2026/08/25

POST#1949 このオペラント条件付けってのは、世の中に蔓延してるんだ

コペンハーゲンのナイトクラブ
売春防止法の改正への動きが、活発化している。

今日女性もしくは売春(男性が売春する可能性を否定はしない)する側のみが罪に問われる制度を、買春側の男性(もしくは女性。俺は女性が買春する状況も否定はしない)も処罰するという制度に変えようというモノだ。結構なことだ。(朝日新聞『買収防止法、買う側の勧誘も処罰🔗』参照)

(心にやましいことのない者だけが石を投げるがいいさ。

俺はそれをとやかく言うことはしない。おそらく、設備の更新もままならないような退潮傾向にあるソープランドなどの風俗産業は壊滅し、買売春はアンダーグランド化してしまうか、SNSを通じたものになるだろう。女性たちを保護する法の網をすり抜けて。

それがなくなったとしても、俺自身はいい年だし、鬱病の薬を常用していることもあって、別段困ることはないけれど、上に述べたように結局それが地下で非合法ビジネス化するだけじゃないかっていう気もしますけど、どうでしょうかね。

では、一つの疑問が脳裏に浮かぶ。

この法案が成立すると、人間の性欲は消えるのか?

結論から言えば、法律を施行しても人間の性欲そのものが消えることない。
性欲ちゅうのは、睡眠欲や食欲と同じように、人間の根本的な生理的欲求であり、法規制によってその存在自体をなくすことは不可能だ。法律がコントロールするのは「欲求」ではなく「行動と環境」に過ぎないんだな。
法律を作り、それを守らなければ、罰が与えられる。それって結局、昨日書いたオペラント条件付けと変わらないんだよね。
法律(売春防止法や風営法など)の目的は、人間の本能や欲求を消し去ることではなく、その欲求が社会に現れる「形態」や「場所」、そしてそこに生じる「搾取や人権侵害」を規制することなんだそうだ。
春防止法の目的は性欲そのものの否定ではなく、「性」を商業的な取引の対象にすること(特に第三者が介入して利益を得ることや、困窮につけ込んだ搾取)を防ぎ、人間の尊厳を守るために制定されているわけだ。
しかし、それで人間の性的な欲求が消得るわけではないから、当然ながら「代替需要」というモノが生み出されるわけだするわけだ。
日本の近代の歴史や他国の例を参照してみても、特定の性風俗業態を法律で禁止した場合、人々の性欲という需要は消滅せず、別の形に変化・移動するわけだ。たとえば、こんなのだ。
合法的な代替サービスへの移行
法規制の網の目をかいくぐる、新しい形態のサービス(VRやAIを活用したデジタルコンテンツ、非接触型のサービスなど)が誕生・拡大する。絵に描いた餅だぜ。子供の頃に読んだSFみたいだ。
個人間取引(マッチングアプリなど)の増加
店舗という組織を介さず、インターネットを利用して個人間で直接つながる動きが加速するだろうな。これは今もすでにみられる状況だ。
海外への流出(性的ツーリズム)
国内での利用が難しくなった場合、規制の緩い近隣国や海外へ需要が移動する。昔、日本が景気がいい頃、日本人の脂ぎったおっさんたちはこぞって東南アジアに買春しにいった。俺は羽振りが悪かったから、そんな機会はなかったが、そんな話はたくさん耳にした。
 全人類を去勢したりすることがない限り、どれだけ厳格な法律を作っても性的欲求自体が消えることはない。断言する。だからこそ、現代の頭のいい人たちの議論では「禁止すれば解決する」という単純なアプローチではなく、性的な欲求の存在を前提とした上で、いかに犯罪や人権侵害、公衆衛生の悪化を防ぐか(ハーム・リダクション:被害低減の考え方)が現実的な課題として話し合われているんだとさ。ご苦労なこった。
なんだ、さっきも言ったが、要はオペラント心理学と同じなのさ。
法規制による社会コントロールの仕組みは、オペラント心理学(行動分析学)における「行動変容」の理論と全く同じ構造をしているんだ。
