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| ベトナム阮朝の旧都フエ。街角をスクーターが疾走する。 |
Fragment
2026/10/13
POST#1981 君は自分の家にアメリカの海兵隊の皆さんをホームステイさせてみる気はあるかい?
2026/10/12
POST#1980 あらためて言っておくけれど、民主主義国家なんだぜ、この日本は
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| ベトナム阮朝の旧都フエ。かつての王宮の裏手の池には素晴らしい光が差していた |
睡眠負債はたまりまくってる。本を読むこと、眠ること、年老いた俺にはそれが愉しみだ。
夢で、このブログをまとめた素敵に分厚い本が出版される夢を見た。本当に分厚い。判型は特殊な正方形のもので、上質な表紙に厚さ7センチはあろうかという分厚いものだった。価格は12500円+TAX。夢にしては妙に生々しいのが笑えるな。
さて、大日本帝国はいざ知らず、今日の日本国について考えてみよう。
この国の主権者はいったい誰なのか?
この国の方向性を決めているのは、いったい誰なのか?
この国に生きる俺たち一人一人は、誰かに支配されているのか?
誰かに支配されているとしたら、その自覚はあるのか?
俺が今日、俎上にあげたいのはこういうことだ。
この日本国が民主主義国家を標榜している以上、その主権者は一人一人の国民だ。
俺や、君や、表を歩いているそんなこと考えてもいないような老若男女の一人非チリがこの国の主なんだ。自民党でもない。高市早苗でもない。麻生太郎でもない。天皇陛下でもない。
一人一人の国民こそが、この国の主なんだ。君は理解してくれているだろうか?
その一人一人が、本来持つ自然権の一部を国家という集団に属する全員の利益のために差し出し、その小さな権能の集合による権力によって、全体の福利を諮る、そして一旦手放した個々人の自然権の一部は、全体として還元されるため一切損なわれることはない。それが、近代国家の基礎的な理念だ。これを構想したのは、誰あろう、ジャン・ジャック・ルソーだ。これが社会契約論という考え方だ。
自らの自然権を平等に差し出す代わりに、国家のメンバーとしての福利を等しく得るというモノだ。そこには、天皇を中心とした神の国とかいう観念の入り込む余地はない。
この社会を運営していくための代表を選ぶために行っているのが、国政選挙や地方自治体の選挙ということだ。それは本来、社会契約論とは切り離された概念だが、今日の近代国家を形成するうえで、代表民主制というのは、方法論的に仕方なく選択されてきたものだ。
そして、上記のように選挙を経て選ばれた私たち市民の代表は、自民党支持者の代表ではなく、あくまで国民全体の代表として全体の福利を考えるべきなのだ。自分に投票しなかった人たちには、予算をつけないなどということは、民主主義を破壊する行為でしかない。
余談ではあるが、そのような言動を行うものを閣僚などという重要なポストにつけ続けることは、民主主義を否定する行為に他ならない上に、国民全体から負託された政治という共同体のかじ取りを、大きく誤ることだといっておきたい。
これを逆照射して考えてみれば、国家とは、国民一人一人の集積に他ならないということだ。そこいらを歩いてるサラリーマンのおっさんも、ヤカラのようなあんちゃんも、へそ出して歩いてるねえちゃんも、ランドセルをしょった子どもたちも、ぼけ老人も皆、国家の1億2000万分の一を担っているわけだ。
どこかに支配者がいて、それらの大衆を支配しているわけではない。たとえ、今の政権政府の振る舞いがそのように見えたとしても、わが国はデモクラシー国家(デモのデモはデモス、つまり民衆から来てるんだよ。デモは無力だという言説は、民衆は無力だといっているのと同じなんだ)であり、けっしてアリストクラシー=寡占制国家ではないんだ。
政治家の皆さんも、俺たち自身も、すっかり忘れているかもしれない。しかし、だからこそ、俺はここで声を大にして言うべきだと思うんだ。
この国は民主国家で、主権者は俺たち国民一人一人だということを。
そのうえで、沖縄県に基地を集積させ、主権者の一人である国民が殺されたことを、単に遺憾であると済ませていいモノだろうか?
遺憾であると済ませてしまう無為無策の根底には、一人一人の国民を、支配される捨て石のように考える思想がないだろうか?
