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2026/05/21

POST#1854 犯罪機械にされてしまった子どもたちの内面に倫理を育むにはどうすべきだろう?

Fes,Morocco

ここ二日ほど、日中は施主検査や引渡し、夜は工事、そしてその間は段取りというきつい日々が続いた。眠る暇もありゃしない。想定外のトラブルもあった。しかし、信頼できる職人さんたちの力を借りて辛くも乗り切ることができた。いつだって、成功すればみんなのおかげ、失敗すれば自分の責任なんだ。それがリーダーというものだぜ。しかし、ぐったり疲れはてたのさ。

昨日の夜中に這うようにして帰宅し、食事をとった後、リビングのフローリングの上でそのまま眠ってしまった。今日もぼんやりしてる。

ぼんやりしていても、痛風の薬がなくなったことは解っている。そう、尿酸値を押さえる薬だ。仕方ない、同級生のやってる岩田整形外科に行くか。

そこで、俺は『アンチオイディプス』を半分寝ながら読んでいたんだが、俺の前に呼ばれた患者の名前を聞いて目が覚めた。40年前、高校性の頃に一緒に生徒会の役員をやっていた三ツ口君だった。驚いたぜ。で、ほどなく俺も診察室に呼ばれたんだが、同級生が3人そろって世間話をしただけで帰ってきたぜ。

彼は今、仕事の関係で海外に暮らしているらしい。たまに日本に帰ると静かで落ち着くけれど、すぐに自分には息苦しいと思えてくるんだそうだ。あと、病院は日本じゃないとねって言ってな。まぁ何はともあれ、お互い相変わらずだ。嬉しいもんだ。

三ツ口君は海外をフィールドに選んだ。けれど、俺が生きて立ち向かっていかなければならないのは、間違いなくこの日本だ。


さて、今日も本調子じゃないけれど、一丁行ってみるか。

俺の息子は、先日も俎上に載せた栃木県での少年4人による殺人事件のニュースが流れるたびに食い入るように見ている。俺の倉庫にもバールはあるし、目出し帽買ってやろうかというと揶揄うと、真剣に怒ってくる。いいぞ、そうして倫理を内在化してゆくがいい。

さて、国家とか学校とか企業とか、大小さまざまなシステムに隷属し馴致されるのではなく、自らの中に倫理と美学を行動指針を打ち立てるためにはどうしたらいいのか?

自らの内に強固な「倫理」と「美学」を確立し、それを絶対的な行動指針にするためには、外部の評価軸(システムや他人の目)を遮断し、徹底的な自己対話と実践を繰り返す必要があるのは当然だろう。

倫理と美学は、頭で考えるだけでなく、痛みを伴う選択(あえて損を選ぶなど)を乗り越えることで初めて本物になる。俺も若いころ、会社で働いているときに、若手社員からなぜそんな自分にとってそんな選択をあえてするのかと聞かれたことを覚えている。反抗的だったからな。けどそれは、人間性を圧殺する組織への抵抗と、自分の仕事に対するプライドの故だったんだ。要は自分の倫理や美学に合わないことはしたくなかったのさ。今でも変わらいけどね。

例えば、うちの息子が怖いもの見たさで興味津々なトクリュウ犯罪などに関わってしまう若者などは、自らのなかに倫理を内在化できていないと俺は考えてる。いや、大方の人間は『今だけ、金だけ、自分だけ』という思考回路を半導体の基盤のように脳みそに刷りこまれてるから、この手の若い衆だけの話じゃない。そして、上から目線でいうつもりはないけれど、このような人々の内面に倫理を内在化させることは可能なのだろうか?

トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ) や闇バイト に加担してしまう若者たちに対して、倫理を内在化させることは同じ人間である限り「可能」ではあるだろう。が、従来の言葉による道徳教育(座学)だけでは間違いなく不可能だ。

なぜなら、彼らの多くは、純粋に悪を望んで犯罪をしているのではなく、「システムの歪み」に過剰適応した結果、倫理のスイッチが切れている状態にあるからだ。

なぜ彼らに倫理が届かないのか、そしてどうすれば内在化が可能なのか、その構造とアプローチを紐解いていこう。

なぜ倫理が「内在化」していないのか?

彼らの行動の背景には、倫理観の欠如というよりも、以下のような現代特有の構造がある。

ゲーム感覚の「脱個人化」: スマホの画面越しに、指示役から「指示されたATMで金を下ろす」「指定の場所へ運ぶ」といったタスクが降ってくる。

彼らは全体像が見えないまま部分的な作業(タスク)をこなすだけなので、自分の行動が「生身の人間を傷つける凶悪犯罪」であるというリアリティ(肉体性)が遮断されているわけだ。犯罪機械の歯車の一つになっているにすぎないっちゅうことだ。

圧倒的なタイパ・損得勘定のバグ: 現代の「コスパ・タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視するシステムに適応しすぎた結果、「短時間で効率よく稼げる」という目先の利益(ゲームの報酬)が、すべての規範を上回ってしまう。その行いによって、自分が何を失うのか全く考えていないのだろうか。これでは朝三暮四の猿みたいなもんだ。しっかりしてほしいぜ。

孤立と社会の道具化: 彼らの多くは、家庭や地域、あるいは労働市場で「自分は使い捨ての道具(システムの一部)だ」と感じて生きている。

これは彼らだじゃない。この社会全体に、お前の代わりはいくらでもいるという、無言の圧力が蔓延っている。しかし、それは根本的に間違っている。

社会を維持するための人材は足りていない。そして、人間は道具ではない。イマヌエル・カント🔗だって、『人間を道具として扱ってはいけない。人間そのものを目的としなければならない』といってるだろう?しかし、だれもかれもためらいもなく『人材』という言葉を使う。人間を鉱物や材木かなんかのように扱う卑しい言葉だ。俺ははっきり言って嫌いだ。

かくして、社会から大切に扱われた経験が薄いため、他者や社会に対して「美しく、倫理的に振る舞う」というインセンティブ自体が最初から崩壊しているわけだ。

愛されたり信頼されたりしたことのない人間に、人を愛したり信頼するのは難しいんだ。

2. 倫理を内在化させるための3つのステップ

彼らに「悪いことをするな」と正論を解いても響くわけがない。それを説くものをあざ笑うのが関の山だ。倫理を内在化させるには、彼らの脳内システムを書き換えるアプローチが必要だ。とはいえ、スタンリー・キューブリック🔗の映画時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいに、暴力を想像したり見たりすると生理的な嫌悪感が生じるように洗脳する手わけじゃないぜ。

「痛み」と「ナラティブ(物語)」の再接続(想像力の回復)

言葉ではなく、リアリティを突きつける必要がある。
自分が運んだ現金が、どんなお年寄りがどのような思いで集めたお金なのか、自分の行為によって被害者の人生がどう破壊されたのかという「具体的な物語」に直面させなければならないだろう。
少年院などで成果を上げているのは、被害者の手記を読んだり、当事者の生の声を聞くことで、「自分のタスク=生身の人間への加害」というリンクを脳内に強制的に結びつける教育だそうだ。

「他者」という美学のインセンティブ設計

刹那的に、延髄反射的に倫理を踏み越えてしまう彼らには、「倫理的に生きるほうが、長期的にはコスパが良い(あるいは美しい)」という実感を持ってほしいと切望する。その軽率な行いが社会的な自殺そのものであることに気付いてほしい。

トクリュウ組織は、若者を単なる「使い捨ての駒」として徹底的に搾取する。実際に報酬が支払われなかったり、警察に身代わりにされて逮捕されたりする。指示した人間は手を汚さず、直接人を傷つけ、その重荷を背負うのも末端の人間だ。

