ラベル Nepal の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Nepal の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/07/25

POST#1918 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第4章

 

Bhaktapur,Nepal

例えば市県民税や、固定資産税なんかの地方税を払うのに使えるようにするってのは、どうかな?だとすれば、それぞれの個人の課税額によって上限が決まるよね。

昨日一旦措いたような、地域の人の暮らしぶりや困りごとになんか何の興味もない、自分のモナド的な世界に閉じこもって営利活動に邁進している人も、市県民税は払うだろうし、固定資産税だって払うだろう。そこにインセンティブが生まれるって寸法だ。

固定資産もない、市県民税非課税世帯ってのもあるはずだから、公営の水道料金などを加えてみてもいいだろう。これはなかなかいいアイデアなんじゃないか?

お上から指定された税額だもの、上限があるよね。しかも、ゲゼル通貨のように半減したり価値が消滅したりする納期を、年四回ある固定資産税の納期や、サラリーマンにはあまり縁のない市県民税の普通徴収なら年四回。水道料金は月々あるので、これは三か月に一回とかにしてもいい。そう年四回の納入期限に合わせて、価値がなくなるということになると、持ち越すこともできないしね。蓄積すらできないんだ。

自分はサラリーマンだから、月々の給与から特別徴収されてしまうからそんなトークン集めても関係ないという向きは、会社から市町村に源泉徴収票を提出してもらうときに、このトークンを合わせて提出してもらい、還付してもらう仕組みを作るとかね。また、持ち家があるんなら、固定資産税の支払いに使えるだろう。原付の税金にだって使えるようにするか。

納期の問題は、いったん措こう。このルートで還付を目的に提出されたものは、期限を過ぎていても受け付けるようにするとかやりようはあるだろう。

うむ、自慢じゃないけれど、これはなかなか独創的な発想じゃなかろうか?今までに生まれては消えてきた地域通貨とは、ちょいと毛色のちがった解決策なんじゃないかな?

「市民税(あるいは固定資産税などの地方税)をケアトークンで支払えるようにする」

このルールを市や県が認めた瞬間、このトークンは単なる「ボランティアのポイント」から、国家の日本円と同等の、あるいはそれ以上の価値を持つ「本物の地域法定通貨(ローカル・フィアット・マネー)」に完全進化しちまうんだ。

なぜなら、経済学(租税貨幣論🔗)において、紙切れがお金になる最大の理由は「それを使って政府に税金を払えるから」だからだ!これは以前ビットコインをMMT🔗を使ってぶった切ったときにも説明したよね。覚えているかい?

この「市民税をトークンで払える」というルールが、なぜ俺の構想したシステムを100%完璧に完成させるのか、その凄まじい効果を説明いたすとしよう。

1. 100%の「信用創造」がノーコストで完了する

わざわざ市役所が何千万円もの日本円の予算をプールして、トークンの換金口座を用意しなくても、「このトークンで市民税が払えます」と条例で決めるだけで、トークンの信用は一瞬で100%担保される。
市民もコンビニも、企業も、「これで税金が安くなる(払える)」と分かっていれば、日本円と全く同じ価値のものとして、大喜びでそのトークンを受け取り、地域で回し始めることになるだろう。

2. 「弱者が税金を払える」という革命

みんな大好き自民党+株主至上主義の経団連のシステムに忠実な現代の資本主義では、資産のない氷河期世代、ギグワーカー、シングルマザー、高齢者にとって、市民税の納税は非常に重い負担だ。これに国民年金や健康保険が加わるともうアウトだ。手元の生活費がなくなってしまうため、余力もなく滞納してしまうこともしばしばあるだろう。

しかし、このシステムなら、彼らが地域で子どもを見守ったり、ゴミ出しを手伝ったりという「ヒューマン・カインドネス(優しさ)」を発揮すれば、それがそのまま「納税」になってしまうという効果があるわけだ。
お金(日本円)がなくても、人間性(ケア)があれば、社会の義務を果たし、堂々と市民として尊厳を持って生きていける社会が、これで本当に実現するんだ。悪い話じゃないだろう。

世の中、べらぼうに金を持ってるやつでも、たいてい上には上がいる。そして自分より貧しい人間を見下すのは気持ちがいいのかもしれない。しかし、そうやって見下される人々も社会を構成しているし、尊厳を以て扱われるべきだ。絶対に。

3. 「富裕層や技術者」がトークンを必死で欲しがる(格差の解消)

昨日俺は、「ブリコラージュの天才や技術、アピール力のある人にトークンが集中してしまう」というバグを懸念していたよね。
しかし、市民税の支払いに使えるとなれば、「税金を払わなければならない地域のお金持ち、或いは大企業のサラリーマンや技術者たち」が、今度は必死になってトークンを欲しがるようになる可能性だってあるんじゃないかな。

彼らはプライドが高いからさ、トークンを手に入れるために、今まで見下していた弱者(老人やギグワーカー、子どもたち)に対して「何かお手伝いできることはありませんか?」「技術を教えますからトークンをください!」と、頭を下げることはないにせよ、それとなくケアを提供しに来るようになるんじゃないかな。

こうして、強者から弱者へのカインドネスの逆流(富の再分配)が自動的に促されることになるんだ。こうして、社会の中に基盤的共産主義が熟成されて行くんだ。上等のハムみたいに。


デヴィッド・グレーバーとトマ・ピケティへの、俺からの応答

ピケティが求めた「富の再分配」と、グレーバーが求めた「基盤的共産主義(国家や市場に依存しない人間の絆)」。これが、「市民税をケアトークンで払える中核市(一宮市など)」というアイデアによって、完全に現実のシステムとして融合するわけだ。

国(中央政府)がどれだけ増税しようが、インフレで円の価値を落とそうが、この市税充当システムがある地域だけは、住民の「優しさ」だけで税金が払え、生活が守られる「完全な経済的独立区(コモンズ)」になるだろう。

ここまで完璧にロジックが組み上がった「市民税支払型ケアトークン」。

これはまさに、クナップとか MMT とかの理論なんだよね。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップの「表券主義(チャートリズム)」、そしてそれを現代に蘇らせたMMT(現代貨幣理論)」の核心を突いてるんだ。

クナップやMMTの理論を「地域社会の税制と福祉」に直接組み込むという俺の発想は、経済思想の歴史から見ても完全に正しいロジックなんじゃないかな。

クナップやMMTが証明したのは、「貨幣の価値を決めるのは金(ゴールド)のような希少な物質ではなく、政府が『これで税金を払え』と指定したという事実である(租税貨幣論)」という真実です。

俺が構想している「市民税をケアトークンで払えるようにする」というアイデアに、MMTの理論を当てはめると、既存の行政(一宮市や愛知県)の常識をひっくり返す以下のような劇的なロジックが完成するな。

MMTのロジックで行政をハックする3つのポイント

  1. 「財源(日本円)がないからできない」という言い訳を完全に潰す
    従来の行政は「福祉予算(日本円)が足りないから、氷河期世代や単身高齢者を十分にケアできない」というんだよね。それは棄民政策だっていうの!しか~し、MMTの視点に立てば、中核市というオーソリティが独自にトークンを発行し、それを「市税の支払いに使える」と宣言するだけで、実質的に財源を自ら創出(信用創造)したことになります。最初に日本円の予算をどこかから持ってくる必要は一切ないとは間では言わないが、ずいぶんハードルが下がることは間違いない。
  2. 「税金は財源ではない。トークンを流通させるための『ドライブ(推進力)』だ」
    MMT
    において、税金の本当の目的は「政府の活動資金を集めること」ではなく、「みんなにその通貨を使わせること」なんだ。市役所が市民税をトークンで徴収するのは、市にお金が必要だからではなく、市民に「トークンを手に入れるために、地域で介護や育児などのケア労働(ヒューマン・カインドネス)を提供し合おう」という強烈なインセンティブを与えるために他ならない。
  3. JGP(就業保証プログラム)」を地域コミュニティで自動実装する
    MMT
    の重要政策に、政府が失業者に最低賃金の仕事を保障する「就業保証プログラム(JGP)」がある。これはたいていMMTの本の一番最後の法に書いてあるから、最初の法だけ読んでわかった気になってる人間は気が付かない。けど、これがMMTを血の通った経済理論にしているキモなんだ。俺の考案したこのシステムは、これを国家ではなく「地域社会」で実現することを目指しているんだ。資産のないギグワーカーや高齢者が、自分のカインドネス(ゴミ出しや相談相手)を地域に提供するだけで、自動的に「市税の支払い能力」という実質的な所得を得られる。つまり、民間市場(経団連的な資本主義)で雇用されなくても、地域社会で尊厳を持って生きていける仕組みになるんだ。悪くないアイデァだろう?

まさにこの「税金や公共料金で回収する」という仕掛けこそが、クナップやMMT(現代貨幣理論)が証明した「無(ゼロ)から生み出した紙切れに、誰もが信じざるを得ない絶対的なオーソリティ(公的価値)を与える唯一の方法」なんだ。自分でいうのもなんだけど、システムとしては100%大正解だ。

そう、確かにこれは、仕事にあぶれたギグワーカーに対する、就業保証プログラムみたいなものとして機能する可能性もあるよね。

これは市場経済(資本主義)の都合で弾き飛ばされ、仕事に溢れてしまったギグワーカーたちの尊厳と生活を担保する、地域主導の「就業保証プログラム(JGP)」そのものといっていいだろう

MMT(現代貨幣理論)が提唱する本来の就業保証プログラムは、国家が最後の雇い主となって一律の仕事をインフラとして提供するものだけれど、このシステムはそれをさらに進化させ、「地域社会(コモンズ)が最後の雇い主となり、提供する仕事は人間の『優しさ(ヒューマン・カインドネス)』である」という形にカスタマイズされているわけだ。

このシステムが、仕事に溢れたギグワーカーたちにとって究極のセーフティネット(就業保証)になる理由は、次の3つの圧倒的な価値があるからです。

1. 「労働」の再定義:ブルシット・ジョブからの解放

資本主義の市場では、ギグワーカーの仕事(過酷なノルマの配達や、細切れのデータ入力など)は買い叩かれ、グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」に限りなく近づいていく。
しかし、この地域JGPが保証する仕事は、高齢者のゴミ出し、子どもの見守り、近所の相談相手といった、「誰かの命や心を直接支えるケア労働」そのものだ。自分の労働が100%他人の役に立っているという実感が、剥き出しの情け容赦のない資本主義に傷つけられた彼らの自己肯定感を強烈に回復させてくれるんだ。そう、人間にとって一番つらいことは、誰からも必要とされないことなんだ。

2. 「スキルや資本」がなくても全員が「即採用」

民間市場の就職活動では、履歴書、年齢、職歴、資格などで人間が品定めされ、容赦なく選別される。それが世の中の仕組みだ。
しかし、人間の「カインドネス(優しさ)」を燃料とするこのシステムには、面接も書類選考もない。「誰かを助けたい、地域に関わりたい」という意志さえあれば、仕事にあぶれたその日のうちに、誰でもすぐに地域社会の「公的な担い手」として就業、つまりトークンの獲得・納税権の取得が保証されるわけだ。

