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2026/06/04

POST#1868 この21世紀じゃ、まともに暮らすだけで静かなテロリストになれるらしいぜ!

Katmandu、Nepal

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、あだ、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしていると昨日話をしたね。OK、今日はその続きでいこう。

このシステムは、マーケティングや広告という名の「洗脳」によって、人々の心に意図的に「欠乏感(私はまだ足りない)」「劣等感(あの人に負けている)」「羨望(あんな風になりたい)」を植え付けるんだ。おっかないぜ。

そうして生み出された飢餓感を埋めるために、人々は必要のないものを買い、その代金を支払うために「労働機械」として自らを資本に差し出し続けなければならないという、完璧な永久機関が完成しちまったぜ!ギャハハハハ!(チェンソーマン🔗の主人公のデンジ風にい言ってみよう(笑)。なんせ今日は最終巻24巻の発売日だもん!)

ぶっちゃけ忖度なしに言わせてもらえば、子どもたちが死を選び、大人がスマホに張り付いて窒息しかけているのは、この「欲望と支配のサーキット」に24時間体制で組み込まれているからに他ならないんだ!

この巨大なシステムを内側から解体するための、「具体的なボイコット(抵抗)の戦略」は、以下の3つのレイヤーで展開できるんだぜ。もっとも、そこから逃れる気があればの話だけどな。

1. 「アテンション(注意・関心)」のボイコット

資本の論理が俺や君たちを支配する最大の武器は、スマホやメディアを通じた「広告」と、それを俺や君に最適化して送りつけてくるアルゴリズムなんだ。

気を付けろ、俺たちがスマホを見てるとき、スマホも向こうから俺たちを見てるんだ。これってまるで、ニーチェ🔗善悪の彼岸🔗に出てくるあれみたいだな。ほら『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』って奴だ!気が利いてるな!

なにはさておき、俺たちや君たちの集中力と思考力を奪うスマートフォンの通知を切り、いちいち画面を見ないことだ。仕事のメールを見落とすことになりかねんけどな(笑)!

彼らデジタル領主たちにとって、俺たちの「視線」や「時間」は金鉱ともいうべき資源に他ならないんだ。スマホの画面から目を離し、アルゴリズムに自分の脳をハッキングさせないことは、最も手軽で強力なボイコットだぜ。

そして時には意識的に情報の断食、つまりデジタルデトックスをするんだ。

広告が煽る「偽の必要性」を遮断し、心の静寂を取り戻すことで、「自分は今のままで、すでに満たされている」という感覚、つまりは尊厳を回復するんだ。

鳥の声を聴き、流れる雲を見る。

子どもたちの歓声に耳を澄ませ、風に揺らぐ木々を見る。

大きく息を吸い込み、漂う香りを感じるんだ。

自分の五感で、目の前の世界に対峙するんだ。

2. 「消費」のボイコット、つまりは自給とケアの復権

「買わなければ生きていけない」という依存状態こそが、俺や君たちを21世紀の素晴らしき『労働機械』に縛り付けるボール&チェーンなのさ。

お金を介さない価値の交換を思い出すんだ。

昨日話した「面白い老人」の話のように、地域の中で手作りのものを分け合ったり、知恵を教わったり、お互いをケアし合ったりする関係性や空間を作り上げるんだ。

そして「無駄」と「不便」の愛好するんだ。

効率的でスマートで、おかげさまで高価な商品を買うのをやめ、あえて手間暇をかけてみるんだな。資本が提供する「便利さという名の家畜化」から抜け出し、自分の身体性を取り戻すんだ。大げさなことを考えなくたっていい、スーパーで買ってるパセリやシソを家のプランターで作ってみるだけでもいいんだ。そこにはダイレクトな感覚がある。しかも、家で育ったばかりのパセリは、香ばしくておいしいぜ。

ふと、思い出した一説がある。老子🔗の第八十章だ。

小国寡民使有什伯之器而不用、 使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。 鄰国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来。

こいつは小難しい。ちょいと小川環樹🔗先生の中公文庫版の老子を参考にして超訳してみるわ。

「国は小さく住民は少ないとしようか。軍隊に使う便利な殺戮兵器があっても使わせないようにして、人々には命を大切にさせるとしようぜ。で、(戦争に駆り出されないから難民になったりしなくていいので)遠くに移住する必要をなくせば、舟や車があっても、みんなそれに乗ってどこか行くわけでもない。鎧や武器があったとて、(いかれた全体主義国家みたいに)それを見せびらかすこともない。

もう一度縄を結んで契約の印としたような大昔の世の中のように、なにからなにまで質素倹約、彼らのイマイチな味の飯もうまいと思わせ、粗末な服も快適だと感じさせ、狭いながらも楽しい我が家に落ち着かせて、素朴な習慣を楽しませるんだ。そうすると、隣のイカした国がすぐそばに見えて、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くても、人々は老いて死ぬまで他国の人と行き来することもないだろうぜ!』

高校だか中学の漢文でやったような気がするけれど、もうすっかり大昔のことだからな。怪しいもんだけど、漢文は漢字を追っていけばちゃんと意味が分かるからな。俺はだいたい外したことはないから、この訳文、大過ないだろうよ。

つまりだ、便利な機械があってもあえて使わず、自分の作った飯を不味いもう一杯!(笑)と食い、自分の素朴な暮らしを最高だと愛する。2500年前の中国の偏屈なニート哲学者がたどり着いた結論も、現代の俺たちがスマホを放り投げてプランターで育てたパセリを食うのも、本質はまったく同じなんだ。最強の反逆スタイルってのは、いつの時代も変わらねえってことだろうな。

人間の本質が全く変わってないことの証拠だよ。

3. 「評価(格付け)」のボイコット

社会が押し付ける「優秀さ」「勝ち組」「フォロワー数」といった一元的な価値観を、鼻で笑って無視することだな。フランクシナトラフランク・シナトラ🔗の名曲マイウェイを、自分の好きにうたったシド・ヴィシャス🔗みたいにな。蛇足ながらこのマイウェイ🔗みてみ?サイコーにロックだぜ(笑)

そこで出てくるのがまず東大至上主義や内申書の「内なる廃止」だ。

制度が変わるのを待つ必要なんかない。親や大人がまずそんな『共同幻想』を捨て去り、「そんなものは人生に何の関係もない」と開き直るんだ。そして子どもたちに「きみはきみのままで最高だ」と言い続けることだ。揺るぎのない自己肯定感を熟成するんだ。

そして羨望の廃棄だ。

資本が作った虚像でしかない他人のきらびやかな生活を羨むのをやめちまったらいいんだ。宮崎麗華🔗みたいな脱税してとっ捕まるインフルエンサーにあこがれてても仕方ないんだぜ。ばかばかしいったらありゃしない。それは俺や君の人生じゃない。

そして、目の前にある生身の自然や、他者との素朴なつながりに深く満足する「足るを知る」精神こそが、成長至上主義に対する最大の反逆な・な・なんだぜ!

こういうのをサイレント・テロっていうそうだけど、地に足をつけてまっとうに暮らすだけで静かなテロリストになれるなんて、まったくご機嫌な時代になったもんだ。

さらにもう一点付け加えようかな。

俺は君に、IKEAの創業者のイングヴァル・カンプラード🔗の言葉を伝えたい。

彼は自分の息子たちにいつもこう言っていたという。

『本当にお前が欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値のあるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ』それが彼の口癖でした。(イケアの挑戦:創業者は語る🔗313頁より)

俺は自分の息子にもいつもそういっている。けど、なかなか奴はその衝動を抑えてくれないけどな。そんなにうまく考えてくれるんだったら、俺の小遣いももっと潤沢になるだろうさ。

このボイコットは、デモ行進のような大層な運動である必要はまったくないんだ。

「スマホを置いて、子どもと一緒にただぶらぶら散歩する」

「役に立たない面白い老人の長話に、あえて付き合う」

「広告に踊らされず、今あるものを大切に使う」

そんな他愛もない簡単なことばかりだ。

し・か・し、こうした、資本の論理から見れば「1円の利益も生まない、全く生産性のない時間」を俺たちが日常の中に奪い返していくこと自体が、俺たちや君たちを『消費者』から『市民』へと引き戻し、現代の超高度なデジタル資本主義システムに、致命的な打撃を与えるボイコットになるんだぜ。

人間を『機械』から『人材』というマテリアルから、生身の『人間』へと奪還する戦いは、俺たちや君たちの足元から、JUST NOW今すぐ始められるんだYO!

