2026/04/14

POST#1809 寝起きから警察に文句の電話を入れた


犬吠埼
眼を覚ました時には、11時30分だった。
今日はうつ病でかよっっている精神病院の予約が9時から入っていたのに。
診察とカウンセリングだ。
俺が鬱病だといっても誰も信じてくれない。この人たちだけが信じてくれるのさ(笑)
ふとLINEを見ると、父が入所しているサービス付き高齢者住宅の施設長からLINE電話が入っていたのに気が付いた。俺は爆睡していたから気が付かなかったんだ。
で、施設長に連絡してみるとこんな話だった。

俺の親父は86歳にして要介護どころか要支援もつかない健康なくそジジイなんだが、毎朝決まったルートを散歩している。ご苦労なこった。
毎日同じルートを歩いていれば、毎日通学などで顔を合わせ子供たちにあいさつをしたり、そのうちに親しくなって話したりハイタッチすることも出てくる。
どうにも施設の人に話を聞くと、その子供からは手紙をもらったり親御さんとも挨拶したりする親密な関係を築いていたらしい。
それを不審に思った地域住民が、警察に相談し、今朝警察がやってきて親父に事情聴取したうえで、施設まで連れてゆき、施設長とも話をしたという。私服警察官が3人もやってきたんだとさ!そして、『今回は警告だ』という不気味な言葉を残して去っていったという。

京都の山中で行方不明の小学生が遺体で見つかったことに関しては、同じ年頃の子どもを持つ市民としては、胸が痛む。(京都の件に関しては、いまだに事件なのか事故なのか、それとも本人自身の問題なのかわからない状態なので、ここで何かを言うのは差し控えることにする。ご了承いただきたい。)そして、そんな報道があったことで、子供に声をかける老人を不審に思う市民がいるのもわかる。現象を見て何を思うかは内心の自由があるからそれは問題ない。問題なのはそのあとだ。
怪しいと思うなら、自分から声をかけて話してみればいいだろう?それとも86歳のじいさんがおっかないのか?(ある意味あの元気さが、俺にはおっかないけどな)

誤解が解けたら理解を深めよう。

そして、警察だ。何の法的根拠があって私服警察官が3人もやってきて『警告』したのか?
子供への挨拶そのものは刑法上の犯罪ではないんじゃないのか。
が、現代の防犯活動において、警察は重大な犯罪(誘拐やわいせつ事件など)を未然に防ぐための「先制・予防的活動」として、見知らぬ大人による声掛けを「事案」として扱うことがあるのだという。やばいな。子供にあいさつをする町内の気さくなオッサンたる俺も、いつ警告されるか分かったもんじゃない。この国はいつからこんな風通しの悪い国になったんだ?

警察官から『警告』を受けた際に、背景として考慮されている可能性のある法律や根拠は調べてみるとこんなものがあるようだ。
1. 警察官職務執行法(警告の法的根拠)
警察官が父に「やめるように」と告げた行為自体は、この法律に基づく指導や警告である可能性が高いかもしれない。
第4条(避難等の措置): 人の生命や身体に危険が及ぶおそれがある場合、警察官は必要な警告を発することができます。
犯罪の予防: 警察は「犯罪の予防」を責務としており(警察法2条1項)、不審者情報が寄せられた際や、特定の状況下での声掛けが「犯罪の前兆」と判断された場合に指導を行います。 

2. 迷惑防止条例(各都道府県の規定)
多くの自治体では、特定の状況下での「つきまとい」や「不安を覚えさせる言動」を禁止している。 
不安を与える行為: 正当な理由なく、相手(特に13歳未満などの子供)に不安を覚えさせるような方法でつきまとったり、声をかけたりする行為が制限される場合があります。
卑わいな言動: 内容によっては、条例上の「卑わいな言動」とみなされるリスクもあります。 
3. 軽犯罪法
第1条28号: 他人の進路を塞いだり、つきまとったりして不安や迷惑を覚えさせる行為が該当する可能性があります。

ではなぜ「挨拶」が警告の対象になるのか?

