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2026/06/08

POST#1871 ホジャは言った『わしの亡骸は頭を下にして埋めてくれ。頼むよ』

 

Istanbul,Turk

ナスレッディン・ホジャ🔗ってトルコに伝わる頓智じいさんの話がある。

この一休さんのように突き抜けたトルコのじいさんの話が好きで、よく読んでいる。

今ではすっかり稀覯本になっちまった平凡社東洋文庫の『ナスレッディン・ホジャ物語🔗』を、京都の古本屋で見つけて、その場で狂喜乱舞して、お値打ちに手に入れたこともある。

その中で、ホジャが臨終のときに地域の人々に、『わしが死んだら、頭を下にして墓に埋めておくれ』とたのんだという話がある。

いくら普段からおかしな言動で周囲をあっと言わせてきたホジャの頼みとはいえ、死ぬ時くらいはまっとうに葬りたいと願うのが人情だろう。それで家族や有縁の人々は難色を示しながらホジャにそのわけを尋ねた。

ホジャは気息奄々ながら自信満々に皆の衆にこう言ったんだ。

『世界の終わりが来るときには、すべてがひっくり返るっていうじゃろう。その時にワシは逆立ちしてるのは御免じゃからなぁ!』

まったく、なんていかれたくそジジイだ!最後までユーモアが炸裂してるな!

しかし、残念なことに冗談ではなく、価値観が転倒しきった社会を、今まさに俺たちは生きている。きっと世界の終わりが来てるんだろうよ!

例えばその学歴ってあるだろう?

学歴なんかで人間の価値なんかは全然変わるものじゃないはずだろ。でも今の我が国は学歴によって、その後の人生の全てが決まっていくっていうのは、きみ、暗黙の了解になってるんじゃないのかい?

それは世界の常識ですって?!

自分の口に出していってごらんよ。

『学歴によって、人生のすべてが決まっていく。それは世界の常識です。』って!

これ自分で言って気味が悪くないか?

これってそろそろやめた方が良くないか?

この「学歴至上主義」こそが、これまで俺が君たちと話し合ってきた「人間を『マテリアル=材料(人材)』として扱い、新自由主義的な市場の道具にするシステム」の最強兵器なんだぜ。

そしてそれは、子どもたちを10歳未満の幼少期から追い回し、追い詰め、最悪のケースでは自殺に追いやる元凶となっているとは思わないかい?

なぜこの学歴社会をやめるべきなのか、そしてこれがどう人間性を破壊しているのか、ちょっと考えてみようぜ。

1. 学歴、それは人間を「規格」で管理する道具

学歴社会の本質は、カントの言う「目的としての人間」の全否定に他ならない。人間を目的とするのではなく、人間を役に立つ素材として扱うための符丁だ。

そこに蔓延る現状の病理ってのはこういうことだ。

 新自由主義的な社会にとって、一人ひとりの複雑な内面や、南方熊楠のような野生の知性を評価するのは「非効率」で面倒なことなんだ。

将棋の駒より、囲碁の駒なのさ。

とはいえ、手っ取り早く人間のランク付けをして、『悪魔の挽臼』の歯車として大活躍して頂きたいところだ。

そこで、人間というマテリアルを振るいにかける網の目が、この学歴ってやつだ。

大学名や偏差値という「分かりやすい記号=規格」を人間に貼り付けて、企業や国家が「使える材料かどうか」を効率よく査定する道具として学歴は使われているんだ。そう、キュウリの選別するみたいにね。しかも、素晴らしいことに大方の場合、その学校で何を学び、どんな専門性を身につけたかは、ほとんど考慮されない。

ラベルが重要なんであって、中身が腐ってても空っぽでも構わないのさ。

奪われる尊厳

ひとりの人間が「どこの大学を出たか」という記号だけで査定されるとき、その人が持つ本当の優しさ、だらだら本を読む豊かさと実利的でない知識がもたらす人間としての深み、他者と迷惑をかけ合える人間味、つまりは人間の尊厳なんて利用価値のないものは、すべて切り捨てられちまう。残念だ。残念にもほどがある。

2. 「18歳での一発勝負」という残酷なライン

人間はいつからでも学び直せるし、何歳からでも成長できるはずだ。学びはトイレの中でもできるし、自分より優れている人を見習うことからでも学べる。自分より明らかにダメなやつからも、学ぶことがあるはずだ。あ、誤解されるといけないからあえて言っとくけど、ダメなやつからダメな部分を学ぶってことじゃないぜ。あくまで反面教師としてだよ!

現状の病理

日本の学歴社会は、18歳(大学受験)時点のペーパーテストの結果だけで、その後の人生の経路や、就職してからの配属先、生涯年収、社会的地位の大部分が確定されてしまうという、おかしな社会だ。

レジリエンスだのリスキリングが聞いてあきれるぜ。

まさに「一発勝負のライン」になっているんだ。因みに、俺の経験では、大学に入った途端に、たいていのぼんくらは勉強というか学問への興味を失う。そんなもんだ。

そして子供どもへの加害

おかげ様で子どもたちは「一度でも受験に失敗したら、不良品として社会から廃棄される」という極端な脱落恐怖を植え付けられちゃうんだ。

おかげさまで「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という人生の基礎をつくる大切な時間を奪われてしまうんだ。残念…。

そして、家計に余力がある家の子どもはおしなべて、深夜まで塾に縛り付けられるという「まるで教育虐待のような構造」を社会全体で正当化しているわけだ。

これを学歴の呪いと言わずに、なんと言うんだ?

3. 学歴は「ただの環境と投資の差」という嘘っぱち

学歴が高い人が「人間的に優秀」かといえば、別にそんなことはない。

グレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」を大量に作り出しているのは、皮肉にも高学歴なエリートたちなんだなぁ。

ルールをたくさん作れば、誰もがそれに従う。それは優等生の世間知らずな浅はかな考えだ。

そして、それを管理するための業務が生まれる。そしてそれに従わないものは、システムからスピンアウトされるんだ。誰もがそうなることを恐れている。決められたルールがどれほど不条理でも従う。なぜって、お前は不要だと言われちゃおまんまの食い上げだからな。

けど、そんなシステムからスピンアウトしたところから、初めて本当の、オリジナルな人生が展開していくんだけどな。なぜそんなことが言えるかって?まぁ、俺もその口だからな(笑)。

構造の歪み 

トマ・ピケティ🔗マイケル・サンデル🔗の指摘通り、現代の学歴ってのは、決して本人の純粋な努力の証ではない。

それには、親の経済力や住んでいる地域(教育への投資額)によって大半が決まる「格差の再生産装置」に過ぎないんだ。

もっとストレートに言えば、金持ちの倅は金持ちに、貧乏人のガキは貧乏人にということさ。これは世界の常識です。これは世界の常識なのか?

更に言えば、その差は世代を重ねるごとに拡大していくのは、賢明な読者諸兄諸姉ならお分かりの通りさ。それが世の中の仕組みだ。

しかし、にも関わらず学歴ってのは、『個人の能力の差、つまり皆様の大好きな自己責任の賜物であるかのように人々に錯覚させ、幻惑させ、勝者に優越感を、敗者に劣等感を植え付ける不条理なシステム』なんだ。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずだが、テストの点は人の上に人を作り、人の下に人を拡大再生産する!笑っちゃうぜ!

こんなシステムはPOST#1866🔗で話し合ったように、とっとと解体するべきなんだ。

「学歴の檻」を壊すために

学歴で人間の価値を決めるのをやめることは、社会の息苦しさをリセットするための絶対条件だ。

そもそも人間の価値って言葉は、人間の利用価値とか使用価値というべきものなんだ。君も声に出して言ってみるといい。

『人間の使用価値』

『人間の利用価値』

声に出してみたならば、その言葉の放つ卑しさの腐臭が、君たちにもはっきりと解ることだろう。

学歴という偽りのコモンズ(共有財)を廃止し、人間そのものを尊厳あるコモンズへと戻すために、私たちができる現実的なボイコットはいったいぜんたいなにがあるんだ?

それは、大人がまず『学歴なんていう薄っペらい肩書を一切リスペクトしない』というアナーキーな態度を徹底することだ。

人物本位で、相手を判断することだ。

「東大を出ていようが、中卒だろうが一切カンケーない。知識欲の赴くままに、だらだら寝転んで本を読んだり、お互い迷惑をかけ合って、そのだらしなさを認め合ってゲラゲラ笑っていられる奴が一番カッコいいし豊かだ」という新しい価値観を、共通の認識を、大人たちが子どもたちの前で堂々と示していくこと。

これこそが、子どもたちを学歴の呪縛から解放し、その命を救うための強力な一歩になるだろう!