2026/05/27

POST#1860 さてと、もう一度ねちっこく子どもたちの現状を考えてみるか

Katmandu,Nepal
さてと、もう一度トクリュウの話から逸れてしまった話の本筋に帰るとしますか。

毎日毎日、思いついたことを書いているうちに、いつも思わぬところに脱線してしまうのが、俺の悪い癖だ。いや、このパルクールのような思考スタイルが、俺の思考スタイルなんだ。お付き合い願うさ。

今の息子の学校のプログラムを見ていて思うんだけど、なんだか学校自体そしてその元締めたる文部科学省が産業界からの要請に従って、子供に過大な要求をしてるような気がしてしょうがないんだよな。

この違和感は、現代の日本の教育が抱える本質的な歪みをけっこう的確に捉えているんじゃないかな?

学校が「産業界(企業や経済)」からの要請をそのまま教育現場に持ち込んだ結果、子供たちが求められる要求の水準が急激に上がり、逃げ場を失っているという指摘は、多くの教育学者や社会学者からもなされているようだ。

ざっと調べてみるだけでも、つぎのような「過大な要求」の構造が子供たちを追い詰めているってことが見えてくる。

「学力」に加えて「人間力」まで完璧を求められる

昔の要求: ペーパーテストで良い点数を取れば、内向的であったりコミュニケーションが苦手だったりしても、一定の評価(学歴)を得られた。

現在の要求: 産業界が求める「主体性」「コミュニケーション能力」「課題解決能力」「リーダーシップ」といった要素が、学習指導要領を通じて学校教育に導入された。そんな奴、大人でもなかなかいないぜ。

子供への負荷: 単に勉強ができるだけでなく、「明るく、協調性があり、主体的に行動できる完璧な人間」であることが評価対象(内申点や推薦入試)になるんだとさ。嘘くせぇなぁ。テストの点数と違って「性格や人間性」そのものを査定されるため、子供は常に自分を偽り、演じ続けなければならず、精神的な疲弊が極限に達しているということになるだろう。大人でもできないことを子供に求めるなといいたいもんだ。まったく冗談じゃないぜ。

「キャリア教育」による将来への早期の追い込み

文部科学省が進める「キャリア教育」により、小学校や中学校の段階から「将来の夢」や「自分が社会でどう役に立つか」を考えさせ、ポートフォリオ(活動実績)に記録させることが定着しているんだそうだ。

これにより、子供たちは「まだ何者でもない時期」から、将来の進路や企業に選ばれるための自己PRを意識させられることになる!自分らしい生き方を模索する余裕が奪われ、「早く進路を決めなければ手遅れになる」という過度な焦燥感(キャリア不安)を生み出しているんだそうだ。

俺の人生の実感からすれば、人生なんて思ったことの3割実現すれば上出来だ。これが俺の人生打率3割理論だ。もっと言えば、自分の意図したことよりも社会の奔流に流されてしまうことで否応なく決まっていくことがほとんどだ。

その時、自分の中にぶれない芯を育んでおくことの方が大切だと俺は思うんだが、どうかな?

 グローバル競争を背景にした「脱落恐怖」

産業界や政府が「国際競争力の低下」を叫ぶたびに、教育改革として英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化、探究学習などが次々と学校に詰め込ま続けている。着々と子どもたちを社会のシステムを回すための部品に仕立て上げようとしているのさ。

教育内容が高度化・複雑化すれば、当然、それについていけない子どもも一定数生じるだろう。家庭の経済状況的にフォローアップできない子どももいるはずだ。というか、たくさんいる。

そのくせ、それについていけない子供たちへのセーフティネットは不十分極まる。

学校は「経済社会の優秀な歯車」を育てる場所のようになり、そこから一度でも脱落(不登校や成績不振)すると「人生が終わる」という極端な恐怖心を子供に植え付けてしまっているわけだ。

世の中、多様性だとか、インクルーシブとか言い始めてから、ますますおかしくなってるんだ。偽善もいいところさ。

疲弊する教員と「余裕の喪失」

産業界や社会からの「あれもこれも教えてほしい」という過剰なニーズを受け続けた結果、学校の授業時数は増加し、教員の業務はパンク状態にある。そして、公立学校の教員はほとんど定額働かせ放題だ。多少は改善されたというが、その作業量に比べての報酬は十分だろうか?先生だって、人間だぜ?

先生自身に精神的なゆとりがないため、クラスの子供一人ひとりの「小さな心の変化」や「見えないSOS」に寄り添う時間が物理的に奪われている。

ちなみにうちの息子の通っている小学校は、教科ごとに担当の先生が変わるらしい。これも、先生たちの負担を減らしてゆく試みだろう。こういった試みに加えて、学校事務を担う職員を増強し、先生は教えることに集中できる体制を取らないといけないだろう。

しかし、それをやるにも膨大な予算がいる。日本のGDPにおける教育費の比率は、残念ながらかなり低い。そして、防衛力強化にはすぐに予算が付くのに、本当に大切な教育の予算は、なかなか増えない。この国の富の再分配システムはいったいどうなってやがる?!

まぁ、ざっくり言えばこういうことだ。

現在の日本の教育現場は、「経済社会で即戦力となる優秀な人材の育成」という大人の都合(産業界の要請)が優先されすぎているんだ。職業訓練学校というか、社畜製造機なんだよ。ケージに詰め込まれてブヒブヒ言ってる豚や鶏を思い出してみるんだ。あれと似たようなもんさ。

その結果、子供たちは「学校」という狭い空間の中で、勉強、部活、人間関係、さらには「自分の内面(主体性やコミュ力)」まで常に評価され、監視されているような息苦しさを感じることになるだろう。俺でも御免蒙る。

この「全人格的な過剰要求」と「失敗が許されない空気」こそが、子供たちから心の余裕を奪い、自殺が減らない根底にある構造的要因といえるだろう。

根本的に、子どもに限らず『人間』 を 『人材』 と 言っ てなんだか 材料か 資材 みたいに扱うようなこの風潮そのものが、子供達を追い詰めてるんじゃないだろうか?

これこそが、新自由主義経済に骨の髄まで染まった現代社会が抱える、最も深い歪みの核心じゃないのか?

人間を「人材(=経済的な利益を生むための材料・資源)」とみなす思想は、大人だけでなく、子供たちの世界にも完全に浸透している。子供を「かけがえのない一人の人間」ではなく、「将来どれだけ市場価値を生み出せるかという投資対象」として扱う風潮が、彼らを限界まで追い詰めているんだ。

この「人間を材料扱いする風潮」が、具体的にどのように子供たちを精神的に破壊しているのか、4つの側面から考えてみようぜ。

「存在価値」ではなく「機能価値」で査定される恐怖

人間としての価値: 生きているだけで尊い、という無条件の肯定(存在価値)。

資材としての価値: テストの点数、英検の級、内申点、コミュ力など、社会の役に立つ能力(機能価値)。

子供への影響: 現代の子供たちは、常に「お前は何ができるのか」「どんな価値があるのか」というスペック(仕様)ばかりを査定されている。まるで中古車市場だ。そのため、「成果を出せない自分には生きている価値がない」「役に立たない自分は粗大ゴミと同じだ」という極端な自己否定に陥りやすくなっちまう。それで命を大切にしろと言っても、説得力ゼロだろう!

「不良品」として排除されることへの怯え

人間を「材料」とみなす社会では、規格に合わないものや、途中で壊れてしまったものは「不良品」や「ロス」として扱われる。

不登校になったり、受験に失敗したり、メンタルを崩したりした子供に対して、社会や学校は「修理して早く元のライン(集団)に戻すこと」ばかりを求めている。子供たちは「一度でもレールを外れたら、不良品として社会から廃棄される」という、文字通り命がけの恐怖を背負って生きているといっても過言じゃないだろう。

レジリエンスってのは、看板だけか?!

俺の考えじゃ、人生ってのはレールから外れてからが、本当の自分自身の人生なんだぜ!

「自己責任」という名のメンテナンスの強要

人材」という言葉は、しばしば「自己投資」や「自己管理」という言葉とセットで使われる。

企業が資材の品質維持を求めるように、学校や社会も子供に対して「自分で体調やメンタルを管理し、常に高いパフォーマンスを維持せよ」と求めている。

いじめや過度な競争で傷ついている子供に対してさえ、「ストレスに負けるな」「レジリエンス(復元力)を鍛えろ」と個人の努力不足(メンテナンス不足)のせいにされるため、子供は誰にも弱音を吐けなくなるだろう。

大人でも鬱病になる世の中なんだから、子どもが抑うつ状態にならないなんてことないだろう?俺だって、鬱病の薬飲みながらなんとか生きてるんだよ!