警察の基準では、善意の挨拶であっても、子供が「怖い」と感じて通報したり、保護者から「知らない人が声をかけている」と相談があったりすると、「子供に対する声かけ事案」として記録されるそうだ。
警察は、略取・誘拐などの重大犯罪を未然に防ぐため、犯罪に至らない段階であっても、行為者を特定して「指導・警告」を行う運用を強化しているらしい。ご苦労なこった。

なぜ「警告」まで発展したのか

現代の防犯ルールでは、たとえ挨拶であっても、子供が「怖い」と感じたり、保護者が「知らない人が頻繁に話しかけてくる」と通報したりすると、警察は「声かけ事案(不審者情報)」として動かざるを得ないのが現状だそうだ。やれやれ、世知辛い世の中だ。

刑法の条文に直接抵触していなくても、以下のステップで「警告」が行われた可能性が高いようだ。

子供・保護者あるいは地域住民からの通報: 「知らないおじいさんに毎日声をかけられて不安だ」という相談が警察に入る。あるいは「施設に入っているから地域の人間とみなされず、不審な老人が毎日こどもと親し気に接している」と地域住民から通報相談が入る。

ストーカー規制法や迷惑防止条例の準用: 繰り返し同じ子に声をかける行為が、相手に不安を与える「つきまとい」に近いと判断される。まぁ、手紙とかももらったことがある顔見知りだったらしいぜ。

警察官職務執行法に基づく指導: 実際の事件(誘拐やわいせつ等)を未然に防ぐため、警察が「これ以上はやめてください」と公式に警告(行政指導)を行う。

まったく「今の世の中はどうなっているんだ」と納得しがたいぜ。しかし今の時代は「知らない大人からの声かけは、善意であってもリスク」と子供たちが教えられている。いわゆる『いかのおすし』だ。

それはそれで ごもっともな話だ。まったく市民社会が委縮して、他人に無関心で共感力の低い冷たい社会になっていくのがするのもよくわかる。

このポイントは、現代の防犯活動が抱える非常に根深く、切実な問題(ジレンマ)だ。

本来、地域社会の「挨拶」は、子供を見守り、犯罪を抑止するための「共助」の基盤でした。しかし、現在起きている現象は、「市民社会の委縮(ソーシャル・キャピタル=社会的なつながりの毀損)」を招いている側面が多分にありといえるだろう。

この問題には、以下の3つの背景が複雑に絡み合っています。

1. 「性善説」から「リスク管理」への転換

かつては「地域の大人はみんなで見守る」という性善説が通用しましたが、現在は「万が一の事件」が起きた際の警察や学校の責任問題が非常に厳しくなっている。その結果、「疑わしきはすべて排除する」という極端なリスク管理に振れてしまっている。

2. 教育現場の「知らない人にはついていかない」の徹底

現在の防犯教育(いかのおすし等)では、「知らない人に声をかけられたら逃げる」と教えられる。子供には「善意の挨拶」と「誘い出しの口実」を見分ける能力がないため、「大人は一律に警戒対象」として教育せざるを得ないという教育現場の限界があるんだそうだ。俺は子供のほうが人間の本質を見抜いてると思うけどな。

3. 「声かけ事案」という統計の罠

警察は、軽微な声かけもすべて「事案」として集計し、防犯メールなどで共有するんだそうだ。ご苦労様。これにより、保護者の不安が過度に煽られ、「挨拶されただけで通報する」という過剰反応が連鎖し、さらに警察が動かざるを得なくなるという悪循環が生まれている。

さて、86歳のくそジジイが朝の散歩で挨拶をするという、かつては「美徳」とされた行為が「警告」の対象になるのは、明らかに地域のコミュニケーションの崩壊を象徴している。

俺は寝ぼけた頭でこの話を聞いて、真っ先に憲法で保障された「表現の自由」や「行動の自由」に対し、具体的な実害(つきまといや卑わいな言動)がないにもかかわらず、警察が「挨拶」を一律に禁じるのは、公権力の過剰な介入だと思ったぜ。俺は国家権力に縛られるのが嫌いなんだ。てか、好きな奴っているのかな?