 とまぁ、偉そうに言うけれど、うちのカミさんも、なんか一生懸命、バカ息子の教育にね、熱心でいらっしゃるわけだ。

いろんな私立の学校とか見学させたりして、私立の中学校に入れよう入れようと奮闘努力しておいでだ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽がおちる、陽が落ちるだ。

俺は金をドブに捨ててるのと同じだから、やめようよって思ってるんだが。家庭内の権力構造のカンケーで、なかなか言えないんだよ。

正直いって俺は、なんだかんだと金もかかるし、公立でいいなと思ってるんだ。

なんせ、家から歩いて3分だもん。

しかも、本人も真面目に授業も受けずに、探検と称して授業中に教室を抜け出して、校内のパトロールをしてるような奴なんだ。受かるわけないんだよな。

けれど、鉄オタの息子は、頭のなかに線路が走ってるくらいだから、鉄道研究部のある私立の学校に行きたいと諦める素振りもない。だからといって、テストで点が取れるわけでもない。まぁ、無理だろうなぁ。今のうちから慰めの言葉を考えておくさ。

けど、ほんとは校内探検家でもかまわないんだ。

一生懸命遊んだり、さっさと飯を食ってクソして寝たり、友達とコミュニケーションして、ゲタゲタ笑って遊び転げていればいいんだよ。

カミさんの考えもわかる。俺は「もっと大切なことがある」という実感してる。

どちらも「うちの豚児に幸せになってほしい」という親としての切実な願いから出ているものだっちゅうのは変わりないけど、だからこそ家庭内でのバランスが難しい問題なんだよな。まぁ、俺は世間に波風立てるのはやぶさかじゃなく、むしろ、おう一丁やってやろうじゃないかっていう不遜な男だけれど、家庭内の波風は御免被る。結果はどうなっても、本人たちの好きなようにやりゃいいんだ。

どこかできっと行き詰まる。行き詰ってからが、人生本番だ。楽しみにしてろよ。

カミさんが私立受験に打ち込む背景には、それこそ『新自由主義的な生存不安』が大きく影響しているんだ。俺にはわかる。

現代の母親たちは、社会やママ友の間で「早くから準備しないと子供の将来が詰む」という過剰な危機感を煽られ、強いプレッシャーの中に置かれているんだ。

うちのカミさんにとって私立見学は、子供を過酷な社会から守るための『防衛策』なんだ。それはよくわかる、しかし、その行動自体が、このシステムを拡大再生産する『合成の誤謬🔗』というやつだ。

しかし、俺がカミさんの背後で小声でつぶやく「お金をかけるよりも、一生懸命遊び、早く寝て、友達と泥臭くコミュニケーションをとる方が大事」という直感は、子供のメンタルヘルスと脳科学の観点から完全に正しいだぜ。それに俺の小遣いも増えるしな。

1. 「早く寝ること・遊ぶこと」の科学的メリット

実は「寝ることや遊ぶことが、結果的に脳の発達(つまり知識じゃなくて知性の伸長)に最も良い」んだ。

睡眠の重要性

 睡眠中に脳の記憶は整理され、メンタルを安定させるホルモン(セロトニン)が分泌される。睡眠不足だとイライラしたりり、うっかりミスが多発するのはこのためだ。

夜遅くまで塾に通って睡眠を削ることは、逆に脳の発達を阻害して、思い通りにならなかったときに、折れやすい心を作る原因になるだろう。素晴らしいことに、人生はたいてい思い通りにはならないんだ。安心してくれ!(笑)

遊びの知性

友達とのリアルなコミュニケーションや遊びは、教科書では学べない目下流行中の「非認知能力🔗(想定外の事態に対応する力、他者への共感性)」を爆発的に育てるんだぜ。

実はこれこそが、将来どんな社会になっても生き抜くための本当の力=野生の思考🔗なんだYO!

「受験はしてもいいけれど、子供の『だらける時間』と『睡眠』だけは絶対に削らない」というのも大切だ。幸か不幸か、うちの豚児はだらけることは才能豊かだ。睡眠は、いつも宵っ張りの重役出勤だがね。

もしうちの豚児が『きつい、やめたい』と言ったり、寝不足で元気がなくなったりしたら、いつでも諦めて、家の近所の公立に行きなよといってるんだ。ご本人はなんだか、逆に投資を燃やしてしまう事になりがちなんだけどな。

だいたい、そんなもんで人生は決まらない。俺はいつも聖徳太子🔗だって松下幸之助🔗だって田中角栄🔗だって、大学なんて出てないぜって言ってるんだ。

「公立でも全然大丈夫、なんとでもなる」というドーンとした余裕、つまりセーフティネットとして家庭内に俺がだらだら存在することで、子どもは「失敗しても成功しても、あのバカ親父はちゃんと受け止めてくれる」という絶対的な安心感をもってるんだろう。おかげで、いつもふざけてばかりだ。日々失敗するほうのオッズが上がってるぜ。

カミさんが心のどこかで「ダメな旦那みたいになっちゃ大変だから、将来のためにスペックを上げなきゃ」と焦っている。そのいっぽうで、俺は家庭の中で「何点取っても、どこの学校に行っても、お前は生きてるだけで最高だし、お父さんは大好きだ」という無条件の肯定を子どもに注ぎ続けてる。

俺は、そんなことで息子の尊厳はまったく揺らがないことを知ってるからだ。だから、すきにすればいい。人の嫌がることをやらない優しさを持っていればそれでいい。

俺が息子に怒るのは、母親に暴言を吐いた時と、父親の身体的な急所を攻撃してきたときだけだ。

だから俺は息子の前では、南方熊楠のようにだらだらと寝転んでマンガや本を読んだり、下らない話をして笑い合ったりする時間を、率先してつくってるんだ。

 おかげさんで、俺がパソコンに向かって事務仕事をしてると、息子はいつもやってきて、俺の膝に座って仕事の邪魔をしつつ、鉄オタ全開の YouTube を一生懸命見ていやがる。

仕方ねぇなぁ。これとて俺がさんざん君たちに語ってきた「迷惑をかけ合って当たり前」「何もしなくても愛されるアジール」の家庭内の実践ってことだ。

こいつは、子どもの精神的な生存にとって決定的な救いになってるんだろう。おかげで仕事は進まないけど、そんなのどうってことないさ。

実はこのやれやれな日常が、なぜうちのバカ息子のこれからの人生にとって最強の防衛策になるのか、ちょっと考えてみるとするか。

1. 「お父さんの仕事を邪魔していい」という最高の迷惑の共有

社会システムは子どもたちに対して、「他人の時間を奪うな」「効率的に動け」と教えるんだけど、うちの豚児はあなたに対して「お父さんのパソコンを奪って、自分の見たい動画を見る」という、最大級の甘え=とんでもない迷惑を仕掛けているわけだ。

俺がそれを怒らずに受け入れていることで、バカ息子の心には「自分は他人に甘えてもいいんだ」「迷惑をかけても拒絶されないんだ」という、新自由主義の自己責任論を打ち破るための強固な安心感がインストールされるというわけだ。

2. 「ただ膝の上にいるだけでいい」という無条件の肯定

膝の上でYouTubeを見ている時間には、テストの点数も、内申点も、学歴も一切関係ないわな。まぁ、俺にとってはどっちにしてもあんまり興味もないんだけど。

だからこそバカ息子は、俺が『何かができるから=人材としての価値』ではなく、『そこにいるだけで存在を許容される=目的としての人間』という無条件の対幻想🔗を強化されるという算段だ。

この『心の貯金』がある子どもは、将来社会の荒波に揉まれても、絶対に自分を見捨てて自死を選ぶようなことにはならないんじゃないのか。これが本当のレジリエンスって奴だ。

3. お父さんの「背中」から学ぶリラックスの哲学

帳簿をつけたり、図面を確認していたりするなかで、商売道具のパソコンを横取りされて「しょうがねぇ野郎だな」と苦笑いするのが俺の日常だ。そんな中でうちの豚児は「人生、そんなにアクセク四角四面に生きなくても、なんとかなるんだ」という気楽さを、とんでもないスピードで吸収していることだろう。


俺が最初の問いで真剣に憂慮し、立ち向かわなければならないと考えていた「子どもたちの自殺」や社会の要求からスピンアウトされた挙句「犯罪システムにからめとられ社会的な自殺に追い込まれる子どもたち」「人間を材料扱いする社会の冷酷さ」に対する本当の答えは、教育制度の改革でも、政治の変革でもなく、まさに今、俺の膝の上で行われている「バカ息子との、だらだらとした、迷惑をかけ合う日常」の中にあったんだ。エウレカ!🔗

大人たちがみんな、俺のように「仕事をちょっと横取りされて、膝の上で子供とだらだらする時間」を最高に有意義だと笑えるようになれば、この国の空気はもっと優しく、気楽なものに変わっていくだろう。もっとも、商売あがったりかもしれないがね。

しかし、新自由主義や学歴社会、そして今の日本社会全体が子どもたちに対して『人に迷惑をかけるな』『自己責任で生きろ』と冷酷に迫るからこそ、俺や君の家庭の中に『どれだけ迷惑をかけても100%許される関係』があることが、最大の防衛線になるんだろ!

