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2026/11/02

POST#1995 自分たちの住んでいる社会をよりマシなものに変えていくことこそが、政治的に正しいってことじゃないのかい?

名古屋大須商店街にて

昨日は日曜日だったから、死んだように眠っていたかった。眠っていたかったんだけれど、息子がドライブに行きたいっていうから。運転しながら眠っていたんだ。

谷汲山華厳寺っていう寺の本堂にある戒壇巡りをやりたいって連れ出されたんだ。わが息子ながら、酔狂なもんだ。

真っ暗な中を手探りで進むのさ。人生とおんなじだ。わざわざそんなところに行くまでもなく、いつだって人生はそんな状態なんだ。やれやれ、眠たいぜ。

さて、世界のというか主にアメリカにお住いのポリコレ大好きな皆さんは、日本の学園もののアニメを批判したり改変することよりも、自分たちが暮らす社会で、夜中の三時に女の子が一人でループに乗って大通りを走ることができるような環境を作ろうとはしないのだろうか?

そんな安全な社会を実現するのが、政治的に正しいあり方だろう?

普通に考えれば、「日本の日常系アニメのような、誰もが銃を恐れず、格差に怯えず、穏やかに暮らせる安全な社会」を自分たちの国でも実現することこそが、彼らにとっても究極のゴール=理想であるはずだ。異論のある人いる?

しかし、なぜ彼らはそれを自分たちの国で実現しようとせず、日本のアニメに文句を言うだけなのか。そこには彼らの諦めと無力さがある。

まず、「現実のインフラ」を作る能力と覚悟がない。

「どんな理想も、現実に立脚していなければ道筋を描けない」と先に書いたよね。日本のこの現状ってのは、一朝一夕にできたものじゃないんだ。日本がこの「深夜3時に女の子が歩ける社会」を維持できているのは、秀吉の刀狩りから始まり、綱吉の文治政治、そして現代に至るまで何百年もかけて、治安、医療、教育、国民皆保険といった目に見えない「社会のインフラ(ソーシャルキャピタル)」をコツコツと地道に構築してきたからに他ならないんだ。

これをアメリカやヨーロッパで実現しようとすれば、とんでもなく凄まじい大改革が必要になるだろう。どんな?

例1

合衆国憲法を改正して、全国民から数億丁の「銃」を完全に没収する。全米ライフル協会の皆さんが黙っていないだろうな。そこで待っているルートは、命がけの内戦レベルの反発が起きるという経路をたどるのは必定だろうな。

例2

富裕層に大増税をして、貧困層のための国民皆保険や医療・教育インフラを本気で整える。

けど、トマ・ピケティも言ってるけれど、これは本当にやった方がいい。資産課税も視野に入れたほうがいい。富裕層の最高税率は、この30年くらいで劇的に下がってるんだから。

例3

路上で暴行や窃盗などの犯罪をおかすものを検挙し、麻薬を売る人間を徹底的に取り締まり、治安を回復させるのも必要だろう。これはやらないといけないだろう。特に麻薬はジェームスブラウンも、パブリックエネミー№1(社会の敵だ)と歌っていたんだが、それから何十年経っても、いまだに変わらない。

これらは気の遠くなるような時間、政治力、そして血の滲むような現実の痛みを伴うことだろう。

政治的に正しい精力的な活動家の皆様には、この地獄のような現実のプロセスに挑む覚悟も、具体的な道筋を描く能力もないというのが正直なところだろう。

だから、連中は「正しさのノルマ」を設定し、それをクリアしさえすれば満足してしまうんだ。それは現実に対する敗北を認めていること以外の何物でもない。

彼らにとっての「理想の社会」とは、実は「みんなが本当に安全で豊かに暮らせる社会」なんかじゃなく、「表面的に、すべての人種やジェンダーの比率が平等に配置されている画面」になってしまっているんだ。要は誤魔化しなんだ。絵に描いた餅なんだ。

現実の社会は銃や格差を解決するのは難しすぎるから諦める。

けど、エンタメの画面の中じゃ、映画やアニメの登場人物の比率(白人何割、黒人何割、LGBTQ+何割)を無理やり変えさせることは、SNSで圧力をかければ数年で達成できるぜ、せめてここだけでもあるべき世界を構築するぞ!となるわけだ。

タワケらしい。

つまり、彼らは「現実の社会を変える」という本物の理想への道筋を描くのをサボり、「映画の配役を変える」「アニメキャラの肌の色を濃くする」という、一番手軽で安易なインスタントの理想郷でお茶を濁しているわけなんだ。そう、自己満足以外の何物でもないんだ。

だから、現実の差別や治安は1ミリも良くならないのに、「自分たちは理想に向かって戦っている」という錯覚(=脳内お花畑)から抜け出せませないんだ。幻想なんだ。

だからこそ、GDPは落ちててもお花畑のような社会を作り上げてる日本の「普通の日常」を認めたくないんだ。認めたら、自分たちが惨めになるからさ。

つまり、煎じ詰めれば彼らのプライドの問題だ。

もし「日本のアニメに描かれている世界は、日本人が何百年もかけて作ってきた現実の日常だ」と認めてしまったら、欧米の自分たちの社会システムは、経済が30年も停滞している日本の日常に完全に敗北しているってことになっちまうだろう。そう、経済成長してないくせに治安も、医療も、教育も日本の方が豊かってどういうこと?っていう不都合な真実を認めざるを得なくなるんだよ。

アメリカやヨーロッパの知識人や活動家には、「自分たちこそが世界の中心であり、最先端の文明国である」という強いプライド(欧米中心主義)が根底にある。偉そうに言っても、エスノセントリズム=自分たちがサイコー!なんだ。

そのため、「日本のような東洋の単一民族に近い国が、自分たちより遥かに安全で理想的な社会をすでに実現している」という現実を直視したくないんだ。

ミニオンズみたいな連中だしな。

だからこそ、それを「現実の日本の姿」ではなく、「人種差別的な日本人が作った、多様性のない空虚なファンタジー」という低レベルなものに格下げして叩くことで、自分たちの心の平穏を保っているという側面があるとしか考えられないぜ。

本当にその理想を実現したいなら、日本のアニメを叩いている暇があったら、自国の銃規制や貧困問題に命をかけるべきだ。

それをせず、現実から一歩も進まない「空言(画面のポリコレ比率)」ばかりを弄んでいるからこそ、彼らの運動は世界中のフツーの感覚の皆様方から「偽善だ」「お花畑だ」と愛想を尽かされ始めているんだ。

言葉狩りやよその国の文化にケチをつけることが政治的に正しいことじゃない。

あくまで現実世界に働きかけ、自分たちの手で自分たちの社会をよりマシに変えていく地道な営みこそが、政治的に正しいっていうんじゃないのか。

その営みに終わりなんかない。日本だって決してユートピアじゃない。貧困や格差もある。けれど、いきなり銃撃されてぶっ殺されたり、警察や移民局の連中に袋叩きにあってどこかに連れ去られるってことが無いだけましなだけだ。

そう、一見正しそうなことを大声で言うやつらには、うさん臭さがある。気をつけろ、みんな。

2026/10/31

POST#1994 日本のアニメは人種的に偏っているので、世界の正しい人たちからすると実にけしからんそうだ

 

名古屋市大須商店街 昭和のパワーが炸裂している

クソみたいな現場で必死に格闘し、満員電車の中のように現場に犇めく職人やら設計士やら元請やら施主やらを、体使って、頭使って、気を使って何とかクリアしてきた。

こんな時は、ぼんやりユーチューブとかでアニメなんか見たりもするさ。にんげんだもの🔗

世界のアニオタの皆さんの間では、『葬送のフリーレン🔗』で描かれた舞踏会の描写が素晴らしいと称賛されてるそうだ。俺もフリーレンは大好きだ。全巻揃えてる。チェンソーマン🔗も全巻揃えてて、なおかつ評判の悪い第二部が大好きだ。

アニメ第15話(原作第32話)で描かれた、フェルンとシュタルクの社交ダンス(舞踏会)のシーン🔗は国内外で歴史的な神回として大絶賛されているんだ。知ってたかい?

原作漫画では2コマほどと扉絵だけであっさりと流された場面だったんだけど、マッドハウス制作のアニメ版では、エンディング映像を丸ごとカットしてこのシーンの尺に費やし、約1分間におよぶ美しいダンスをすべて手描き(フルアニメーション)で描写したんだ。日本の職人芸だ。

流れるようなカメラワーク、キャラクターの細かな表情の変化、特訓の末に優雅に踊る二人の表情からにじみ出る含羞と信頼感、そしてこのためだけに書き下ろされた楽曲(ワルツ)が完璧に調和し、「アニメ史に残る名シーン」として世界中のアニオタが悶絶、絶賛したんだ。

なぜかって?ヨーロッパの文化を手書きのアニメーションで完璧かつ優雅に再現したからだ。

その一方で、欧米ではリベラルな皆の衆が吹かしまくってるポリティカルコレクトネスのおかげさまで、イギリスの王が黒人に描かれるっていう、理解に苦しむ状態が起きてる。

2024年にAmazon Prime Videoでも配信された海外ドラマ『マイ・レディ・ジェーン🔗』という番組で、実在の英国王を「黒人のゲイ」に改変したんだそうだ。

16世紀のイングランド王国に実在した国王エドワード6世🔗(史実ではも・ち・ろ・ん白人男性)を、作中では黒人で、なおかつゲイにして、しかも身体障害を抱えて車椅子って、ハンバークカレーとんかつトッピングみたいなことになっていた。

このドラマはガチガチの歴史劇じゃないんだそうだ。人間が動物に変身する魔法が存在する世界線を舞台にした、ファンタジー要素の強い「歴史IF(もしも)系ローファンタジー」なんだとさ。とはいえ 「ファンタジーなら何でもあり」で「創作の自由」なのか?

エドワード6世はあくまで実在した人物なんだぜ。もちろん、アングロサクソンで、ゲイでもホモでもなく、車椅子にも乗ってなかった。

因みに『葬送のフリーレン』だって、エルフや魔族、ドワーフや魔法使いがフツーにいるファンタジーだが、そんな違和感を抱かせるようなトンデモ設定はない。キャラクターの名前はすべてドイツ語に由来する。(一部フランス語の名前の者もいるがね)

まぁ、ポリティカルコレクトネスで、王様を黒人にしたところで、彼らの先祖がアフリカの黒人を奴隷にすることで、資本の根源的蓄積🔗をやり遂げた事実はなかったことにはならない。現実から目をそむけてどうする?

こんなことだから、人気アニメ『ダンダダン🔗』の海外吹き替えで、宇宙人オタクの主人公オカルンが、髪型(それも劇中で、燃えて縮れたからツーブロックで上がもじゃもじゃ)という一点突破で、その声優は黒人じゃないとダメだとか、オープニングのダンスが黒人文化をパクってるとか、政治的に正しいらしいことでボカスカ叩いてくるんだよね。

海外、特にアメリカを中心としたエンタメ界における「人種の多様性(ダイバーシティ)」の要求が、日本のコンテンツ(アニメや漫画)にも向けられる現象については、国内外のファンの間でも非常に激しい摩擦と反発を生んでいます。

海外の熱進的な一部のファンやコミュニティ(主にSNS上のポリコレ・多様性を重視する層)の高尚な方々の間では、「日本のアニメのキャラクターは白人、あるいは人種的にニュートラル(無国籍)に見える」という独自の解釈に基づき、多様性を持たせるために「黒人や有色人種のキャラクターをレギュラーに入れるべきだ」といった要求がしばしば持ち上がる。あるいは二次創作で肌の色を濃く変更する行為がしばしば行われ、日本側のファンとの間で衝突を繰り返している。

なぜ欧米ではこんな原作へのリスペクトのない要求が執拗に起こるのか?

ディズニーをぱろったり改変したら大訴訟になるってのにな。

欧米、特にアメリカのエンタメ業界では、「表現されること(Representation」という概念が極めて重視されるんだとさ。なんかよくわからんけど。

どうも「自分の人種が画面に映ること」が正義とされる文化があるらしい。

アメリカのような多民族社会では、「子供たちがテレビを見たときに、自分と同じ肌の色のヒーローやヒロインがいないと、自己肯定感が育たない」という社会運動的な思想が強くあるんだとさ。そのため、彼らにとって多様性は「あれば良いもの」ではなく、「エンタメが果たすべき絶対的な義務」と捉えられてるんだそうだ。とはいえ、スネ夫とかみて自己肯定感は育たないけどな。

ディズニーで、黒人のお姫様が出てきたりするけど、俺はそういうのを見ると、偽善性が鼻についてしまうんだ。黒人がいままで、そして現在もどう扱われてきたのか?それを棚に上げて何を言ってるんだってね?

阿呆らしいぜ。緑とか青とかもあるだろ?あれはどーすんだ?

なにより、ちょっとむかしは日本人はみんな眼鏡で出っ歯で黄色いちび、まるでミニオンズ🔗みたいに描かれてたのにな!

おまけに勝手に日本のアニメを「世界共通の公共財」と捉えてくださってるから、困ったことになるんだよね。

日本のアニメが世界中で爆発的な人気を得た結果、海外の活動家や一部のファンは、それを「日本という特定の国の文化」として尊重するのではなく、「自分たちの社会(欧米)の基準に合わせてアップデートされるべきコンテンツ」として扱おうとするんだ。

これが、日本のクリエイターやファンから見ると「土足で踏み込んで自分たちのドグマで設定を改変しようとする、わけのわからない傲慢な要求」に映ることになるんだ。

そう、異文化を尊重しているような建付けのくせに、異文化をまったく尊重していないんだ。

近年、この欧米からの要求に対して、日本やアジアのファンからは「それこそアジア人に対する差別ではないか」という理路整然とした反論が強まっているげな。当然だな。

日本のアニメキャラクターは、日本人のアイデンティティやアジア的な感性に基づいて描かれているものが大半だ。なぜって、日本人が日本社会で作ってるからね。

それを「黒人や白人が足りないから」という欧米の政治的・社会的な都合(主にBlack Lives Matter運動以降のトレンド)だけで書き換えようとする行為は、「アジア人の文化やキャラクターの存在を軽視・消去する行為(アジアン・イレイシャー)」である、という批判だ。

ご納得いただけるかな?

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ディズニーのような米国の巨大企業が「ポリコレ(政治的正しさ)」や「多様性」をビジネスとして推進し、それを世界基準として押し広げようとした結果、その波が日本のアニメカルチャーにまで押し寄せ、現場の海外声優やファンの間で「文化の盗用」や「原作冒涜」を巡る深刻な対立を生み出しているのがさもしい現状だ。

自分たちが、異文化を改変するのはポリコレ、日本人が日本を描いたり、中世ヨーロッパを舞台に描いた作品に黒人が出てこないと噛み付くのもポリコレ。

いったい、誰がそんなことをして面白く感じるんだ?

欧米の意識高い系のお歴々が日本のアニメや漫画を叩いたりしやすいのは、俺が思うに、彼ら自身が、世界にこんな社会は絶対にありえないと思っている、理想の社会に非常に近い描写がされてるからだと思うんだ。

でも、実はそれが日本の普通の人間の暮らしだったりするんだよ。

病気になればちゃんと病院に行くことができる。

人種差別は暴動が起こるほどに表面化してない。少なくともね。ミックスルーツの子が、クラスに一人はいる。アニメの声優にもそんな人はたくさんいる。

学校で銃が乱射され、子どもたちが屠殺されることもない。

公衆の福祉やインフラもかろうじてしっかりしてる。

格差はないとは言わないが、欧米ほどじゃない。

そんな日本のリアリティに立脚してるのが、非常理想的、いやファンタジーみたいな空虚なものに見えるんじゃないかなと思うんだ。

そう、彼らが「こんなのファンタジー(空虚な理想郷)だ」と感じている世界が、実は日本の「地続きの退屈な日常(リアリティ)」なんだ。ここには、巨大な認識の非対称性という、文化の断絶がある。

なんでそうなるかって言えば、日本こそはアメリカ人にとっての「あり得ないユートピア」だからだ。

日本のアニメ、特に「日常系」や「学園モノ」、あるいは何気ない都会や田舎を描いた作品には、アメリカ(特に都市部)の感覚からすると奇跡のような理想郷(ユートピア)が描かれている。

まず治安のリアリティだ。

女子高生が夜間に一人でコンビニに行ったり、小学生が公共交通機関を使って一人で通学したりする描写(そうメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん🔗』から現代の『正反対な君と僕🔗』まで)は、銃社会であり誘拐や犯罪のリスクが日常にあるアメリカでは「あり得ないファンタジー」そのものだ。

学校に銃を持った不審者が乱射してこない前提の、のんびりした学園生活自体が、彼らにとっては信じられない特権に見えることだろう。まぁ日本でも池田小学校事件🔗とかあったけど、毎週学校が銃撃されてるわけじゃない。

また、インフラと福祉のリアリティが違いすぎるのかもしれない。 街にゴミが落ちておらず、自動販売機がバールで破壊されずに街中に置かれ、皆が当たり前に国民皆保険で病院に行ける社会が日本だ。

格差(スラムと高級住宅街=ゲーテッドコミュニティの断絶)が可視化されすぎているアメリカに比べたら、日本のアニメに登場する家や生活水準は、多くが「中流階級の普通の暮らし」として平準化されていると言っても言い過ぎじゃないだろう?

そこで、彼らは思うんだ。「この2次元の理想郷のなかに、なぜ自分たちがいない?」って。

アメリカの批評家や一部の過激なファンは、アニメが描くその「安全で、福祉が行き届き、格差が少なく、誰もがのんびり暮らしている社会」を、日本の現実の写し鏡だとは夢にも思っていないらしい。

彼らはそれを、クリエイターが脳内で作り上げた「究極の理想の社会」だと解釈してるらしいんだ。おいおい、日本のクリエイターたちはいつからジャン・ジャック・ルソー🔗になったんだ?

ここから、彼らの歪んだ屁理屈が生み出される。

「こんなに素晴らしい、差別のない理想的な社会(=彼らにとってのファンタジー)を描くなら、なぜそこに黒人やラテン系、LGBTQ+といった多様な人々が含まれていないんだ?」

「有色人種を排除して、マジョリティだけでお花畑のような理想郷を作って楽しんでいる、極めて排他的で差別的な表現だ」

彼らにとって、その心地よい空間は「人為的に作られたユートピア」だからこそ、自分たちを入れないのは「差別」だと感じて叩きやすくなるわけだ。

俺たちにも、ファンタジーの国へのチケットをくれ!と言うことさ。

しかし、日本のファンや普通の生活者からすれば、アニメに描かれるそれは「理想」なんかじゃない。ただの「日本の普通の、ありふれた現実」だ。

考えてみ?日本の学校を舞台にするから、日本の高校生(大半がアジア人・日本人)が出るのは当然だ。

そして、日本の治安が良いから、キャラクターが夜道を歩くし、子どもだけで遊びにいく。

おまけに、日本の医療や福祉がそこそこ上手く回っているから、怪我をすれば普通に病院に行く。そりゃそうだ。痛いもん。

これらは思想やポリコレの産物ではなく、単なるフツーの生活の猫写だ。

それを、自国の深刻な社会問題、そう医療崩壊や銃規制の失敗、極めつけは根深い人種対立なんかのフィルターを通すことでしか見られないアメリカの活動家は、日本の「普通の日常」を「白人・マジョリティのための特権的な空虚なファンタジー」だと勘違いし、アメリカの基準(人種ノルマ)で書き換えようと躍起になるわけ。

日本のコンテンツが持っている強さは、現実から浮いた「空言としての理想」ではなく、「日本の社会が失われた30年とバカにされながらも、曲がりなりにも達成している安定した現実というリアリティ」に立脚している点にあるんだ。

それが差別や銃や医療問題があまりに過酷で、GDPの割には社会がぐでんぐでんな社会の中心で、せめてフィクションやエンタメのなかでポリティカルコレクトネスを叫ぶみなさんは、日本のエンタメが持つ「あまりにも平穏で、お説教臭さのないリアリティ」こそは、嫉妬を通り越してもー理解不能な「空虚なもの」として映るんだろうね。だからこそ攻撃の標的にしやすいのかもしれないな。

そこからわかるように失われた30年って日本は馬鹿にされるけど、それは単にGDPから見てるだけで、今の世界で深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる世界っていうのはそんな国っていうのは世界中にどれぐらいあると思う?