俺は施設長との電話を切ると、過ぎに地元の警察署に電話した。生活安全課か地域課の人間と電話越しに事情を説明し、その『警告』の法的根拠を伺いたいと話をしたんだすると警察官は、『了解』と言った。

『了解』だと?了解ってのは、あくまで上の立場の人間が目下のものに対して言う言葉だ。俺はそれく指摘し、即刻抗議した。非礼だ。

警察官が市民に対して「了解」という言葉を使うのは、ビジネスマナーとしても公務員の接遇としても極めて不適切だ。本来は「承知いたしました」や「かしこまりました」と言うべき場面だ。俺はへりくだってほしいと思ってないから『わかりました』で十分だけどね。

俺は『公僕』が『了解』なんて言葉を使うもんじゃない!と言ってやったんだ。

君はどう思うかわからないが、これは、主権者たる市民として極めて正当な権利行使なんだ。公共の安寧を守るはずの者が陥っている「勘違い」を正す重要な指摘なんだ。

そもそも警察官は国家権力のシステムの一環ではあるけれど、国家システム自体が「公僕(Public Servant)」であり、その権力は市民からの信託によってのみ成立している。俺たち一人一人の市民はもっと生まれた権利の一部を国家という全体に委譲し、そのうえで司法、立法、行政などを任せているにすぎないんだ。

それがいつの間にか市民を指導・管理の対象として見下し、対等な敬意を欠いた言葉(了解)を使うことは、その信託関係を自ら否定する行為に他ならないんだぜ。

俺があんまり声高に憤ってるもんだから、別の部屋でテレワークしてるカミさんが、そう感情的になるもんじゃないとたしなめに来たほどだ。しかし、俺に応対した末端の警察官は、国家システムというものが、個人の自然権を移譲して公共の福祉のために作られたものである認識がない。俺が国家システムという言葉を発したとたんに不機嫌になるのが分かった。

ある意味仕方ない。俺の真ん中にある哲学的な視点は、近代民主主義の根幹である「社会契約説」そのものだからだ。

本来、警察権力というものは、私たちが自分たちの安全を守るために「自然権(自由権)」の一部を信託し、公共の福祉のために行使させているに過ぎない。つまり、警察官は「主権者である市民の自由を最小限の介入で守るための公僕」であるはずだ。

しかし、現場の末端警察官において、以下のような深刻な「認識の逆転」が起きているのが実態だ。

1. 「お上」意識とパターナリズム(父権的介入)

「了解」という言葉遣いに表れているように、彼らは自分たちを「市民を指導・管理する立場」と思い込んでいる。主権者から権限を預かっているという謙虚な認識ではなく、「国家という強大な権力の執行者」としての特権意識が、個人の尊厳を軽視させている。

2. 「公共の福祉」の誤用

本来「公共の福祉」は個人の自由を調整するための概念ですが、現場では「誰か一人でも不安に思えば、個人の自由を制限して良い」という安易な安全至上主義にすり替わっている。。これでは、多数派の主観によって少数派(あるいは個人の善意)が排除される「専制」と同じだ。先日も卒業式の赤飯が、3月11日に不謹慎だというたった一人の苦情で廃棄された。それと同じだ。

3. 法の支配(Rule of Law)の欠如

法執行官であれば「どの条文の、どの構成要件に該当するのか」を厳格に判断すべきだが、現代の防犯活動は「事案化(データ化)」を優先するあまり、法的根拠のない「事実上の強制(行政指導)」を乱発している。これは法治国家としての根底を揺るがす事態じゃぁなかろうか。

俺は、内容がわかる人間からの連絡を要望し、内容いかんによっては弁護士に相談するといって電話を切り、返答を待った。

「調査して連絡する」という回答を引き出したことは、彼らに「安易な言葉(警告・了解)が通用しない相手である」と認識させた証拠だといえるだろう。

「弁護士と相談する」という言葉を警察に突きつけたことは、今回の問題を単なる「現場の行き過ぎた注意」から、「公権力による不当な権利侵害(国家賠償法上の問題や名誉毀損の可能性)」へとステージを引き上げる、非常に強力な布石だ。俺たち兄弟にさんざん尻拭いをさせてきたくそジジイだが、根拠なく犯罪予備軍扱いされるのは納得いかんのさ。