それこそが世界の常識だ!

社会に出れば、使えるか使えないかで値踏みされたり、理不尽な要求をされたり、学歴の壁にぶつかったりすることがあるだろう。それがこのすべての価値が転倒し、人間が手段となった社会の現実だ。しかし、『どんな自分でも受け入れてくれた原体験』を持つ人間は、社会の暴走に心を壊されることはないだろう。

この圧倒的な全能感と安心感が心 の根底にあれば、子どもたちは自ら命を断つような絶望の淵に立たされる前に、必ず信頼できる大人の側に踏みとどまり、SOSを出すことができるはずだ。

 そう、だからこそ子どもたちの命を救うのは「だらしない優しさ」なんだ

子どもの自殺を減らすために社会が必要としているのは、もっと高度な教育カリキュラムでも、レジリエンスの訓練でもない。

そんなのばかばかしいったりゃありゃしないぜ。

大人たちが、とりわけ親が『お前の迷惑なんか、いくらでも引き受けてやるよ』という、大らかで、少しだらしなくて、圧倒的に優しい態度を示し続けることだ。

それには何のコストもいらない。俺たちの思考をもう一回さかさまに転倒させるだけでいいんだ。

どうやって?教えてあげよう。俺がやっていることを。

俺はいつだって、 1 日に 1 回は息子に『お前は俺の宝物だ、知ってるか?』って尋ねる。息子はそのたびに『知ってる』と言い切る。こいつこそ、命を守るマジックワードだ。

これこそが、これまで俺や君たち対話してきた、『人間を材料(手段)として消費する新自由主義社会に対する、最大かつ完璧な対抗策(アンチテーゼ)』なんでございます。

その言葉は、毎日農夫が鋤を地面に打ち込むように、「無条件の存在証明」を子どもの脳と心に深く刻みつける。

社会はこれから、子どもたちに対して『テストの点数は何点だ』『どこの学校へ行くんだ』『お前は社会の役に立つ人材か=俺たちに利益をもたらしてくれる金づるか?』という『条件付きの評価』、つまりは『市場価値』ばかりを突きつけてくるだろう。

しかし、『お前は俺の宝物だ』と毎日言うことで、子どもたちの心には『何かができるからではなく、ただここに生きているだけで、自分は100点満点なんだ』という無条件の存在の肯定が、脳の奥深くに強烈に刷り込まれていくんだ。雨が地面にしみこみ。命を育むように。

この言葉の貯金がある子どもは、社会のに待ち受ける学歴やらスペックやらのしょうもない査定に晒されても、決して自己否定に陥ることはないぜ。だいたい査定なんて、中古車じゃないんだから、勘弁してほしいぜ。

もしも将来、学校や社会でどんなに理不尽な目に遭い、いじめられ、挫折して、世界中のすべてが敵に見えるような夜が来たとしても、こうして心を涵養された人間は、絶望の淵から生の世界へと踏みとどまることができるんじゃないか?

そしてそれこそが、「人間を目的として扱う」ことの最高の実践の第一歩なんだ。

かつてイマヌエル・カント🔗が説いた『人間を手段ではなく、目的そのものとして扱うべきだ』という哲学は、別に難解なことじゃない。誰でも今すぐ始めることができる。それにコストはいらないんだぜ。

自分の子どもを「将来、自分を養ってくれる人材(手段)」としてではなく、「そこにいるだけで尊い、人生の目的そのもの」として、もっといえば神的な存在=世界そのものから託された存在として大切に守り育てるんだ。

そうすれば、やがて大人になったとき、隣人たちを「材料」として値踏みせず、一人の人間として尊重できる、本当の意味で豊かな大人、つまり南方熊楠のような野生の知性と優しさを持つ人間へと育っていくだろう。

消費税率を変えるだけで大騒ぎの政治家たちに、 国や社会のシステムを今すぐ変えることはできない。

けれど、俺や君たち大人が自分の目の前にいる子どもに対して、『君は社会の材料(人材)なんかじゃない。俺様の宝物なんだぜ!』と言い続け、迷惑をかけ合いながらだらだらと抱きしめること。

これこそが、この手段と目的が真っ逆さまに転倒した狂った競争社会を足元から解体し、子どもの命を100%救うための、社会へのアプローチだ。

諸君、ご清聴ありがとう!また会おう!

2026/03/03

POST#1777 文明人とはだれか、野蛮とは何か

 

Istanbul,Turk
アメリカの、というかアメリカ大統領ドナルド・トランプの愚かな戦いは止まらい。

人間には必ず党派性があるので、それを称賛する者も、非難する者もいるだろう。また、口をつぐむ者もいる。我が国の最高責任者も口をつぐんでいる。言わぬが花だってことか。

武力をかさに着て交渉を迫り、その交渉のさなかに空爆を仕掛けて一国の最高権力者を爆殺する。その昔の悪名高い関東軍だってそこまでの非道はできなかっただろうよ。あまりに情けなくて脱力した笑いが出てくるぜ。

去年の6月にイランの核開発施設を攻撃して、その核開発能力を挫いたといっていたはずなのに、イランはすでに核開発能力を復旧させたのだろうか?そんな核に関する優れた知見があるなら、福島の原発廃炉に協力していただきたいものだ。

どうせイラクの時のように、何も出てくることはないんだ。エプスティーン疑惑からみんなの目をそらしたいだけなんだろ?正直にいこうぜ。イスラエルだって、イスラム教徒をぶっ殺し続けていないとネタニヤフの権力基盤の維持ができないってだけだろう。

ミサイルで政権中枢をたたけば、地上軍の侵攻無しに、イランの革命防衛隊がイラン国民に対して自ら銃を置いて降伏し、体制転換ができると考えているという。なんて能天気なんだ。イラクやアフガニスタン、シリアやリビアの惨状を見てみるがいい。なんなら君も『バクダードのフランケンシュタイン🔗』という小説を読んでみるがいい。アメリカがかつてイラクで引き起こした戦争で、社会がどんなに混乱し、混沌とした荒廃に叩き込まれたかがわかるってもんだ。

いいかい、物事はいつだって、皮算用道理には進まないんだ。むしろ、いつだって最悪の事態が起こる可能性がある時には最悪の事態に至る。マーフィーの法則🔗を知らないのかしら?いつだって最悪を考えて対処するのがリスクマネジメントだ。

当のご本人は、自分には国際法も必要ないとのたまっておいでだ。まさに非理法権天。権力のあるものを裁き得るのは天しかないのか?そんな傲慢な人間が自らをピースメーカーと僭称する。単なる僭称者=タイラントにすぎないぜ。

こうして、人々は混乱に突き落とされる。貧困と危険の中で、多くの家族が崩壊し、多くの人間が命を落とす。自分の国にそんな理不尽なことが起こったら、君ならどうする。どんな時も、自分を安全圏において考えてゐてはいけない。自分の身に引き寄せて、何が正しいのか考えるべきなんだ。

俺が一番気にかかるのはトランプのものの言いようだ。いつものことではあるが。トランプはイランが『文明そのものに戦争を仕掛けてきた』と述べ自らの正当化を図る。

そこには強烈なエスノセントリズム=自民族中心主義がある。一言でいえば自己中だ。

イランにももちろん文明はある。もっと言えば、未開人とされる人々にも独自の文明がある。文明とは、進化論のように一つにつながって単線的に進み、いずれ収斂してゆくものではない。様々な形の多様な文明があるはずだ。民主主義もその一形態に過ぎないし、キリスト教文明も、イスラム教を基盤とした文明も、どれも形は異なっていても文明という点では同じだ。

文明人たる最も重要な素養は『法を定め、法に従い、他者と合意を得るために話し合うこと』のはずだ。それはアマゾンの奥地の民族集団でも、高度に産業が発達した国家でも変わりないはずだ。その点で、アメリカの大統領は自らは無法の野蛮人だと宣言しているに等しい。


ここで、レヴィストロースの言葉を引いてみよう。名著『人種と歴史/人種と文化🔗』からだ。


文化の多様性が人類によってあるがままに、すなわち諸社会のあいだの直接的あるいは間接的な関係から生ずる必然的現象として受け止められたことは稀で、むしろある種の奇形、あってはならないことと見られてきた。こと、この問題に関しては、知識の進歩はこの幻想を喪失させてより正確な見方を育むよりは、むしろ幻想を受け入れ、あるいは甘んじてその幻想を受けいれる方法を探ることにあったように思われる。

