2026/05/03

POST#1838 外は雨。国家という幻想の成立を、隆明さんと辿ってみるかな

新宮市。神倉神社より太平洋緒を望む。伝説の神武天皇もこの風景を見たことになっとる

今日は憲法記念日だ。自民党を中心とした戦争したい右派の皆さんがしきりと改憲を訴えているが、それは泥棒が刑法を書き換えようとしてるようなもんだ。みんな注意しろよ。

憲法とは、国家の主権者たる私たち一人一人の市民から政治家や行政や司法に携わる公僕に与えられた、このように国家を運営せよという命令書なんだ。ほかの法律とは分けが違う。

だから、政治家共が発議して、憲法を変えようってのは、泥棒が刑法を自分のいいように書き換えようという試みに他ならないんだ。みんな、騙されてはいけない!気が付けば私たちは国家の主権者ではなく、支配システムの奴隷に成り下がってしまうぞ!

かつて麻生漫☆画太郎も『ヒットラーやり方を見習ったらいいんだ』みたいなことを言ってただろう?俺は忘れていないぞ、あの時の麻生漫☆画太郎のひきつったような悪党面を(笑)

ヒットラーが当時世界で最も先進的で民主的だったワイマール憲法のバグを使って、ファシズム国家を作ったように、俺の愛するこのクニにディストピアを生み出すわけにはいかのんじゃ!

閑話休題(こんな大事な話が暇つぶしとは、俺もまったく狂ってるな(笑))

先日、施設に入ってる親父を銀行に連れて行った際に、親父は死んだ婆さんが後生大事にとっておいた『聖徳太子🔗の一万円札』を持ってきて、これを俺の息子に託したいというんだ。

そんなもの渡しても、豚に真珠であっという間にプラレールかNゲージに変わっちまうわさ。さようなら、聖徳太子!今の若者は知らんだろう!和国の教主だ。冠位十二階だ。日出る処の天子だ。右派の政治家が反対意見を封殺するときに、錦の御旗で持ち出す『和を以て貴しとなす』の十七条憲法だ!俺はあれは議論しないことじゃなくて、徹底的な熟議と合意によって遺恨と分断が残らないようにすることじゃないかと思うんだが、さぁ、君どう思う?

さて、俺は親父に『馬鹿野郎!そんな銭があるならあんたの借金返済の足しにでもしやがれ!死んだ婆さんが浮かばれないぞ!』って一蹴ローリングソバット決めたったわ!

さて、一万円札の後続打者・福沢諭吉と渋沢栄一によって歴史の闇に葬り去られた感のある聖徳太子が、俺の人生の一コマにひょっこり姿を現したのは、何かの符牒かそれとも千五百年前という遥かな過去からの呼び声か?

昨日の夜中に仕事をしていて気が付いた。丑三つ時には頭がさえわたる。

聖徳太子と推古天皇🔗の関係ってのは、昨日のPOST #1837に出てきた琉球王国の「聞得大君と国王」の関係、つまり「オナリ神」信仰に基づく祭政一致の構造に相似したもんなんじゃなかったかということだ。

レヴィ=ストロースの構造主義を援用すれば、性別や機能、立場や権能などの属性を入れ替えても、基本構造が同じなら、それは相同関係を見いだせるってもんだ。

おお、わくわくするじゃろ?知性のパルクールが夜中の現場の中で足場から足場へと華麗にジャンプするのさ。

歴史学や民俗学の分野でも、古代日本の「ヒメヒコ制(祭祀を司る女性と政治を司る男性のペア統治)」と琉球のシステムは、構造的な類似性がしばしば議論されているようだ。

琉球の「聞得大君と国王」と聖徳太子・推古の関係の相似点を整理してみるべ。

精神的守護と実務のペア(オナリ神構造)