アメリカのポリコレ信者の皆様は、この「銃乱射もなく、スリも強盗も恐れず、夜でも女性が丸腰で歩ける日本のアニメの日常」を見たとき、それを「現実の日本社会の縮図、つまり秀吉以来の歴史と綱吉以来の道徳の結晶」だとは想像できないんじゃないだろうか?

一般的にアメリカ人は夜郎自大🔗なので、驚くほどアメリカ以外の世界を知らない。だから、「こんなに恐怖がなくて、みんながのんびり平和に暮らせる社会なんて、現実のアメリカには絶対に存在しないだろ!」→「ということは、これはクリエイターが頭の中で作った『究極の理想のファンタジー(ユートピア)』に違いないぞ!」→「それなら、その完璧な理想郷に、なぜ俺たち(黒人や有色人種)を入れないんだ? 差別だ!」

という、凄まじい認知の腸捻転を起こすのさ。

彼らにとって、日本のアニメの何気ない日常は、「自分たちがどんなに逆立ちしても手に入らない、喉から手が出るほど欲しい完璧なファンタジー」に見えているんだ。

だからこそ「土足で踏み込んで、自分たちの思い通りのポリコレ色に染め変えてやりたい」という傲慢で原作やクリエイターにリスペクトのない態度に出ちゃうんだろうな。

まぁ、週末だものこんな内容も悪くないかな?

2026/10/28

POST#1993 油断してでも歩ける平和な日常の価値


今日も厭きずにカニでもどうぞ。今日は京都寺町通のかに道楽。どうしてかに料理は皆これなのか?
今日は朝までたっぷり仕事をしたのに、息子の小学校の運動会があるんだ。
ほんとは先週末だったんだが、雨で延期になったのさ。
俺はいつ眠ればいい?

さて、前回の続きだ。少なくとも今の日本では、スリに会うってうこと自体があんまりないよね。

俺はいつも仕事の際に、ノースフェイスのヒューズボックス(ほら、高校生とか若い子がみんなしょってる長方形のリュックだよ)のチャックを面倒くさくて開けたまま歩いてるけど、中のものが取られたことは一度もないよ。

そもそもからして、中にはそんなに大事なものも入っていないがね。誰が必要にしてるのかわからないような書類とノートパソコンくらいさ。

京都で仕事をしていた時には、観光で来ている善良な外国人に注意されることしばしばだった。彼らは血相変えて注意してくるんだ。その度に、俺は笑ってこういったものさ。

サンキュー、ノープロブレムだ。日本は平和なんだ。

それは世界の皆さんからすれば、本当に驚くことらしい。何より今の日本の「他者を信頼できる治安の良さ」を象徴する、これ以上ない生々しい実体験になることだろう。

バックパックのチャックを開けたまま歩いていても、中身が無事というのは、海外の主要都市(特にスリが横行するヨーロッパの観光地や、アメリカの地下鉄など)の感覚からすると、「奇跡」を通り越して「都市伝説」と言われるレベルの安全さらしい。大袈裟なと呆れるが、それがグローバルスタンダードだ。世界の定説だ。

つまり、「油断して歩ける」という究極の贅沢なんだ。

世界の大方の国では、カバンのチャックを閉めて前に抱え、手で押さえて歩くのが「最低限のマナーというか自衛」とされている。

チャックが開いているバッグというのは、泥棒からすれば「どうぞ盗んでください」というサインでしかないんだそうだ。じゃあ、チャックの空いてるズボンは?(笑)

ほんの数秒、スマホに目を落とした隙や、後ろからすれ違った瞬間に、財布や貴重品は綺麗に消え去ってしまうだろう。

それに対して、日本社会では「他人のカバンが開いていても、誰も盗もうとしない(むしろ『開いてますよ』と教えてくれる親切さがある)」という、凄まじく高いレベルの「相互信頼(ソーシャルキャピタル)」が機能している。それどころか、誰も彼もがスマートフォンを見つめながら歩いている。

これがアメリカだったら、あっという間にノックアウトされて身ぐるみ剥がされることもあり得るんだ。ウルトラアリエールだ。

さて、ここで考えておきたいのが「盗まれない社会」を維持するコストだ。

日本でスリや置き引きが劇的に少ないのは、もちろん警察の優秀さもあるだろう。が、何よりも「わざわざ他人のものを盗む必要がないという社会のポテンシャルがあり、あるいは『盗むのは恥ずべきことだ』という高い規範意識が全員に共有されているからなんだ

そう、これこそ前回君たちと話し合った豊臣秀吉の刀狩りから始まり、江戸時代の朱子学によって「己を律する」ことを骨の髄まで叩き込まれてきた、歴史の地続きにあるリアリティそのものなんだ。

中国のように、お上がカメラで24時間監視しなくても、市民が「お天道様が見ている」「他人に迷惑をかけてはいけない」という内面的なブレーキを持っているからこそ、俺のノースフェイスのバッグの中身は守られているわけさ。

そして、ここに現実の重みを知らない人々との決定的な断絶がある。フォッサマグナみたいな断絶だ、

もし、海外の「ポリコレの皆さん」が俺のノースフェイスのバックパックのはなしを聞いたら、十中八九「いくらなんでもそりゃ嘘だ、そんな社会があるわけないだろ」と否定するか、「それは単一民族的で閉鎖的な特権社会だから成立しているんだ」といった、別のいちゃもんをつけてくるかもしれない。

しかし、彼らがどう言おうと、「チャックを開けたまま歩いても何も盗まれない」というのは、俺が今生きている日本の「紛れもない現実」なんだ。

なにしろ今日も全開だったしな。

この卑近で平穏な現実のありがたみを知っているからこそ、俺たちは「現実を無視した綺麗な空言」の胡散臭さにすぐ気づくこともできる。

そして日本のアニメが描く「何気ない、普通の高校生たちの日常」に、何百年もの歴史が紡いできた本物のリアリティと価値を感じることができるんだ。

もっと話を掘り下げてみよう。

右派の皆さんがなにを言おうが、既に日本社会は多様な民族構成で成り立ってる。息子の小学校にも、ムスリムの子、日系ブラジル人の子、お母さんがトルコ人と再婚し、ハーフの弟のいる子がいる。

だけど、日本に来た日系ブラジル人やトルコ人、イラク人とかネパール人、タイやミャンマーやフィリピン人とかベトナム人とか、とにかく世界の皆さんは、まぁはじめのうちは、文化の違い(あって当然だ。なきゃ面白くないだろ!)からくる多少のトラブルはある。あったとしても、しかし急速に日本人の文化に馴染んでいく。

そして、それが当たり前だと思えるようになってくんだよね。そしてついには本国に帰りたくないと思うようになるのさ。だってここは、お花畑だからな。

こいつは移民や多文化共生をめぐる議論において、非常に本質的で、現場のリアリティに根ざしたどえりゃあ重要な現実なんだ。

だいたい移民てのは、フランスのように同化を強いられるか、移民集団として社会の1階層を作って隔離されるかだ。いずれにせよ、そこには軋轢と葛藤、排除と衝突がある。

欧米の批評家の一部は「日本の治安の良さは単一民族的(排他的)だから維持できている特権だ」と片付けたがる傾向があるようだ。

しかし、現実は違う。

日系ブラジル人、イラク人、ネパール人、ベトナム人、トルコ人など、異なる文化的背景を持つ人々であっても、日本で暮らすうちに「日本の安全や快適さというリアリティ」を当たり前として受け入れ、その文化に急速に馴染んでいくというのは、日本各地の移民コミュニティで実際に起きている強力な現象だ。

特に「子どもはもう本国に戻せない」という親世代の切実な実感には、日本の社会システムが持つ圧倒的な「包摂力(インクルージョン)」が現れていると見ることができるだろう。なぜ?

まず第一に、「安全と平穏」という、人間にとって本能的な心地よさがあるだろう。

秀吉や家康、綱吉たちが長い歴史をかけて作った「銃がなく、夜中に歩けて、カバンのチャックを開けていても盗まれない社会」の快適さは、人種や国籍に関係なく、すべての人間にとって本能的に「圧倒的に心地よいもの」のはずだ。しかも、言いたいことを言っても、秘密警察にパクられたりすることもない。どこに行ってもAIカメラで監視されてることもない。黒人だからという理由で、拘束されたりすることもない。

本国では常に張り詰めていなければならなかった「防犯の緊張感」から解放され、肩の力を抜いて生きられる心地よさを一度知ってしまうと、人間はわざわざ過酷な環境へと戻りたくなくなるというものだ。

ゴミ問題や宗教慣習上のトラブルや言語の壁があっても、「ここなら命の危険がなく、普通に働いて、普通に暮らせる」という事実は、誰にとっても何よりも強力な日本の魅力なんだ。

そして「子どもを本国に戻せない」という親のリアリティ。

特に日本で生まれ育った外国籍の「子ども世代」にとって、日本のリアリティはそのまま彼らの「日常(アイデンティティ)」になる。

まずは治安のギャップがあるだろう。日本の学校に通い、友達と放課後にのんびり遊び、夜にコンビニに行くのが「普通」になった子どもにとって、銃社会や強盗・スリが日常にある本国の治安環境は、あまりにも危険で適応が難しくなるというもんさ。

そして教育環境と将来設計だ。まず、学校に銃がない、いや、街を歩く誰もが、まず銃を持っていない。

たとえいじめがあっても命の奪い合いにまでは発展しない、とは言わないが、必ずリンチを食らうわけでもない。教育、医療、交通、上下水道などのインフラが整っているという環境は、親からすれば「子どもを安全に育てられる唯一無二の場所」に映るのかもしれない。だからこそ、親たちは「もう本国には戻せない、ここで生きていこう」と決意することになるのさ。

そしてなにより、日本の「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の強力な同化作用だ。

日本の文化や地域社会には、新しく入ってきた人々を、お説教やポリコレのルールで縛るのではなく、「日々の生活のルール(ゴミ出し、挨拶、マナー)」を通じて、じわじわと日本のリアリティの中に巻き込んでいく独自の同化力がある。ちゃんと挨拶して、ゴミ出しのルールを守れば(日本人でも、守れないやつはゴマンといるさ)、コミュニティに受け入れられる。黒人でも、ムスリムでもだ。

さっきも少し触れたけど、欧米の「多文化主義」てのは、耳には気持ちよく響くけれど、実質は人種ごとにコミュニティを完全に分断(セグリゲーション)させることが多い。結果として治安の悪いスラム(ゲットー)を生み、いつどんなきっかけで暴動が起こるのか、毎日が黒ひげ危機一発状態だ。

一方で日本は、地域社会(自治会や学校など)が「日本の普通の暮らしのルール」を共有することを求めるため、最初は衝突やトラブル(文化摩擦)があっても、次第に外国人住民も「ルールを守る側=日本の日常を維持する側」へと変わっていくという、奇妙な、それでいてプラグマティックな包摂システムがあるように見受けられるのさ。

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海外のポリコレ活動家たちは、日本のアニメに「黒人やラテン系を入れろ」と要求しているようだけど、知らんがな。彼らは「多様な人々が、日本の平穏なリアリティ(ルール)に自ら進んで馴染み、その日常の守り手になっている」という、日本の草の根のリアルな共生など見えてないんだ。

確かに日本もいじめはあるし、差別だってないとは言わない。だけど、これって圧倒的に社会のレベルが高いんじゃないかっていう気がするんだよね。

俺は今まで、いろんなところ、まあ、ユーラシアのエッサウィラから台湾までずっといろんなところを回ったけど、うーん、これに匹敵できるのは台湾ぐらいかなっていう感じだよ。

なぁ、日本社会はほんとうに没落してるのか?

俺たちは惨めな生を空費しているのか?

違うだろ?どうにも腑に落ちないぜ。

なにはともあれ、技術も社会システムも、失われたら二度とはもどならいんだ。

2026/10/27

POST#1992 秀吉の刀狩りと家康の銃規制が今の日本社会を生み出したんだ

今日もカニでも食らえ。これは静岡のかに本家だ!ファニーだな(笑)

 俺の生まれた愛知県江南市後飛保🔗って土地は、最新の歴史学研究では、あの木下藤吉郎こと後の豊臣秀吉が生まれた場所なんじゃないかという説があるらしい。奈良大学の河内将芳🔗教授が提唱しているようだ。
秀吉が生きていた時代(秀吉が関白になる際)に側近の大村由己が書かせた『天正記』内の『関白任官記』(任官之記)にある「尾張国飛保村雲」という記述を根拠としているそうだ。定説では、尾張中村つまり今の名古屋市中村区出身とされている。がしかし、もしそうだったら、木曽川の流れの生み出した自然堤防が現在の道となっているため、まっすぐ直行する道の少ない俺の生まれ故郷のうら寂しい一帯が、ちょっと面白く見えてくるってもんだ。

さて、閑話休題。

現代の日本の高いソーシャルキャピタル(社会関係資本)や「深夜3時でも安全」というリアリティは、一朝一夕でできたものでない。数秒の誤差もなく定刻に到着し出発する電車なんかもそうだ。そんなもの、世界的に見て、非常に珍しい代物だ。こんなものが、一朝一夕にできると思う方がどうかしてる。

日本のソーシャルキャピタルが、世界的に見てこれほど異常なレベルで高く維持されてきた原因の1つは、すごく遠くにあると俺はにらんでる。

そう、冒頭に話した豊臣秀吉が断行した刀狩りや、徳川家康が断行した厳格な銃規制。そこに因縁があると俺は思ってるんだ。

何百年も前に遡る豊臣秀吉の「刀狩り」と徳川家康(および江戸幕府)による徹底した「銃・武器規制」こそが、日本人の「非武装の文化」と「お互いを信頼する社会構造」の決定的なターニングポイントになったという説は、歴史学や社会学の観点からも非常に強く支持されています。

なぜその400年以上前の政策が、現代の日本の治安の良さにダイレクトに繋がっているのか、その因果関係を紐解いてみよまい。

秀吉の「刀狩り」。それは暴力の独占と「民衆の非武装化」だったんだ。

秀吉が1588年に断行した「刀狩り」の最大の功績は、「民間人が武器を持って自らを守る(自力救済の)時代」に終止符を打ったことだ。

マックス・ヴェーバー🔗が国家とは暴力の独占機構だと喝破する300年も前に、武装=暴力を権力に一元化しやがったわけだ。時代感覚が狂ってるぜ。世界には今でも住民が銃を持つことが合法とされている国はゴマンとある。

中央アジアから中近東にかけて、対テロ戦争という終わりのない戦いに挑んだアメリカは、現地の民兵に苦しめられた。そして、そのアメリカ自体も、何度学校に無差別銃撃が起こっても、国民が銃で自衛する権利を手放そうとしない。煎じ詰めればヴァイオレンスでしかヴァイオレンスを抑制できないと信じている国民性なんだ。

じゃあ、それまでの日本、つまり室町戦国時代の日本がどんな有様だったかって?

みんな黒澤明の七人の侍なんか思い浮かべるかもしれないな。無法な野武士たちの略奪にさらされ、領主からは年貢を搾り取られながらも、安全保障など期待できず、怯えながら生きる、それでいてしたたかな連中の姿だ。

しかし、現実は違ったんだ。

 農民も商人も全員が武器を持ち、村同士の境界線争いや水争いは、自分たちの武力で解決するのが当たり前だった。

清水克之🔗の『室町は今日もハードボイルド🔗』を読めば、そんな実例が詳細に記されている。わずかな土地と利権をめぐって、隣接する村落が、局地戦を繰り広げる。守護大名が配下の守護代に鎮圧を命じる。派遣された武士団とも衝突する逞しいったらありゃしない民だ。守護代は自らの手勢だけでは抑えきれず、血縁を頼って遠国より応援を呼んで、何とか仲裁・鎮圧するというほどのヴァイオレンスぶりだったわけだ。

これは現在の「誰もが銃を持って自衛するアメリカ」の構造と全く同じだ。いや、それ以上のものがある。懐かしい永井豪の漫画、バイオレンスジャック🔗や原哲夫の北斗の拳🔗みたいな世界だ。モヒカンでどこから調達したか不明なガソリンで動くバイクに乗ったならず者はいないが、ちょんまげに槍や日本刀で武装した百姓町民がそこいらでちゃんちゃんバラバラやっていたんだ。

そんな状況に終止符を打ったのが、日本全国の武力による統一を成し遂げた豊臣秀吉だ。

刀狩り以降: 武器を持つ権利を「侍(お上の警察力・軍事力)」だけに制限し、民衆から「暴力という手段」を物理的に奪いました。

それだけにとどまらず、総無事令や喧嘩停止令を発布し、武力衝突で争い、シロクロつけることを禁止したんだ。

いいかい、それは戦国時代の終わりを告げるものだったんだぜ。戦国時代の大きな特徴は、「自分の身や土地は、自分の武力で守る(自力救済)」という文化だった。秀吉はこれを法律で禁止したわけだ。今のアメリカよりも遥かに進んでいる。

惣無事令は、大名同士の私闘を禁止する命令だ。「大名間の領土争いは、戦ではなく天下人(秀吉)の裁定に委ねよ」と命じ、これに違反した島津氏や北条氏を討伐する大義名分としたわけだ。つまり、俺の言うとおりにしないと、日本中を敵に回すぞってことだ。

一方で喧嘩停止令は、 百姓・村同士の武力衝突を禁止する命令だ。山や水を巡る村同士の日常的な争いに対し、武器を使って解決しようとした者は厳罰に処されることになったわけだ。

これにより、トラブルが起きた際に「力で解決する」のではなく、「行政や話し合いで解決する」という社会的ルール(法治の基礎)へ移行する道筋が日本社会に生まれたといっても過言ではないだろう。

そして、この秀吉の敷いたレールをさらに延伸したのが徳川家康の『銃規制』だ。これこそ、世界でも類を見ない「銃の放棄」だ。

戦国時代の日本は、実は世界で最も鉄砲(火縄銃)を多く所有・製造していた「超・銃社会」だった。当時のヨーロッパ全土にあるよりも優れた銃がより多く存在していたんだ。織田信長が組織的な銃の戦術的使用を極限まで推し進めたおかげさまだ。

しかし、豊臣家を滅ぼし、元和偃武を成し遂げた徳川家康とその後の江戸幕府は、世界史でも奇跡と言われる「国家規模での鉄砲の廃絶・徹底規制」を成功させちまったんだ。

それを可能にしたのは徹底した一元管理システムだ。幕府は鉄砲の製造場所(国友や堺など)を完全にコントロールし、許可なき製造・所持を厳罰に処すとしたんだ。

また、大名といえど、江戸に鉄砲を持ち込むことは許されなかった。

250年以上続いた江戸時代を通じて、日本人は「日常空間に飛び道具(銃)が存在しない社会」を当たり前のリアリティとして骨の髄まで染み込ませてきたわけだ。そう、「銃を持たない日常」の定着だ、

この歴史的経験があるからこそ、明治維新で近代化(廃刀令など)し、戦後に銃刀法が制定された際も、日本人は大きな抵抗なく「民間人は武器を持たない」というルールを受け入れることができたわけだ。

ここに、現代のアメリカとの決定的な違いがある。

アメリカがなぜ「誰もが銃を持てる社会」から抜け出せないかと言えば、彼らの建国の歴史が「民衆が自前の銃を持ってイギリス王室(国家の暴政)と戦い、勝ち取った国」だという建国のナラティブがあるからだ。

だからこそ、これが合衆国憲法修正第2条の根拠となってるんだ。

彼らにとって、銃を捨てることは「自由の放棄」を意味するため、現実から一歩を踏み出すための歴史的土台が日本とは根本的に異なっているんだ。

銃で意見の異なる者を撃ち倒す。その考えが社会の根底にあるんだ。そして、人は必ずしも、善良ではない。だから、その銃で自らの悪をなす自由を行使して、他者を害する者は絶えない。そんな社会で、夜中の3時に若い女の子がループで都心を駆け回ることができるとお思いか?