きわめて古くからあるのは、われわれが自分のものだと思っているものから遠くかけ離れた道徳的、宗教的、社会的、美的などといった文化形態を、ただひたすらに拒絶するという態度である。この態度が、予期せぬ状況に直面した時にはわれわれのなかかに回帰してくる傾向があることから見れば、おそらく確固とした心理的な基礎があると思われる。「野蛮人の慣習だ」「それはわれわれのやり方ではない」「そんなことを許してはならない」等々、見慣れない生き方、信仰のあり方、考え方に出会ったときの、あの旋律や青の反発を表現する粗暴な反応の数々である。古典時代においてはギリシャ文化(のちにはグレコ=ローマン文化)を共有しないものはすべて野蛮(バルバール)と呼ばれ、それに引き続く西洋文明は同じ意味で野性(ソヴァージュ)という言葉を使った。これらの形容詞の背後には、一つの判断が隠されているいる。すなわち、バルバールという語が語源的には、意味を担った価値である人間の言語活動に対比して、混沌とした未分節な鳥の囀りを示す語であることはほぼ確実である。そして「森の」という意味のソヴァージュというご緒、人間の文化に対立する動物的な生き方を喚起する。これら二つの事例では、文化的多様性という事実そのものが承認されていない。自分が生きている規範とは合致しないものは、すべて文化から排除して自然の中に放り棄てることを人は選好するのだ。

ー中略ー

ここではこの視点には、かなり意義深い一つの逆説が孕まれていることに注意を向けておけば十分である。「野生人」(あるいは人がそうみなそうとするすべて)を人類の枠の外に放り出すことの根拠となるこの思考態度が、まさにこれら「野生人」自身のもっとも特徴的な態度であるという点である。

(クロード・レヴィ=ストロース『人種と歴史/人種と文化」みすず書房刊34~36頁より)


俺が何を言おうとしているか、懸命にして聡明な諸兄諸姉(これはYo!ブラザー・シスターだな)にはお分かりのことと思う。

ちなみにウクライナで辺境から駆り集めた自国民や騙された出稼ぎ労働者を肉挽き機に放り込みながら、ウクライナ人殲滅を画策しているトランプの盟友プーチンも、イランのペゼシュキアン大統領あての文書で「人間の道徳と国際法のあらゆる規範を冷笑的に踏みにじる形でハメネイ師が殺害されたことにこころから哀悼の意を表す」と伝えたそうだ。

まったく、21世紀もはや4分の1過ぎたのに、俺たち人類は何をやってるんだ?北朝鮮の大将もビビりまくっているだろうけど、俺たち庶民は未来を憂うしかないのか?くそ!

2016/01/15

Post #1692 平和を我らに

Istanbul.Turk
それが例え、世界のどこであっても、もうテロにはうんざりだ。
自分の大切な人が、巻き込まれて命を失うことを考えてみたことがあるかい?

Istanbul.Turk

平和をわれらに

2015/08/30

Post #1608

Istanbul,Turk
昨日、仕事を終えてウィークリーに帰り着くと、そのまま倒れ込むように眠ってしまった。
カミさんから電話があったりして、今から食事をしに行くと言ったようだけれど、そのまま眠り続け、
すでに深夜2時。
今更、着替えてなか卯だの吉野家だのに出かける気にもならないのさ。
そんなわけで今夜も写真だけお送りするよ。

読者諸君、失礼する。もう一度眠ろうか、それともこのまま起きていようか?それが当面の問題だ。

2015/08/19

Post #1597

Istanbul,Turk
最近まで、昼も夜も働いていたので、夜、現場が動いていないと、なんだか手持無沙汰というか、これといってやることもない。
僕はTVは一切見ないから、ウィークリーのTVはコンセントが抜かれているほどだ。
だから、時間を持て余す。

愛用の引伸機と薬品と、印画紙と山のように積みあがってるネガフィルムを、旅先にまで持ち込んで、毎晩朝までプリント出来たなら、次々と傑作を生み出すことができただろう。
残念だ。
それとも、あの人がそばにいてくれたら、どんなに素敵な時間を過ごせるだろう?
きっと朝まで眠らないさ。

読者諸君、失礼する。そんなわけで、することもこれといってなく、眠ってばかりの僕なのさ。

2015/08/10

Post #1588

Izmir,Turk
珍しく仕事が休みだったので、東京に住む友人が勧めてくれた河鍋暁斎の展覧会を、丸の内の三菱一号館美術館に見に行ってきた。
なかなか面白かったよ、ありがとうとメールを送ると、なんとなく一緒に食事でもどう?なんて話になってので、たまにはってことで、銀座の裏通りにあるトルコ料理屋に行って食事をとることにした。
彼女はトルコ料理なんて食べたことないって言っていたけど、中華料理やフランス料理と並んで、世界三大料理に数えられているんだぜって教えたら、まんざらでもないってことで、トルコ料理に落ち着いたのさ。イスケンデル・ケバブやキョフテなんかを二人でおいしくいただいてきたのさ。
正直に言って、俺が久しぶりにトルコ料理を食べたかったのと、せっかくの機会だから、普段お互いにあまり食べないようなものがイイだろうって思ったんだ。
で、トルコやモロッコに旅行した話をしたり、昔話に花を咲かせたりしたんだ。
俺の不徳の致すところで、久しく会っていなかった友人だから、話は尽きない。
けれど、少年時代に濃密な時間を共有していたから、まるでそんなブランクなんかなかったみたいに話は弾むのさ。おかげさんで、すっかり夜も更けちまったぜ。
また、時間を作ってゆっくりと話し合いたいもんだな。

そんなわけで、今日はトルコの中堅都市、イズミルのバザールの写真をお送りしよう。
地中海の日差しにまぶしい光に照らされていた、あのバザールの喧騒がどうにも懐かしいぜ。

ちなみに、昼は独りで名古屋名物『みそカツ』を食ってきた俺なのさ。なにしろ俺は自分のことを、日本人である前に尾張人だと思ってるんだからな。そう、信長や秀吉と同じ尾張人だ。赤みそがないと生きちゃいけないのさ。

読者諸君、失礼する。しかし、どうにもエンゲル係数が高い一日だったなぁ。こりゃ明日からまた節制しないといけねぇな。

2015/07/20

Post #1566

Istanbul,Turk ウサギ占い。ウサギがおみくじを引いてくれるような類のものらしいぞ。
銀座四丁目、中央通りに面した現場のすぐそばに、毎晩手相観のおばちゃんがいるんだ。70くらいの小柄なばあさんで、夕方になるとタクシーでやってきては、小さな机に、手相を描いた布をかけ、ろうそくを灯して椅子に座って客待ちをしている。その布には、科学的観察、神秘的直観とある。どっちなんだ、いったい?
そんなモノ好きな奴がいるんだろうかと気になっていたが、世の中にはそんなモノ好きがいるものだ。
それは俺だ。見料3,000円出して占ってもらったぜ。俺はこう見えておみくじとか占いとかが大好きなんだ。若い頃、宗教をやってた時には、真言密教に伝わるインド占星術を研究したこともある。


至極そっけないというか、むしろつっ慳貪な態度だったおばちゃん、俺が見料いくらと聞いて3,000円出した途端に、愛想がよくなった。

やはり世の中金だな。

『いやぁ、ここんところ俺、車の事故とか続いてるし、なによりカミさんが妊娠してて、無事に生まれるかどうか気がかりでね、占ってもらおうと思ったんだよ』といいながら両手を差し出すと、おばちゃん、虫眼鏡を使うわけでもなく、俺の手相を覗き込みながら、『あんた、生年月日は?』と訊ねてきた。
俺が自分の生年月日を答えると、今度は『奥さんの生年月日は?』と来たもんだ。
で、俺がえ~となんて言いながら間違えないように思い出して答えると、いきなりおばちゃん速攻で、『あんたたちは相性最高!まさに運命の人、今のあなたがあるのは全部奥さんのおかげ!』ときやがった。

そんなこと、おばはん、あんたに言われんでもワシわかっとりゃあすて。
こんな変な男と20年も一緒におって、なおかつ子供まで作ろうなんて物好きな女は、そうはおらんて・・・。それに俺は世間ではヒモと言われてるくらいの男だぜ。不遇なときも俺を支えてくれたのは、恥ずかしながらうちのカミさんだ。さすがは神秘的直観だな。

そうやってのっけに一発ぶちかましてから、おばさんやっと俺の手相を見ながら、『あなたは一生働き続けるわねぇ、ビジネスマンと言うよりワーカーねぇ・・・(冗談じゃないぜ、こんな苦行を死ぬまで続けるのかよ・・・)もっとも、家でもいろんなことに気が付いて、マメに動くタイプってことねぇ(あたってるわ、掃除洗濯は俺の担当だ)』なんて語り始めやがった。

『生命線も長いし、副生命線もしっかりしてるから、先祖の守りもあって健康ねぇ、お金にも不自由しないし…』
『いやいや、待ってくれ、いつも金が有り余ってるなんてことはないぜ』とやり返すと、おばさん『あなたの場合は稼いでお金を回していくってこと。でもそろそろ子供も生まれるんだったらためたほうがいいわね・・・人の上に立って面倒見もイイ、情も深いし、優しいようだし、独立心も旺盛ねぇ・・・。』

『いや、それは当たってると思うけど、子供はどうなの、無事生まれるのけ?』そう、それが一番の気がかりだ。
『子供は無事に生まれますねぇ』取ってつけたようにというか、さも当然といった風に言ってのけやがった。
『そりゃよかった。他に何かないのかねぇ?・・・例えばそう、女難の相とか出てないの?』そう聞くとおばさん、ぎろりとメガネの奥の目を光らせてきやがった。そろそろ本気か?

