を移動して働くような人間を二級市民として扱うような風潮、もっと言うなら、空調の利いた事務所で働く人間を常民と見立てるのに対して、建築、物流、インフラの維持、ケア労働などの社会に欠かせないエッセンシャルワーカーを漂泊民、非定住民、被差別民のように見た立てて、社会の表側から排除するような社会を変えることにもつながるだろう。


2. 内申書の廃止:「従順な奴隷」をつくる監視の排除

俺は私立の中学に行ってたから、実は内申書というやつはあまりよく知らなかった。息子が効率の小学校に入ってから知ったことだ。その少ない情報をもとにしても、内申書(調査書)は、子供たちの精神を最も内側から去勢し、窒息させている「見えない足枷」だといわざるを得ないよ。

まず、内申書ってのは内面化される検閲なんだ。

教師の主観をもとに記される内申書を意識して、子どもたちは「先生にどう見られるか」「減点されないか」を四六時中意識せざるを得ないだろう。

これはポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスがもたらす「相互監視・同調圧力」の、最も残酷な初期訓練だ。大人になっても勤務評定とか続くこのシステムの前哨戦だといえるだろう。いや、ここでふるいにかけるのだから、もっともその威力が強いと考えても過言じゃないかもしれない。

これによって「愛すべき駄目さ」という多様性はハムスターをひねるようにして圧殺される。内申書がある限り、寅さんのような規格外の人間味や、理不尽なシステムにNOを唱える正当な反抗は「問題行動」として処理さるだけだ。四年生くらいまで、授業中探検と称して学校内をうろつきまわっていたうちの息子は、どんなにテストで頑張っても評価されない。通知表は1の行進だ。そんなもんだ。

この内申書を廃止することは、学校から「評価という名の特高警察」を追い出すことに他ならない。それによって子供たちは失敗を恐れず、自分の言葉で話し、ありのままの自分で息をすることができるようになるだろう。

この2つを断行することは、単なる入試制度の改革ではない。

それは、国や市場が子供たちにつけている「バーコード」つまり『人的資源としての値札』を剥ぎ取るという、実質的な奴隷解放宣言になるんじゃないかな。

学校という、子どもたちにとっては世界の半分に等しい世界で、『人的資源として値踏み』される恐怖から解放されたとき、初めて子どもたちは『自分はここにいていいんだ』という実感を持ち、他者や世界に対して心を開くことがでるんじゃないか。心の武装解除だ。

じゃぁ、実際にどうする。

例えばだ、これは俺が私淑する吉本隆明🔗が90年代にしばしば語っていたことだ。それをあえて今、今は亡き吉本隆明に代わって表明しよう。

ずばり、『東大の先生とそこいらの三流大学の先生を入れ替えることで、日本の偏差値重視の詰め込み教育が変わる』

まさに「コロンブスの卵」のような痛快な発想だ。

東大の看板を外して、三流大学と呼ばれている場所に最高峰の知性を投入する。逆もまた然り。そうなれば、受験生は「どこの大学か」ではなく「誰に何を学ぶか」で選ぶしかなくなります。「看板ではなく、個の対話」を重んじた、その先生らしい過激で本質的な教育改革案になるだろう。

まず、教師たちにおきる変化だ。三流大学から東大に行った教授は、理解力の優れた優秀な生徒に対応するために、自分自身も必死に研鑽し、学者としてのレベルアップを図らねばならないだろう。

また、東大からそこいらの三流大学に移動になった教授は、ふてくされるだろうけれど、勉強はいまいちでも、センスのいい、つまり非認知能力に優れ、社会的なさまざまな経験と出自を持つ学生たちに対峙することで、これまた自らの学問を深化させ、より平易で分かりやすく教えてゆく必要が生じる。中にはとんでもない逸材が潜んでるかもしれないじゃないか?

一方で、このガラガラポンが、毎年とは言わなくとも数年に一度の頻度で行わるんだとしたら、生徒たちもどこの大学でもいいというわけにいかないだろう。東大というブランドには頼れないんだしな。優秀な学生ほど、優秀な先生のいる大学を狙うようになるはずだ。

また、どうせ少子化が進んでいるんだから、大学入試自体も、ある一定のレベルを担保していたら、どこかに入ることができるように、また共通の大学入学資格があるなら、他大学の授業を受けても単位を取ることができるようにするというのも一考の価値のある施策かもしれない。

その代わり、大学を出るには徹底的に厳しい試験やハイレベルな修士論文を提出しなければいけないということにするんだ。

それは、労働市場にも大きな影響を与えるだろう。

今の労働市場が新卒の新入社員に求めているのは、高度な専門性ではなく、単なる学歴、つまり大学まで従順に社会の暗黙の要求を受け入れ、自らの組織が求める『人材』として馴致されているかかという点だろう。当然、大学のシステムが入るのは容易に、学位取得と卒業がハイレベルにと変われば、3年生の6月から就職活動をして、専門課程の教育がおろそかになることもない。

さてさて、「出口(入試)」を壊し、「中身(教員)」をかき混ぜる。偏差値という物差しで人間を序列化するシステムの根幹を、数学的かつ大胆な発想でひっくり返そうとしていう算段だ。

偏差値のチャンピオンたちが作った政財官のピラミッド組織の硬直した物差しが、日本を停滞させている。人間を人材や消費者扱いしている。

当時吉本隆明が見据えていたのは、単なる教育制度の不備ではなく、『人間を数値化して管理する思想』そのものの限界だったと今ならはっきりわかる。

偏差値という単一の物差しで勝ち上がった人々が、同じ物差しで社会(政財官)を構築してしまった。その結果、効率や前例が優先され、「個の尊厳」は言うまでもなく『社旗の風通しの良さ』『が切り捨てられてきた。

人間を『替えの利くパーツ』つまり『人材』や『消費者』として扱う今の構造は、社会の硬直化の極みと言えるだろう。もうそろそろ、違う方法を試してもいいんじゃないかのな?