3. 「孤立」から「結びつき(紐帯)」への大逆転

通常の失業対策や生活保護などの現金給付は、受け取る側を「孤立した受給者」のままに放置する。これは失業して職安とかに通った経験からしても、まぁしんどい。メンタルがやれれるんだ。
対して、この就業保証は「必ず誰かに迷惑をかけにいく(頼る・頼られる)」ことでしか成立しない。仕事を通じて地域の中に顔見知りが増え、「あそこに行けばあのギグワーカーの兄ちゃんがいる」という生存のネットワーク(紐帯)が自動的に編み上がっていく。これこそが、地域の弱者を支え、孤立無援に今を生きる人々の老後を支える最大の資産になってくれるはずだ。人は一人では生きられないからな。自己責任といって、人々を分断するのはその方が管理しやすいからだ。


資本主義の「外側」に、人間のための居場所を作る

中央の政治(自民党・経団連)がどれだけ労働法制を改悪し、人間を使い捨てのパーツのように扱おうとも、中核市(一宮市など)がこのMMT的・ゲゼル的な就業保証プログラムを立ち上げてしまえば、市場の景気に左右されない「もうひとつの優しい労働市場」が足元にできあがることになるんだ。オルタナティブな経済システムだ。

例えばさ、寝たきりになっちゃった人の家の草むしりをするとかそういうのでも俺はいいと思うんだよね。もちろんこれは綺麗事のボランティアってわけじゃないぜ。、現代の地域社会が抱えるリアルな問題なんだ。

1. 誰も傷つかない「究極の迷惑(ケア)の循環」

  • 寝たきりの人は、庭の草が伸び放題になっているのを見て「近所に迷惑をかけている」「でも自分ではどうしようもない」と、毎日強いストレスを抱えてることになるだろう。
  • そこに、仕事に溢れたギグワーカーや地域の若者が来て、黙々と草をむしる。
  • 寝たきりの人は、自分が最初に配布されたケアトークンを「助かった、ありがとう」と渡すんだ。
  • 寝たきりの人は「他人に迷惑をかけた」のではなく「トークンを流通させてギグワーカーの市民税支払いを助けた、社会の主役」になれるんだ。一方でギグワーカーは「自分の体力とカインドネス(優しさ)で、寝たきりの人の尊厳を守り、自分の税金も払えた市民」として、胸を張って一日を送ることができるのさ

2. 行政(中核市)にとっての「莫大なコスト削減」

もしこれを民間業者に頼めば、寝たきりの人の限られた年金から日本円が消えていくだろう。

行政がシルバー人材センターなどをフルで派遣しようとすれば、今度は税金(日本円)が削られることになるだろう。

さらに、草が放置されれば、防犯上のリスクや害虫の発生など、地域の治安悪化という別の行政コストが跳ね上がっていくことになる。
「草むしりをトークンで解決する」ことは、市役所にとっても「一銭も日本円を使わずに、地域の福祉と治安を同時に維持できた」というまんざら悪くないシナリオなんじゃないかな

3. 「草むしり」から始まる、一生モノの紐帯(ちゅうたい)

ただの等価交換(円のビジネス)であれば、業者が草をむしって、お金を払って「はい、さようなら」で関係は終わりだ。それが資本主義の仕組みだ。業者も、依頼主もお互いにとって単なる記号にしか過ぎない。
しかし、これは「もらった相手には返さず、別の人に回す(クラ貿易)」トークンだ。

草をむしってもらった寝たきりの人は、今度は別の誰か(例えば、近くの子供会のイベントなど)にトークンを回すために、「私にできる次の迷惑」を探し始めるだろう。
そして、草をむしったギグワーカーの青年は、「今度はあの寝たきりのおばあちゃんのために、台風が来たら様子を見に行ってあげよう」という、お金で買えない自発的な見守りの関係(全員がゆるやかな民生委員)へと育っていく可能性を秘めている。

つまりこれは、人間を単なる記号として処理する資本主義のシステムに風穴を開ける、本物の「ポスト資本主義の第一歩」になりうる可能性を秘めてるわけだ。

どんなに巨大な経団連や自民党のタッグであっても、地域で繰り広げられるこの「草むしりと優しさの循環」を止めることはできっこないんだぜ。

「その場での11の等価交換」で終わってしまったら、それはただの「短いスパンの労働市場」に逆戻りしてしまい、資本主義のロジックに飲み込まれるだけだろう。

等価交換で関係が清算されて「ゼロ」になるからこそ、人間関係がスカスカになり、人はまた孤独な「消費者」という記号に、「労働者」という記号に変換されてしまう。

俺が君たちとの対話を通じて構想しているのは、「あえて清算させず、永遠に終わらない貸し借りの連鎖を通じて、人と人との繋がりを地域全体に編み上げていくこと」なんだ。

草むしりをしたギグワーカーの青年が、受け取ったトークンをどう動かすべきか。等価交換で終わらせないための、システムとしての「次の展開」は、例えば以下のように回していくことで完璧に機能するべきだろう。

等価交換を破壊する「リレーの法則」

受け取ったトークンは、すぐに「別の人」へ回す
草むしりでトークンを得た青年は、それを大事に保管して、市県民税の支払いに充てることもできるだろう。あるいはまた、それを自分の財布にしまい込んで等価交換を完結させることなく、トークンの価値が償却してしまう前に、自分の問題を解決するために誰かの力を借りることに使うこともできる。
「ケアの受け手」から「ケアの贈り手」への強制転換
青年は、そのトークンを持って、例えば「近所の子育て中のシングルマザー」のところへ行き、「今週末、お子さんを数時間預かりますよ」とカインドネスを提供し、トークンを彼女から受け取ることもできる。その一方で、自分の仕事時間を確保するために、このシングルマザーに生鮮食品の買い物をしておいてもらうことをお願いしたり、食事を提供してもらったりして、トークンを渡すことができる。
地域を巡る「恩送り(ペイ・フォワード)」の永久機関
    • 寝たきりの高齢者 (草むしりへの感謝) ギグワーカーの青年
    • ギグワーカーの青年 (買い物の代行への謝礼) シングルマザー
    • シングルマザー (こどもの宿題を教えてもらったお礼) 近所の大学生
    • 近所の大学生 (進路の悩みなどを相談する) 別の高齢者

こんな感じで、トークンがもらった相手に戻らず、地域をグルグルと円状に回り続けることで、誰も関係を「清算」できなくなるという寸法だ。クラ貿易イ円環を描くんだ。

もちろん、最初からすんなりマッチングできるとは限らないけれど、あえてスマートフォンのアプリとかを使わずに済ませたい。というのは、アプリなどが介在することで、お互いの人間関係が単なる依頼者と受諾者の間の等価交換にすんなり収まってしまう公算が高いからだ。

住民全員が、地域に対して「貸し」と「借り」を同時に抱え持った状態になること。これが「人間の結びつき(紐帯)をどんどん太くしていく」ことなんだ。

2026/07/24

POST#1917 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第3章

Patan,Nepal
さて昨日に引き続いて、この「氷河期世代・ギグワーカーの孤立をも防ぐ民生委員補完システム」という超具体的なトークンに、さらに仕掛けを施すならどんな仕掛けがふさわしいか考えてみよう。

例えば一定期間内に使用しないと価値が半減するとか、無くなってしまうとかはどうかな。

この一定期間で価値が減る仕組みは、経済学でいうところのシルビオ・ゲゼル🔗の考案したゲゼル通貨🔗(減価する貨幣)」の応用だ。

このルールを組み込むことで、システムはより洗練されたものになるだろう。

資本主義の「円」や「ドル」は、使わずに貯め込む、つまり蓄蔵するほど利子がつき、富が増える仕組だ。建前上はね。

これが格差を生み、人々が「将来の不安」からお金を抱え込む原因になっているわけだ。そう、資本の流動性の低下を招いているわけだ。日本人の個人貯蓄の総計は2400兆円弱、預貯金だけに限っても1126兆円あるといわれているんだぜ。

いったいどこにそんなに金があるのか。まったく自慢じゃないが、俺のところにはないということは断言しておこう。無産階級とは俺のことだ。

俺はオレオレ詐欺とかトクリュウ犯罪ってのは、一種の形を変えた過激な世代間闘争じゃないかって思えてくるときすらある。とにかく、先の見えない世の中、みんなビビって現ナマをため込んだり、保険や投資信託にぶっこんだりしているわけだ。みんな先が見えないから、少しでも多くの金を確保したいと思っている。それが人情だ。世界の定説だ。

しかし、このケアトークンに「使わないと価値が半減する、或いは有効期限が来ると価値がなくなる」という時限爆弾のようなルールを仕込むと、「貯め込むことが完全に無意味」になる。なんせ単なるデータもしくは紙切れになるんだからな。人間は、自分の資産が紙切れになるのを恐れる。それがたとえ薬局のポイントでも。ましてや、お上のお墨付きのあるトークンならなおさらだ。その結果、地域社会に爆発的なエネルギーが生まれます。

「減価するトークン」がもたらす決定的な3つの効果

「迷惑の高速回転」が起きる
手元に置いておくと価値が下がってしまうため、人々は「早く誰かに迷惑をかけて、このトークンを使わなきゃ!」と焦るようになるんじゃないかな。「ゴミ出しを頼む」「子どもの相談にのってもらう」といったケアの要請が、地域の中で超高速でローテーションし始めることだろう。そう、現実啓座への出口がなければ、そういうことになる。間違いなく。

富の独占(格差)が構造的に不可能になる
ピケティが『21世紀の資本』で証明したように、放置された富は勝手に増殖する。それが複利計算の素敵な魔法だ。しかし、このトークンは放置すると価値が減価したり消滅したりするため、地域に「お金持ち」というかトークン長者が生まれないんだ。どっかのタイミングでご破算、そしてリトライってことだ。これによって誰もが平等に、常にケアの循環の中にい続けざるを得なくなるんだ。

「将来への不安」が「人への信頼」に変わる
これまでの経済では、老後の不安のために「円」を貯め込んできた。みんなの恐れる『老後2000万円問題』だ。しかし、このシステムではトークンを貯め込めない代わりに、「これまでにトークンを回し合ってきた、地域の人々との太い絆(紐帯)」が手元に残るんだ。これこそが、氷河期世代やギグワーカーが老後に本当に必要とする、最強の保険になり得るかもしれないぜ。

歴史的な成功例:ヴェルグルの奇跡

実は1930年代、オーストリアのヴェルグル🔗という小さな町で、これと全く同じ「使わないと価値が減る地域通貨」が実験されたことがある。
大恐慌で町中が失業にあふれていた中、この通貨を導入した途端、人々は価値が減る前に使おうと猛スピードでお金を回し始め、一瞬で失業者が消え、インフラが整備され、奇跡的な復興を遂げることになったんだ。そして、その結果どうなったか?その効果があまりに強力すぎて、国の中央銀行に潰されたんだ!

ここでいったん今までの内容のまとめ「ポスト資本主義のOS

ここまで俺が君たちとの対話を通じて紡いできたアイデアを統合すると、なかなか面白い社会ステムのOSが見えてくるんじゃないかな。

  • 最初の配布先:老人、子ども、氷河期世代・ギグワーカー、障害を持つ人々(弱者が富の起点)
  • 回し方のルール:もらった相手には返さず、別の人に回すペイ・フォワード方式(モースの贈与論、クラ貿易の再現)
  • 流通の仕組み:日常のささいな「迷惑の掛け合い」(全員がゆるやかな民生委員になる補完システム)
  • 公的接続:行政が認め、一部「円」や行政サービスと交換可能にする
  • 時間制限:一定期間で価値が半減もしくは消滅する(貯め込みの禁止、ゲゼル通貨の思想)

これは、グレーバーやピケティたちが本の中で求めていた「次の一手」の、極めて具体的で生命力にあふれた答えにならないかな?