教育の「費用対効果(ROI)」への組み込み

親や社会が、教育を「子供の幸福のため」ではなく、「将来、良い企業に入って元を取るための投資」として計算するようになっている。本末転倒だ。

子どもたちもバカじゃない。子どもたちもその空気を敏感に察知しているんだ。「親に高い塾代を払ってもらっているのに、成績が上がらない自分は投資に値しない」という罪悪感や負い目が、子供たちの心を内側から削り取っている。

俺は、別に俺がお願いして塾に行ってもらってるわけじゃないんだから、いつでもやめてくれて結構だと息子には常々言ってるけどな。なにせ、俺の小遣いが増えるからな(笑)

さて、この飯を食う産業の 「材料」から生きる主体としての「人間」を取り戻すためにはどうしたらいいかな?

人間を材料(リソース)として消費する社会では、自殺とは、その過酷な生産ラインから「自らシステムをシャットダウンして脱出する行為」という側面を持っているだろう。

子供の自殺を止めるために本当に必要なのは、相談窓口を増やすといった表面的な対策ではないんじゃいか?

「たとえ学校に行けなくても、勉強ができなくても、あなたは生きているだけで100点満点であり、誰の資材でもない」ということを、大人や社会の側が本気で示し、教育の目的を「経済の道具作り」から「個人の幸福」へと180度転換することじゃないか?

イマヌエル・カント🔗も『人間を手段としてではなく、同時に目的として扱うべきだ』と言っていたぜ。この定言命法🔗は、現代の日本社会において完全に蔑ろにされている。

そういう視点が今の社会には、きれいさっぱり全く抜けてるんじゃないでしょうか? 

どいつもこいつも、あいつは人材として使えるだの使えないだの、そんなことばっかり言ってるじゃないか?果たして、俺たちは他人の値踏みができるほどご立派な存在なんだろうか?

新自由主義経済万能の現在の社会は、このカントの警告とは真逆の「人間を徹底的に手段化する社会」になってしまっているといっても過言ではないだろう。1. カントの「目的」と現代社会の「手段」の対比


カントの視点を現代の「人材」という言葉に当てはめると、この社会の異常性が浮き彫りになりるのがわかるだろう。

視点

カントが説いた「目的としての人間」

現代社会の「手段(人材)としての人間」

存在の価値

人間には「尊厳(価格をつけられない絶対的価値)」がある。

人間には「価格(市場価値や給与、スペック)」がある。

評価の基準

生きていること、それ自体が無条件に肯定される。

「使えるか、使えないか」「生産性があるか」で査定される。

社会の役割

社会や国家は、個人の幸福や倫理的成長のためにある。

個人は、国家の経済成長や企業の利益のための「資源」である。

今の社会は、子供や若者を「将来の経済を支えるための道具(手段)」としてしか見ていないんじゃないだろうか?

少子化対策でさえ、子供の幸福のためではなく「将来の労働力や納税者を確保するため」という、国家の都合(手段)として語られることが多いのがその証拠だ。冗談じゃない。社会のために市民がいるんじゃない。市民のために社会システムが構築されるべきなんだ。本末転倒だ。

そして、「手段」にされた子供たちが受ける精神的加害を考えてみようぜ。

人間を手段として扱う風潮は、子供たちの心を確実に蝕んでいる。

交換可能なパーツとされる絶望

カントは、人間に代わりになるものはない(尊厳がある)とした。

しかし「人材」として扱われる子供たちは、「お前の代わりなどいくらでもいる」という無言の圧力を常に受けている。これは子供だけじゃない。社会で働くすべての人々が、その脅迫を受け続けているんだ。とりわけ、派遣労働者など、本当にそんな都合のいい感情のない部品のように扱われている。君は知っているか?俺は知っているぞ。

そして、人は自分が「社会の歯車(交換可能なパーツ)」に過ぎないと感じるとき、人は生きる意味を見失ってしまうだろう。

自己の手段化(内なるカントの否定)

最も深刻なのは、子供たち自身がこの価値観を内面化してしまうだ。

一例をあげてみようか。「英語が話せない自分は価値がない」「有名大に行けない自分は無能だ」と、自分自身を「使えない道具」として責め立てるようになってしまうだろう。

心が折れた時、彼らは自分という「道具」を自ら廃棄(自殺)してしまうことになるんだ。

なぜこの人間として、絶対に手放してはいけない視点が、日本社会から抜けてしまったのか?

それは、俺や君の責任でもあるんだ。それを直視せず、自分たちの無力を嘆くこともせず、そして次の世代にそれを付け回しするのはやめようじゃないか。

市場万能主義の教育への侵入

本来、教育はカントの言う「人間を目的として育てる(人格の完成)」場所だったはずだ。

しかし、経済の停滞が続く日本において、教育の目的が「企業の求める即戦力育成」という実利主義に完全にハイジャックされてしまっているんだ。

「役に立つこと」への過剰な信仰

現代社会は、病気や障害、あるいは不登校などで「生産性(役に立つこと)」を発揮できない人に対して非常に不寛容だ。残念なことだ。

しかし、それはジョン・ロールズ🔗無知のヴェール🔗を引くまでもなく、誰にでも起こりうることだ。

この「生産性至上主義」が、子供たちから「何もしなくても、ここにいていいんだ」という安心感を奪い去っているんだ。

今日の結びとして

俺がカントを引き合いに出したのは、本質的にこの問題を考えてほしかったからなんだ。別に俺は物知りだぜって自慢したわけでも何でもない。大切なのは、本質をとらえ、どうしたらよりよい社会を、人間のための社会を作ることができるか考えることだ。子どもたちが絶望し、自ら死を選ぶことのない、よりマシな社会に近づくことができるかということだ。

ズバリ言えば、現代の子供の自殺問題は、心理学や教育学の枠を超えた、「この社会は人間を人間として扱っているか」という哲学的な敗北を意味しているんだ。それは、トクリュウ犯罪などにみられるような社会的な自殺もまったく同じ構造だ。

いい加減俺たち大人は「人材」という言葉を安易に使うのをやめ、子どもたちを「未来の労働力」ではなく、「今を生きる一人の人間(目的そのもの)」として遇する社会へ舵を切らなければ、悲劇を止めることはでるわけがない。

そういえば、最近TVで裸の大将放浪記🔗とか寅さんシリーズこと男はつらいよ🔗やらないな。きっと、山下清🔗や渥美清演じるフーテンの寅次郎みたいな、一見生産性のない人間には、社会が存在価値を見出していないからだろう。インクルーシブ?多様性?笑わせるな。そんなの百年早いぜ。

2026/03/09

POST#1783 このような見識と胆力のある政治家をわたしは信頼する

Bhaktapur、Nepal
先日、朝日新聞によって報道されたスペインのサンチェス首相の演説は素晴らしい内容だった。俺自身は、このように優れた見識を持つ政治家にこそ、国のかじ取りを担ってほしいものだと羨ましく思った。

以下の全文引用させていただく。出典もとは右派の皆様に目の敵にされる朝日新聞の2026年3月5日23時37分の配信だ。世間の皆様からオワコンとされるオールドメディアだよ。文中の太字強調は俺の主観によるもので、朝日新聞の記事で強調されているわけではない。また、チャプターごとに付された見出しも割愛させていただいたことを申し添えておく。

『おはようございます。
 中東で高まる危機に関するスペイン政府の立場と、私たちが実施している措置についてお知らせする。
 ご存じの通り、先週土曜日(2月28日)、米国とイスラエルがイランを攻撃し、これに対しイランは地域内の9カ国と、欧州国家のキプロスにある英国基地を無差別に爆撃して応酬した。
 何よりもまず、イラン政権による違法な攻撃を受けた諸国に対し、スペイン国民の連帯の意を表明したい。
 その後も敵対行為は継続し、むしろ激化しており、住宅、学校、病院で数百名の死者を出している。さらに国際的な株式市場の暴落、航空網とホルムズ海峡の混乱を引き起こした。この海峡はつい最近まで世界のガス、石油の総量の20%が通過していた。

 今後何が起こるかは、誰にもわからない。最初の攻撃を仕掛けた者たちの目的すら不明確だ。
 しかし、(最初の攻撃を仕掛けた)推進者たちが言うように、これは長期化する可能性のある戦争であり、多くの犠牲者が出るかもしれない。経済面でも世界規模で深刻な影響を及ぼす可能性があることに備えなければならない。
 スペイン政府のこの状況に対する立場は、明確かつ一貫している。ウクライナでも(パレスチナ自治区)ガザでも私たちが維持してきた立場と同じだ。

