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| Istanbul,Turk |
人間には必ず党派性があるので、それを称賛する者も、非難する者もいるだろう。また、口をつぐむ者もいる。我が国の最高責任者も口をつぐんでいる。言わぬが花だってことか。
武力をかさに着て交渉を迫り、その交渉のさなかに空爆を仕掛けて一国の最高権力者を爆殺する。その昔の悪名高い関東軍だってそこまでの非道はできなかっただろうよ。あまりに情けなくて脱力した笑いが出てくるぜ。
去年の6月にイランの核開発施設を攻撃して、その核開発能力を挫いたといっていたはずなのに、イランはすでに核開発能力を復旧させたのだろうか?そんな核に関する優れた知見があるなら、福島の原発廃炉に協力していただきたいものだ。
どうせイラクの時のように、何も出てくることはないんだ。エプスティーン疑惑からみんなの目をそらしたいだけなんだろ?正直にいこうぜ。イスラエルだって、イスラム教徒をぶっ殺し続けていないとネタニヤフの権力基盤の維持ができないってだけだろう。
ミサイルで政権中枢をたたけば、地上軍の侵攻無しに、イランの革命防衛隊がイラン国民に対して自ら銃を置いて降伏し、体制転換ができると考えているという。なんて能天気なんだ。イラクやアフガニスタン、シリアやリビアの惨状を見てみるがいい。なんなら君も『バクダードのフランケンシュタイン🔗』という小説を読んでみるがいい。アメリカがかつてイラクで引き起こした戦争で、社会がどんなに混乱し、混沌とした荒廃に叩き込まれたかがわかるってもんだ。
いいかい、物事はいつだって、皮算用道理には進まないんだ。むしろ、いつだって最悪の事態が起こる可能性がある時には最悪の事態に至る。マーフィーの法則🔗を知らないのかしら?いつだって最悪を考えて対処するのがリスクマネジメントだ。
当のご本人は、自分には国際法も必要ないとのたまっておいでだ。まさに非理法権天。権力のあるものを裁き得るのは天しかないのか?そんな傲慢な人間が自らをピースメーカーと僭称する。単なる僭称者=タイラントにすぎないぜ。
こうして、人々は混乱に突き落とされる。貧困と危険の中で、多くの家族が崩壊し、多くの人間が命を落とす。自分の国にそんな理不尽なことが起こったら、君ならどうする。どんな時も、自分を安全圏において考えてゐてはいけない。自分の身に引き寄せて、何が正しいのか考えるべきなんだ。
俺が一番気にかかるのはトランプのものの言いようだ。いつものことではあるが。トランプはイランが『文明そのものに戦争を仕掛けてきた』と述べ自らの正当化を図る。
そこには強烈なエスノセントリズム=自民族中心主義がある。一言でいえば自己中だ。
イランにももちろん文明はある。もっと言えば、未開人とされる人々にも独自の文明がある。文明とは、進化論のように一つにつながって単線的に進み、いずれ収斂してゆくものではない。様々な形の多様な文明があるはずだ。民主主義もその一形態に過ぎないし、キリスト教文明も、イスラム教を基盤とした文明も、どれも形は異なっていても文明という点では同じだ。
文明人たる最も重要な素養は『法を定め、法に従い、他者と合意を得るために話し合うこと』のはずだ。それはアマゾンの奥地の民族集団でも、高度に産業が発達した国家でも変わりないはずだ。その点で、アメリカの大統領は自らは無法の野蛮人だと宣言しているに等しい。
ここで、レヴィストロースの言葉を引いてみよう。名著『人種と歴史/人種と文化🔗』からだ。
文化の多様性が人類によってあるがままに、すなわち諸社会のあいだの直接的あるいは間接的な関係から生ずる必然的現象として受け止められたことは稀で、むしろある種の奇形、あってはならないことと見られてきた。こと、この問題に関しては、知識の進歩はこの幻想を喪失させてより正確な見方を育むよりは、むしろ幻想を受け入れ、あるいは甘んじてその幻想を受けいれる方法を探ることにあったように思われる。
きわめて古くからあるのは、われわれが自分のものだと思っているものから遠くかけ離れた道徳的、宗教的、社会的、美的などといった文化形態を、ただひたすらに拒絶するという態度である。この態度が、予期せぬ状況に直面した時にはわれわれのなかかに回帰してくる傾向があることから見れば、おそらく確固とした心理的な基礎があると思われる。「野蛮人の慣習だ」「それはわれわれのやり方ではない」「そんなことを許してはならない」等々、見慣れない生き方、信仰のあり方、考え方に出会ったときの、あの旋律や青の反発を表現する粗暴な反応の数々である。古典時代においてはギリシャ文化(のちにはグレコ=ローマン文化)を共有しないものはすべて野蛮(バルバール)と呼ばれ、それに引き続く西洋文明は同じ意味で野性(ソヴァージュ)という言葉を使った。これらの形容詞の背後には、一つの判断が隠されているいる。すなわち、バルバールという語が語源的には、意味を担った価値である人間の言語活動に対比して、混沌とした未分節な鳥の囀りを示す語であることはほぼ確実である。そして「森の」という意味のソヴァージュというご緒、人間の文化に対立する動物的な生き方を喚起する。これら二つの事例では、文化的多様性という事実そのものが承認されていない。自分が生きている規範とは合致しないものは、すべて文化から排除して自然の中に放り棄てることを人は選好するのだ。
ー中略ー
ここではこの視点には、かなり意義深い一つの逆説が孕まれていることに注意を向けておけば十分である。「野生人」(あるいは人がそうみなそうとするすべて)を人類の枠の外に放り出すことの根拠となるこの思考態度が、まさにこれら「野生人」自身のもっとも特徴的な態度であるという点である。
(クロード・レヴィ=ストロース『人種と歴史/人種と文化」みすず書房刊34~36頁より)
俺が何を言おうとしているか、懸命にして聡明な諸兄諸姉(これはYo!ブラザー・シスターだな)にはお分かりのことと思う。
ちなみにウクライナで辺境から駆り集めた自国民や騙された出稼ぎ労働者を肉挽き機に放り込みながら、ウクライナ人殲滅を画策しているトランプの盟友プーチンも、イランのペゼシュキアン大統領あての文書で「人間の道徳と国際法のあらゆる規範を冷笑的に踏みにじる形でハメネイ師が殺害されたことにこころから哀悼の意を表す」と伝えたそうだ。
まったく、21世紀もはや4分の1過ぎたのに、俺たち人類は何をやってるんだ?北朝鮮の大将もビビりまくっているだろうけど、俺たち庶民は未来を憂うしかないのか?くそ!
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