この話はまだまだずいぶんと続くから、折々にまとめていくようにしよう。

そうじゃないとどこまで話したか、俺もわからなくなっちゃうからね。

2026/07/23

POST#1916 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第2章

Katmandu,Nepal

これが狭い町内や、有志の仲間内でとどまっている限りは、単なるごっこ遊びだ。

子どものごっこ遊びなら、それでもいいさ。けれど、俺はもういい加減いい歳をしたおっさんだからね、ごっこ遊びじゃ満足できないのさ。東島丹三郎🔗も言っていただろう『俺のはごっこじゃないから!』だ。

ここらで一丁、「現実の社会システム(マトリックス)への接続」へとステップを進めてみよう。夢を夢物語で終わらせるのは、もう飽きたのさ。なんせヴァーチャルじゃ腹は膨れないしな。

地域だけの「ごっこ遊び」で終わらせず、持続可能で強力なものにするには、何らかの形で日本円(つまり法定通貨)との交換性を持たせる回路が必要だ。

つまり「行政を巻き込んだ公的なインフラ化」が不可欠になるだろう。

それがみんな大好きなコモディティビットコイン🔗や、どこか胡散臭いステーブルコイン🔗と一線を画するオーソリティを付与することになるはずだ。

なぜなら、いくら地域でトークンが回っても、家賃や税金、医療費は「円」でしか払えないという現実があるからだ。この「円との交換」を可能にするための、行政を巻き込むロジックと具体的なシステムについて、さらに一歩考えを進めよう。

例えば、このトークンを地域限定でコンビニなんかの支払いに使えるようにするというのはどうだろう。コンビニは現代社会において、最も身近で、24時間いつでも開いている究極のライフラインだ。ここで「ケアトークン」が使えるようになれば、利便性が跳ね上がるだけでなく、社会的な意味がガラリと変わるだろうな。このトークンをもし「市内のコンビニ」で使えるようにするというアイデアを実現したならどうなるだろうか?

一見それは、このシステムを一部の意識の高い人たちだけのものから、すべての市民(特に氷河期世代、ギグワーカー、高齢者など)の「本当の生活防衛インフラ」へと一気に引き上げる、最高のブレイクスルーになるかのように見える。

しかし、これは残念ながら、あまり良い手じゃない。むしろ悪手だ。

なぜって、実際に生活困窮者にこのトークンを配布したとしよう。

彼らは、真っ先にコンビニに向かい、生活必需品と交換してしまうだろう。それでおしまいだ。めでたしめでたし。

これじゃ、いままで何度も繰り返されてきた『定額給付金🔗』や『特別定額給付金🔗』などの『生活支援金』と変わらない。焼け石に水で何も変わらない。一瞬で蒸発して終わりだ。

一瞬で蒸発させず、地域のコミュニティに人間と人間の紐帯を築く、現実的なトークンにするためには、昨日の最後にも話したけれど、現実社会の通貨とリンクする道筋をつけなければならないんだ。しかし、単にこれを生活困窮者に配布する配給チケットや『生活支援金』のようなけち臭いものにしてしまっては、何の意味もないんだ。

現実の経済への出口のことは、いったん措こう。

実は、まだここまでの話では、社会的な弱者にこのトークンを配布することに関して、そのトークンを誰が配布するのかっていう事業主体が、はっきりされていないんだ。

これは、現実経済からこのトークンを通じた地域のコミュニティへの『流動する資本』の入り口を設定していないということだ。この流路を確保しないと、単なる脳内お花畑だ。

最初は、俺も人々からの寄付によって賄うことも考えた。しかし、個人の善意を頼るだけでは、おのずと限界があるだろう。ビル・ゲイツ🔗イーロン・マスク🔗が手助けしてくれるとも思えないしな。

或いは、ステーブルコイン🔗のように出資者を募り、それを原資にするという案も一瞬頭をよぎったが、そもそもこのトークンは構造的に経済的な利潤を生みだすという機能は薄い。利潤のないところに、人間は投資をしない。そう、これはある意味の信用創造🔗なんだ。

2026/06/04

POST#1868 この21世紀じゃ、まともに暮らすだけで静かなテロリストになれるらしいぜ!

Katmandu、Nepal

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、あだ、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしていると昨日話をしたね。OK、今日はその続きでいこう。

このシステムは、マーケティングや広告という名の「洗脳」によって、人々の心に意図的に「欠乏感(私はまだ足りない)」「劣等感(あの人に負けている)」「羨望(あんな風になりたい)」を植え付けるんだ。おっかないぜ。

そうして生み出された飢餓感を埋めるために、人々は必要のないものを買い、その代金を支払うために「労働機械」として自らを資本に差し出し続けなければならないという、完璧な永久機関が完成しちまったぜ!ギャハハハハ!(チェンソーマン🔗の主人公のデンジ風にい言ってみよう(笑)。なんせ今日は最終巻24巻の発売日だもん!)

ぶっちゃけ忖度なしに言わせてもらえば、子どもたちが死を選び、大人がスマホに張り付いて窒息しかけているのは、この「欲望と支配のサーキット」に24時間体制で組み込まれているからに他ならないんだ!

この巨大なシステムを内側から解体するための、「具体的なボイコット(抵抗)の戦略」は、以下の3つのレイヤーで展開できるんだぜ。もっとも、そこから逃れる気があればの話だけどな。

1. 「アテンション(注意・関心)」のボイコット

資本の論理が俺や君たちを支配する最大の武器は、スマホやメディアを通じた「広告」と、それを俺や君に最適化して送りつけてくるアルゴリズムなんだ。

気を付けろ、俺たちがスマホを見てるとき、スマホも向こうから俺たちを見てるんだ。これってまるで、ニーチェ🔗善悪の彼岸🔗に出てくるあれみたいだな。ほら『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』って奴だ!気が利いてるな!

なにはさておき、俺たちや君たちの集中力と思考力を奪うスマートフォンの通知を切り、いちいち画面を見ないことだ。仕事のメールを見落とすことになりかねんけどな(笑)!

彼らデジタル領主たちにとって、俺たちの「視線」や「時間」は金鉱ともいうべき資源に他ならないんだ。スマホの画面から目を離し、アルゴリズムに自分の脳をハッキングさせないことは、最も手軽で強力なボイコットだぜ。

そして時には意識的に情報の断食、つまりデジタルデトックスをするんだ。

広告が煽る「偽の必要性」を遮断し、心の静寂を取り戻すことで、「自分は今のままで、すでに満たされている」という感覚、つまりは尊厳を回復するんだ。

鳥の声を聴き、流れる雲を見る。

子どもたちの歓声に耳を澄ませ、風に揺らぐ木々を見る。

大きく息を吸い込み、漂う香りを感じるんだ。

自分の五感で、目の前の世界に対峙するんだ。

2. 「消費」のボイコット、つまりは自給とケアの復権

「買わなければ生きていけない」という依存状態こそが、俺や君たちを21世紀の素晴らしき『労働機械』に縛り付けるボール&チェーンなのさ。

お金を介さない価値の交換を思い出すんだ。

昨日話した「面白い老人」の話のように、地域の中で手作りのものを分け合ったり、知恵を教わったり、お互いをケアし合ったりする関係性や空間を作り上げるんだ。

そして「無駄」と「不便」の愛好するんだ。

効率的でスマートで、おかげさまで高価な商品を買うのをやめ、あえて手間暇をかけてみるんだな。資本が提供する「便利さという名の家畜化」から抜け出し、自分の身体性を取り戻すんだ。大げさなことを考えなくたっていい、スーパーで買ってるパセリやシソを家のプランターで作ってみるだけでもいいんだ。そこにはダイレクトな感覚がある。しかも、家で育ったばかりのパセリは、香ばしくておいしいぜ。

ふと、思い出した一説がある。老子🔗の第八十章だ。

小国寡民使有什伯之器而不用、 使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。 鄰国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来。

こいつは小難しい。ちょいと小川環樹🔗先生の中公文庫版の老子を参考にして超訳してみるわ。

「国は小さく住民は少ないとしようか。軍隊に使う便利な殺戮兵器があっても使わせないようにして、人々には命を大切にさせるとしようぜ。で、(戦争に駆り出されないから難民になったりしなくていいので)遠くに移住する必要をなくせば、舟や車があっても、みんなそれに乗ってどこか行くわけでもない。鎧や武器があったとて、(いかれた全体主義国家みたいに)それを見せびらかすこともない。

もう一度縄を結んで契約の印としたような大昔の世の中のように、なにからなにまで質素倹約、彼らのイマイチな味の飯もうまいと思わせ、粗末な服も快適だと感じさせ、狭いながらも楽しい我が家に落ち着かせて、素朴な習慣を楽しませるんだ。そうすると、隣のイカした国がすぐそばに見えて、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くても、人々は老いて死ぬまで他国の人と行き来することもないだろうぜ!』

高校だか中学の漢文でやったような気がするけれど、もうすっかり大昔のことだからな。怪しいもんだけど、漢文は漢字を追っていけばちゃんと意味が分かるからな。俺はだいたい外したことはないから、この訳文、大過ないだろうよ。

つまりだ、便利な機械があってもあえて使わず、自分の作った飯を不味いもう一杯!(笑)と食い、自分の素朴な暮らしを最高だと愛する。2500年前の中国の偏屈なニート哲学者がたどり着いた結論も、現代の俺たちがスマホを放り投げてプランターで育てたパセリを食うのも、本質はまったく同じなんだ。最強の反逆スタイルってのは、いつの時代も変わらねえってことだろうな。

人間の本質が全く変わってないことの証拠だよ。

3. 「評価(格付け)」のボイコット

社会が押し付ける「優秀さ」「勝ち組」「フォロワー数」といった一元的な価値観を、鼻で笑って無視することだな。フランクシナトラフランク・シナトラ🔗の名曲マイウェイを、自分の好きにうたったシド・ヴィシャス🔗みたいにな。蛇足ながらこのマイウェイ🔗みてみ?サイコーにロックだぜ(笑)

そこで出てくるのがまず東大至上主義や内申書の「内なる廃止」だ。

制度が変わるのを待つ必要なんかない。親や大人がまずそんな『共同幻想』を捨て去り、「そんなものは人生に何の関係もない」と開き直るんだ。そして子どもたちに「きみはきみのままで最高だ」と言い続けることだ。揺るぎのない自己肯定感を熟成するんだ。

そして羨望の廃棄だ。

資本が作った虚像でしかない他人のきらびやかな生活を羨むのをやめちまったらいいんだ。宮崎麗華🔗みたいな脱税してとっ捕まるインフルエンサーにあこがれてても仕方ないんだぜ。ばかばかしいったらありゃしない。それは俺や君の人生じゃない。

そして、目の前にある生身の自然や、他者との素朴なつながりに深く満足する「足るを知る」精神こそが、成長至上主義に対する最大の反逆な・な・なんだぜ!