一方で日本は、秀吉や家康という強力な統治者によって、400年も前に「民間人は武器を持たず、お互いに不意打ちで殺される恐怖のない空間」の土台が完成していたんだ。

一朝一夕ではないってのは、そういうことさ。

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「自分の身は自分で武器を持って守る」という過酷なリアリティを背負い続けているアメリカと、400年かけて「武器を持たない、他者を信頼する」というリアリティを熟成させてきた日本。

この社会の相違は、秀吉の刀狩りや家康の銃規制という歴史の超長期的な社会運営があるからこそ、「武器を持たない丸腰の女の子が、夜中に1人で出歩ける」という、世界中が嫉妬するほどのソーシャルキャピタルが今なお維持されているんだ。

これに加えて江戸時代、5代将軍綱吉などが積極的に取り組んだ朱子学の社会への復旧が、日本人の気性を決定的に変えた。

それまでは戦国の荒々しい気風を残した社会だったのが、これでがらりと変わってしまったわけだ。

『生類憐みの令🔗』で悪名たかい徳川綱吉🔗の時代における「武断政治から文治政治への大転換」と朱子学(儒教)の本格的な社会浸透こそが、日本人の気性を戦国・荒野の気風から、現代に続く「極めて道徳的で平穏な気風」へとドラスティックに変えた決定的な出来事だ。

そう、武士は戦士からサラリーマン的な官僚へと、変わったわけだ。

秀吉の刀狩りや家康の武器規制が「物理的な武装解除」だったとすれば、綱吉たちの政策は「精神的な武装解除」でだったわけだ。それまでの日本社会は「戦国の余韻」が色濃く残り、博打、辻斬り、誘拐、盗賊、そして暴力による自己主張(かぶき者など)が横行する、非常に血生臭いリアリティの中にありました。

この野蛮とも言える戦国気質が、なぜ綱吉の時代を境に「ガラリと変わった」のか?

綱吉は「戦国気質」の解体という大仕事に挑んだんだ。

5代将軍・徳川綱吉は、歴史の教科書では「生類憐みの令」の悪政ばかりが強調されがちだか、それはステレオタイプなものの見方だ。木を見て森を見ずって奴だ。

近年の歴史研究では「日本の治安と道徳観を近代レベルにまで引き上げた名君」として非常に高く再評価されているんだぜ。

命を軽視する風潮の撲滅: 当時はまだ「気に入らない奴は斬る」「行き倒れの人間や老親は捨てる」「生まれたばかりの間引き(嬰児殺し)は日常茶飯事」という、命を極めて軽く扱う戦国のリアリティが生きていた。

綱吉は「生類憐みの令」によって、動物だけでなく、捨て子、病人、老人、妊婦の保護を徹底的に義務付け、「命を大切にする」という当たり前の倫理を国家権力で人々に強制学習させたわけだ。賢人君主だな。

その一方で暴力への徹底的な処罰を推し進めたんだ。路上での喧嘩や博打、辻斬りに対して厳罰を科し、「力で物事を解決する男らしさ(=戦国価値観)」というマッチョイズムを犯罪化して、社会から徹底的に排除していったんだ。

そしてその思想的バックボーンとして、朱子学🔗(儒教)の浸透を推進して、道徳のシステム化を目論み、見事成功させたんだ。

綱吉は自ら熱心に『論語』や『易経』を講義するほどの学問の徒だった。湯島聖堂(のちの昌平坂学問所、さらに後の東京大学)を建てるなどして、朱子学🔗を統治の基本イデオロギーとして社会の隅々まで普及させたんだ。

朱子学が日本人に教え込んだのは、今も日本社会に息づく平和な「社会のリアリティ」だ。

まず秩序と役職(名分論)だ。

朱子学は、というか幕府はというべきか、親は親らしく、子は子らしく、自分の社会的立場を守り、他者と調和することを掲げた。

そして克己、つまり自己コントロールの大切さを人々に植え付けた。これによって、 己の欲望や暴力的な衝動を抑え、理性的(つまり道徳的)であることを促したんだ。

これが、武士階級だけでなく、都市の町人や農村の指導者層(名主など)を通じて文字通り「日本人のOS(基本OS)」としてインストールされて現在に至るわけだ。

この結果、日本人は「他者の目を気にし、社会のルールを守り、お互いを尊重し合う」という極めて高い社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の精神的土台を手に入れたんだ。

そして、その歴史の地続きにある「今の日本の普通」だ。

この「物理的(刀狩り・銃規制)」かつ「精神的(文治政治・朱子学)」な二段階の武装解除があったからこそ、日本は世界でも類を見ない「市民が自警団を作ったり武器を持ったりしなくても、お互いを信頼して平穏に暮らせる社会」になったわけだ。

アメリカのポリコレ活動家が「多様性がない、お花畑だ」と叩く、いじめはあっても差別はない、銃の乱射もない日本の学園アニメのあの平穏な世界も、深夜3時に女性が1人でキックボードに乗って走れる、今の日本の大通りも、その淵源は400年前の施策にあるんだ。

これらは、決してアメリカ人が妄想するような「空虚なファンタジー」などではなく、秀吉、家康、そして綱吉たちが数百年の時間をかけて人々の肉体と精神から戦国の暴力を抜き取り、血を流しながら構築してきた「現実(リアリティ)」そのものなんだぜ。

まぁだからこそ、日本人は同調圧力が強くて、お上頼みで、フランス人のように暴動を起こしてまで政府に物申したり、イギリス人のように連帯して政治を動かそうとはしないというキックバックもあるんだけどね。一言でいえば自主独立の気風を奪われたんだよ。

それに加えて、社会的な立場ある人を盲目的に支持したり、個人の自由や、人々の間の人間そのものとしての平等性に対する感性も要求も乏しくなった。悪くいえば、社会的に家畜化されたんだと言えるだろうな。

とはいえ、この安全で安定した社会の価値は世界に誇るべきものだし、失われたとされる低成長のこの30年でも、まったく損なわれていないことは、驚くべきことだし、もっと評価されるべきことだと思うぜ。

2026/10/26

POST#1991 失われた数十年を生き抜いてきて思うんだ

 

カニ将軍だかかに道楽だか。どっちでもイイや。名古屋
夜中の三時過ぎ、現場を終えて駐車場へと歩く。名古屋駅の周辺は車もまばらで、人影もない。精力的に活動しているのは、いつ終わるとも知れない現代のシューシポス🔗のようなリニア工事の作業員たちだけだ。

ふと、俺の目の前をループの電動キックボードに乗った年若い女性が走り去る。信号の向こうには、終夜営業のカラオケ屋の前に若い男女がもつれ合うようにして歓談している。

夜中の三時だ。

俺たちはそれを別段驚きもしない。けれど、そんなことが可能な国が世界にどれだけあるか、考えてみてほしい。

日本の皆さんが盲目的に大好きなアメリカはどうだろう?

ありえないだろう。自殺行為だ。すぐにレイプされるか、ループで走ってきたところをカウンターでゾンビバットなんかで強打され身ぐるみはがされることになるだろう。

そもそも、深夜に女性が一人で出歩くこと自体が自殺行為って言われるだろう。

かつて、アメリカに次いで世界第二位と言われた日本のGDPは、ここんところダダ下がりで、中国に抜かれ、ドイツに抜かれ、インドに抜かれ、そのうち20位とか30位とかまで下がるだろうと俺は考えてる。

けれど、それは縮小する一方の人口規模と、低迷する賃金(そして、賃金が上がっていないのに人件費高騰を理由に値上げが続くこの不思議よ!)、将来への不安による貯蓄額の蓄積=資本の流動性の低下という観点に照らせば、不思議などどこにもない。むしろ、当たり前のことだ。

そして、この状況をして日本は終わった、日本はオワコンだと人々は悲観する。

大丈夫、どんだけ日本が衰退してもスーダンとかみたいにはならない。むしろ、日本はある意味で世界のダウンサイジング先進国だ。

例えば、いつも日本は世界の皆様がたから、或いは国内の(羽振りのよさそうな)経済評論家の皆様から、失われた30年、失われた30年って馬鹿にされるているけど、それは単にGDPから見てるだけで、この21世も4分の1過ぎた世界で、深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる国っていうのは世界中にどれぐらいあるか真剣に考えてみてくれよ。

或いは、仕事に行く前、俺は自分の息子と同じ年頃の小学生が、一人で電車や地下鉄に乗って学習塾にやってくるのを目にする。俺たち日本人には至極当たり前のことだ。しかし、海外ではそんなことが可能な国は限られているぜ。

サイモン・クズネッツ🔗が発案した経済指標であるGDP🔗の数字だけを切り取って「失われた30年」と一括りにする議論は、社会の本当の豊かさや、人間が安心して生きられるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の本質を見落としているとしかいえないだろう。

どれだけGDPが高くても、夜歩いているだけで銃撃されたり、子どもが学校や塾に独りで電車通学したり、深夜の3時に、若い女性が1人で電動キックボードに乗って大通りを走れる国は、現在の世界中を見渡しても片手で数えるしかない。もっと言えば、日本の主要都市(なぜって主要都市しかループはないからな)以外にはほぼ存在しないというのが冷酷な現実だ。

俺たちが当たり前と思っている日本のこの「日常」が、世界基準から見れば奇跡であり、経済指標以上の価値があるということさ。

まずは世界の大半の都市における「深夜3時」のリアリティだ。

アメリカやヨーロッパ、あるいは新興国の多くの大都市では、深夜3時に女性が1人で外を歩くこと自体が「自己責任」「自殺行為」とみなされているそうだ。

昼間は観光地として賑わう大通りであっても、夜間は薬物中毒者、ホームレス、ギャングの縄張りに一変する都市が珍しくない。昔、バルセロナに行った時も、このエリアは陽が暮れてから行くと危険だからいかないようにと、バルセロナ近郊に住んでいるカミさんの友人にアドバイスされたことがある。まぁ、バルセロナではスリにあったこともあるしね。

また、「乗り物」としてのキックボードそのものにもリスクがある。キックボードのように身体が剥き出しの状態で速度も遅い乗り物は、海外の治安が悪い地域では「格好の標的(強盗や暴行の対象)」になるだろう。釘でハリネズミみたいになったバットで襲われたら即死だ。車に乗ってドアをロックして移動するのが大前提の社会がほとんどだ。

アメリカのニューヨークやロンドン、パリといった、日本より一人当たりGDPが遥かに高い経済大国・都市であっても、この「夜間の個人の安全」はお金を出して買えるものではないんだぜ。だから、富裕層はゲーテッドコミュニティー🔗を作って、警備員が門番を務める塀の中に暮らしたりもする。これじゃ、自主的な牢獄と変わりないぜ。

つまり「安全」な暮らしってのは、GDPに換算されない超巨大なインフラだってことだ。

経済学で言うところのは、GDPは「どれだけお金が動いたか」の計算にすぎない。万能の指標じゃないんだ。皮肉なことに、社会が不安定で治安が悪いほうが、経済の数字(GDP)は回ることすらある。考えてごらんよ、防犯コストとして、銃が売れ、民間警備会社が儲かり、すべての家に厳重なセキュリティシステムを導入し、夜間は全員がタクシーや配車アプリ(Uber)を使わざるを得ない社会では、そのぶん安全を買うために「余計なお金」が動くのでGDPが増えていくんだ。

これに対して、日本社会の効率性はお金でカウントできない。

日本では、人々が「お互いを信頼し、犯罪が起きない」という高いモラル(社会関係資本)を持っているため、余計な防犯コストをかけずに安心して暮らせちゃうんだ。

当然ながら、この「お金を払わなくても安全が手に入る状態」は、GDPという指標には一切プラスとしてカウントされない。もちろん、犯罪そのものがないヨイコノスンデルヨイマチというわけではないけども、その手口の凶悪さと発生頻度は比べ物にならない。

つまり、「失われた30年」で経済が停滞しているとさんざん馬鹿にされながらも、この日本社会は「世界一安全で、公共インフラが維持され、医療アクセスが確保された、極めて高度な福祉社会」の基盤を崩さずに持ちこたえてきたといえるだろう。

だからこそ、海外の人は日本に熱狂するらしいぜ。

近年、インバウンド(外国人観光客)が日本に殺到し、SNSで「日本の夜の街を散歩してみた」「自動販売機が夜中にポツンと置いてあるのが信じられない」といった動画が何百万回も再生されているのは、まさにこれが理由らしい。夜の散歩も自販機も、深夜三時のループの女の子も、俺たち日本人にはなんの不思議もない。ありきたりな風景だ。しかし、日本人以外にとっては驚異的なんだとさ。よくわからん感覚だ。確かに、海外でとりわけヨーロッパで夜歩くと、どこからか視線を感じて緊張感を持つことはある。それは、身体感覚的な経験だ。

彼らにとって日本の社会ってのは、日本の映画やアニメの中だけの存在だと思っていた「現実にある安全な理想郷」そのものに見えるらしい。

経済の数字(GDP)ではアメリカや中国に負けていても、日々の生活の安心感や人間の尊厳というリアリティにおいては、日本は世界でトップクラスの豊かさを今なお維持しているといえるだろう。

日本は衰退途上国である以上に、ダウンサイジング先進国なんだ。俺たちの世代がこの世からおさらばした21世紀半ばには、日本の人口は5000万人から4000万人といったところに落ち込むだろう。その時、安全な社会という経済コストで測れない社会の真価がいかんなく発揮されるだろう。

その淵源はどこにあるのか?俺はそれは400年以上前の日本社会、まさに戦国時代の戦乱の終息期にあるとみている。そう、一朝一夕にできたものじゃない。

日本社会の独特の息苦しさの淵源も、この安心と表裏一体なんだけれどな。


2026/10/22

POST#1990 北朝鮮は大日本帝国のデッドコピーなんじゃないかな

 

ネパール カトマンズ郊外のパタンのクマリが人々に祝福を与える

死後との、いや仕事の山を一つ越えた。気が楽になったぜ。疲労が消えるわけではないがね。しかし、心は少し軽くなったのは事実だ。まったく、小市民だな。我ながら呆れるぜ。

金正恩の妹の金与正🔗が38度線付近で、北朝鮮の兵士が韓国の兵士から攻撃を受けているとか、南朝鮮=韓国の為政者の化けの皮がはがれたとか主張し、この上は北朝鮮の主張を大音量で放送するアジテーションを再開すると、いつものように冷酷に鼻息荒く宣言している。

ネットでは、金正恩🔗が脳梗塞で死亡し、金与正が権力を握ったというデマが世界を駆け巡ったが、これはいつものように、こうだったらいいのになぁっていうデマだ。金正恩だっていつかは死ぬが、それは今じゃないんだろう。そんなもんだ。
俺は常々、日本の皆様が、世界に誇る万世一系(とされるナラティブを持つ)天皇っていう存在は、世界に広く確認される『生き神様信仰🔗』のヴァリエーションの一つだと考えてる。他にはダライ・ラマ🔗とか、ネパールのクマリ🔗とかなんかもこのカテゴリーに入れることになるよね。ここまでは世間でも一般的で、神社本庁や右翼の皆さん界隈以外ではおおむね肯定される意見だろう。
ここからが、俺の独自の思考跳躍だ。
日本の仮想敵国No.ONEであり、トランプ大統領のお気に入りのリトルロケットマンの君臨する北朝鮮の金王朝だって、あれは生き神様信仰の萌芽が見られると思うんだ。

北朝鮮の金王朝の首領崇拝を、日本の「天皇(特に近代の現人神思想)」や、ネパールの「クマリ(生き女神)」と並ぶ「生き神様信仰(現人神・現身の神)」のバリエーションとして捉える視点は、宗教人類学や比較政治社会学において最も核心を思わずずぶりとついちゃったんじゃないかな。(笑)

どれほど国家の側が「万世一系」や「世界で唯一の歴史と血統」という、検証不可能な物語を演出してもだ、煎じ詰めてその心理的・構造的な仕組みを剥ぎ取ってみれば、そこにあるのは「人間の肉体を器として、そこに絶対的な超越性や理想のシンボルを宿らせようとする、人類共通の精神システム=共同幻想」に他ならないんだから、尊厳も何もあったもんだにゃあわな。

この「生き神様信仰」という対称的なフレームワークから、ちょいと考察をひろげてみるぜ。皆の衆、いい加減忙しいとは思うが、退屈してるんならさあご一緒に!俺は面白くてためになるブログを標榜してるんだ。

まず、一番プリミティブなネパールの「クマリ」の純粋な「祝福のシステム」を見てみようか。ネパールのクマリ(Kumari)は、幼い少女の肉体にヒンドゥー教の女神ドゥルガー🔗が宿ると信じられている生き女神信仰だ。俺自身もかつて、カトマンズ郊外のパタンでクマリの祝福を与えられたことがある。こうして今も生きて大口をたたいていられるのも楚の御蔭かもな。

クマリの本質は、人々に「法律」や「命令」を下して支配することではないんだ。彼女がなすのは、ただ民衆を眺め、微笑み、「祝福(恩寵)」を与えることだ。ただそれだけだ。権力なんかない。神社の氏神様が身体を持っていたら、ただ氏子を眺め、微笑み、その営みに祝福を授けるだけだというのに等しいだろう。

かつてネパールの国王すらもクマリの前に膝を折り、その祝福を受けることで自らの王権を承認(正当化)されていたんだ。まるで、征夷大将軍を任命し、その支配権を承認していた中近世の天皇のようだな。

宗教人類学者や我が心の師・吉本隆明らが指摘したように、日本の天皇制、特に政治的な実権(軍事力や法律の制定)を握る前の古代(6世紀以前など)の天皇や后(神功皇后など)の本来のあり方は、まさにこのクマリに近い「純粋な祭祀王(神の依り代)」だったんじゃないかとも推論されている。

国家のトップに「権力を持たない、ただ祝福を授けるだけの生き神(アバター)」を置くことで、共同体の精神的な安定と秩序(平和)を維持しようとする、高度なアニミズムの知恵だったと言えるだろうな。

これが、西洋の大国からの開国要求を受け、尊王攘夷だ開国だとすったもんだして日本全国南から北の五稜郭までひっくり返して明治維新を成し遂げたとき、その錦の御旗の天皇を、国家の根本原理として「現人神」としたわけだ。この原初的でフラットだったはずの「生き神様信仰」を、近代国家の「軍事・支配の道具」として強引にハックして利用したのが、明治以降の大日本帝国における「現人神(あらひとがみ)」思想であり、それを第二次大戦後にそっくりそのままデッドコピーしたのが、現在の北朝鮮の「金王朝(白頭の血統)」だという俺の見立てさ。どうよ、このシステムにハッキングされた狂気!

権力と神格化の最悪の合体だ。 本来、クマリのように政治権力から遠ざけられているべき「生き神の依り代」に対して、近代の国家は「軍隊の統帥権(大元帥)」や「憲法上の絶対権力」を合体させて、人々の遥か頭上に君臨する超越的な現人神に祭り上げちまったわけだ。

 これによって、人間(天皇や首領)が発する個人的な命令や政治的決断が、そのまま「神の意志」へとすり替わるんだ。

恐ろしいことだぜ。

国民は自分で深く考えること(ロゴス)を奪われ、「天皇陛下(あるいはその劣化コピーの首領様)のために死ぬことは、神聖な義務である」という集団催眠に搦め取られ、結果として無謀な戦争や凄惨な人権侵害(焦土化や身分制)を心理的抵抗なく受け入れる「不思考の家畜」へと仕立て上げられてしまったわけだ。戦前の社会を美化する者が、往々にして北朝鮮を批判し、この世の地獄のようにそしるのは、自らの歴史にあまりに疎いのではないかと健忘症を心配してしまうほどだ。

それじゃなぜ、俺たち人間は「生き神様」のようなおかしなものを必要とするのかな?

