2026/02/23

POST#1769 奉祝今上天皇

ある日の空 天の叢雲といった風情か

本日は、畏れ多くも今上天皇陛下の御生誕の祝日にて候。
などと書くと、読者諸兄諸姉もゴリゴリの左派の服部もついに右に転向したかと疑念を抱かれることであろう。
心配ご無用。
我が国の憲法 第一章 天皇 第一条には『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。』とあります。
現代風に申し上げれば、日本国および国民統合のアイコンであるということですので、右派の皆様には申し訳ござらぬが、日本国民の端くれで、なおかつ現行憲法を尊重し、あくまで護持し、その崇高にして人道的な理念の実現を図るべしと願い続けている服部めも、謹みてお祝い申し上げる次第であります。
なにせ、私の名の浩一郎の浩の字は、畏れ多くも今上陛下の皇太子時代のお名前・浩宮さまから一字を賜っているくらいですから。
ちなみにカミさんの名前は、田中角栄の娘・かの有名な女傑田中真紀子にあやかっていることも申し添えておきましょうか。まったく昭和だな。

とはいえ、今上陛下、上皇陛下並びに天皇家の宮様方が、生まれながらに背負った重責とご苦労ご心労、そして自分たちの都合で称え奉ったかと思えば、慣例を外れたとたんに手のひらを返したかのように批判するという世間の庶民の恒心の無さは言うまでもなく、日本の歴史を通じて天皇家が政治的に利用され続けてきた厳然たる事実に想いを致せば、かたじけなくもこのような不平等が、近代国家法体系の基礎である憲法の名のもとにまかり通っているのは、実に申し訳ないという忸怩たる思いが沸々澎湃と沸き上がり、土人服部の心は憂鬱で満たされるのであります。
しかしながら、庶民たる私にとっては、明日やってくる私の息子・麒麟児の10歳の誕生日のほうが自らの財布と生活に直接かかわりがあるため、重大な問題です。すでになんやかんやと毟り取られています。
さらに言えば、昨日例のくそ親父から、金がないから一万五千円くれと電話があり、憮然としながら小遣いを渡した次第ですので、それがし、いい歳をして金が貯まるわけがありません。華麗なるスルーパスです。

さて、閑話休題。
麒麟児の名は、私が夢告を受けてことから名付けられました。あれはコペンハーゲンでの夜でした。私の脳裏に稲妻のように何かが降り立ち背骨を駆け下るような感覚があり、私の脳内に「僕は麒麟児だよ」という声が響き渡ったのです。けっして、往年の相撲取り麒麟児にちなんだものではございません。
まぁ今のところ、出来のほうは麒麟児というよりむしろ、豚児と言ったほうが近い気もしますが…。親が親なので高望みはできますまい。

さて、この麒麟児、本来誕生の予定日は2月22日だったのです。この日はにゃんにゃんにゃんで猫の日とされていますが、一部ではニンニンニンで忍者の日ともされています。
実はこの日に生まれていたら、息子の麒麟児は半蔵と名付けられた可能性も高かったのです。
何せ、忍者の日に生まれた服部半蔵ですよ。
しかも、それがしの先祖・服部馬次郎は伊賀の服部郷の出身。
もし本当に2月22日に生まれていたら、八割くらいの確率で服部半蔵と名付けられ、みんなに親しまれ、いじられまくっていたことは想像に難くありません。惜しかったな。
ちなみに自分も若いころはしばしば、半蔵!とお客さんに呼びつけられたり、仕事仲間や友人から半蔵さんと呼ばれたりしたもんです。

まぁ何はともあれ、おかげさまでうちの豚児も、皆からきりんじ、きりんじと親しまれております。学校は重役出勤ばかりのフリーマンですが…。

2026/02/22

POST#1768 我亡き後に洪水よ来たれ

愛知県江南市 俺の故郷の民家の壁 味わい深い

ここ何年もの間、国家の始まる前の社会に関する人類学の本と、近現代の資本主義に関する本を中心に読書をしています。過去へのまなざし、現状への把握、そしてそこからどのような未来を構想するべきか?僕がいつも知りたいと願っているのはこういうことなんです。

人々を屈服させる権力とは、どこからどのように生まれるのか?