こういうのをサイレント・テロっていうそうだけど、地に足をつけてまっとうに暮らすだけで静かなテロリストになれるなんて、まったくご機嫌な時代になったもんだ。

さらにもう一点付け加えようかな。

俺は君に、IKEAの創業者のイングヴァル・カンプラード🔗の言葉を伝えたい。

彼は自分の息子たちにいつもこう言っていたという。

『本当にお前が欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値のあるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ』それが彼の口癖でした。(イケアの挑戦:創業者は語る🔗313頁より)

俺は自分の息子にもいつもそういっている。けど、なかなか奴はその衝動を抑えてくれないけどな。そんなにうまく考えてくれるんだったら、俺の小遣いももっと潤沢になるだろうさ。

このボイコットは、デモ行進のような大層な運動である必要はまったくないんだ。

「スマホを置いて、子どもと一緒にただぶらぶら散歩する」

「役に立たない面白い老人の長話に、あえて付き合う」

「広告に踊らされず、今あるものを大切に使う」

そんな他愛もない簡単なことばかりだ。

し・か・し、こうした、資本の論理から見れば「1円の利益も生まない、全く生産性のない時間」を俺たちが日常の中に奪い返していくこと自体が、俺たちや君たちを『消費者』から『市民』へと引き戻し、現代の超高度なデジタル資本主義システムに、致命的な打撃を与えるボイコットになるんだぜ。

人間を『機械』から『人材』というマテリアルから、生身の『人間』へと奪還する戦いは、俺たちや君たちの足元から、JUST NOW今すぐ始められるんだYO!

2026/05/27

POST#1860 さてと、もう一度ねちっこく子どもたちの現状を考えてみるか

Katmandu,Nepal
さてと、もう一度トクリュウの話から逸れてしまった話の本筋に帰るとしますか。

毎日毎日、思いついたことを書いているうちに、いつも思わぬところに脱線してしまうのが、俺の悪い癖だ。いや、このパルクールのような思考スタイルが、俺の思考スタイルなんだ。お付き合い願うさ。

今の息子の学校のプログラムを見ていて思うんだけど、なんだか学校自体そしてその元締めたる文部科学省が産業界からの要請に従って、子供に過大な要求をしてるような気がしてしょうがないんだよな。

この違和感は、現代の日本の教育が抱える本質的な歪みをけっこう的確に捉えているんじゃないかな?

学校が「産業界(企業や経済)」からの要請をそのまま教育現場に持ち込んだ結果、子供たちが求められる要求の水準が急激に上がり、逃げ場を失っているという指摘は、多くの教育学者や社会学者からもなされているようだ。

ざっと調べてみるだけでも、つぎのような「過大な要求」の構造が子供たちを追い詰めているってことが見えてくる。

「学力」に加えて「人間力」まで完璧を求められる

昔の要求: ペーパーテストで良い点数を取れば、内向的であったりコミュニケーションが苦手だったりしても、一定の評価(学歴)を得られた。

現在の要求: 産業界が求める「主体性」「コミュニケーション能力」「課題解決能力」「リーダーシップ」といった要素が、学習指導要領を通じて学校教育に導入された。そんな奴、大人でもなかなかいないぜ。

子供への負荷: 単に勉強ができるだけでなく、「明るく、協調性があり、主体的に行動できる完璧な人間」であることが評価対象(内申点や推薦入試)になるんだとさ。嘘くせぇなぁ。テストの点数と違って「性格や人間性」そのものを査定されるため、子供は常に自分を偽り、演じ続けなければならず、精神的な疲弊が極限に達しているということになるだろう。大人でもできないことを子供に求めるなといいたいもんだ。まったく冗談じゃないぜ。

「キャリア教育」による将来への早期の追い込み

文部科学省が進める「キャリア教育」により、小学校や中学校の段階から「将来の夢」や「自分が社会でどう役に立つか」を考えさせ、ポートフォリオ(活動実績)に記録させることが定着しているんだそうだ。

これにより、子供たちは「まだ何者でもない時期」から、将来の進路や企業に選ばれるための自己PRを意識させられることになる!自分らしい生き方を模索する余裕が奪われ、「早く進路を決めなければ手遅れになる」という過度な焦燥感(キャリア不安)を生み出しているんだそうだ。

俺の人生の実感からすれば、人生なんて思ったことの3割実現すれば上出来だ。これが俺の人生打率3割理論だ。もっと言えば、自分の意図したことよりも社会の奔流に流されてしまうことで否応なく決まっていくことがほとんどだ。

その時、自分の中にぶれない芯を育んでおくことの方が大切だと俺は思うんだが、どうかな?

 グローバル競争を背景にした「脱落恐怖」

産業界や政府が「国際競争力の低下」を叫ぶたびに、教育改革として英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化、探究学習などが次々と学校に詰め込ま続けている。着々と子どもたちを社会のシステムを回すための部品に仕立て上げようとしているのさ。

教育内容が高度化・複雑化すれば、当然、それについていけない子どもも一定数生じるだろう。家庭の経済状況的にフォローアップできない子どももいるはずだ。というか、たくさんいる。

そのくせ、それについていけない子供たちへのセーフティネットは不十分極まる。

学校は「経済社会の優秀な歯車」を育てる場所のようになり、そこから一度でも脱落(不登校や成績不振)すると「人生が終わる」という極端な恐怖心を子供に植え付けてしまっているわけだ。

世の中、多様性だとか、インクルーシブとか言い始めてから、ますますおかしくなってるんだ。偽善もいいところさ。

疲弊する教員と「余裕の喪失」

産業界や社会からの「あれもこれも教えてほしい」という過剰なニーズを受け続けた結果、学校の授業時数は増加し、教員の業務はパンク状態にある。そして、公立学校の教員はほとんど定額働かせ放題だ。多少は改善されたというが、その作業量に比べての報酬は十分だろうか?先生だって、人間だぜ?

先生自身に精神的なゆとりがないため、クラスの子供一人ひとりの「小さな心の変化」や「見えないSOS」に寄り添う時間が物理的に奪われている。

ちなみにうちの息子の通っている小学校は、教科ごとに担当の先生が変わるらしい。これも、先生たちの負担を減らしてゆく試みだろう。こういった試みに加えて、学校事務を担う職員を増強し、先生は教えることに集中できる体制を取らないといけないだろう。

しかし、それをやるにも膨大な予算がいる。日本のGDPにおける教育費の比率は、残念ながらかなり低い。そして、防衛力強化にはすぐに予算が付くのに、本当に大切な教育の予算は、なかなか増えない。この国の富の再分配システムはいったいどうなってやがる?!

まぁ、ざっくり言えばこういうことだ。

現在の日本の教育現場は、「経済社会で即戦力となる優秀な人材の育成」という大人の都合(産業界の要請)が優先されすぎているんだ。職業訓練学校というか、社畜製造機なんだよ。ケージに詰め込まれてブヒブヒ言ってる豚や鶏を思い出してみるんだ。あれと似たようなもんさ。

その結果、子供たちは「学校」という狭い空間の中で、勉強、部活、人間関係、さらには「自分の内面(主体性やコミュ力)」まで常に評価され、監視されているような息苦しさを感じることになるだろう。俺でも御免蒙る。

この「全人格的な過剰要求」と「失敗が許されない空気」こそが、子供たちから心の余裕を奪い、自殺が減らない根底にある構造的要因といえるだろう。

根本的に、子どもに限らず『人間』 を 『人材』 と 言っ てなんだか 材料か 資材 みたいに扱うようなこの風潮そのものが、子供達を追い詰めてるんじゃないだろうか?

これこそが、新自由主義経済に骨の髄まで染まった現代社会が抱える、最も深い歪みの核心じゃないのか?

人間を「人材(=経済的な利益を生むための材料・資源)」とみなす思想は、大人だけでなく、子供たちの世界にも完全に浸透している。子供を「かけがえのない一人の人間」ではなく、「将来どれだけ市場価値を生み出せるかという投資対象」として扱う風潮が、彼らを限界まで追い詰めているんだ。

この「人間を材料扱いする風潮」が、具体的にどのように子供たちを精神的に破壊しているのか、4つの側面から考えてみようぜ。

「存在価値」ではなく「機能価値」で査定される恐怖

人間としての価値: 生きているだけで尊い、という無条件の肯定(存在価値)。

資材としての価値: テストの点数、英検の級、内申点、コミュ力など、社会の役に立つ能力(機能価値)。

子供への影響: 現代の子供たちは、常に「お前は何ができるのか」「どんな価値があるのか」というスペック(仕様)ばかりを査定されている。まるで中古車市場だ。そのため、「成果を出せない自分には生きている価値がない」「役に立たない自分は粗大ゴミと同じだ」という極端な自己否定に陥りやすくなっちまう。それで命を大切にしろと言っても、説得力ゼロだろう!

「不良品」として排除されることへの怯え

人間を「材料」とみなす社会では、規格に合わないものや、途中で壊れてしまったものは「不良品」や「ロス」として扱われる。

不登校になったり、受験に失敗したり、メンタルを崩したりした子供に対して、社会や学校は「修理して早く元のライン(集団)に戻すこと」ばかりを求めている。子供たちは「一度でもレールを外れたら、不良品として社会から廃棄される」という、文字通り命がけの恐怖を背負って生きているといっても過言じゃないだろう。

レジリエンスってのは、看板だけか?!

俺の考えじゃ、人生ってのはレールから外れてからが、本当の自分自身の人生なんだぜ!

「自己責任」という名のメンテナンスの強要

人材」という言葉は、しばしば「自己投資」や「自己管理」という言葉とセットで使われる。

企業が資材の品質維持を求めるように、学校や社会も子供に対して「自分で体調やメンタルを管理し、常に高いパフォーマンスを維持せよ」と求めている。

いじめや過度な競争で傷ついている子供に対してさえ、「ストレスに負けるな」「レジリエンス(復元力)を鍛えろ」と個人の努力不足(メンテナンス不足)のせいにされるため、子供は誰にも弱音を吐けなくなるだろう。

大人でも鬱病になる世の中なんだから、子どもが抑うつ状態にならないなんてことないだろう?俺だって、鬱病の薬飲みながらなんとか生きてるんだよ!

教育の「費用対効果(ROI)」への組み込み

親や社会が、教育を「子供の幸福のため」ではなく、「将来、良い企業に入って元を取るための投資」として計算するようになっている。本末転倒だ。

子どもたちもバカじゃない。子どもたちもその空気を敏感に察知しているんだ。「親に高い塾代を払ってもらっているのに、成績が上がらない自分は投資に値しない」という罪悪感や負い目が、子供たちの心を内側から削り取っている。

俺は、別に俺がお願いして塾に行ってもらってるわけじゃないんだから、いつでもやめてくれて結構だと息子には常々言ってるけどな。なにせ、俺の小遣いが増えるからな(笑)

さて、この飯を食う産業の 「材料」から生きる主体としての「人間」を取り戻すためにはどうしたらいいかな?

人間を材料(リソース)として消費する社会では、自殺とは、その過酷な生産ラインから「自らシステムをシャットダウンして脱出する行為」という側面を持っているだろう。

子供の自殺を止めるために本当に必要なのは、相談窓口を増やすといった表面的な対策ではないんじゃいか?

