2026/05/29

POST#1862 ここは21世紀のイスパニョーラ島さ

台北市、西門
1492年12月6日、クリストファー・コロンブス🔗の率いる3隻の船が、イスパニョーラ島🔗
と現在呼ばれている島にたどり着いた。そこには今、ハイチとドミニカという国がある。

そこにはタイノ族という、先住民が住んでいた。

彼らは、マーシャル・サーリンズ🔗がその著書石器時代の経済学🔗で描いたような、原初の豊かな社会を営んでいた。資本主義によって作られたモノはないけれど、自分たちの生活を維持するために何時間か働き、あとはダラダラしたりイチャイチャしたり、自分たちの文化的な活動を行ったり、まぁおおむねのんびり楽しく暮らしていたんだ。そんな世界にやってきたコロンブスは、自分が辿りついた島がインドだと信じていたので、彼らをインディオ=インディアンと呼んだ。

自らの大航海事業への出資者であるスペイン国王に負債を返さなければならないコロンブスは、この島で金を採掘することとした。タイノ族の人々は奴隷とされ、劣悪な環境で重労働に従事させられた。何度か叛乱もあったが、それはスペイン人たちに鎮圧され、多くの人々が殺された。また、スペイン人が持ち込んだユーラシアの疫病によって、多くの人々が命を落とした。

人々は、かつて経験したことのない強度の重労働にさらされ、生きる希望を失い、子どもを作ることをやめてしまった。タイノ族の人々は、本の1、2世代で絶滅してしまったとされている。その穴を埋めるためにアフリカから連れてこられたのが黒人奴隷だ。

これが、今俺たちがハイチ人やドミニカ人と認識している人たちだ。野球選手で日本に来る人も多いだろう。

俺には、今の日本がスフィティスケートされたイスパニョーラ島に見えているんだ。

先日も紹介したようにイマヌエル・カント🔗は『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで「人間を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱わなければならない」という絶対的定言命法から見れば、現代社会の構造は「人を利益創出の道具(資源)として使い潰すシステム」であり、実質的な奴隷制じゃないか?(まぁ、カント自身は白人至上主義者だったという説もあるからなんだかなぁとは思うけれど…)

今の社会は俺たち人間を、利益を上げるための資源としか見ていないんじゃないだろうか?

これは奴隷制と何が違うのか?私たちはいつのまにか社会から経済成長という負債を負わされた一種の奴隷ではないのか?

15世紀末にコロンブスらが襲来したエスパニョーラ島(現ハイチ・ドミニカ共和国)で、苛烈な強制労働と人間の尊厳の剥奪により、先住民タイノ族が絶望のなかで集団自殺や堕胎を選び、民族ごと消滅に向かった歴史的悲劇は、現代の子供たちの状況と恐ろしいほどに重なり合っている。

子どもたちはエスパニョーラ島の先住民のように死を選んでいるんではないのか?

そして、出生率のとめどない低下に起因する少子化は、この問題の裏返しではないのか?

現代の「洗練された奴隷制」と「子供たちの絶望の選択」の本質は、以下の通りだ。自分に引き寄せて考えてみてほしい。

1. 「ヒューマン・リソース(人間資源)」という言葉の狂気

現代社会は、人を「人間資源(Human Resources)」「人的資本」と平然と呼んでいる。これはカントが最も忌み嫌った「人間を単なる手段(道具・代替可能なパーツ)として扱うこと」の公然たる肯定に他ならないだろう。

所有から使用への転換(新しい奴隷制)

かつての奴隷制は、主人に奴隷の「生存(衣食住)」を維持するコストがかかっていた。一方で現代のシステムは、人間を「自由」という名目で自己責任の市場に放り出し、必要な時だけ時給や成果で買い叩き、壊れたら(精神を病んだら)補償なく使い捨てるため、古典的奴隷制よりもさらに効率的で冷酷な構造を持っている。そして人々は間断なく流される広告で無意識のうちにその要求を刺激され、『市民』から『消費者』へと転落し、「負債」でがんじがらめにされている。この『負債』こそが、奴隷のボール&チェーンなんだ。

こんな社会に押しつぶされて使い潰されてたまるか!