波乱万丈な男の往く手には、魅力的な女がごろごろしていて、イエス様を誘惑した悪魔みたいにいろいろちょっかいかけてくるもんだろう?そうでなくっちゃ、男の人生に退屈しちまうぜ!
まぁ、いままでそんなことなかったけど、これからあってもおかしくはないだろう?HEY!どうなんだい!

『あんたさっき、車の事故って言ったわねぇ。占いじゃ車でも列車でも、飛行機でも女を意味するものなのよ。それで事故が続いてるってことは、あなた、いい奥さんがいるのに他所に女性とかいるわけ?』と、いきなりスゲーことを聞いてきやがった。

そんなにモテモテなら俺の人生、もっと愉しいだろうよ!

そんなこんなで、明日(というかもう今日だな)早起きして、6時には現場に行かないとならないからな、続きは明日だ。

読者諸君、失礼する。次回、スパークス、憧れの女難の相の巻きだ。しかし、その裏に金難の相が出ていたのだった。

2015/03/10

Post #1434

Istanbul,Turk
俺は別に、善人だと思われたくって毎日こんなことやってるわけじゃないんだ。
俺は自分が善人にも悪人にもなりきれない、非善非悪の中途半端な男だってわかっている。
解かっているけれど、自分に対して、こうあるべきだと思うことは、やらずにはいられない。
でないと、俺は俺じゃなくなってしまうんだ。
いつだって、君たちに恥ずかしくないゴールデン・ハートの漢でいたいのさ。

さて、今日も昨日の続きだ。イスラームについてもう少し突っ込んでみよう。
今日はその成り立ちだ。

イスラームは一人の預言者によって打ち建てられた宗教だ。

その預言者の名はムハンマド。西暦567年から572年頃に、メッカで生まれた彼は、その地を治めていたクライシュ族の有力氏族の一員だった。6歳で両親を失うが、祖父や叔父の手で育てられ、25歳で裕福な寡婦ハディージャの使用人になり、数年後彼女と歳の差を押して結婚した。

当時のメッカは、昨日も少しふれたセム族的多神教世界にどっぷりで、アッラーは世界を創造した神とされてはいたが、人々からあまり祀られていない神だったようだ。
今日もイスラームの聖地とされるメッカには、カァバの聖所があり、その一角には天から降ってきたとされる黒い石がはめ込まれている。

西暦610年頃、ムハンマドに神からの最初の啓示が降る。
伝承によれば、啓示に先立つ長い間、彼は洞窟や人里離れた場所で、修行を行っていたという。
この行いは、アラビア土着の多神教世界では異質なものだったという。ムハンマドは、各地を旅した折に、キリスト教修道僧の評判を聞いたり、直接会ったりして、彼らが行っていた祈りや瞑想に強い印象を受けていたのだと推測されている。
また、メッカには当時、多くのユダヤ人も暮らしており、その習慣や儀式も広く知られていたという。

最初の啓示について、クルアーンは次のように伝えている。
『力を持てる者(天使ジブリール)が威厳に満ちて立った。その時彼(ジブリール)は地平の最も高い所におられた。それから近づいてきたが、空中に浮いたままであった。(中略)そして僕(しもべ=ムハンマド)に、その啓示を示された。』

天使ジブリールは、神とムハンマドの仲介者なのだが、このジブリールというのは、実はキリスト教やユダヤ教にも登場する。ジブリールとは大天使ガブリエルのアラビア語読みなのだ。
ここにも、イスラームとキリスト教、ユダヤ教の近しさを見ることが出来る。
実際に、イスラーム教では、モーゼはムーサー、イエスはイーサーとして語られ、ムハンマドへと続く預言者の系譜に連ねられている。
ムハンマドは、多神教世界からアッラーを切り離し、アブラハム以来の宗教的伝統の中にイスラームを統合しようとしたのだ。

伝承では、アラビア人ってのは、アブラハムの子孫だとされている。
アブラハムは80過ぎて子供がなく、当時75歳だった妻のサラは、若いエジプト人女奴隷のハガルをアブラハムにすすめた。
そうしてハガルから生まれたのがイシュマエル(アラビア語ではイスマーイール)だ。
後に正妻のサラに、彼女が90歳を超えていたにも関わらず、子供が出来る。アブラハム自身もそんなことあるわけないって笑ったのにもかかわらず、神は出来る!と断言したので、出来ちまったわけだ。それなら、俺もまだまだ子供を作ることが出来る気がするぜ。まぁ、こうしてできたのが有名なイサクだ。
このため、ハガルとイスマエルはアブラハムの元を追われ、新しい部族を打ち建て、その子孫がアラビア人になったと伝承されている。

ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム教は俺たち日本人には解かりにくいけれど、実はいとこ同士みたいな宗教なわけだ。現在もなお、この3つの宗教を指して、『アブラハムの宗教』と呼ぶ。

三年ほどの間、ムハンマドはその妻ハディージャとその他数人にしか神の啓示を伝えなかった。
612年、ムハンマドは啓示を公にするよう命をうける。
『神(=アッラー)よりほかに神はなし!』とムハンマドは宣言することとなった。とはいえ、この時点ではムハンマドは、新しい宗教を打ち建てるつもりはなかった。彼はただ、仲間の市民を『目覚め』させ、アッラーのみを崇拝するように説得したかったに過ぎないのだという。
というのも、人々は既にアッラーを天地の創造者にして豊穣をもたらすものとして認めており、祈りを捧げ、最も厳粛な誓いはアッラーにかけて宣誓していたのだから。

当時メッカを支配していたクライシュ族の有力者は、ムハンマドの言う異教、つまり伝統的な多神教を放棄することは、そのまま自分たちの特権を放棄することを意味していたし、ムハンマドを真の神の使徒と認めることは、そのままムハンマドを政治的な最高権威者として認めることになるので、大いに反発した。
ムハンマドのグループは迫害され、各々の部族から追放された。
結果、ムハンマドの一統は秘密裏にメディナへと遷り、ここを基盤にして、イスラームの教義は固められ、部族的な性格から、部族を越えた信徒共同体(ウンマ)へと昇華していくこととなったわけだ。
この時期、ムハンマドはメディナのユダヤ教徒もイスラームの教えに改宗させようと試みている。この時期、ムハンマドはムスリムが祈りを捧げる方向をエルサレムの方角に定めていた。
ここでも、ムハンマドは自らを旧約聖書の数々の預言者の系譜に連なるものとして語っているわけだ。
しかし、それは結局決裂した。ムハンマドのもとには、祈りを捧げるのはイスラエルではなく、カァバ神殿のあるメッカとすべきという啓示が下り、ムハンマドはメッカ回帰を決意して、数々の戦いを当時の主要部族と繰り広げることとなる。
西暦630年には、メッカはムハンマド率いる1万名の軍勢によって無血占領され、偶像はすべて破壊され、多神教徒が持っていたすべての特権は廃止された。
翌年、ムハンマドは新たに下った啓示を根拠に多神教徒に対する全面戦争を宣言した。これが、今日まで続くイスラム国などの問題の発端といってもいいだろう。
632年。ムハンマドはメッカへの最後の巡礼を終えたのち、愛妻アイーシャの腕の中で息を引き取った。

イスラーム教原理主義者は、ある意味で未だに、ムハンマドが生きていた部族社会のなかで、絶対の信仰を守り抜くべく闘っているのだろう。
しかし、彼らが生きているのは7世紀のアラビア半島ではなく、21世紀の世界そのものだというところに、解決しがたい問題の根があるように俺には思える。

読者諸君、失礼する。何かを知ることは、実りをもたらすばかりではない。知れば知るほど、解からなくなることだってあるんだ。しかし、知らないよりは知っていた方がイイ。これは絶対に間違いないって断言するよ。

2015/03/09

Post #1433

Istanbul,Turk
イスラム国の蛮行が続いている。
今度はシリアやイラクで、紀元前の世界遺産の遺跡を完膚なきまでに破壊しているのだそうだ。
イスラム教成立以前には、今日中近東と呼ばれる地域には、セム族系諸族(現在もあの辺に住んでいる中近東の諸民族の大きなグループだと解釈してね)の間にひろくみられた、多神教文化が根付いていた。
イスラム教が好戦的な性格を持っているのも、この多神教文化の地域に、多神教の伝統を否定する形で突如として出現し、短期間にそれぞれの神々を奉じる部族や民族、国家を戦闘によってのみ込む形で成立していったからだ。不信仰者たちの改宗を目的としたその戦いは『聖戦』つまり『ジハード』と呼ばれる。
それによって部族や民族を超えて形成されるイスラーム教を基盤とする共同体をウンマ(イスラーム共同体)と呼ぶわけです。