「たとえ学校に行けなくても、勉強ができなくても、あなたは生きているだけで100点満点であり、誰の資材でもない」ということを、大人や社会の側が本気で示し、教育の目的を「経済の道具作り」から「個人の幸福」へと180度転換することじゃないか?

イマヌエル・カント🔗も『人間を手段としてではなく、同時に目的として扱うべきだ』と言っていたぜ。この定言命法🔗は、現代の日本社会において完全に蔑ろにされている。

そういう視点が今の社会には、きれいさっぱり全く抜けてるんじゃないでしょうか? 

どいつもこいつも、あいつは人材として使えるだの使えないだの、そんなことばっかり言ってるじゃないか?果たして、俺たちは他人の値踏みができるほどご立派な存在なんだろうか?

新自由主義経済万能の現在の社会は、このカントの警告とは真逆の「人間を徹底的に手段化する社会」になってしまっているといっても過言ではないだろう。1. カントの「目的」と現代社会の「手段」の対比


カントの視点を現代の「人材」という言葉に当てはめると、この社会の異常性が浮き彫りになりるのがわかるだろう。

視点

カントが説いた「目的としての人間」

現代社会の「手段(人材)としての人間」

存在の価値

人間には「尊厳(価格をつけられない絶対的価値)」がある。

人間には「価格(市場価値や給与、スペック)」がある。

評価の基準

生きていること、それ自体が無条件に肯定される。

「使えるか、使えないか」「生産性があるか」で査定される。

社会の役割

社会や国家は、個人の幸福や倫理的成長のためにある。

個人は、国家の経済成長や企業の利益のための「資源」である。

今の社会は、子供や若者を「将来の経済を支えるための道具(手段)」としてしか見ていないんじゃないだろうか?

少子化対策でさえ、子供の幸福のためではなく「将来の労働力や納税者を確保するため」という、国家の都合(手段)として語られることが多いのがその証拠だ。冗談じゃない。社会のために市民がいるんじゃない。市民のために社会システムが構築されるべきなんだ。本末転倒だ。

そして、「手段」にされた子供たちが受ける精神的加害を考えてみようぜ。

人間を手段として扱う風潮は、子供たちの心を確実に蝕んでいる。

交換可能なパーツとされる絶望

カントは、人間に代わりになるものはない(尊厳がある)とした。

しかし「人材」として扱われる子供たちは、「お前の代わりなどいくらでもいる」という無言の圧力を常に受けている。これは子供だけじゃない。社会で働くすべての人々が、その脅迫を受け続けているんだ。とりわけ、派遣労働者など、本当にそんな都合のいい感情のない部品のように扱われている。君は知っているか?俺は知っているぞ。

そして、人は自分が「社会の歯車(交換可能なパーツ)」に過ぎないと感じるとき、人は生きる意味を見失ってしまうだろう。

自己の手段化(内なるカントの否定)

最も深刻なのは、子供たち自身がこの価値観を内面化してしまうだ。

一例をあげてみようか。「英語が話せない自分は価値がない」「有名大に行けない自分は無能だ」と、自分自身を「使えない道具」として責め立てるようになってしまうだろう。

心が折れた時、彼らは自分という「道具」を自ら廃棄(自殺)してしまうことになるんだ。

なぜこの人間として、絶対に手放してはいけない視点が、日本社会から抜けてしまったのか?

それは、俺や君の責任でもあるんだ。それを直視せず、自分たちの無力を嘆くこともせず、そして次の世代にそれを付け回しするのはやめようじゃないか。

市場万能主義の教育への侵入

本来、教育はカントの言う「人間を目的として育てる(人格の完成)」場所だったはずだ。

しかし、経済の停滞が続く日本において、教育の目的が「企業の求める即戦力育成」という実利主義に完全にハイジャックされてしまっているんだ。

「役に立つこと」への過剰な信仰

現代社会は、病気や障害、あるいは不登校などで「生産性(役に立つこと)」を発揮できない人に対して非常に不寛容だ。残念なことだ。

しかし、それはジョン・ロールズ🔗無知のヴェール🔗を引くまでもなく、誰にでも起こりうることだ。

この「生産性至上主義」が、子供たちから「何もしなくても、ここにいていいんだ」という安心感を奪い去っているんだ。

今日の結びとして

俺がカントを引き合いに出したのは、本質的にこの問題を考えてほしかったからなんだ。別に俺は物知りだぜって自慢したわけでも何でもない。大切なのは、本質をとらえ、どうしたらよりよい社会を、人間のための社会を作ることができるか考えることだ。子どもたちが絶望し、自ら死を選ぶことのない、よりマシな社会に近づくことができるかということだ。

ズバリ言えば、現代の子供の自殺問題は、心理学や教育学の枠を超えた、「この社会は人間を人間として扱っているか」という哲学的な敗北を意味しているんだ。それは、トクリュウ犯罪などにみられるような社会的な自殺もまったく同じ構造だ。

いい加減俺たち大人は「人材」という言葉を安易に使うのをやめ、子どもたちを「未来の労働力」ではなく、「今を生きる一人の人間(目的そのもの)」として遇する社会へ舵を切らなければ、悲劇を止めることはでるわけがない。

そういえば、最近TVで裸の大将放浪記🔗とか寅さんシリーズこと男はつらいよ🔗やらないな。きっと、山下清🔗や渥美清演じるフーテンの寅次郎みたいな、一見生産性のない人間には、社会が存在価値を見出していないからだろう。インクルーシブ?多様性?笑わせるな。そんなの百年早いぜ。

2026/03/09

POST#1783 このような見識と胆力のある政治家をわたしは信頼する

Bhaktapur、Nepal
先日、朝日新聞によって報道されたスペインのサンチェス首相の演説は素晴らしい内容だった。俺自身は、このように優れた見識を持つ政治家にこそ、国のかじ取りを担ってほしいものだと羨ましく思った。

以下の全文引用させていただく。出典もとは右派の皆様に目の敵にされる朝日新聞の2026年3月5日23時37分の配信だ。世間の皆様からオワコンとされるオールドメディアだよ。文中の太字強調は俺の主観によるもので、朝日新聞の記事で強調されているわけではない。また、チャプターごとに付された見出しも割愛させていただいたことを申し添えておく。

『おはようございます。
 中東で高まる危機に関するスペイン政府の立場と、私たちが実施している措置についてお知らせする。
 ご存じの通り、先週土曜日(2月28日)、米国とイスラエルがイランを攻撃し、これに対しイランは地域内の9カ国と、欧州国家のキプロスにある英国基地を無差別に爆撃して応酬した。
 何よりもまず、イラン政権による違法な攻撃を受けた諸国に対し、スペイン国民の連帯の意を表明したい。
 その後も敵対行為は継続し、むしろ激化しており、住宅、学校、病院で数百名の死者を出している。さらに国際的な株式市場の暴落、航空網とホルムズ海峡の混乱を引き起こした。この海峡はつい最近まで世界のガス、石油の総量の20%が通過していた。

 今後何が起こるかは、誰にもわからない。最初の攻撃を仕掛けた者たちの目的すら不明確だ。
 しかし、(最初の攻撃を仕掛けた)推進者たちが言うように、これは長期化する可能性のある戦争であり、多くの犠牲者が出るかもしれない。経済面でも世界規模で深刻な影響を及ぼす可能性があることに備えなければならない。
 スペイン政府のこの状況に対する立場は、明確かつ一貫している。ウクライナでも(パレスチナ自治区)ガザでも私たちが維持してきた立場と同じだ。

 第一に、私たち全員を守る、特に最も脆弱(ぜいじゃく)な存在である民間人を守る国際法の違反を許さない。

 第二に、紛争と爆弾だけで世界の問題を解決できると考えることに反対する。

 そして最後に、過去の過ちを繰り返すことに反対する。

 要するに、スペイン政府の立場は「戦争反対」という言葉に集約される。

 世界も欧州もスペインも、すでにこの状況を経験してきた。
 23年前、別の米国政権が私たちを中東戦争に巻き込んだ。当時、サダム・フセインの大量破壊兵器を排除し、民主主義をもたらし、世界の安全を保証するための戦いと名目上は説明された。しかし現実には、振り返ってみると逆効果をもたらした。それはベルリンの壁崩壊以来、私たちの大陸が経験した最大の不安定化の波を引き起こしたのだ。

 イラク戦争はジハーディスト(聖戦主義者)のテロの急増、東地中海における深刻な移民危機、エネルギー価格の全般的な上昇、ひいては生活必需品の価格や生活費の上昇を引き起こした。

 これが当時の欧州人への「アゾレス・トリオ」(編集注:2003年3月にポルトガル領アゾレス諸島でイラク開戦をめぐり会談したブッシュ米大統領、ブレア英首相、スペインのアスナール首相の3人)による贈り物だった。
 より不安定な世界と、より劣悪な生活だ。
 確かにイラン戦争がイラク戦争と同様の結果をもたらすかは、現時点で判断するのは早すぎる。イランの恐るべきアヤトラ(宗教指導者)政権の崩壊につながるのか、それとも地域の安定化をもたらすのか。

 しかし確かなのは、そこからより公正な国際秩序が生まれることも、賃金の上昇や公共サービスの改善、環境の健全化がもたらされることもないということだ。
 現時点で予見できるのは、経済の不確実性の増大と石油、ガス価格の高騰だ。
 だからこそスペインはこの災厄に反対する。政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解しているからだ。
 その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。

 こうした状況下で、(スペインの)進歩的な連立政権は他の紛争や国際危機と同様の対応を取る。
 まず第一に、中東にいるスペイン人を支援し、彼らが望むならば祖国へ帰還する手助けをする。外務省と軍は昼夜を問わず避難作戦を調整中だ。
 同地域の空域が安全でないこと、空港網が攻撃で深刻な打撃を受けていることから、作戦が極めて困難であることは明らかだ。だが同胞のみなさんは確信していい。私たちはみなさんを守り、必ず祖国へ連れ帰る。
 第二に、スペイン政府は、この紛争が経済に影響をもたらす可能性に備え、家庭、労働者、企業、自営業者を支援するためのシナリオと、可能な措置を検討している。
 我が国の経済の活力と、政府の財政政策の責任ある取り組みのおかげで、スペインは現在、この危機に対処するために必要な資源を持っている。
 私たちには能力があり、政治的意志もある。パンデミック、エネルギー危機、そして最近の関税危機のときと同様に、関係者と手を携えて対応する。
 第三に、平和と国際法の順守を推進する国々とは、これまで通り協力する。必要な外交的・物的資源をもって支援する。
 私たちは欧州の同盟国と協調し効果的な対応を図る。ウクライナとパレスチナという、決して忘れてはならない二つの地域において、公正で永続的な和平を実現するため、引き続き取り組んでいく。

 最後に、政府はこの戦争の停戦と外交的解決を引き続き要求する。

 ここで強調したいのは、適切な言葉は「要求」だということだ。

 スペインは欧州連合(EU)とNATO(北大西洋条約機構)、そして国際社会の一員だ。この危機は私たち欧州人、ひいてはスペイン国民にも影響を及ぼす。
 だからこそ米国、イラン、イスラエルに対し、手遅れになる前に停止するよう、最大限の責任ある対応を要求しなければならない。