琉球では、王の姉妹や王族女性が「聞得大君」となり、霊力(セジ)によって国王を護る「おなり神」として君臨しました。

これを聖徳太子と推古天皇に当てはめると、「宗教的・象徴的権威としての女帝(推古)」と、その加護のもとで「政治・実務を司る男性(太子)」というペアになります。

「祭」と「政」の分立と補完

琉球では聞得大君が「祭祀」の頂点、国王が「政治」の頂点として国を支えました。

推古朝においても、推古天皇が太陽神(天照大神)につながる血統的な聖性を担い、太子が実際の憲法制定や外交を担うという形は、まさに「祭政一致」を二人三脚で実現する琉球的な統治モデルと重なるだろう。調子に乗って隋の煬帝に対して『日出処の天子、書を日没処の天子に致す』とやらかして隋の煬帝の怒りを買ったとされているが、俺はここに日出処の天子とあることに引っかかる。これってまさにヒメ・ヒコ制によって聖徳太子が実務を担い、宗教的な祭祀権を継承する推古天皇と両輪で国家を運営していた証じゃないかと推察するを得ないわけだ。

血縁による固い結びつき

聞得大君は主に王の妹や娘が務めたが、聖徳太子も推古天皇にとって「甥」であり、王族内の非常に近い血縁による二頭政治だった。POST #1837の崇神天皇と倭迹迹百襲姫も同じ構造だ。倭迹迹百襲姫は、三輪山に鎮座する蛇体の大和の地主神・大物主命と神婚し、大和の祭祀の頂点に立っていた。この倭迹迹百襲姫はその墓所・箸墓の伝承などからも、卑弥呼🔗その人ではないかと考えられていることも付言しておこうか。

相似の背景:古代日本の「ヒメヒコ制」

推古天皇と聖徳太子の関係は、邪馬台国の「卑弥呼と男弟」に象徴される古代のヒメヒコ制の延長線上にあると考えられる。一方で、日流語族の琉球王国は、日本本土では律令制(天皇への権力集中)によって失われていったこの「男女ペアの統治システム」を、明治時代の琉球処分まで色濃く残していたため、歴史の合わせ鏡のように相似して見えるのだ。

つまり、日本古代の統治構造と琉球の信仰体系をつなぐ核心的な相似だと言えるだろうな。

さて、そこでもう一度昨日の続きに戻ろうかな。

古代で一般的だったヒメ・ヒコ制(男女ペアの統治)が崩壊し、「男性単独の天皇制」へと変質していくプロセスを、吉本隆明、いやもっと敬愛の念を込めて隆明さんと呼ばせてもらおう、の視点から解説してみよう。

私淑する知の巨人の最重要テクストを解説するとは、まこと畏れ多いぜ。

隆明さんはこの転換期を、単なる政治制度の変化ではなく、『対幻想(個人的な愛)』が『共同幻想(国家の法)』に敗北する象徴的な事件として捉えている。

これ、そのうちまた別のところで触れる重要なテーマだから、覚えておいて!予備校の先生みたいでなんだけど!

1. 「ヒメ・ヒコ制」の限界と崩壊

古代の統治は「女性の霊力(神託)」に依存していたと考えられる。しかし、農耕社会が大規模化し、他集団との戦争や土地の私有化が進むと、現実的な「武力」や「法」による支配が求められるようになる。マルクスの言う下部構造が上部構造を変形させてしまうというアレだアレ。

ここで、神託を解釈するだけの存在だった男性(弟)が、自ら権力の主体(天皇)として自立し始めるわけだ。その過程に神功皇后🔗と、その夫君にしてヤマトタケルの息子仲哀天皇🔗の説話があるんだろう。

2. 象徴的なエピソード

倭迹迹百襲姫の死の逸話も上げられる。隆明さんが重視するのは、崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の物語だ。神話の内容とはこうだ。 彼女のもとに毎晩美しい男が通ってくる。その正体はとぐろを巻く蛇の形をしは三輪山の蛇体の神大物主🔗の妻となる。彼女はぜひ毎夜暗闇の中通ってくる男の姿を見たいと懇願する。男は渋っていたものの、彼女のあまりの熱意に負けて、明日の朝櫛笥(くしげとよむのだよ。今でいう化粧ポーチか)の中を見よ。ただし、絶対に驚いてはいけないと語り、また闇の中に消えてゆく。次の朝、姫が櫛笥を開けてみるとその中には小さな蛇がいた。これが三輪山の神大物主の化身だったわけだ。彼女は夫の正体を見て驚き、それを恥じた神は去ってしまう。彼女は驚き、しりもちをついた途端に、箸が陰部に刺さって亡くなる。こうして、彼女を葬るために、箸墓古墳🔗が築かれたという。

3. 隆明さんの解釈: 