オペラント心理学の視点から見ると、法律の施行と人間の欲求(性欲)の関係は以下のように整理できるんだよね。
①「動機づけ(欲求)」と「行動」の区別
オペラント心理学において、空腹や性欲などは「確立操作(動機づけ操作)」と呼ばれ、行動を起こす内的なエネルギー(動機)を強める役割を持つ。
まず心理学の視点ではこうだ。性的な欲求という確率操作そのものを外部から消去することはできないってことになる。まぁ、ホルモン抑制剤とか去勢とかするなら別だけどね。
じゃぁ、法律の視点だとどうなる?法律を作っても、人間の性欲そのものという『動機』自体は消せないよな。まぁ、ホルモン抑制剤とか去勢とかするなら別だけどね。
そういえば、渋澤龍彦🔗の『高丘親王航海記🔗』には、生殖を禁じられた犬頭の人間が、自らの性器に鈴をつけられているという描写があったな。今でいうところの性犯罪者にGPS機能付きの足輪をつけるようなもんだな。
閑話休題。
法律がターゲットにしているのは、欲求そのものではないんだ。
その結果として現れる「売買春という行動」なんだ。
あらゆるものに値段をつけて売り飛ばすスーパー資本主義社会なのに、人間の性そのものには値段をつけることをしちゃいけないんだそうだ。
どんな人間も、自分の生命というリソース、限られた時間という資本に値段をつけて売っている。なのに、性にまつわることだけが特別視されることに、俺にはどうにも嘘くさく感じるけどね。まぁ、そんなんだからセクハラだって契約を切られたりするんだろうな。
②罰という「弱化」による行動の抑制
法律による厳罰化や取り締まりは、オペラント心理学でいう「弱化(ペナルティ)」にあたる。
行動した結果として「逮捕」「罰金」「社会的信用の失墜」という嫌悪刺激、つまりデメリットを与えることで、その行動の発生頻度を下げようとする試みなわけだ。
③オペラント心理学から見た「地下化」の理由
なぜ法律を厳しくしても、ビジネスが地下化して続いてしまうのかも、この心理学で説明がつく。
好子(報酬)の強さがあるからだ。買売春の当事者にとって、性欲の充足や経済的利益(金銭)という「即時的で確実な報酬(好子)」の価値は非常に高い。
その一方で、弱化の不確実性という観点も挙げられるわな。そう、地下に潜れば「警察に見つかって処罰される(嫌悪刺激)」という確率は下がるだろう。
人間という存在にとっては、「たまにしか捕まらない罰」よりも「目の前の確実な報酬」の魅力のほうが方が勝つため、行動は消去されず、形を変えて維持されることになるわけだ。
これをを分化弱化や逃避行動と呼ぶんだそうだ。
④「消去」ではなく「代替行動」への移行
特定の行動(ソープランドでの取引など)を強力に禁止、つまり弱化すると、人間は欲求を諦めるのではなく、別の方法で報酬を得ようとするだろう。ところてんを作るように、禁止圧をかけると、違うところからにゅるりと欲望が形を変えておしだされてくるのさ。
これを代替行動の分化強化というらしい。
店舗がダメなら「SNSでの個人間取引」へ、国内がダメなら「海外(あるいはネット空間)」へと、より罰を受けにくい別のルート(行動)へと移行するだけのことだ。それが人間というやつさ。
要するに、法律というシステムは「人間の本能(動機づけ)を消す装置」ではなく、「デメリットを付加することで、行動の選択肢をコントロールしようとする環境設定(オペラント条件づけ)」に過ぎないんだ。
だから環境設定に地下組織やネット空間というニッチな隙間があれば、本能に突き動かされた行動はそこへ流れ込んでしまうということになっちまうわけだ。
まあ、偉い人たちはそういう風には考えてないと思うけど、俺たち庶民は法律に触れなきゃ、見つからなきゃ罪じゃないと思ってるからね。それが世の中さ。
しかしまったく、あの俺が嫌悪したオペラント心理学が、実は世の中にしっかり根付いていたということに気が付いた俺の間抜け面が想像できるかい?