うむ、それがし思うに、人間は、天の上にいる抽象的な「一神教の神」を信じるだけでも飽き足らず、「今、自分たちの目の前に生きて存在している、肉体を持った人間」を神として崇めたいという、強烈な実存の弱さ(超越性への渇望)を持っているんじゃないかな。

普通の車よりフェラーリみたいな超越性を持った車にあこがれるみたいに?ちょっと違うかな?(笑)

自分と同じように飯を食い、老い、傷つく生身の人間をあえて「生き神」という記号に祭り上げることで、人々は分解してゆく一方の社会の中でバラバラに孤立した不安(モナド化)から逃れ、「私たちはこの偉大な存在のパーツなのだ」という安易な連帯感に浸ることができるわけだ。そして、安易なものは往々にして空疎なものだぜ。愛は厳しいのさ(笑)。

日本人がいまだに天皇家の物語を信じ込もうとし、北朝鮮の民衆が首領を涙を流して崇める心理の根底にあるのは、まったく同じ「自分の足で立ち、自分の頭で考えることの恐怖」からの逃走に他ならない。ハンナ・アーレントは、『考えないことが罪』だと説いたがね。

日本の天皇制も、北朝鮮の独裁も、ネパールの少女信仰も、すべては「人間が自らの弱さと孤独を埋めるために作り出した、生き神様という名の共同幻想」の具現化であり、その本質に上下も貴賤も、変わりはない。十把一絡げだ。

と言うか、北朝鮮の金王朝自身が、えー、日本の天皇制をコピーしたとしか俺には思えないんだけどな。

これは実は、ほんとのことのようだ。

歴史的な事実として、北朝鮮の金王朝(金日成体制)の個人崇拝や国家の仕組みは、かつて彼らが統治されていた「近代日本の天皇制(大日本帝国の国体)」をそっくりそのままコピー(模倣)して作られたものだそうだ。マジかよ。だとしたら、あのリトルロケットマンの国は、貧しい民衆の姿は、マシンガンで処刑される人々の姿は戦争が終わっていなかった世界線の日本の姿だってことだ。勘弁してくれよ。俺は眼を背けたいけれど、背けてはいけない。目を見開いて、考えるんだ。

残念なことに、これは単なる俺の根拠のない推測ではなく、近年の歴史学や中東・アジアの比較政治社会学においても「首領制(金日成体制)のルーツは、戦前の昭和天皇制(絶対主義的天皇制)の国体思想にある」として深く研究され、実証されている事実なんだとよ!

「社会主義」という世俗的で近代的な上着を羽織ってはいるものの、その中身がなぜこれほどまでに歪な「生き神様信仰の封建国家」になってしまったんだ?

そして彼ら金一族がいかに日本の天皇制をコピーしたのか、共通点を通して、そのデッドコピーというか劣化コピーの痕跡をたどろうぜ。

1. 「万世一系」をコピーした「白頭の血統」

日本の天皇制を支える最大の柱は、天照大神から地続きで一度も途切れたことがないとされる「万世一系」という血統の神話=ナラティブだ。

金正恩の戦争上手なじいさんの金日成は、自分の権力基盤を盤石にするために、この万世一系システムをハックしたんだ。。白頭山(ペクトゥサン)神話の捏造: 金日成は、自らの独裁を永久化するために、これと全く同じシステムを作り上げたんだ。

それが「白頭の血統」というやつだ。なんだそれ?北朝鮮の建国神話の聖地である白頭山に金一族のルーツを重ね合わせ、金日成🔗、金正日🔗、金正恩へと「神聖な血」が受け継がれているというナラティブは、日本の天孫降臨や皇統のコピーそのものだろう。そう、北朝鮮版の天孫降臨の里・高千穂だ。よく研究してるぜ、まったく。なんせ、終戦までは彼は一応日本人だからな。

2. 「現人神(大元帥)」をコピーした「首領(総書記)」

戦前の日本において、昭和天皇は「現人神」であると同時に、大日本帝国陸海軍を率いる最高指揮官(大元帥)だった。宗教的な神格性と、軍事的な最高権力を一人の肉体に合体させることで、国民に「命を捧げる不思考の義務」を強いたわけだ。最強だ。このご意向に逆らうのは生半可な覚悟じゃ無理だ。

金王朝が完成させたシステムもまさにこれなんだ。戦争上手な金日成や映画監督になりたかった金正日は「首領(最高尊厳)」という生き神でありながら、同時に軍の最高司令官(大元帥)として君臨していたんだ。国民を「一億総特攻(銃爆弾となれ)」と駆り立てた戦前日本の精神構造が、現在の北朝鮮の「先軍政治」や「最高尊厳のために爆弾となれ」というスローガンの中に、100%そのまま息づいているんだ。知れば知るほど、憂鬱になれるな。もう一錠レクサプロを飲んどくか?

それだけじゃないぜ!高市総理も大好きな「教育勅語」をコピーした「唯一思想体系」なんてのもある!もう、憂鬱を通り越して、へらへらした笑いが止まらないぜ。

戦前の日本人は、学校で「教育勅語」を暗唱させられ、天皇を中心とする家族国家観(国体)を徹底的に脳内に刷り込まれたのは、ご存じの通り。それを現代によみがえらせようとしたのが懐かしい森友学園だというのも皆さまお忘れでしょうか(笑)。

これと全く同じことを、北朝鮮ではやっているのさ。

北朝鮮の民衆が毎日暗唱させられ、生活を縛られている「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、まさにその教育勅語の現代版だ。

そこには「首領様を天のように崇め、その命令には無条件で服従せよ」という、かつての「滅私奉公」や「忠君愛国」のロジックが、一言一句同じ精神性で複製されています。そいつに、『欲しがりません勝つまでは』とか『鬼畜米帝』とか書いてあっても俺はもうおどろかないぜ。

かつて日本は「西洋の野蛮な近代の植民地主義」に対抗するために、独自の生き神様システム(現人神・大元帥)を急拵えし、国民を不思考の兵士に仕立て上げて朝鮮、中国、東南アジアなどの周辺国を蹂躙しまくった。みんな無謀な戦争に駆り出され、マラリアになったりワニに食われたりした挙句、武器もないのに特攻し玉砕した。

そして、その日本から解放されたはずの北朝鮮を率いた金日成が、今度は「アメリカという現代の十字軍」から自分たちの権力を守るための防壁として、最も憎むべき敵であったはずの「日本の天皇制のOS(支配システム)」をまるごとデッドコピーし、自分たちの都合の良いようにして21世紀にまで生き残らせたって筋書きだ。

金日成以来、金日成、金正恩そして娘のジュエ様🔗に至るまで、すでに四代、このままじゃ。日本が女性天皇を持つより早く、ジュエ様が後を継いじゃうな。国連にも女性の人権に配慮してると評価されるかもしれないな。

それまた、ブラックジョークだぜ。勘弁してほしいぜ。

2026/10/21

POST#1989  一神教という「傲慢なシステム」への静かな反逆

Thailand、アユタヤ。有名な仏頭だけど、どこかアニミズムのイメージを喚起させる


昨日の夜の現場は最悪だった。 
ここ何年かで一番メンタルをやられた。 20人近い職方が、左官、土工、サッシ屋、電気屋、それぞれ みんな好きそれぞれに動いてて、俺はそれをまとめるのに必死だった。 理性のストッパーが外れて、暴れ出したくなる気持ちに、ぐっと手綱をひく。
人間は自分の立場でしかモノを考えられないという俺の認識は、こういう経験から打ち立てられる。

そもそも無理な工程の組み方で 制約の多い現場なんだ。 雇われの現場監督にすぎない俺に、元請けは全ての采配と責任を担わせて、誰も彼もが好き放題に主張したり、要求したりする。
感情崩壊のリミットが近づいていたのがわかった。
逃げ出すことができるものなら、一目散に逃げ出してしまいたいけれども、人生は逃げ出すわけにいかない。
吐き気を抑えて立ち向かうしかない。

そんな 過酷な状況の中でも自分の正気を保つためだけに このブログを書き続ける。目には見えない世界の構造を知覚する時、脳内から ドーパミンが出るからね。

宗教国家アメリカと宗教排除国家のフランスについて考えているときに、ふと脳内で跳躍が起こった。
いつものことだ。この脳内思考の跳躍、思考のパルクールこそが、飲まない、打たない、買わないの三拍子そろった今の俺の生きてる愉しみだ。

日本の神道の神様ってさ、宗教法人神社本庁の皆さんとかは、なんかすごく御大層なものにみたいにいってるけれどね、パプアニューギニアの人たちが信じてる祖霊や精霊、あるいは、タイの人たちが信じてるピーとかいう精霊とかと、構造的に何ら変わりはないんだよね。


そう、日本の神道は、何か特別で神秘的な「高尚で唯一無二の宗教」などではなく、パプアニューギニアの部族が信じる祖霊や、タイの民衆が深く信仰する「ピー(精霊)🔗」と、ミャンマーの「ナッ🔗」などと本質的には何ら変わりがないんだ。
皇統3千年の荒唐無稽な主張の神社本庁のような組織が、どれほど厳かさや国家的な権威、独自の伝統を演出したとしても、その根底にあるのは世界各地に普遍的に存在する「アニミズム」であり「祖霊信仰」という人間の極めて原初的で肉体的な精神の形なんだぜ。

それは野蛮で未開なことなんかじゃない。人間中心の世界観に打ち込まれた、今を生きる人間だけを世界の主体にしない遥かな過去からやってきた未来の思想でもあるんだ。

まず、タイの「ピー」、ミャンマーの「ナッ」と日本の「カミ」の完全な一致だ。

タイには仏教が深く根付いていますが、それ以前の土着の信仰として「ピー(精霊・祖霊)」が今も人々の生活を支配しています。ミャンマーも小乗仏教の国だけれど、人々は「ナッ(祖霊・精霊・土地の神)」を信じている人がたくさんいる。

その二面性の構造は、俺たち日本人の氏神様とかとすごく近い。

ピーやナッには、自分たちを守ってくれる「先祖のピー(祖霊)」や「土地のピー(鎮守の神)」もいれば、粗末に扱うと祟りをもたらす「邪悪なピー(怨霊・物の怪)」もいる。ナッも同じだ。人々を守護する一方で、機嫌を損ねたりすると、或いは気まぐれに災厄をもたらすんだ。こんなところも日本の神道との生き写しなんだ。 これは日本の神道が、菅原道真のような怨霊を神(天神)として祀って鎮めたり、地域の氏神を「怒らせると恐ろしいもの(荒御魂)」として畏れ、祭りを通じて「和御魂(穏やかな守り神)」へと変えていくシステムと全く同じだろう?

神社にある「御札」や「祠(ほこら)」は、タイの家々の庭にあるピーの家(サーンプラプーム)と精神の次元において完全に一致している。

実際に行ってみると、日本の家に祀られてる小さな祠みたいなのを目にする。文化が地続きなんだ。

更にギアを上げていこうや。パプアニューギニアの祖霊に見る「英霊」というフィクションの破壊だ!

パプアニューギニアの密林に生きる人々は、目に見えない無数の「精霊(スピリット)」や「祖先の霊」がすぐ近くの森や川に息づいていると感じ、彼らと共に生きている。

諸星大二郎🔗先生の『マッドメン🔗』や『海神記🔗』を読めば、それが肌感覚で体感できる。あるいは水木しげる🔗先生の戦争体験などもそうだ。水木先生は、パプアニューギニアの森の中、片腕を亡くした敗残兵として彷徨ううち、それらの存在を感知して妖怪に目覚めたんだ。

この生々しいアニミズムの視点に立つとき、国家(神社本庁の背後にあるような国家神道のシステム)が作った「お国のために死んだから、国家を護る特別な『英霊(神)』として靖国神社に祀る」という近代の政治的フィクションがいかに不自然で、歪なものであるかが暴かれることになるだろう。俺はずっと昔から気づいてたけどね。

パプアニューギニアでもかつての日本人の祖霊観でも、死者の霊は自然へと回帰する。戦争で亡くなった人々は、国家の管理物(英霊という記号)などではなく、本来はパプアニューギニアの精霊たちと同じように、「ただ生身の人間として死に、静かに故郷の山や川、自然の理法(スピリット)の中へと還っていくべき存在」なんだ。日本人は山の奥や海の向こうにそうした他界を想定した。

国家が作った「神の位」というタグを剥ぎ取り、世界共通の「ありのままの祖霊」として彼らを個人の記憶の中に還すことこそが、本当の弔いであると言えるわいな。

そしてこれは、一神教という「傲慢なシステム」への最大の反逆なんじゃないかな。

アメリカや西欧の一神教に基づく近代システムは、こうしたタイのピーやニューギニアの精霊、そして日本の神道を「未開の迷信」として、かつて十字軍がやったように排斥し、単線的な進化の歴史から消し去ろうとした。少なくとも、人類の最も未開で低俗な世界観だと貶めようとしてきた。一神教サイコー!って称揚して、同じ一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教で王座決定戦を繰り広げてた。いや、今でも続いてるか。

しかしだよ、神道の八百万の神々やアイヌの人々の信仰するカムイ、ピーやナっなどのアニミスティックな信仰の普遍性こそが、人間を記号(モナド)に変えて支配する現代のデジタル監視資本主義や、一神教的な善悪二元論に対する最大の「防壁」になるんじゃないかね。

そう、八百万の神々やピーやカムイを信じる世界には、「自分たちだけが正しい選民だ」という傲慢な正義(十字軍精神)は生まれないわけだ。

そこにあるのは「他者(自然や異なる文化)のスピリットを畏れ、お互いの領域を侵さずに共生する」という、 Pierre Clastres が描いたような、支配をもたない社会の平等の知恵だって言いうことができるだろう。

神社本庁の皆さんのように、日本の神道をあたかも「万世一系の誇るべき独自の高等宗教」であるかのように語る言説は、歴史の勝者が作った浅薄なナラティブ( illusory )に過ぎない。

それを煎じ詰めて政治的な虚飾を剥ぎ取れば、そこにあるのはパプアニューギニアの森のざわめきであり、タイの路地裏に佇むピーの祠と同じ、人間がこの地球という過酷な自然(宇宙の理法)の中で、生身の肉体を持って生き抜くために共有してきた、全人類共通の「野生の知恵(アニミズム)」そのものだろう?君はどう思う?

「神道もピーもパプアニューギニアの祖霊も皆同じ」という、この多元的でフラットな視点は、国家や宗教組織が施してきたあらゆる「権威の洗脳」を無効化し、俺たち三21世紀以後の世界を生きる人間が再発見すべき、人間が太古から持っているはずの「地球の住人としての野生のロゴス(理性)」を完全に取り戻す手段かもしれないな。

これが、吉本隆明の言ってた『アフリカ的段階』ってやつかもしれないな。

2026/10/20

POST#1988 フランス人はいつだってやりすぎる。やりすぎたおかげで近代国家が生まれた

パリ、クリニャンクール。あの日は雪だった
フランスが燃えているらしい。

数年前の黄色いベスト運動をはるかに上回る暴動がフランスで起きているようだ。

詳細はまだわからない。10月17日に、それまで続いていた高校生!による教育への予算拡充を求めるデモを発火点にして、社会のあらゆる持たざる者たちの不満が爆発し、うねりのようなデモとなり、有機的な人津波のようにしてパリを飲み込んでいるという。まるで脳を持たない粘菌が、有機的に不定形に移動してエサをのみ込むように。

街角では、様々なものが燃やされ、バリケードが築かれ、警官隊は平和的なデモに対して弾圧を加えることでコントロール不能にし、人々の怒りに油を注いでしまった。

様々な商店が略奪され、燃やされた。その損害額は数億ユーロに上るというが、いったいどれほどの損害額になるか、誰にも分らない。

デモは、大統領の官邸であるエリゼ宮に向かったという。マクロン大統領は、正当な主張には対応するが、略奪や暴動に対しては断固とした処置をとると息巻いている。

そして、外野のドナルドトランプは、いつものように『デモは移民のせいだ』と的外れなことを言っている。フランスとアメリカの移民への包摂のシステムが全く異なることを、全然理解していない暴論というか、フランスの暴動にこじつけて自分の主張を垂れ流しているだけの愚かな発言だ。

いまや宗教右派とリベラリストの対立の場になっているアメリカと、公共の場からあらゆる宗教的なものを排除し、極力平等を推し進め、神からすらも自由であろうとするフランス人とでは、根本的に思想の立脚点が異なるんだ。

そして、この神無き市民=シトワイヤンの国フランスは往々にして、やりすぎる。

やりすぎるがゆえに、往々にして暴動になる。

その根底には、フランス革命の成功体験がある。王権も教会の権威も貴族の特権も否定して、社会をひっくり返し、多くの人々をギロチンにかけ、そのいけにえのもとに近代国家のロールモデルを築き上げたという成功体験が。

だからこそ、フランス人は、徹底的な政教分離を成し遂げた。これをライシテって言うんだ。

未だに天動説を信じてるような人がゴマンといるアメリカ!とは真逆なんだ。

アメリカには、フランスの「ライシテ(laïcité)」のような、公共空間から宗教を徹底的に排除するという厳格な原則はない。

同じ「政教分離」と訳される制度であっても、アメリカとフランスではその目的も、歴史的背景も、社会的な現れ方も全く真逆と言っていいほど異なっている。「アメリカは宗教から脱却していない」んだ。

なんでそんなに違うのかって?いろいろ理由があるのさ。

1. 歴史的な「敵」の違い

なぜこれほど差が生まれたのかは、それぞれの国が建国時に「何と戦っていたか」を見れば分かるってもんだ。建国神話みたいなものさ。

• フランス(ライシテ):宗教(教会)からの自由

フランス革命において、カトリック教会は国王と並ぶ「抑圧者(特権階級)」だった。

そのためフランスにとっての政教分離とは、「国家や市民を、教会の独裁や迷信から守る(つまり、解放する)」ための戦いでもあったんだ。

宗教はプライベートな空間に閉じ込めるべきであり、公の場(政治、学校、役所)に持ち込んではならないという厳格な拒絶がライシテの根底にあるんだ。

• アメリカ:国家からの(宗教の)自由

これに対してアメリカの祖であるピューリタンたちは、イギリス国教会(=イギリスの国家公認宗教ね)から信仰を弾圧されて新大陸に渡ってきたわけだ。

そのためアメリカにとっての政教分離とは、「自分たちの多様な信仰を、国家の介入から守る」ためのものでったわけだ。

ベクトルが真逆なんだ。

「国家が特定の宗教(国教)を強制してはいけない」だけであって、「政治家や市民が公の場で宗教を熱心に信仰すること」は、むしろ大いに推奨される国としてスタートしたのさ。

2. 現実の社会における決定的な差

この違いがあるため、フランスのライシテの視点から見れば、アメリカの政治・社会は「宗教にまみれた異常な光景」に映るわけだ。

ライシテこフランスでは、宗教色を完全に排除して、大統領の宣誓に聖書は絶対に使わない。

公立学校では、宗教的シンボル(十字架、ヒジャブ等)の着用禁止だ。

そして、政治は常に宗教の持つ社会的影響力を弱めるように働く。

これに対して、宗教国家アメリカはどうか?


大統領の誓いの際には、聖書に手を置いて誓う。In God We Trustだ!まぁムスリムの大統領だったらクルアーンに手を置いて宣誓することになるんだろうが、アメリカにムスリムの大統領が生まれることはないだろうな。

学校では、神への祈りや聖書クラブの活動が信仰の自由として盛んに行われる。まぁ無差別銃撃事件もよく起きるけどね。

そして政治はいつも宗教的価値観に翻弄され、中絶禁止などを法制化しようとするわけだ。

フランスでは、公的な場所で宗教を大っぴらにアピールすることは「社会の分断を招くルール違反」とみなされる。あくまで個人の内面の問題だ。

しかしアメリカでは、大統領が演説の最後に「God bless America(神がアメリカを祝福せんことを)」と毎度叫ぶように、宗教、いやキリスト教は国家のアイデンティティそのものなんだ。

アメリカの政教分離は、あくまで「いろんなキリスト教の宗派が喧嘩しないように、国教は作らないでおこう」という、いわばキリスト教徒たちのための安全協定に過ぎなかったてわけさ。

だからこそ、250年経った今でもアメリカは宗教から脱却するどころか、政治の最前面にキリスト教のドグマが堂々と居座り続けている。

フランスのような徹底的な世俗化の手続きを踏んでいないアメリカが、中東に対して「十字軍」的な独善性を持って攻め込んでしまうのは、この制度的・文化的なルーツから見ても必然であると言えるだろうな。イラクの時も、今回のイランもそうだったぜ。


さて、この宗教を排除して、宗教によって担保されていた王政や貴族制を打ち倒すフランス革命を成し遂げたっていうことそのものが、その後の人類な革命観において、フランス革命が一種の普遍的なものとして成り立つ一番大きな契機だと思うんだ。

そう、フランス革命がアメリカ独立革命や他の市民革命を超えて、人類史における「普遍的な(世界中どこにでも適用できる)モデル」になり得た最大の理由は、政治と人間の理性を宗教の呪縛から完全に切り離した点にあるんだ。

これこそがフランス革命が世界史に刻んだ最も偉大な、そして本質的な契機です。その「普遍性」の意味を、ここまでのアメリカとの対比からさらに煎じ詰めるとこんな対比が浮かび上がるのさ。

1. 「特定の神」ではなく「全人類の理性」を土台にした

アメリカの独立革命は、実態としては「イギリス(プロテスタント)の身内同士の権力争いと、キリスト教徒の居場所づくり」というローカルな性質を脱し切れていなかった。だからこそ、今でもキリスト教という特定の宗教に縛られ続けている。政治や世界の行く末に大きな影響力を与えるほどに。

しかし、フランス革命が掲げた「人権宣言」はまるっきり違う。まぁ、白人オンリーとしか思えない愚行をフランスも散々やらかしてはきているけど、その理念は突き抜けてるよな。

彼らは、人権の根拠を「キリスト教の神」に求めず、人間が生まれながらに持つ「理性」に求めたんだ。神からの決別だ。

そしてそれは、誰にでも適用できる普遍性を持ちうるんだよね。

根拠がキリスト教の神であれば、イスラム教徒や仏教徒、あるいは無神論者には通用しないだろ?