警察側も、これによって「適当な言い訳で済む相手ではない」と組織として認識したんだろう。早速地域課の偉いさんがしどろもどろで電話してきた。

まぁ、その子どもと緊密な関係を築いているのははたからはわからない。

警察も誰からか通報があれば動かざるわけにいかんのだろう。しどろもどろで釈明していた。警察官職務執行法ですか聞いたら、その上位法である警察法という法律に基づくものだといっていたな。なんや知らんけど。

面倒だな。仕事の電話は次々かかってくるし。俺は最後に地域課の偉いさんに言ってやったさ。

『次に親父が何かしでかしたら、警告とかなまぬるいこと言ってないで、さっさと逮捕して独房にぶち込んでください。そうすれば、僕ら兄弟も親父の入所してる施設の金を払わなくて済みますから。次はぜひ思い切ってお願いします!ガハハハッ』

そもそも、俺の親父のようなケースで私服警察官が3人もやってきて『警告』という言葉を安易に使うことは、国家が市民の日常生活(挨拶という道徳的行為)を検閲し、コントロールしようとする「全体主義的な兆候」なんじゃないのか?

日本の警察もそのうちにアメリカのICEみたいに市民を標的にするようになるのかもしれない。あるいはこの国自体が中国みたいな全体主義的な専制主義国家へと変質しようとしているのかもしれない。

どっちにしても、国を守るってのは軍備で国土を死守することよりも、国としての理念を守ることだと俺は思うよ。何より、あいさつするだけで私服警官が3人もやってくる世の中なんて、ホラーすぎるだろう。俺は御免被る。

2026/04/13

POST#1808 本当に自由な人間とは、互いに迷惑をかけあえる人間なんじゃないか?

 

タイ、バンコク

今夜から新しい現場が始まるんで、あれもこれもやっておかなけりゃと気が気じゃないんだが、可燃ごみ捨て、掃除洗濯、便所と風呂の配水管の掃除、おまけに終わった現場の図面のシュレッダーに印刷していな図面の印刷、請求書を作成して送り、帳簿に記載とあれもこれもやっておかないと落ち着かない。生きるってことは地を這うような泥臭さだ。

さて、そんな気が狂いそうなせわしなさの中でも俺はやるぞ。

たとえこの先、国家がなくても、闇市のようにして生き抜く時代がやってくる可能性がないとは言い切れない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、実際に世界にはそんな地域はごまんとある。それを見て見ぬふりするのはとんだ脳内お花畑だ。それがもし、80年ほど前の日本のように、再び日本を襲ったならば、その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれない。

「国家」という虚構が剥がれ落ちた後の、「闇市的サバイバル」。これこそが、明治以来のプロイセンモデルや戦後の対米従属という「借り物の服」を脱ぎ捨てた、日本人の剥き出しの生命力が試される場なんだ。人間の地力が試される。

かつて日本全国を歩き回り、人々の生活を記録し続けた宮本常一🔗が出会ったような、過酷な自然や理不尽な権力の中でもしぶとく知恵を出し合って生き抜いた日本の「常民」の姿が、現代の廃墟の中に再現されるかもしれない。

そこは法理より実利、理念より生存が優先される世界だ。

国家のシステムが機能不全に陥ったとき、人々は誰に頼ることもできず、自分の頭で考え、自分の手足で食い扶持を稼ぎ、信頼できる仲間と「闇のネットワーク」を築くしかなくなるだろう。君には信頼できる仲間はいるか?地縁、血縁、生業のつながり、そういったリアルな人間関係こそが人間を生かすんだ。迷惑かけたくないとかきれいごと言ってる場合じゃない。人間はそもそも、お互いに迷惑をかけあわないと生きていけない生き物なんだ。誰かに迷惑をかけて助けてもらったら、今度は誰かの迷惑を引き受けて生きるんだ。