2026/08/24

POST#1948 俺はかつて大学を辞めた。授業がばかばかしかったからだ

那覇の街角にて
高校三年生の時、大学受験のための判定会が学校で行われた。

自分でB全紙を買ってきて、枠を書いて受かりそうな偏差値の志望校を書くんだ。

それを学校の先生たちが見て、ここを受けてもいいけど、ここは落ちるからやめておけって判定するんだ。今はどうだか知らない。もう40年も前のことだ。

書いていてしょうもない大学ばかりだったから、大学に行くのはやめることにした。こんな大学行くくらいなら、馬鹿田大学でもいったほうがましだ。いっそ、志望校馬鹿田大学って書いてやればよかったかな?なんせ第一志望が早稲田大学第二文学部、つまり中退1流、留年2流、四年で出るのはただのバカといわれた早稲田大学文学部の夜間コースだ。

それすら難しかった。

結局、今は亡き友人の誘いで地元の愛知大学を受験した。

友人は落ちた。俺は法経学部経済学科と経営学科を受けて経営学科だけ合格した。

友人は母親の実家の松島に近い仙台の大学に進学した。皮肉な話だが、世の中往々にしてそんなもんだ。

俺は仕方なく、後ろめたさを抱えながら大学に通ったのだが、あまりいい生徒ではなかった。英語のマルカム・ダフ先生には、遅刻をするたびに叱られた。

フランス語の河原先生は、はっとりをフランス語風にアトゥヒと発音するのが、鬱陶しかったな。

俺は高校の頃から、ユングとかフロイトとかに興味があったから、一般教養課程で心理学を履修することにしたんだ。

そこで出くわしたのが、行動主義心理学🔗に属するオペラント心理学🔗という代物だった。

俺が想像していた、人間の精神世界を探るような心理学とは、バラス・フレデリック・スキナー🔗教授が構築したオペラント心理学はまったくの別物だった。

オペラント心理学(オペラント条件づけ)とは、端的に説明すると行動のあとに起こる「結果」によって自発的な行動の頻度が変わる仕組みを研究する学習心理学だ。

その基本の仕組みはこんなところだ。

①自発的行動(オペラント行動):動物や人間が自ら行う動作。

②スキナー箱の実験:ネズミが偶然レバーを押してエサが出ると、レバーを押す回数が増える現象。

③結果の影響:良い結果が起きると行動が増え、悪い結果が起きると行動が減る。

そして被験体の行動を変化させる4つの要素は強化と弱化に分類される。

①正の強化:良い結果(報酬)を与えて行動を増やす。 

②負の強化:嫌なこと(苦痛)を取り除いて行動を増やす。

③正の弱化(罰):嫌なこと(罰)を与えて行動を減らす。

④負の弱化:良いこと(報酬)を奪って行動を減らす。

素晴らしいことに、このオペラント心理学は、ペットのしつけや子供のしつけに広く応用されているらしい。まぁ、わからんでもない。要は、人間も含めてあらゆる生物の行動は、外部からの刺激によって操作するつまりオペレイトすることができるという考え方だ。

ぶっちゃけて言えば、ボタンを押せば餌が出るということを学習させることによって、その被験体の行動を操作することができるという素敵なものだ。

そこに、人間の精神とか尊厳の入り込む余地はなかった。すべては、刺激に対する反応だった。同じ教科書の中で、ハリー・ハーロウ🔗の『愛着実験』の様子を撮影した、ケージの中で、母親の形に作られた粗末な人形の前で怯えてような表情を見せている子ザルのモノクロ写真は、今でもありありと思い出せる。


しかし、俺はそこに人間の自発性や尊厳、精神の自由さを感じることはできなかった。
何しろスキナー教授は、自由とは無知のことであるといっていたくらいの人物だからだ。
知性とは、自由を捨てさることによって手にするものだということだそうだ。わお!