しかし、「人間の理性と権利」を土台にしたからこそ、フランス革命の思想はキリスト教圏の枠を飛び越え、アジアやアフリカ、そして中東を含む「地球上の全人類に普遍的に適用できるシステム」として成立したんだ。

2. 「公共の場」という中立なスペースの発明

フランス革命が成し遂げたもう一つの普遍的な功績は、「公的な空間(政治や教育)には、特定の宗教を持ち込んではいけない」というルールを世界で初めて作ったことだ。ライシテはその成文化されたルールだね。

もしこのルールがなければ、国家は常に「どの宗教・どの宗派が一番偉いか」という不毛な争いに明け暮れることになるだろう。

フランス革命は、国家をあらゆる宗教から等距離に置くことで、「どんな信仰(あるいは不信仰)を持つ人であっても、市民として平等に共生できる空間」の設計図を示しましたわけだ。そこに至るまでには、ユグノーのぎゃくさとか、プロテスタントが焼き殺されるとか、ひどいことが山程起こった。ルソーやヴォルテールが人々に近代的な普遍性と人権と寛容さを説き続けた。その行く末にフランス革命が起きたんだ。

おかげさんで、近代民主主義国家が目指すべき「普遍的な理想の形」となったわけだ。

しかし、社会から宗教が、完全に払拭されたフランスの普遍性が抱える現代のジレンマが、今回の暴動のように激しく噴き上がる。この「フランス革命の普遍性」も、現代において新たな壁にぶつかっているんだ。

フランスが「これが全人類の普遍的な正義だ(ライシテだ)」と信じて進めるルール(例えば、公立学校でのヒジャブ着用の禁止など)が、イスラム教徒の側から見れば、「かつて十字軍が自分たちの正義を押し付けてきたのと同じ、形を変えた『西洋の独善(世俗主義という名の宗教)』の押し付けではないか」と反発を招いているという皮肉な現実もある。

自由と平等と博愛を掲げながら、社会の格差は広がり、エリートと庶民の溝は深まるばかりだが、この両極を融和させ包み込むような寛容さに満ちた宗教は、社会には存在しない。

彼らはフランスの市民たちは何に怒っているのか。究極的には本人たちも定かではないかもしれない。しかし、 それがもし、新自由主義が再び社会にもたらした激しい格差に対したいかりであるとともに、言葉だけの薄っぺらな平等という建前に怒っているのだとしたら フランス革命はいまだに未完の革命であり続けていると言えるかもしれないね。

2026/10/19

POST#1987 かつて麻生太郎はナチスのやり方に学べばいいといった。なるほど、そうしよう!

き
ベトナム阮朝の旧都フエ。街角の青果商
昨日は日曜で休みだったので、ひたすら眠った。日曜の朝9時過ぎから今日の11時過ぎまで眠った。本も読めない。まぁ、一日15時間夜働いて、これを週六日やってりゃそうなるのは当然だ。過労でくたばる前に今日も好き放題言わせてもらおう。

たいそう古い話で恐縮だが、第一次大戦が終わったときの話だ。
ジョン・メイナード・ケインズ🔗が1919年に著した『平和の経済的帰結🔗』(The Economic Consequences of the Peace)は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約がもたらす悲劇を正確に予言していた。
大英帝国大蔵省の代表としてパリ講和会議に参加していたケインズは、連合国(特にフランスやイギリス)がドイツに課そうとした巨額の賠償金がいかに現実離れしており、破滅的であるかを間近で目撃し、絶望して辞任した。復讐心に基づくその金額と内容が、あまりに現実を無視していたためだ。その直後に怒りを込めて執筆されたのがこの『平和の経済的帰結』だ。東洋経済新報社から山形治生氏のわかりやすい翻訳で出ているので、興味のある向きはお読みなるとよいだろう。
ケインズがこの「天文学的な賠償金」に強く反対した主な理由は以下の通りだ。

1. ドイツの支払能力の無視

連合国が要求した賠償額は、当時のドイツの経済規模や輸出能力、金・外貨の保有量をはるかに超えていた。ケインズは詳細な経済データを用いて、ドイツが実際に支払える現実的なライン(連合国の要求の数分の一)を提示したが、政治的思惑から無視されたわけだ。この辺りの検証はこの本の中に詳細に記されている。学問的な誠実さに圧倒される。

2. 欧州経済全体の崩壊への危機感

第一次世界大戦前のヨーロッパは、ドイツを経済的ハブ(中心)とする相互依存のネットワークで繁栄していた。これは、現在と全く同じだ。ケインズは、「ドイツの経済を徹底的に破壊することは、ヨーロッパ全体の経済システムを麻痺させ、結果として戦勝国も含めた全員が共倒れになる」と警告したわけだ。慧眼だ。

3. 「復讐の連鎖」とさらなる戦争の予言

そして何よりケインズが最も恐れたのは、不当な飢餓と経済的困窮に叩き落とされたドイツ国民の間に、絶望と狂信的なナショナリズムが生まれることだった。
彼は、この条約が平和をもたらすどころか、「次の世代の復讐(さらなる戦争)を招く」と断言したんだが、これこそがケインズが単なるデータを積み重ねるだけの経済学者ではないという彼の真骨頂だ。
歴史はケインズの予言通りに動き、1920年代のドイツのハイパーインフレ、経済崩壊、そしてナチスの台頭から第二次世界大戦へと突き進むことになったわけだ。歴史は繰り返すって奴だ。しかも拡大再生産してね。

さて、ドイツ、再編されたワイマール共和国の経済がどん底にあえいでいた時期に登場したアドルフ・ヒトラーと彼の率いるナチスは、ヴェルサイユ条約と1929年の世界恐慌によって壊滅状態に陥り、数百万人の失業者を抱えていたドイツ経済を、「軍備拡張(再軍備)」と「事実上の強制的な雇用創出」によって急速に見た目上の復興へと導いたわけだ。
奇跡的な回復だった。

そこにはGDP比3.5%どころか、30%以上という軍事全振りといってもいいくらいの、国防費への一極集中があった。
GDP30%以上!
この数字にはドナルド・トランプだって、腰を抜かすぜ。

ヒトラーは、この奇策によってどん底にあったドイツ経済を、驚異的なスピードで復興させた。このナチス・ドイツの経済政策の全貌と、ご指摘の「奇策」の内実についてちょっと触れてみよう。きっと麻生太郎先生もこれに学べっていうかもだよ!

1. 「見た目上の復興」と失業率の劇的低下

1933年にヒトラーが首相に就任した当時、ドイツには約600万人の失業者がいた。600万人だ!俺の住んでる中京圏の人口が680万人くらいだから、東海三県ごっそり失業者で埋まってるような状態だ。
しかし、ヒトラーの奇手奇策によって、1936年にはほぼ「完全雇用」を達成しちゃうわけだ。たった三年だぜ!竹中平蔵もびっくりだ。この奇跡的なV字回復の裏には、悪魔的なリクルート手法があったんだ!

「国防軍(徴兵制)」へのリクルート
1935年にヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言し、徴兵制を敷くことで、大量の若者を軍隊という「雇用枠」に吸収したんだ。
統計からの排除と強制
国家労働奉仕局(RAD)などを組織し、若者に義務的な労働を課したんだ。また、女性やユダヤ人を労働統計から除外することで、数字上の失業率を意図的に引き下げるという数字のマジックまで披露してくれてる。

2. 軍事(国防)分野へのリソース集中と「メフォ手形🔗」

ナチスは、経済相ヒャルマル・シャハト🔗の主導のもと、「メフォ手形(Mefo-Wechsel)」という架空の会社を通じた特殊な手形を発行した。
これは政府の正規の予算(赤字国債)としてカウントされない「隠し借金」であり、この資金がすべて軍需産業や、軍事利用を前提としたインフラ(アウトバーンなど)に注ぎ込まれたわけだ。アウトバーンは、高速道路だけれど非常時には戦闘機の離着陸に仕えるように作られた高規格高速道路だ。
全産業部門が戦争準備のために動員される「四カ年計画」が推し進められ、見かけの経済成長を牽引したわけだ。まぁ、一種の体制翼賛体制というか軍事要塞国家としたわけだ。
この動きを後に全体主義と評することになる。

3. この「奇策」の限界。それは戦争へ突入せざるを得なかった経済構造だ。

この復興は、持続不可能な「自転車操業」でした。
国力を無視して軍事にリソースを集中させたため、民生品(一般国民の生活物資)や食料の生産が犠牲になり、外貨や原材料が決定的に不足し始めたわけだ。
また、「メフォ手形」の償還(借金の返済)期限も迫ってくるよな。一種の詐欺手形だから焦げ浮いたらシステム崩壊だ。
つまり、ナチスの経済システムは、「いずれからくりが破綻する前に他国に侵略し、その財産、外貨、資源、領土を強奪して借金を帳消しにし続けなければ、早晩に自己破産する」という運命にあったわけだ。
見た目上の復興は、最初から第二次世界大戦という破滅を前提にしなければ成り立たない「砂上の楼閣」だったんだな。

さて、どうして俺がこんな昔話を引っ張り出してきたかというと、聡明な読者諸兄諸姉はもうお分かりですね。
アメリカ様のGDP比3.5%という要求に対して、いっそGDP比35%という数字をぶち上げて、アメリカ様をおたおたさせてやるって筋書きだ。
非正規雇用の皆様も、自衛隊に入隊で、一晩にして国家公務員だ。

国防費GDP比35%なら、アメリカに守ってもらう必要もないんじゃないか?何しろ240兆円前後だ。アメリカの国防費の二倍近い。中国の国防費のざっくり10倍だ。
福祉も、医療も、インフラ維持も、即座に破綻するレベルだ。ギャハハ!

しかし、俺がただのマッドマンじゃないのはここからだ。
君たちは仕分け項目という経理の基本を知っているかな?
経理システムを運用するために、出費の一つ一つをその目的と用途に応じて適正に振り分けるのさ。旅費交通費とか消耗品費とか人件費とか研究開発費とかね。
こいつを悪用して、何でもかんでも国防費ということにしちまうのさ。
能登や熊本の復興も国防費。
インフラの整備も、アウトバーンみたいにいざというときはジェット機が日本全国離着陸できる滑走路という名目の軍事費。
対ロシア軍事拠点化という名目で北海道に経済振興。
対中国軍事拠点化という名目で、沖縄にインフラ拡充。
おう、仕分けのマジックで何でもかんでも軍事費でやってやるぜ。
何なら老人医療も、老人を最前線で戦る兵士にするための軍事費ってことにするか?
大政翼賛会を逆回転させた歴史のパロディーさ。まさに歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてだ!
ギャハハハハハハハ!チェンソーマンみたいだな(笑)
そう、国民の生活を守るためのことをすべて、国防費の名目でやっちまえという大いなる詐欺=グレート・ロックンロール・スウィンドル🔗さ。
きっと麻生太郎がナチスに学んだらどうだって言ってたのは、こういう事なんじゃないの?あ、違うのけ?(笑)

2026/10/17

POST#1985 孫子曰く 戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり

沖縄 那覇 路傍に咲く花

簗農林水産大臣が辞任し、かつて偉大なるイエスマンと言われた男の息子が後釜に座った。

なぜかこの国では政治家は家業だ。直系家族システムのなせる業なのか?エマニュエル・トッド🔗なら、したり顔で『Oui(そうです)』と答えるだろう。

まるで封建領主だ。殿さまだ。おかげさまで、下々の者たちは自分たちの社会の行く末なんか気にせず、日々のささやかな暮らしに集中できる。OK、社会的分業🔗だ。デュルケーム🔗だ。なぜそうなっているのかには、俺は一家言ある。あるけれど、それは今日は言わず、今後のネタとして頭の中で熟成させておこう。また、お話しする機会はすぐにやってくるだろう。ただ、ここでは『生涯にわたってネジの頭を作ってきただけの人間が、正しく社会的な判断を下せるとは思えない』というアレクシ・ド・トクヴィル🔗の言葉を挙げておこう。

今日は昨日の続きだ。

現場も今夜は昨日の続きだ。壁面の左官が続くんだ。そんなもんだ。

さてさて、今の日本の姿を客観的に見てみよう。

以前もこのブログで触れたように、かつてブリキのおもちゃしか作れなかった貧しい民の国を、今日の経済大国に導いたのはほかならぬ日本だ。そこに異論はないだろう?

人件費が安く、資源調達が容易であることから、多くの日本企業が製造拠点を中国に移転させ、技術移転は急速に進んだ。そして、日本の技術は中国の技術にあっさり追い抜かれた。一足飛びに技術移転が進むというのは、歴史上よくある話だ。

ネットには電車や道路などの都市インフラからリチウムイオンバッテリーまで、その品質をあざ笑うかのような動画があふれているが、真に受けてはいけない。日本企業の製品も、よく見ればメイドインチャイナと書いてある。それが、現実だ。

その間に、日本社会は自ら成長の芽をつぶし、次世代の人材の育成どころか人口の再生産すらままならない窮地に陥っている。

そして、中国の経済的な台頭を前にして、中国脅威論を煽り立て、敵視し、その軍備を増強する一翼を担ったのも、皮肉なことにこの日本という国と日本人の社会だ。

経済では中国に依存、べったり依存しながら、政治的にはこう中国と敵対するっていうのは、ちょっと不誠実な態度だと俺は思うよ。

だってそうじゃないか?「経済的には中国にべったり依存して莫大な富や恩恵を受け取りながら、政治・安全保障のレイヤーでは『中国は敵だ』と煽って対立姿勢を演じる」という日本の二面性は、まさに国家規模の極めて不誠実な「欺瞞」そのものだろう?

ここには、「金儲け」と「恐怖」を両方消費する本土の都合がある。一粒で二度おいしいグリコアーモンドキャラメルのようだ。

日本政府や本土の財界・大衆は、中国という巨大な市場やサプライチェーンに深く組み込まれることで、日々の豊かな生活、つまりダイソーなんかで手に入る安い製品や、膨大な貿易利益を享受している。

もし、中国との経済関係を断ち切れば、俺たちの日本社会の経済そのものが一瞬で瓦解することを、わたしら下々の者以外はよ~く熟知している。

にもかかわらず、政治やメディアが「中国の脅威」を叫ぶのは、それによって「防衛費の大幅増額」や「日米同盟への依存(米軍基地の維持)」を正当化するための便利な『恐怖の燃料』が必要だからに他ならないんだ。マッチポンプだ。

経済では握手をし、政治では刃を突きつけるというこの不誠実な二枚舌は、自らの利益と権力を維持するためならいかなる矛盾も厭わない、大国や支配層の冷酷なごまかしとしか言いようがないね。

そして、その不誠実さの「ツケ」を身をもって支払わされる沖縄という構図さ。

この「経済べったり・政治敵対」という欺瞞の最も残酷な点がなんだかわかるかな?

それはさ、その不誠実な態度から生じる最大の軍事的なリスクを、本土の人間は自分の足元には極力一切引き受けず、沖縄に丸投げして『閉じ込めて』いることだ。

ヤマトンチューが中国との貿易で稼いだカネを懐に入れ、安全な東京から「中国を敵と見なす言葉」を発して無用な緊張を煽る。

そして、その結果として引き寄せられる「日常の米兵犯罪」と「有事のミサイル標的」という二重の地獄を、沖縄という「捨て石」に盾として身代わりにならせることで、自らの平和で言いたい放題な生活を維持しているという、目も当てられないアチャーな現実だ。😵

孫氏に曰く、『是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。』(おー、『日本三國🔗』みたいだな!)

つまり、戦わずして勝つことが最上なのだ。

そして、これにクラウゼビッツの『戦争は、異なる手段をもちいて継続される政治にほかならない』を掛け合わせてみよう。

そこに加えて、『兵は凶器也』という中国春秋時代から続く格言を考えに繰りこもう。

そうして導き出される本当の強さとは、無用な敵を作らず、巧みな外交によって戦争へと至る芽を未然に摘み取ることだ。それは惰弱ではない。知性による戦いなのだ。

「本当の無敵とは敵を作らないことだ」という真理に照らせば、経済でつながりながら政治でわざわざ「敵を作り出している」日本の姿勢は、外交の完全な敗北であり、そのツケをすべて他者に支払わせているという意味において、これ以上ない不誠実で野蛮な構造だといえるだろう。

違うかい?

確かに中国は太平洋に進出したがっているだろう。日本列島は中国の大洋進出への防波堤になっているのは事実だ。

しかし、空ら中国共産党首脳部は、アメリカと実力で伯仲はっきりさせたいとまでは思っていないだろう。彼らは台湾を自らの国家体制に回収したいだけだ。台湾の人々からしたら、いい迷惑だろうけどね。だいたいトランプ政権のアメリカは、放っておいても勝手に迷走し自爆していく。習近平は柔和な笑顔でどっしりしているだけで、世界的に、とりわけ散々欧米列強にいいように搾取され続けてきたグローバルサウスの国々から信頼されてゆく。

ゆめゆめ、大日本帝国のように欧米列強を押しのけて自らの支配権を力づくで奪いに行くことはないだろう。何しろ、彼ら自慢の人民解放軍は、実戦経験がほとんどなく、直近の中越戦争でも、ベトナム軍にさんざんに翻弄されて撤退している。勝ったことがないのだ。

その中国人は、ひょっとしたら俺たち日本人の心をどこかで恐れてるんじゃないかな。

戦前青島で一旗揚げ、敗戦で一文無しになった『東洋鬼』の孫たる俺は、そんなことを感じている。

1937年の南京虐殺を始めとして、かつて日本人がどれだけ中国人にひどい目を与えたかって、日本人は忘れているかもしれないし、なかったことにしようとしているかもしれないが、中国の人々は決して忘れていないだろう。

靴を踏まれた方は忘れないもんだからね。

日本の態度に対して、ことあるごとに強硬に突っかかってくるかのごとき中国人の態度は、その裏返しなんじゃないかね。

そう、もっとかみ砕いて言えば、「中国はかつて自分たちの土地で爆発した日本人の底知れぬ残虐性や『鬼』としての側面を、歴史のトラウマとして今なお深層心理で恐れており、現在の海洋進出や強硬な姿勢はその恐怖の裏返し、つまり過剰防衛じゃないか」ってことさ。

その鬼も、ハートマン軍曹みたい連中によって作られた、国家主導の凶暴性だったんだけどね。今のアメリカ海兵隊員と同じようなものだ。

そうして考えると、腑に落ちることもある。トラウマの裏返しとしての「過剰防衛」だ。

中華人民共和国が近代国家としてナショナリズムを統合するうえで、最も核心に据えられてきたのは「抗日戦争の記憶」だ。

宗教を持たない中華人民共和国の建国神話こそがこれだ。

彼らにとって日本人は、かつて自らの大国としてのプライドを完膚なきまでに叩き潰し、想像を絶する残虐行為を働いた「もっとも予測不能で、何をするか分からない恐怖の対象」にほかならないんだ。

現在の中国人民解放軍が、何とか第一列島線を食い破り、第二列島線までを支配下に置こうと必死に太平洋へ進出し、精力を注いで異常なまでのミサイル網を構築して、日本、韓国、台湾をはじめとした周囲の国々を、そしてそのバックに控えるアメリカを威圧しているのは、自らが「強国」にならなければ、再びあの「東洋の鬼」たち『日本人』に国土と人民を蹂躙されるかもしれないという、歴史的な恐怖が生み出した過剰な防衛本能だという見方は、穿ちすぎだろうか?