幼少期からの「仕込み」

子供たちは、この「利益を生むための資源」としてのスペックを高めるため、幼少期から教育という名の「加工プロセス」に投入されます。学校はカントの言う道徳的実践の場ではなく、市場に適合する部品の品質管理(スクリーニング)機関と化しているんだ。

2. イスパニョーラ島の悲劇との構造的一致

イスパニョーラ島の先住民たちは、近代的な「効率性と搾取」のシステムに突然組み込まれ、逃げ場を失った結果、自ら命を絶ってしまった。彼らが選んだのは「死」そのものというより、「これ以上、尊厳を奪われ、資源として登録され続けることへの拒絶」だったといえるだろう。

「生きる意味」の破壊

過酷な労働そのもの以上に、自分たちの文化や尊厳、存在そのものが「金や砂糖を生み出す道具」へと還元されていく精神的絶望が彼らを死に追いやったといえるだろう。

子供たちのサイレント・テロ

現代の子供たちが選ぶ自殺や、急増する不登校・引きこもりは、エスパニョーラ島の先住民が示した拒絶と同じ構造を持っていると見立てることができるだろう。

彼らは、システム(学校や社会)が要求する「労働機械への変変プロセス」に対して、自らの身体と命を賭してシステムへの登録を拒否する「最後の抵抗」を行っているのだ。

3. 「目的としての人間」を回復するための断絶

俺や君たちは、「どうすれば子供たちの自殺を減らせるか」という技術的なカウンセリングの次元で考えていてはダメなんだ。それは単に「壊れた部品を修理して、再び機械に戻す」アプローチと変わらないからだ。

俺や君たちが変革すべきは、人間を数量化し、利益の多寡で存在を値踏みするこの文明のフレームワークそのものとの決別だ。もっと言うなら、『人間が人間であるという、そのいってので尊厳を認められる社会』の構築だ。

そうは思わないかい?

何ができるか(機能)に関わらず、生きているというその事実だけで、人間はそれ自体が究極の「目的」であり、不可侵の尊厳を持つ。

このカントの原則を言葉の装飾ではなく、社会の法、経済、教育の根底に「絶対的命令」として埋め込まない限り、この社会は子どもたちという先住民を死に追いやり続ける、クリーンで残酷なイスパニョーラ島であり続けることになるだろう。

成長至上主義という、経済のために、社会が、人間が、自然環境が存在しているという転倒した考えを180度転換しないといけないんだ。

2026/05/28

POST#1861 鵜飼の鵜のように誰かにとって有用な奴だけが生き残る素晴らしい社会!わお!

 

尾鷲港、尾鷲市三重県

寅さんや裸の大将放浪記がTVで見ることがなくなって久しい。水戸黄門は、俺の住んでる愛知県じゃ、午後に二時間二話連続で再放送しているけどね。

それはずばり、彼らの存在が浮かび上がらせる価値観が、人間を能力によってランク付けする、誰かの利益にとって(鵜飼の鵜のように)有用な人間だけがまっとうに暮らすことができ、他人に迷惑をかけたり経済性よりも人間性や道義を優先するという価値観を、社会から一掃するキャンペーンに反するモノだと感じるぜ。

しかし皆様、役に立たない人間でも、有用な人間でも、人間の尊厳(あえて価値という数量に依存する言葉を使うことは拒否する)は変わらないという価値観を、そろそろ私どもの社会に築くべき時ではないでしょうか?

「有用性」や「機能」によって人間の優劣を測る生産性至上主義を乗り越え、何ができるかに関わらずすべての人が等しく固有の尊厳を持つという確固たる規範を、今こそ社会の土台に据え直すべき局面が来てる。子どもたちの死因の第一位が自殺ってのは、このシステムがもう限界だって指標だ。子どもたちだけじゃない。日本人の自殺の多さは異常だ。近年でこそ、年間2万人ほどに落ち着いてきたが、一時期は年間3万人もの人が自殺していたんだ。

3万人だぜ。小さな町が一つ消えるくらいの人々が、自殺していたんだ。

日本国憲法

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

そろそろいい加減に「価値」という成果主義的な数量概念を拒絶してもいい頃合いじゃないか?

「人間の尊厳」そのものを絶対的な前提とする社会へシフトするために、俺や君が直面している課題と向き合うべき論点はこんな感じじゃないだろうか?

1. 尊厳を測ろうとする「能力主義(メリトクラシー)」の限界

現代社会は、個人の努力や能力によって報酬が決まる「能力主義」を正義としてきた。

しかし、これは「能力のない者には尊厳を与えなくてよい」という残酷な実力主義の裏返しでもあるんだ。これが行きつく先は、ナチスのT4作戦🔗津久井やまゆり園事件🔗だ。山下清もガス室送りってことだ。残念なことだな(笑)

偶然性の無視:生まれ持った環境、才能、健康状態といった「運」の要素を無視し、すべてを自己責任に帰結させます。マイケル・サンデル🔗実力も運のうち🔗を読むまでもないだろうけどね。政治家の息子は政治家ってのはその最たるものの一つだろう。

