2026/03/25

POST#1799 雨の日は憂鬱な未来を考えて精神のデフレスパイラル!

名古屋 スパイラルタワー
雨が降り出した。せっかく暖かさを増した春の日差しを感じられないとは残念だ。気分が沈むぜ。物価はまた爆上がりしそうな予感がするけどね。

さて、気分が沈み時には、憂鬱なことを考えて、精神のデフレスパイラルを愉しもう。

今日のお題は、この国はこれから、みんな大好き維新の会+自民党の数を恃んだ政権運営で、ナショナリズムで擬装したリバタリアン国家になってゆくのかしらん?

日本維新の会と自民党(特に保守派・タカ派層)の接近をどう見るかは、政治学的な視点からも非常に興味深いんじゃないかな。

自分でいうのもなんだけれど、「ナショナリズムで擬装したリバタリアン国家」という表現は、現在の日本政治の一側面をかなり的確に突いているんじゃなかろうか。

この流れをざっくり整理してみるべ。

①「身を切る改革」と新自由主義

維新が掲げる「小さな政府」や規制緩和は、リバタリアニズム(自由至上主義)に近い性質を持っている。自民党内の競争重視派とも親和性が高く、福祉や公助を削り、自己責任論をベースにした国家像へと突き進んでいる側面があるわいな。

しかし、相も変わらず我が国の民の心の中には、天皇の赤子が住んでいる。天皇陛下を家父長とした国家という擬制の家制度にすっぽりと包まれている。その心性にリバタリアニズムはぴったりとフィットしない。そこで出てくるのがこれだね。

②ナショナリズムによる補完

リバタリアン的な政策(格差の拡大やセーフティネットの縮小)は、そのままでは大衆の支持を得にくいという弱点がある。そりゃ誰だって貧乏くじを引きたくはないんだもん。

そこで、「伝統」「愛国」「憲法改正」といったナショナリズム的な情緒を前面に出すことで、国民の結束を維持し、不満の矛先を外(あるいは特定のマイノリティ)へ向ける手法が取られることになるだろう。というか、もうなってるから安心して。

③「統治の効率化」という共通言語

両者に共通するのは、民主的なプロセスや手続きよりも「スピード感」や「決定できる政治」を重視する姿勢だ。要は「コスパ重視」「タイパ重視」という底の浅い『丁寧な議論』だ。

ここに含まれた強烈な皮肉、わかってもらえるかな?

これが、個人の自由を尊ぶ本来のリバタリアニズムとは裏腹に、国家権力を強化する方向へ向かう矛盾(オーソリタリアン・リバタリアニズム的な動き)を孕んでいるわけだ。

異なる方向のベクトルが統合されるみたいなイメージだね。

現状では、この2党の連立や協力が深まれば、経済は徹底した市場主義、効率主義を志向してゆくだろうし、その一方で社会道徳や安全保障政策は保守・ナショナリズムという、一見矛盾したハイブリッド型の国家を目指す動きが加速する可能性は高いんじゃないかな。

君はこういう「新自由主義と保守主義の合体」が、俺たち下々の一般市民の生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)にどう影響すると思うかい?

俺のこの先の世の中の展望は暗い。星もない夜の闇のように暗い。俺たち下々の市民は、構造的に抜け出せない円高、生活必需品の高騰、そして相も変わらずの逆新型の税負担によって、ますます困窮の度合いを深めていくことになるだろう。

しかも、社会システムに起因する困窮も、結局は自己責任によるものとされ、俺たちは生産性の低い人間の屑だと自分たちを情けなく思うことに相成るだろうさ。

つまり時代遅れのセイフティーネットはほころびだらけで、物価高は放置され、税金は取られ、富裕層や大企業、あるいは経済特区に降臨した外資に投入される。

こんな「新自由主義の極北」とも言える光景が、現実味を帯びて近づいてきている。きっと気が付いたときには、もうずっぽりとそのシステムにはまって身動きもとれない。

俺たちを待ち受ける「搾取のスパイラル」を予想してみようぜ。

①自己責任論の武器化

困窮を個人の努力不足にすり替えることで、本来国家が果たすべき「生存権の保障」を免責させ、セーフティネットの解体を正当化する論理だ。生活保護受給者はぶったたかれ、生活困窮者は努力しなかったから、勉強しなかったからと困窮するのが当たり前とされるわけだ。身の回りにもそんな目にあっている人はいないかい?