そしてその現状に油を注ぐのは、「見ないふり」をする本土の日本人の更なる欺瞞だ。

それほどの「血の歴史」と「相手の恐怖」の地続きのうえに現在の国際政治があるにもかかわらず、本土の多くの日本人は、自らがかつて大陸で何をしたかという歴史の凄惨な本質から目を背け続けている。自分たち父祖の蛮行を美化し、観光目的でやってくる目の前の中国人をモラルのない愚劣な大衆に貶めている。

中国政府が、自国民に対して、日本に行かないように号令を発するのも、対中感情の悪化という世論誘導下にある日本に、自国民を送り出すことをリスクととらえている証だろう。

そのうえで、俺たち日本人は、ただ「中国が攻めてくるかもしれない」という目先の恐怖の記号を消費しているんだ。自分の影に怯えているようなものだ。

そして、それをうまいこと利用して、太平洋からインド洋にかけての東半球に展開するアメリカ軍に基地を提供する羽目になってるんだ。アメリカは漁夫の利だな。この沖縄の基地から、イランにもアメリカ軍は派遣された。予想の斜め上のイランから、普天間基地や嘉手納基地に大陸弾道弾が飛んでこなくてよかったな。

ここにあるのは、当事者性の完全にして幸福な忘却だ。

俺たち日本人は自らの祖先が放った「鬼」の業を忘れ去り、安全な東京のレイヤーから「中国と対決せよ」と強硬論を吐き、その結果として生じるミサイルの射程環境や米兵犯罪という「地獄のツケ」をすべて沖縄に丸投げしている。

この本土の日本人の「想像力のなさ」と「歴史に対する当事者性の欠如」こそが、俺が抱く嫌悪感の源にあるんだ。 

2026/10/16

POST#1984 不沈空母とかいうけれど、動けない空母じゃしょうがないよな

 

沖縄。駐車場に猫

昨日の続きだ。まぁ人生は何時だって昨日の続きなんだけどね。

沖縄の負担軽減と経済振興を言うんだったら、首都機能を那覇に移転したらどうだって話だよ。

スルーされるといけないから、もう一度言っておこうかな。

沖縄の負担軽減と経済振興を言うんだったら、首都機能を那覇に移転したらどうだって話だよ。

政府の皆さんがもし本気で沖縄の『負担軽減』と『経済振興』を謳うのであれば、口先だけの振興策や数字のごまかしじゃなくて、いっそ思い切ってドドンと!首都機能を那覇に移転さたらどうじゃろう?という提案は、日米両政府がこれまで一億回くらい繰り返してきた「言葉の欺瞞」を根底から吹き飛ばす、ある意味最大にして究極のストレートな言説かもね。我ながら笑っちまうぜ。

まぁ、思考実験だ。俺の頭の中を君にのぞかせたからって、誰からも文句は言えないだろう。それがこの民主国家日本のいいところだ。中国みたいな専制国家では、そうはいかない。

もし国会、官邸、中央官庁、そして皇居が那覇に移転し、この国の政治・経済・文化の「本当の中心」が沖縄になれば、これまで本土が安全な場所から沖縄を「2級市民・捨て石」として扱ってきた構造は完全に、瞬時に消滅しちまうだろう。

この「那覇への首都移転」が、なぜこれまでの対話のすべてと完璧に一貫しており、この国の欺瞞を完全に終わらせる力を持つのか、ちょっと一緒に考えてみよまいか。

1. 「これ以上の経済振興策はない」という絶対の真理

政府や与党政治家たちは、基地を受け入れさせるための「人参」として、毎年のように数千億円規模の「沖縄振興予算」を自慢げに提示してきた。しかし、それは沖縄の自立を阻み、基地に依存させるための「欺瞞の金」に過ぎなかったわけだ。そんなことはないっていうんなら、那覇の街を歩いてみればいい。きっと君にもわかるだろう。

そこで俺がぶち上げる真の経済振興策がこれだ。

 もし首都機能が那覇に移れば、数百万人の人口、数万の企業、そして国家の富がどどんと津波のように沖縄に集まることになるだろう。

国策としての補助金に頼る「不自由で閉ざされた経済」ではなく、沖縄が名実ともに日本とアジアを結ぶ「本当の経済の中心(ハブ)」=『万国津梁』へと生まれ変わるってわけだ。「これ以上の負担軽減と経済振興はない」という俺の一見荒唐無稽な発想は、政治家や官僚たちの言い訳を完全に封じる圧倒的な奇策だろう?

2. 「満腔の怒り」を伴う本物の平和外交への強制転換

首都機能が那覇(つまり米軍基地のすぐ横)に移るということは、中国の弾道ミサイルや極超音速ミサイルの「最前線の射程内」に、勇ましい政治家のセンセーがたや優秀な官僚の皆さんといった、国家の意思決定者たちの命が文字通り配置されることを意味するんだ。

ついでに、ひめゆりの塔とかに参拝してもらうとするか。ここなら、どっかの神社と違って中国から文句が出ることもないだろう。

こいつは自作自演の終わりだ。いままでお疲れさん。いままではなんとなく安全な東京から「中国の脅威」を叫び、米軍の不安定な最高司令官トランプの気まぐれにお付き合いしてきたわけだけど、自分たちがミサイルの第一撃の標的になった瞬間、彼らは自らの命を守るために必死になるだろう?なんてったって、人間は自分の命を惜しむからな。命がかかると急に臆病で吝嗇になるものさ。

そうすると、中国共産党政権を相手に、そのメンツ第一の顔を無用に逆なでするような、勇ましく敵対的な言葉はオフィシャルな場から一瞬で消え去ることだろう。

「敵を作らないことこそが真の無敵である」という最高の価値(徹底した外交と対話)へ、政治家の皆さんは方針転換せざるを得なくなるだろう。

自らが「盾」のレイヤーに立たされて初めて、本物の平和外交がこの国の第一原則になるんだ。死ぬのはいつも他人ばかりとは限らないのさ。

3. 「1人1人のインテグラル(総和)」としての国家の回復

政府が「地政学的な優位性」を語り、沖縄の女性がレイプされ、殺害され、死体を放置されるような凄惨な事件が起きても日常生活で使わない「遺憾」という冷たい記号でやり過ごせてきたのは、自分たちが安全な本土の特権的なレイヤー(1級の安全)にいたからに他ならないんだ。

安全地帯にいるのなら、どんな勇ましいこともいえる。しかし、現実の世界は勇ましいことを言った途端に、お前、それは本気で言ってるんだろうな?って胸ぐらをつかまれることだってある。そんな経験はうんざりするほどしてきた。それが野戦の世界だ。現実の社会だ。

那覇に首都を移すということは、国家の意思決定者たちを、切り捨てられる側の現場へ強制的に合流させることを意味するんだ。道ずれなのさ。

ここにトロッコ問題は生じないぜ。なぜって弱い立場の少数派も、強者の多数派も、同じレールの上にいるんだからね。暴走トロッコなり弾道ミサイルなりが突進してきたら、一蓮托生のお陀仏さんだ。

だからこそ、誰一人として記号にしない、国家体制維持のコストにしない、1人1人の尊厳を絶対に切り捨てない「インテグラル=国民の総和としての国家」の理念は、彼らが自らの命を沖縄の人々と等しく天秤の皿に乗せられた瞬間に、初めてこの国において本物の、血の通った政治原則へと転換されることになるだろう。

どうだい?笑えて来ないか?

現在、本土の安全な東京の官邸から、政治家たちが「中国の脅威」を叫び、威勢のいい強硬論を口にできるのは、自らの肉体が中国人民解放軍のミサイルの射程から遠く離れているような気がしてるからだ。実際には、思いっきり射程距離内にあるんだけどね。

物理的な位置関係で見れば、中国本土から東京(永田町)までの直線距離は約1,500km〜2,000kmだ。一衣帯水だ。中国人民解放軍が保有するミサイル網に照らすと、東京の中枢は「余裕で狙える」どころか、日本全土が連中の精密誘導ミサイルの射程にすっぽりと覆われているのが冷酷な事実なわけだ。どこにいたって全然安心じゃない。不沈空母とかいうけれど、動けない空母じゃしょうがないよな。

しかし、国会や官邸が普天間や嘉手納のすぐ横に移転しちゃったら、政治家のセンセー自身が「自分が不用意な一言を発した瞬間、数分後には頭上に弾道ミサイルが着弾して何もかもバラバラに吹き飛ぶ」という極限の恐怖の中で生きることになるわけだ。

小気味いいぜ。

勇ましい言葉に酔いしれる自分自身の命が人質(盾)に取られた状態では、一人一人の国民を、マクロな防衛論のもとで顔のない記号に還元して、「ガタガタ言うな」と言わんばかりに1人1人の命を必要経費扱いしていた政治家のセンセー、官僚の皆さんであっても、言葉の重みと恐怖に直面せざるを得ないよな。うふふ、楽しみだ。

2. 相手を「敵にしないための死に物狂いの外交」への転換

これまでは「中国は話が通じない独裁国家だ」と外交を諦め、中国との対話を推進しようものなら、媚中派だ、親中派だとつるし上げられてきた。そのくせ、経済は中国とデカップリングできなほど相互依存しているのにだ。経済界から中国大使になった故・丹羽宇一郎氏は、「このままではZ世代は戦後初めて実戦を経験する世代になりかねない」と現在の流れを懸念しながら世を去った。

それでも、長年寄らば大樹の陰という思考停止のまま米軍の暴力装置に依存していましたわけだが、首都機能が最前線に移れば、そんな欺瞞は一瞬で破綻するんだぜ。

サウジアラビアを見てごらん。アメリカ軍の基地がイランから、フーシ派からネチネチと攻撃されているのを君も知らないわけではないだろう。そして、アメリカはそれでも重い腰を上げない。日本の時にアメリカが即応してくれるなんて思うのは、甘ったれた考えだね。

そこで生じるのが言葉の選択の慎重化だ。

 相手を挑発して「火事」を起こせば自分が死ぬため、オフィシャルな発言から敵対的なレトリックは完全に排除されることになるだろう。いきったことは言えなくなるのさ。

じゃあ、どうするんだって?そんなの戦わずして勝つ政治の実行しかないだろう。戦いになった時点ですべてはバッドエンドなんだぜ。

好戦的な言葉の応酬から、偶発的な軍事衝突を絶対に防ぐための「常設ホットライン」の完全な運用や、経済・文化を通じた「絶対に戦争を起こせない不可分の関係」の構築など、これまでサボってきた「敵を作らないためのタフな外交努力」を、政治家のセンセー方や官僚の皆さんは自らの生存のために死に物狂いで始めるはずだ。

もっとも、ホットラインの運用不可に関しては、中国人民解放軍が意固地になってその運用を放棄してるってのが原因だけれど、その遠因はどこにあるのか、謙虚に考えてみることも大人の態度じゃないかな。


東京には「強力なミサイル防衛(イージス艦やPAC-3)」や「1,500を超える地下シェルター(地下鉄駅などの避難指定)」が優先的に整備されている。

何より「本当に戦争(台湾有事)が始まった時、最初にミサイルの雨が降り注ぎ、戦場になるのは東京ではなく、米軍基地と自衛隊のミサイル部隊が密集する『沖縄・南西諸島』である」という、軍事戦略上の冷徹な計算(盾としての沖縄の利用)がある。

沖縄の国民はどうなるのか?避難計画策定とか言っているけれど、有事にそんな大規模な人員海上輸送や、航空輸送ができるわけではない。それに、人間は持ち運びできる鉢植えじゃない。

自分たちの頭上にも刃が向いているという「本当のこと」を知りながら、その刃の切っ先を沖縄という場所に引きつけさせることで、東京の安全なレイヤーを維持しているってのがこの国の本当の姿だ。

この構造こそが、俺が君たちを辟易させながらストレートな言葉で暴いてきたこの国の安全保障の「最大にして究極の欺瞞」に他ならないのさ。

2026/10/15

POST#1983 沖縄はずっと干されてきた。自分たちの生活を守ろうと米軍基地に反対してきたからだ

那覇。裏寂れた通り
政治家たちはずっと、基地を受け入れている代償に、沖縄には経済振興策を用意するといってきた。
 そして、基地容認派の自民党寄りの知事が誕生すると、一時的に経済支援は増える。

1995年(もう30年以上前だ!)普天間基地の海兵隊員による12歳の少女(もう40過ぎだろうな)のレイプ事件を境に、反基地の機運が盛り上がり、基地容認派の仲井眞知事🔗から基地反対派の翁長知事🔗に変わり、その翁長知事の死後はその意思を受け継いだ玉城デニー氏が長らく知事を務めた。この間、沖縄は米軍基地の沖縄集中に異を唱え続けていたため、中央政府からすっかり干されまくっていた。

ネット民たちは、沖縄は基地に依存した経済だとナラティブを作り出し、人々に信じ込ませた。日本国土の0・6%しかない島嶼県に、巨大なアメリカ軍の基地が集中している。

鉄道などのインフラを設けようにも、細長い島々は基地によって寸断されている。沖縄空港から那覇市までのゆいレールくらいしか鉄道と呼べるものはないが、その輸送力は貧弱なものだ。

産業を誘致しようにも、まとまった土地もないので、大規模な産業集積地は形成されない。産業もインフラも不十分だから、雇用はかぎられる。

人々は最大の雇用先である米軍基地で働き、生計を立てることとなる。

そうでない人々は、観光業に従事して生きるか、飲み屋など小資本でささやかに始められるスモールビジネスで生計を立てるかしかない。そして、皮肉なことにこの飲食業(風俗営業法に規制されるような飲食業も含めてね)の最大の顧客は、アメリカ軍人やアメリカ軍属ということになる。

そして、観光業はこういった辛気臭い話を張りぼての裏に隠して、何事もなかったかのような顔をして、めんそーれ!とヤマトンチューに明るく開放的な南国のリゾート地のように見せかける。まるで、一種のテーマパークのように。しかし、そこかしこに有刺鉄線に囲まれた高い塀の基地が風景を侵食している。

この構造に生計を依存すると、基地がなくなることは生計を失うことになるので、内心の問題は封印し、その存続を生活のために願うようになる。

一種のエンクロージングだ。

一方で、周辺諸島のサトウキビのモノカルチャーは、さしずめ植民地経済のようだ。

最大の経済投資が基地建設や基地の維持、一部返還された基地の再開発だったりする。

かつて東松照明が言ったように、沖縄の中に基地があるのではない。基地の中に沖縄があるのだという矛盾した状況が、常識として固定される。

世論は割れる。

沖縄にだけ負担を押し付けていたい与党自民党は、基地を受け入れるなら、経済振興をすると条件付きの約束をする。

結果、その支援で基地機能は強化される。

同じ政治家の発言で、中華人民共和国との間に、軍事的な緊張が高められる。そうすると、人々の意識の中に、ますます沖縄の基地が重要に思えてくるような刷り込みが行われる。沖縄県以外に、中国に相対できる立地はないのだと日本中の人々が妄信する。

しかし、沖縄の米軍基地は、前にも言ったように当初から中国人民解放軍に相対するために沖縄に置かれていたのではない。現在の沖縄と同じような自治体の反対運動が日本各地で巻き起こったために、太平洋戦争末期の唯一の本土戦闘であった凄惨な沖縄戦の結果、長くアメリカ軍に占領され続けていた沖縄に集中していった経緯があるのを健忘して、沖縄県民は基地に依存しているというのは、とっても失礼極まりない話だと思うぜ。

そもそも、俺たちは生まれる時には自分でどこに生まれるか、どんな境遇に生まれ、そんな人生を送るかわからない状況で生まれてくる。無知のヴェール🔗という胞衣をかぶって生まれてくるのだ。

ならば、沖縄の人々に対してわがことのように考えるべきじゃないだろうか。

経済振興策?自民党の地方経済振興策というのが有効なのだとしたら、現在の日本各地の地方都市の衰退はなかったろう。そして、そういった衰退が止まらない地方都市では、小資本で始められる飲み屋が人口の割にとても多いと実感するのは、仕事で日本各地を渡り歩いてきた俺自身の肌感覚だ。人々はうらぶれた酒場で酒を煽り、ブルースをアルコールと共に飲み下すんだ。

しかし、沖縄県民は基地の問題を棚上げして、経済を優先することを選んだ。先日の県知事選でオール沖縄の玉城デニー🔗がダブルスコアで惨敗し、与野党相乗りオール中央政党(共産のぞく)の古謝玄太🔗が新しい知事になったことは、その選択の表れだ。いや、沖縄の人々の経済的な疲弊が限界に達しているということだ。

我に秘策あり。

いっそ、沖縄に首都機能を移転したらどうだ?

首都機能移転🔗はずっと言われてきたことだ。沖縄に首都機能を動かし、少なくとも防衛相と外務省を沖縄に持っていくか。アメリカ軍もいっぱいいるし、中国とは目と鼻の先。

G2と呼ばれる二大国の意志と力が交差する真ん中に、日本の国家機能の中枢が爆誕する。

考えたらワクワクするぜ。永田町?そんなもんん、普天間基地のすぐそばに議員会館を作るんだな。党本部の前には、飲んだくれた海兵隊員が女の子を追っかけまわしてる和やか光景が見られるだろうさ。

とんでもない経済効果があるはずだぜ。

どうせみんなできないできない、無理だ、暴論だっていうんだろう。まったくセンスのない奴らだな。そんなの承知の上だ。出来ないってんならできる方法を考えるのが知性ある大人の流儀ってもんだろ。どんな無理筋だろうが、日本には言論の自由ってのが憲法で保障されてるからな、俺は遠慮はしないぜ。

かつて沖縄は東アジア海上貿易のハブとして栄え、『万国津梁🔗』つまり世界をつなぐ海の懸け橋と呼ばれていたんだ。

2026/10/14

POST#1982 ハートマン軍曹のいかれたブートキャンプ

ベトナム阮朝の旧都フエ。庶民はスクーターで縦横無尽に駆け抜ける

かつてのアメリカ軍は、徴兵制だった。
様々な階層から徴兵された兵士が、組織の中に混在していた。なかには、後に政治家や大統領になるようなエスタブリッシュメントの若者も軍務につき、第一線で活躍してノブレス・オブリージュ🔗を身をもって果たしていた。
後のJ・F・ケネディ🔗大統領なども、小型潜水艦で戦った。何処と?大日本帝国じゃないか。パパ・ブッシュ🔗も最年少パイロットとして第一線に参戦し、撃墜されたりもした。
当時のアメリカの政治家やエスタブリッシュメントたちにとって、戦争は他人事ではなく、自らの子弟が参戦して命を懸けた戦う類のものだった。だからこそ、質の高い文民統制が機能していたんだろう。

しかし、ベトナム戦争における市民の反発を受け、徴兵制はなくなった。
なくなる前から、エスタブリッシュメントの劣化は進んでおり、徴兵逃れが蔓延していた。
世界のノーベル平和賞候補No.1を自称するドナルド・トランプ大統領も、足の骨に棘ができて痛くて軍務に耐えられないということで、徴兵逃れをしたらしい。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
第一期ドナルド・トランプ政権の痛烈な批判者だったジョン・マケイン🔗はベトナム戦争で海軍のパイロットととして参戦して、ベトナム軍に5年間も捕虜にされていた。
そして、生還した彼は英雄と讃えられた。
そんな生きた英雄で、トランプの暴政に節を曲げなかったマケインを、トランプはとことん嫌い『彼は(ベトナム戦争で)捕虜になったから戦争の英雄だと言われているが、私は捕虜にならなかった人たちの方が好きだ』とイランことを言って顰蹙を買っていた。
マケインが死んだとき、トランプは周囲に対して、マケインの葬儀をサポートすることに難色を示し、「我々はなぜあの負け犬の葬儀を支援しているんだ?」といった趣旨の不満を漏らしていたという疑惑が浮上したという。彼らしい微笑ましいエピソードだ。
 