これは、女性が「神(共同幻想)」と直接つながる巫女としての力を失い、国家の表舞台から去るプロセスを象徴しているという。

神話的な霊力による統治が終わり、男性天皇による軍事・行政支配へと移行した瞬間を物語っているのだという。

4. 「サホ姫」に見る対幻想の圧殺

もう一つの重要な例が、垂仁天皇🔗の皇后、狭穂姫命🔗(サホヒメ)のエピソードだ。

古事記に語られる神話の内容は次のようなものだ。

狭穂姫は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂彦に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。ここに狭穂一族内のヒメ・ヒコ制の存在が垣間見えるね。

妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂姫は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。

彼女は「兄への愛(対幻想)」と「天皇の妻としての義務(共同幻想)」の間で激しく葛藤し、最終的に炎の中で兄と共に死ぬことを選ぶ。

隆明さんの解釈:

 この物語は、国家(共同幻想)が確立される際、それ以前の絆である「きょうだい愛」や「家族愛(対幻想)」が、いかに容赦なく罪として裁かれ、排除されるかを示しているという。

結論として、ヒメ・ヒコ制が解体されたことで何が変わったのかしら?

 神を呼ぶ者(女)と政治をする者(男)が未分化だった状態から、政治権力が分離独立することとなった。

そして、 天皇が「神の代理人」として、巫女を介さずに自ら祭祀と政治を兼ねるようになりヒメ・ヒコ制のもと分離されていたそれぞれの権能を独占するようになったわけだ。

こうして、共同幻想(国家)が個人の心(対幻想)よりも上位にあるという規範が、神話を通じて日本人の深層心理に植え付けられることになったわけだ。

このように、吉本隆明は『共同幻想論』において、天皇制の成立を「人間が自ら作り出した幻想の体系が、生身の人間(女性や家族)を抑圧し始める歴史」として批判的に描いているというわけだ。そして、いまだに女性は男性の賃金より低く見積もられ、女性の持つ命を生み出すという力は、国家のために少子化を防ぐという道具に貶められ、挙句、ますます女性たちは疎外されて子供を産むことを諦めてゆくことになる。

そんな閉塞した状況の中、国民は保守政治家や保守論客のほとんどミソジニー🔗を感じさせる論調とは反して、来るべき『愛子天皇』の登場を待ち望んでいる。

浅薄な歴史認識と作られた伝統に固執し、明治以来の皇室典範を馬鹿の一つ覚えみたいに墨守することしかない彼らがどんな打開策を急ごしらえで出してくるのか。それを国民は受け入れるのか。俺は見ものだと思う。やれるものならやってみろと内心思っているくらいだ。

長くなってきたから、読むほうも疲れるだろうし、今日はこれまで。

明日の心だ!(今は亡き小沢昭一🔗先生風に!)

2026/05/02

POST#1837 『共同幻想論』を携え、国家の始原の時を想う

新宿の路地裏

 俺の人生の遥かな過去にさかのぼり、40年前、吉本隆明🔗共同幻想論🔗に立ち返る。

現在の自分を決定づけた書物だ。かつて黒田さんという全共闘世代の知人からもらった河出書房版の大昔の箱入りの単行本も捨てがたいが、平治物語絵巻の火焔をモチーフにした杉浦康平のデザインによる角川文庫ソフィア版が俺の好みだ。今でも本屋に行けば文庫で売っている。君も興味があるなら読んでみるといい。

そしてこの『共同幻想論』をステッピングストーンにして、始原のヤマトの淵源にさかのぼる。明治以来の伝統なんてけちなことは言わないぜ。

いつとも定かでない(とはいえ、2000年前から±500年といったあたりかな)まだ大和朝廷などといった、たいそうなものが出来上がる前。昨日話したアマゾンの諸部族みたいな状態から、いくらか社会が発展して、この東アジアの端に円弧を描く列島に、王権というものが生まれるその時に想いを致そう。

吉本隆明の『共同幻想論』において、日本の天皇制(国家)の成立は、個人や家族の幻想(これを彼の用語では対幻想ちゅうんだわ)を超越した『共同幻想』が法や罪の体系として自己目的化していく過程として描かれている。