まぁ、俺から言わせれば、堅気の世界も似たようなもんだけどな。

これに対して、「誠実に生きることで、人から信頼され、自分という存在が社会で交換不可能な唯一無二のものとして認められる」という成功体験(=自己肯定感)を小さく積み重ねさせることが、迂遠に見えても最大の防壁になる。損して得取れ、情けは人の為ならずということだ。

身体性を伴う居場所(セーフティネット)の提供

そして何より、これが大切だ。

倫理とは、精神論ではなく「関係性」の中に宿るものだ。
自分を無条件で肯定し、間違ったときに本気で叱ってくれる「生身の人間(コミュニティ)」との繋がりができることで、初めて「この人を裏切りたくない」「この人に恥じない自分でいたい」という内発的な倫理観(美学)が芽生えるんだ。あるいは自己の中に、この相手には恥じるようなことはできないという空想上の人格でもいいだろう。俺だって、吉本隆明や忌野清志郎に対して恥じるようなことはできないからな。


トクリュウに流れる若者は、屠殺場のようなシステムに「順次処理」され、自己を喪失した最悪の帰結と言えるだろう。彼らに倫理を取り戻させることは、彼らをもう一度「システムから地続きの生身の人間」へと引き戻す泥臭い作業にほかならない。

そうなんだよなぁ。けど、言うのは簡単だけど、これ、本当に難題なんだよな。

これは現代社会が抱える最悪で最大の「難題」だ。

なぜって正論や綺麗な言葉が1ミリも届かない相手に、どうやって内なるブレーキ(倫理)を植え付けるのか、という問いだからだ。

この問題がこれほどまでに深い難題である理由は、主に以下のような「絶望的な矛盾」があるからだ。

「コスパ至上主義」という病理

現代社会そのものが「効率よく、タイパ良く、結果(金)を出すやつが勝ち」という新自由主義のゲームのルールで動いている。

トクリュウに染まる若者は、ある意味でこの社会のルールに「忠実に従いすぎた」結果とも言えるんだ。社会全体が「損得」で動いているのに、若者にだけ「美学のために損をしろ」と言うのは、システム的に非常に矛盾していいるだろう。

弱者の苦境は自己責任と切り捨てておきながら、自分が窮すると政府や行政に救済を求める新自由主義者の経済人たちのしていることのどこに倫理があるだろう?

そして、労働者の賃金を抑圧し、その生活を不安定化させておきながら、企業の内部留保を積み上げ、株主に巨額の配当を支払い、自ら高額の報酬を手にする成功者たちの姿を見て、自分たちが方法は違っても、他者から簒奪しても構わないと考えない方がどうかしているぜ。

言葉の無力化

彼らに「親が泣くぞ」「お年寄りがかわいそうだ」と言っても、響くことはないだろう。なぜなら、彼らにとって他者は画面の向こうの「記号」でしかないのだ。そして道徳の言葉は「うるさい大人のポジショントーク(説教)」にしか聞こえないからだ。

さらに言うと、その行いによって泣くことになる親とは、決定的に関係性を悪化させている場合が多いことも容易に予想がつく。家庭環境が良くても、悪くても、家族に対する対幻想が生物学的なつながり以上に、精神的に家族を結び付ける紐帯が切れてしまっているからだ。

要は言葉というメディア(媒体)自体が、彼らの前で機能を失っているのだ

言ってわからん奴は、叩いて教え込むしかないのか?

俺は若いころ、そうやってよく殴られたな(笑)

「一線を越える」ハードルの低さ

昔の犯罪は、不良のネットワークに入る、ヤクザの事務所に行くなど、身体的な「覚悟」が必要だった。

しかし今は、ベッドの上でスマホを数回タップするだけで、気づけば凶悪犯罪の片棒を担いでしまうことになるわけだ。「倫理的な葛藤」を感じる間もなく、システムが彼らを犯罪者へと滑り落ち落とさせてしまうのです。デジタル社会のおかげさまで、俺たちは断崖絶壁にへばりついているような状況に置かれてるわけだ。

この難題を前にして、私たちはただ絶望するしかないのか、それとも何かアプローチがあるのか。

考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになる。

どのような言葉が、彼らに届くのか。やはりルトヴィコ療法しかないのかな?

なぜって彼らはみんな新自由主義の鬼子なんだもの。この社会そのものが生み出した存在なんだ。

「新自由主義の鬼子」――まさにトクリュウや闇バイトの構造は、新自由主義が極限まで進行した結果、社会の最底辺に現れた「最悪の突然変異」にほかならない。

彼らは、新自由主義が掲げる以下のロジックを、文字通り極限まで突き詰めて実行しているだけだからだ。

徹底的な「人間性のカット」と「効率化」

新自由主義は、あらゆるものを市場原理、つまりコストと利益で測る。そこに倫理や地球環境や人類の未来に対する配慮など、ない。トクリュウはこれを犯罪組織として完璧に最適化しているわけだ。

指示役は実行犯の顔も名前も知らず、捕まってもトカゲの尻尾切りで済むようリスクを外部化(コストカット)する。

実行犯は、被害者を「生身の人間」ではなく、単なる「現金の入ったターゲット(利益の源泉)」として処理する。

お互いが相手を「交換可能な道具」としてのみ扱う、究極のドライな関係だ。そもそもそこには人間のつながりすらない。

「自己責任論」のバグった果て

「努力して稼げないのは自己責任」「勝てば官軍」という価値観を浴びて育った結果、彼らの脳内では「捕まらなければ、どんな手段を使っても稼いだやつが勝ち」というバグった実力主義が完成している。なぜって、社会の頂点に君臨する大人たちが、それを実行しているからだ。
ルールを守って貧困にあえぐくらいなら、ルールを破ってでも一発逆転を狙う方が「合理的」だと判断してしまう。新自由主義が肯定する「強欲」のストッパー(倫理・美学)を外すと、この怪物が生まれるのは必然の理だ。

 コミュニティの解体と「連帯の喪失」

新自由主義は、地縁、血縁、労働組合といった「無駄な流動性を阻む古いコミュニティ」を破壊し、個人をバラバラの「自由な労働者」にした。その極限の姿がウーバーやアマゾンのギグワーカーだ。

守ってくれる盾(居場所)を失った若者は、市場の荒波に剥き出しで放り込まれている。労働行政は手を差し伸べることをしないし、彼らには行政に支援を求めるという発想などない。その境遇は自己責任だと刷り込まれ、行政に支援を求めることは、自分の存在価値を否定することだと思い込まされているからだ。

その孤独と不安の隙間に、スマホ一つで「疑似的な繋がりと報酬」を提示するトクリュウのシステムが滑り込んでくるのは、必然と言えるんじゃないのか?

このシステムが「新自由主義の鬼子」であるならば、彼らに「倫理を持て」と説教することは、「冷酷なゲームの中で、お前だけは綺麗事で損をしろ」と命じる過酷な要求になってしまうだろう。まさしく無理ゲーって奴だ。

この「鬼子」たちをこれ以上生まないために、あるいはこの連鎖を止めるために、俺たち大人は、どこから手をつけるべきなのだろうか?