②富の「上」への再分配

物価高で実質賃金が目減りし、一般市民の購買力が奪われる一方で、その裏側にある増税分や社会保険料が、大盤振る舞いの軍事力増強や「経済特区」という名の大企業・外資への優遇策(補助金やインフラ整備)へと流し込まれる構図だ。

③ナショナリズムによる目隠し

生活が苦しくなればなるほど、「国益」や「外敵への脅威」を強調することで、市民の怒りを本来の敵(格差を生む政策)ではなく、外側の対象へとそらす機能が働くだろう。

外国人は排斥される、日本に救いを求めてきた難民は厄介者として強制送還される。仮想敵を生み出して、軍事力増強と憲法改変を正当化する機運を熟成する。もう、これは現実になっている。

かつて一億総中流と称賛されたこの国に、素敵な未来が待っているのさ。

これは「自由」を標榜しながらも、実際には「強者のみが自由に振る舞い、弱者は自己責任という名の鎖に繋がれる」国家の姿だ。特に外資や特区への傾倒は、かつての植民地経済に近い、国家の切り売り(アセット・リッピング)に近い性質さえ感じさせるんじゃないか。

幸いなるかな経済的に豊かな者。天国は汝らのものなりだ。

そのうち生麦事件みたいなことが起きないか楽しみだ。

とはいえ、精強で鳴らした薩摩隼人じゃなく、今の去勢された日本人じゃ無理だろうな。

2026/03/24

POST#1798 けど俺たちにいったい何ができるってんだ?

木蓮が咲く、次は桜だ

けど、俺たち庶民にいったい何ができるっていうんだ?


強大な国家権力にぺしゃんこにつぶされたり、つるし上げられてさらし者にされ、社会的に抹殺されるのが関の山じゃないのか。


今日も左派ご用達のA新聞で、政府の進める行政の一元化のためのガバメントクラウドの導入によって、小さな自治体ではかえって運営経費が倍増する例もあるという報道があった🔗。一番受注しているのは皆さん大好きなアマゾンのAWSだ。

ここでも皆さんの納めた税金がアマゾンに吸い上げられてアメリカの利益になっていく。アメリカの兵器を爆買いし、アメリカの関税を回避するためにアメリカに大盤振る舞いし、挙句の果てに国家事業、それも国民の様々な情報を扱う行政の根幹にかかわる事業ももアメリカ企業。

これどうなのよ(笑)。アメリカさんのゾックはきついぜ。この状況で、俺たち市民に何ができるっていうんだろう。


そんな中でもかすかな「抗い」の手がかりを整理すると、以下のような視点が見えてくる、ような気がする。


①「ゾーン」の可視化と連帯

米軍基地、夢洲のIR、あるいは神宮外苑の再開発など、一見バラバラに見える問題を「これらはすべて、私たちのコモンズ(公共の財産)を奪い、例外的なゾーンを作る動きなのだ」と同じ構図で捉え直すことが必要なんじゃなかろうか。つまり俺たちの認知・認識の問題だ。地域ごとの反対運動が横に繋がり、「これは私たちの主権の問題だ」と共通の言語を持つことが第一歩になりうるかもしれない。


②「法」の内側からの抵抗

ゾーンは意図的に作られた「法の穴」だけれども、その穴を開けるプロセス(条例制定や公金投入)には、依然として既存の国内法や議会手続きが必要なはずだ。

現在、夢洲IRを巡って起きている住民訴訟や、米軍基地に関する知事の権限行使などの抵抗は、ゾーンという「例外」を、再び「法の支配」の下に引き戻そうとする重要な試みだといえるだろう。どうせ国の権限によって突き進むんだから同じことだと、国民自身が冷笑的になってあきらめたら、ゾーンを作りたい皆さんの思うつぼだ。


③小さなコモンズを「勝手に」作る

大きな政治が変わるのを待つのではなく、自分たちの手の届く範囲で、市場原理に支配されない空間(地域の集い、協同組合、情報の共有など)を維持し続けることも必要だろう。