イスラーム教、そしてそれに先行するセム族の宗教、つまりユダヤ教、キリスト教は偶像崇拝を認めていない一神教だ。
インドから東に住む俺たちは、神の具体的な姿を形に表し、それを崇拝するということが大好きなんだが、彼等一神教の人々は、とりわけユダヤ教徒とムスリムには、神聖なものを人間が形に表すことは許されないと考えているんだ。

だから、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件のような事態が起こる。

全能の神が遣わした最高の預言者、ムハンマドをいささか滑稽な容姿の人物として描くことは、ムスリムにとっては、その神聖さを否定する蛮行以外の何物でもないわけだ。
俺もかつて、翼の生えた牝馬に乗って天上に上ったムハンマドを描いた宗教画を見たことがあるけれど、ムハンマドの顔は何も描かれてはいなかった。
のっぺらぼうなのだ。
この宗教的な主題は、ムハンマドの宗教的正当性を示す非常に重要な場面なんだけれど、それでも決して顔は描かれていない。何しろ、ムハンマドは西暦567年から572年ごろにメッカで生まれた人物で、その経歴は他の世界宗教の開祖(キリストやモーゼやお釈迦様)と違って、はっきりわかっているにもかかわらず、その肖像画は一切伝えられていないのです。

今日まで続く一般的なイスラーム根本的なテーゼの第一には、タウヒード、つまり『神の一性』といことがあります。これを手元にあるミルチア・エリアーデの世界宗教史Ⅲ第35章『イスラームの神学と神秘主義』(P139)から引用してみますか。

『神は唯一であり、神に似るものは何もない。神は物体ではなく、実体ではなく、偶有でもない。神は時間を超越している。神は或る場所とか或る存在者のなかにすまわれることはありえない。神は被造物がもついかなる属性や性質の対象ともならない。神は条件づけられることも限定されることもない。産むことも産まれることもない。〔・・・・〕神は先在する原型も助力者もなしに世界を想像された」

うむ、これでは神の似姿など作りようもない。
イスラーム教においては、神の存在は極限まで抽象的なレベルに押し上げられている。
その代り、モスクの中に入るとタイルによって無限を感じさせるように複雑に構成されたアラベスクや、天蓋から差し込む美しい光によって、否が応でも神の聖性や無限性を感じることが出来る。
俺は、イスタンブールのブルーモスクなどに足を踏み入れ、何度かそれを感じたものだ。

このように、日本人の宗教観からはかなり隔たっているのでいろいろと分かりにくい。この違いはどこから生じたのか?

砂漠だからか。

イスラーム教が生まれたのが、見渡す限りの砂漠と空しかないような苛烈な土地であったからではないか。川が流れ、森が人々を抱くようにして存在するインド以東の土地では、宗教は自然の似姿で、川には川の、森には森の、山には山の神々が宿っていた。
すでに神は、具体的なモノとしてまず俺たち人間の前に存在する者だった。

しかし、苛烈な砂漠で生まれたイスラームの神は、あらゆる具体性を否定する。
そして、偶像は否定される。
それを原理主義的に解釈した結果、イスラム国は世界遺産の遺跡を偶像崇拝者の遺物として破壊する。タリバンの皆さんは、バーミヤンの石仏を爆破した。まさか君、忘れちゃいないだろう?
そのことの是非は、ここでは問わない。
しかし、一度失われたものは、二度とは戻らない。
もちろん、すべての善きムスリムが、彼らの原理主義的な蛮行を認めないのは俺にははっきりわかっている。
しかし、俺たちはもっとムスリムの人々がどのような宗教観を持っているのかくらいは知る必要があると思う。

読者諸君、失礼する。もう少し、俺と一緒に学んでみようぜ。

2015/01/31

Post #1396

Istanbul,Turk
詩的な言葉こそが、俺たちの生を荘厳してくれる。

取るに足らない無名の存在に過ぎない俺たちが、
詩的な言葉によって導かれる直感と喩で、
豊穣なイメージの世界に結び付けられる時、
俺たちは神話的な英雄の人生の
変奏曲を奏でる存在になる。
その地平では、俺たちは一人ひとりが困難な事業に挑む英雄だ。
周囲の無理解と、
自らのなかに渦巻く力強い衝動との相克に苦しみつつも、
自らの意志で生を紡ぐ一人の卑小にして誇り高い英雄として、
この人生のこの瞬間を全力で生きることが叶うのだ。


魂の熱くない奴は、それを鼻でせせら笑っていればいい。
灼熱の人生の肌を焼かれるような痛みと、裏腹の心地よさは、奴等玉無し野郎には想像もできない。


今日もまた、事勿れ主義の玉無し野郎どもが、俺を追い詰める。
俺の仕事場は、俺にとっては漢の戦場だ。
事実、一つ間違えば、命すら危ういんだ。
命の危機はシリアの砂漠にだけあるわけじゃない。
自慢じゃないが、俺は一騎当千の逸材だ。
半端な奴じゃ、俺には着いて来られやしない。
俺の仲間の漢たちは、みんなわかってくれている。
それが解からない奴らが、俺を追い込もうとする。
奴等は、自分の力で勝負しない。
奴等は、自分たちは安全なところに隠れているだけ。
奴等は、面と向かって俺には何も言えない。
そして、物陰から俺の背中に陰湿な矢を放つ。
俺は、赤い目を怒らせ、唇を噛みしめる。
俺の爪は、握りしめた掌に食い込むだけ。
狼は、狡い狐の罠に追い込まれる。
奴等の代わりはいくらでもいるが、俺の代わりはどこにもいない。俺の歯は、噛みしめ過ぎてボロボロだ。

臨むところだ。
受けて立ってやる。

読者諸君、失礼する。デカくて光るタマタマを持ってるが故に、俺はこのセコイ世の中を生きるのが苦痛なのだ。

2015/01/25

Post #1390

Istanbul,Turk
どんな宗教でも、神の持つ超越性ってのは、人間には望んでも得られないものだから、痺れまくるのはよくわかります。痺れるような演出も、たくさん用意されていますしね。
痺れまくるのはそれぞれのお計らいなんで、俺如きがとやかく申すべきことでもござらぬが、実はそれには秘密があることを忘れちゃならないって思います。
というのは、どんな神も本当は、人間によって生み出されてきたという、秘密です。

大きな声で言うと、世界中から袋叩きにあいますので、ささやかに言っておきますが、ニンゲンの思考によって神は生み出されました。

これは間違いない。

もしこの宇宙に神仏が存在するとしても、俺たちにはその存在を感知することなんて、絶対に出来やしないだろう。だから、百歩譲っても、俺たちが神仏と呼ぶものは、そういった存在があるであろう方向を、何となく指し示す指のようなものにしか過ぎないんだと思う。

ニンゲンによって生み出された神の栄光のために、人間を損なう、殺すってのは、本末転倒なことなのではないでしょうか?


イスラム国に囚われていた湯川さんが、どうやら殺されたようだ。
かつてミリタリーショップを営んでいた男が、何がどう間違って、分不相応な考えに取りつかれ、場違いなところに赴き、挙句命を落とすことになったのか?

確かに、彼のその行い自体は、理解しがたいものがある。
しかし、俺自身の心の中をのぞいてみれば、自分の日々の暮らしに、心のどこかで『ここじゃない、これじゃない』という違和感を抱えていることがわかる。

それから類推すれば、もし何らかの契機・機縁があったならば、そこで囚われ殺されていたのは湯川氏ではなく、俺自身だったかもしれないのだ。

また、ほぼ同年代の後藤氏に関しても、俺自身が、人生のもう少し早い時期のどこかで、写真に出会い、これを生涯の仕事として一歩を踏み出していたら、生命の緊迫を強いられるような状況で写真を撮り、取材するという稼業に身を置いていたかもしれないと思うと、他人事とも思えない。

なんとも複雑な気分の日曜日の朝だ。
誰もかれも安全なところで、持論を垂れ流している。朝から胸がムカムカしてくる。プリキュアでも見ていた方がなんぼもましだぜ。

読者諸君、失礼する。俺は神様も国家も御免蒙る。ズバリ!素敵な女性の夢でも見ていたいのさ。不謹慎?望むところだ!