かけがえのない一人一人の人間を、単なる記号のように扱っているのではないだろうか?
思想の左右、政府への距離によって、経済的生産性によって、国民の存在価値=生命の尊厳に優劣をつける郵政思想がないだろうか?
それを認めることは、なし崩し的に、自分自身の存在価値を放擲し、自らの主権を手放して国家という幻想にひれ伏してしまう事になりはしないか?
もう一度君たちに聞いてみたい。
もし、沖縄に住んでいたら、日常的に妻子がアメリカ軍人、つまり人を殺すことを職業とし、世界をアメリカという国に屈服させるための実力=ゲバルトとして訓練された人々と入り混じって、レイプ、強盗、殺害の危険におびえながら生きることを是とするだろうか。
沖縄県民ももちろん、我々と同じ民主国家の成員なのだ。
それとも、中国の脅威に備えるために我慢しろと?
クラウゼビッツが言うように、戦争とは違う形で行う政治の延長だ。だとすれば、政治の力でいかようにでもコントロールできるはずだ。
国民のすべてに、仮想敵を作りだし、敵だと思わせ、犠牲を強い、危機へといざなう。そのような政治のあり方が果たして民主主義国家に属するすべての国民の負託においてなされるべきものだろうか?
右でも左でもなく、近代的な国家観の観点から俺は異議を唱えたい。
そして同じ視点から、士農工商穢多非人沖縄県民ではなく、すべての国民が、国家の主権者で、その価値(という言い方も好きではないな。)いやさ、存在意義に何ら差はないはずだと声を大にして諸君に訴えたい。
明日も続くぜ。明日からは沖縄と米軍基地をめぐる思考実験だ。お楽しみに!
2026/10/11
POST#1979 軍隊というのは凶器そのものであり、国家というシステムがはらむ狂気なんだ
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| 阮朝の旧都フエ、街の中心街では結婚式だろうか。着飾った男女が歩く。羽振りのいいやつも悪い奴もいる。 |
要求はするけれど、在日米軍基地は日本国内にありながら、日本国の法が通用しない世界だから、要求することしかできない。
そして、法体系の面でも、在日米軍いや、世界各地に展開するアメリカ軍は『旗国法原理』という法原則に則って活動している。
つまり、世界中どこで活動しても、その相手国の法律よりもアメリカの法が優先される、もっとストレートに言えば、軍隊の規律が優先されるという法原理だ。
でなければ、海外で(アメリカは自国内で戦争したことは独立戦争と南北戦争しかないことを覚えておいて)海兵隊が乗り込んで、敵対する国の国家元首などを急襲し、拿捕した場合、あぁ、つい最近のベネズエラみたいな場合さ、もし属地法主義、つまり現地の法体系に照らせばそれは明々白々な犯罪行為となる。
それでは、どんなオペレーションも不可能だ。
ちなみにアメリカやロシア、そしてイスラエルなどがICC🔗つまり国際刑事裁判所🔗への加盟を頑なに拒み、なおかつ180日以内の解体を主張している狂気の沙汰の根本には、自国の軍民が、他国の国民へ戦争犯罪ともいうべき理不尽な攻撃を行った際に、国際的に指名手配され、訴追されることを恐れているからだ。ウクライナのブチャ、ガザ、そして今回のイランへの攻撃で小学生140人が突如としてミサイルでミンチにされるようなことになっても、誰も裁かれたりしないようにするためだ。
さて、古い話で恐縮だが、1954年群馬県相馬で、米軍基地内で薬莢を拾い集めていた女性を、アメリカ軍の軍人ジラードが戯れに射殺した。世にいうジラード事件🔗である。
ジラードは彼女の目の前に薬莢を放り投げ、そのうえで射殺した。
この無法に対して、当初は日米双方は日本側で裁判を行うことで合意していたが、アメリカ国内では日本の裁判権行使に対して反対する世論が巻き起こった。
かなり紆余曲折したのちに、日本側で裁判を行うこととなり、ジラードには懲役3年、執行猶予4年という判決が下された。執行猶予4年ねぇ…。