こんな構想を実現するためにも、ぜひとも国家的に取り組むべきことがある。

ずばり、教育に関する国家予算を引き上げ、学校の事務を担当する専門職員、子供たちのメンタルケアを担うカウンセラー、そしてできたら学校をぶらぶらしてる教養豊かな面白い老人などを各学校に配備最低一人ずつ配備するんだ。

それは、これまでの議論のすべて(「労働機械からの脱却」「無用の用の回復」「ようこそ地球へという歓迎」)を、具体的な制度と予算として着地させる極めて具体的で、最高に魅力的なグランドデザインになるだろう。

教育予算の増額(政府支出の拡大)を原資として、学校に「3つの異なる役割を持つ大人たち」を配備することは、学校という閉塞した空間に風穴を開け、子どもたちの命を救う決定打になるんじゃないか。

それぞれの配備が持つ決定的な意味は、こんな感じだ。

1. 事務専門職員の配備、それは教員を「人間」に戻す

現在の学校の先生たちは、過酷な書類仕事や部活動の管理、コンプライアンス対応に追われ、精神的・時間的な「余白」を完全に失っていいる。ほとんど殺人的だ。

ここに事務作業を専門に受け持つスタッフを雇用して、様々な事務作業を専門職員に完全移管することで、先生たちの過重労働(ブラック化)を解消し得るだろう。

それは、教師を「労働機械」から「歓迎する大人」へと引き戻すことになる。

先生自身がシステムに搾取される労働機械から解放されて初めて、子どもたち一人ひとりと生身の人間として向き合い、「ようこそ地球へ!」と笑顔で迎え入れる精神的ゆとりが生まれるんじゃないか。

2. メンタルケアの専門カウンセラー常駐つまりアジール=逃げ場の制度化

現在のスクールカウンセラーは非常勤が多く、圧倒的にリソースが不足している。各学校に常駐・複数配置すべきだ。

そして、彼らの存在『評価』と切り離された安全地帯を学校内に生み出すんだ。だからこそカウンセラーは、内申書や成績といった『評価システム』とは完全に無関係な存在でなければならないだろう。つまりはカナリアの保護シェルターを担ってもらうわけだ。

子どもたちが「社会の部品」としてのプレッシャーに潰されそうになったとき、あるいは家庭や教室で、同調圧力などの抑圧で息ができなくなったときに、値踏みされることなく、ただそのままで保護される「駆け込み寺」=アジールが校内に担保されることになるんだ。

現在は、それを保健室の先生が担っている場合が多いだろう。そこに専門知識とノウハウを持ったカウンセラーを増強することが、子どもたちにとって、よい変化をもたらさないわけがない。

3. 学校をぶらぶらしている面白い老人:最高の「無用の用」

このアイデアこそが、現代のスマートでクリーンなディストピアを打ち破る最も革命的な一手といってもいいだろう。

定年退職した教師や、地域の高齢者でもいいだろう。いっそリタイアした職人、旅ばかりしてきた人、へんてこな学者とか、学校ごとにそれぞれに見識と寛容さがある人がぶらぶらしていてくれるといいな。どれだけ、教師やカウンセラーがフォローしても、その網をすり抜けてしまうこどもは絶対にいる。そんな子どものそばにいつのまにか寄り添って、フォローしてくれるような存在がいたっていいだろう。

学校ごとに、そんなおじさんのトレーディングカードを作って、塾とかで子どもたちが、よれたおっさんのカードを交換してたりするのを想像しても楽しいもんだ。

彼らの存在は「生産性」という物差しを無力化する。

テストの点数を上げるわけでもなく、校則を破った生徒を取り締まるわけでもない、「ただそこに楽しそうに生きている大人」が校内を徘徊していること自体が、強力なメッセージになりるだろう。

平たく言えば令和の「寅さん」の復権みたいなもんだ。

教養豊かで、世界の面白さを知っていて、でも今の社会のシステムからはみ出して楽しそうにしている老人は、子供たちにとって「あぁ、あんな風に、役に立たなくても生きていていいんだ」という生きた教科書(ロールモデル)になり得るだろう。彼らの存在が、学校のギスギスした同調圧力を中和する「文化的な余白」=緩衝地帯になるんだ。

あぁ、RCサクセションの僕の好きな先生🔗みたいな変なおじさんだ。

現在の日本の教育予算(対GDP比)は、OECD加盟国の中でも最低レベルが続いている。ます。道路やコンクリート、あるいは企業の補助金(経済成長の手段)に回している予算を180度転換し、この「学校の人間化」へ投資することは、炭鉱のカナリアを救うための最も正当な国のあり方だろう。少なくとも、トランプ大統領の顔色を窺って、アメリカから型落ちのミサイル買う金があったら、こっちに回してほしいよ。これについちゃ、まったく腹が立つったらないぜ。さんざん金がないといっておきながら、ミサイルや戦闘機を買う金はいつだって湧いて出てくるんだ。

税金つまり国家予算という国家の富(それは俺たち国民すべてのもので、麻生漫☆画太郎先生にお情けで配ってもらうようなもんじゃない)を、「人間の生命を破壊・管理する道具」に優先投資するのか、それとも「今を生きる子供たちの生命と尊厳を育む場所」に投資するのかという、国家の意思と価値観の歪みを突いた、非常に切実で正当な怒りだろう?