 何度も言ってきたが、改めて繰り返す。

 違法行為に対して別の違法行為で応じることはできない。それは人類の大惨事につながるからだ。

 20世紀の第1次世界大戦が始まる前の1914年8月(編集注:第1次大戦は1914年7月に開戦)、当時のドイツ首相が「第1次大戦はどう始まったのか」と問われた。彼は肩をすくめてこう答えたという。「私も知りたいものだ」と。
 大きな戦争は往々にして、制御不能になった連鎖反応、誤算、技術的失敗、予期せぬ出来事によって勃発する。
 だからこそ私たちは歴史から学ぶべきだ。何百万人もの運命を、ロシアンルーレットのように賭けてはならない。
 この紛争に関わる国々は、直ちに敵対行為を停止し、対話と外交の道を選ぶべきだ。

 そして私たちのような他の者は、一貫した行動を取り、ウクライナ、ガザ、ベネズエラ、グリーンランドについて語る時と同じ価値観を、今こそ守らねばならない。

 問題は私たちがアヤトラ(イランの宗教指導者)を支持するか否かではない。(宗教指導者を)誰も支持しない。スペイン国民はもちろん、スペイン政府も決して支持しない。

 問題は、私たちが国際法の側に立つか否か、つまり平和の側に立つか否かだ。

 スペイン社会は常にイラクのサダム・フセイン独裁政権を非難してきたが、それはイラク戦争への支持を意味しなかった。なぜならそれは違法であり、不正義であり、解決を掲げた問題のほとんどに真の解決をもたらさなかったからだ。
 同様に私たちは、特に女性を含む市民を抑圧し卑劣に殺害するイラン体制を非難する。

 しかし同時に、この紛争を拒否し外交的、政治的解決を求める。
 このような私たちを、考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。
 私たちは、世界の害となる行為や、私たちの価値観や利益に反する行為に、単なる報復への恐れから加担することはない。
 なぜなら私たちは自国の経済的、制度的、そして道徳的な強さに絶対的な自信を持っているからだ。そしてこのような時こそ、スペイン人であることをかつてないほど誇りに思う。
 私たちは困難を認識している。しかし、未来は決まっているわけではないことも知っている。
 多くの者が当然のこととして受け止めている暴力の連鎖は、完全に回避可能であり、人類はアヤトラ(宗教指導者)の原理主義も戦争の惨禍も乗り越えられるのだ。
 この希望を私たちだけが抱いていると言う者もいるだろうが、それもまた真実ではない。

 スペイン政府は共に立つべき者と、共に立つ。

 私たちの父や祖父が憲法に刻んだ価値観と共に立つ。
 スペインは欧州連合の創設原則と共に立つ。
 国連憲章と共に立つ。
 国際法と共に立つ。
 それゆえに、国と国民の平和と平和的共存と共に立つのだ。
 私たちはまた、同じ考えを持つ多くの政府と共に立つ。

 戦争と不確実性ではなく、より多くの平和と繁栄をもたらす未来を求めている欧州、北米、中東の数百万の市民と共に立つ。
 なぜなら前者はごく少数の者だけが利益を得るからだ。
 そして後者は私たちすべてに利益をもたらす。

 どうもありがとうございました。』

このような見解は、スペインだけではなく広く世界中の国々に共有されるべきものと俺は考える。このように理念にしっかりと立脚し、自らの見識に基づいて堂々と国民に正論を語り掛ける政治家は尊敬できる。
こんなことを言えば、わが国ではすぐに脳内お花畑だと揶揄し、理想主義者だと批判するする輩が雲霞のように湧いて出るだろう。アメリカというスーパーパワーに従属しないのは現実的ではないと、したり顔で語るものも数多いることだろう。
しかし、サンチェス首相の演説の中には『このような私たちを考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。』と明確に述べられている。いわゆる識者の皆さんが現実的ではないというとき、其処には思考停止と現状の無条件の肯定が潜んではいまいか?

 サンチェス首相の言葉には強い力がある。彼は『政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解している』という。
この当たり前のことを、当たり前に言う政治家が我が国の政府にもほしいものだ。さらに彼は容赦なく続ける。『その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。』
歴史の過ちに学び、法を遵守し、国家としてできうる最大限の対策を講じる。
そしてなおかつ、戦争が少数の者たちの利益のために行われるという不都合な真実にまで言及している。
そりゃ、アメリカの王様もカンカンになって、スペインとの交易は一切禁止するというだろうな。小気味いいぜ。アメリカの属国の指導者には口が裂けても言えないことだもんな。
実際にアメリカのミサイル攻撃で子供たちが通う学校が破壊され、180人もの児童が虫けらのように殺された。それは正しいことなのか?そして、その攻撃目標の選定はAIで行われたんだとさ。さすがはAIだ!世の中の人々の仕事が減るわけだ!
180人の子供たちの一人が、あなたの子供だったら、あなたはどう考えるだろうか?国家の体制がどうであれ、人間の命を蔑ろにしてもよいのだろうか?あなた自身はどう考える?
株価が下がったとかガソリンが値上りしたとか言っているうちに、人間の知性と尊厳、長年の災厄を経て築き上げられてきた法体系、そしてなにより人々の未来が問われているのだよ。

裸の王様が、世界中を脅している。そしてそのために裸の王様の王国は世界から信用を無くしている。そしてなおかつひどいことに、世界を仕切っているとされるのは、この裸の王様の王国と、広大な面積を持ついくつかの専制国家だということだ。
脳内お花畑の理想主義者の俺は、心底憂鬱になるぜ。

2026/03/07

POST#1781 美しい行為の裏のうさん臭さ

Nagarkot,Nepal
日本人は、ボランティアが好きだ。

災害大国だというのもあるが、一旦大きな地震などが起こると、多くの人がボランティアとしてはせ参じる。

しかし、俺はいかない。というかいけない。その災害の当事者になったならば、地域社会の一員として率先してできることをするだろう。しかし、遠く離れたかかわりのない場所に、援助物資を押しかけて参上するつもりはない。

ズバリ自分の生活に余裕がないからだ。あれは思うに自分の生活に余裕がある人間が、自分の生活を成り立たせる収入が確保されたうえで、行えばいいものだと思う。自分にかかわりのない縁者がいないのならばなおさらだ。そもそも溺れかけている人間が、溺れている人間を救うことなんかできない。その志自体は美しくても、共倒れになるだけだ。

普段は弱い立場のものを差別し、排除したり、社会の裏側に押し込めていて何ら痛痒を感じない人々が、災害を前にすると、急に絆だとか社会貢献とか言い始めるのも自然発生的な大政翼賛会のようで、なんだか薄気味悪い。この日本の社会を覆う重苦しい同調圧力はどこから生み出されるんだ。

スーパーボランティアとかメディアで紹介されるような善意の人への報道も、戦前戦中の新聞が称賛していた爆弾三勇士とか、死んでも進軍ラッパをは口から離さなかった日露戦争の際の木口小平二等兵を称賛していた新聞みたいで、どこか薄気味悪く感じる。

もちろん、被災者の支援や復旧に社会のリソースを割かねばならないことは重々承知している。しかし、それが本当に必要なことならば、公費で行うべきことではないのか?みなさんの美しく高潔な志を、何かうさん臭い思惑が汚しているように思えてならない。

俺には決してボランティアをしている人々を貶める意図はない。むしろ、俺にはできないことをやれてしまうすごい人たちだと思っている。

しかし、俺が今ここで述べているのは、災害復旧などにマンパワーが本当に必要ならば、人々の自発的な善意に頼るのではなく、社会契約に基づいて存在する国家が、国家予算を投じて第一義的に動くべきではないのか?という単純な問いかけだ。

1980年代以降、新自由主義的な国家運営が常態化し、わが日本国も行政のスリム化、小さな政府、公的事業の民営化やアウトそーソングが続けられ、公的な事業はどんどん縮小している。あるいは国家事業そのものが民営化され、営利企業に転換したのを見てきたはずだ。そして今や多くの公務員がいつ首を切られるかわからない短期任用の非正規雇用だ。

公助から自助とか反動的な主張を超え高に叫んでいた首相もいた。にもかかわらず、国家予算は年々拡大増大の一途だ。

本当に社会に対して必要な緊急性の高い事業だからこそ、そういったボランティアにも、公費で最低限の賃金を保証するのが正しいあり方だと俺は思う。

そうすることによって、人々に国から資本が注入され、それはさまざまな形の商品へと変換してゆき、資本の流動性を高め、経済成長に貢献するのではないですか。

また、被災地などでのボランティアには危険が伴う。さらに正義感や義務感に駆られて、自らの体力の限界を超えて働き、命を落としたりケガをしたりする方もいる。

そういった二次的な災害というか不幸に対しても、国家なり自治体なりが予算を組んでサポート体制と組織化を行い、保険をかけて不測の事態に備えるべきだと思う。ボランティアだから自己責任というのは、あまりにも理不尽ではないだろうか?

ボランティアとはそもそも義勇軍を意味する。ウクライナの戦役に、世界各地から参戦した個人の戦闘者のような存在だ。俺はウクライナの人々にい同情はするけれど、義勇軍になるのはごめんだ。ガザやイランに行くのもご遠慮させていただきたい。その代わり、国連UNHCR協会と国連WPFに月々2千円づつ寄付することで、長年ささやかながら関わらせていただいている。もう何年も続けている。だからと言って税制優遇が大してあるわけでもないし、純粋に少しでもマシな世界にするために、自分に無理のない範囲で出来ることをしているだけだ。俺の乏しい稼ぎなら、それで十分じゃないか?継続は力なりだぜ。ミサイル一発で吹っ飛ぶ幸せや暮らしの重さには代えられないけれど、連帯を意思表明し、わずかながらも日々の暮らしから力添えをする。俺にはそれが精いっぱいだ。

また、ボランティアのすそ野は広がっている。

教員の負担軽減のために、地域のボランティアのかたに学校のクラブ活動を見てもらおうという試みが始まってはいるが、スポーツのコーチングや文化的なリベラルアーツを若者たちに指導するには、相応の知識経験だって必要だ。その専門スキルを無償で提供することで、本来自身の生活のためにそのスキルや自らの時間を生かすことによって生まれていたはずの収入=資本の増加の機会が損失するだろう。この機会損失は個々人にとっては微々たるものかもしれないが、日本全国津々浦々に視野を広げたとき、その損失はかなりのものになるだろう。

また、その人たちにも生業がある。万一その活動中に指導員や若者に事故やケガがあったとき、その保障は誰が担うのか?ボランティア個人に担わせるのか?学校や自治体、あるいは厚生労働省が担うことになるのか?

さらに踏み込めば、そのボランティアの人々の指導方法が適切なものかどうか?ハラスメント的なものや根性論的なものになっていないか?あるいはそこに性犯罪履歴のあるものが志願していないか?そういった問題をどう防ぎ、どのように管理していくのか?

それを学校の教員に担わせるのは本末転倒なのは火を見るよりも明らかだ。

私たちの社会を、私たち自身で運営していくには、自らの総体たる国家へ自らの能力を委譲しなければならないとしても、それでも私たちには何も損なわれるものはないというジャン=ジャック・ルソー🔗の説いた社会契約論🔗のような視点が絶対に欠かせない。近代民主社会はその思想を起点にして民主国家というフレームを構築しているのだから。しかし、今や税金を徴収され、より経済成長の美名のもとに、より豊かなものに国民から集めた詩音が再分配される転倒減少が続いている。それは国家としてのあり方としてどうなのか?本当に公平なのか?それを有耶無耶にしたまま、一朝ことあればボランティアをあてにするというのは、国家の体を成していないのではないだろうか?それは単なる抑圧と搾取のシステムではないのけ?