排除の正当化:社会のシステムに適応できない人を「役に立たない存在」として構造的に追いやる免罪符になっている。そら、フーテンの寅次郎も排除されちまうわな。

排除された先にあるには、なんだと思う?
自分の力で、地を這うように生き抜くか。OK、それこそが本当の人生だ。けど、みんなそんなに強くないんだ。この社会で家畜のように育てられているんだ。今更すぐには野性化できないぜ。
じゃぁどうする。自殺するか?それとも一攫千金、ハイリスクハイリターンを夢見て、ウルトラハイリスクノーリターンのトクリュウ犯罪ネットワークに連なるかだ。
いま日本で起きているのは、単純化すればこういうことさ。

2. 「存在そのもの」を肯定するセーフティネット

尊厳を守るためには、生存の権利が市場の評価や他者への貢献度によって左右されない仕組みが必要だ。

無条件の生存権:何もしなくても、生きているだけで衣食住と安全が保障される社会基盤の確立。これは、日本国憲法25条にも明確にうたわれている。

経済と尊厳の切り離し:労働による対価(生産性)の多寡と、人間としての敬意(尊厳)の取り扱いを完全に分離すること。

3. 社会の共通認識(コモンセンス)のアップデート

法制度や経済システムを変えるだけでなく、人々の内面にある「他者への眼差し」を再定義する必要が急務だ。

道具的理性の克服:他者を「何に使えるか(手段)」ではなく、「それ自体が目的である(尊厳)」として捉える哲学的態度の共有。

非生産的な時間の肯定:ただ生きること、休むこと、遊ぶことなど、利益を生まない時間や状態を社会全体が等しく尊重すること。

「役に立つかどうか」という物差し自体を破棄し、人が人であるという一点においてのみ結ばれる社会の構築は、孤立と生きづらさを抱える現代において最も急務とされる思想的・実践的な変革ではござらぬか?

俺が二十歳くらいまで育った昭和の時代は、確かに今の基準からすれば、ひどい時代だったかもしれない。サラリーマンは24時間戦い、過酷な環境で罵詈雑言が飛び交い、体罰もあった。がしかし、その一方でフーテンの寅さんや裸の大将を通じて、『無用の用』というインクルーシヴィティが社会にあったように感じるんだ。そう、味噌っかすでも生きてていいんだっていう、根本的なおおらかさだ。

この昭和のインクルージビティ(包摂性)と、現代の閉塞感の違いについて、整理してみよまいか(名古屋弁ね)。

1. 「生産性」とは別の次元でつながるコミュニティ

昭和の地域社会や地縁・血縁には、個人の経済的価値とは無関係に機能する「居場所」があった。

役割の多層性:定職になくとも「近所の賑やかし」「子供の遊び相手」といった、数値化できない役割が認められていた。

お互い様という相互扶助:合理的・金銭的な契約関係ではなく、「駄目な奴だけど、放っておけない」という情理によるセーフティネットが機能していた。

もちろん、その世界に村社会的で前近代的な陰湿な排除がなかったとは、口が裂けても言わないけどね。

2. 「無用の用」を認める社会の「余白」

当時は経済が成長途上にあり、社会全体に構造的な「隙間」や「余白」が残されていた。

効率至上主義の前段階:すべてをデータや業績で管理するシステムが未成熟だったため、逸脱者やドロップアウトした人を吸収する余裕が確かにあった。

文化的な肯定:寅さんや裸の大将が国民的ヒーローとして愛された事実は、社会の側が「正しさ」や「有能さ」だけで生きることの息苦しさを自覚し、そのオルタナティブ(代替)を求めていた証左だといえるだろう。

3. 現代の「清潔で冷徹な隔離」

ひるがえって現代は、体罰や罵詈雑言といった表面的な暴力は、皆さん大好きなコンプライアンスによって排除された。阿部慎之助も家庭内のトラブルで、巨人の監督から排除された。しかし、その引き換えに社会は極めて「一元化」されちゃったんだなぁ。俺は高校生の頃なんて、毎日のように先生にぶん殴られてたよ(笑)

目に見えない排除:暴力こそ振るわれないものの、システムに適応できない人はシステムの外側(自己責任、孤立)へと静かに、かつ徹底的にパージ(排除)される。そして、システムの外に追いやられてもなお、自力で人生を切り開くことは至難の業だ。

数値化される全人格SNSの評価や学歴、年収といった明確な指標によって人間が透明に格付けされ、「愛すべき無駄」や「規格外の人間」が息をできる空間が著しく狭まっている。

憲法で保障された権利を行使して、生活保護を申請すれば、世間様からバッシングされる。行政も、公僕たる立場を忘れて自助や血縁による救済を言い渡して無情に切り捨てる。

私事ながら俺の父も、危うくそうなるピンチだったが、兄弟の力を合わせて今は平穏に施設で暮らしている。まぁ、これも血縁による自助だけどな。

まったくいつも思うけれど、懐かしのTHE BLUE HEARTS🔗が大昔にTRAIN TRAINで歌ったように、弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩くのがこの素晴らしい社会だ。