さて、徴兵制が廃止された後に、誰が自発的に軍隊にはいることになるだろう?
そう、生活に余裕がない者。もっとストレートに言えば貧困層だ。アメリカの製造業の退潮に伴い、かつての好況な時代なら、工場でそこそこの仕事にありついていた層が、ズルリと貧困ラインを割り込んでいった。そして、そのクラスの若者たちが割の良い収入、大学への学費補助、家族も含めた無料の医療費などを目当てに軍に入る。
そして、ブートキャンプで軍人、つまり戦争機械へと脳改造されるって筋書きだ。

アメリカ軍の5つの軍種(陸・海・空・宇宙・海兵隊)の中で、海兵隊は最も訓練が過酷で、規律が厳しいことで知られている。フルメタル・ジャケット🔗を見れば分かるだろう。そう、ハートマン軍曹🔗が出てくるあれだよ、あれ。
このブートキャンプで行われるのは、訓練という名の洗脳だ。オペラント条件付けだ。

そこでは徹底的な自己の破壊と再構築が行われるんだぜ。
まぁ、もっとスマートに言えば洗脳だ。
俺はごめんさ。
「ブートキャンプ」と呼ばれる新兵訓練では、ハートマン軍曹みたいなドリルインストラクター(つまり鬼教官)から凄まじい怒声と精神的プレッシャーを浴びせられ、個人のプライドを一度完全に破壊されることになる。
もともと経済的、家庭的に恵まれず、自己肯定感が低い傾向にある若者たちの精神にとって、それがどれほど過酷なことか、君には想像できるだろうか?人間としての中身が徹底的に否定され、空っぽにされてしまうんだ。
この過程で、「上官の命令には条件反射で従う」という、戦場でパニックにならないための強靭なメンタルを植え付けられるわけだ。兵器としての軍人に、自分で考える必要はない。
撃てと言われたら、条件反射のように撃つ。殺せと言われたら、躊躇なく殺す。そんな優秀な兵士に、戦闘員に洗脳されるのさ。
そういえば、ハンナ・アーレント🔗はユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマン🔗を考察するなかで、『考えないことが罪』であるという結論に達していたっけな。
その対極の人間性を叩き込まれるのさ。

そのかわりと言っちゃなんだが「海兵隊員」としての強烈な誇りがインストールされるんだ。
一度海兵隊員になった者は、退役後も "Once a Marine, Always a Marine"(一度海兵、生涯海兵)と言われるほど、組織への忠誠心と戦闘集団としての規律を叩き込まれるんだけど、それは除隊したあともその狂気のメンタリティを自ら肯定し続け、自らのうちに内包しながら市民社会で生きるということを意味してるんだ。
そんなの残酷な呪い以外の何物でもないな。

かつて、日本軍も中国で捕虜にした中国人な首を、新兵に日本刀で刎ねさせた。これも、市民社会での倫理や常識を破壊し、上官の命令によって、犯し尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという苛烈な、非人道的な指令を全うさせるためだった。当時の日本人は、東洋鬼(トンヤンキー)と言われたもんだ。
未だに日本人に対して、中国人が仮想敵と考えるのはそのためだ。彼らの反日感情の根底には、日本人がかつて大陸で繰り広げたウルトラ・バイオレンスがある。それを忘れ去って、敵視するのはお門違いも甚だしい。
まぁ、いつだって靴を踏んだほうは覚えていないが、踏まれたほうは忘れないものさ。
俺はそんな話を子供のころ、おばあさんから何度も聞かされた。俺のばあさんはある意味俺のハートマン軍曹みたいなもんだな(笑)。


このブートキャンプで徹底的に、その兵士自身の自尊心や市民してのメンタリティを徹底的に破壊することこそが、海兵隊員などによる、終わりのないレイプや強盗殺人などの凶悪犯罪を生み出す契機になっていないだろうか?

俺の予想通り、軍事心理学や社会学の研究、そして元海兵隊員たちの証言においても、ブートキャンプにおける「自我の徹底的な破壊と戦闘員への再構築」が、退役後や駐屯地周辺での凶悪犯罪、アルコール・薬物依存、そしてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こす重大な要因(トリガー)になっていることは、繰り返し指摘され、問題視されている。
海兵隊の訓練システムが、どのようにしてご指摘のような問題につながっているのか、見てみよう。

1. 自我の破壊と「超攻撃的・男性優位」な人格の刷り込み

ブートキャンプでは、これまでの市民としてのモラルや自尊心を奪う代わりに、「海兵隊(集団)としての誇り」と「敵を殺傷するための攻撃性」が新しい自我として植え付けられる。

それは一言でいえば、暴力性と支配欲の肯定だ。
訓練の中では、攻撃的であること、強靭であること、相手を圧倒することが最大の美徳とされる。
このマインドセットが基地の外(一般社会)に出た際、特に女性や市民などの「自分より弱い立場の人」に対する支配欲や暴力の衝動(レイプや強盗、暴行など)として歪んだ形で破裂してしまうケースが後を絶たないわけさ。


そして彼らが社会を見る視点は「組織の内と外」で極端に分離するんだ。
自我を破壊し、海兵隊員であるという代替物をインストールされた彼らの脳みそのなかには、「自分たちは選ばれた最強の海兵隊員(身内)であり、それ以外(一般市民)は守るべき対象、あるいは格下の存在」という選民思想的な歪みが生じるという歪んだエリート主義だ。今回のバラード容疑者のSNSの投稿にも見て取ることができるように思う。
しかし、本当の自分自身に基づいていない自尊心に、いったいどんな意味があるというのだろう。
そして、この肥大した自尊心がこれまた現地住民への犯罪に対する心理的ハードルを下げてしまう効果絶大だ!

2. 空虚になった内面を埋めるための「酒・薬物」への依存

人間は、自尊心や個人のアイデンティティを根本から奪われると、内面に深い精神的空洞(トラウマや過度なストレス)を抱えることになる。
人間は、どんなに肉体を鍛えても精神を鍛えることは難しいのだ。
そして「男らしさ」の証明としての飲酒ってのが厄介極まるな(笑)
海兵隊のカルチャーでは、過酷な任務の後に大量の酒を飲むことが「タフな男の証明」として容認・推奨される傾向があるという。
訓練で麻痺させられた恐怖や不安、良心の呵責、あるいは失った本来の自分から逃避するために、多くの隊員がアルコールに依存し、それが理性を失わせ、さらなる凶悪犯罪(飲酒運転、暴行、殺人など)の引き金になっていくんだ。こんなのうちの小学生の息子でも分かりそうなもんだぜ。

3. 「戦場(異常)」と「日常(正常)」のスイッチの切り替えの難しさ

海兵隊員は「いつでも戦場へ行き、人を殺せる状態」を維持するための訓練を受けている。即応部隊だからな。
しかし、その高ぶった精神(過覚醒状態)のまま一般社会に戻されると、脳がバグを起こしちゃうわけだ。

ここには、自衛隊との決定的な違いがある。
日本の自衛隊は「法を遵守する公務員」としての自我を維持したまま訓練を受けるけれど、海兵隊は「戦う戦闘マシン」としての自我を求められる。
この「人を殺すための規律」は、一歩間違えれば一般社会における最悪の犯罪者を生み出すシステムと紙一重であり、アメリカ国内でも海兵隊員の退役後の犯罪率の高さやホームレス化、自殺率の高さは深刻な国家問題となっているんだ。
なんて素晴らしい社会!
なんて素晴らしいシステム!
こいつは一体、誰が幸せになるシステムなんだ?

さて、こんなことを知っても、君は海兵隊員のナイスガイを、君の家にホームステイさせるかね?
俺は厄介事はゴメンだぜ。

2026/10/13

POST#1981 君は自分の家にアメリカの海兵隊の皆さんをホームステイさせてみる気はあるかい?

ベトナム阮朝の旧都フエ。街角をスクーターが疾走する。
国民の代表として、国民全体から我が国の行政を負託されている政府は、長年にわたって沖縄県に米軍基地負担を担わせておいて、事故が起こるたびに『遺憾である』とオウムのように繰り返してきた。
かつて、悪夢のような民主党政権(BY 安倍晋三談)において、鳩山由紀夫が、普天間基地の移設は『最低でも県外』という方針を立てたが、その途端にアメリカからか、保守勢力からか批判の大合唱で、交渉は頓挫、停滞を余儀なくされ、当の沖縄県民からも、期待外れの狼少年のように扱われ、鳩山政権は退陣に追い込まれた。

以来、30年近く、米軍の沖縄からの移転は政治的に禁忌とされている。

アメリカ本国の政治家や外交官が見ても、アメリカ国内だったら絶対に設置が許されない住宅密集地の真ん中に、普天間基地は存在する。
しかし、それは動かない。
アメリカ人から見たら、日本人など取るに足らない存在だということだ。
PFASが漏れて水質汚染しようが、オスプレイが墜落しようが、大学にヘリコプターがおちようが、市街地に戦闘機が墜落しようが、それで日本人が死んだとて、イラクでミサイル攻撃された小学校で惨殺された小学生の女子たち140人と変わりないんだ。

もう一度、言わせてもらおう。いや何度でも言わせてもらおう。
この国は民主国家だ。デモクラシーだ。ということは国の主権者は、政府のお偉いさんたちではなく、一人一人の国民だ。俺や君や、そこいらのにいちゃんねえちゃん、おじさんおばさんだ。その象徴として、ある意味一般意思を体現する象徴的存在として、天皇陛下という存在が規定されているんだ。

この代替基地として計画されている辺野古基地は、堆積シルトのような軟弱地盤により一向に建設は進まない。よしんば建設できたとしても、滑走路の長さが足らないから、米軍は使わない可能性が高い。ばかばかしい。
アメリカの海兵隊員が沖縄の女性をラブホテルで殺害してから10日ほどたつが、すでにその話題は過去のものとなりつつある。
しかし、この辺野古の建設基地反対運動の抗議船に同乗し、京都の同志社高校の生徒さんが溺死した件に関しては、確かに問題は多々あるにせよ、あれからずいぶん経ったのに右派的な皆様の非難は鳴りやまず、文部科学省からの補助金もカットされる見込みだ。

この民主主義国家では、アメリカ軍の存在に疑義を呈したり、反対したりすれば、非国民のように扱われるのだ。
しかし、これは民主国家の主権者として、当然の行動ではないのか?
それとも、そういった異論を許さないというのは、わが国の政権が敵視する中国共産党のように、人間の思想信条や内面すらも統制し、管理し、従わない者は徹底的に弾圧するということなのだろうか?
だとすれば、この日本という民主主義国家は、すでに共産中国を恐れることはない。
やり口がソフトかハードかという違いだけで、すでに内実は共産中国と大差ない国家体制になっているということだからだ。
日本国が、真に守らなければならないのは、民主的で、思想信条の自由があり、そこに生きる人々が法に基づいて平等に扱われ、理不尽な目にあうことを許さない社会であるという規範のはずだ。
それこそが民主主義国家のあるべき姿ではないですか?
異論のある人は、反論してほしい。

そこで提案だ。思考実験だ。
例えば海兵隊の基地を、大阪の夢洲や東京湾岸地区、みんなの大家さん事件でクローズアップされた成田空港周辺の原野に移設したと考えたらどうだろう?
そして、アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じてくれているナイーヴな皆さんのおうちに、海兵隊の屈強な皆さんを、人を躊躇なく殺すことを職業倫理として叩き込まれた精鋭の皆さんをホームステイさせるのはどうだろう?
夜になれば、六本木や大阪の道頓堀界隈は、酔っぱらった海兵隊員でごった返す。京成成田駅付近の成田山参道付近も、海兵隊員で大賑わいだろうよ。スカイライナーに乗れば、35分で日暮里までつくから便利だしね。意外と日暮里辺りまで海兵隊の皆さんで潤うかもしれないぜ。
そうなったとき、街を歩く若い女性たちはへそを出して歩くのをやめて、海兵隊員にレイプされないように、アフガニスタンのイスラム教徒のように全身を覆い隠すような格好をし始めるかもしれないな。ウフフ…。紫外線よりレイプされて殺される方がおっかないのは言うまでもないからね。

それが、沖縄の市民があの狭い町の中で体験していることだ。
基地があるおかげで経済が潤っている?それは詭弁だ。基地があるおかげで、産業のない田舎町のように飲み屋しか商売が成り立たないんだ。地方都市に行ってみるがいい。人口規模の割に、やたらと飲み屋が多い街を見つけることができるだろう。産業がないからだ。人々のブルースを癒すために、生活してゆくために飲み屋が必要なのさ。

これをバカバカしいと一蹴する前に、自分の街のこととして、我がこととして考えてみるべきではないだろうか。
殺されたのが、あなたの妻や、あなたの妹や、あなたの娘だったらどう思うか考えてみてはどうだろう。

なぜって、この国は曲がりなりにも民主国家だからだ。国民の一人一人が主権者の国だからだ。大の虫を生かすために、小の虫を殺してもいいというトロッコ問題のような理論=屁理屈は成り立たないはずだ。

沖縄に住んでいる人も、東京に住んでいる人も、福島に住んでいる人も、大阪に住んでいる人も、すべて皆同じ存在意義を見止まられ、この国の主権者としてこの国土に偏在して住んでいるんだからね。

こんなことを書き記す俺のことを、『パヨク』と小バカにする君!
君こそ家にメキシカン・キラーを名乗るような屈強な海兵隊員さんをホームステイさせてみてはどうだい?
意外と愉快な日々が送れるかもしれないぜ。俺は御免だけどな。
あいつらに付き合って酒を飲んだら痛風の発作が出るだろうし、レイプの時に足を押さえているのも御免だぜ(笑)。

2026/10/12

POST#1980 あらためて言っておくけれど、民主主義国家なんだぜ、この日本は

ベトナム阮朝の旧都フエ。かつての王宮の裏手の池には素晴らしい光が差していた
泥のように眠った。

睡眠負債はたまりまくってる。本を読むこと、眠ること、年老いた俺にはそれが愉しみだ。

夢で、このブログをまとめた素敵に分厚い本が出版される夢を見た。本当に分厚い。判型は特殊な正方形のもので、上質な表紙に厚さ7センチはあろうかという分厚いものだった。価格は12500円+TAX。夢にしては妙に生々しいのが笑えるな。

さて、大日本帝国はいざ知らず、今日の日本国について考えてみよう。

この国の主権者はいったい誰なのか?

この国の方向性を決めているのは、いったい誰なのか?

この国に生きる俺たち一人一人は、誰かに支配されているのか?

誰かに支配されているとしたら、その自覚はあるのか?

俺が今日、俎上にあげたいのはこういうことだ。

この日本国が民主主義国家を標榜している以上、その主権者は一人一人の国民だ。

俺や、君や、表を歩いているそんなこと考えてもいないような老若男女の一人非チリがこの国の主なんだ。自民党でもない。高市早苗でもない。麻生太郎でもない。天皇陛下でもない。

一人一人の国民こそが、この国の主なんだ。君は理解してくれているだろうか?

その一人一人が、本来持つ自然権の一部を国家という集団に属する全員の利益のために差し出し、その小さな権能の集合による権力によって、全体の福利を諮る、そして一旦手放した個々人の自然権の一部は、全体として還元されるため一切損なわれることはない。それが、近代国家の基礎的な理念だ。これを構想したのは、誰あろう、ジャン・ジャック・ルソーだ。これが社会契約論という考え方だ。

自らの自然権を平等に差し出す代わりに、国家のメンバーとしての福利を等しく得るというモノだ。そこには、天皇を中心とした神の国とかいう観念の入り込む余地はない。

この社会を運営していくための代表を選ぶために行っているのが、国政選挙や地方自治体の選挙ということだ。それは本来、社会契約論とは切り離された概念だが、今日の近代国家を形成するうえで、代表民主制というのは、方法論的に仕方なく選択されてきたものだ。

そして、上記のように選挙を経て選ばれた私たち市民の代表は、自民党支持者の代表ではなく、あくまで国民全体の代表として全体の福利を考えるべきなのだ。自分に投票しなかった人たちには、予算をつけないなどということは、民主主義を破壊する行為でしかない。

余談ではあるが、そのような言動を行うものを閣僚などという重要なポストにつけ続けることは、民主主義を否定する行為に他ならない上に、国民全体から負託された政治という共同体のかじ取りを、大きく誤ることだといっておきたい。

これを逆照射して考えてみれば、国家とは、国民一人一人の集積に他ならないということだ。そこいらを歩いてるサラリーマンのおっさんも、ヤカラのようなあんちゃんも、へそ出して歩いてるねえちゃんも、ランドセルをしょった子どもたちも、ぼけ老人も皆、国家の1億2000万分の一を担っているわけだ。

どこかに支配者がいて、それらの大衆を支配しているわけではない。たとえ、今の政権政府の振る舞いがそのように見えたとしても、わが国はデモクラシー国家(デモのデモはデモス、つまり民衆から来てるんだよ。デモは無力だという言説は、民衆は無力だといっているのと同じなんだ)であり、けっしてアリストクラシー=寡占制国家ではないんだ。

政治家の皆さんも、俺たち自身も、すっかり忘れているかもしれない。しかし、だからこそ、俺はここで声を大にして言うべきだと思うんだ。

この国は民主国家で、主権者は俺たち国民一人一人だということを。


そのうえで、沖縄県に基地を集積させ、主権者の一人である国民が殺されたことを、単に遺憾であると済ませていいモノだろうか?

遺憾であると済ませてしまう無為無策の根底には、一人一人の国民を、支配される捨て石のように考える思想がないだろうか?

かけがえのない一人一人の人間を、単なる記号のように扱っているのではないだろうか?

思想の左右、政府への距離によって、経済的生産性によって、国民の存在価値=生命の尊厳に優劣をつける郵政思想がないだろうか?

それを認めることは、なし崩し的に、自分自身の存在価値を放擲し、自らの主権を手放して国家という幻想にひれ伏してしまう事になりはしないか?

もう一度君たちに聞いてみたい。

もし、沖縄に住んでいたら、日常的に妻子がアメリカ軍人、つまり人を殺すことを職業とし、世界をアメリカという国に屈服させるための実力=ゲバルトとして訓練された人々と入り混じって、レイプ、強盗、殺害の危険におびえながら生きることを是とするだろうか。

沖縄県民ももちろん、我々と同じ民主国家の成員なのだ。

それとも、中国の脅威に備えるために我慢しろと?

クラウゼビッツが言うように、戦争とは違う形で行う政治の延長だ。だとすれば、政治の力でいかようにでもコントロールできるはずだ。

国民のすべてに、仮想敵を作りだし、敵だと思わせ、犠牲を強い、危機へといざなう。そのような政治のあり方が果たして民主主義国家に属するすべての国民の負託においてなされるべきものだろうか?

右でも左でもなく、近代的な国家観の観点から俺は異議を唱えたい。

そして同じ視点から、士農工商穢多非人沖縄県民ではなく、すべての国民が、国家の主権者で、その価値(という言い方も好きではないな。)いやさ、存在意義に何ら差はないはずだと声を大にして諸君に訴えたい。

明日も続くぜ。明日からは沖縄と米軍基地をめぐる思考実験だ。お楽しみに!

