| 岐阜の山の中 |
うーん、リバイアサンか。
アメリカ人が何よりも恐れ、警戒し続けている究極の存在こそが、ホッブズの描いた「リバイアサン(巨大な怪物としての国家)」なんだ。
ホッブズは、国家がない「万人の万人に対する闘争」という無法状態を避けるため、国民が自分の権利をすべて差し出して、1つの強大な国家権力(リバイアサン)を作って守ってもらうべきだと説いたんだ。なぜってホッブスが生きていた頃のイギリスは、ほとんど内戦状態で、国がガタガタだったからだ。だからこそ、ホッブスは、強大な武力を独占し、人々を統治する国家を構想したんだ。
しかし、ここで現代にもう一度目を向けてみれば、国民のほとんど全員に銃が行き渡るほど、社会に銃が流通し、戦争帰りのPTSDを抱え込んでる人々がゴマンといる現代のアメリカこそ、ホッブスが夢見た「万人の万人に対する闘争」を地で行く社会じゃないか?
はっきり言って、俺はそんな危なかっしい世界はごめんだぜ。
日本とアメリカの国家観をこの「リバイアサン」に当てはめると、彼らの「意味不明な非効率さ」の正体が完全に浮き彫りになる。
アメリカは『市民自らが武装する権利を唱え、リバイアサンに「手枷・足枷」をはめ続ける社会』だ。
アメリカの建国の歴史は、イギリスという「暴走したリバイアサン」から命がけで逃げ出し、戦って独立をもぎ取った歴史だ。だからこそそのために、彼らの憲法や社会システムは、「国をリバイアサンにしてはならない」「もしリバイアサンが生まれるなら、徹底的に弱体化させろ」という執念で作られているわけだ。
いわば建国理念だ。
その表れが、住民票を作らない、市民自らに有権者登録をさせるとんでもなく非効率なシステムだ。
なぜか?リバイアサンに「国民の居場所を一元管理する目」を与えないためさ。
そして連邦制(50の州がバラバラの国)というモザイク国家。それは巨大な領土と権限を持つリバイアサンを50個に切り刻んで、1つの巨大な怪物にならないようにするための工夫だ。まるで江戸時代の日本みたいだ。
なにより極めつけは、銃を持つ権利(修正第2条)だ。
万が一、リバイアサンが暴走して牙をむいた時、国民が武器を持って抵抗できるようにするためという目的があるんだが、たいていは小学校を襲撃して無抵抗の子どもをあの世に強制送還したり、気に入らない奴をあの世に強制送還するために使われる。もちろん黒人をあの世に強制送還したり、ラテン系の南アメリカからの移民を強制送還させるためにも、有効に使われている。まことに便利な道具だ。
そして皆さん、もうお気づきですね。
大方の場合、その被害者自身もアメリカの市民だ。
彼らにとって、システムが非効率で、手続きが面倒で、民間企業に中抜きされて大金を失うことも、無辜の人々が銃撃され殺されることも、「リバイアサンを眠らせておくための必要経費」なんだ。
翻って私どもの住む日本はどうか?リバイアサンを「飼い慣らしている」という感覚に近いだろうか?まぁ一朝事あれば、それは目を覚まし、国民を自らの武力として戦地に送り込み暴虐の限りをつくすスイッチが付いているけどね。日中戦争から太平洋戦争に至る15年戦争を考えてみるがいい。それを忘れてはいけない。
憲法は国家のあるべき理想を記したものという高市総理の言葉は、はっきり言ってウソだ。リバイアサンが暴走することのないように架せられた国家という暴力独占装置への首輪なんだ。これ、すごく大事。テストに出るよ!
日本のシステムは、強大で賢いリバイアサン(官僚機構や国家システム)を信頼し、うまくコントロールして社会の安定や効率(インフラ、治安、福祉)を実現しようとしている。
日本人からすれば、「リバイアサンを飼い慣らして、便利にこき使った方がみんな幸せじゃん」という合理的な判断だ。これは自民党が忌み嫌い、なんとか変えようとしている日本国憲法にもその思想がビルトインさるている。
だからこそ、アメリカがわざわざ自分たちで自分の首を絞めるような非効率なことをしているのが、「意味不明」に見えるんだ。
しかし、世の中は皮肉なものでしてね、アメリカには別の怪物が生まれてしまったんだよ。
国家というリバイアサンを警戒して徹底的にバラバラにし、弱体化させた結果、その空白を埋めるように「巨大な民間資本(GAFAMなどの巨大テック、巨大ロビー企業、民間保険会社)」という、国家のコントロールすら効かない「民営化されたリバイアサン」が爆誕してしまったんだ!