アメリカからの高額な兵器購入(FMS:対外有償軍事援助)に巨額の国費が投じられる一方で、教育や福祉といった「人間の生存」に関する予算が常に「財源不足」を理由に後回しにされる構造は、まさに先ほどから議論している「主客転倒した社会システム」の最たる象徴以外の何物でもないぜ。

近年の日本政府は防衛費を大幅に増額し、数兆円規模の予算を計上していいる。その中には、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」などの大量購入がたっぷり含まれております、はい。

その一方で、日本の公教育に対する公的支出(対GDP比)は、OECD(経済協力開発機構)加盟国の中で長年最下位の争いを続けているってのは、情けない限りだ。

「人を守る」ことの定義が転倒してるんだ。国家が「他国からの脅威」に備えるという大義名分の裏で、自国の内部にいる子どもたちが社会の息苦しさによって、年間500人以上も自ら命を絶っている現実を放置しているのは、完全な論理破綻じゃないか?

国民の税金を投入して守るべきものが、子どもたちが自ら死を選びたくなるワンダーランドなんだぜ。笑いが止まらないぜ。

アメリカに支払っているその何千億円、何兆円という予算の一部をスライドさせるだけで、俺が提案した『学校の人間化』は一瞬で実現可能だよ。

具体的な試算をイメージしてみよう。

ミサイルや次世代戦闘機の購入・維持費を数機分キャンセルするだけで、全国すべての小中高校(約3万校)に「常駐のカウンセラー」と「事務専門職員」を複数名雇う人件費が余裕で捻出できちゃうよ。

「学校をぶらぶらする面白い老人」たちに、地域の知恵袋として謝礼や活動費を支払う仕組み(地域通貨やシニア雇用制度の刷新)も、兵器の爆買いをやめればお釣りが来る規模で持続可能に決まってるじゃないか。

さて、俺たちは主権者として「予算の180度反転」を突きつける時に直面してる。

「財源がない」というのは嘘なんだよ。

単に「政府が人間の尊厳や教育よりも、軍事や経済成長(手段)を優先している」という選択の裏返しに過ぎないんだから。


アメリカの軍事産業を潤すために型落ちの兵器を買い漁るのをやめ、その莫大なエネルギーを「ようこそ地球へ!」と子供たちを迎え入れるための、優しくて余白のある学校空間の構築に回すこと。これこそが、このディストピア化した社会を内側から解体し、真の「安心できる国」を作るための最も本質的な防衛策と言えます。


この「面白い老人」や「専門職」が学校にいる風景を想像すると、それだけで学校が温かい場所に変われるんじゃないかと希望が持てないか?


2026/06/01

POST#1865 それは新自由主義の陰画なんだ

 

東京、築地より

ここんとこ縷々つづってきた子どもの自殺をめぐる現象は、俺が思うに新自由主義🔗がすべてを商品化し、社会を分断してしまったことの陰画なんだ。

「人間を材料(人材)扱いする風潮」や「カント的視点の喪失」の背景には、1980年代以降、日本を含む世界中に広がった「新自由主義(ネオリベラリズム)」の思想が決定的な影響を与えている。

ハイエク🔗ミルトン・フリードマン🔗によって打ち立てられた新自由主義は、経済だけでなく、社会の構造から、人間の生き方や教育のあり方までをも根本から作り変えてしまった。そこで起こったのが、「教育の市場化」だ。

新自由主義の本質は、あらゆるものを「市場原理(自由競争・自己責任・効率性)」で支配することだ。(実は、自分たちが困ったときには政府に救済してもらうというバックドアが仕込まれてるんだがな)これが教育現場に持ち込まれた結果、以下のような変化が起きた。

学校の「工場・育成機関」化

教育の目的が「豊かな人格の形成(カントの言う『目的』)」から、「グローバル市場で勝ち抜ける優秀なコマ(新自由主義的な『人材』)の育成」へと完全にシフトした。エミール🔗を記した親愛なるジャン=ジャック・ルソーが見たら、パンテオン🔗の棺から起き上がってくるんじゃないかって心配になるほどさ。

教育の自己責任化と投資化

いつの間にやら「学びは将来稼ぐための自己投資である」という自己責任論が定着した。私見ながら、俺はなにかの為にする学びは嫌いだ。自らのうちから湧き出る好奇心の赴くままに、問いをたて、学び、自分の血肉にしたいね。閑話休題。

これにより、子供は幼少期から「自分の市場価値を高めるための競争」に強制参加させられることになっちまったんだなぁ。それどころか、大学は単なる就職予備校になり、専門課程はほどほどに就職活動に奔走するなんておかしなことになってる。そのくせ、通勤電車の扉の横には、土日に経営専門大学院に通ってMBAつまり経営学修士🔗の資格を取ることが宣伝されているほどだ。まったく、何のために働いてるんだ?俺が思うに、人生は愉しむためにあるんだぜ。

そして、子どもたちを追い詰める「新自由主義的」3つの罠が待ち受けている。3つの口から破壊光線を出すキングギドラみたいだなぁ(笑)

新自由主義的な価値観は、子ともたちの精神を内側から破壊する特有の構造を持っているんだ。おっかないぜ。

① 無限の自己責任論(「努力不足」という呪い)

新自由主義は「誰もが自由に競争できる」という建前をとるため、失敗した原因はすべて「本人の努力不足・能力不足(自己責任)」に帰結させられちまう。

いじめ、不登校、成績不振に陥った子どもは、社会構造や環境のせいにできず、「自分が無能だからだ」と過剰に自分を責め立てるようになってしまうんだ。そんな馬鹿なことってあるか?