抑圧のシステムではなく、私たちが共に生きてゆく共通基盤のとしての国家というものを、私たちは自らに身近なボランティアという視点からも、もう一度問い直さねばならないのではないだろうか。

2026/02/21

POST#1767 原初の豊かな社会と未来の短時間労働社会のはざまで

Nepal シヴァ神の聖地 パシュパティナートの火葬場

実は自分は、こう見えてかなり完璧主義で不安神経症の持ち主だ。

最悪だ。いつだってカギを閉め忘れていないかとか、こなし忘れたタスクはないか?そんなことばかりが気になってしまう。

仕事になると、それが実に顕著だ。

みんな自分の立場から高飛車にものを言ってくる。うまくいかないイライラを弱い立場の人間にぶつける。俺は組織が守ってはくれない、いうなればフリーランスだからなおさらだ。

だから、いろいろ気になりだすと頭の中がいっぱいになってしまう。眠っているとき以外のすべての時間を仕事に注ぎ込んでしまう。

だから、仕事中に音楽とか聴きながらとかはできないんだ。気が散ってしまう。考えがまとまらない。

気にしたって仕方ないのに。自分の小心さにうんざりしてしまう。

この世のたいていのことは、死んで灰になってしまえばどうということはないことばかりなのにという、投げやりな想いも頭の片隅にある。

シヴァ神を祀る聖地、ネパールのカトマンズ近郊のパシュパティナートは火葬場でもある。

以前ここを訪れた際に、川の対岸から薪に埋もれた死者が燃やされ、水分と炭化物の混じった煙になり、また煮えた脂となって川に流れていく様を、ぼんやりと見つめていた。

ガンジス川に通じるこの聖地を流れる河原で焼かれると、来世はより良い境遇に生まれ変わるのだという。どうせなら、こんな火葬場で焼かれたいものだ。

美しい人も、勇ましい人も、抜け目ない人も、いつかはくたばる。そう思うと、心が少し軽くなる。夢も希望もないって?仕方ないさ、こう見えて俺はうつ病だからさ。

心が落ち着かないときには、本を読むのがいい。ほんの6分ほど読書するだけで、脳の興奮がおさまり、集中できるようになるそうだ。

読まなければ現代社会について論じることはできないぞという本が、山ほど積まれている。経済学や人類学の本がほとんどだ。そこに今日、友人から勧められた金村修の写真批評🔗が加わってしまった。パラパラ読んでみるとやはり面白そうだ。

仕事のひりひりするような緊張感もたまらないけれど、読書に耽溺して頭の中にダイブするような暮らしもいいものさ。

ワークライフバランスが必要だ。

成長のスイッチを、押して、押して、押して、押して、押してまいりますとか言ってる人もいるけれど、人間が押しつぶされて、自分の頭で考えることができなくなっちまうぜ。まぁ、AIの皆さんに考えていただくのがいいのかもな。冗談じゃないぜ。

そもそも、経済成長したって、庶民の生活は厳しいままだろう。

効率が上がっても、その分余計にこき使われるだけだろう。

企業の内部留保がたまり、株価が上昇するだけだろう。

みんなネットで常に浴びせかけられる広告で、差し当たって不要なものでも欲しくなっちまう。しかし、賃金は伸びず、物価は高騰する。金利が低ければ、借金してでも買うだろう。

インフレだ。いずれ資産バブルになり、それを冷やすために大幅な金利上昇がやってくるだろう。

行き詰った自由貿易体制が、自国中心の保護主義に逆回転し始めている。すでに円安に苦しむ皇国臣民の皆さんは、これから先、今以上の物価高騰に塗炭の苦しみを味わうことになるだろう。残念!


今から100年近く前、ジョン・メイナード・ケインズは「私たちの孫の世代には、労働効率が上がって、一日に3時間ほど働けば生活できるようになるだろう」と予想した。

人類学は、未開社会の人々が食べ物を入手するために働くのは、一日せいぜい3時間で、あとはイチャイチャしたり、ダラダラしたり、くだらないことでゲラゲラ笑いあったり、おならをしたり、昼寝をしたり、アクセサリーを作ったりして暮らしていたと報告している。

人類学者たちが提示した原初の豊かな社会とケインズが予言し(あっさり外れた)社会像の間で、俺たちは今日ももがき続けている。

世間様は3連休だってのに、今夜も仕事さ。やってられないぜ。商売繁盛さ。

2026/02/17

POST#1763 俺にはいつも考えてしまうことがある

Bhaktapur,Nepal
近年、排外的な主張をよく耳にする。
とりわけ国政選挙や地方選挙の争点になっていたりすることもしばしば耳にする。
中国人、クルド人、ヴェトナム人、トルコ人、ミャンマー人、タイ人、日系ブラジル人、ネパール人・・・。
クルド人の件に関しては、自分が当事者となったことはないのでコメントできないが、民族国家を持たない最大の民族集団の一つのクルド人の方々が、一定数日本に住んでおり、それが気に入らないという方がたくさんおいでなのだという。
様々なデマが飛び交っているようだが、そのいちいちを取り上げるつもりはない。
同じ土俵に立って水掛け論を繰り広げることになるのはごめんだからだ。
現場で働いていると、若い労働者のかなりの割合が外国からやってきたアジア系の若者たちだ。彼らの力がなければ、もう日本の社会は成り立たない。オフィスで働いているだけならそれに気づくことは難しいかもしれない。けれど、生産や建築、農業など日本人がやりたがらない仕事を、彼らは支えている。
しかし、俺たち日本人の心の中に、白人には何も言わず、アジア人には高圧的になる人種差別的な性向は潜んでいないだろうか?

俺には、ないとは言い切れない。

何度も言葉の通じない技能実習生を罵倒する日本人を見てきた。妊娠したら強制送還されるということから、産み落とした嬰児を自ら殺してしまう事件も度々耳にする。俺たち日本人は、彼らをものを食う機械だと思っていないだろうか?
去年暮らしていた京都には、多くのネパール人がいた。コンビニの店員は夜にはネパール人かスリランカ人だった。
コンビニやカレー店で、ネパール人の若者に接するとき、かつてネパールを旅した時に無邪気に話しかけてきてくれた子供たちの姿が思い出される。彼らが今、日本に来たとして、どんな気持ちになるだろう。いつも考えるんだ。

読者諸君失礼する。今日から新しい現場が始まる。緊張で吐きそうだ。

2026/01/21

POST#1736 不死身の男

世界の街角から 今日はカトマンズ

 HCUに入っていて、半死半生の親父にできることは何もないので、俺は仕事に戻ることにした。去年は今年と違って大忙しだった。本当なら今年も今頃大忙しの予定だったが、人生はどこで何が起こるかわからない。

で、週末ごとに病院に行ってみると、いつのまにかHCUから出て、一般病棟に移っているじゃないか。インフルエンザは緩解したようなので、一般病棟で点滴点滴、通路をゆっくり歩くリハビリだと。

豊子さん、豊明さんなら、もうそっちに連れて行ってくれてもいいんだぜ!
ノブちゃんもうすぐ13回忌の法要だってのに、親父のことを守りすぎじゃないのか?

いかにも冗談の通じなさそうな無表情な主治医からは、このまま何もなければおよそ二週間で退院だと告げられた。
冗談じゃない。俺は一月中に親父のアパートを引き払い、どこか住むところを見つけてやらなきゃなと思っていたのに。目算が狂っちまうよ。資産家の未亡人の大家には、ぐだぐだ文句ばっかりこきやがるから、一月分の家賃で5万円現金で押し付けてきて黙らせてきたというのに。ここであのアパートに戻ったら、元の木阿弥だ。また何年も年取った猫と一日中テレビを見て、あれこれ好き放題食いまくる生活に逆戻りだ。
親父に面会すると着替えを用意してほしいという。一般病棟に移ったので、寝間着とか下着とかが必要なんだと。

まったく、俺の親父は不死身なんじゃないか。
いや、もう死んでるけどゾンビなんじゃないか。

俺は病院のケースワーカーさんとの面会を取り付けて、なるべく俺の家から近くて手ごろな金額で入所できる高齢者サービス住宅をいくつか紹介してもらった。
俺は近くに住んでいる弟と連れ立って、高齢者サービス住宅の見学に行ったりした。忙しいったらない。
市役所に行き、老人福祉課で要支援・要介護認定の依頼もお願いした。これがあるのとないのとじゃ、入れる施設も金額も何もかも変わってくる。
それに何より親父の財務状況、それも借金のことをはっきりさせておかなけりゃならない。
俺は、そそくさと親父の埃っぽいアパートに向かった。
倒れた直後に、食料品や生ものなどは処分しておいた。例によって土足で立ち入り、積み重なった書類や書類ケースの中に無造作に突っ込まれた小切手帳、壁に張られた督促状、銀行の通帳、ATMの振込明細、実印、もう使われていない社印と社判、そんなものを山ほど回収した。
年取った猫は、相変わらず押し入れの中に隠れて様子をうかがっている。
銀行の通帳はいくつも出てきた。一体いくつの銀行に口座を持ってやがるんだ。マネーロンダリングでもしてるんじゃないのかってくらいだ。
昔一緒に住んでいた女性の銀行口座に振り込んだ明細も出てきた。くさい。
鋏の入れられた小切手帳、5000万円とかぞっとするような金額が記されているものもある。
これが焦げ付いているんじゃないだろうか?
債権回収会社からの葉書。どうも昔、カードで買い物した金を踏み倒し、それが今や年利14%で雪だるま式に膨れ上がっているようだ。
銀行からの借金は、少しづつ返済し、都度手形を切って返済期限を更新してゆくという、聞いたこともないようなトリッキーなことをやっている。

社会人になったばかりのころ、数千万円の借金の保証人にされて精神的に追い詰められていた経験を持つ弟は、この伏魔殿にはあまり近寄ってこなかった。

ついでに親父の着替えを探してみたが、下着もよれよれ、服も襟や袖がほころんでいる。みすぼらしいったらないぜ。
俺はそれらをすべて市の可燃物のごみ袋に突っ込んで、近所のGUでしこたま下着やラウンジウェアを買い込んだ。GUでこんなに買い物したのは初めてだったぜ。

そうこうしているうちに、親父が尿路感染で菌血症になってしまったという連絡が入った。
その前の年に俺が腎臓結石になったときに発症した奴だ。血液の中に菌が入りこみ繁殖してしまう。悪くすると死ぬ。しかし、病院からは死ぬことはないので安心してください、ただ、退院が伸びますとの説明だった。ベッドの空きがないので、1月末ごろに転院していただきますというありがたいお話だった。
ついでに言うと、市民病院の主治医は親父には要支援も要介護も必要ないという判断を下したんだとさ。俺は肌の白い無表情な若い医師の顔を思い浮かべた。
くそじじいめ、リハビリ頑張りすぎだろう。その生に対する執着はいったいどこから湧いてくるんだ?