だめじゃん!
アメリカの有権者は、国家に監視されるのを恐れて住民票を拒否したのに、今やGoogleやMetaといった民間企業に、住所どころか、日々の行動、思想、買い物の履歴まで完璧に一元管理(監視)されているわけだ。
しかも、その一方で、彼らは自分たちが自由のためと信じる不便なシステムのおかげで、彼らに毎日せっせと「中抜き手数料」を毟り取られているわけだ!カモ以外の何物でもないだろ。
国家の暴走つまり暴君=タイラントの出現を防ごうとした結果、資本の暴走(超格差社会と非効率)を招いてしまっているんだ。ついでに、人々はとうとうドナルド・トランプというルール無用の怪物まで生み出したんだ。
どうかしてるぜ!
この「怪物を防ぐために、別の怪物に支配される」という構図こそが、アメリカという国の抱える最大の悲劇というか喜劇と言えるだろうよ。
日本国憲法の精神は全く違う。
日本国憲法の精神は、アメリカ合衆国憲法とは根本的に異なる思想(国家観)に基づいている。
ホッブスよりもルソーに近い。
ルソーの一般意思と象徴天皇制のジャムセッションみたいなものだ。ここで天皇の存在は、国民統合の象徴とされけど、俺は一般意思の受肉化と考えるべきだと主張しておくよ。
アメリカ憲法が「国家(政府)は暴走する敵だから、徹底的に縛り、バラバラにせよ」という【国家への不信と自由(消極的自由)】で作られているのに対し、日本国憲法は【国家を通じた信託と福祉(積極的自由)】、すなわち「国家の力を使って、すべての国民の幸福と平和を実現する」という精神が根底に流れている。
この精神の違いが、憲法の条文や国全体のシステムに決定的な差を生み出しているんだ。
まず、憲法前文にみる「国家への信頼と信託」だ。
日本国憲法の前文には、ルソーの「一般意思」やロックの「社会契約」を最も美しく体現した一節があります。
君は読んだことがあるかい?
「そもそも選挙権は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」
ここでは、国家権力は国民から「信頼して託されたもの(信託)」であり、その目的は国民全体の幸せ=福利のためであると明記されている。
国家を「初めから敵視する」のではなく、「国民のために正しく機能させるべき道具」として捉えているわけだ。きっと、自民党の皆さんは、この憲法観がお気に召さないんだろう。
しかし、この憲法の精神を捨てたら、日本は中国かアメリカに飲み込まれて雲散霧消してしまうだろう。この国家観こそが、日本が日本である証なんだ。
そして「生存権(第25条)」という決定的な違いがある。
アメリカ憲法には、福祉や社会保障に関する規定がない。
国が個人の生活を支えることは「自由への介入」とみなされかねないからた。野垂れ死のうと自己責任己だ。
しかし、日本国憲法第25条は世界に誇るべき『生存権を定めている。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
自民党や右派の皆さんが大嫌いな生活保護も、この精神に則っている。バッシングしてよいものでは決してない。なぜなら、ジョン・ロールズわ引くまでもなく、今日羽振りのよい人も、いつか未来には必ず老い疲れているだろう。そのときに十分な資産があるか、自分を助けてくれるソーシャル・キャピタルがあるか?それは誰にも分からない。だから、国家に自らの権利を信託して、困窮者を扶助するべきなんだ。要は明日はわが身ってこと。
この1文があるからこそ、日本の行政は住民票を一元管理し、国民皆保険を維持し、誰もが平等に公的サービスを受けられるよう「効率的に」動く義務が生じるんだ。
日本人にとって行政の効率化は、この「25条(生存権)」を国が果たすための当然の手段なんだぜ。要はツールなんだ。
そしてなにより、個人主義の「質の違い」だ。
アメリカの自由とはかんなんだ。
「国よ、俺の邪魔をするな(Leave me alone)」という、国家からの自由。
日本の自由・権利はまったく逆だ。
「国よ、みんなが安心して暮らせる社会を整えてくれ」という、国家による生存の保障。
君はどっちの社会に住みたいと思う?