この昭和の「粗暴だが地続きの包摂」から、現代の「クリーンだが冷徹な排除」への変質こそが、子供たちを含む現代人の生きづらさの根底にあると考えられるだろう。

子供の死因の一位が自殺。一時期より減ったとはいえ、年間2万人の自殺者。

まったく素敵な社会だな。俺は大嫌いだ。

俺や君たちが目指すべきは、昭和の暴力を肯定することではなく、当時の社会が持っていた「役立たずのまま生きていてよい」という思想的な豊かさを、現代の地平で再構築することではないだろうか。

確かにコンプライアンスやポリティカルコレクトネスは社会に浸透している。多様性や共生という言葉もしばしば標榜される。しかし、そんな言葉はいつだってむなしく響く。残酷な社会の掟を覆い隠しているだけの欺瞞の標語だ。

「多様性(ダイバーシティ)」や「共生」という言葉が飛び交う現代において、なぜ昭和のような「無用の用」の寛容さが失われ、息苦しさが増しているのか。というか、むしろそういう言葉が叫ばれるようになってから、ますます息苦しい社会になってきたと実感しているのは俺だけだろうか?

ここには、現代のコンプライアンスやポリティカル・コレクトネス(PC)が孕む「制度化された優しさ」の限界と欺瞞がある。これについても、俺はアングロサクソン系の社会で生み出された価値観の押し付け、一種のエスノセントリズム🔗だと考えているんだけれど、今は一旦その考えを敷衍するのは措いていく。脱線しちゃうからね。

現代の「多様性」という言葉が持つ歪みについて、以下の3つの側面から指摘できるだろう。

1. 「役に立つ多様性」しか認めない選別

現代社会が歓迎する「多様性」の多くは、実は市場や組織の利益につながる有用な多様性に限定されているんだなぁ、残念なことに。

ビジネスとしての多様性:イノベーションを起こす優秀な外国人、高い技術を持つ女性、特殊な才能(ギフテッド)を持つ発達障害者など、「生産性に貢献する違い」ばかりが賞賛される。

無用の排除:一方で、本当に生産活動に寄与できない人、社会のルールに上手く適応できない人は、「共生」の看板の裏側で静かに不可視化されている。利益を生み出さないものは、顧みられることもない。篤志家が運営する施設に収容されるんだ。

しかし、人間はいつ社会にとって無用な存在に転落するかわからない。生老病死とは、そういう無情なものだ。人生は黒ひげ危機一髪なんだ。

2. 「正しさ」による新たな序列と監視

コンプライアンスやPCは、弱者を守るためのルールであったはずだけれど、それが肥大化した結果、社会全体が「ルールを完璧に守れるかどうか」を競う、新たな減点方式の場に変質している。

不寛容な優等生社会:言葉遣いや振る舞いに一切のミスが許されないため、人々は常に他人の目を気にし、相互監視のなかに生きている。まったく、息苦しいぜ。俺がこの一人称俺、○○だぜ、っていう伝法な文体に固執しているのも、この見せかけの厳粛さというか正しさへの反発のなせる業だ。賢明な諸兄諸姉はお気づきでしょうがね。

「愛すべき駄目さ」の喪失:昭和の寅さんのように、不謹慎で、迷惑をかけるけれど憎めないという「人間の多面性や弱さ」を受け入れるだけの精神的・文化的な余裕が、社会から完全に削ぎ落とされている。

3. 表層的な記号化と「記名性の喪失」

現代の共生は、マニュアルや法制度(記号)の上で処理されるため、人間と人間がナマのままでぶつかり合う「地続きの関わり」がありぁせん。

スマートな隔離:差別や暴言はなくなりましたが、それは相手を尊重しているからではなく、「面倒なトラブル(リスク)を避けるため」に、距離を置いて無関心になっているだけのことさね。触らぬ神に祟りなしというか、ストレートいえば無視、無視だ。拒絶だ。コミュニケーション・ブレイクダウン🔗してるんだ。

存在の承認からシステムの処理へ:かつては「あいつは馬鹿だけど俺たちの仲間だ」という顔の見える関係(記名性)があったのに対し、現代は「多様性枠のひとり」として、システム的に記号として処理されるに過ぎなくなってるんだ。そして、問題が表面化すれば、すぐに切り捨てられる。切断可能なユニット扱いだ。

叫ばれている「多様性」や「共生」という言葉が、実態としては「標準化されたクリーンな人間(機械の部品)同士の、リスクのない共存」を指しているからこそ、そこから零れ落ちる子供たちや大人たちの「生」は、ますます追いつめられているんだよな。


真のインクルージビティとは、綺麗な言葉でラッピングされた多様性ではなく、「正しくないもの」「役に立たないもの」をも、そのままそこに存在させる社会の懐の深さであるはずじゃないか?