うーん……迂遠だけど社会を共同体をリビルトするしかないですね。

どんなに迂遠に見えても、崩壊した「共同体(コミュニティ)のリビルト(再構築)」こそが、この病理に対する唯一の本質的な解決策じゃないだろうか。

外付けのルールや罰則、つまりシステムの強制力で縛るのではなく、内なる倫理を育むための「土壌」をもう一度作り直すしかないんだ。

遠回りだし、なにを今更っていうかもしれない。

犯罪を犯したものを糾弾し、厳罰に処するのはたやすい。

しかし、社会を変えることはたやすい道じゃない。

なぜならそれは、自分たち自身を変えることそのものだから、だれにとっても面倒だし、厄介だし、何より自分自身の問題だからだ。

新自由主義がモナド🔗のようにバラバラに解体した個人を再び繋ぎ、その中に倫理を内在化させるための共同体リビルトの方向性を3つに整理しよう。

「利害関係」のない第三の居場所(サードプレイス)を作ろう

  • 家庭や学校・職場以外の逃げ場: 評価や成果(損得)を求められない場所を作る。
  • 無条件の肯定感: 「何ができるか(機能)」ではなく、「そこにいること(存在)」そのものが無条件に受け入れられる経験を提供する。
  • 利他性の体験: 誰かの役に立ち、感謝される小さな成功体験を通じて、自己有用感を育む。

「身体性」を伴うローカルな繋がり

  • ネット空間からの離脱: 画面上の記号ではなく、生身の人間と泥臭く関わる機会を増やす。
  • 地域のセーフティネット: 挨拶を交わす、一緒にご飯を食べるなど、お互いの顔が見える「小さな経済・生活圏」を取り戻す。
  • 迷惑をかけ合える関係性: 「自己責任」の呪縛を解き、困った時に「助けて」と言える心理的安全性を地域に埋め込む。

「物語(ナラティブ)」の共有

  • 共通の記憶と文化: 祭り、行事、あるいは共通の趣味や目的を通じて、一つの「私たちは仲間だ」という感覚を育てる。
  • 美学の伝承: 「こういう生き方は格好いい」「これはダサい」という、法を超えた「粋・野暮」の感覚を先輩から後輩へと背中で伝える。
  • 他者への想像力: 濃密な関わりの中で「自分がこれをしたら、あの人が悲しむ」という、倫理の原点であるブレーキを機能させる。


このリビルトは、国家規模の巨大な計画ではなく、おそらく「手の届く小さな半径のコミュニティ」を無数に作ることからしか始まらない。非常に地道で、時間の Laaag(タイムラグ)がある闘いだ。

正直に言えば、俺は手品のようにすぐに結果が出ることだとは思っちゃいない。何世代もかかるかもしれない。けれど、今種をまかないと、この社会の荒廃は、どんどん進んでいく。そして、その荒廃が突き詰めたところに現れるのは、暴力で人々を鎖につなぐ専制政治と相互監視的な窮屈でいやらしい世界だ。リヴァイアサンの誕生だ。そいつは御免だぜ。

やっばそうか。そうだよな。志のある大人がやらないといけないんだよな…。

2015/09/17

Post #1626

Fes,Morocco
妊娠しているカミさんが、なんだか無性にパスタが食べたいというので、仕事帰りに百貨店の食品売り場でなんやかんやと買い物して、雨のなか家路を急いだ。水あめでふやかしてないベーコンと生クリームを買って、カルボナーラを作ろうと思ったのさ。

途中でカミさんから電話がかかってきて、なんだかいつもと違って不安だから、病院に行きたいというんだ。かなりうろたえている。流産しかかってるんじゃないかってオロオロしていた。
俺は、『病院で見てもらってから泣けばいい。急いで帰るから待ってろ』と言うと、雨足の強まってきた夜道を急いだ。

帰って食材を冷蔵庫に放り込むと、俺はカミさんを車に乗せて病院へと急いだ。とはいえ、妊婦を乗せているので、安全運転だ。事故はもう懲りてるのさ。

結果的には問題なかったようだ。やれやれ。

最近、おなかの中の子供が動き始めているようだ。
で、その頃から、うちのカミさん面白いことを言うようになってきやがった。
どうにも肉っぽいものとか、甘いものが無性に食べたくなるという。

俺はかなりの肉好きなんだ。やっと気が合ってきたな。酒飲みっではないからかケーキも大好きだ。コーヒーショップでしばしばケーキセットを楽しんでるのさ。

カミさんは、いままでそんなモノを食べたいって思うことなんかなかったそうなんだ。
カミさんが言うには、きっとおなかの中の子供が、そういうものを欲しがってるんじゃないかっていうんだ。今日のパスタも、ふと食べたくなったっていうんだ。

肉も、甘いものも、パスタも俺の大好物だ。

カミさんは言うんだ。俺の好きなものばかり食べたくなるってことは、きっとおなかの子は、俺にそっくりな子供が生まれるに違いなってね。

それだけじゃない。車や新幹線に乗ってるときに、しばしばおなかの中で赤ちゃんがもぞもぞ動くのを感じるんだそうだ。

俺も車は大好きだし、新幹線や離陸する直前の飛行機なんかも好きだ。

やはり、俺によく似た子に違いないってカミさんは言うんだ。

そいつは楽しみだな。

読者諸君、失礼する。カルボナーラは上手くできたぜ。もちろんおいしかったさ。

2015/08/21

Post #1599

Essaouira,Morocco
今日は朝の4時から仕事なんで、写真だけお送りするぜ。

失礼する。

2015/08/03

Post #1581

Moulay Idriss,Morocco
今日は眠くて仕方ないんで、写真だけ。
これはイスラム圏でよく見かけるファティマの手を象ったドアノブだ。

ファティマはたしかムハンマドの娘で、非常に慈悲深い女性だったと伝えられていたと記憶してるんだが、彼女の手が差し伸べられ、守護されるように、イスラムの人々は、手のひらを象った装身具を身に着けたり、家に飾ったりする。

このドアノブの意匠は、イスラム教徒によって一時期支配されていたスペインなんかでも見ることができたはずだ。なんか見た覚えがあるんだよ。

読者諸君、失礼する。おやすみ。

2015/08/01

Post #1579

Rabat,Morocco
先日、仕事の合間に古い友人と、銀座松屋の裏あたりのイタリアン・レストランでランチを楽しんできた。しんどい仕事の合間にも、そんな楽しみがないとな。
もちろん、俺は作業服なんだけど、表向きはなぁに構うもんかといった風情を装いながら、内心は作業服でこんな店は気が引けるなぁなんて思っていたんだけどね。
けれど、友人はそんなことちっとも気にしないのさ。気さくな庶民派なのさ。
子供のころからの友人で、何十年もご無沙汰だったけど、お互い昔と何らかわらず、気兼ねしない愉しいひと時を過ごしたんだ。デザートのケーキを、こいつは旨いぜ、一口食ってみなよとか言って、それぞれシェアしてみたりしてね。
目を閉じると、今でも彼女と自転車を並んで走らせ、他愛もないことを語り合い、分かれ道で自転車を止めて、夕日を横顔に浴びながら語り合った日々を思い出す。
今から30光年以上離れた世界の話だ。とっくの昔に失われてしまった時間だけれど、30光年離れた星から地球を見ることが出来るのならば、その懐かしい俺たちの姿を見ることができるだろう。
その頃があるから、今の自分がいる。そして、その頃は失われたわけではなくて、ただ、手の届かない遠くにあるだけだ。ほんの30光年ばかりね。
あまり詳細に思い出すと、懐かしくて、そんな時代にもどってみたくもなる。バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。デロリアンが欲しくなるぜ。しかし、そいつは無理な相談だ。そんな思い出は俺の宝物として、お互いの胸の中にしまっておこう。そのほうが美しい。

その時の会話で、昔の同級生がいろいろと海外で生活したりした話を聴いたりしたんだ。

俺は旅行は方々しているけれど、生活の拠点を海外に置いたことはないからな。すこし羨ましく聞いていたんだ。
で、ふと自分がこうして日本で真っ当に働いて、地に足の着いた暮らしを営んでいるのが、不思議な気がするというと、友人も、「そうだね、昔からどこか遠くに行ったきりになって、もう帰ってこないような雰囲気だったもんね」と納得していた。
そう、どこか見知らぬ国を一人彷徨うように旅して、今頃どこかの森のバナナの木の下で肥やしになっていたって何の不思議もないと思っていたんだ。
どうして今、銀座のど真ん中で、大きな現場の責任者を任されて、昼夜を問わず真面目に働いているのか、自分でも不思議な気がするんだ。
俺としては、バナナの肥やしをやってるほうが自然なのにな。