② 「自己啓発」の強要(ありのままの否定)

新自由主義社会では、現状維持は「退化」を意味するんだ。経済が常に成長し続けていかないといけないという呪縛そのままだ。だから預金じゃなくて投資が奨励されるんだな。ダハハ!

その呪縛のせいで、地球はだんだん金の星どころか金星みたいな灼熱の惑星へと変わり始めてるんだけどな。

おかげさんで、子どもたちは常に「もっと主体的に」「もっとスキルを身につけて」と、終わりなき自己改革を求められ続ける。終わりのないマラソンだ。大人だってうんざりだぜ。

カントが説いた「生きているだけで尊い」という状態は全否定され、「常に成長し続けなければ価値がない」という強迫観念に晒され続けるんだ。まともな神経でいられるわけがないぜ。

③ 連帯の分断と孤立(頼れない社会

徹底した競争社会は、クラスメイトを「共に生きる仲間」ではなく、「席を奪い合うライバル(敵)」に変える。俺の通っていた私立の中学に、先年用事があって行ってみたら、下駄箱の横に、『上を見て落ち込むな!下を見ていい気になるな!右を見ても受験生、左を見ても受験生!』とうんざりするようなことが書いてあったぜ。俺は思わず、名誉校長とかになりあがってたかつての数学の教師に『中島さん、あんたちょっと見ん間に、偉なったもんじゃんのう。これがあんたの理想の学校かいな?はよ、あんたの銅像も建ててもらえるとええのう』と、半ば軽蔑感を隠すこともなく言ってのけてしまったわ。ダハハ!

弱みを見せたら脱落するため、子どもたちは周囲にSOSを出せなくってしまう。結果、「過酷な競争の中で誰も信じられない」という致命的な孤立を生み出すことになってしまうだろう。親は競馬馬の馬主みたいなもんだからな。親にもそんな弱みは見せられないだろうしな。

もっとも、その親自身も、社会の中で同じようにもがいているわけだ。溺れている者が、溺れている者を救うことはできないのさ。

さてそこで、 日本特有のケミストリーが生じるんだ。まさに「最悪の掛け合わせ」だ。

日本の子供の自殺が突出して減らないのは、この「新自由主義」に、日本古来の「同調圧力・連帯責任」が最悪の形で融合したからだと考えるのが妥当だろう。

そもそも核家族から社会が構成されているアングロサクソン型の欧米の新自由主義は「自己責任」だが、ルールを外れても「個人の自由」としてある程度放置される傾向にある。よく言えば、これは多様性が担保されてるってことだ。

しかし、我らが日本の新自由主義は一味違う。 経済や能力面では「自己責任の競争」を強いる一方で、学校生活では「みんなと同じ行動、高い協調性(同調圧力)」を絶対の鉄板ルールとして求められるんだ。子どもたちの無意識は、相反するベクトルに引き裂かれることになるだろう。利益相反してもへっちゃらな汚れちまったおじさんとは違う若者たちの心は、混乱するよな。

つまり、日本の子どもたちは『激しいサバイバル競争を勝ち抜きながら、周囲の空気も完璧に読まなければならない』という、二重の過酷な要求に縛られているわけだ。

これが、逃げ場をなくし、自死を選ばざるを得ないほどの息苦しさの正体なんじゃないかな。

人間を「目的」ではなく「手段(利益を生む道具)」として扱い、使えなければ自己責任として切り捨てる新自由主義は、現代の子どもたちから「無条件で愛され、守られる権利(生存の安全基地)」を奪い去りってしまった。

子供の自殺問題は、この過剰な市場原理主義がもたらした「社会の精神疾患」そのものであると言えるだろう。

俺は思うに、子どもなんて 10 歳ぐらいまでは勉強なんかそっちのけで、けもののように友達と遊びまくる方が絶対に人間的に成長すると思うんだよ。そんな中で人間関係の機微を学んだり、自分で工夫したりする知恵を身に着けたり、有り合わせのもので何とか問題を解決するブリコラージュ🔗の能力を身に着けたりするんだ。そう、非認知能力🔗って奴だ。

この考えは教育学、心理学、そして脳科学の視点から見ても、圧倒的に正しく、本質的な人間性の成長を捉えているといえるだろう。

10歳頃までに「けもののように友達と泥まみれになって遊びまくる」経験こそが、新自由主義が求める薄っぺらな「人材スペック」ではなく、カントの言う「目的としての人間」として生きるための強固な土台(根っこ)をるんだ。

近年進展の著しい脳科学も「遊びが先、勉強は後」の順序の妥当性を証明している。

脳の発達順序から見ても、 人間の脳は、感情や本能をつかさどる「大脳辺縁系(けものの脳)」が先に発達し、論理的思考や勉強をつかさどる「大脳新皮質(人間の脳)」が後から発達するようになってるようだ。

で、10歳くらいまでに友達と全力で遊ぶことで、脳の感情システムやストレス耐性が爆発的に発達するらしい。この「根っこ(土台)」が未成熟なまま、早期教育で上の「人間の脳」ばかりをいじくると、ポキッと折れやすい木(メンタルを病みやすい子供)になってしまうであろうことは、容易に理解できる。一階が無きゃ二階はできない。そして土台がなきゃ家は建たないんだ。