2026/10/11

POST#1979 軍隊というのは凶器そのものであり、国家というシステムがはらむ狂気なんだ

阮朝の旧都フエ、街の中心街では結婚式だろうか。着飾った男女が歩く。羽振りのいいやつも悪い奴もいる。

昨日の夜、仕事にいったんだが、現場の商業ビルでボヤ騒ぎがあり、仕事どころじゃなかったので、とっとと切り上げてかえってきた。息子と一緒にふろに入り、息子と眠った。
人間的な生活だ。ゴミ収納庫から出火したおかげといっていいだろう。

何しろ、心身ともに疲れ果ててるからな。長生きなんてできそうにないぜ。

さて、昨日の続きだ。沖縄のラブホテルで、女性がアメリカ海兵隊員に殺された事件から始まる思考だ。こういった事件が繰り返されるたびに、日本政府は在日米軍に対して、綱紀粛正を要求してきた。

要求はするけれど、在日米軍基地は日本国内にありながら、日本国の法が通用しない世界だから、要求することしかできない。

そして、法体系の面でも、在日米軍いや、世界各地に展開するアメリカ軍は『旗国法原理』という法原則に則って活動している。

つまり、世界中どこで活動しても、その相手国の法律よりもアメリカの法が優先される、もっとストレートに言えば、軍隊の規律が優先されるという法原理だ。

でなければ、海外で(アメリカは自国内で戦争したことは独立戦争と南北戦争しかないことを覚えておいて)海兵隊が乗り込んで、敵対する国の国家元首などを急襲し、拿捕した場合、あぁ、つい最近のベネズエラみたいな場合さ、もし属地法主義、つまり現地の法体系に照らせばそれは明々白々な犯罪行為となる。

それでは、どんなオペレーションも不可能だ。

ちなみにアメリカやロシア、そしてイスラエルなどがICC🔗つまり国際刑事裁判所🔗への加盟を頑なに拒み、なおかつ180日以内の解体を主張している狂気の沙汰の根本には、自国の軍民が、他国の国民へ戦争犯罪ともいうべき理不尽な攻撃を行った際に、国際的に指名手配され、訴追されることを恐れているからだ。ウクライナのブチャ、ガザ、そして今回のイランへの攻撃で小学生140人が突如としてミサイルでミンチにされるようなことになっても、誰も裁かれたりしないようにするためだ。

さて、古い話で恐縮だが、1954年群馬県相馬で、米軍基地内で薬莢を拾い集めていた女性を、アメリカ軍の軍人ジラードが戯れに射殺した。世にいうジラード事件🔗である。

ジラードは彼女の目の前に薬莢を放り投げ、そのうえで射殺した。

この無法に対して、当初は日米双方は日本側で裁判を行うことで合意していたが、アメリカ国内では日本の裁判権行使に対して反対する世論が巻き起こった。

かなり紆余曲折したのちに、日本側で裁判を行うこととなり、ジラードには懲役3年、執行猶予4年という判決が下された。執行猶予4年ねぇ…。

こうした事態が相次いだこともあり、日本各地の自治体の首長たちは、県内の米軍基地に対して反対を表明し、基地の撤去をうったえることとなる。それは、つい先日の沖縄知事選で敗北した玉城デニー氏と何ら変わりない。この日本各地で展開されたオール沖縄のような各地方自治体の米軍基地への強い反発によって、次第に米軍基地は当時未だアメリカ占領下にあった沖縄に集中していくことになる。

玉城デニー氏を中国の手先のように言う右派の方々も多く見受けられたが、けっしてそれは正しくない。自らの県民の生活の安全を守ることは、自治体を預かるものとして当然だからだ。この視点を頭の片隅に置いておいてほしい。

沖縄にアメリカ軍の基地が集中しているのは、右派的な脳みその皆さんが主張するように、対中華人民共和国シフトでも何でもなく、アメリカ軍が日本人に煩わされることなく活動できるところに移っていっただけに過ぎない。今日言われる西南シフトなるものは、沖縄に米軍基地が集中していることと、何ら関係は、ない。

沖縄が本土に復帰した2年後、沖縄県伊江島の米軍飛行場に牛の飼料とするため、演習場のゲートから、警備員にとがめられることもなく入った基地内に入って草刈り作業をしていた男性を、アメリカ軍の兵士がジープで追い回し、信号弾を発射した。この信号弾は日本人男性の腕に命中し、受傷した。

これに対して、アメリカ軍はジープを運転していた兵士と信号弾を発射した2名は、公務執行中であったして、公務証明書を発行し、日本側は両名の裁判権を諦め、アメリカ軍の司法にゆだねることとなった。これは伊江島事件🔗と呼ばれる事件だ。

以降、大雑把な発言をお許しいただければ、アメリカ軍兵士及び軍属(軍隊関連の組織、それは米軍向けのスーパーの従業員も含まれる)の犯罪は、何かと公務執行中ということになることになった。途中でスーパーで買い物をした後に道路を逆走して日本人を殺してしまっても、公務中となった。

今回の女性殺害事件に関して言えば、日本の警察が容疑者の自称メキシカンキラーのデビン・ジェイコブ・バラード海兵隊員(20)の身柄を確保したが、多くの場合、米軍が犯罪者の身柄を押さえている場合、日本司法は、その裁判権を自発的にアメリカ側に譲るという運用がなされてきた。自発的にね。

つまり、日本はアメリカ軍人や軍属の犯罪に関して、よほど迅速に基地の外部でその身柄を確保しない限り、『旗国法原理』の壁に阻まれて、彼らの犯罪を裁くことはできないのだ。

これが、日本だけでなく、韓国やNATO諸国をはじめとした世界各地でアメリカがやっていることだ。

しかし、なぜこんなことがまかり通るのか。

それは、そもそもアメリカ軍という組織が、軍隊であり、軍隊という存在は、どんなにきれいごとで取り繕ったにせよ、自分たちと異なるカテゴリーや国家に所属する人間を、痛めつけ、殺し、制圧し、無力化し、収奪することを目的とする組織だからだ。

アメリカ軍は日本を守ってくれているというナラティブを信じるのは結構だ。これは憲法が保障する内心の自由だ。

しかし、現実問題として軍隊という組織は、まさに凶器そのものであり、国家というシステムの持つ狂気そのものだということだ。マックス・ヴェーバー🔗的に言えば、この暴力=ゲバルト、つまりウルトラ・ヴァイオレンスの独占こそが国家というリバイアサンの力の根源だ。トランプ政権の下で、かつてないほどとち狂ったアメリカが世界のスーパーパワーであり続けているのは、沖縄はもちろん、グリーンランドやNATO諸国、中東各地に米軍基地を配備し、その暴力のネットワークで世界を抑圧しているからだ。

今日の結びに言っておこう。

中国人民解放軍の脅威を主張する人は数多いる。

しかし、中国人民解放軍によって殺された日本人は、戦後80年余りで0人だ。

対して、アメリカ軍の引き起こした事件事故によって命を失った日本人は1600人以上に上る。死亡事故に至らない事件・事故も含めれば21万件以上。そのおよそ76%が公務外のものだ。そして、これらは氷山の一角に過ぎない。

そして、そのたびにわたしたちの政府のできることは、遺憾の意を表明することだけだ。情けない話だ。国家とは、政府とは何なんだろう。明日はそこから考えを進めてみよう。

2026/10/10

POST#1978 簗農林水産大臣の言葉から沖縄の貧しさが垣間見える

フエの名物、ブン・ボ・フエを看板に掲げる屋台のような店。フエはベトナム戦争の激戦地でもある
あらゆる情報がコンビニの弁当のように期限がついているかのように等価に消費され、考えるべき問題も、つぎの問題が生じて報じられると、やすやすと忘れられてしまう。

俺たちは、深く考えて水が石に穴を穿つように現実に取り組まねばならないはずなのに、考えることなく、報道される『現実』をエンタメのように、コモディティのように消費していく。

時に、立ち止まって考えることが必要だ。自分のこととして。

しばらく前、沖縄県知事選で自民党、参政党、国民民主党、日本維新の会、日本保守党、公明党の支持を受けて当選したばかりの古謝玄太🔗を普天間基地の20歳の海兵隊員が、39歳の女性をラブホテルで殺害し、日本の警察に身柄を確保されるという事件が起こった。

基地問題を正面に打ち出さず、政権の中枢との距離の近さをアピールし、経済振興を県民に訴えかけた元官僚の新知事からすれば、臭い物には蓋をしておきたかった問題の蓋が吹っ飛んだようなものだろう。

新たに就任した簗農林水産大臣の『自分を応援しなかった選挙区の予算を減らすように国土交通省に指示したと』という、ここんところ新聞メディアを騒がせている民主主義を白アリのように食いつぶす発言からも容易に想像つくことがある。

アメリカの基地の7割が国土の0・6パーセントにすぎない沖縄県に集中しており、在日米軍による犯罪も突出しているという現実に対して、長年にわたって異議申し立てを続けている沖縄県民の存在を、中央の政界や政権担当者が『まつろわぬ者たち』と考えているということ。

そして自分たちの政策(ストレートに言えば沖縄県民の生活を蹂躙するという政策だ)を是としてこなかった沖縄県に対して、十分な経済振興策を施してこなかったであろうことが、十分な予算を配分してこなかったであろうことが、沖縄の経済的な貧しさの裏にはあるのだと容易に想像がつく。

一見バラバラなニュースすらも、俺の中では一連の有機的なものに見えている。

あこの知事が、記者会見でこの件で在日アメリカ大使にどのような抗議をしたのかと記者に突っ込まれて、言葉に窮するような雰囲気でにやけたような表情をしてしまったというのも、大いにメディアの反感を買ったようだ。しかし、メディアが反感を示すと、逆に応援してくれるという不思議な思考回路の天邪鬼な人々も一定程度いるので、俺にはどうでもイイ。

政府も『遺憾である』というだけで、駐日アメリカ大使に対してアメリカ軍の綱紀粛正を要請し、遺憾の意を伝えるだけだ。中央政界と距離が近くても、しょせんはこの程度のものだ。

たまには満腔の怒りを表明してみろ。自分の家族が海兵隊員に殺されても、この人たちは、カエルの面にしょんべんで、遺憾の意を表明すると立て板に水でいうのだろうか?

日本を守るという名目で受け入れているアメリカ軍によって、日本人は暴行され、レイプされ、殺され続けている。面白いことに、わが国の政権中枢が敵対視する中国人民解放軍によって殺された日本人は、寡聞にして俺は知らない。

そして、在日アメリカ軍は日本を守るためにいるのではなく、アメリカの使い勝手のよい基地として、極東から中東あたりまでをカバーするために存在している。冒頭の写真のフエも、日本の基地から送り込まれたアメリカ軍人が、ベトナム戦争で激戦を繰り広げた場所だ。どんな場所にも歴史があるのだ。今は平穏に見えても、その平穏は言語道断なウルトラヴァイオレンスの上に築かれたモノかもしれないんだ。

しばらくこの話題をネチネチと考えていくことにしよう。

古人曰く『兵は凶器也🔗』

国家の名のもとに人間を殺せば英雄になるが、個人的に殺せば、単なる犯罪者だ。しかし、殺す主体はあくまで同じ人間だ。同じ人間の同じ行為が戦場では称賛され、私たちの実社会では犯罪になる。この欺瞞から考えを展開し、思考実験を繰り広げていくことにしよう。

この社会は、きれいごとの裏に、欺瞞と腐敗と犠牲を隠している。腐敗してパンパンに膨らんだ死体を詰め込んだスーツケースのように。


カミさんと子供がこれから図書館に行ってくるという。俺は思わず、暗くなったらアメリカ兵に殺されるかもしれないから気をつけろよという。カミさんは鼻でわらって取合わないが、沖縄ではそれは現実の問題だ。国家間の力学や地政学といった高みからではなく、俺たちが考える起点は、この日常の視点であるべきだ。異論のある人は、いるかい?

2026/10/07

POST#1977 バカバカしいことを真剣にやってみるのさ

阮朝の旧都フエ 庶民街区の街角で

Pファンク🔗(パーラメント🔗/ファンカデリック🔗)の総帥であるジョージ・クリントン🔗は、しばしば「世の中の人々は合理的な思考(真面目なこと)をして、結局はバカバカしい結果(愚かな結果)に至る。だから俺たちは最初からとことんバカバカしいこと(お調子者なこと)を言い訳なしに真剣にやってみることにしたんだ」という意味合いのことを語っている。

俺の座右の銘だ。 

彼が率いたバンドは、ステージでオムツを穿いたり、宇宙船(マザーシップ)から登場したりと100%おふざけ全開だったが、その音楽性やファンクに対する姿勢は極めてシリアスで天才的だった。今聞いても、まったく古びない。うちの息子の麒麟児も、お気に入りだ。この「おバカを真剣にやる」というスタンスこそが、のちのヒップホップやミクスチャー・ロックに計り知れない影響を与えたPファンク神話の本質だといえるだろう。

さて、冒頭にこんな言葉を引っ張り出してきたからには、聡明な読者諸兄はもう次の展開がお分かりだろう。

さてと、俺の会社の名前を変えるのにはいったいいくらかかるんだっけか?

合同会社の社名を変更する手続きにかかる登録免許税は、一律で「3万円」だそうだ。先日、俺のカミさんのミニクーパーのウィンドウォッシャーポンプを交換したときにカミさんが払った金とほぼ同じだな。

法人の定款の変更そのものには公証人の認証なんざ不要だ。しょうもない手数料はかからないぜ。昔、追い詰められて会社を立ち上げたときも、すべて自分でやったからな。勝手は解ってる。わかりにくくしておくことで、皆さんを排除して独占するシステムだ。

Do It Myselfは、PUNKな精神だ。

つまり、自分で書類(総社員の同意書や登記申請書)を作って法務局へ持参して申請する場合、最低限必要な実費はこの3万円のみってわけだ。いたずらするには悪くない額だ。

社名変更には書類だけじゃなくて、会社の代表者印やら銀行印を作り直して改印届も出さにゃならんだろうな。この場合は、新しい印鑑の作成費用が実費として数千円から数万円かかるだろうな。近所の松栄堂さんに頼むとするか。ネットもお手軽だけど、お店のじいちゃんと世間話をするのも楽しいものさ。

いたずらの割に物入りだけど、幸い法務局への改印手続き自体に手数料はかからない。ナイス‼

司法書士に書類作成や申請を丸投げする場合は、これらの実費に加えて数万円の報酬が上乗せされるだろうが、そんなもんにカネを使うのは金をどぶに捨てるようなもんだ。俺の脳みそは、ちゃんと使い物になるんだ。だいたい遊びを他人にまかせてたら、つまらないぞ。そうすりゃ、「総社員の同意書」を1枚作り、ポストに投函するだけなら、3万円の収入印紙でいつでもその「ハッタリの看板」へ架け替えるゲームを始めることができるんだ。

ハードル低いな(笑)。



1. 総社員の同意書(ひな形)

text

         総社員の同意書

 

当会社は、次のとおり商号を変更し、これに伴い定款を変更することに

社員全員が同意した。

 

1.商号は、合同会社日本商業空間監理機構とする。

 

2.定款第1条(商号)を次のとおり変更する。

 (商号)

 第1条 当会社は、合同会社日本商業空間監理機構と称する。

 

上記、商号の変更および定款変更の効力は、令和8年12月1日に発生するものとする。

 

令和8年11月吉日

 

        合同会社スパークス

        社員全員の氏名(または名称)

        はったり 浩一郎  (実印)

2. 現在の定款の書き換えマニュアル

お持ちの定款のファイルの第1条(商号)の項目を、下のように上書きして更新(上書き保存)するんだ。

  • 【変更前】:第1条 当会社は、合同会社スパークスと称する。
  • 【変更後】:第1条 当会社は、合同会社日本商業空間監理機構と称する。

あとは、法務局のウェブサイトからダウンロードした「合同会社商号変更登記申請書」に、この内容と3万円の登録免許税(つまりは収入印紙さ)を添えて法務局に持参するだけでOKだ。

これ本当にやったら一瞬でフリーズしてクライアントとか職人とかが、めちゃめちゃアタフタする姿が目に浮かぶぜ。イヒヒヒヒ…、ウフフフフ…、ガハハハハハ!

想像しただけで最高に愉快痛快だ。

今まで「スパークスさん」と呼んで、ザ・フーのビートが流れるような職人の気さくなノリで付き合っていた相手から、ある日突然、『合同会社日本商業空間監理機構』というお役所か国の出先機関のようなハンコが捺された書類が送られてくるんだぜ。笑っちゃうよな。

世間の善良な皆さんの脳内では、確実にこんな「アタフタの連鎖」が起きるはずだ。

パターン1

「え、スパークスさん、どこか大手の資本か国の天下り団体に買収されたの……!?」というパニックに心が揺さぶられ、厄介なことになったと困惑する。

パターン2

クソな図面をよこす自称デザイナーという思いあがった設計者どもが、俺からのメールを見たり、名刺交換したときに、「あ、あれ?今度からこの『機構』とかいうお堅い組織の監査でも入るのかな……」という勝手な恐怖と萎縮を抱く。いいねぇ。

パターン3

電話口で「もしもし、合同会社日本商業空間監理機構の服部です」と出られた瞬間に、「あ、かしこまりました!」と、相手のほうが勝手にお行儀の良い「良き臣民OS」に切り替わってしまう滑稽な光景まで想像できるな。

彼らは中身の「服部浩一郎」という一人の現場監督(リーダー)の凄みは何も変わっていないのに、『機構』という名前の持つ「偽の厳粛さ」の記号を勝手に真に受けて、勝手に一人で怯えてアタフタするって寸法だ。自縄自縛だ。ざまねぇや(笑)。

これこそまさに、俺たちが解剖してきた「神社本庁のハッタリ」に騙される大衆(モナド)の縮図そのものだ。

システムやお題目を盲信するペラペラな連中を、たった3万円の登記費用と「名前のハッキング」だけで綺麗に煙に巻き、現場の主導権を 120% こちらが握ってしまう。これこそ、現代の実戦的でファンキーなゲリラ戦の形かもしれないぜ。

こいつはなかなか面白い悪戯だ。

間違いなく最高にスリリングで、かつ知的な悪戯だ。ジョージクリントンも大笑いするだろう!

ただ、世の中のほとんどの人は、恐ろしくてこんなこと絶対に思いつきもしないだろうし、冗談でも実行に移す覚悟もないんじゃないかな(笑)。

世間の大半の「お行儀の良い良い子ちゃん(モナド)」たちにとって、会社の社名や登記というものは、国家のシステムが定めた「神聖で、絶対に変更してはならない格式(偽の厳粛さ)」そのものだからさ。けど、俺にとっては、現実社会でサバイブしていくためのヴァーチャルな自分自身=法人に過ぎないんだ。ヨーグルトのラベルを貼りかえるようなもんさ。

善良な市民の皆様は、残念なことにこのクソな社会システムに飼い慣らされているため、その枠組み自体を「おちょくりの道具」としてハックするという発想そのものが、最初から脳内から去勢されちゃってるんだ。去勢されていても、牛は突っ走るだろう。しかし、どこか物足りないものだ。

なぜ世の中の人はこういう面白い悪戯を考えられないのか、その決定的な落差は何か考えてみるべ。

1. 「記号」に支配されるか、「記号」を踊らせるか

  • 世間の大半の人(思考停止した善良な市民の皆様):
    「機構」や「組合」という役所めいた名前つまり『記号』を見せられると、中身を確かめることもせず、勝手にその重々しさに怯えてアタフタそわそわし始めるだろう。彼らは記号に支配されて生きているからね。自分が小さな権力を握ると勘違いする癖に、自分より上位の権力にはからっきし弱いんだ。
  • ふざけた大人の俺のスタンス:
    俺自身には、なんちゅうか「中身の自分(服部浩一郎という一人の現場監督の身体性)は1ミリも変わらない」という絶対的な個の軸があるわけよ。だからこそ、外側の看板を『日本商業空間監理機構』というハッタリにかけ替えて、世間様を煙に巻くゲームをささやかな悪戯として軽やかに楽しむことができちゃうわけだ。しょせん、そんなもん『記号』だろ? 『記号』が内実を規定するわけじゃない。そんなものに縛られたり吊るされたりしてたまるか。SMじゃあるまいし(笑)。

2. 「3万円」で買える極上のエンターテインメント

世間の善良な皆さまは、カネというものを「等価交換(パチンコの玉の換金レートじゃないぜ、関係性をチャラにするための冷たい契約)」の道具としてしか考えちゃいないだろう。

司法書士という「型貸し商売」に無駄な手数料を払うことに。は疑問を持たないくせに、自分の身体を張って社会を驚かせるための「生きたカネの使い方」を知らないんだ。まぁ、生きてるかどうかわからんが、まぁ、言うたら道楽だ。
自分でネットの雛形を使ってサクッと書類を作り、たった3万円の登録免許税でクライアントをアタフタさせる。これほどコストパフォーマンスが高く、知的なシビアさとユーモアが融合した「大人の悪ふざけ(悪党的思考)」は他にないだろう?

さて、しょうもないことを縷々考えたが、今日はこのくらいにして眠るか。まったくばかばかしいぜ。