市民自身によって作られる自発的な連帯、ソリダリティだ。

スロボディアンが描く資本主義の「割れ目」に対し、俺たちは「共生の割れ目」を社会の中に作っていくというカウンターパンチ的な発想だ。しかし、それにはバラバラになっている市民社会を、足元から再生させる地道な営みが必要だ。言うは易しだが、結構厳しいのは重々承知だ。


④「効率性」という物差しを疑う

経済成長のためにはゾーンが必要だ」というロジックに対し、「その成長で誰が幸せになるのか?」「失われる公共の価値はいくらなのか?」という問いを投げかけ続けることだ。

これは昔々、今は亡き経済学者の宇沢弘文🔗先生が、「自動車の社会的費用」などで社会に問いかけた問題に通じると思う。国費を投入したモータリゼーションによって、なにが奪われ、あるいは事故によって死傷する人がどれほど増加し、その損失を補償することにどれくらいコストがかかり、それが投じられるコストに果たして見合うのか、それによって国民の幸せはどれほど向上するのかという問題だ。

2026年現在、万博のコスト増大などで「効率的だと言っていた計画が実は非効率だった」という現実も露呈し始めている。イケイケどんどんのパビリオン建設で、未払い問題が噴出し、いまだ寡聞にして解決したという話を耳にしていない。


スロボディアンが描く「ゾーン」という戦略がこれほどまでに強力なのは、それが「経済成長」や「効率性」といったもっともらしい言葉で包まれ、私たちの日常生活から巧妙に切り離されている(不可視化されている)からだろう。

このベクトル上に現れる憂鬱な将来を回避するためには、既存の政治勢力つまり政治家のセンセー方に期待するだけでなく、俺たち自身が「これ以上、自分たちの場所をゾーン(例外地)にさせない」という意志を、日常の選択や小さな対話の中で示し続けるしかないのかもしれない。

そして何より、世の中にはそういう実態があることってことを、俺たち市民一人ひとりが学ぶこと。 そしてそれに承服できないと感じたなら、きちんと反対していくことしかないんじゃないかなぁ。頼りないけど。


けど、俺たち庶民にいったい何ができるっていうんだ?」という閉塞感の中にいても、「実態を知り、拒絶する」という基本姿勢を崩さないことはできるんじゃないか。いやなものは嫌なんだって。

それが、俺たちの社会を資本力を持ったメンバーズオンリーな「ゾーン」と、それに奉仕する「市民」という名の奴隷の集合体にさせないための、最も泥臭く、かつ最も確実な抵抗の土台になるのではないかしらん。


憂鬱な将来を突きつけられた時、そこで思考を止めて、もう決まったことだ、仕方ないと受け入れず、「それは何かおかしい」「それはだれの利益になるのか」と言い続けることは、まさにコモンズを取り戻すための出発点ではないでだろうか。


けど、正直言ってこの国でそういうことを言うのは、なかなか厳しいかもな。

俺の心配が杞憂であってくれることを、心から願うぜ。


とりあえずは、change.org🔗でものぞいてみようぜ。いろんな人が声を上げている。

2026/03/23

POST#1797 小さな行動をあきらめちゃいけない

一宮 椿の花がぽとりと落ちていた

高市首相がトランプ大統領との会談した際、ホルムズ海峡での自衛隊派遣を何とかかわすことができたのは、自民や維新の皆さんが目の敵にして何とか骨抜きにしたり改変したりしたくてたまらない憲法九条のおかげさまだった。

日本は朝鮮戦争の時にも、当時日本を占領していたGHQの指示で機雷掃海艇を戦場に送りこみ、死者も出している。そんなことにならずに済んで本当に良かった。

いつだって戦争をしたがる奴は、自分は戦場にはいかない。

「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだと思っている。そのために私は諸外国に働きかけてしっかり応援したいと思っている。」とは、さすがは高市首相。余人にこの言葉は吐けまいて。俺は思わず噴き出したし、そのあと本気かよと独り言ちた。

対米従属を通り越して、もうゲイシャ外交ここに極まれりだ。脱力して笑うしかない。

いつだって戦争したがる奴が平和を守ってるんだとさ!