 第一に、私たち全員を守る、特に最も脆弱(ぜいじゃく)な存在である民間人を守る国際法の違反を許さない。

 第二に、紛争と爆弾だけで世界の問題を解決できると考えることに反対する。

 そして最後に、過去の過ちを繰り返すことに反対する。

 要するに、スペイン政府の立場は「戦争反対」という言葉に集約される。

 世界も欧州もスペインも、すでにこの状況を経験してきた。
 23年前、別の米国政権が私たちを中東戦争に巻き込んだ。当時、サダム・フセインの大量破壊兵器を排除し、民主主義をもたらし、世界の安全を保証するための戦いと名目上は説明された。しかし現実には、振り返ってみると逆効果をもたらした。それはベルリンの壁崩壊以来、私たちの大陸が経験した最大の不安定化の波を引き起こしたのだ。

 イラク戦争はジハーディスト(聖戦主義者)のテロの急増、東地中海における深刻な移民危機、エネルギー価格の全般的な上昇、ひいては生活必需品の価格や生活費の上昇を引き起こした。

 これが当時の欧州人への「アゾレス・トリオ」(編集注:2003年3月にポルトガル領アゾレス諸島でイラク開戦をめぐり会談したブッシュ米大統領、ブレア英首相、スペインのアスナール首相の3人)による贈り物だった。
 より不安定な世界と、より劣悪な生活だ。
 確かにイラン戦争がイラク戦争と同様の結果をもたらすかは、現時点で判断するのは早すぎる。イランの恐るべきアヤトラ(宗教指導者)政権の崩壊につながるのか、それとも地域の安定化をもたらすのか。

 しかし確かなのは、そこからより公正な国際秩序が生まれることも、賃金の上昇や公共サービスの改善、環境の健全化がもたらされることもないということだ。
 現時点で予見できるのは、経済の不確実性の増大と石油、ガス価格の高騰だ。
 だからこそスペインはこの災厄に反対する。政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解しているからだ。
 その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。

 こうした状況下で、(スペインの)進歩的な連立政権は他の紛争や国際危機と同様の対応を取る。
 まず第一に、中東にいるスペイン人を支援し、彼らが望むならば祖国へ帰還する手助けをする。外務省と軍は昼夜を問わず避難作戦を調整中だ。
 同地域の空域が安全でないこと、空港網が攻撃で深刻な打撃を受けていることから、作戦が極めて困難であることは明らかだ。だが同胞のみなさんは確信していい。私たちはみなさんを守り、必ず祖国へ連れ帰る。
 第二に、スペイン政府は、この紛争が経済に影響をもたらす可能性に備え、家庭、労働者、企業、自営業者を支援するためのシナリオと、可能な措置を検討している。
 我が国の経済の活力と、政府の財政政策の責任ある取り組みのおかげで、スペインは現在、この危機に対処するために必要な資源を持っている。
 私たちには能力があり、政治的意志もある。パンデミック、エネルギー危機、そして最近の関税危機のときと同様に、関係者と手を携えて対応する。
 第三に、平和と国際法の順守を推進する国々とは、これまで通り協力する。必要な外交的・物的資源をもって支援する。
 私たちは欧州の同盟国と協調し効果的な対応を図る。ウクライナとパレスチナという、決して忘れてはならない二つの地域において、公正で永続的な和平を実現するため、引き続き取り組んでいく。

 最後に、政府はこの戦争の停戦と外交的解決を引き続き要求する。

 ここで強調したいのは、適切な言葉は「要求」だということだ。

 スペインは欧州連合(EU)とNATO(北大西洋条約機構)、そして国際社会の一員だ。この危機は私たち欧州人、ひいてはスペイン国民にも影響を及ぼす。
 だからこそ米国、イラン、イスラエルに対し、手遅れになる前に停止するよう、最大限の責任ある対応を要求しなければならない。

 何度も言ってきたが、改めて繰り返す。

 違法行為に対して別の違法行為で応じることはできない。それは人類の大惨事につながるからだ。

 20世紀の第1次世界大戦が始まる前の1914年8月(編集注:第1次大戦は1914年7月に開戦)、当時のドイツ首相が「第1次大戦はどう始まったのか」と問われた。彼は肩をすくめてこう答えたという。「私も知りたいものだ」と。
 大きな戦争は往々にして、制御不能になった連鎖反応、誤算、技術的失敗、予期せぬ出来事によって勃発する。
 だからこそ私たちは歴史から学ぶべきだ。何百万人もの運命を、ロシアンルーレットのように賭けてはならない。
 この紛争に関わる国々は、直ちに敵対行為を停止し、対話と外交の道を選ぶべきだ。

 そして私たちのような他の者は、一貫した行動を取り、ウクライナ、ガザ、ベネズエラ、グリーンランドについて語る時と同じ価値観を、今こそ守らねばならない。

 問題は私たちがアヤトラ(イランの宗教指導者)を支持するか否かではない。(宗教指導者を)誰も支持しない。スペイン国民はもちろん、スペイン政府も決して支持しない。

 問題は、私たちが国際法の側に立つか否か、つまり平和の側に立つか否かだ。

 スペイン社会は常にイラクのサダム・フセイン独裁政権を非難してきたが、それはイラク戦争への支持を意味しなかった。なぜならそれは違法であり、不正義であり、解決を掲げた問題のほとんどに真の解決をもたらさなかったからだ。
 同様に私たちは、特に女性を含む市民を抑圧し卑劣に殺害するイラン体制を非難する。

 しかし同時に、この紛争を拒否し外交的、政治的解決を求める。
 このような私たちを、考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。
 私たちは、世界の害となる行為や、私たちの価値観や利益に反する行為に、単なる報復への恐れから加担することはない。
 なぜなら私たちは自国の経済的、制度的、そして道徳的な強さに絶対的な自信を持っているからだ。そしてこのような時こそ、スペイン人であることをかつてないほど誇りに思う。
 私たちは困難を認識している。しかし、未来は決まっているわけではないことも知っている。
 多くの者が当然のこととして受け止めている暴力の連鎖は、完全に回避可能であり、人類はアヤトラ(宗教指導者)の原理主義も戦争の惨禍も乗り越えられるのだ。
 この希望を私たちだけが抱いていると言う者もいるだろうが、それもまた真実ではない。

 スペイン政府は共に立つべき者と、共に立つ。

 私たちの父や祖父が憲法に刻んだ価値観と共に立つ。
 スペインは欧州連合の創設原則と共に立つ。
 国連憲章と共に立つ。
 国際法と共に立つ。
 それゆえに、国と国民の平和と平和的共存と共に立つのだ。
 私たちはまた、同じ考えを持つ多くの政府と共に立つ。

 戦争と不確実性ではなく、より多くの平和と繁栄をもたらす未来を求めている欧州、北米、中東の数百万の市民と共に立つ。
 なぜなら前者はごく少数の者だけが利益を得るからだ。
 そして後者は私たちすべてに利益をもたらす。

 どうもありがとうございました。』

このような見解は、スペインだけではなく広く世界中の国々に共有されるべきものと俺は考える。このように理念にしっかりと立脚し、自らの見識に基づいて堂々と国民に正論を語り掛ける政治家は尊敬できる。
こんなことを言えば、わが国ではすぐに脳内お花畑だと揶揄し、理想主義者だと批判するする輩が雲霞のように湧いて出るだろう。アメリカというスーパーパワーに従属しないのは現実的ではないと、したり顔で語るものも数多いることだろう。
しかし、サンチェス首相の演説の中には『このような私たちを考えが甘いと非難する者もいるだろうが、考えが甘いのは暴力こそが解決策だと考えることだ。考えが甘いのは、民主主義や国家間の尊重が廃虚から生まれると信じることだ。あるいは無分別で卑屈な追従こそが、指導力だと考えることだ。
 私たちの立場は決して考えが甘いのではなく、むしろ一貫していると考えている。』と明確に述べられている。いわゆる識者の皆さんが現実的ではないというとき、其処には思考停止と現状の無条件の肯定が潜んではいまいか?