そういえば昔から、俺の師父には、インドだけには行っちゃいかんといわれていたな。
インドがどうのこうのじゃなくて、俺自身がインドにどっぷりはまって、日本に二度と帰ってこなくなると言われていたんだ。さすが、俺の師父。俺の心などお見通しだ。

どうしてそうならなかったのか友人と話していると、やはり俺のカミさんがしっかりしてるからだという結論に至った。来年には子供も生まれてくるしな。
そういえば、師父もそういって俺のカミさんに礼を言ってくれたことがあったっけな。

友人と話が盛り上がったところで、現場からトラブル発生を告げる電話がかかってきた。
仕方ない。俺は友人と再会を約束すると、そうそうに面持を改め、現場に向かった。トラブル処理は俺の大好物だ。俺は現場のトラブルバスター#1なのさ。
友人からは安産祈願で水天宮のお守りを頂戴したぜ。無事俺の子供が生まれてくるように、友人自身も念を込めてくれたんだ。ありがとう。生まれたら、この友人にも見せびらかすのさ。

しかし、まだ十分に体が動く今のうちに、もっと遠くに行きたいな。
シベリアの森の奥、アマゾンの岸辺、炎熱のサハラ砂漠・・・。そんなところにも、ニンゲンは住んでいて、俺たちが思いもよらない生活を送っていることだろう。そして、基本的なところでは俺たちと変わりない幸せを追い求めて生きているだろう。俺はそんな人間を見てみたいのさ。

子供が生まれたら、そんな気も失せてしまうんだろうか?
それとも、一緒に連れて行こうか・・・。
塾になんか通わせるより、よっぽど子供の人生の糧になるに違いないさ。

読者諸君、失礼する。帰ってこないことが最善だよ。それが放浪の哲学さ。

2015/07/29

Post #1576

Rabat,Morocco
RCサクセション
空がまた暗くなる


大人だろ 勇気を出せよ
大人だろ 知ってるはずさ
悲しい時も涙なんか 
誰にも見せられない


大人だろ 勇気を出せよ
大人だろ 笑っていても
暗く曇ったこの空を
隠すことなどできない


ああ 子供の頃のように
さあ 勇気を出すのさ  
きっと 道に迷わずに 
君の家にたどりつけるさ


大人だろ 勇気を出せよ 
大人だろ 知ってることが
誰にも言えない事ばかりじゃ 
空がまた暗くなる


ああ 子供の頃のように   
さあ 勇気を出すのさ
きっと 道に迷わずに 
君の家にたどりつけるさ


Yeah 勇気を出せよ 
大人だろ 知ってるはずさ
悲しい時も涙なんか
もう二度とは流せない


悲しい時も涙だけじゃ 
空がまた暗くなる 
空がまた暗くなる
この空がまた暗くなる

 
大人だろ

(作詞作曲、忌野清志郎)


俺が大人か、ガキのまんまなのか、誰かが勝手に決めたらイイさ。

歳月を重ねて、いろんな経験をしてきた。
そうしてはじめてわかったことが、たくさんあるのさ。
そう、この歌の重たさと確かさが、ズシリと感じられるくらいにはね。




読者諸君、失礼いたす。君のもとに、いつかたどり着きたいよ。

2015/07/26

Post #1572

Essaouira,Morocco
THE WHO
BARGAIN

I'd gladly lose me to find you
I'd gladly give up all I had
To find you I'd suffer anything and be glad

I'd pay any price just to get you
I'd work all my life and I will
To win you I'd stand naked, stoned and stabbed

I'd call that a bargain
The best I ever had
The best I ever had

I'd gladly lose me to find you
I'd gladly give up all I got
To catch you I'm gonna run and never stop

I'd pay any price just to win you
Surrender my good life for bad
To find you I'm gonna drown an unsung man

I'd call that a bargain
The best I ever had
The best I ever had

I sit looking 'round
I look at my face inm the mirror
I know I'm worth nothing without you
And like one and one don't make two
One and one make one
And I'm looking for that free ride to me
I'm looking for you

I'd gladly lose me to find you
I'd gladly give up all I got
To catch you I'm gonna run and never stop

I'd pay any price just to win you
Surrender my good life for bad
To find you I'm gonna drown an unsung man

I'd call that a bargain
The best I ever had
The best I ever had





I'd gladly lose me to find you, I think so.

I'd gladly give up all I got,I think so too.


My Guys and Sweet Ladies, Good Night. Hava a Nice Sunday.

2015/07/24

Post #1570

Fes,Morocco
Pete Townshend & Ronnie Lane
HEART OF HANG ONTO

Johnny boy, he's always propping up the bar
He's sees life crystallized through his jar
He says he only lives for beer
But deep in his heart is a cry of fear


Give me a heart to hang onto
Give me a soul that's tailored new
Give me a heart to hang onto
A heart to hang onto


Sally seems to get bigger everyday
She evens out in a contented way
A finger on the pulse of every guy
But deep in the night you can hear her cry


Give me a heart to hang onto
Give me a life that's tailored new
Give me a heart to hang onto
Oh please a heart to hang onto


Give me heart to hang onto
Give me a soul that's tailored new
Give me a heart to hang onto


Danny, he wants to save for a new guitar
He's going to learn to play but he won't get far
He thinks it's an easy going' high
But his whole life is just another try


Give me a heart to hang onto
Give me a suit that's tailored true
Give me a heart to hang onto
A heart to hang onto


I need a heart... to hang onto...


I want to get a heart to hang onto for you.

My Dear, Good Night, Good Sleep.

2015/05/23

Post #1508

Rabat,Morocco
本日、写真のみ。お送りしよう。そんな夜もある。
Rabat,Morocco
読者諸君、失礼する。いずれまた会おう。

2015/04/18

Post #1473

Essaouira,Morocco
今夜はプリントしたいので、手短に済まそうか。

自分にとって、大切な人が悲しみにくれているときに、俺にはその悲しみを癒してやることはできない。
俺は神様でも仏様でもないので、起きてしまったことを、そしていずれ必ず起きることを、どうしてあげることもできない。どれだけ何とかしてあげたくても、俺もまた無力な人間に過ぎないからだ。

当然のことだ。

けれど、せめてその悲しみを理解し、その人の心に寄り添っていられるような人間でいたい。
その悲しみの幾分かを、ともに分け持って、担うことできる人間でいたい。
口元を一文字に結んで、嘆き悲しむ人のそばに、寄り添っていたい。
それで何か、俺に得があるわけでもない。自分がそうしたいから、そうするだけだ。
できることなら、その人が喜んでいるときに、その喜びをともに感じることができたなら、なおヨシだ。
人生の意味は、そこにある。資産を増やすことなんかには、人生の意味なんかない。

そんな人間で、俺はいたい。
それが俺の小さな願いだ。
けれど煩悩深重な我が身を省みると、それすらも大きすぎる願いに思える。

もっとも、人によってはそんな願いを持ってる俺に、反吐が出るというだろうがね。
もちろん、そういうことをあえて言ってしまう自分自身が、とんでもない偽善者に思えて、不愉快にもなる。
けど、言いたいから言っているのさ。

読者諸君、失礼する。俺はまともなニンゲンになりたいと願っているんだけど、そう願えば願うほど、世間の常識から離れていき、ろくでなしのように扱われるのさ。そんなもんさ。