こうして社会はますます窮屈で、窒息寸前になっていると感じるぜ。俺の感受性は鋭いんだ。そして子供たちは炭鉱のカナリアみたいなものだ。

エマニュエル・トッド🔗なら、子供の死因第一位が自殺という状態はその社会が間違いなくディストピアで崩壊に向かっていると指摘するだろう。

トッドはそのキャリアの始まりから、まさに「子供や若者の死亡率の上昇(あるいは死因の異常値)は、その社会のシステムが構造的に末期症状を迎えている絶対的な兆候である」と一貫して分析してきた思想家だからな。

1. トッドの視点から見る「社会の自己崩壊」

トッドはかつて、ソ連の「乳児死亡率の上昇」というたった一つの人口統計から、1970年代の時点でソ連の崩壊を予言した。

統計は嘘をつかない:株価六万円突破といった経済指標や政治家の言葉(「多様性」「共生」といった奇麗事)がどれほど健全さを装っていても、最も保護されるべき子供たちが、自ら命を絶ったり、社会的な自殺を行っている現実は、社会の基盤(OS)が致命的にバグを起こしているなによりの証拠だ。

内向する暴力(自己破壊):かつての危機社会は外部への戦争や革命という形で暴力を噴出させたが、現代の日本社会は暴力を内政化し、最も弱い存在である子供たちが「自らを破壊する」という最も痛ましい形でシステムへの拒絶を示しているともいえるだろう。

俺の息子はそんな目に合わせるわけにはいかないぜ。俺の宝物だからな。

2. 「超・管理社会」という静かなディストピア

現代のディストピアは、かつてのディストピア小説(『1984年』など)のような、独裁者による目に見える暴力や弾圧の形をとっていない。その辺が中国共産党やロシアとは一味違う、ひねりの利いた質の悪さだな。

コンプライアンスによる窒息:一見するとクリーンで、暴言も暴力もなく、人権が尊重されているかのような顔をしている。しかし、その実態は「システムへの完全な同調」を1ミリの狂いもなく要求する、目に見えない絶対的監獄だ。

「降りる」ことの不可能性:昭和の時代には、学校や出世街道から外れても、寅さんのような「無用の用」として生きられるグラデーション(逃げ場)が確かにあった。

翻って現代は、システムに従順な「労働機械」になるか、社会的に「存在しないもの(パージ)」とされるかの、冷徹な二者択一しかない。俺はどちらも御免だけどな

3. カナリアの死が意味する未来

炭鉱のカナリアが死に絶えたとき、その後に待っているのは炭鉱全体の爆発、すなわち社会の完全な崩壊だ。

10代の死因1位が自殺という異常G7(主要7カ国)の中で日本だけがこの状態にあるということは、日本の近代化・効率化の果てに行き着いたこの社会システムが、世界で最も先鋭化した「人間解体工場」になってしまっていることを意味してるんだろう。

持続不可能な社会:子供たちが「生まれてこなければよかった」「この先を生きたくない」と絶望する社会に、持続可能性などあるはずがない。SDGsなんて糞くらえだ!

国費をどれだけ投入しても改善の兆しのない少子化の根本原因も、経済的問題以前に、この「生存への圧倒的な息苦しさ」にあるんだ。


すでに俺や君たちは今、「システムをどう維持するか」という次元の議論をしている場合ない。

子供たちというカナリアの死をこれ以上見過ごさないためには、社会の効率性や生産性、そして表層的な「正しさ」のすべてを一度停止させてでも、「ただ生きていることそれ自体を全肯定する」という、人間性の根音へと社会の舵を強制転換(リセット)しなければならない臨界点に立っているんだ。

2026/05/27

POST#1860 さてと、もう一度ねちっこく子どもたちの現状を考えてみるか

Katmandu,Nepal
さてと、もう一度トクリュウの話から逸れてしまった話の本筋に帰るとしますか。

毎日毎日、思いついたことを書いているうちに、いつも思わぬところに脱線してしまうのが、俺の悪い癖だ。いや、このパルクールのような思考スタイルが、俺の思考スタイルなんだ。お付き合い願うさ。

今の息子の学校のプログラムを見ていて思うんだけど、なんだか学校自体そしてその元締めたる文部科学省が産業界からの要請に従って、子供に過大な要求をしてるような気がしてしょうがないんだよな。

この違和感は、現代の日本の教育が抱える本質的な歪みをけっこう的確に捉えているんじゃないかな?