新自由主義社会が「教科書」や「習い事」で教えようとしている能力ってのは、実は「放任された遊び」の中でしか身につかないんだ。人間は「生きる力」のすべてを遊びの中で学んでいるといても過言じゃない。

嘘じゃないぜ。

本物のコミュニケーション能力: ルールのない遊びの中で、言葉の通じない相手とどう折り合いをつけるか、喧嘩した後にどう仲直りするかを体で覚えるんだ。

本当の主体性と課題解決能力: 「次は何をして遊ぶか」「泥の中に落ちたボールをどう拾うか」を、大人に指示されず自分たちで必死に考えることで、本当の知性が磨かれていくんだ。

レジリエンス(折れない心): 転んで痛い思いをしたり、遊びのルール変更に耐えたりする中で、自然と「失敗しても大丈夫」という精神の免疫が作られていくんだ。

私事で恐縮だけれど、俺は世の中の平均的な人間ができるたいていのことは、努力すれば何とか格好がつくくらいにはできるだろうと世の中を舐めた姿勢でこの年までやってきたんだけど、確かに子供のころ畑のあぜ道や雑木林の中で駆け回った経験が基礎になっていると実感するぜ。痛い目もたくさん見たけどな。

友達とただ楽しく遊び狂う時間には、評価(テストの点数、内申点)が一切存在しない。

この「何かができるからではなく、ただ生きているだけで楽しい」という無条件の幸福感(自己肯定感の原点)を10歳までに心に貯金できた子どもは、大人になって社会の荒波や「人材査定」に晒されても、簡単には潰れないんだ。心の中に「絶対に壊れない安全基地」を持っているからだ。つまり、『何もしなくても愛される』という絶対的な全能感が熟成されてるんだ。

 

しかし現在の日本ではどうだろう。新自由主義的な焦燥感から、この大切な「10歳までの放牧期間」を塾や習い事で埋め尽くしてしまっている家庭が多いんじゃないだろうか。これこそが現代社会が抱える「遊びの喪失」という病だ。

結果として、「小綺麗で、大人の言うことをよく聞くけれど、内面はスカスカで傷つきやすい子供」が大量生産されてしまうんだ。

子供を一度「けもの」として野生のまま徹底的に遊ばせることは、決して教育の放棄ではないんだ。それこそが、社会の道具(手段)にされない「自立した一人の人間(目的)」を育てるための、最も高度で贅沢な教育なんじゃないだろうか。

もちろん、それについての反論もあるだろう。それは俺も重々承知しているし、不安になる親心もひとりの親としてよくわかる。

けれど、子供が死にたくなるような国って、それはあなたにとっていい国なんですか?

少なくとも俺にとっては、少なくない数の子どもたちが自ら命を絶ちたくなるような国は、どれだけ経済的に豊かで治安が良くても、決して「いい国」とは言えないと確信してる。

むしろ、社会のシステムがどこかで致命的に機能不全を起こしている「極めて不健全な国」であると断言するべきだ、というのがカントの哲学やルソーの人権の視点に立った結論じゃないかな。

なぜそのような国になってしまったのか?

まず真っ先に挙げるべきなのが、国家の「目的」が倒錯しているという致命的なバグだ。

カントの思想に立ち返れば、国家や社会というシステムは、「そこに生きる人間が幸福に、尊厳を持って生きること」が究極の目的であるはずだ。

しかし、子供が自殺に追い込まれる国では、その目的が完全に逆転しているといわずるを得ないだろう。

国を維持するため、あるいは経済を成長させるための「手段」として子どもたちが『消費』され、その過酷なシステムに耐えきれなくなった子供たちが命を落としていくんだ。

目的と手段がひっくり返った社会は、人道的な意味において「失敗している国」以外の何物でもない。俺はつねづね、ピンハネするだけで誰も幸福にならないようなクソ会社なんて潰れちまった方がいいんだ!というんだけれど、まさにそれが国家的なスケールで展開してるんだ。

そして俺たちは、「見せかけの豊かさ」に騙されている。

街にゴミが落ちておらず、夜間に女性が一人で歩くことができ、子どもは一人で外に出かけても誘拐されない。スーパーやコンビニの棚にはモノがあふれている。たまに目詰まりしてる時もあるけどな。だから、一見すると「いい国(先進国)」に見えるだろうさ。

しかし、子供の自殺率が高止まりしているという事実は、この国が「物質的には豊かだが、精神的には生存を脅かすほど過酷なディストピア」であることを証明しているんじゃないか?

物理的な治安が良くても、子供の心が安心できる「精神的な治安」が崩壊している国を、良い社会と呼ぶことはできないんじゃないか。

おまけに、 社会の「最後のセーフティネット」が壊れているから質が悪い。

野生のけものが子供を命がけで守るように、本来あらゆる共同体(国家、地域、学校、家庭)にとって、「子供の命を守ること」は最優先されるべき絶対的な防衛ラインだ。

子供が死にたくなるということは、学校も、家庭も、あるいは社会の空気も、すべてが子どもたちにとって「敵の陣地」になってしまい、どこにも逃げ場(安全基地)がなかったことを意味しているだろう。

最も弱く、守られるべき存在である子どもたちを孤立させ、死に追いやる社会は、共同体としての基礎が崩壊していると言わざるを得ないんじゃないか?どうなんだい、社長!