そうして生まれた権力を、人々が納得して受け入れ公正なものであるとする正当性、つまりオーソリティーはどこから生じるのか?

国家というほぼ無限の権力と人々の殺生与奪の暴力性を隠し持ち、貨幣という錬金術を身に着けた怪物=リヴァイアサンに易々と飲み込まれ抗うにはどうしたらよいのか?

飼育されいつか屠殺される運命の家畜のように、やすやすとだれも責任を負わない社会システムに包摂されないように、自分の人生として悪あがきして生きるにはどうすればよいのか?

また、なぜこんな不平等が許され、ますます格差が拡大するシステムを、僕達は生み出してしまったのか?

そして、そそのシステムをまるで社会に埋め込まれた癌細胞のように、全力で世界中に、それこそアマゾンの奥地にも、極北シベリアの果てまでも押し広げてしまえたのか?

そして、こんなくそったれなシステムが出来上がる前、僕たち人類はどうやって暮らしていたのか?

知りたくないですか?

さらに、どうしたらこのやらずぼったくりのようなクソな社会をあきらめて流され、資本の歯車になって使い捨ての人生を生きるという、不毛な現状を打破することができるのか?


まぁ、ざっくり言えば、これらが人類学や経済学関係の、バカみたいにお高い本を読む、僕の切迫した動機です。

そりゃ僕だって、面白い小説でも読んだほうが素直に感情移入してスラスラ読めるし、楽しいんです。けれど、波乱万丈な人生は自分の人生だけでたくさんですし、シリアスなキャラクターは自分だけでもおなかいっぱいです。

人類学や経済学の本を読むなんて、硬い岩盤にドリルで穴を穿つようにしか読めません。働きながらだともちろんのこと、年々ひどくなる老眼とかさ、この時にもなるといろいろあるでしょう?


そういえば若いころ、土木関係の仕事をしていた。道路わきのガス配管の入れ替えです。中上健次の路地サーガに出てくる秋幸のように、土にまみれ、スコップを振るい、粗暴で理不尽な世界で暮らしていました。そんななかでも休憩時間に本を読んでいると、伊勢弁訛りのきつい中年の掘方のおっさんに、「お前本なんか読んでも、腹も膨れるわけじゃなし、意味なんかねーげ!」と言われたものでした。

しかし、本を読まずに世の中の仕組みや成り立ちを知ることはできませんし、労働しなければ、日々位の糧を得ることはできません。どちらもバイクの両輪のように、自律した思考を胸に抱え、自らの足で自立して生きていくために欠かせない営みだと思うのです。


閑話休題

上にあげたような問題は、簡単に結論出る問題ではないのかもしれません。数々の碩学が挑み、あるいは情熱を持った社会運動家が人々に働きかけながらも、未完の問題だからです。

けれど、この道楽(としかいいようがないですね)の鍵は、如何に主体的に自分の人生を生きるか?ということにあるかと思っています。

漫画版風の谷のナウシカ🔗の七巻に出てきたトルメキア王国のヴ王が、すべてがほろんだ後に古代科学文明の担い手たちが再生させるはずだった”おだやかで賢い人間”を称して「そんなものは人間と言えん」と吐き捨てたように、システムにとって従順でおだやかで賢く振舞えるものなど、主体的な人間と言えんと僕も思うのです。

じゃぁどうするんだ。

カギはやり、如何に主体的に自分の人生を生きるかということにあるように感じます。

自分の中に野生の思考とを感じながら、自分自身の存在のすべてを一網打尽にからめとり、名前のない消費者や抽象的な労働力に還元してゆこうとする共同幻想のような社会にどう対峙して、自分の一度きりの人生を受け止めて、悪あがきするしかないんじゃないかと思います。

そのうえで、ほとんど無限な時空の中で、つかの間の生を如何に自らのものして生き抜き、自ら肯定して受け入れ、次の世代につないでゆくかということが大切なんじゃないかと思います。