 サンチェス首相の言葉には強い力がある。彼は『政府の役割は人々の生活を向上させ、問題の解決策を提供することであり、生活を悪化させることではないと理解している』という。
この当たり前のことを、当たり前に言う政治家が我が国の政府にもほしいものだ。さらに彼は容赦なく続ける。『その使命を果たせない指導者たちが、自らの失敗を隠すために戦争を利用し、さらにいつも通りの少数の者たちの懐を肥やすことは、絶対に許されない。世界が病院の建設を止め、ミサイルを生産するとき、利益を得るのは彼らだけだ。』
歴史の過ちに学び、法を遵守し、国家としてできうる最大限の対策を講じる。
そしてなおかつ、戦争が少数の者たちの利益のために行われるという不都合な真実にまで言及している。
そりゃ、アメリカの王様もカンカンになって、スペインとの交易は一切禁止するというだろうな。小気味いいぜ。アメリカの属国の指導者には口が裂けても言えないことだもんな。
実際にアメリカのミサイル攻撃で子供たちが通う学校が破壊され、180人もの児童が虫けらのように殺された。それは正しいことなのか?そして、その攻撃目標の選定はAIで行われたんだとさ。さすがはAIだ!世の中の人々の仕事が減るわけだ!
180人の子供たちの一人が、あなたの子供だったら、あなたはどう考えるだろうか?国家の体制がどうであれ、人間の命を蔑ろにしてもよいのだろうか?あなた自身はどう考える?
株価が下がったとかガソリンが値上りしたとか言っているうちに、人間の知性と尊厳、長年の災厄を経て築き上げられてきた法体系、そしてなにより人々の未来が問われているのだよ。

裸の王様が、世界中を脅している。そしてそのために裸の王様の王国は世界から信用を無くしている。そしてなおかつひどいことに、世界を仕切っているとされるのは、この裸の王様の王国と、広大な面積を持ついくつかの専制国家だということだ。
脳内お花畑の理想主義者の俺は、心底憂鬱になるぜ。

2026/03/07

POST#1781 美しい行為の裏のうさん臭さ

Nagarkot,Nepal
日本人は、ボランティアが好きだ。

災害大国だというのもあるが、一旦大きな地震などが起こると、多くの人がボランティアとしてはせ参じる。

しかし、俺はいかない。というかいけない。その災害の当事者になったならば、地域社会の一員として率先してできることをするだろう。しかし、遠く離れたかかわりのない場所に、援助物資を押しかけて参上するつもりはない。

ズバリ自分の生活に余裕がないからだ。あれは思うに自分の生活に余裕がある人間が、自分の生活を成り立たせる収入が確保されたうえで、行えばいいものだと思う。自分にかかわりのない縁者がいないのならばなおさらだ。そもそも溺れかけている人間が、溺れている人間を救うことなんかできない。その志自体は美しくても、共倒れになるだけだ。

普段は弱い立場のものを差別し、排除したり、社会の裏側に押し込めていて何ら痛痒を感じない人々が、災害を前にすると、急に絆だとか社会貢献とか言い始めるのも自然発生的な大政翼賛会のようで、なんだか薄気味悪い。この日本の社会を覆う重苦しい同調圧力はどこから生み出されるんだ。

スーパーボランティアとかメディアで紹介されるような善意の人への報道も、戦前戦中の新聞が称賛していた爆弾三勇士とか、死んでも進軍ラッパをは口から離さなかった日露戦争の際の木口小平二等兵を称賛していた新聞みたいで、どこか薄気味悪く感じる。

もちろん、被災者の支援や復旧に社会のリソースを割かねばならないことは重々承知している。しかし、それが本当に必要なことならば、公費で行うべきことではないのか?みなさんの美しく高潔な志を、何かうさん臭い思惑が汚しているように思えてならない。

俺には決してボランティアをしている人々を貶める意図はない。むしろ、俺にはできないことをやれてしまうすごい人たちだと思っている。

しかし、俺が今ここで述べているのは、災害復旧などにマンパワーが本当に必要ならば、人々の自発的な善意に頼るのではなく、社会契約に基づいて存在する国家が、国家予算を投じて第一義的に動くべきではないのか?という単純な問いかけだ。

1980年代以降、新自由主義的な国家運営が常態化し、わが日本国も行政のスリム化、小さな政府、公的事業の民営化やアウトそーソングが続けられ、公的な事業はどんどん縮小している。あるいは国家事業そのものが民営化され、営利企業に転換したのを見てきたはずだ。そして今や多くの公務員がいつ首を切られるかわからない短期任用の非正規雇用だ。

公助から自助とか反動的な主張を超え高に叫んでいた首相もいた。にもかかわらず、国家予算は年々拡大増大の一途だ。

本当に社会に対して必要な緊急性の高い事業だからこそ、そういったボランティアにも、公費で最低限の賃金を保証するのが正しいあり方だと俺は思う。

そうすることによって、人々に国から資本が注入され、それはさまざまな形の商品へと変換してゆき、資本の流動性を高め、経済成長に貢献するのではないですか。

また、被災地などでのボランティアには危険が伴う。さらに正義感や義務感に駆られて、自らの体力の限界を超えて働き、命を落としたりケガをしたりする方もいる。

そういった二次的な災害というか不幸に対しても、国家なり自治体なりが予算を組んでサポート体制と組織化を行い、保険をかけて不測の事態に備えるべきだと思う。ボランティアだから自己責任というのは、あまりにも理不尽ではないだろうか?

ボランティアとはそもそも義勇軍を意味する。ウクライナの戦役に、世界各地から参戦した個人の戦闘者のような存在だ。俺はウクライナの人々にい同情はするけれど、義勇軍になるのはごめんだ。ガザやイランに行くのもご遠慮させていただきたい。その代わり、国連UNHCR協会と国連WPFに月々2千円づつ寄付することで、長年ささやかながら関わらせていただいている。もう何年も続けている。だからと言って税制優遇が大してあるわけでもないし、純粋に少しでもマシな世界にするために、自分に無理のない範囲で出来ることをしているだけだ。俺の乏しい稼ぎなら、それで十分じゃないか?継続は力なりだぜ。ミサイル一発で吹っ飛ぶ幸せや暮らしの重さには代えられないけれど、連帯を意思表明し、わずかながらも日々の暮らしから力添えをする。俺にはそれが精いっぱいだ。

また、ボランティアのすそ野は広がっている。

教員の負担軽減のために、地域のボランティアのかたに学校のクラブ活動を見てもらおうという試みが始まってはいるが、スポーツのコーチングや文化的なリベラルアーツを若者たちに指導するには、相応の知識経験だって必要だ。その専門スキルを無償で提供することで、本来自身の生活のためにそのスキルや自らの時間を生かすことによって生まれていたはずの収入=資本の増加の機会が損失するだろう。この機会損失は個々人にとっては微々たるものかもしれないが、日本全国津々浦々に視野を広げたとき、その損失はかなりのものになるだろう。

また、その人たちにも生業がある。万一その活動中に指導員や若者に事故やケガがあったとき、その保障は誰が担うのか?ボランティア個人に担わせるのか?学校や自治体、あるいは厚生労働省が担うことになるのか?

さらに踏み込めば、そのボランティアの人々の指導方法が適切なものかどうか?ハラスメント的なものや根性論的なものになっていないか?あるいはそこに性犯罪履歴のあるものが志願していないか?そういった問題をどう防ぎ、どのように管理していくのか?

それを学校の教員に担わせるのは本末転倒なのは火を見るよりも明らかだ。

私たちの社会を、私たち自身で運営していくには、自らの総体たる国家へ自らの能力を委譲しなければならないとしても、それでも私たちには何も損なわれるものはないというジャン=ジャック・ルソー🔗の説いた社会契約論🔗のような視点が絶対に欠かせない。近代民主社会はその思想を起点にして民主国家というフレームを構築しているのだから。しかし、今や税金を徴収され、より経済成長の美名のもとに、より豊かなものに国民から集めた詩音が再分配される転倒減少が続いている。それは国家としてのあり方としてどうなのか?本当に公平なのか?それを有耶無耶にしたまま、一朝ことあればボランティアをあてにするというのは、国家の体を成していないのではないだろうか?それは単なる抑圧と搾取のシステムではないのけ?