大人が『人材』や『経済成長』『自己責任』といったまやかしの言葉に踊らされ、カントの言う『人間を目的として扱う』という当たり前の倫理を忘れた結果、その歪みのすべてのしわ寄せが、最も無力な子どもたちに向かっているんじゃないのか。

また、その俺たち大人の都合で作り上げられたモデルチャイルドから逸脱したとたんに、社会から居場所がなくなり、引きこもり、或いはトクリュウ犯罪の網に絡み取られていく。

子供が「生まれてきてよかった」と心から思える国、10歳まで泥まみれになって遊び狂っても誰からも責められない国に作り直すこと。それこそが、この国に生きる大人が今すぐにでも果たさなければならない、最優先の責任だと言えるだろう。

 子供が幸せに生きられない国は大人も幸せには生きられないと俺は思うんだけれど、どうだろうか。もしそうならば、なぜその幸せに生きられない社会を、俺たちは拡大再生産せざるを得ないんだろうか?思考停止していないか?

子供の自殺や生きづらさは、大人の社会が抱える病理がそのまま投影された結果に過ぎないんだぜ。

にもかかわらず、俺たちがこの「不幸のシステム」を止められず、むしろ拡大再生産し続けている背景には、新自由主義と日本特有の構造が噛み合った「4つの罠」が存在してるんだ。

1. 自分が生き残るための「最適化の罠」

大人たち自身もまた、新自由主義的な競争社会の被害者だ。自覚している、していないに関わらずね。

大人の現状はこうだ。 労働環境の流動化、実力主義、老後不安などにより、大人は常に「明日は我が身」「脱落したら終わり」という強い恐怖の中に置かれている。そそのストレスは多くの人々を抑鬱状態に追い込んでいる。

こんな不健康な社会は変えなきゃならないのに、再生産のメカニズムは無情に進行するんだ。なんてったって、メカ=社会構造だからな。 

心に余裕がない大人たちは、社会のシステムそのものを変える(連帯して声を上げる)労力を持てない。結果として、「この過酷なシステム(ルール)を変えるのは無理だから、せめて自分の子供だけは競争に勝てるように、幼少期から『人材』として鍛え上げよう」という行動をとるわけだ。これが、結果的にシステムをさらに強化し、子供を追い詰める側へ回るという悪循環を生んでしまうんだ。

2. 「痛みの学習」による世代間連鎖

人は、自分が受けてきた扱いを他者にも正当化しやすいという心理的特性(認知の歪み)を持っている。俺が少年のころ、スポーツ系のクラブでは先輩によるシゴキといういじめが常態化していた。そしてシゴかれてた連中が上級生になったとき、そのシゴキを荒廃に繰り返すという負の連鎖だ。少年の頃から、俺はこういうシステムを嫌悪してたんだ。

そんな経験を敷衍すると、大人の本音はこんなところか? 現代の親や教師の世代も、かつて「我慢すること」「感情を殺して成果を出すこと」を美徳として叩き込まれ、サバイバルしてきたわけだ。

そこでまたぞろ再生産のメカニズムが発動する。

 そのため、子どもたちが「苦しい、遊びたい」と訴えても、大人は「自分もそうやって耐えて大人になったんだ」「社会は甘くない」と、自分が受けた痛みを教育として再適用してしまうわけだ。自分が耐えた理不尽を肯定したいがために、次の世代にも同じ理不尽を強要するというスポーツクラブの上下関係構造そのまんまだ。

3. 社会の「経済至上主義」という巨大な慣性

社会の意思決定を行う政治、行政、経済界が、いまだに「GDP(国内総生産)」や「企業の国際競争力」といった数値の拡大を唯一の正義としている。そうじゃないのはブータン王国くらいか。しかし、GDPが世界で3%平均で100年成長すれば、社会は持続不可能だということは明々白々だ。何せ資源の量もゴミの量も19倍になるんだからな。俺たちは滅びの道を爆走してるんだ。

しかし、そこでも再生産のメカニズムは機械仕掛けの神のように無情に発動する。

 本来なら「国民の幸福度」や「子供の精神的健康」を最優先の指標にするべきなのにもかかわらず、現在の社会システムは「経済成長のために人間をどう最適配置するか」というロジックで動いている。

この巨大な経済の慣性(仕組み)を前に、個人の「おかしい」という声がかき消され、政策レベルで「人材育成」の教育改革が再生産され続けるんだ。機械の星の歯車のように全体主義的に動いていくしかなくなるわけだ。そのシステムに従わないことを選べば、現代社会では経済的な死を意味する。そして往々に人は経済的なデッドエンドを迎える時、生物学的な死を選択する。つまり自殺だ。

4. 相互監視が生む「誰も望んでいない同調圧力」

日本社会に深く根ざした「世間の目」が、新自由主義の自己責任論と結びつき、強力な監視社会を作っている。21世紀の経済戦争を勝ち抜くための『大政翼賛会』だ。

だれも望んでいないのに、なぜか止まらないのが再生産のメカニズムだ。

 「10歳まではけもののように遊ばせるのが良い」と内心では思っている親でも、周囲の子どもたちが一斉に塾や習い事に行き始めると、「我が子だけ遅れては将来くいっぱぐれて困るのではないか」「親としての責任を放棄していると後ろ指を指されるのではないか」という周囲の視線(同調圧力)への恐怖に負けてしまう。

誰もが「このシステムは異常だ」と思いながら、お互いを監視し合うことで、結果的に誰もそこから抜け出せなくなっているんだ。現代の自発的隷属だ。ラ・ボエシ🔗もあきれることだろうさ。


この「不幸の拡大再生産」を止めるには、俺たちが「降りる勇気」を持つしかない。

社会全体を一気に変えることは難しくても、まずは自分の家庭や身近なコミュニティにおいて、「社会のルール(使えるか・使えないか)」を完全にシャットアウトする「治外法権の安全地帯」を作ることが必要だ。

大人が「私はこの競争レースから降りる。子どもを材料にはしない」と腹をくくることが、この強固なシステムにヒビを入れる唯一の対抗策だろう。

ここからが、また俺の荒唐無稽な社会改革案が開陳される予定だ。こうご期待。

2026/05/31

POST#1864 ようこそ地球へ!ここに生まれる希少性はビットコインの比じゃないぜ!