俺はうんざりした。こんなバカバカしい功利主義的なことを学ぶために大学に入ったんじゃない。俺が大学を辞めることにした原因の一つに、このオペラント心理学があったんだ。

この行動主義心理学は人間を「環境の刺激に対して反応する機械」のように扱い、内面の意識を排除する傾向がある。人間を機械のように、記号のように扱うにはもってこいだ。

そして、利益というニンジンを鼻面にぶら下げて人間の行動をいかようにでも操作できるようになるという思想だ。

これに対して、人間性心理学は人間の自由意志、自己実現、独自の精神性を重視し、行動主義を「非人間的」だと強く批判してきた歴史がある。

なにしろスキナーの理論は実験室の動物(ネズミやハト)をベースに作られたため、「人間の高潔な精神や尊厳を無視している」という批判は当時から現在に至るまで根強く存在してるんだ。俺の直感は正しかったってわけだ。

つい最近、シャショナ・ズボフ🔗の『監視資本主義🔗』を読んで、この言葉が出てくるまで、そんなことすっかり忘れていたのに。

俺たちの生活の隅々まで入り込んだデジタル封建制のビックテックの思想には、このオペラント心理学が息づいている。

2026/08/23

POST#1947 コンビニに行くたびに

ボダナート、ネパール
俺の住んでる郊外はいざ知らず、大きな町でコンビニに入ると、しばしば働いているのはネパール人の若者だったりする。顔なじみになるとすぐにお互いにナマステ!とあいさつし、ダンニャバードと礼を述べる。はじめはみんな驚いた顔をするのさ。多くの日本人にとって、彼らはコンビニで働く外国人という記号でしかない。

しかし、俺自身はほんの少しでも、異文化に寛容な日本人でありたいんだ。なぜって、自分が海外を旅したときに、現地の人々から損得抜きで歓待されたりしたことが多々あるからね。

ネパールに行ったのはもうずいぶん前のことだ。

コンビニにいき、ネパール人の若者が働いているのを目にすると、この写真に写っていたような子どもたちが、すっかり成長して日本にやってきているように感じる。

だから無碍に出来る気がしない。

そっと見守り、わかりやすい言葉で話しかけ、彼らにそっと歩み寄りたいと思う。もちろん、その態度はけっして上から目線ではなく、一種の父性のような感覚だ。気が付けば若者に対して、そんな感覚を持って接するべき年頃なんだ。いつのまにか驚いたことに!(笑)

時には彼らの名前は、ナラヤンとかデヴィーとか、ヒンドゥー教の神様の名前を使っていることもあるから、その名札から名前に込められた意味を読み取ることもある。タイミングを見計らって、素敵な名前だね!と称賛したくなる。

少しでも彼らに、日本に来てよかったと思ってもらいたい。日本はいい国だと思ってもらいたいものだ。それが俺の思う愛国的なスタンスだ。つまり、寛容で朗らか。

しかし、排外主義的な風潮が日本社会を覆っている。俺のベクトルとは真逆だ。

政権与党の幹部たちが、それを煽っている。きっと彼らはコンビニとかで買い物することはないんだろう。

日本の現在地点は、彼らが思っているよりもずっと深刻な状態だ。

現場ではベトナム人やインドネシア人の若い職人ばかりだ。かつて多く見られた中国人はもういない。日本では稼げないと見切りをつけてしまったのだ。そしてその中国人たちは、今や日本人が買えない金額の商品を、ハイブランドで買い漁る。俺の仕事はそのおこぼれで回っているようなものさ。

排外主義を唱えたい人は唱えればいい。

けれど、不寛容な社会は、多様性を受け入れない社会はいずれ衰退する。断言するよ。