その遥かな歩みの先は、俺たちが生きる国家という存在や俺たちを縛りその行動を規定する法律の正当性へとつながっている。

吉本はこの本を記すにあたって、膨大なテクストから『遠野物語』と『古事記』のみを用いると定めた。そして『古事記』の神話を分析し、未開の共同体がどのようにして天皇を頂点とする国家へと転化したかを理論化したんだ。それはもう、衝撃的な本だった。高校生の俺も圧倒され、人生を誤って現在に至るほどだ。

天皇制成立の論理的プロセス吉本は、以下のステップを経て天皇制という巨大な共同幻想が確立されたと説いている。

まず「対幻想」から「共同幻想」への転化が起こるんだ。

人間が「血」や「性」でつながる家族・氏族集団(対幻想の水準)から離脱して、より広範な社会的規範を必要としたときに、初めて国家という共同幻想が誕生するんだ。

この移行期において、かつては家族的な絆であったものが、国家に従属する「法」や「罪」の構造へと書き換えられていくわけだ。

この過程で生じるのが、「罪」と「浄化」の制度化だ。ここで大祓詞🔗に記される天津罪・国津罪🔗というものが生まれる。

農耕社会への移行に伴い、当時の共同体の秩序を乱す行為が「罪」として定義されたわけだ。天皇はもともと、これらの罪を「清祓(きよめはらい)」によって浄化する宗教的な役割を担っていた祭祀王だ。この宗教的権威が、次第に現世的な政治権力(法)へと変質することで天皇制が確立されたと解釈されている。

そしてそれらのシステムの神話による正当化が起こる。太陽神アマテラスと暴風神スサノオの相克による壮大なホームドラマだ。

吉本はアマテラスを「大和朝廷(国家の共同幻想)」、スサノオを「原始農耕民や異族」の象徴と捉えた。母の死を受け入れられず泣き続け国土を荒廃させてしまった暴風雨神スサノオが、太陽神アマテラスのもとに赴く。それを戦士のように完全武装したアマテラス(これ、日本のサブカルチャーの先頭美少女の源泉だよね)がスサノオと遭遇する。

スサノオは自分に悪意のないことを訴え、その証に『誓約🔗=うけひ』という、相互の持ち物を交換してそれをもとに子をなすという、象徴的な近親相姦を行う。そこで、男子を得たスサノオは、自らの潔癖が証明されたと称し、高天原に乗り込み、様々な乱交を犯し、秩序を乱す。この時に行われた乱交乱暴が、罪の祖型とされるわけだ。

これによって、スサノオは地上へと追いやられ、アマテラスは天岩戸にこもってしまう。そこからは有名な天岩戸の神話だ。

スサノオの乱暴と追放の物語は、国家(共同幻想)が個々の民衆を「罪」の自覚によって支配下に置き、従属させるプロセスを象徴的に表していると分析されている。

ということは、俺たち民衆の中には、小さなスサノオの雛形が罪とともに宿っているんだ。

それに続いて発生するのが、母制から父制への移行だ。

サホ姫の挿話(実質的な初代天皇と考えられている崇神天皇の第三子垂仁天皇🔗の皇后)を例に、兄との「対幻想(家族愛)」と天皇への「共同幻想(国家的忠誠)」の間に引き裂かれる葛藤を描いている。

これは、神武天皇以来、9代のその存在が疑問視されている天皇(当時はオオキミと呼ばれていたけどね)を除いて、国家という共同幻想が人々の中に凝集し、形を持った直後に怒った出来事だ。

吉本によれば、この対立において共同幻想(天皇制)が勝利することで、日本独自の国家形態が完成したと考えられている。

そしてその思想的な意義

吉本の論点は、天皇制を「歴史的にずっと存在した実体」ではなく、あくまで人間が生み出した「幻想(観念)」の拡張であると捉え直した点にある。右派の皆の衆、すまんな。

これにより、当時のマルクス主義的な唯物史観🔗(経済構造が土台であるとする考え)とは異なる、人間の心性や関係性から国家を批判する独自の視座を提示したわけだ。


そして、俺の話は核心に向けてどんどん向心力を増し、強力な引力が様々なものを引き寄せるように、拡張し、君がまだ見ぬ結論へと凝集してゆくだろう。しっかりとついてきてほしい。