抑圧のシステムではなく、私たちが共に生きてゆく共通基盤のとしての国家というものを、私たちは自らに身近なボランティアという視点からも、もう一度問い直さねばならないのではないだろうか。

2026/02/21

POST#1767 原初の豊かな社会と未来の短時間労働社会のはざまで

Nepal シヴァ神の聖地 パシュパティナートの火葬場

実は自分は、こう見えてかなり完璧主義で不安神経症の持ち主だ。

最悪だ。いつだってカギを閉め忘れていないかとか、こなし忘れたタスクはないか?そんなことばかりが気になってしまう。

仕事になると、それが実に顕著だ。

みんな自分の立場から高飛車にものを言ってくる。うまくいかないイライラを弱い立場の人間にぶつける。俺は組織が守ってはくれない、いうなればフリーランスだからなおさらだ。

だから、いろいろ気になりだすと頭の中がいっぱいになってしまう。眠っているとき以外のすべての時間を仕事に注ぎ込んでしまう。

だから、仕事中に音楽とか聴きながらとかはできないんだ。気が散ってしまう。考えがまとまらない。

気にしたって仕方ないのに。自分の小心さにうんざりしてしまう。

この世のたいていのことは、死んで灰になってしまえばどうということはないことばかりなのにという、投げやりな想いも頭の片隅にある。

シヴァ神を祀る聖地、ネパールのカトマンズ近郊のパシュパティナートは火葬場でもある。

以前ここを訪れた際に、川の対岸から薪に埋もれた死者が燃やされ、水分と炭化物の混じった煙になり、また煮えた脂となって川に流れていく様を、ぼんやりと見つめていた。

ガンジス川に通じるこの聖地を流れる河原で焼かれると、来世はより良い境遇に生まれ変わるのだという。どうせなら、こんな火葬場で焼かれたいものだ。

美しい人も、勇ましい人も、抜け目ない人も、いつかはくたばる。そう思うと、心が少し軽くなる。夢も希望もないって?仕方ないさ、こう見えて俺はうつ病だからさ。

心が落ち着かないときには、本を読むのがいい。ほんの6分ほど読書するだけで、脳の興奮がおさまり、集中できるようになるそうだ。

読まなければ現代社会について論じることはできないぞという本が、山ほど積まれている。経済学や人類学の本がほとんどだ。そこに今日、友人から勧められた金村修の写真批評🔗が加わってしまった。パラパラ読んでみるとやはり面白そうだ。

仕事のひりひりするような緊張感もたまらないけれど、読書に耽溺して頭の中にダイブするような暮らしもいいものさ。

ワークライフバランスが必要だ。

成長のスイッチを、押して、押して、押して、押して、押してまいりますとか言ってる人もいるけれど、人間が押しつぶされて、自分の頭で考えることができなくなっちまうぜ。まぁ、AIの皆さんに考えていただくのがいいのかもな。冗談じゃないぜ。

そもそも、経済成長したって、庶民の生活は厳しいままだろう。

効率が上がっても、その分余計にこき使われるだけだろう。

企業の内部留保がたまり、株価が上昇するだけだろう。

みんなネットで常に浴びせかけられる広告で、差し当たって不要なものでも欲しくなっちまう。しかし、賃金は伸びず、物価は高騰する。金利が低ければ、借金してでも買うだろう。

インフレだ。いずれ資産バブルになり、それを冷やすために大幅な金利上昇がやってくるだろう。

行き詰った自由貿易体制が、自国中心の保護主義に逆回転し始めている。すでに円安に苦しむ皇国臣民の皆さんは、これから先、今以上の物価高騰に塗炭の苦しみを味わうことになるだろう。残念!


今から100年近く前、ジョン・メイナード・ケインズは「私たちの孫の世代には、労働効率が上がって、一日に3時間ほど働けば生活できるようになるだろう」と予想した。

人類学は、未開社会の人々が食べ物を入手するために働くのは、一日せいぜい3時間で、あとはイチャイチャしたり、ダラダラしたり、くだらないことでゲラゲラ笑いあったり、おならをしたり、昼寝をしたり、アクセサリーを作ったりして暮らしていたと報告している。

人類学者たちが提示した原初の豊かな社会とケインズが予言し(あっさり外れた)社会像の間で、俺たちは今日ももがき続けている。

世間様は3連休だってのに、今夜も仕事さ。やってられないぜ。商売繁盛さ。

2026/01/21

POST#1736 不死身の男

世界の街角から 今日はカトマンズ

 HCUに入っていて、半死半生の親父にできることは何もないので、俺は仕事に戻ることにした。去年は今年と違って大忙しだった。本当なら今年も今頃大忙しの予定だったが、人生はどこで何が起こるかわからない。

で、週末ごとに病院に行ってみると、いつのまにかHCUから出て、一般病棟に移っているじゃないか。インフルエンザは緩解したようなので、一般病棟で点滴点滴、通路をゆっくり歩くリハビリだと。

豊子さん、豊明さんなら、もうそっちに連れて行ってくれてもいいんだぜ!
ノブちゃんもうすぐ13回忌の法要だってのに、親父のことを守りすぎじゃないのか?

いかにも冗談の通じなさそうな無表情な主治医からは、このまま何もなければおよそ二週間で退院だと告げられた。
冗談じゃない。俺は一月中に親父のアパートを引き払い、どこか住むところを見つけてやらなきゃなと思っていたのに。目算が狂っちまうよ。資産家の未亡人の大家には、ぐだぐだ文句ばっかりこきやがるから、一月分の家賃で5万円現金で押し付けてきて黙らせてきたというのに。ここであのアパートに戻ったら、元の木阿弥だ。また何年も年取った猫と一日中テレビを見て、あれこれ好き放題食いまくる生活に逆戻りだ。
親父に面会すると着替えを用意してほしいという。一般病棟に移ったので、寝間着とか下着とかが必要なんだと。

まったく、俺の親父は不死身なんじゃないか。
いや、もう死んでるけどゾンビなんじゃないか。

俺は病院のケースワーカーさんとの面会を取り付けて、なるべく俺の家から近くて手ごろな金額で入所できる高齢者サービス住宅をいくつか紹介してもらった。
俺は近くに住んでいる弟と連れ立って、高齢者サービス住宅の見学に行ったりした。忙しいったらない。
市役所に行き、老人福祉課で要支援・要介護認定の依頼もお願いした。これがあるのとないのとじゃ、入れる施設も金額も何もかも変わってくる。
それに何より親父の財務状況、それも借金のことをはっきりさせておかなけりゃならない。
俺は、そそくさと親父の埃っぽいアパートに向かった。
倒れた直後に、食料品や生ものなどは処分しておいた。例によって土足で立ち入り、積み重なった書類や書類ケースの中に無造作に突っ込まれた小切手帳、壁に張られた督促状、銀行の通帳、ATMの振込明細、実印、もう使われていない社印と社判、そんなものを山ほど回収した。
年取った猫は、相変わらず押し入れの中に隠れて様子をうかがっている。
銀行の通帳はいくつも出てきた。一体いくつの銀行に口座を持ってやがるんだ。マネーロンダリングでもしてるんじゃないのかってくらいだ。
昔一緒に住んでいた女性の銀行口座に振り込んだ明細も出てきた。くさい。
鋏の入れられた小切手帳、5000万円とかぞっとするような金額が記されているものもある。
これが焦げ付いているんじゃないだろうか?
債権回収会社からの葉書。どうも昔、カードで買い物した金を踏み倒し、それが今や年利14%で雪だるま式に膨れ上がっているようだ。
銀行からの借金は、少しづつ返済し、都度手形を切って返済期限を更新してゆくという、聞いたこともないようなトリッキーなことをやっている。

社会人になったばかりのころ、数千万円の借金の保証人にされて精神的に追い詰められていた経験を持つ弟は、この伏魔殿にはあまり近寄ってこなかった。

ついでに親父の着替えを探してみたが、下着もよれよれ、服も襟や袖がほころんでいる。みすぼらしいったらないぜ。
俺はそれらをすべて市の可燃物のごみ袋に突っ込んで、近所のGUでしこたま下着やラウンジウェアを買い込んだ。GUでこんなに買い物したのは初めてだったぜ。

そうこうしているうちに、親父が尿路感染で菌血症になってしまったという連絡が入った。
その前の年に俺が腎臓結石になったときに発症した奴だ。血液の中に菌が入りこみ繁殖してしまう。悪くすると死ぬ。しかし、病院からは死ぬことはないので安心してください、ただ、退院が伸びますとの説明だった。ベッドの空きがないので、1月末ごろに転院していただきますというありがたいお話だった。
ついでに言うと、市民病院の主治医は親父には要支援も要介護も必要ないという判断を下したんだとさ。俺は肌の白い無表情な若い医師の顔を思い浮かべた。
くそじじいめ、リハビリ頑張りすぎだろう。その生に対する執着はいったいどこから湧いてくるんだ?

俺も頭の上に人魂が飛んで、頓死してしまいたいと思ったぜ。
やれやれ、この憂鬱な話はまだまだ続く。

2016/01/12

Post #1689


まさか、47歳の誕生日、倉庫の打ちっぱなしの床の上、仕事で使う養生用の毛布にくるまって眠ることになるとは、思わなかった。

誰か誕生日プレゼントに寝袋をくれたら良かったのに!  