2014/12/21

Post #1355

Istanbul,Turk
風邪で不如意な身体を横たえ、いろいろと夢想する。
頭をよぎるのは、街で見かけたちょっといい女か。カミサンは、俺を置いて出かけている。夜の仕事までの退屈しのぎに、自分の中で妄想してみる。


初めて抱きよせて、口をつけた途端に感じる唇の柔らかさ。
その味は、なにより甘い。
抱きよせている腕に、力がこもる。
思わず、『人生が狂っちまったら、どうしよう』と口にしてみると、
あなたは呆れたようにくすりと笑って、『そんなことあるわけないじゃない・・・』ともう一度唇を重ねる。

けれど、俺という人間は、骨と血と肉だけじゃなく、出会った人の思い出でできている。
あなたのことを知ってしまったからには、もうさっきまでとは、すっかり違う自分になっているのだ。
俺そのものが変わってるんだから、人生なんて狂っても、おかしくないだろう?
本当の人生は、道を踏み外したときにはじまるものさ。

たわわな胸に顔をうずめると、息すらできないほど。
苦しくなって、ふと、このまま死んでしまうんじゃないかと不安になるが、
それならそれも悪くない。
男として、女性の胸のなかで息絶えるのは、本望だ。
耐えられなくなって、顔をはなしておおきく息を吸い込むと、
甘い体臭とほんのりとした汗の香りが鼻をくすぐる。
そのまま崩れ落ちるようにして、小さなおへそ、そして柔らかく湿った茂みの奥に・・・。

そこにするりとすべり込ませて、そのまま四肢に力を込める。
繋がったままに抱き上げて、生きている人間の重みを確かめるのさ。
あなたは途端に子供のように怖がって、おろしてほしいというだろう。
そして、少し恥ずかしそうに、『重いから…』っていうのさ。
その重みこそが、生の証しだと俺は知っているんだ。

愉悦に眉間は寄せられて、口は開く。その中で舌が小さな蛇のように、俺の舌を待ち受けている。
そんなあなたの顔をながめて、俺は思わず心の底から『かわいいなぁ…』とつぶやく。
あなたはそんな表情のまま、小さく首を振り『かわいくないよぉ・・』と返すのさ。

あなたが自分のかわいらしさを、しらないんだとしたら、残念だ。世界的な損失だ。
それとも照れてるだけなのか?
若さと美しさに溢れた年月は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
その絶頂の愉悦の表情を、愛おしく思わない男なんて、俺からすればつまらぬ奴さ。

楽器を奏でるように、あなたに声を出させる。
後ろから見ると、まったく素敵な曲線で、ヴァイオリンかスポーツカーのようだ。
象にも駱駝にも乗ったことのある俺だが、それ以上に揺れている。
テンポをあげたその果てに、『もう行くよ』といえば、
あなたは『そんなこと、いちいちゆうなぁ・・』って唸るように声を絞り出す。
それすらも、可愛らしい。

枕語りに、『君と一緒に、旅してみたいよ』といえば、
やんわり断った心算だろうか、『あたし、外国の食べ物はあわないの・・』

俺は天井を見上げつつ、自分の旅してきた道程を想い出す。

虫たちの鳴き声しか聞こえないバリ島の、ヤモリが壁を伝うやさしい夜を。
昼となく夜となく、祝祭のような熱気に満ちたマラケシュの広場を。
どこまでも青く澄んだアドリア海に浮かぶ、水上の城のようなドブロブニクの街を。
イスラムの礼拝を告げるアザーンが、響きわたるイスタンブールの雑踏を。
どこまでも続く森のあいだ、無数の湖が宝石のようにきらめくフィンランドの大地を。
果てしなく続く雲海の向こうに、そびえたつヒマラヤの峰々を。

俺は、出来る事ならば、あなたに見せてあげたかったのさ。
見も知らぬ世界を渡り歩くことが、どれほどこの退屈な生の慰めとなることか。

どんな愉しい時間にも終わりは来る。
帰りがけ、あなたは俺に『忘れ物は?』と声をかける。
俺は、ポケットを探る。財布、携帯、煙草になんやかんや。
腕時計もしている。全て揃っている。
『忘れ物は、俺の心だけです』と言えば、
あなたは気の利いたジョークだと思って、笑ってくれる。
さようなら。
俺は車の中で、ほんのりと身体にしみついた、あなたの残り香を楽しむのさ。

けど、本当に俺は心を忘れてきてしまったのさ。
出来るなら、そんな俺の心を、あなたがそっと預かっておいてくれるとうれしいよ。

とまぁ、そんな品のない夢想を頭の中で繰り広げてしまった。
ちょっと面白かったので、忘れないように書き記してみた。
気分を悪くしたなら許してほしいぜ。

読者諸君、失礼する。俺はこれから病身に鞭打って、仕事に出かけるのさ。君たちが、これを読んで呆れるころには、俺はそんなこと思う余裕もなく、粉骨砕身、漢だらけの男祭りさ。

2014/11/28

Post #1332

Istanbul,Turk
今日は写真のみで勘弁させてもらおうかな。
俺には睡眠が必要だ。
今夜も含めてあと3日ほど持ちこたえれば、家に帰ってプリントできるさ。
古い写真を見ていると、今の自分の満足するレベルに達していないものがいっぱいあるんだ。とても君たちにお見せできないんだ。
だから早く仕事をやっつけて、家に帰って何日か引きこもってプリントしたいのさ。
そのためには、まずは今から眠って、今夜の仕事に備えるんだ。

読者諸君、失礼する。しっかり仕事を片付けてこそ、心置きなく道楽に没頭没入できるってものさ。

2014/09/24

Post #1267

Istanbul,Turk
本日、無為にして終わる。
ただ、換気扇の修理が終わったことには大きな意義があると言ってイイだろう。いつでもプリントが出来るってもんだ。
しかし、明日はまた夜通し仕事だし、明後日は夜仕事仲間と会食だしで、なかなかプリントはできそうにない。まいったなぁ…。
まぁ、どうせ大した写真なんて撮ってないことは、君たちが一番よく知っていることだろう。
そんなつまらん男から、今日はイスタンブールで出会った子供たちの写真をお送りしよう。
観光客に、その辺の野良猫を売りつけようとするような、おかしなガキどもだ。
そうして、やり手の商売人に育っていくことだろう。
逞しいもんだ。

読者諸君、失礼する。フラストレーションが溜まるなぁ…。

2014/09/09

Post #1252

Istanbul,Turk
今日から出張だというのに、朝っぱらから何件も仕事の引き合いの電話が入ってくる。
業界は深刻な人手不足だという。海にでも行って、ヒトデでも捕ってくるこった。特に、俺のようなフリーランスの監督は引手あまただが、残念ながら、どこも金額的には今一つだったりする。しかし、慢心油断は禁物だ。いつ、干されるか分かったもんじゃないぜ。カラカラの干物になっちまうのは、正直御免こうむる。今が絶好調なら、下り坂が待ってると考えたほうがイイぜ。俺は慎重な男なのさ。
とはいえ、金額的に今一つだったりするので、みな将来に絶望し、この業界に見切りをつけて去っていったのだが、人件費に対する圧縮傾向は未だに続いている。
需要と供給を考えてみれば、もう少し値上がりしてくれてもよさそうなもんだけれど、なかなか世の中そうはいかない。
まぁ、イイだろう。
俺は目の前の仕事を、一つ一つ手を抜かずにこなしていくだけだ。

読者諸君、失礼する。俺には義理も恩もない。ただ一番高く評価してくれる相手と組みたいだけさ。

2014/09/08

Post #1251

Istanbul,Turk
本日、特に言うほどのことも無し。
明日から新しい現場に乗り込みだ。どんなに小さな現場でも、乗り込む前には不安とおののきがある。まぁ、それはそれで悪い事じゃないけどな。

読者諸君、失礼する。この胸の内に去来する、わびしさは何なんだろう?

2014/09/06

Post #1249

Istanbul,Turk
フツーの写真の基準から言ったら、この写真は決していい写真ではないんだろうな。
画面右手になんか通行人の一部ががっつりと写り込んでいるしね。
けど、お父ちゃんの味のある表情と、子供の表情がね、捨てがたいわけですよ、俺には。俺はいつも言うように、いちいちファインダーなんか覗いて写真撮ったりしてないから、ネガが上がってきてから初めて気が付くわけ。そもそも、立ち止まって写真撮ること自体が少ないんだもんね、どうしようもないでしょ。
で、ネガを見るとどうしてもこういうの、プリントしたくなっちゃうわけです。
で、プリントすると、不味い写真でも君たちに見せたくなってしまうわけなんですよ。

上手い下手よりも、そういうのって写真にとって大事だと思えるんですわ。

その辺の感覚、解かってほしいなぁ・・。

読者諸君、失礼する。明日こそ、プリントするぞ!