こうした事態が相次いだこともあり、日本各地の自治体の首長たちは、県内の米軍基地に対して反対を表明し、基地の撤去をうったえることとなる。それは、つい先日の沖縄知事選で敗北した玉城デニー氏と何ら変わりない。この日本各地で展開されたオール沖縄のような各地方自治体の米軍基地への強い反発によって、次第に米軍基地は当時未だアメリカ占領下にあった沖縄に集中していくことになる。
玉城デニー氏を中国の手先のように言う右派の方々も多く見受けられたが、けっしてそれは正しくない。自らの県民の生活の安全を守ることは、自治体を預かるものとして当然だからだ。この視点を頭の片隅に置いておいてほしい。
沖縄にアメリカ軍の基地が集中しているのは、右派的な脳みその皆さんが主張するように、対中華人民共和国シフトでも何でもなく、アメリカ軍が日本人に煩わされることなく活動できるところに移っていっただけに過ぎない。今日言われる西南シフトなるものは、沖縄に米軍基地が集中していることと、何ら関係は、ない。
沖縄が本土に復帰した2年後、沖縄県伊江島の米軍飛行場に牛の飼料とするため、演習場のゲートから、警備員にとがめられることもなく入った基地内に入って草刈り作業をしていた男性を、アメリカ軍の兵士がジープで追い回し、信号弾を発射した。この信号弾は日本人男性の腕に命中し、受傷した。
これに対して、アメリカ軍はジープを運転していた兵士と信号弾を発射した2名は、公務執行中であったして、公務証明書を発行し、日本側は両名の裁判権を諦め、アメリカ軍の司法にゆだねることとなった。これは伊江島事件🔗と呼ばれる事件だ。
以降、大雑把な発言をお許しいただければ、アメリカ軍兵士及び軍属(軍隊関連の組織、それは米軍向けのスーパーの従業員も含まれる)の犯罪は、何かと公務執行中ということになることになった。途中でスーパーで買い物をした後に道路を逆走して日本人を殺してしまっても、公務中となった。
今回の女性殺害事件に関して言えば、日本の警察が容疑者の自称メキシカンキラーのデビン・ジェイコブ・バラード海兵隊員(20)の身柄を確保したが、多くの場合、米軍が犯罪者の身柄を押さえている場合、日本司法は、その裁判権を自発的にアメリカ側に譲るという運用がなされてきた。自発的にね。
つまり、日本はアメリカ軍人や軍属の犯罪に関して、よほど迅速に基地の外部でその身柄を確保しない限り、『旗国法原理』の壁に阻まれて、彼らの犯罪を裁くことはできないのだ。
これが、日本だけでなく、韓国やNATO諸国をはじめとした世界各地でアメリカがやっていることだ。
しかし、なぜこんなことがまかり通るのか。
それは、そもそもアメリカ軍という組織が、軍隊であり、軍隊という存在は、どんなにきれいごとで取り繕ったにせよ、自分たちと異なるカテゴリーや国家に所属する人間を、痛めつけ、殺し、制圧し、無力化し、収奪することを目的とする組織だからだ。
アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じるのは結構だ。これは憲法が保障する内心の自由だ。
しかし、現実問題として軍隊という組織は、まさに凶器そのものであり、国家というシステムの持つ狂気そのものだということだ。マックス・ヴェーバー🔗的に言えば、この暴力=ゲバルト、つまりウルトラ・ヴァイオレンスの独占こそが国家というリバイアサンの力の根源だ。トランプ政権の下で、かつてないほどとち狂ったアメリカが世界のスーパーパワーであり続けているのは、沖縄はもちろん、グリーンランドやNATO諸国、中東各地に米軍基地を配備し、その暴力のネットワークで世界を抑圧しているからだ。
今日の結びに言っておこう。
中国人民解放軍の脅威を主張する人は数多いる。
しかし、中国人民解放軍によって殺された日本人は、戦後80年余りで0人だ。
対して、アメリカ軍の引き起こした事件事故によって命を失った日本人は1600人以上に上る。死亡事故に至らない事件・事故も含めれば21万件以上。そのおよそ76%が公務外のものだ。そして、これらは氷山の一角に過ぎない。
そして、そのたびにわたしたちの政府のできることは、遺憾の意を表明することだけだ。情けない話だ。国家とは、政府とは何なんだろう。明日はそこから考えを進めてみよう。

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