学校が「産業界(企業や経済)」からの要請をそのまま教育現場に持ち込んだ結果、子供たちが求められる要求の水準が急激に上がり、逃げ場を失っているという指摘は、多くの教育学者や社会学者からもなされているようだ。

ざっと調べてみるだけでも、つぎのような「過大な要求」の構造が子供たちを追い詰めているってことが見えてくる。

「学力」に加えて「人間力」まで完璧を求められる

昔の要求: ペーパーテストで良い点数を取れば、内向的であったりコミュニケーションが苦手だったりしても、一定の評価(学歴)を得られた。

現在の要求: 産業界が求める「主体性」「コミュニケーション能力」「課題解決能力」「リーダーシップ」といった要素が、学習指導要領を通じて学校教育に導入された。そんな奴、大人でもなかなかいないぜ。

子供への負荷: 単に勉強ができるだけでなく、「明るく、協調性があり、主体的に行動できる完璧な人間」であることが評価対象(内申点や推薦入試)になるんだとさ。嘘くせぇなぁ。テストの点数と違って「性格や人間性」そのものを査定されるため、子供は常に自分を偽り、演じ続けなければならず、精神的な疲弊が極限に達しているということになるだろう。大人でもできないことを子供に求めるなといいたいもんだ。まったく冗談じゃないぜ。

「キャリア教育」による将来への早期の追い込み

文部科学省が進める「キャリア教育」により、小学校や中学校の段階から「将来の夢」や「自分が社会でどう役に立つか」を考えさせ、ポートフォリオ(活動実績)に記録させることが定着しているんだそうだ。

これにより、子供たちは「まだ何者でもない時期」から、将来の進路や企業に選ばれるための自己PRを意識させられることになる!自分らしい生き方を模索する余裕が奪われ、「早く進路を決めなければ手遅れになる」という過度な焦燥感(キャリア不安)を生み出しているんだそうだ。

俺の人生の実感からすれば、人生なんて思ったことの3割実現すれば上出来だ。これが俺の人生打率3割理論だ。もっと言えば、自分の意図したことよりも社会の奔流に流されてしまうことで否応なく決まっていくことがほとんどだ。

その時、自分の中にぶれない芯を育んでおくことの方が大切だと俺は思うんだが、どうかな?

 グローバル競争を背景にした「脱落恐怖」

産業界や政府が「国際競争力の低下」を叫ぶたびに、教育改革として英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化、探究学習などが次々と学校に詰め込ま続けている。着々と子どもたちを社会のシステムを回すための部品に仕立て上げようとしているのさ。

教育内容が高度化・複雑化すれば、当然、それについていけない子どもも一定数生じるだろう。家庭の経済状況的にフォローアップできない子どももいるはずだ。というか、たくさんいる。

そのくせ、それについていけない子供たちへのセーフティネットは不十分極まる。

学校は「経済社会の優秀な歯車」を育てる場所のようになり、そこから一度でも脱落(不登校や成績不振)すると「人生が終わる」という極端な恐怖心を子供に植え付けてしまっているわけだ。

世の中、多様性だとか、インクルーシブとか言い始めてから、ますますおかしくなってるんだ。偽善もいいところさ。

疲弊する教員と「余裕の喪失」

産業界や社会からの「あれもこれも教えてほしい」という過剰なニーズを受け続けた結果、学校の授業時数は増加し、教員の業務はパンク状態にある。そして、公立学校の教員はほとんど定額働かせ放題だ。多少は改善されたというが、その作業量に比べての報酬は十分だろうか?先生だって、人間だぜ?

先生自身に精神的なゆとりがないため、クラスの子供一人ひとりの「小さな心の変化」や「見えないSOS」に寄り添う時間が物理的に奪われている。

ちなみにうちの息子の通っている小学校は、教科ごとに担当の先生が変わるらしい。これも、先生たちの負担を減らしてゆく試みだろう。こういった試みに加えて、学校事務を担う職員を増強し、先生は教えることに集中できる体制を取らないといけないだろう。

しかし、それをやるにも膨大な予算がいる。日本のGDPにおける教育費の比率は、残念ながらかなり低い。そして、防衛力強化にはすぐに予算が付くのに、本当に大切な教育の予算は、なかなか増えない。この国の富の再分配システムはいったいどうなってやがる?!

まぁ、ざっくり言えばこういうことだ。

現在の日本の教育現場は、「経済社会で即戦力となる優秀な人材の育成」という大人の都合(産業界の要請)が優先されすぎているんだ。職業訓練学校というか、社畜製造機なんだよ。ケージに詰め込まれてブヒブヒ言ってる豚や鶏を思い出してみるんだ。あれと似たようなもんさ。

その結果、子供たちは「学校」という狭い空間の中で、勉強、部活、人間関係、さらには「自分の内面(主体性やコミュ力)」まで常に評価され、監視されているような息苦しさを感じることになるだろう。俺でも御免蒙る。

この「全人格的な過剰要求」と「失敗が許されない空気」こそが、子供たちから心の余裕を奪い、自殺が減らない根底にある構造的要因といえるだろう。

根本的に、子どもに限らず『人間』 を 『人材』 と 言っ てなんだか 材料か 資材 みたいに扱うようなこの風潮そのものが、子供達を追い詰めてるんじゃないだろうか?