人生はいつだって予測不能なもんだな。

2015/12/01

Post #1686

Nepal
自分の言葉の意味をわかってない馬鹿野郎が多すぎて、うんざりしています。
ろくすっぽ自分の言葉がどんな事態を引きおこすのか、その言葉を発している自分の立場立ち位置がどこいらあたりにあるのか、その辺をわからずに、思考停止したまま適当なことを口走るバカばかりです。

挙句の果てに、さっきの発言は取り消したいとか抜かし始めると、言葉の軽さと覚悟の無さに、心底軽蔑したくなります。

あんまりうんざりして、昼間っからタワーレコードに行って、CDを何枚も買いこんじまったくらいです。ロックンロールはいつも僕を支えてくれます。まるで親友や恋人のように。


ブログを放置していたのは、仕事が忙しかったからで、病んでるわけでも、もうやめようとか思ってるわけでもありません。
明日も、5時起きです。

2015/11/09

Post #1671

Patan,Nepal
朝、仕事に行こうと最寄りの駅まで歩いていると、右の下っ腹になんだか鈍い痛みが走った。
しかし、俺は痛風だの結石だのをさんざん経験してきたおかげで痛いのにはすっかり慣れているのさ。だからこんなの、どうってことないぜってフツーに仕事に行ったのさ。こんな差し込み、すぐに治るだろうってね。

しかし、痛みは一向にひかない。現場に出て大音声を張り上げて忙しくしていると、これまた全然痛みを感じないんだ。脳内麻薬だ。けれど、事務所に戻ってくると、やはり痛い。

俺はさっさと早引きして医者に行くことにした。

診断結果は盲腸だった。素晴らしい!冗談じゃないぜ。

思わず笑えてきたぜ。こんなに元気なのに、なぜ病気だっていうんだ?確かに腹は痛いがな。笑いすぎても腹は痛くなるもんだ。

手術か薬か、それが問題だ。どっちが現場にはやく復帰できるかな?そこが焦点なんだ。

明日の朝も、点滴を打ちに来いとお医者さんには言われたが、そのあとさっさと仕事に行き、現場をうろついたり、名古屋の監督の中でもっともデカいと言われる声で、会議を切り盛りしたり、現場をおさめていくつもりなんだが。

カミさんは、腹膜炎になったら困るから、無理しないでくれという。
医者は、2,3日は安静にしろっていう。

冗談じゃない。今はそんなことしてられるような時期じゃない。

俺は行かなけりゃならないんだ。俺がやらなくて、誰がやるっていうんだ

こじらせて腹膜炎になったとしても、そん時はその時だ。大丈夫だ。俺には息子ができてるんだからな。死んだところでどうってことないさ。あとは息子に任せてりゃいいのさ。とはいえ、まだ妊娠7か月だけどな。

読者諸君、失礼する。今夜はとっとと眠るとするさ。

2015/10/24

Post #1662

Kathmandu,Nepal
世の中には、責任を取らない責任者がたくさんいる。
責任をとらされるのは、いつも下っ端で、責任者はたいてい自分たちの非を認めようとしない。

その手の責任者は、物事がうまく運ぶと、自分の手柄にしたがり、ヤバくなると誰かのせいにしたがる。
けれど、俺は上手くいったときには、こんな自分についてきてくれた仲間たちのおかげだと素直に思いたい。上手くいかない時には、自分の責任として、自分の非を認めたい。

当節、クレバーな生き方は責任を取らない責任者のほうさ。
責任を取らないから、そこそこ出世する。羽振りだってイイ。しかし、そいつらはシコシコ貯め込むだけだ。飲みに行っても、絶対に割り勘だ。しみったれた野郎だぜ。

けれど、それは卑しい事なんだぜ。どんなに偉そうにしていたって、ここ一番でケツをまくるような人間を、俺は漢とは認めないんだ。

俺は、そんな奴らには、負けない。

男の器量で、一歩も引けを取ることもない。誰に対しても、誠実にひとりの人間として向かい合うだけさ。そんな人としてあったりまえのことができない時点で、そいつは負けてるのさ。
その立場とやらがなければ、他人と対峙することもできやしないのさ。立場の下駄を履いてることを忘れて、自分の人間性だか能力だかがすぐれていると思いこんっでいやがるのさ。
反吐が出るぜ。

読者諸君、失礼するぜ。今から、例の肝試しに出かけなけりゃならねぇんだ。楽しみだな!

2015/10/09

Post #1647

Kathmandu,Nepal
この夏一杯手掛けていた銀座の店舗のオープニングセレモニーに、潜り込もうと懲りずにまたまた東京にやってきた。
ホテルにチェックインしてこれを書いてるんだ。
店舗工事はやりがいのある仕事だ。しかし、過酷な勤務のために、この仕事を志す若者は少ない。おかげさんで、46歳にして未だに若手扱いされるぜ。参ったな。

しかし、一軒の店舗を苦労して作り上げたときの達成感は、なかなかのもんだぜ。
俺はこれからも懲りずにこの商売を続けていくんだろうよ。

しかし、俺にはもっと大きな仕事が控えているのさ。
今朝、カミさんを連れて、産婦人科にゆき6ヶ月検診を受けてきた。
おなかの子供はぐんぐん大きくなっている。今じゃ450グラムくらいだ。ちょっとしたもんだな。おなかに手を当てて話しかけると、力強く押し返してくるのも道理だ。

そして、ついに男の子が授かったのか、女の子が授かったのかがわかってきたんだ。
もちろん、女の子でも男の子でもかまやしないんだけどね。
エコー画像を見てみると、両足の間に、なんとなく見慣れた形のアレがついている。
全てがミニサイズだ。しかし、これは明らかにちんだろう?
診察してくれた先生も、9割方男の子でしょうと言っているしな。
俺は最初から、なんとなくそんな気がしてたんだよね。
俺に娘は似合わないって。大きくなって、アーパーな娘さんになられても困るしな。第一、俺は男兄弟4人の長男なんで、娘なんていわれてもどう接したらいいのか、さっぱりわからないんだからな。

さてと、この子を一人前の男に育て上げるのが、俺のこれからのライフワークだ。
未だかつてない大仕事だ。とんでもない長丁場だ。
銀座に店を作るのなんて、この大仕事に比べればちょろいもんだろう?

別にどうこうするわけじゃないけれど、ひとりの男として、どうやって世界に対峙していくのか、どうやって人に接していくのかを、身をもって示し続けていかなきゃならないんだ。
いやいや、別に気負ってやるほどのことじゃない、みんなフツーにやってることさ。
けど、俺は自分の子供には、世間並みの平凡な男になってほしくはないんだ。
是非とも、俺よりも面白い、波乱万丈の人生を送ってほしいんだ。そのためには、それを乗り切っていけるだけの男の器量を身につけさせてやらないとな。
それは学校や塾では教えてくれない。
俺が示していくしかないことなんだ。

あ、名前はもうずっと前から決まってるんだぜ。『麒麟児』ってね。おなかに手を当ててこの名を呼ぶと、なかから応えてくるくらいに馴染んでるのさ。

読者諸君、失礼する。もちろん、俺はこの子が一人前の男になる前に、この世とおさらばしなけりゃならないだろうけどな。残念だ。

2015/10/07

Post #1645

Patan,Nepal
何とか均衡を保っているカミさんの腹に手を当てて、羊水のなかを泳ぎ回っている胎児の胎動に意識を集中する。
そうして、不思議な思いに駆られる。
何とも不思議だ。
何もなかったところに、命が宿り、喜怒哀楽に振り回されながら生きていくってのは、つくづく不思議なことじゃないか?

俺たちはいったいなにものなのか?
俺たちはいったいどこからきたのか?
そして、俺たちはいったいどこへ行くのか?