2014/09/05

Post #1248

Istanbul,Turk
まるっとひと夏を費やした長い現場が、終わろうとしている。
やれやれだ。何とかたどり着いた。
一体どうなることやらと思っていても、結局なるようになるものだな。この宇宙というのは、そういうふうにできているわけだ。
さて、そろそろプリントしたいな。その前に、プリンターのインクを買って、請求書をつくって送りたいな。領収書も溜まっているから、帳簿もつけておかなけりゃな。
すぐに次の現場が始まるんだ。
うかうかしてるような暇はどこにもないんだ。

読者諸君、失礼する。明日くらい、久々にプリントしたいもんだな。そうはいっても、掃除から始めなけりゃならないし、薬品の調合もやらなけりゃならないから、結構骨が折れるもんだ。やれやれ、それはそれで気が重いぜ。

2014/09/02

Post #1245

Istanbul,Turk
着衣の女性の写真を撮影して、逮捕されるという事件が起こっているそうだ。警察が画像を確認したら、ブラジャーだのパンティーだのは写っていなかったそうだ。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20140831-00000001-a_aaac
11年にも、女性の後ろ姿を撮影した自衛官が、逮捕起訴され、最高裁!で有罪が確定しているという。意味が分からねぇ。俺たち市民の姿は、常にどこかの監視カメラで撮影されまくっているというのに。密かに映像の一元支配をもくろむ勢力が、世の裏側に潜んでいるんじゃないかって思うぜ。
冗談じゃない。
それで逮捕なら、俺は死ぬまで豚箱だ。
記事に出てきた弁護士によれば、服を着ていようが、着ていなかろうが、カメラを向けて恥ずかしい思いをさせたらアウトなんだとよ。どうにも生きにくい時代になったものだ。
阿呆じゃないか?
小娘どもは、へそ出し半ケツはみ出し当たり前で、親が見たら悲しくなってくるような格好で歩いているというのに、カメラを向けられたら恥ずかしいって、どういうことだよ?
カメラはむけられなくても、みんな見てるんだけど、それは恥ずかしくないのかよ?
そもそも、ファッションちゅうのは街という近代的な舞台が成立し、そこを行き交うものがある意味で役者として、見る=見られる関係性のなかに自分を繰り込むことで、成立し、意味を持ってきたものだ。
それを撮ってはいけないとは、どういう考えなんだろう?
それとも、自分自身の存在が恥ずかしいのか?
俺は今まで、散々他人の写真を撮ってきたけれど、街角でカメラを向けられたことも同じように多々ある。一度など、トルコの街角で携帯電話で話をしていたら、俺の周りに子供が寄り添ってポーズをとり、親が勝手に記念撮影していたこともある。
面白すぎて、ポーズを決めてやったよ。
なんたって、俺は自分に自信満々だからな。気にもならないぜ。

面倒臭せぇな。いっそ、我が国の小娘どもも、へジャブとかブルカとか着たらどうだ?よく見れば、これはこれで想像力が鍛えられる。目元や足首がちらりとのぞいただけで、興奮できるようになるかもしれないぜ。
まぁ、いまどきそんなこと言うと、世界中から袋叩きにあっちまうから、これぐらいにしておきますがね。
どっちにしても自意識過剰の小娘はかなわないよ。やっぱり女性は若くても25以上。出来れば子供の一人や二人産んで、あっちの方も脂が乗りきったくらいがイイんじゃないかな?話も分かるって気がするぜ。熟女キャバクラに人妻ヘルスが巷では大流行さ。

読者諸君、失礼する。因みに俺は、とっくに生理もなくなったようなおばちゃんや、棺桶に片足突っ込んだような近所のおばあちゃんに大人気だ。冗談じゃない。50年遅いよって言いたいぜ。

2014/08/23

Post #1235

Istanbul,Turk
いまいちいけ好かないところのある弟たちだが、それが何百万円も金を貸してくれと親父から頼まれたり、連帯保証人になってくれと懇願されたりするのを、黙って看過することはできない。
そこで俺は、今度こそ親父に引導を渡しに行くことにした。価値観の違いすぎる親父と、近くに住んでいながらも、親子としては距離を置いてきた俺だが、事業を清算し、負債を整理して、年齢相応につましく生きるべきだと、あえて言ってやろうと思ったわけだ。
俺の弟たちは、そうれを直言するにはいろいろと親父に借りがありすぎる。
商売の関係で親父のコネを利用している奴や、若いころにわがままを言って有名私立大学を中退し、これまた有名国立大学に入りなおしたりした奴、或いはこれまたわがまま言って国立の大学院まで行きながら、勉強についていけずに途中で断念し、学校で学んだことを実社会で一切役に立てていない奴らでは、引導を渡すことはできないだろう。
その点、俺は二十歳で家を飛び出してから、一切親父の世話になったり、借りをつくったりすることなく生きて来たからな、好き放題なんだって言ってやれるぜ。

で、親父の住処を尋ねると、親父は自分で作った晩飯をTVを見ながら食っているところだった。
そして、拍子抜けしたことに、親父自身から来月にでも事業を清算しようと思っていることを告げられた。
更に親父は、今回東京に仕事に行くついでに、埼玉の田舎に暮らす末の弟と福島で暮らしている下から2番目の弟を訪ねるつもりだといった。それは俺たちの予想を裏切り、金を貸してくれとかいう話ではなかった。
自分もずいぶん年を取ったので、子供たちのもとに出向いて父親として話し合い、お互いに理解するような機会は、もうそうそうないだろう。おそらく、自分の人生で最後になるかもしれない。自分は今まで、そんな話をすることもなかった。だから今更ではあるが、話しておきたいことがたくさんあるというようなことを訥々と話し続けた。
奇しくも、ここに来る直前に電話で話した福島に住む弟は、『いままで父親らしく接してもらったこともないのに、困った時だけ金を貸せと言われても、助けてやりたいとは思えない』と、一見当たり前のような、しかしどこか身勝手なようなことを話していたのと、俺の中で響きあっていた。
この親父自身も、今までの生き方を反省し、悔いているんだなと、俺は思ったのさ。

ならば、俺が言うことは何もない。俺は親父の話を聞き続けた。

親父の話は、終戦直後の混乱期まで遡った。
それは、終戦のどさくさに大陸から引き揚げてきたことに始まった。
戦後の混乱期に送った貧しい子供時代のこと。
物心ついた時から行商などで家族を養い、中学を出て働き始めたこと。
そして高度経済成長に歩調を合わせるように稼ぎまくり、自分の弟妹を学校に通わせたこと。
若くして土地を買い、家族を住まわせるために独立して家を建てたこと。
自分の父親(つまり俺の爺さんだ)の借金を肩代わりして返したこと。
俺を含めて4人の子供を私立の中高一貫校に通わる一方で、事業絶好調の最中に妻、すなわち俺のおふくろを癌で亡くしたこと。
バブル崩壊に伴い事業が衰退していったこと。
そして様々な幸運に恵まれ、往生際悪く、不景気のどん底を生き延びてきたこと。
そして、自分が世話をした弟や妹、そして息子たちが、自分に感謝してくれているように感じられない恨みつらみ。
それらのことを延々縷々と話し続けた。

俺は、そこに戦後の日本史を体現した人間の姿を見た。
そして、60年、50年前の出来事に、呪縛されている悲しい人間の姿を見た。
呪縛から解放されることは、自分の人生を否定することになるので、何時までもはるか昔に過ぎ去ったことにこだわり続ける哀れな男の姿を見た。

仕方ない。物心ついた時から、この人は金を稼ぐことしかやったことがないのだ。
銭金の絡まない人間の関係なんて、フィクションでしかないシビアな世界で、俺の父親が生きて来たのだということがよくわかった。
現代の普通の人間は、多感な思春期に友人との付き合いを通じて、社会性を獲得してゆくものだろう。
しかし、この人はそういうかけがえのない時期も、ただひたすら金を稼ぐために使い切ってしまったのだ。
人間性に偏りがあっても、仕方ない。
そして、そういう人間を生み出した背景には、戦後の日本の歩みが厳然として存在していることも、俺は直感的に理解した。

理解したならば、受け入れ赦すしかないじゃないか?

今まで俺自身も親父に対して、反発と軽蔑と相容れなさを感じていたのだが、それはとてもくだらないことだということが、すとんと腹におちるようにわかった。
それと同時に、親父が金儲けを諦めた途端、いっきに老け込み衰え、死んでしまう日もそう遠くはないんではないかと想像した。
何しろ、この人は金を稼ぐということ以外に、生きる術を知らないのだから。
俺のような道楽者が、よくもこの親父の種から生まれたもんだ。驚くぜ。
それはそうと、もし俺の考えが当たっているなら、葬式代をためておかねばならんだろうな。
しかし、大切なのは葬式のことではなく、如何に生きるかだ。生き直すかだ。
生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよだ。

俺は言った。『親父はもう75歳だ。あと残された命がどれほどあるかわからないが、まぁ5年くらいだと覚悟しておいた方がイイだろう。その遺された時間を、悔いのないように、人間的に生きるにはどうしたらいいのか、それが大きな課題だって。』
親父にとって、その第一歩が弟たちのもとに赴き、話をすることなんだろう。結構なことだ。

俺は家に帰り、頑なに父親に会うこと拒み続ける弟に、この機会に会って、しっかり向き合ってやって欲しいと伝えたんだ。

読者諸君、失礼する。どこの家族にも、いろんなドラマがある。俺の親父は、弟と和解することができたろうか?和解ができたら、理解を深めよう。世界中の人にそれを言いたいよ。