これこそが、新自由主義経済に骨の髄まで染まった現代社会が抱える、最も深い歪みの核心じゃないのか?

人間を「人材(=経済的な利益を生むための材料・資源)」とみなす思想は、大人だけでなく、子供たちの世界にも完全に浸透している。子供を「かけがえのない一人の人間」ではなく、「将来どれだけ市場価値を生み出せるかという投資対象」として扱う風潮が、彼らを限界まで追い詰めているんだ。

この「人間を材料扱いする風潮」が、具体的にどのように子供たちを精神的に破壊しているのか、4つの側面から考えてみようぜ。

「存在価値」ではなく「機能価値」で査定される恐怖

人間としての価値: 生きているだけで尊い、という無条件の肯定(存在価値)。

資材としての価値: テストの点数、英検の級、内申点、コミュ力など、社会の役に立つ能力(機能価値)。

子供への影響: 現代の子供たちは、常に「お前は何ができるのか」「どんな価値があるのか」というスペック(仕様)ばかりを査定されている。まるで中古車市場だ。そのため、「成果を出せない自分には生きている価値がない」「役に立たない自分は粗大ゴミと同じだ」という極端な自己否定に陥りやすくなっちまう。それで命を大切にしろと言っても、説得力ゼロだろう!

「不良品」として排除されることへの怯え

人間を「材料」とみなす社会では、規格に合わないものや、途中で壊れてしまったものは「不良品」や「ロス」として扱われる。

不登校になったり、受験に失敗したり、メンタルを崩したりした子供に対して、社会や学校は「修理して早く元のライン(集団)に戻すこと」ばかりを求めている。子供たちは「一度でもレールを外れたら、不良品として社会から廃棄される」という、文字通り命がけの恐怖を背負って生きているといっても過言じゃないだろう。

レジリエンスってのは、看板だけか?!

俺の考えじゃ、人生ってのはレールから外れてからが、本当の自分自身の人生なんだぜ!

「自己責任」という名のメンテナンスの強要

人材」という言葉は、しばしば「自己投資」や「自己管理」という言葉とセットで使われる。

企業が資材の品質維持を求めるように、学校や社会も子供に対して「自分で体調やメンタルを管理し、常に高いパフォーマンスを維持せよ」と求めている。

いじめや過度な競争で傷ついている子供に対してさえ、「ストレスに負けるな」「レジリエンス(復元力)を鍛えろ」と個人の努力不足(メンテナンス不足)のせいにされるため、子供は誰にも弱音を吐けなくなるだろう。

大人でも鬱病になる世の中なんだから、子どもが抑うつ状態にならないなんてことないだろう?俺だって、鬱病の薬飲みながらなんとか生きてるんだよ!

教育の「費用対効果(ROI)」への組み込み

親や社会が、教育を「子供の幸福のため」ではなく、「将来、良い企業に入って元を取るための投資」として計算するようになっている。本末転倒だ。

子どもたちもバカじゃない。子どもたちもその空気を敏感に察知しているんだ。「親に高い塾代を払ってもらっているのに、成績が上がらない自分は投資に値しない」という罪悪感や負い目が、子供たちの心を内側から削り取っている。

俺は、別に俺がお願いして塾に行ってもらってるわけじゃないんだから、いつでもやめてくれて結構だと息子には常々言ってるけどな。なにせ、俺の小遣いが増えるからな(笑)

さて、この飯を食う産業の 「材料」から生きる主体としての「人間」を取り戻すためにはどうしたらいいかな?

人間を材料(リソース)として消費する社会では、自殺とは、その過酷な生産ラインから「自らシステムをシャットダウンして脱出する行為」という側面を持っているだろう。

子供の自殺を止めるために本当に必要なのは、相談窓口を増やすといった表面的な対策ではないんじゃいか?

「たとえ学校に行けなくても、勉強ができなくても、あなたは生きているだけで100点満点であり、誰の資材でもない」ということを、大人や社会の側が本気で示し、教育の目的を「経済の道具作り」から「個人の幸福」へと180度転換することじゃないか?

イマヌエル・カント🔗も『人間を手段としてではなく、同時に目的として扱うべきだ』と言っていたぜ。この定言命法🔗は、現代の日本社会において完全に蔑ろにされている。

そういう視点が今の社会には、きれいさっぱり全く抜けてるんじゃないでしょうか? 

どいつもこいつも、あいつは人材として使えるだの使えないだの、そんなことばっかり言ってるじゃないか?果たして、俺たちは他人の値踏みができるほどご立派な存在なんだろうか?