まるでゴーギャンの有名な絵のタイトルのような疑問が、俺をとらえて離さない。

白戸三平は、長編漫画『忍者武芸帳』の主人公・影丸をして、『俺たちは遠くから来た。そして、遠くまで行くのだ』と語っていたっけな。

長いようでいて、結構短いこの束の間の人生は、いったい何のためにあるのか?
少なくとも、自分の責任を巧妙に回避しつつ、そつなくスマートに仕事をし、小金を儲けて安穏と暮らすためではないだろうよ。確かにそれも一つの生き方だ。誰だって、厄介ごとを背負いこみたくはないだろう。けれど、ニンゲンは自分の為したことについて、無責任ではいられないんだぜ。それは、自分の人生に真剣に向き合っていないような生き方だと、俺には思える。
俺は不器用でもいいから、自分の為したことの全てに、責任を持ちたい。
そして、全力を振りしぼるようにして、燃え盛る火柱のように生きていきたい。

ふと、そんな思いを腹の中の子供に語り掛ける。
きっとなにもわかっちゃいないだろうが、そんな俺の声にこたえるようにして、カミさんの腹の中から小さな、それでいて確かな何かが突き上げてくる。

できうればこの子に、波乱に富んだ、実りある人生を歩んでほしい。
精一杯、誰かを愛して、自分の力で人生を切り開いていってほしい。
そのためには、優しさと強さを身につけて成長してほしい。
この俺に、その導き手が務まるだろうかと、小さく力強い胎動を手のひらに感じながら、自分に問いかけてみるのさ。

俺たちの人生の意味を考えてみるとき、その始まりと終わりに、ぼんやりとかすむように広がっている『遠く』こそが、カギを握っているように思えてならない夜なのさ。

読者諸君、失礼する。命ってのは、つくづく不思議なもんだよな。粗末には出来ないぜ。

2015/10/05

Post #1643

Kathmandu,Nepal
去年のネパール旅行からはや一年か・・・。
月日の経つのは早いもんだ。旅行して、働いて、旅行して、働いて、またまた働いて。
こうして年を食っていくのさ。

ようやく体調がもどってきたと思ったら、今度は家庭内に波乱の予感。
詳しくは、ここにはとても書けんな。

読者諸君、失礼する。妊娠六か月に入ったカミさんに、もう出ていくなんて言われると実に困るもんだな。

2015/10/04

Post #1642

Kathmandu,Nepal
どうも朝から頭が痛いと思っていたら、微熱があったようだ。
だから、今日は一日、ひねもす眠って暮らしたよ。
読者諸君、失礼する。

2015/10/02

Post #1640

Nepal,Pashpatinath 死者は聖地で焼かれ灰は河へと流される

明日はすごく久しぶりに休みだ。
体を休めよう。美容院に行って、気分転換するのも悪くない。

なにしろ俺は、カミさんの腹に手を当てて、おなかの中で子供がもぞもぞ動くのを感じているうちに、眠ってしまうほど疲れているんだ。
少し風呂に入るつもりが、気が付くと湯船の中で何時間も眠ってしまっているほど疲れているんだ。
けれど、心まで疲れてるわけじゃないんだぜ。戦意旺盛だ。糞ッ垂れな現実に、たった一人で立ち向かっていく気概に満ち溢れてるんだ!
ただ、やる気はあるけど体がついてこれないだけさ。なんせ46歳だ、仕方ないだろう?

そんなわけで日々思うところがないわけではないけれど、はたから見るとブログは手抜き状態だということになる。
たまにはひとりで暗室にこもってプリントしたいな。手つかずのネガは山ほどあるんだ。こんな俺でも独り暗闇のなかで自分に向き合う時間が必要なんだ。
けれど、きみが僕のことを知っててくれるんだから、ムキになって書き続ける必要もないかもしれないな。

読者諸君、失礼する。けど、君のことをないがしろにしてるわけじゃないんだぜ。むしろ信頼してるのさ。おやすみ!

2015/09/26

Post #1635

Bhaktapur Nepal
オトナが楽しそうに笑っていない社会では、子供は大人になることは、なんてつまらない事なんだろうって思ってしまうに違いない。
自分がもし、いま12歳の子供で、朝夕の通勤電車に紛れ込んでみたら、大人になるってことは、ひどく憂鬱なことだと思ってしまうに違いない。

だからせめて、僕は楽しそうに振る舞っていたい。

へヴィーな状況に直面しても、それを難易度の高いゲームのように楽しんでいたい。
実際に愉しいからね。
気分の赴くままに、ステップを踏むように軽やかに歩んでいきたい。
愉しいときにはたからかに笑い声を響かせていたい。
思いが溢れてきたときには、涙を流していたい。
誰とでも分け隔てなく、打ち解けていたい。

大人しく振る舞うなんて、家畜じゃないんだぜ。

そんな僕の姿を見た子供たちが、大人になるって、あんなに楽しそうなことなんだって、ワクワクするように。

読者諸君、失礼する。体調は全然万全じゃないけれど、今から東京に出かけて、夜の工事をしてくるつもりさ。口元に笑みを浮かべながらね。

2015/09/25

Post #1634

Nepal
本日、体調不良で仕事を休んだ。
よって、写真のみでお許し願いたい。

読者諸君、失礼する。フラフラだ。

2015/09/23

Post #1632

Nepal
おんぼろのバスに乗って、いったいどこにいこうというんだ?

彼らは前を気にしているだけましだ。

読者諸君、失礼する。今日も君にとって、イイ日であることを祈ってるよ。

2015/09/22

Post #1631

Boudhanath,Nepal
金子光晴は、すごく好きだ。
贔屓の引き倒しで、このブログでも何度も紹介している。
作家の高橋源一郎は、金子光晴の詩を読めば、人生の中で、最低でも一人は素晴らしい彼女ができると断言していた。
高橋源一郎自身も5回も結婚してるんだから、大いに信憑性があるな。
僕自身のことはここでは触れないし、言えないこともあるけれど、高橋源一郎のいうことは、間違いないと思う。

この『女たちへのエレジー』のなかに収められている『愛情69』という詩集から、一つ好きなものを引用しよう。

愛情55

はじめて抱きよせられて、女の存在がふはりと浮いて、
なにもかも、男の中に崩れ込むあの瞬間。

五年、十年、三十年たつても、あの瞬間はいつも色あげしたやうで、
あとのであひの退屈なくり返しを、償つてまだあまりがある。

あの瞬間だけのために、男たちは、なんべんでも戀をする。
あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、生きてきたかのように。

男の舌が女の唇を割つたそのあとで、女のほうから、おづおづと、
男の口に舌をさし入れてくるあの瞬間のおもひのために。


(金子光晴 『愛情55』 講談社文芸文庫『女たちへのエレジー』 222頁より)

こういうのは、人によっては好き嫌いがわかれると思う。なんだよ、淫らなだけじゃないかって。
けど、一人の男として、すごく共感できる。
これに共鳴する心がないってことは、自分だったらさみしい人生だと思う。こころが乾いて、干からびてるのさ。もしくは、素敵な恋愛をしたことなんてないのかな?

その一方で、こんな気持ちもよくわかる。



神經をもたぬ人間になりたいな。
本の名など忘れてしまひたいな。

女たちももうたくさん。
僕はもう四十七歳で
近々と太陽にあたりたいのだ。

軍艦列島が波にゆられてゐる。
香料列島がながし目を送る。

珊瑚礁の水が
舟の甲板を洗ふ。

人間のゐないところへゆきたいな。
もう一度二十歳になれるところへ。

かへつてこないマストのうへで
日本のことを考へてみたいな。

(金子光晴 前掲書 『女たちへのエレジー』 14頁より)


旅が好きで、いつも旅に憧れている僕には、本当によくわかる。
本の名など忘れてしまいたくもなる。帰ってこない旅に、旅立ちたくもなる。
年が明ければ、僕も四十七歳だしね。
シベリアの針葉樹の森や、
サハラ砂漠の砂丘、
アマゾン河を抱く密林、
そして南方の島々。

いずれも彷徨ってみたいところばかりだ。
その時も、きっと古今和歌集を持っていくだろうな。
僕の古今和歌集には、飛行機のチケットの半券が、栞代わりに何枚も挟んであるくらいさ。

じゃぁ古今和歌集のなかでは、どんな歌が好きなのかと聞かれたら、とりあえずはこれかな。

わが恋は ゆくへも知らず はてもなし あふを限りと 思ふばかりぞ


(巻第十二 恋歌二、611  凡河内 躬恒)

僕はこの歌が、すごく好きだ。

いったいこの恋は、どう展開し、どこに落ち着くのだろうか、そんなのまったくわからないけれど、ただ次に逢うことだけしか、考えることが出来ないだなんて・・・。
行方も果てもないってことは、道ならぬ恋なのかもしれないな。
互いに求めあっているけれど、けっして恋愛➩結婚とかいう流れを辿ることのない恋なのかもしれない。
そんな所帯じみた落としどころなんて、端から切り捨てているがゆえに、逢いたい思いは激しく切ない。愛しい女性に、もう一度逢いたいという思いだけが、張り裂けそうな胸につまっているように感じる。

そんな狂おしいほどの想いを、胸に宿したことのない人生は、つまらない。

それがわかるようになったのは、かなり大人になってからの気がする。
けど、その一方で、物心ついたガキの頃から、僕はずっとそんなんだったような気もする。

読者諸君、失礼する。どんなロジックよりも、エモーショナルな言葉に僕は魅かれる。
もうすぐ、夜もあける。