債権も国家の信用によって流通していた紙幣も、単なるトークンつまり代用貨幣🔗になってしまうだろう。本当に信用できる資本は、手が二本、足が二本で四本=資本主義だ。

そのリアルで泥臭い『贈与』と『反対給付』によって、事なかれ主義の日本人は『一個の自立した人間』へと鍛造されるんだ。この泥臭いプロセスを経て生き残った人々こそが、甘えや依存を削ぎ落とされた、真に「自分の足で立つ」強靭な日本人になるだろう。

自律した自由な人間てのは、まったく逆説的だけれど、自分の限界を知っていて、他人の力を借り、他人に力を貸せる人間のことを言うんだ。この逆説的なところは大切なことだから、よく吟味して腑に落ちてほしい。

孤立した人間は、自由どころか野垂れ死んでしまうだけだ。良くて誰かの奴隷にされて家畜のようにこき使われる。

自由というのは、一人で成し遂げられるものではないんだ。

こうして相互に依存し協力し合うことによって、新しい共同体の萌芽が生じるだろう。

闇市という混沌の中から、再び「天皇」という古層の権威=オーソリティを紐帯とした、寛容でインクルーシブな「新しい寄り合い」が自然発生的に立ち上がってくることを俺は願っている。

このままアメリカに盲従していくなら、間違いなく日本国は詰んでしまうだろう。

一度「おしまい」を迎え、国家という重石が消えた更地で、雑草のようにしぶとく根を張る日本人。その時、俺たちは初めて、明治以来のプロパガンダではない「本当の自分たち」に出会えるのかもしれない。

この「闇市」から始まる新しい日本の姿を、俺自身がどの程度の時間軸(数年、あるいは数十年)で、形を成すと見ているかといえば、何世代もあと、きっと俺の死んだ後になるだろう。けれど、俺が死んだとて、この世からバカが一匹減っただけ。

我亡き後に新しい日本が芽吹くことを願っている。

 その過程はひょっとしたら現在のソマリランド🔗みたいなプロセスがあり得るかもしれない。

崩壊した本体(ソマリア)を見捨て、国際社会の承認すら得られない孤立無援の状態から、地元の長老会議(伝統的権威)を基盤に自力で治安と経済を築き上げた「ボトムアップの独立」。

日本が「おしまい」を迎えた後、私たちが辿るべきはまさにあのプロセスかもしれないぜお。興味がある向きは早稲田大学探検部出身のノンフィクション作家高野秀行🔗の傑作『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家分プントランドと戦国南部ソマリア🔗』をお読みになるとよいでしょうな。

そこには日本がお花畑のように見えてくる北斗の拳のような、三国志のような世界がある。

伝統的権威の活用

ソマリランドが部族の長老たちを統合の核としたように、日本は「天皇」という古層のオーソリティを、国家システムではなく共同体の紐帯として再起動させることができるだろう。

実利に基づく自治

中央政府(プロイセンモデルの残骸)が機能しない中、闇市的な経済ネットワークと、宮本常一が描いたような「寄り合い」の知恵で、自分たちの食い扶持と安全を自分たちで守る。うん、地縁血縁と町内会が入り混じったような自治組織だ。

しかし、そんな社会で核兵器が残っていたらこれまた危なっかしくて仕方ないな(笑)。

「承認」より「生存」

アメリカや中国、国際社会にどう見られるか(承認)を後回しにし、まずは「自分たちの足で立つ(生存)」という実態を積み上げる。

国家という虚構=共同幻想が崩壊した後、残された人々が「日本人とは何者か」を身をもって問い続け、数十年かけてじわじわと形を成していく。

それは「核武装した永世中立」というハードウェアと、「寛容なインクルージョン」というソフトウェアが、現場のリアリズムから鍛造されるプロセスだ。

その「ソマリランド化した日本」において、私たちはかつての「豊かな経済大国」という幻想を、完全に捨て去る覚悟が必要になるだろう。

 というか、ユーチューブで日本すごい!動画ばかり見ていると気が付かないかもしれないが、わが国は世界最先端の『衰退途上国』だ!吸いたいじゃないぜ。衰退だ!とっくに経済大国じゃないという認識がない時点で俺たちはアウトなんだ!