2015/04/12

Post #1467

Rabat,Morocco.ブーレグレグ川の渡し守。手漕ぎのボートで川を渡るのだ。
金曜日の夜のことだった。
下世話な話で恐縮だけど、ウンチをして尻を拭いたら、紙が赤く染まっていた。
俺は、何かの間違いだろうと思って、それを流し去ったのだが、よく考えてみるとその何日か前にもそんなことがあった。
そして、なおも残便感があったので、トイレにこもっていきんでみると、小さな赤い塊がケツから出やがった。まるで血の塊のような奴だ。

俺は、さすがにヤバいと思ったぜ。

大腸がん、人工肛門、直腸がん、そんな単語が頭をよぎった。

そして、人間一回は死ぬもんだけど、とうとう俺の番が回ってきたかよ・・・って思ったのさ。

俺の親族には癌で死ぬ奴が多い。
おふくろも38歳の若さで、胃癌を患って死んでいる。
それに比べれば、俺は長生きしたほうだ。
あちこち転移し、いろんな療法を試した末に、やせ衰えて死んだおふくろを見ているおかげで、俺は癌になったら、素直に受け入れて死んでいくつもりなんだ。モルヒネくらいは痛みどめで打ってほしいけど、生まれたら死ぬのが自然の摂理だからな。
何事も自然が一番だ。
第一、使ってる方には悪いけど、俺は人工肛門になったりしてまで、生きていたくないしな。

生きすぎたりや、四十六、ってところだ。俺も意外とあっけなかったな。

カミさんに話をすると、大騒ぎだった。
仕方ないな。俺はいつもコメントをくれるドクターころに電話をして意見を聞いてみた。彼は優秀なお医者さんなのだ。
曰く。話を聞いていると大腸癌の確率は、5%くらいってところらしい。
宝くじに当たるよりも、はるかに確率は高いな。
で、最近とみに体重が減っているとか、便の太さの状況や体調なんかを説明していくと、彼は少し確率が上がりましたねぇ、とワクワクドキドキするようなことを言ってくれる。
まったく、人生は黒ひげ危機一髪だな。思わず笑えてくるぜ。

まぁ、じたばたしても仕方ないぜ。死ぬもんは死ぬんだし。
そもそも、俺が死んでも世の中の大勢になんら影響はない。
いつも言うように、この世から痴漢が一人減っただけさ。
カミさん以外はそうそう悲しんでくれる奴もいないだろうし、せいぜい俺を目の敵にしてるネット右翼が小躍りして喜ぶくらいだろう。

いつだって、俺はあの世に行けるってことだ。
Ready To DIE!!ってカンジさ。地球のみなさん、さようなら!

読者諸君、失礼する。続きは次回だ。気になるところで話を切り上げるのが、コツというものさ。

2015/04/10

Post #1465

Volubilis,Morocco 古代ローマ人のお茶目心炸裂!この遺跡で、最も盛り上がっていた。
肉棒ならぬ石棒だ。古代ローマ人は、ちんを豊穣のシンボルと考えていたんだぜ。
我が家での会話、続編。

昨晩のNHKの時代劇を晩飯食いながら見た後だ。
傾奇者前田慶次の晩年を藤達也が演じている番組なのだが、この劇中で前田慶次は石田三成の遺児を、自らの子供として育てているという設定なのだ。

俺  『おまえ、俺がひょっこり中学生くらいの子供を、俺の隠し子だって連れてきたらどうするよ?』

カミさん  『あんた、その子どこで拾ってきたのっていうわ。あんた最近、よそに隠し子がいたらどうするって話し、多いよね?それ、自分の中でブームなの?』

俺  『いや、俺は男として自分の父親を越えねばならんのだ』

カミさん『はぁ?なに、それがどういう関係があるの?』

俺  『お前も知ってのとおり、俺の親父ときたら、昔おふくろが死んで以来、次から次に新しい彼女を作っているわけだ。まるで車と彼女は新しいのに限るといわんばかりだ。』

カミさん『それで?』

俺  『つまりだな、俺がその親父を越えようと思ったら、ここはいっちょ隠し子くらいいないと越えられんだろうって話だ』

カミさん『そういうもんか?まぁ、あんたの男の夢なんだろうけど』

俺  『彼女がたくさんってのは、ある意味男の夢だわな。』

カミさん『そうかもしれんね』

俺  『しかし、俺の夢はそれにとどまらないぜ。その彼女たちがお前も含めて仲良くしてくれるってのが、俺の大いなる夢だな』

カミさん『確かに、彼女がたくさんいて、互いにいがみ合ってたら、たまらんでしょうねぇ』

俺  『そりゃそうさ。まぁ、お前とはかれこれ20年も一緒にいるから、他の女にはお前に対して敬意をこめてお姉さんって呼ばせるようにするよ』

カミさん『え~、そんなんイマイチ、名前で呼んでほしいわ』

俺  『じゃ、お前はなんてその娘たちを呼ぶんだよ?』

カミさん『この、泥棒猫!』

ダッハッハ!こいつにゃ笑ったぜ!

読者諸君、失礼する。うちのカミさん(内縁で未入籍)は寛大な女性だってことだ。ありがたいぜ。俺の彼女になりたいっていう泥棒猫がいたら、申し出てくれよな。待ってるぜ!俺のストライクゾーンは、結構広いんだぜ!

2015/03/08

Post #1432

Moulay Idriss,Morocco
しばらく前、静岡の御殿場市で、かつて中東に仕事で長いこと住んでいたおじさんが「日本イスラ―ム圏友好協会」なる任意団体を作り、ムスリムの人々との相互理解を進める活動をしようとして、近所の信用金庫に口座を作りに行ったら、なんとその沼津信用金庫の担当者さんは、この団体がイスラムってついてることから、イスラム国に将来資金を送るパイプに使用される恐れがあるからと、口座の開設を断ったのだという。凄い事なかれ主義だ。

酷い。噴飯ものだ!その程度の認識で、この現代社会を生きていけるものだ。
田舎者と言われても仕方がないぞ!

無知から、無理解が生じ、無理解から反目が生じ、反目から争いが生まれる。

ならば、争いを避けるには、まずは謙虚に知ることから始めよう。

誤解が解けたら、理解を深めよう!

まずはここから。

イスラームというのは、アラビア語で『神への帰依』を意味する。

開祖の名前とか、神の名前とかじゃないのよ。神への態度そのものが宗教の名前なの。
だから、イスラームがついているからって、別にイスラム国とは何らかかわりのねぇことでござんす。
日本とついていたら、日本赤軍と関係あると言って、口座開設が許されなかったら、あなた、むかつくでしょう?同じことですよ。

ムスリムという言葉もあります。これも同じくアラビア語で、『神に帰依する者』を意味します。このムスリムは世界中に約16億人いると推測されています。キリスト教に次いで大きな宗教グループです。つまり、先の沼津信用金庫は、日本国内でしか通用しない事なかれ主義によって、世界中の16億人のムスリムの皆さんから、反感を買ったということになるでしょう。
この21世紀という、情報ボーダレスの時代に、なんという見識の無さ、なんという思慮の足りなさ。
同じ日本人として悲しくなります。

イスラム教の経典はコーランと呼ばれていますが、より正確には『クルアーン』と発音したほうがよいようです。
このコーランは、本来神の言葉なので翻訳するべきものではないとされています。
だから、世界中イスラム教徒の多く住む街に行くと、一日五回の礼拝の時間を告げるアザーンが、有線放送やモスクのスピーカーから流れてくるのですが、それはどこに行ってもアラビア語です。
これを聞くと、あぁ、イスラムの土地にきたなぁ・・・としみじみ思います。
異国情緒とともに、もういい加減慣れっこになって異国なのに安堵するというのでしょうか。
独特の美しい響きも大好きです。