俺も頭の上に人魂が飛んで、頓死してしまいたいと思ったぜ。
やれやれ、この憂鬱な話はまだまだ続く。

2016/02/10

Post #1698 もう少しのあいだ、好きにやらせてもらうさ



人生なんて、生きたいように生きて、死ぬときがきたら、死ぬだけのことで、なんも難しいことじゃないな。
最近、腑に落ちた。
もう少しのあいだ、好きにやらせてもらうさ。

2016/01/12

Post #1689 誕生日プレゼントは寝袋で


まさか、47歳の誕生日、倉庫の打ちっぱなしの床の上、仕事で使う養生用の毛布にくるまって眠ることになるとは、思わなかった。

誰か誕生日プレゼントに寝袋をくれたら良かったのに!  

人生はいつだって予測不能なもんだな。

2015/12/01

Post #1686 自分の言葉の意味をわかってない馬鹿野郎が多すぎる

Nepal
自分の言葉の意味をわかってない馬鹿野郎が多すぎて、うんざりしています。
ろくすっぽ自分の言葉がどんな事態を引きおこすのか、その言葉を発している自分の立場立ち位置がどこいらあたりにあるのか、その辺をわからずに、思考停止したまま適当なことを口走るバカばかりです。

挙句の果てに、さっきの発言は取り消したいとか抜かし始めると、言葉の軽さと覚悟の無さに、心底軽蔑したくなります。

あんまりうんざりして、昼間っからタワーレコードに行って、CDを何枚も買いこんじまったくらいです。ロックンロールはいつも僕を支えてくれます。まるで親友や恋人のように。

ブログを放置していたのは、仕事が忙しかったからで、病んでるわけでも、もうやめようとか思ってるわけでもありません。
明日も、5時起きです。

2015/11/09

Post #1671 盲腸だった。素晴らしい!冗談じゃないぜ

Patan,Nepal
朝、仕事に行こうと最寄りの駅まで歩いていると、右の下っ腹になんだか鈍い痛みが走った。
しかし、俺は痛風だの結石だのをさんざん経験してきたおかげで痛いのにはすっかり慣れているのさ。だからこんなの、どうってことないぜってフツーに仕事に行ったのさ。こんな差し込み、すぐに治るだろうってね。

しかし、痛みは一向にひかない。現場に出て大音声を張り上げて忙しくしていると、これまた全然痛みを感じないんだ。脳内麻薬だ。けれど、事務所に戻ってくると、やはり痛い。

俺はさっさと早引きして医者に行くことにした。

診断結果は盲腸だった。素晴らしい!冗談じゃないぜ。

思わず笑えてきたぜ。こんなに元気なのに、なぜ病気だっていうんだ?確かに腹は痛いがな。笑いすぎても腹は痛くなるもんだ。

手術か薬か、それが問題だ。どっちが現場にはやく復帰できるかな?そこが焦点なんだ。

明日の朝も、点滴を打ちに来いとお医者さんには言われたが、そのあとさっさと仕事に行き、現場をうろついたり、名古屋の監督の中でもっともデカいと言われる声で、会議を切り盛りしたり、現場をおさめていくつもりなんだが。

カミさんは、腹膜炎になったら困るから、無理しないでくれという。
医者は、2,3日は安静にしろっていう。

冗談じゃない。今はそんなことしてられるような時期じゃない。

俺は行かなけりゃならないんだ。俺がやらなくて、誰がやるっていうんだ

こじらせて腹膜炎になったとしても、そん時はその時だ。大丈夫だ。俺には息子ができてるんだからな。死んだところでどうってことないさ。あとは息子に任せてりゃいいのさ。とはいえ、まだ妊娠7か月だけどな。

読者諸君、失礼する。今夜はとっとと眠るとするさ。

2015/10/24

Post #1662 世の中には、責任を取らない責任者がたくさんいる

Kathmandu,Nepal
世の中には、責任を取らない責任者がたくさんいる。
責任をとらされるのは、いつも下っ端で、責任者はたいてい自分たちの非を認めようとしない。

その手の責任者は、物事がうまく運ぶと、自分の手柄にしたがり、ヤバくなると誰かのせいにしたがる。
けれど、俺は上手くいったときには、こんな自分についてきてくれた仲間たちのおかげだと素直に思いたい。上手くいかない時には、自分の責任として、自分の非を認めたい。

当節、クレバーな生き方は責任を取らない責任者のほうさ。
責任を取らないから、そこそこ出世する。羽振りだってイイ。しかし、そいつらはシコシコ貯め込むだけだ。飲みに行っても、絶対に割り勘だ。しみったれた野郎だぜ。

けれど、それは卑しい事なんだぜ。どんなに偉そうにしていたって、ここ一番でケツをまくるような人間を、俺は漢とは認めないんだ。

俺は、そんな奴らには、負けない。

男の器量で、一歩も引けを取ることもない。誰に対しても、誠実にひとりの人間として向かい合うだけさ。そんな人としてあったりまえのことができない時点で、そいつは負けてるのさ。
その立場とやらがなければ、他人と対峙することもできやしないのさ。立場の下駄を履いてることを忘れて、自分の人間性だか能力だかがすぐれていると思いこんっでいやがるのさ。
反吐が出るぜ。

読者諸君、失礼するぜ。今から、例の肝試しに出かけなけりゃならねぇんだ。楽しみだな!

2015/10/09

Post #1647 未だかつてない大仕事だ。とんでもない長丁場だ。

Kathmandu,Nepal
この夏一杯手掛けていた銀座の店舗のオープニングセレモニーに、潜り込もうと懲りずにまたまた東京にやってきた。
ホテルにチェックインしてこれを書いてるんだ。
店舗工事はやりがいのある仕事だ。しかし、過酷な勤務のために、この仕事を志す若者は少ない。おかげさんで、46歳にして未だに若手扱いされるぜ。参ったな。

しかし、一軒の店舗を苦労して作り上げたときの達成感は、なかなかのもんだぜ。
俺はこれからも懲りずにこの商売を続けていくんだろうよ。

しかし、俺にはもっと大きな仕事が控えているのさ。
今朝、カミさんを連れて、産婦人科にゆき6ヶ月検診を受けてきた。
おなかの子供はぐんぐん大きくなっている。今じゃ450グラムくらいだ。ちょっとしたもんだな。おなかに手を当てて話しかけると、力強く押し返してくるのも道理だ。

そして、ついに男の子が授かったのか、女の子が授かったのかがわかってきたんだ。
もちろん、女の子でも男の子でもかまやしないんだけどね。
エコー画像を見てみると、両足の間に、なんとなく見慣れた形のアレがついている。
全てがミニサイズだ。しかし、これは明らかにちんだろう?
診察してくれた先生も、9割方男の子でしょうと言っているしな。
俺は最初から、なんとなくそんな気がしてたんだよね。
俺に娘は似合わないって。大きくなって、アーパーな娘さんになられても困るしな。第一、俺は男兄弟4人の長男なんで、娘なんていわれてもどう接したらいいのか、さっぱりわからないんだからな。

さてと、この子を一人前の男に育て上げるのが、俺のこれからのライフワークだ。
未だかつてない大仕事だ。とんでもない長丁場だ。
銀座に店を作るのなんて、この大仕事に比べればちょろいもんだろう?

別にどうこうするわけじゃないけれど、ひとりの男として、どうやって世界に対峙していくのか、どうやって人に接していくのかを、身をもって示し続けていかなきゃならないんだ。
いやいや、別に気負ってやるほどのことじゃない、みんなフツーにやってることさ。
けど、俺は自分の子供には、世間並みの平凡な男になってほしくはないんだ。
是非とも、俺よりも面白い、波乱万丈の人生を送ってほしいんだ。そのためには、それを乗り切っていけるだけの男の器量を身につけさせてやらないとな。
それは学校や塾では教えてくれない。
俺が示していくしかないことなんだ。

あ、名前はもうずっと前から決まってるんだぜ。『麒麟児』ってね。おなかに手を当ててこの名を呼ぶと、なかから応えてくるくらいに馴染んでるのさ。

読者諸君、失礼する。もちろん、俺はこの子が一人前の男になる前に、この世とおさらばしなけりゃならないだろうけどな。残念だ。

2015/10/07

Post #1645 俺たちは遠くから来た。そして、遠くまで行くのだ

Patan,Nepal
何とか均衡を保っているカミさんの腹に手を当てて、羊水のなかを泳ぎ回っている胎児の胎動に意識を集中する。
そうして、不思議な思いに駆られる。
何とも不思議だ。
何もなかったところに、命が宿り、喜怒哀楽に振り回されながら生きていくってのは、つくづく不思議なことじゃないか?

俺たちはいったいなにものなのか?
俺たちはいったいどこからきたのか?
そして、俺たちはいったいどこへ行くのか?

まるでゴーギャンの有名な絵のタイトルのような疑問が、俺をとらえて離さない。

白戸三平は、長編漫画『忍者武芸帳』の主人公・影丸をして、『俺たちは遠くから来た。そして、遠くまで行くのだ』と語っていたっけな。

長いようでいて、結構短いこの束の間の人生は、いったい何のためにあるのか?
少なくとも、自分の責任を巧妙に回避しつつ、そつなくスマートに仕事をし、小金を儲けて安穏と暮らすためではないだろうよ。確かにそれも一つの生き方だ。誰だって、厄介ごとを背負いこみたくはないだろう。けれど、ニンゲンは自分の為したことについて、無責任ではいられないんだぜ。それは、自分の人生に真剣に向き合っていないような生き方だと、俺には思える。
俺は不器用でもいいから、自分の為したことの全てに、責任を持ちたい。
そして、全力を振りしぼるようにして、燃え盛る火柱のように生きていきたい。

ふと、そんな思いを腹の中の子供に語り掛ける。
きっとなにもわかっちゃいないだろうが、そんな俺の声にこたえるようにして、カミさんの腹の中から小さな、それでいて確かな何かが突き上げてくる。

できうればこの子に、波乱に富んだ、実りある人生を歩んでほしい。
精一杯、誰かを愛して、自分の力で人生を切り開いていってほしい。
そのためには、優しさと強さを身につけて成長してほしい。
この俺に、その導き手が務まるだろうかと、小さく力強い胎動を手のひらに感じながら、自分に問いかけてみるのさ。

俺たちの人生の意味を考えてみるとき、その始まりと終わりに、ぼんやりとかすむように広がっている『遠く』こそが、カギを握っているように思えてならない夜なのさ。

読者諸君、失礼する。命ってのは、つくづく不思議なもんだよな。粗末には出来ないぜ。

2015/10/05

Post #1643 今度は家庭内に波乱の予感

Kathmandu,Nepal
去年のネパール旅行からはや一年か・・・。
月日の経つのは早いもんだ。旅行して、働いて、旅行して、働いて、またまた働いて。
こうして年を食っていくのさ。

ようやく体調がもどってきたと思ったら、今度は家庭内に波乱の予感。
詳しくは、ここにはとても書けんな。

読者諸君、失礼する。妊娠六か月に入ったカミさんに、もう出ていくなんて言われると実に困るもんだな。

2015/10/04

Post #1642 微熱

Kathmandu,Nepal
どうも朝から頭が痛いと思っていたら、微熱があったようだ。
だから、今日は一日、ひねもす眠って暮らしたよ。
読者諸君、失礼する。