自民党の皆さんが躍起になって変えようとしてる、日本国憲法の精神が生んだ「効率的で優しい社会」
さて、日本国憲法の精神から見れば、アメリカの「住民票も作らず、有権者登録を強いて、民間の中抜きを許し、格差を広げている状況」は、国家の義務を放棄している(一般意思に背いている)ようにしか見えないんだ。ざんねんながら。
日本は憲法の精神に基づき、強大で賢いリバイアサン(国家システム)を「国民全体の幸福のために正しくこき使う」という道を選んだわけ。
だからこそ、引っ越し一つで住民票が変わり、自動で選挙人名簿に載り、誰もが1割〜3割の負担で高度な医療を受けられる社会が実現しているんだ。
アメリカの社会システムが日本人にとって「意味不明」なのは、単に手続きの不便さだけでなく、「国家は何のために存在するのか」という憲法レベルの哲学が、文字通り180度異なっているからなんだ。
ご存知の通り、日本国憲法はアメリカ(GHQ)の草案をベースに作られたという歴史がありながら、中身はアメリカ憲法とは全く違う「社会権(福祉国家)」の精神が色濃く反映されているんだ。
そう、問題はそこなんだ!
国民の幸せの増進のための国家でなかったら、国家なんてただの戦争機械じゃないか!
この視点こそ、まさに日本国憲法の「核心」であり、人類の悲惨な歴史からたどり着いた究極の結論なんだぜ!
国家が「国民の幸せの増進(福祉や生活の向上)」という目的を失い、ただ領域を支配し、国民を管理・動員するだけの存在になれば、それは単に国境に壁を築き、他国を侵略し、国民を戦場に送り出すだけの「ただの戦争機械(暴力装置)」に変貌してしまう。
実は、日本国憲法が第25条で「生存権(福祉)」を規定し、前文や第9条で「徹底した平和主義」を誓っているのは、この2つが絶対に切り離せない表裏一体のものだからなんだ。
自民党の勇ましい言葉に目を眩まされてはいけない。
1. 「戦争機械」だった過去への猛省から生まれた憲法
日本自身もかつて、国家が国民の生命や幸福よりも「国威発揚」や「戦争の遂行」を最優先にする、恐ろしい「戦争機械」になってしまった歴史がある。
否定しても否定のしようのない事実で、重たい歴史だ。
当時の国家にとって、国民は「幸せにすべき対象」ではなく、戦争を支える「部品(資源)」にすぎなかったんだ。名誉の戦死と喜ぶ笑顔なんて標語が街にあふれてたんだ!冗談じゃない!
その結果として、何千万人の命を奪い、国土を焦土と化した経験から、戦後の日本は憲法に血を流すような覚悟を刻み込みんだんだ。確かにGHQが起草したかもしれない。しかし、それを受け入れ、守ってきたのは他ならぬ日本人自身だ!
「もう二度と、国家を戦争機械にしない(第9条:戦争放棄)」
「これからの国家は、国民を幸せにするためだけに存在する(第25条:生存権)」
つまり、日本国憲法の精神において、国が医療や福祉、インフラを整備して「国民の幸せの増進」に全力を尽くすことは、国家が再び戦争機械へと先祖返りするのを防ぐための「絶対のブレーキ」なんだ。
2. アメリカが「戦争機械」の側面を残し続けるパラドックス
一方でアメリカを見ると、彼らは国家を「福祉の道具」にすることを徹底的に拒否し、前述のようにバラバラに弱体化させている。
しかし皮肉なことに、内政において国家というリバイアサンを縛り付けた結果、連邦政府が圧倒的権力を行使できる領域が「外向きの力」、すなわち軍事(国防)に偏ることになったわけだ。
アメリカでは「国民全員の医療費を国が払う」ことは「社会主義的だ」として大反対される。
しかし、「何十兆円もの予算を軍事費に使う」ことは「国を守るためだ」として容認されやすい土壌がある。
内政では無能で非効率なのに、世界最強の軍隊(戦争機械)としての機能だけは超一級品であり続けるという、歪んだ国家の形がそこにはあるんだ。
「国家は何のためにあるのか」の答え
日本人からすれば、「国民を飢えさせず、病気から守り、安心して暮らせるようにすること」こそが国家の存在理由だ。それがない国家は、ただの「税金を巻き上げて武器を買う組織」にすぎないんだ。
「国民の幸せの増進のための国家でなかったら、ただの戦争機械だ」という指摘は、まさに日本国憲法が世界の歴史に対して突きつけた、最も本質的なメッセージそのものなんだ。
この「福祉国家(日本)」と「軍事国家(アメリカ)」の構造の違いは、両国の予算の使い方(社会保障費 vs 国防費の比率)や、アメリカで軍隊が「貧困層のセーフティネット(就職先)」になってしまっている現実などにも深く関わっているんだ。
もっと、闇を見つめろ!
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