神の言葉を、勝手に変えることは許されないから、ムスリムはアラビア語でコーランを読まねばならないのです。
だから、NHKのアラビア語講座を見て、簡単な会話をマスターしておけば、イスラム教圏に旅行した時に、けっこう役に立つはずです。

読者諸君、失礼する。俺はイスラム教徒ではないけれど、しばらくイスラム教について、君たちと一緒に理解を深めようとおもうのさ。なぜって、俺が旅先であったムスリムの人々は、誰もみな、気さくな良い人たちだったからな。

2015/03/06

Post #1430

Moulay Idriss,Morocco
働き過ぎると、何もかも放り出してとんずらしたくなる。
地の果てまで。
携帯の電波も、税務署も、そこまではさすがに追ってこないさっていうような地の果てだ。

アフリカ大陸の西岸に位置するモロッコは、日本からすれば、まさに地の果てだ。
俺は、モロッコの聖都ムーレイイドリスの写真を引っ張り出して、懐かしく思い出す。

『地の果て 至上の時』

そんなタイトルの小説があった。俺の大好きな中上健二の小説だ。
熊野の森と海に抱かれた新宮を舞台に、腹違いの弟を殺し、腹違いの妹と交わった主人公が、実の父と繰り広げる情念の確執を描いた小説だ。
軽佻浮薄な平成の世を生きる世人には、いやはやなんとも重苦しい小説だが、俺は大好きだ。
何といっても、タイトルがイイよな。
思わず口ずさんでみたくなる。
君も目を閉じて、呟いてみるがいい。

『地の果て、至上の時』と。

俺は目を閉じ、未だ見ぬ地の果てをおもう。

生温かい人の気配など、微塵もない地の果てを。
吹き渡る風。
それは身を切るように冷たいか。
それとも、熱気を孕んで熱いのか。
草いきれのにおい。
波のにおい。
空の色は、どんな青だろう。
トルコ石のような水色か、
それともラピスラズリのような藍色か。
何が聞こえるだろう。
風が虚空を渡る音か。
打ち寄せる波が砕ける音か。
それとも、世界の果てのさらに向うを目指して飛ぶ
鳥たちが鳴き交わす声か。

そこでは、時間はなんの意味もない。
一瞬が永遠に接続する時空だ。

だから、そこには至上の時が流れる。

本当はいつだって、どこにいたって、今、ここが、『地の果て、至上の時』でなければならないんだけどな。できうれば、そんなふうに生きていたい。世の中から浮きまくり、ずれまくってもかまいやしないぜ。つまり、瞬間瞬間を主体的に生きるってことか・・・。

読者諸君、失礼する。そうはいっても、来月には旅行に行くんだった。もう少しの辛抱だ。

2015/03/02

Post #1426

Fes,Morocco
昨日は仕事が休みだったので、美容院に行って髪をきった以外は、ひたすら眠って暮らした。
こう見えても、俺は疲れ果ててるんだ。くたくたなのさ。
だから、何も言うべきことはありゃしない俺なのさ。

よって、今夜はこの写真だけ、そっと君に届けよう。

読者諸君、失礼する。顔パックしたいからとっとと止めてくれと言われてるんだ。

2015/03/01

Post #1425

Rabat,Morocco
イスラム国に捕らえられた人質を、ナイフで処刑し、世界中を震え上がらせたジハーディ・ジョンの身元が公表された。後藤健二さんや湯川遥菜さんを殺した黒づくめのアイツのことだ。まさか君、忘れちゃいないだろう?

新聞その他の報道によれば、クェート生まれ、ロンドン西部郊外で、裕福な家庭に育ったコンピューター・プログラマー、『ムハンマド・エムワジ』がその正体だという。イギリスの諜報機関MI5は以前から彼をマークしていたのだという。
毎度おなじみ朝日新聞で知ったのだが、関連ニュースをいろいろと見ていると、一番興味深かったのは、下にリンクを貼ったテレグラフ紙のものだ。
telegraph.co.uk/Jihadi John From ordinary schoolboy to worlds most wanted man.html
この記事の中で、エムワジの学生時代の友人が、彼のことを想い出して『彼は典型的な北西ロンドンの少年だった。彼は分別のある、謙虚な人柄だった。サッカーが好きで誰とでも友人だった。そう、インド人やパキスタン人など、宗教の違う人々とも仲が良かった・・。』と言う趣旨の発言していることが目を引いた。
それが今や、世界一のお尋ね者だ。解からないものだ。彼を非難するのは容易いが、俺はむしろ、その解からなさに目を向けてみたい。心の闇というのは簡単だが、それでは、自分には闇は微塵もないかのように、仮想の線を引いてしまうことになりかねない。

人間は、閉じた環境の中に飛び込んでしまうと、どんどん先鋭化してしまう。

若いころ、カルトな宗教に飛び込んで、行者として人にはあんまり言えないことを散々してきた俺が言うのだから、間違いない。
市民社会の常識も、法も倫理も、自分が属する閉じた社会特有の考え方が優先されるのだ。そして、そこから抜けるという選択肢がない(イスラム国は脱退は死刑だと聴いたことがある)のなら、より先鋭化した考えを持ち、より過激な行動に出たものが、称賛され、組織内での地位を確立してゆくというのは、十二分に理解できる気がする。
そして、そういう状況は、何もイスラム国のような狂信的な集団だけに見られるものではなく、往々にして熱狂的な興奮に包まれた国家から、そこいらの宗教団体、政治団体、果ては一般的な企業に到るまで、程度の違いはあれ、容易に起こりうる、いや、今もおこっている事柄なのだ。

俺が、組織というのもに馴染めず、どこかそれは俺自身を絡め取ろうとするものだと感じるのは、そこなんだ。
社会一般の常識よりも、組織内の常識の方が優先される不思議な状況が、いつだって生み出される。気が付くと、イイことをしてるつもりで、とんでもないことの片棒を担いでいたり、自分自身を抑圧圧殺する方向に、自分から自分を追いやったりすることになるものだ。

では、どうするか。

一つには、インディペンデントに生きるということが必要になってくる。あくまで、個として社会に対峙するという確固たる意思を持つべきなんだ。
もう一つには、閉じた社会の非常識を常識と思いこまされることのないような知性、教養、思想、信条を身に着ける必要があるということだ。
もちろん、この二つはコインの裏と表のようなもので、意思だけでは偏固になり、教養だけでは高慢に陥るというもんだ。

俺は、25歳で宗教団体から命からがら夜逃げして、いまの暮らしを始めたときから、もう二度と無知蒙昧に陥るまいとして、さまざまな本を読んできた。歴史、経済、民族学、宗教学、哲学、文学などなどだ。時にはこっそりエッチな本も読んできた。バランス感覚は必要だ。そして、自分なりに世界というものに対するイメージとスタンスを確立しようとして努めてきたつもりだ。
だからどうした、自慢かよ?って訊かれると、そうじゃないって言うしかないんだが。
つまり、自分なりの社会に対する確固たるスタンスを持たねば、容易にあやふやな自己など、大義名分に飲み込まれてしまうことになるっていうはなしだ。
だからと言って、社会と対峙するのに、より小さく過激な集団によって行うのは、ある意味で個としての弱さに他ならないようにも思える。

俺は思うのさ。
俺たちは誰だって、後藤健二さんになりかねなかったし、湯川遥菜さんにもなりかねなかった。
そしてまた、ジハーディ・ジョンにだって、なっていたかもしれなかったんだって。全ては機会と縁の問題で、たまたま俺にはその縁も機会もなかっただけのことに過ぎないって。