Bangkok,Thai

日本はすでに、先進国じゃない。
低成長先進国で、なおかつ衰退途上国なんだ、残念ながら。

日本は「失われた30年」と呼ばれる低成長・ゼロ成長の先進国であり、経済成長という呪縛からは物理的に外れているように見える。しかしだからこそ、「経済が成長していないのに、システムやマインドセットだけが成長至上主義(効率性と競争)のまま稼働し続けている」ため、人々は豊かさを実感するどころか、かつてない枯渇感と精神の窒息状態に陥っているんだ。まるで一歩進んで二歩下がるような倒錯した世界だ。

その枯渇感と息苦しさの中、だれもかれもが電車の中、エレベーターの中でスマホばかり見て、薄気味悪いったらないぜ。それでいて、全然人々の心は豊かになったいないように思えない。

ダイバーシティ?、インクルージョン?、バリアフリー?、コンプライアンス?、ポリティカル・コレクトネス?

そんな横文字が喧伝されるようになってから、ますます世の中は狭量になり、排他的になり、精神的なバリアが張り巡らされ、人と人は摩擦を恐れて無関心になってきてはいないか?人間はモナド🔗化していないだろうか?

スマホに依存しきった現在の社会がなぜこれほどまでに不気味で、心が貧しい状態にあるのか、自分のこととして考えてみよまいか。

1. 物理的な「低成長」と精神的な「過剰最適化」の不一致

経済は成長していないけれど、社会のシステム(IT、プラットフォーム、労働管理)は極限まで効率化されている。そこで起きているのは、乾いたぞうきんを絞り上げるようなことだ。

低成長ゆえの人々の労働に対する搾取は先鋭化している。パイ(経済)が大きくならないため、企業や社会は限られた利益を削り出そうと、労働者(人間)や子供たちへの「無駄の排除」と「管理」をむしろ強化しているんだ。

政府は政府で、採算のことばかりを教育現場に持ち込む。博物館のように文化そのものを守り育む砦にまで、採算性を求める。狂ってるぜ。

そうして、社会からハンドルの遊びのようなゆとりが失われ、停滞が続いているんだ。

昭和のような「のんびりした低成長」じゃなく、現代の日本は「全員が必死で全速力で走っているのに、1歩も前に進まない(現状維持がやっとの)停滞」だ。まぁ、これだけ円安誘導政策が続いていたら、対ドルベースでみれば、必死に働いても経済は縮小しているってことだ。このバカバカしさに俺たちは気が付かないといけない。それに気が付いていないんだもの、心に余白が生まれるはずもないだろう。

2. 「スマホ」という感情と注意力の搾取機械

人々が街でも電車でもスマホばかりを見ている光景の不気味さは、人間の内面(精神)までがテクノロジー資本主義に「資源」として完全にハッキングされていることに起因している。

情報はただで落ちてくると皆思い込まされてるけれど、そこには海老の入っていないエビフライみたいに広告だらけで内容のないスカスカのものだ。それは単に邪魔な広告というだけでなく、サブリミナル効果🔗のように、俺たちの精神を蝕み、不安にさせ、その不安を埋めるための消費を促すんだ。それが、今の資本主義だ。

もっと突っ込んで言えば、こいつはアテンション・エコノミー(関心経済)って奴だ。

現代のIT企業は、人間の「注意(時間)」を奪うことで利益を上げているんだ。脳の報酬系(ドーパミン)を刺激するアルゴリズムにより、人々は「見たくもないのに見続けさせられる」状態に置かれているんだ。俺たちの一度きりの人生や何かを考えるための時間が、こうして収奪されていくんだ。

そうして人はますます自分自を、アルゴリズムによって最適化されたインターフェイスの中に閉じ込めてゆき、モナド化していく。そして、その過程で生身の他者の喪失が生じる。

スマホの画面は、数値化された評価(いいね、フォロワー数)や、極端に記号化された情報で溢れている。匿名で何かを延髄反射的につぶやいても、胸ぐらをつかまれることもない。そのために、目の前にいる生身の人間(傷つきやすく、役に立たないかもしれないが尊厳を持つ存在)とナマの言葉で向き合う能力が、社会全体で急速に退化しているんだ。

3. 「孤立の麻酔」としてのデジタル空間

人々がスマホに没頭するのは、現実の社会(学校、職場、地域)が「役に立つ人間」であることを要求するあまりに、とんでもなく冷酷で、傷つきやすい場所になっているからでもある。自分自身という自己幻想を社会の要求という共同幻想が圧殺しにかかってるんだ。当然だ。

現実の社会に、存在を無条件に肯定してくれるシェルターもアジール🔗もない。仕方ないな。人々は、社会が押し付けてくる『有用性』という呪いから逃れるために、一時的な避難所としてデジタル空間に逃れ、依存してゆく。

要は現実世界に無条件で自分を肯定してくれる居場所がないから、人々はスマホというデジタルの殻に閉じこもって、孤独や不安という痛みを麻痺(麻酔)させることになってるんだ。そして、自分の意見に沿うような内容がアルゴリズムで表示され続けることで、エコーチェンバー現象🔗にドはまりしていく。その結果、極端な排外主義的な主張や差別的な言説に包摂されていくことになるんだ。