さてと、先日の話に戻ろうか。

スロボディアンが破壊系資本主義🔗のなかで描く「ゾーン」の増殖は、俺たち市民一人ひとりが共有し、管理し、享受すべき「コモンズ(公共財・共有地)」の解体と表裏一体だ。

2026年現在の視点で見ても、この懸念は極めて深刻なリアリティを持っている。

俺が町内会や子供会を大切にするのは、それも一つのコモンズを守る営みの一環だとおもっているからなんだ。

俺たちの社会からコモンズが失われ、社会が「ゾーン」の集合体になってしまったときに何が起きるのか…。その憂鬱な近未来のシナリオを整理してみる?

皆さんは、自分には関係ないかとお思いかもしれないが、意外とそうでもないと思うよ。


①「島」に取り残される人々(格差の固定化)

ゾーン(IR、特区、基地)は、特定の資本や権力を持つ人々にとっては利便性の高い「天国」ですが、そこから排除された人々にとって、公共サービスや法的保護は「コスト削減」の対象として削られていく。

コモンズ(公園、図書館、医療、インフラ)が民営化され、アクセスに「料金」が発生するようになれば、生活そのものが課金制のサービスのようになってしまうだろう。

現に、わが国の財務省の皆さんは国立の博物館などに、自ら稼ぎ経費を賄えと通達し、それができなければ統廃合も視野に入れているという。

民営化された日本郵便グループが、不祥事のデパートになっていたりするのも、まぁ似たようなもんだ。


②民主主義の形骸化

「ゾーン」の中では、意思決定の主体は有権者ではなく、株主や投資家、あるいは他国の軍事当局だ。自分の住む土地で何が起きるかを自分たちで決められないという「無力感」が社会全体に蔓延し、政治への諦めが加速するだろう。

沖縄ではもうすでにこれが何十年も続いてる。

娘がレイプされても、アメリカ本国なら絶対に許されないところに滑走路があっても、学校にヘリコプターが落ちても、基地の周りからPFASが高濃度で検出されても、日本人にはなすすべがない。

完全に治外法権だ。

日本政府も、アメリカに従属するしかないから、沖縄県民の声なんて聞かない。むしろ潰しにかかってるのは皆さんよくご存じの通りさ。


③法的保護の「パッチワーク化」

かつては日本全国どこにいても同じ労働法や環境法で守られていたが、ゾーンごとにルールが異なれば、国民の権利はバラバラになる。

「このゾーンでは残業代が出ない」「このゾーンでは環境基準が緩い」といった例外が常態化すれば、法治国家としての均質性は失われる。

日本各地に設置されているアマゾンの巨大倉庫も、ある意味で小さなゾーンだといえるだろう。

実際に、アマゾンの倉庫なんかでは、作業員が倒れてもすぐに救急車は呼ばれないそうだ。本当に日本の労働規制が守られているのか、まったく不透明だ。


④「公(パブリック)」の消失

本来、国家や自治体の役割は、市場原理では解決できない人々の生存や文化を支えること(コモンズの維持)にあったはずだ。

しかし、右派的な「ゾーン建設」に邁進する勢力は、その「公」を「非効率なもの」として解体し、切り売りし続けている。



スロボディアンは、こうした「ゾーン」化を「民主主義を封じ込めるための技術」と呼んでいる。

国民生活が成り立つためには、市場でも国家でもない、市民が共に支え合う「コモンズ」というセーフティネットが不可欠だ。

その地道で小さな営みこそ、市民にできる抵抗なんだ

それが「ゾーン」という名の利権と隔離の空間に飲み込まれていく現状に対し、どのようにして「共有の場所」を取り戻していくかが、これからの大きな課題になるだろう。


スロボディアンが描くような強大な資本と政治が結託した「ゾーン化」の流れを前にすると、個人の力ではどうしようもないという無力感に襲われるのは当然のことだ。

具体的に「これだ」という解決策が見えにくいのは、このシステムが「人々に諦めさせ、思考を停止させること」自体を統治の手段としているからに他ならないんだ。


けれど俺たちは自分自身で考えることを、自分たちでできる小さな行動を起こすことを無駄だとあきらめてはいけないんじゃないかな。