「我亡き後に洪水よ来たれ」ではなく次の世代に責任あるものとして、よりマシな生き方を示していくことができたなら、本望です。

2026/02/21

POST#1767 原初の豊かな社会と未来の短時間労働社会のはざまで

Nepal シヴァ神の聖地 パシュパティナートの火葬場

実は自分は、こう見えてかなり完璧主義で不安神経症の持ち主だ。

最悪だ。いつだってカギを閉め忘れていないかとか、こなし忘れたタスクはないか?そんなことばかりが気になってしまう。

仕事になると、それが実に顕著だ。

みんな自分の立場から高飛車にものを言ってくる。うまくいかないイライラを弱い立場の人間にぶつける。俺は組織が守ってはくれない、いうなればフリーランスだからなおさらだ。

だから、いろいろ気になりだすと頭の中がいっぱいになってしまう。眠っているとき以外のすべての時間を仕事に注ぎ込んでしまう。

だから、仕事中に音楽とか聴きながらとかはできないんだ。気が散ってしまう。考えがまとまらない。

気にしたって仕方ないのに。自分の小心さにうんざりしてしまう。

この世のたいていのことは、死んで灰になってしまえばどうということはないことばかりなのにという、投げやりな想いも頭の片隅にある。

シヴァ神を祀る聖地、ネパールのカトマンズ近郊のパシュパティナートは火葬場でもある。

以前ここを訪れた際に、川の対岸から薪に埋もれた死者が燃やされ、水分と炭化物の混じった煙になり、また煮えた脂となって川に流れていく様を、ぼんやりと見つめていた。

ガンジス川に通じるこの聖地を流れる河原で焼かれると、来世はより良い境遇に生まれ変わるのだという。どうせなら、こんな火葬場で焼かれたいものだ。

美しい人も、勇ましい人も、抜け目ない人も、いつかはくたばる。そう思うと、心が少し軽くなる。夢も希望もないって?仕方ないさ、こう見えて俺はうつ病だからさ。

心が落ち着かないときには、本を読むのがいい。ほんの6分ほど読書するだけで、脳の興奮がおさまり、集中できるようになるそうだ。

読まなければ現代社会について論じることはできないぞという本が、山ほど積まれている。経済学や人類学の本がほとんどだ。そこに今日、友人から勧められた金村修の写真批評🔗が加わってしまった。パラパラ読んでみるとやはり面白そうだ。

仕事のひりひりするような緊張感もたまらないけれど、読書に耽溺して頭の中にダイブするような暮らしもいいものさ。

ワークライフバランスが必要だ。

成長のスイッチを、押して、押して、押して、押して、押してまいりますとか言ってる人もいるけれど、人間が押しつぶされて、自分の頭で考えることができなくなっちまうぜ。まぁ、AIの皆さんに考えていただくのがいいのかもな。冗談じゃないぜ。

そもそも、経済成長したって、庶民の生活は厳しいままだろう。

効率が上がっても、その分余計にこき使われるだけだろう。

企業の内部留保がたまり、株価が上昇するだけだろう。

みんなネットで常に浴びせかけられる広告で、差し当たって不要なものでも欲しくなっちまう。しかし、賃金は伸びず、物価は高騰する。金利が低ければ、借金してでも買うだろう。

インフレだ。いずれ資産バブルになり、それを冷やすために大幅な金利上昇がやってくるだろう。

行き詰った自由貿易体制が、自国中心の保護主義に逆回転し始めている。すでに円安に苦しむ皇国臣民の皆さんは、これから先、今以上の物価高騰に塗炭の苦しみを味わうことになるだろう。残念!


今から100年近く前、ジョン・メイナード・ケインズは「私たちの孫の世代には、労働効率が上がって、一日に3時間ほど働けば生活できるようになるだろう」と予想した。

人類学は、未開社会の人々が食べ物を入手するために働くのは、一日せいぜい3時間で、あとはイチャイチャしたり、ダラダラしたり、くだらないことでゲラゲラ笑いあったり、おならをしたり、昼寝をしたり、アクセサリーを作ったりして暮らしていたと報告している。

人類学者たちが提示した原初の豊かな社会とケインズが予言し(あっさり外れた)社会像の間で、俺たちは今日ももがき続けている。

世間様は3連休だってのに、今夜も仕事さ。やってられないぜ。商売繁盛さ。