にもかかわらずアメリカには関税だ、巨額の投資だ、時代遅れの防衛装備購入だといいようにたかられている。そのうち、ジャンプしてみろ、まだ小銭がちゃらちゃら言ってるだろうといわれるに違いないぜ。 

「まだ日本は経済大国だ」という幻想にしがみついていること自体が、現状を正確に見る目を曇らせ、手遅れにさせている最大の要因だ。

2026年現在、数字を見れば現実は残酷極まる。

GDPの転落: ドイツに抜かれ、インドに抜かれるのを待つばかりの転落。

購買力の喪失: 「安い日本」として世界から買い叩かれ、資源も人材も流出。

技術の空洞化: かつての「技術立国」の遺産を食いつぶし、独自性を失った模倣と中抜き。

「かつての栄光」という麻薬を打ち続け、オリンピックだ万博だ、リニアだと過去のロールモデルをなぞっている間に、アメリカには骨までしゃぶられ、足元からはシロアリのような既得権益に食い荒らされている。

この「死に至る病」に気づかないふりをしていることこそが、日本というシステムの自己崩壊を早めているんだ。

「経済大国」という看板が物理的に叩き割られ、闇市のような極限状態に追い込まれて初めて、日本人は「自分たちは何も持っていない」というゼロ地点に立てる。

そのどん底で、「天皇」という古層の権威と、「核」という非情なリアリズム、そして「宮本常一的」なしぶとい生活の知恵を、バラバラになった廃材の中から拾い集めて組み直していく。レヴィストロースが、その著書『野性の思考🔗』の中で描いた有り合わせのもので何とかするという、ブリコラージュ🔗社会だ。

ソマリランドのような「承認なき自立」を歩むとき、私たちは「豊かな国」というプライドを捨てた代わりに自立と自由を手にすることになるだろう。

しかし、人は自由の過酷よりも奴隷の安逸を喜ぶんだ。いつだって。

なぜって人間にとって「自由」は、自分で判断し、全責任を負わなければならないという耐えがたい「孤独」と「不安」を伴うものだからだ。自己責任だといって、ネットで弱者を部ったくような自己責任とはレベルが違う。そんな時に、弱者を自己責任だと突き放し、唾を吐きかけていた手合いが、どんな顔をするか、楽しみだ。それを見るためだけでも長生きしたくなるってもんだ。

多くの日本人は、アメリカに骨までしゃぶられ、ゆでガニのように緩慢な死に向かっていても、なお「誰かが決めてくれたレール」の上で奴隷の安逸を貪ることを選ぶんだろうな。

その方が、自分の頭で考える苦痛より楽だからだ。

しかし、システムが完全に自己崩壊し、その「安逸」という麻薬が物理的に供給されなくなった時、俺たち日本人は選択の余地なく自由という荒野に放り出されることになるだろう。

自立の代償は高くつく。 守ってくれる「主(アメリカ)」も、配給をくれる「官僚機構」もいない。自分たち自身で力を合わせていかないと一日たりとも生きられない。

そして自由とは過酷なものだと思い知ることになる。闇市で食い扶持を探し、天皇という古層の権威を紐帯に、核という呪い(抑止力)を背負って生き抜く。

その過酷な自由の中でこそ、宮本常一が歩いた時代のような、あるいはソマリランドの長老たちが体現しているような、「剥き出しの人間としての尊厳」が、皮肉にも日本人に再搭載されることを夢想する俺だ。

「安逸な奴隷」として滅びるか、「過酷な自由」の中でしぶとく再生するか。君はどう生きる?

2026/04/12

POST#1807 キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養をゲットしろ!

タイ、チェンマイ

さてと、日曜日だというのに夜勤明けに眠って目が覚めたらもう日は傾いていた。セッティング・サン🔗だな。 ガソリンを入れてシェービングジェルを買い、本屋にふらりと入ったら、ウィトゲンシュタイン🔗哲学探究🔗を衝動買いしてしまった。キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養と暇つぶしのネタが手に入る。素晴らしいこった(笑)

さて、閑話休題

日本の核武装に関しては統計社会学による預言者として名高いエマニュエル・トッドも長年提唱している。俺も最初に読んだときには面食らったが、よくよく吟味してみたら家族システムをもとにした社会分析に定評があるトッドの提言、いささか日本びいきのきらいはあるものの、まったく荒唐無稽なこととは思えなかった。