それで君たちが幸せならいいけれど、そこにはそこで、様々な要求を煽る広告が際限なく飛び交い、匿名のSNSはトラップだらけで、なおかつ犯罪や脱法行為への誘惑に満ちている。それはそれで、無防備で歩くのはおっかないところなんだぜ。

こうして、かつての地域社会にあった「ただ佇んでいるだけで許される空間」が消え、人々はスマホを操作して「何か(情報消費)をしていないと耐えられない」強迫観念に囚われているんだ。「無用の用」のデジタル的消滅だ。デジタルデトックスが必要だ。

経済の数字(GDP)の上では低成長であっても、私たちの精神生活は、スマホという資本主義の最先端デバイスによって、24時間体制で「効率性と生産性」のグリッドに縛り付けられている。

これこそが、人々から本当の心の豊かさを奪い、社会全体を不気味なオートマトン(自動人形)のように変えてしまっている真犯人だなんだ。

この「スマホに依存せざるを得ない精神的孤立」から脱却し、生身の人間としての尊厳や、他者とのリアルなつながりを取り戻すために、俺たちや君たちは、日常のなかでどのような一歩を踏み出すべきだろう。

できることならスマートフォンを解約したいくらいだけど、実際には仕事に欠かせないからな。困ったもんだ。

どうしたら人々を見えない殻のように包んでいるデジタルモナドを打ち破り、したたかな自己への信頼と、他者への共感と、実社会への連帯を取り戻すことができるだろう?

俺は、その鍵こそ子どもたちや地域社会の中にあるんじゃないかと考えてるんだ。

俺や君たちが、これからの社会を担う子どもたちに本当にかけるべき言葉は『勉強したか?』なんてことじゃなくて、学校や家庭で子供たちにまず毎日繰り返し教えるべき一番大切なことは、こんなものだと思う。

『きみたちは一人一人、かけがえのない存在なんだ。ようこそ地球へ!』ってことじゃないかな?

子供たちに必要なのは、将来「役に立つ機械」になるための訓練ではなく、「あなたがここに生まれてきてくれた、それだけで君は世界に祝福されている」という圧倒的な無条件の肯定のはずだ。

それだけが、子どもたちの自殺を減らし、子どもたちが安易なトクリュウ犯罪などにリクルートされ、社会的な自殺を遂げてしまうことを防ぐ最大にして最強なシールドになるはずだ。君たち、そうは思わないか?

子供たちが毎朝、家庭や学校でその言葉を浴びて育つ社会にするために、私たちが今、本気で共有すべき認識は次のようなものだろう。

1. 条件付きの愛(Do)から、無条件の存在(Be)への転換

現在の教育や子育ては、無意識のうちに「勉強を頑張ったら」「良い子にしていたら」という条件付きの肯定(Doing/Having)になりがちだ。しかし、子どもが生まれてきたときの、無条件の喜びを思い出したり、想像してみたりしてほしい。

「ようこそ地球へ!」が突破力。この言葉は、成績、能力、従順さといった後付けの属性をすべて消し去ってしまうスケールのでかさを持っている。

「あなたが今、そこに息をして存在している(Being)という事実そのものが奇跡であり、それだけで合格なんだ」という絶対的な安心感の土台になるだろう。そして、ポイントは地球へ!ってことだ。日本でも、アジアでも、ヨーロッパでも、アメリカでもない。もちろん資本主義圏でもない。この地球に人類として生を享けたという希少性を考えてほしい。

この宇宙で、少なくとも我々以外の知的生命体の存在は知られていないんだ。

ズバリ言って、この希少性は、ビットコインなんかの比じゃないぜ。

2. 生存の「安心感」があって初めて人間は育つ

人間は、自分がここにいて安全だと心から信じられて初めて、他者への信頼や、世界を探検しようとする好奇心を育むことがでる。ガザやスーダン、ウクライナで繰り広げられているような非人道的な状況で、子どもたちが社会や他者への信頼感を育むことができるだろうか?(逆説的だが、そういった極限状態でこそ、他者を信頼し、個人同士が連帯しなければ生存可能性はぐっと下がってしまうことが容易に想像できるのだけれど)

現在、子どもたちはもちろん、大人も含めて、あらゆる人々を追い詰めているのは、「役に立たなければ排除されるかもしれない」という実存的な恐怖だ。死を選ぶ子どもたちという、このディストピアの炭鉱のカナリアを救う特効薬だ。

毎日「きみはかけがえのない存在だ」と言われ続けることは、過酷な能力主義の毒から子供たちの心を守る最強の免疫(バリア)になるだろう。実際、俺は自分の息子に毎日のように言っている。『生まれてきてくれてありがとう、お前はお父さんの宝物だ。』とね。

3. 教育の役割の180度反転

学校を「社会の部品をふるい落とす選別所」から、「地球にやってきた新しい仲間を歓迎するコミュニティ」へと定義し直す必要があるんだ。

「ようこそ地球へ!」という言葉には、人間を資源として消費する近代文明の傲慢さをひっくり返し、私たちが同じ地球を生きる「生命の同胞」として子供たちを迎え入れるという、最も美しく力強い決意が込められていることだろう。

さてと、じゃあいったいどうしたら教育の役割を180度転換することができるだろうか?

それには、大人たちの価値観を破壊することから始めないとな。

腕が鳴るぜ。俺の暴論、極論を楽しみにしていてくれ(笑)。