親鸞聖人は歎異抄のなかで『俺の心がよくって、人を殺さないって訳じゃないんだ。ただ、その縁がたまたま無いから殺さないだけなんだ』って言っているけれど、人間なんてのは、まったくその通りのもので、ジハーディ・ジョンを俺たちとは全く違った怪物か化け物のように思ってはいけない。
彼もまた、一人の人間に過ぎないってことが、俺にはよくわかった。
彼を冷酷で非情なモンスターだと認識することは、ある意味で思考停止だと俺には思えるのさ。もちろん、彼を擁護したり称賛したりする気はさらさらありゃしないんだがね。

読者諸君、失礼する。今夜ももちろん仕事をしてるのさ。

2015/02/24

Post#1420

Marrakech,Morocco
俺が自分には社会に対する理想があるというと、おおかたの人は狐につままれたような顔をする。

格好のイイことを言って、正義漢ぶったり、清廉高潔な人物のふりをしたいわけじゃない。
俺がそういった人間にほど遠い、放蕩無慚な破廉恥漢だということは、君たち以上に俺がよく知っている。なにしろ、君たちに言えないことだって、たくさんあるんだからな。
また、理想なんて言うと、現実を無視して、地に足のついていないことを、呑気にしゃべっていると思われているのかもしれない。お気楽なボヘミアンだと思われているのかもしれない。
また、ほとんど誰も読んでいないようなクソブログで、格好いいこと言ってみたって、穴を掘って、その穴に向かって叫んでいるのと何も変わらないかもしれない。
けど、俺は目先の利かない馬鹿野郎だから、言わずにはいられないんだ。

俺が常々ここに書いている理想ってのは、あれだ。
『いつの日か、世界中の人々が国家だの宗教だの、民族だの富だのなんだのによって差別されることなく、ただ人間であるということで、等しく尊重される世界が現れるべきだ。』というあれだ。

君は、それが自分の日々の生活から、1万光年くらいは隔たっているように感じているかもしれない。まさに理想だよって。
けれど、その理想は俺たち一人一人の存在そのものに関わっていることなんだよ。
君がもし、世界の何処かで、黄色いチビ野郎と蔑まれたら、どう思うだろう?

或いは、そもそもそんなことはとっくに憲法に謳ってあるじゃないかと、君は言うかもしれない。けれど、こいつはそういう法律の問題じゃないんだ。
いくら憲法に書かれていたって、俺たちの心の中には、明らかに格差も差別もあるし、世界は国境や文化、宗教、民族によって、くっきりと分断されている。

俺が今問題にしているのは、俺たち人間の一人一人の意識の問題なんだ。

実際に、この現代社会のどこにいっても人々は自らの周りに観念的なラインをひき、周囲の人間をそのラインの内側に入れるべきか、ラインの外側にとどめ置くべきか、つねに検討している。

例えば、我々日本人のなかには韓国人を排斥する者がいる。
東南アジアからやってきた人間を、実習生というラベルを張った奴隷として扱っている。
大地や海には、目に見えない線が引かれ、人々の自由な行き来を阻んでいる。
その線を護るために、政府は憲法を変えて、戦闘行為つまり戦争が出来る国を作ろうとしている。
キリスト教徒は、イスラム教を信じる移民たちを排斥し、それに対して憤懣やるかたない若者たちは、社会に居場所を見つけられず、イスラム国を目指す。
イスラム国は今までにも多くのジャーナリストを斬首処刑してきたが、日本人が処刑されるまで、日本では誰もみな、それは他人事だと思っていた。
自由の国アメリカでは、未だに多くの黒人が、黒人だというだけで、犯罪者扱いされ、オマワリに撃ち殺されている。
もっと身近なところでは、女性は男性に比べて職業選択の自由も低く、賃金も安い。金玉がついていないだけで、人間の価値が変るとでも言うのだろうか?

社会ってのは、そういうものだと、諦め、受け入れるのは容易い。
そんな言説は、ますます増大する格差と、社会を覆う無力感の中で、なんの力も持っていないかもしれない。
『そんなのは単なる理想論だ』という言葉は、現実的ではなく、考慮する価値もないという意味合いで使われている。実際に君も耳にしたことがあるだろうし、一度や二度、使ったことだってあるだろう。けれど、本当にそうだろうか?社会は一人一人の人間の集合からできているんだぜ。社会を構成する大多数の人々の意識が変れば、社会は実際に変わっていくんじゃないのか?

人間はイメージしたものしか、現実化できないんだよ。単なる理想だといって思考停止していては、何も変わらないンじゃないのかい?少なくとも、少しでもマシな方向には。

それに、もし君が差別され、虐げられる側に立っていたとしたら、どう感じるだろう?
なんとか社会を変えて、自分たちの尊厳を取り戻そうとするんじゃないだろうか?
自分がされて嫌なことは、人にはしないってのは、人間の最低限のマナーなんだぜ。

俺はそんな時代だからこそ、何度でも自分の思い描く理想について語りたい。
闇が深いほど、星はピカピカ輝くものさ。

理想は、絵にかいた餅として冷笑されるようなものではないと俺は信じてる。
俺は、来るべき理想の社会を考えるとき、ワクワクする。

理想とはもちろん、現実の痛みを和らげる麻薬でもない。
俺たちが、人類としての俺たちが、次の世代、その次の世代の未来に実現すべく、にじり寄るようにして近寄っていくべき、目標。それが俺の言う理想なんだ。

理想という指針がなければ、社会を自分たちの手で変えていこうなんて、誰も思えないじゃないか?
目指すべき理想がなければ、俺たち人間は、目先の欲望に捉われ、人類の歩みの中で無意味な人生を送ることになってしまうだろう。いくら安楽な一生を送ったところで、意味がないんだ。

俺たちはみんな、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で語ったように、綱渡りの途上を歩む存在なんだ。俺たち自身の世代は、綱を渡りきることはできないのかもしれない。綱から落ちて、道半ばで倒れてしまうことになるだろう。
けれど、その理想に向けて俺たち一人一人が歩み寄ってゆくこと、人を人であるというそのことだけで、尊重していくように努めることで、その理想へと社会全体がにじり寄っていくであろうことには、絶対の確証が俺にはある。
いや、むしろそうあってほしいと願っている。

せめて君たちにはわかってほしい。
そして、俺の言葉をせせら笑うような顔をしないでほしい。
そして、君にも俺の理想の一端を分け持ってほしい。
どうせ無理だとあきらめて生きるよりも、不屈の理想を持って生きる方が、人間味があって素敵だと思うぜ。

読者諸君、失礼する。こんな時代だからこそ、俺はあえて愚か者のように生きてみたいのさ。乙なもんだろ?

2015/01/20

Post #1385

Bruxelles
ヨーロッパの各地で、反イスラムのデモが起こっている。
ドイツ東部では、数万人規模のデモが起こっているという。
俺は、悲しいような気分になる。思わず荒野に立ちすくんでいるかのようなさみしさだ。

ヨーロッパの歴史は、古くはウマイヤ朝によるイベリア半島占領から始まって、千年以上にわたってイスラム勢力圏とのせめぎあいの歴史だ。ウィーンはオスマントルコに包囲されたこともあるし、ハンガリーやギリシャはオスマン帝国領だった時期もある。また、中世にはエルサレム奪還を目指して、多くのヨーロッパ諸国が中東に兵を送り、当時はヨーロッパよりも進んだ文化を持っていたイスラム教徒と激しい戦闘を繰り広げた。ちなみに、その頃のイスラム教徒は、古代ギリシャ文明を継承し、その自然科学や哲学を発展させることで、キリスト教会のもとでそれらを破棄してしまったヨーロッパ人よりも、はるかに進んだ文化を持っていたんだ。
ちなみにヨーロッパに、古代ギリシャの文化的態度が復活するのには、ルネッサンスまで待たねばならなかった。