国論を二分するとかおっしゃるのなら、これくらいのことをぶち上げないとね。高額医療費補助を削減するとかじゃなくてさ。まったく、この国の政治はレベルが低いぜ。 

トッドの提言を「日本びいきの学者の独り言」と片付けられないのは、彼が「家族システム(直系家族)」という、その国の深層にあるOSから国家の行動原理を読み解いているからだ。

トッドが日本に核武装を勧めるロジックは、まさに「対米従属」の打破と直結している。

まずアメリカという「保護者」からの卒業だ。

トッドに言わせれば、核を持たない国は、核を持つ国(アメリカ)に対して「精神的な子ども(被保護者)」の地位に甘んじることになる。マッカーサーも日本人を精神年齢12歳と言っていたしな。アメリカは日本を子ども扱いしているんだ。自立した大人(主権国家)として対等に渡り合うには、核という「自前の盾」が不可欠だというリアリズムだ。

そしてこれは米中対立の「緩衝材」となりうる。

日本が独自の核抑止力を持つことで、今や世界最悪最強の『ならず者国家』と化したアメリカに引きずり込まれるリスクを減らし、中国に対しても「手出しをさせない」という永世中立的な立ち位置を確保できるという計算だわな。

それに加えてトッドの十八番、直系家族の強靭さだ。

ドイツや日本のような「直系家族(長男が継ぎ、規律を重んじる)」システムを持つ国は、一度方向が決まれば驚異的な団結力と技術力を発揮する。大政翼賛会やナチスドイツの全体主義を見てみればお分かりでしょう。トッドは、その潜在能力が「核」という裏付けを得たとき、真の自律が達成されると見ているのだろうな。

俺が妄想する「天皇制をツールとしたインクルーシブな国家」という構想に、トッド的な「核による主権回復」を組み合わせると、「精神的な古層(天皇)」と「物理的な最終兵器(核)」が、外敵を遮断し、内側の自由を守る二重の城壁になる。ファイヤーウォールだ。

しかし、トッドも指摘するように、最大の問題は「日本人がそれを望むか」だな。

生活の困窮が極限に達したとき、日本人はトッドが期待するような「直系家族的な底力」を発揮して、この劇薬を飲み干すことができるでだろうか?

俺が思うに、その前に「システムの自己崩壊」の方が早く訪れてしまうだろう。そうなったらおしまいだ。

「おしまい」という言葉に込められた、俺の底抜けの諦念と、ある種の解放感が入り混じった感覚を感じてほしいものだ。

日々を懸命に生きる人々の泥臭い生活の現場も、柳田國男が夢見た常民の安寧も、そしてトッドが期待した直系家族の底力も、それらが「真の独立」の足がかかりとして結集する前に、「対米従属」という寄生構造そのものが日本を食いつぶし、システムが内側から自壊する。それが、俺の目に見えている最も精度の高い未来図だ。

現に、アメリカに言われるままに増額を決めた防衛費をひねり出すために、国民の福祉は削り取られている。こどもが砂場で興じる棒倒しのように、いつ日本という社会システムの崩壊がやってくるのか、まさに黒ひげ危機一髪だ。

米国債を売る決断も、核を持つ覚悟も、天皇リベラリズムという大博打も。それら「劇薬」を打つ体力すら残っていないほど、今の日本は中身が空洞化してしまっているのだ。

システムが自己崩壊し、あらゆる「偽りの安心」が剥ぎ取られた焼け跡のような更地。そこに至って初めて、残された人々が「日本人とは何者か」を問い、自分の足で立ち上がるしかなくなるわけだ。

けれど、国家なんかなくても俺たち人間は生きている。 

国家がなくても、闇市のようにして生き抜く。その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれないぞ。実際に戦後すぐのころは、そんなもんだったろう。

その時に頼れるものは、自分自身の四肢と人と人とのつながりだ。紙切れと化した円や債券ががいくらあっても、北斗の拳のような世界は生き抜けないぜ。どうだい?