新自由主義経済万能の現在の社会は、このカントの警告とは真逆の「人間を徹底的に手段化する社会」になってしまっているといっても過言ではないだろう。1. カントの「目的」と現代社会の「手段」の対比


カントの視点を現代の「人材」という言葉に当てはめると、この社会の異常性が浮き彫りになりるのがわかるだろう。

視点

カントが説いた「目的としての人間」

現代社会の「手段(人材)としての人間」

存在の価値

人間には「尊厳(価格をつけられない絶対的価値)」がある。

人間には「価格(市場価値や給与、スペック)」がある。

評価の基準

生きていること、それ自体が無条件に肯定される。

「使えるか、使えないか」「生産性があるか」で査定される。

社会の役割

社会や国家は、個人の幸福や倫理的成長のためにある。

個人は、国家の経済成長や企業の利益のための「資源」である。

今の社会は、子供や若者を「将来の経済を支えるための道具(手段)」としてしか見ていないんじゃないだろうか?

少子化対策でさえ、子供の幸福のためではなく「将来の労働力や納税者を確保するため」という、国家の都合(手段)として語られることが多いのがその証拠だ。冗談じゃない。社会のために市民がいるんじゃない。市民のために社会システムが構築されるべきなんだ。本末転倒だ。

そして、「手段」にされた子供たちが受ける精神的加害を考えてみようぜ。

人間を手段として扱う風潮は、子供たちの心を確実に蝕んでいる。

交換可能なパーツとされる絶望

カントは、人間に代わりになるものはない(尊厳がある)とした。

しかし「人材」として扱われる子供たちは、「お前の代わりなどいくらでもいる」という無言の圧力を常に受けている。これは子供だけじゃない。社会で働くすべての人々が、その脅迫を受け続けているんだ。とりわけ、派遣労働者など、本当にそんな都合のいい感情のない部品のように扱われている。君は知っているか?俺は知っているぞ。

そして、人は自分が「社会の歯車(交換可能なパーツ)」に過ぎないと感じるとき、人は生きる意味を見失ってしまうだろう。

自己の手段化(内なるカントの否定)

最も深刻なのは、子供たち自身がこの価値観を内面化してしまうだ。

一例をあげてみようか。「英語が話せない自分は価値がない」「有名大に行けない自分は無能だ」と、自分自身を「使えない道具」として責め立てるようになってしまうだろう。

心が折れた時、彼らは自分という「道具」を自ら廃棄(自殺)してしまうことになるんだ。

なぜこの人間として、絶対に手放してはいけない視点が、日本社会から抜けてしまったのか?

それは、俺や君の責任でもあるんだ。それを直視せず、自分たちの無力を嘆くこともせず、そして次の世代にそれを付け回しするのはやめようじゃないか。

市場万能主義の教育への侵入

本来、教育はカントの言う「人間を目的として育てる(人格の完成)」場所だったはずだ。

しかし、経済の停滞が続く日本において、教育の目的が「企業の求める即戦力育成」という実利主義に完全にハイジャックされてしまっているんだ。

「役に立つこと」への過剰な信仰

現代社会は、病気や障害、あるいは不登校などで「生産性(役に立つこと)」を発揮できない人に対して非常に不寛容だ。残念なことだ。

しかし、それはジョン・ロールズ🔗無知のヴェール🔗を引くまでもなく、誰にでも起こりうることだ。

この「生産性至上主義」が、子供たちから「何もしなくても、ここにいていいんだ」という安心感を奪い去っているんだ。

今日の結びとして

俺がカントを引き合いに出したのは、本質的にこの問題を考えてほしかったからなんだ。別に俺は物知りだぜって自慢したわけでも何でもない。大切なのは、本質をとらえ、どうしたらよりよい社会を、人間のための社会を作ることができるか考えることだ。子どもたちが絶望し、自ら死を選ぶことのない、よりマシな社会に近づくことができるかということだ。

ズバリ言えば、現代の子供の自殺問題は、心理学や教育学の枠を超えた、「この社会は人間を人間として扱っているか」という哲学的な敗北を意味しているんだ。それは、トクリュウ犯罪などにみられるような社会的な自殺もまったく同じ構造だ。

いい加減俺たち大人は「人材」という言葉を安易に使うのをやめ、子どもたちを「未来の労働力」ではなく、「今を生きる一人の人間(目的そのもの)」として遇する社会へ舵を切らなければ、悲劇を止めることはでるわけがない。

そういえば、最近TVで裸の大将放浪記🔗とか寅さんシリーズこと男はつらいよ🔗やらないな。きっと、山下清🔗や渥美清演じるフーテンの寅次郎みたいな、一見生産性のない人間には、社会が存在価値を見出していないからだろう。インクルーシブ?多様性?笑わせるな。そんなの百年早いぜ。