2026/08/10

POST#1935 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。

2026/08/09

POST#1934 盛夏、百花繚乱その5

京都五条、槿

明けがた、帰り道にラーメン屋に行こうとしていたのだが、仕事が終わった時点ですでに朝の6時前。国道沿いのラーメン屋は5時で閉店だ。仕方ない。松屋で牛カルビ定食でも食らうか。渡邊英理という方が書いた『中上健次 路地のヴィジョン🔗』を読みながら、ペラペラのカルビ肉を噛み、その肉から染み出すうまみを味わう。

目を閉じて、遠くに咲く花を思い浮かべ、そこにそよぐ風を想う。

芙蓉かと思っていたら、これは槿だった。

中上健次🔗の小説、『千年の愉楽🔗』では、主人公である路地の産婆にして語り部のオリュウノオバが、夏芙蓉の花の香りに誘われて、寝たきりのまま、かつて自らが取り上げ、生の盛りで断ち切られるようにその命を断たれた若者たちのことを思い出すシーンがあることを思い出しながら、牛カルビ定食をほおばる。ソースはバーベキューソースだ。

ご存じない方のばかりだろうから、記しておく。路地は紀州熊野新宮の被差別部落だ。

オリュウノオバは、文盲だが産婆として取り上げた路地の一人一人の人生を地母神のように自らの内に刻み込んでいる。文字にして外在化しないがゆえに、未開部族の語り部のように自らの内面に、人々の生のディテールを細大漏らさず刻み込んでいく。

オリュウノオバの旦那の礼如さんは、村にただ一人の毛坊主、つまり在俗で寺住ではない僧侶だ。路地のものが死ぬと、礼如さんは念仏を唱え、死者を弔う。文盲のオリュウノオバはその誕生日と命日を、すべて諳んじている。彼女にとっては、毎日が迂遠の何者かを取り上げた日であり、その誰かが死んでいった日なのだ。

オリュウノオバと礼如さんは、路地の人々がこの世に生を享け、その生を終えて彼岸に渡るという流れの両端に位置している。路地の者たちの卑小なる生は、この二人の存在によって円環を成し、永劫回帰する聖なる存在へと昇華していくように俺には思える。

俺に言わせれば『千年の愉楽🔗』は、まさに現代の『古事記🔗』なんだ。

中上健次の小説には、人類学や社会学の様々な構造が、見事に嵌め込まれていることが、『中上健次 路地のヴィジョン』を読んでいるとわかる。レヴィ・ストロース🔗網野善彦🔗、コモンズの思想、そしてJ・C・スコット🔗によって展開されるゾミア🔗的な思考。

それは、かつての俺を、無意識のうちに現在の地平へといざなってくれたものだと痛感する。

今もどこかで暑い風に、花がそよいでいる。

久々に食った牛カルビ定食は、肉ダブルでもよかったかもな。

2026/08/08

POST#1933 盛夏、百花繚乱その4


ウブド、バリ 姫極楽鳥花、その名がどこか艶やかだ
もとより人が抱えていたはずの泥臭さ、毒々しさ、エロティシズム、猥雑さといった「生と性のリアリティ」は、ネット社会のアルゴリズムのフィルターと、社会を覆いつくすコンプライアンスによって「不適切」「有害」として一律に弾かれ、機械的・衛生的に除菌された。

しかし、表で抑圧された生のエネルギー、つまりは性や欲望そのもは、消えるどころか、AIなどのテクノロジーを用いることで、より醜悪な形で華開いた。
その欲望はヴァーチャルな世界での「生成AIポルノ」としてより執拗に、よりグロテスクに繁茂している。人々の歪んだ欲望を喚起するものは放置され、その欲望に身を任せたものは汚物のように社会から排除される。
フェイスブックでは、AIによって生み出されたあられもない痴態をさらす女性が、次々と友達のようにすり寄ってくる。どんなに痴態をさらしても、魂がないのなら羞恥もないし、含羞のないところにエロスもない。
もう二度と、この歪んだシステムを根こそぎ摘み取ることはできないだろう。

ここに生じているのは、「生身の人間同士の血の通った性や手触り」を徹底的に排除し抑圧しながら、その一方で「画像や記号としての性」だけを消費しつくすという、歪んだ倒錯そのものだ。
画餅にしゃぶりつくことはできないのさ。

生身の恥じらいやケア、人情といった「手触りのある現実」からは目を背け、安全な画面の裏から他人の肉体をデータとして弄ぶ。
荒木経惟が写真で捉えようとした「生々しい愛や生命の美学」とは真逆の、冷たくグロテスクで、衛生的なデジタル・ディストピアの荒野が茫漠としてどこまでも続いている。

けれど、俺は知っている。美しいだけの人間など存在しないことを。
いかに美しい人も一皮むけば、肉と骨と血の集合体でしかないことを。
そして、美しい人も、たくましい人も、醜い人も、いずれ老い、死んでいくことを。