そして、現代では多くの北アフリカやトルコ、中東出身者が移民としてヨーロッパに定着しており、その比率が増していけばいくほど、社会に軋轢が生じている。
実際に、ヨーロッパの国々の街角を歩いてみれば、明らかにイスラム教徒といった人々を、容易に目にすることが出来る。フランスやベルギーでは、北アフリカから来たとおぼしき人々の姿をしばしば目にする。
これが、ドイツになると、行ったことはないのだが、トルコ系の人々を多く見ることが出来ることだろう。

俺たち人間というのは、違う価値観を持つ者をなかなか理解しようとはしない。
理解することなく、単に外見や習慣の違いから誤解を深め、溝を深めていく。それに経済的な格差や教育の機会の不均衡が加われば、溝はますます広がっていく。

日本でも、かつて日系ブラジル人のコミュニティーと地元住民の軋轢が報じられたりした。また現在でも、在日韓国及び朝鮮人に対するヘイトスピーチが問題になっているが、ヨーロッパの問題の根は、イスラム教とキリスト教の長年にわたる抗争の歴史があるため、より根深いんじゃないかなと容易に想像できる。
誰だって、自分の属する文化がサイコーだって思っているはずだ。
身近に目を向けてみれば、今の日本には、日本人は素晴らしい、日本はサイコーだといった類の本が溢れている。けれど、俺にはそれは、自信の無さの裏返しに見える。


俺は、自分の抱いている遠大な理想と理念、そして現実の間に横たわるギャップに、呆然とするんだ。
ほとんどアンドロメダ星雲に向けて、自転車かなにかで出発したような気分だ。


俺がインドネシアやモロッコやトルコで出会ったイスラム教徒の人々の多くは、人懐っこく、誠実な人々だった。俺が片言のアラビア語で話しかけると、とても嬉しそうに笑うんだ。
礼拝の時間を告げるアザーンは、力強く、かつ美しい旋律と響きを持っていた。

モロッコのホテルで出会った写真の彼らは言っていた。
ヨーロッパ人は、決してアラビア語を話して接しようとはしない。その態度は自分たちを一段低く見ているように感じると俺には聞こえた。まるで、召使に接するように振る舞うヨーロッパ人だっているんだろう。
君たち日本人が、こうしてアラビア語を使って話しかけてくれることは、とてもうれしいと彼らは言ってくれた。そしてまた、あなたたちは友達だ、と彼らは言ってくれた。
Marrakech,Morocco
ひとりひとりの人間に、一個の人間として向き合えば、そして互いにそれぞれの文化を理解し、尊重する姿勢を持っていれば、きっとお互いに違いを見出すことよりも、共通するところを見出すこと多いはずだ。
だって、考えてみてくれ、どんな文化に属する人間だって、嬉しいときには笑い、悲しいときには涙を流すんだぜ。頭に来た時には、怒った顔になるもんだ。不思議じゃないか?
けど、それが人間なんだ。みんな同じ赤い血が流れてるんだ。
きっと分かり合えるさ。

そして、俺はそういうことが出来る人間の方が、異物を排除する人間よりも、面白い人生が送れるように思うし、より強く、より優しい人間だと思う。
それは何も、違う民族、異なる文化に属する人々の間の問題だけに関する話じゃない。
同じ日本でも、くだらない差別が、今でもたくさんある。
性、職業、階層、資産、出身、血筋、学歴、身体的な諸問題。
表面的になくなったように見えても、それは巧妙に隠されているがゆえに、より深く根腐れている。

俺は無力な一個人だ。
出来る事なんて、ほんと何もないに等しい。
けれど、一つだけ君たちに言えることがある。

まずは、自分の目の前の人間に、誠実に接することから始めよう。
相手を一人のかけがえのない人間として、理解しようと努めよう。
すべてはそれからだ。

とても大事なことだから、もう一回行くぜ!

目の前の人に、誠実に接することから始めようぜ!

読者諸君、失礼する。誤解が解けたら、理解を深めよう。

2015/01/16

Post #1381

Fes,Morocco
イスラム教徒に対して、ほかの宗教の人々が偏見を持たないようにしてほしいと願っている。
どんな集団のなかにも、狂信的なグループは存在するし、大多数のイスラム教徒の人々は、自分たちが信じている崇高なものを茶化され、不快な思いをしていたとしても、耐え忍んでいるのだから。
日本人なら、この国では、ほんの70年前まで、天皇陛下を生き神様と信じ、その写真を真っ直ぐ見る事さえできないと考えていたのを知っているだろう?
その頃、同じように天皇陛下が風刺漫画にされたら、大多数の日本人は激高したことだろう。
きっと、日本刀を持って乱入し、その風刺漫画家を殺すとかいう鼻息の粗い奴も出て来ただろうし、実際にやるやらないは別として、人々はそんな過激な言動に喝采を送っていたことだろう。

また、世界を震撼させたオウムテロ事件の時、世界の人々は、日本人全体が地下鉄のなかでサリンを散布するようなイカれた民族だと考えただろうか?

自分の親戚にろくでなしのクズ野郎がいたって、君まで世間様から鼻つまみ者にされるのは、筋が通らないってもんだろう?

自分がされて嫌なことは、人にもしたくない。批判批評の矢を向ける相手は、もっと他にいるはずだし、狙いはしっかりと絞り込むべきだ。
それが俺の選択した自由だ。

読者諸君、失礼する。今日は朝帰ってきてから、47%のジンを飲んで眠ったんだけど、すぐに目が覚めてしまったんだ。睡眠1時間30分はキツイ。けどおかげさんで、書いてるうちに眠くなった来たんだ。自分で書いてても退屈だったってことかよ。道理でPVが伸び悩むはずだぜ。

2014/12/14

Post #1348

Moulay Idriss,Morocco
写真は、2012年の1月に行ったモロッコの聖都ムーレイ・イドリスで撮ったもの。
男性の背後には、俺が訪れる少し前の2011年11月25日に行われた選挙のポスターを貼っていたとおぼしき枠が、スプレーか何かで直接書かれた壁がある。
詳しいことは忘れてしまったけれど、モロッコは王政なので、それまでは首相は国王によって任命されていたけれど、この選挙で初めて占拠で多数議席を獲得した政党から選出されることになったのだそうだ。
モロッコの人々が、初めて自分たちのリーダーを自分たちの手で選ぶことが出来たと、熱っぽく語っていたのを想い出す。

民主主義というのは、当たり前のようで当たり前ではない。
そして、民主主義がたんなる多数決であるのなら、小学校の学級会と変わりない。
大多数がなんとか承服できる方針に、どれだけ少数派の思いを汲み取ってやることが出来るか?そこが大人にしかできない高等テクニックなのだと思うけれど、昨今の政治は、何かと白黒はっきり決めたがる。
モノクロ写真といえども、実は白と黒のあわいのグレーゾーンによって成立しているというのに、複雑な現実社会を相手にするのに、白黒つけるのは難しい。
何事も白黒つけたがるのは、子供の理屈だ。
世の中は、光と闇、正義と悪、敵味方などといった単純な二元論では割り切れないんだ。
この21世紀、男と女だって、その中間に位置するようなアイデンティティーの人もたくさんいるというのに。
しかし、俺個人としては、一つを選ばないとな。
さまざまな意見の奴らが、それぞれに自分の意見を託して投票するのがイイんだ。
そして、出来る事ならば、違う意見の政党勢力が、均衡している方が望ましいんだけどなぁ・・・。大政翼賛会とか挙国一致だとかってのは、俺は御免蒙るぜ。

さて、選挙に行ってくるとするか。

読者諸君、失礼する。何にもしないより退屈しないぜって、むかしキヨシローも歌っていたしな。