アマテラスとスサノオのペアの存在には、氏族の祖神に仕える巫女王を、男性の弟が実際の政治を取り仕切り支えるという、権力の複合体制がモデルになっているという視点がある。

吉本隆明は『共同幻想論』の中で、日本の古代国家(天皇制)の成立過程における特異な形態として、「巫女(女性)の霊力」と「その兄弟(男性)の政治力」による共同統治を重視した。

漫画の神・手塚治虫の『火の鳥🔗黎明編』にも、火の鳥の生き血を求める巫女王ヒミコと、その言葉を取り次ぎ政務を司るスサノオという登場人物が描かれていた。まさにそれだ。俺は小学2年生のころからこの漫画を読んでいたから、『共同幻想論』を読んだとき、すぐにこのことだって理解したよ。

これは文化人類学などで「ヒメ・ヒコ制」とも呼ばれる構造だ。

吉本はこれを対幻想(きょうだい愛・性)が共同幻想(政治・国家)へと転化する結節点として分析している。

巫女(ヒメ)と弟(ヒコ)の複合性のポイント

霊媒師としての女性(ヒメ)

吉本は、古代において神の託宣を聞くことができるのは女性(巫女)だけであったと考えた。実際、日流文化圏においては神の声を聴くことができるのは、沖縄のユタやノロ、そしてその頂点の聞得大君🔗や東北のイタコなど、ほとんどが女性だ。

彼女たちは「神という共同幻想」と直接つながる窓口であり、集団の意志を決定する源泉であった。ちなみに俺が若いころに所属していた秘密結社的な宗教団体でも、その方針決定は若い女性霊媒を通じた神霊との対話によってなされていた。俺は国家の生まれる瞬間のような時間を、自分の人生の中で生きていたわけだ。

実務・政治を担う男性(ヒコ)

女性が受け取った神託を、実際の集団の統治や法執行へと翻訳し、現実の権力として行使するのがその弟や兄(ヒコ)の役割であった。先にあげた『火の鳥・黎明編』のスサノオがまさにこれだ。

「対幻想」の利用と抑圧

この男女のペアは、本来は「きょうだい」という最も純粋な対幻想の形を取っている。

しかし、国家が成立する過程では、この個人的な愛着や絆が、集団全体を支配するための共同幻想(天皇制の権威)の道具として再編されていくのだ。

古事記や日本書紀を紐解けば、この名残が多く見られるだろう。一例をあげれば、アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の関係や、先にあげた崇神天皇の大叔母倭迹迹日百襲姫命🔗ヤマトトトヒモモソヒメ(巫女)が崇神天皇が支える構造などがこれに当たるだろう。また琉球王朝の国王と国土を霊的に守護するおなり神🔗とされる聞得大君とその兄弟の国王の関係もまさにこれに当たるだろう。

吉本はこの「男女ペアの統治」が、やがて男性単独の権力(天皇制の確立)へと移行していく過程を、「対幻想が共同幻想に完全に飲み込まれていく悲劇」として描き出したんだ。

この話は、とても大切な話だから、焦らずつづきは明日に任せよう。何せ今夜も仕事なのさ。

2026/05/01

POST#1836 俺の考えはきっと上野千鶴子を逆上させるだろう。

千葉県佐原市
皇統存続のためなら、側室制度を復活させればええやんっていう俺のとんでも発言(自分でもわかってるぜ)はきっと上野千鶴子センセーのお怒りを買うことだろう。
まぁ、俺のような地下人の放言など上野千鶴子センセーには届くことはないので、杞憂とはこのことだ。

彼らの人類学的なフィールドワークに基づく、人類社会の祖型ともいえる南米の様々な部族の姿を通して、人間という生き物の社会の原型を探るのが俺の楽しみだ。
彼らはその著書『悲しき熱帯🔗』や『国家に抗する社会🔗』などで、権力を持たない首長たちの姿を描いた。彼らが描いた首長たちは、だれよりも働き、共同体の皆に対して、一族の歴史と倫理を、あるべき姿を、たとえみんながあくびをして聞いてなくても、鼻くそをほじって聞いてなくても毎日語り掛け、その共同体の理念を成員の中に刻み続ける。
狩猟の際には、皆にどこに行けば獲物がいるか導き、不猟の時には自分と妻を伴って、皆の食料を集め、不平を垂れてひっくり返っている共同体の皆に分配する。
故に、これら人類の未開社会に現れる首長たちは、総じて一般のものたちよりも貧しく、成員を取りこぼすようなことはしない。弁舌に優れ、また優秀な狩人でもある。
まるで、首長そのものが行政府そのもののようだ。
しかし、首長にはなんの権力も強制力もない。あるのは、皆を導き生かすという義務だけだ。
しかし、そこから一歩権力者という境涯に足を踏み入れ、共同体の中で突出した存在となって、その成員を支配しようとすれば、彼は共同体から追放されたり、夜陰に紛れてその喉笛を掻き切られることとなる。
これは古代アテネでも、同じように権力を独占しようとした僭主🔗が追放されたり、勇敢な市民によって殺害されたり、陶片追放🔗されたりしたのと同じだと俺は考えている。少なくとも全く同じではないが、相似だ。
こうして、『未開社会』は極めて民主的で、独裁や支配を許さない体制を維持する。
だれがそうすると決めるわけでもなく、それが共同体そのものの意思=共同幻想のようにね。
これらの社会は基本的に一夫一妻制なんだけれど、この首長だけは年若い第二婦人を持つことを認められている。なぜって、皆の要求を満たし、万一の時には食料を工面したりするために労働力が必要となるからだ。この第二婦人は、ギリシャ神話のアルテミス🔗のように男たちと森に分け入り、同じように狩猟し、往々にして壮年の首長の補佐をする。

さて、俺が側室制度云々を言うのには、右派の人々が大好きな『日本の伝統』に基づく以上に、これら人類の社会のごく基本的な段階に発生する『権力を持たない首長』のあり方に大きく影響されている。
そもそも、右派の政治家のセンセー方が掲げる伝統なんて、自分たちの思う理想にかなった部分だけをつまみ食いしたフィクションだしね。
『権力を持たず』共同体の掟と道徳倫理の『象徴=化身』として、皆にあるべき姿を語り続ける首長。
君は僕の言わんとするところを理解してくれるだろうか?

どこかの国の国民の統合の象徴として、常に弱者や被災者のそばに寄り添い、右派の政治家連中やネトウヨ民の批判もどこ吹く風で、苦しむ人々に対して膝をつき目線を合わせ、その言葉に耳を傾けられる象徴としての首長。常に柔和な笑顔を崩さず、いかなる私も廃して、自ら権力を持つことをその人生の可能性から排除して生まれ変わり死に変わりしてその意思を継承して存在し続ける、中空の権力としての帝。

ちょっと脱線するけれど、仏さまって色々あるじゃない。阿弥陀如来とか薬師如来とか、不空成就如来とか観世音菩薩、普賢菩薩とか。
これは実はそういう人格神というものではなくて、あくまで慈悲や知恵といった理念に形を与えたものだ。つまり、慈悲の化身とか救済の化身とか知恵の化身ってことだ。

我が国の天皇陛下とは、この化身って概念に近い気がする。なんの?

ジャン=ジャック・ルソーが言うところの一般意思🔗の化身だ。
これは俺の独自の観念だから、何の学問的な裏付けもないけれど。俺は極めて近しいと感じている。批判してい人はどうぞ徹底的に批判してください。僕は歯牙にもかけないから。

レヴィ=ストロースは、日本が先端技術を持ち、高度に発達した国でありながらアマゾンの奥地に住む部族の人々とも通じる神話体系とそれに基づく社会観念を持つ国であり続けていることに驚嘆していた。
俺が上野千鶴子センセーの鼻面を逆なでするようなことを主張するのは、浅薄なデントーや単にその血統を維持するためというような不敬な話ではなく、人類の数万年スパンのあり方について、五劫思惟したうえでの主張だということをわかってほしい。

そもそも、天皇とは何なのか?君は考えてことがあるか?神話的な話をしてるんじゃない。どのような役割=機能を持ってこの日本という列島に存在してきたのか、深く向き合って考えたことはあるかい?
明日はそれを掘り下げてみよう。

上野千鶴子センセーには激切れされるだろうが、泉下のクロード・レヴィ=ストロースは、『Ce'st Bon. 君わかってるね』って、ワインを勧めてくれると思うんだけどな。
今夜も仕事だから、飲酒運転は困るんだけれどね。